【歴史】吉野ケ里で聞く邪馬台国九州説…「中国要素ある環濠集落、ここだけ」 [樽悶★]
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石蓋に刻まれた謎の「記号」はなにを意味するのか
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謎の記号が刻まれた石棺の蓋を興味深そうに眺める歴史ファン=佐賀県の吉野ケ里遺跡
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線刻が刻まれた3枚の石蓋の接合状況。2枚にわたった線刻がある。石蓋1は、線刻を刻んだ面が棺内側に向いていた=佐賀県提供
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「邪馬台国時代の『クニ』 最大級の環濠(かんごう)集落発掘」の見出しが、1面トップに躍った。1989年2月23日付の朝日新聞西部本社版の朝刊だ。弥生時代後期では国内最大規模の2、3世紀に築かれた環濠集落が、現在の佐賀県神埼市と吉野ケ里町にまたがる吉野ケ里遺跡で見つかった。
外濠内の面積は約25ヘクタール。甲子園球場約6個分になる。集落の周囲に長大な濠がめぐり、集落の一部は、南北約160メートル東西約70メートルの内濠にも囲まれていた。邪馬台国の時代にあたる遺跡としては、初めて物見やぐら(楼観)が確認され、木柵を立て城柵として使われた土塁も見つかった。
吉野ケ里フィーバーの幕開けだった。2カ月半で約100万人の考古学ファンが押し寄せた。
中国の史書「魏志倭人伝」には、「倭王卑弥呼」の宮殿の構造について「宮室楼観城柵厳設(宮室、楼観、城柵を厳かに設け)」と記されている。吉野ケ里から、そのうち「城柵」と物見やぐら「楼観」が見つかったのだ。
■「奴国」は福岡市、「伊都国」は糸島市 クニ名不明の吉野ケ里に「まだ可能性」
記事は「古代史最大のナゾである邪馬台国の所在地をめぐっては、畿内説、九州説などの論争が続いているが、今回の発見は古代史解明への大きな手がかりになりそうだ」と記す。(以下ソース)
2023年11月27日 18時00分
https://www.asahi.com/articles/ASRCV5T7BRCQTTHB00F.html テンプレ①
関川尚功
「どうやったら箸墓古墳の土器が3世紀という事になるのかまったくわからない。どう観てもあれは古墳時代の土器で、卑弥呼の時代のモノではない。3世紀の墓に4世紀の土器をどうやって埋葬するのだろうか」 テンプレ②
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時には代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 テンプレ③
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 テンプレ④
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」 テンプレ⑤
関川氏、建物Dについて
○最も規模が大きく中心的とされる建物Dについても、主柱の半数以上が失われているため、建物の全体像については理解が及ばないところがある
○主柱の多くが欠失しているのは、その後に築かれた…特に前期の大きな区画溝による掘削のためである
○遺構の中心になるような重要な建物であれば、その後があまり時間をおかずにいくつもの遺構によって簡単に壊されるようなことはないであろう
○はたしてこの場所が纏向遺跡の中枢ともいえるような特別な地点であったのかは明らかではない
○推定復元の結果が先行しており、積極的評価が困難なところがある テンプレ⑥
石野博信氏の土器年代測定に関するコメント
https://www.yamataikokunokai.com/katudou/kiroku294.htm
奈良県の場合は、年代の決め手がほとんどないので、次のようにして年代を決めている。
まず、須恵器の年代を決める。須恵器は400年前後ごろから始まるので、判定対象の土器がそこから何形式ぐらい古いものかを調べる。そして、土器の一形式をおよそ30年と見て年代を導き出す。
しかし、この方法にはいくつかの問題がある。
土器の一形式の継続期間が、人によってちがう。ある人は30年と言うし、別の研究者は20年と言ったりする。
土器型式の細かい区分をどうするかということも、人によって異なる。たとえば、布留0式というのを認める研究者と認めない研究者がいる。
