過疎地にインフラを整備しても、これからの日本ではもう維持できないのではないか……。能登半島地震のあと、こうした問題が大きな論争となっている。

現在ではあまり記憶されていないが、実はかつて田中角栄は、過疎化が進む郷里・新潟の小さな村・塩谷に12億円の費用をかけてトンネルを作り、猛烈な批判を浴びていた。

1954年、塩谷は小千谷市と合併し、隧道も県道に格上げされた。だが県道とは名ばかりで、裸電球のぶら下がる隧道には地下水が音を立てて漏れ出し、落盤で通行止めになることも頻繁だった。

一方、この頃から角栄は破竹の出世を遂げる。郵政大臣(1957年)、大蔵大臣(1962年)、自民党幹事長(1965年)、そして1972年には自民党総裁に選ばれ、総理大臣となった。

目白の角栄宅に塩谷の住民が陳情に行く際には、小千谷駅から夜行列車に乗り、上野駅に着くのが午前4時ごろだ。

【中略】
何度も目白を訪れる塩谷の人々を、そのたびに「おう、おう」と言って出迎えた角栄は、こう訝しむこともあったという。

「隧道を改良してほしい? とっくに終わったもんだと思っていたよ。まだそんなこと言っているのか」

角栄は机上のベルを鳴らし、政務担当秘書の山田泰司を呼んですぐに指示を出した。

【中略】
●「同じ日本人で、こんな不平等があるかっ」
角栄が塩谷トンネルの落成式に設定した1983年7月27日は、ロッキード事件で自身が逮捕されてからちょうど7年目にあたる日だった。

その日、角栄が語った言葉を、今も塩谷の人々は忘れられないという。

「このトンネルについて、60戸の集落に12億円かけるのはおかしいとの批判があるが、そんなことはないっ。親、子、孫が故郷を捨てず、住むことができるようにするのが政治の基本なんだ。だから私はこのトンネルを造ったんだ。
トンネルがなかったら、子供が病気になっても満足に病院にかかれない。冬場に病人が出たら、戸板一枚で雪道を運んで行かなきゃならん。同じ日本人で、同じ保険料を払っているのに、こんな不平等があるかっ」

この演説には、角栄政治の原点があらわれているようにも思える。

よく知られた角栄の言葉に「政治は生活だ」というものがある。角栄は塩谷という辺地で、「誰のために政治家はいるのか」ということを問い直そうとしたのではないか。だからこそ、塩谷トンネルにこだわり、その落成式を、自身の逮捕と同じ日に行ったのだろう。

「塩谷は60戸しかなかったから、1戸4票としても240票にしかならない。見附市や三条市のような町場にドーンと投資したほうが、よっぽど票になるわけですよ。

それ一つ考えてみても、当時のマスコミが書いた『角栄は自分の選挙のために12億円の公共事業をやった』という批判はおかしいんだ」(前出・広井氏)

続きは現代ビジネス 2024/01/14
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