「倭国乱」の時期にあたる弥生時代末(2世紀末ごろ)は、中国の後漢王朝が衰退し、大陸の後ろ盾を失った北部九州の漢委奴国王の「一強体制」が崩壊。
群雄割拠の状態になった倭国には、北部九州とは別に、出雲地域に「四隅突出墓」と呼ばれる特異な墳丘墓、吉備地域には当時として国内最大の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市、墳丘長約80メートル)が築かれるなど、西日本に独自の勢力が現れた。

それら西日本の勢力が、大陸の後ろ盾を失った北部九州漢委奴国王に対抗するために、卑弥呼・・つまり

正室のイザナミとの子では無く、出雲の女性との子で、父のイザナギから高天原を治めろと言われ、筑紫城から出された天照大神を共立し
3世紀初め、天照大神(卑弥呼)が都を置く所として
突然出現したのが奈良県桜井市の纒向遺跡(邪馬台国)

帯方郡→韓国→対海國→一大国→末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬壱國は

韓国から出雲に渡り、現在の京都府を南下して、纒向に至るルートだな