布留0式を認めなければ、1形式分の年代が狂ってくる。
中略
近畿地方では、この程度のレベルで年代の話が進んで、新聞などで3世紀の卑弥呼の時代の墓から遺物が出たと言うような発表になる。
正確に言えば、畿内の年代については根拠らしい根拠は何もない状態なのである。 テンプレ⑦
畿内説重鎮の寺澤氏も箸墓=卑弥呼の墓説から後退
寺沢薫著『卑弥呼とヤマト王権 (中公選書)』より
第一に築造年代の問題である。箸墓古墳の築造は布留 0式古相期にはじまり、同じ布留 0式古相期のなかで終わっている。布留 0式古相期の暦年代を三世紀後葉とする私の考えでは、卑弥呼の墓の第一候補からは外れることになる。それに卑弥呼の墓が寿陵であった可能性を考えると、墓の基礎部分の造成は、卑弥呼が共立された三世紀初めの庄内式の早い時期にはじまっていなければならない。可能性はますます薄らぐ。
第二に墳形の問題である。箸墓古墳の後円部の径は約一六五メートル、高さは約二八メートルだ。これに対して前方部の長さは約一三五メートル、高さは約一八メートルに達する。側面からは双子山のようにみえる。はたして箸墓古墳を目撃した当時の魏の使者が、前方部(方丘)を無視して後円部(円丘)の大きさのみを記録するだろうか。日本独特の墳形である前方後円墳は、彼らの目にも異様に映ったはずなのである。 この疑問点を解消するために、後円部が先行して築造されたと主張する研究者もいる。本来は円墳であったが、のちに前方部が付加されたというのである。この手法は前方後円墳の築造手順としては存在する。しかし円墳であったものを、ある年月の経過後、あらためて前方後円墳に仕立てたというのであれば、その時間差を証明する考古学的根拠が必要だ。」 倭人伝で実在したのはイト国まで。
そこから先は邪馬台国も含めてただの作り話。 テンプレ⑧
県立橿原考古学研究所 青柳正規所長
「邪馬台国が北部九州か畿内かといわれているが、3世紀末の奈良盆地には、邪馬台国とは比較にならない圧倒的な王権が存在したことが明らかになった」
https://www.sankei.com/article/20231106-YQ2CEHEOWRLK3EV2AME3WDEYFU/ だいたい日本は元々海の底だから大和民族とかないしな 邪馬台国は連合体なのに狗奴国ひとつに脅かされる弱小国家
のちに日本を支配した最強の畿内さまとは別モノ 卑弥呼は蘇我入鹿の一族の血筋説があるな
蘇我一族の権力を落とすために、卑弥呼に関する記録を徹底的になかったものとするために中大兄皇子が全ての痕跡を消した説
あとは神宮皇后説
色々あるけどどれも証拠がない どっかの住宅地の下に埋まってるんじゃないの
いま模型つくれるような広場があるような、観光の目玉作りたいような、過疎地はそもそも違うんじゃw いろいろな学者、民間人がいろいろな説を勝手に主張しているけど
どれ一つとして証拠が発見されていない
あくまで彼らの妄想 しつけえよ。観光乞食
現在何も呼び寄せるすべがないからと邪馬台国の名前勝手に出してあっちだこっちだと
畿内含めどうでもいい
そんなことは現代では些末 石棺の上に日吉神社
石棺は遠賀川の石棺と同じタイプ
遠賀川には比叡山で修行した鎮西上人伝説の地だな
石棺の主は? 卑弥呼が「がばい戦うばい」とか言ってたの?なんかやだな 九州説でも吉野ヶ里が邪馬台国は無理があるな。
もしかして伊都が吉野ヶ里はあるかもしれんが(普通は糸島だけど)。
まあ魏志倭人伝では道程が記されていない邪馬台国サイドの前線基地的なクニってところかな。 卑弥呼「強い子孫残すためにボボすっばい」とか言ってたの?なんかやだな ポイントは伊都国
伊都国には地方官がいて、魏からの品々を伊都国で開封してリストと相違がないか確認して卑弥呼に届けた
そんな貴重品を抱えて水行10日だの陸行1月だのやるわけがない
記述はあとから書き加えられたものだろう
邪馬台国は伊都国から近い場所、かつ、伊都国とは別の国 まさか今だに、
邪馬台国論争でスレが馬鹿伸びするなんてことはないよな? >>26
吉野ヶ里は卑弥呼を共立したクニのひとつだろうが、卑弥呼の都ではなさそう 安倍晋三は山口から湧き出て、関東で暴れて、奈良で成敗された。生き様が日本神話そのもの。
倭から大倭へ。その合間に日高見国。 やっぱりお前らの正体は中国人だったか
歴史も遺伝子とチャイナが親の日本 > 邪馬台国の時代にあたる遺跡としては、初めて物見やぐら(楼観)が確認され、木柵を立て城柵として使われた土塁も見つかった。
1万年以上、大きな戦争がなかった縄文時代。
誇るるべき精神性である。
しかし、これはなんだ?
