「倭国乱」の時期にあたる弥生時代末(2世紀末ごろ)は、中国の後漢王朝が衰退し、大陸の後ろ盾を失った北部九州の漢委奴国王の「一強体制」が崩壊。
群雄割拠の状態になった倭国には、北部九州とは別に、出雲地域に「四隅突出墓」と呼ばれる特異な墳丘墓、吉備地域には当時として国内最大の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市、墳丘長約80メートル)が築かれるなど、西日本に独自の勢力が現れた。

それら西日本の勢力が、大陸の後ろ盾を失った北部九州漢委奴国王に対抗するために、卑弥呼

つまり

正室のイザナミとの子では無く、出雲の女性との子で、父のイザナギから高天原を治めろと言われ、筑紫城から出された天照大神

を共立し

3世紀初め、天照大神(卑弥呼)が都を置く所として
突然出現したのが奈良県桜井市の纒向遺跡(邪馬台国)

大陸の後ろ盾を失った北部九州漢委奴国王は、
204年に後漢の遼東太守「公孫康」が設立した後漢の帯方郡に属したが

公孫康から後漢の遼東太守を継いだ公孫淵が237年に、
魏の第2代皇帝「曹叡」に反旗を翻した際に
公孫康から玉璽を与えられ
後漢の遼東太守の公孫康とともに魏に反旗を翻したため

魏からは倭の奴國ではなく、狗の奴国と呼ばれるようになった