出城のような構成。
外来の侵略者だろ。 >>34
同感
場所的にも九州だろうね
邪馬台国は
奈良は聖徳太子とかの先祖が作った都なんでないの? そもそも中国の歴史書なんてまともに信用できるのかよ
興味があったら明史日本伝を呼んでみな、編纂されたのは日本では江戸時代の清朝だけど
乾いた笑いが出るほどかなりいい加減なことが書かれているから >>35 親父の方のルーツが大宰府なんでマジ帰化人かもなぁ😅 >>34
金印は二つの可能性が大。
「漢倭奴国王」印
「親魏倭王」印
親魏倭王印が卑弥呼に与えられた金印な。
見つかってない。 日本は大昔から中国に臣従してきたのにここ100年ちょっと確変したからって中国を下に見過ぎ
中国がここ100年くらいちょっと休んでただけだぞ >>43
バレたんや。
漢王朝は、南匈奴。
北魏は、鮮卑。
北狄の略奪遊牧民。
即ち侵入侵略者で、もともとそこにいた人間ではない。 筑後川の河童伝説
中国大陸から大勢でやってきた
このイベントの時期は弥生時代以外に想定できる時代はない
地元がそう伝えているんだからそうなんだろう
ヒョウスベの伝承を調べたらいいかもな
ヒョウスベは兵主部で兵主の神さまの配下の者なんじゃないか
兵主の神さまが祀られているのは播磨
弥生時代後期の博多からは播磨の土器が多数見つかっている >>34
九州で出た金印と卑弥呼が貰ったとされる金印は別物だろw
九州で見つかった金印 = 漢委奴国王 後漢の光武帝が送った
卑弥呼に渡した金印 = 親魏倭王 魏国の工程が送ったと記録 畿内説は徳島説のほうがまだマシってレベルであり得ん 俺は中国役人カラ出張説を押す
場所があやふやなのは、適当にでっち上げた出張記録だからだ 409:日本@名無史さん:2023/11/29(水) 22:43:42.94
魏志倭人伝を読めば魏が倭を島国と認識していたことは明らか
本州が大陸とつながっていないことがわかったのは奈良時代だから、この時点で畿内説はあり得ない 考古学は男のロマンと良いながらめっちゃいい加減やからな。 あの石棺を持ち出してまだ邪馬台国とか言ってるんだね
流石に無理が過ぎると思うんだけど
むしろ邪馬台国とかに無意味に結びつけるものだからあの石棺の本当の価値が全然興味を持たれないから困る
邪馬台国マニアって要は考古学なんて何の興味もないんだろうなと思うな 大宰府政庁跡の遺構の下に邪馬台国の遺構があるはずと読んでる 近畿様
其処が卑弥呼の本拠地なら銅鐸文化が滅んだ説明がつきませんよ
そんな強力な集団が居て独自文化有ったなら古墳や鏡のように周りに有難い文化として普及してなきゃおかしいんですよ 先日掘って何も出てこなかったやろ
中国要素って何やねん?
ただの集落跡です いや、むしろ邪馬台国は三内丸山にあったということだろ、全ての証拠が指し示しているから確定だな つか3世紀頃には西日本ほぼ倭国だよ
古事記や日本書記。中国の文献や朝鮮の文献見ても同時の人達は同じ認識 魏志倭人伝は宇宙戦艦ヤマトなような大航海フィクション 25 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:39.93 ID:68Ek905f0
免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる 26 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:45.99 ID:68Ek905f0
免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる 邪馬台国の話しになると専門家からニワカまで出てきてトンデモ展開するから笑える 邪馬台国=大和国
九州はツチグモって呼ばれてたクマソだよ 方向感覚も無え後付け感しか無え畿内説論者の存在意義って何なんだろな~あ?wwwwwwwwwwwwwwwwww つまり大陸系渡来人が指導者層にいたクニってことでは? 普通に考えて九州。
近畿なんて現在でも遠いのに
太古の昔だったら地の果てだろ🤣 >>73
佐賀のあたりは徐福伝説も豊富にあるし
徐福が伊都国を作ったんじゃないかと思う
吉野ケ里は伊都国の集落の一つだったんじゃないのかな
伊都国が糸島に移ったのは帆船が日本に導入されてからなんだろうと個人的には思ってる
五島列島とかが辺鄙な場所なのに遺跡が多いことを考えると
帆船が入ってくる前は博多から佐賀を経由して大村湾まで海路でつながっていて
五島列島から北上して朝鮮半島へ向かう航路が一般的だったんじゃなかろうかと思うんだよね >>68
笑えるのはこの国の学者たちのトンデモなのであってw ヤマトは日本の本来の呼び方だから
九州だろうが関西だろうが東北だろうがヤマトに決まっている 邪馬台をヤマトと読むのがそもそも間違っていると思う >>43
そのとおり
邪馬台国だって中国が記録してくれてたからこうして話題になるが
それがなけりゃ日本人はその存在すら知らなかったんだからな あーもー
全員脳内の卑弥呼美女説を取り下げろ
それでどうでもよくなるから
わからんしわからんでかまわんよとなるから 畿内説=大多数の考古学者が支持する学説
九州説=知識の乏しい素人が信じてる俗説 ディープステートが世界を裏で支配してると主張する陰謀論者たちを「Qアノン」と呼ぶ
邪馬台国が九州にあったという俗説を信じてる陰謀論者たちを「九アノン」と呼ぶ >>82
よぼよぼの婆さんだよ
188年頃に即位して247年?くらいに死亡した 魏の使者が出張費を水増しするので道程を盛っただけ。 皇室は答え知ってるけど喋んないから
みんなが勝手に推理してるだけの話 >>88
魏の使者「水増し請求したい」
邪馬台国「魏が怖いから大国のふり」
司馬懿「呉の背後の大国から朝貢してもらえたと報告すれば、そのきっかけを作った俺は大出世(本当に出世した)」
陳寿「司馬懿をアゲアゲしとこっと」
畿内政権「オレオレ」
多くの人たちの思惑が一致したんだな 大殿(曹操さん)大好き、しばちゅうさんは関係なかったん? わーい、久しぶりに書けこめる邪馬台国スレだーい
まあ奴国を福岡市に比定しているのが正しければ畿内説は
ちょっと難しいよね。
邪馬台国は九州で、同時期に同じかそれ以上の規模の勢力が
奈良にもあったってのが妥当だと思うけどな。 大和王権が吉備を征服するまで、瀬戸内海は群雄割拠で通行困難だったよ
中国の役人がカラ出張してて、大宰府あたりから帰ってしまった、というのは合ってるかも >>87
そもそも卑弥呼の即位年が推測でしかないからな >>93
畿内説の中には日本海ルートを取ってる人もいるんじゃなかったけか まあ、個人的には「投馬国=狗邪韓国」説なので、おそらく
邪馬台国は筑紫平野一帯で、吉野ケ里もその一部であったとは
思っている。
それでは議論を楽しみ給え。 日本人「ヤマトから来ました」
中国人「ヤマト=倭面土と当て字する」
↓
中国人「先頭の一字をとって倭国と呼ぶことにする」
↓
中国人「倭国から朝貢に来たようだな」
日本人「ヤマトから来ました」
中国人「倭のヤマトか、ヤマト=邪馬台と当て字する」
日本は一貫して自分たちを「ヤマト」と呼んでいたのを
上記のような理由でこんがらがったんじゃないかと 魏志倭人伝が本当のことを
書いてると思ってるのが大間違いで
それに準拠してる日本人学者の言うことなど
信じるべきでない
あいつらは飯の種で言ってるだけで
適当なことしか言わない >>82
イラストとかだいたい妖艶な美女で描かれるよねw
高齢の独身女性だと書かれてるのに
正確な年は分からないけど魏に使節を送った頃は60歳後半から70歳前後だよね
まぁ別に萌えキャラ探してるわけじゃないから年齢なんてどうでもいいけどね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています