【佐賀】吉野ケ里遺跡で複数の青銅器鋳型…異なる石材、弥生人が試行錯誤か 弥生文化のルーツとなった半島とのつながりをみる解釈も [樽悶★]
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蛇紋岩製の青銅器鋳型=佐賀県の吉野ケ里遺跡 https://www.asahicom.jp/imgopt/img/27e0106721/comm/AS20240514002036.jpg 角閃石岩製の青銅器鋳型=佐賀県の吉野ケ里遺跡 https://www.asahicom.jp/imgopt/img/c502abdd5d/comm/AS20240514002037.jpg 10年ぶりの本格発掘で耳目を集める佐賀県の吉野ケ里遺跡。弥生時代を代表するこの大環濠(かんごう)集落で、青銅器の石製鋳型が新たに複数見つかった。異なる石材が混在し、朝鮮半島とのつながりをみる解釈も出ている。 佐賀県は一昨年、手つかずだった「謎のエリア」の調査に着手。話題を呼んだ石棺墓のすぐ近くで昨年、石製鋳型3点が出土した。中期前半の古い段階で、剣と矛の形が裏表に彫り込まれた鋳型などがあった。 興味深いのは蛇紋岩や角閃石(かくせんせき)岩など複数の石材が交じることだ。北部九州で見つかる鋳型は福岡県南部でとれる石英斑岩製が一般的。蛇紋岩や角閃石岩は珍しく、その質感は弥生文化のルーツとなった朝鮮半島の滑石鋳型に近いという。(以下ソース) 2024年5月15日 13時00分 https://www.asahi.com/articles/ASS5G1GLFS5GUCVL03HM.html で、公孫氏から玉璽されていなかった、出雲を併合してた畿内の邪馬台国が その間隙をついて 出雲が確立していた出雲ー隠岐ー磯竹島ー新羅のルートを使用して朝貢して まんまと親魏倭王になっちまった そして 卑弥呼の官の奈良の纒向珠城宮の天皇家のヤマトタケルが西征して 九州、山陰中国西部、四国南西部、対馬、韓国南部を支配していた 博多湾沿岸の福岡県春日市の須玖遺跡群を王都とする倭奴国を制圧して、 第14代天皇・仲哀天皇の皇后の神功皇后が、完全に征伐を果たし、 出雲を武力併合して、出雲が確立していた出雲ー隠岐ー磯竹島ー新羅のルートを使用していた畿内は 九州ー対馬ー朝鮮のルートを使えるようになって三韓征伐 銅矛銅鐸分布図は数種類有るが共通しているのは関門海峡豊後水道は銅矛文明の支配下にあった事 近畿に邪馬台国が有ったならわざわざ敵地を進まずに日本海沿いを北上すれば安全な筈なのにな まあ方角を間違えたなんて理由のわからん主張だから相手にする事も無いのだけど >>638 出雲から畿内だと、あながち方角は間違ってはいないぞ >>639 出雲の辺りは銅矛と銅鐸が混在してる さて係争地に船を着けるだろうか? >>640 女王国より北…つまり、武力併合した出雲王国…には、 特に一人の大率…瓊瓊杵尊…を置いて検察する。 (出雲王国の)諸国はこれを恐れはばかっている。 常に伊都国(出雲国)で政務を執っている。 (魏)国中に於ける刺史のような地位である。 >>627 神武東征の熊野ルートって奇襲どころの話じゃないんだよね 実際のところ、ちゃんと奈良盆地の入口で迎撃されてるし。 >>635 うん、崇神以降の大王も実際には何人かいなかったんじゃないかと 思っていて、特に景行も実はヤマト王権とは直接つながらない 九州の豪族だったんじゃないかと思っていたり。 >>642 主力は河内湾方面に振ってあったから奇襲としては成立してるよ そこで恨みを買った結果従軍してた神武の息子は異母兄弟に殺されるわけだが… 記紀の話をすると、そもそも古事記の序文に >是於天皇之詔す朕聞く諸家之帝紀及び本辞賷す所 >既に正実違え多きに虚偽加はる当し今の時當りて >其れ失ふを不改は幾年未経其の旨欲に滅ばむ 天武が「帝紀及び本辞は間違いが多くてダメだ」って いってるわけで、結局、そこで捏造されていることが 明らかなんだよね >>644 大阪湾の上陸戦でジンムの兄さんが戦死するんだよな でも、そんなジンムをニギハヤヒは高く評価して、自分の主催するクーデターに引き込んだ ついでに言うと、なんでわざわざ天武が「帝紀及び本辞 賷す所既に正実違え多きに虚偽加はる当し」なんて言った かというと…… 天武はそれまでの大王(天智やその子の大津皇子)とは 系統が違う人だったから「今の時當りて其れ失ふを 不改は幾年未経其の旨欲に滅ばむ」なんて言ったのだと 考えれば妙に腑に落ちる。 当然、その時に帝紀及び本辞を暗誦して「整理(捏造)」 した稗田阿礼は藤原不比等(史)ということになるわけだ。 そうして、そのことで時を下って天智系の光仁天皇が 天武系の井上内親王と他戸親王を廃して渡来系の 高野新笠の子の山部親王(桓武天皇)を皇太子にした 理由も理解できるような気がする。 なんですぐに朝鮮と結びつけたがるんだろう? 日本の考古学者は何でも朝鮮から入ってきたと考えるから駄目なんだよ。 >>649 それはもちろん距離的に近いし、特に半島南部には 関係の深い国(任那)があったとか、天智が白村江で 負けるまでは百済とも親密だったし、当然それまでにも 繋がりがあったと考えるのが当然なのではないでしょうか >>649 根本的に違う 弥生人自体が何百年かけて朝鮮半島を経由し列島へ移住してきた 大陸の北京北方に住む頃から古日本語を話していた 弥生の技術だけが伝わったのではない 中国人「東京は中国みたいで親近感が湧く」 東京のマインドは中国そのもの もう東京は中国の自治区になった方がいい >>650 交流は有っただろうが、日本から行った技術習慣も有ったはず。 考古学は何でも入ってきたと考えるからだめなんだよ。 >>651 それも想像。見てきたわけでもないのに朝鮮から渡ってきたとか。 渡ってきたなら南方からも来れる。 人類はアフリカ発祥とか言われているが、それも想像でしかない。 余程ひどい環境でない限り、地球のどこでも発生していた可能性は大いに有る。 ひょっとしたら日本にもいたかもしれない。 今現在発見されている化石とかから、勝手に想像するのが考古学。 っつーか、『魏志』韓伝に 韓は帯方郡の南に在る。 東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す と書かれていて、当時、韓(馬韓・辰韓・弁韓)は 南北は 後漢の楽浪郡の太守である公孫康が設立した帯方郡と、 出雲王国や倭奴国が占領している倭の領土に挾まれていて 海に接しているのは東西だけなんだよ ちなみに、倭が鉄をとっていたのは 九州の倭奴国側の、東を海に接している馬韓では無く 出雲王国が国引きした新羅の曽尸茂梨側にある、西を海に接している辰韓 で、『魏志』倭人伝には 従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓國 帯方郡より倭に至るには海岸に沿って水行し韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、その北岸の狗邪韓国に到着してから 始度一海千餘里至對海国 始めて一海を渡り、千余里で対海国に至る とある つまり、今までのように 朝鮮半島南端に存在した【倭】の南端から海を渡り対馬国に至る…のでは無く 朝鮮半島南端に存在した【倭】の北端まで行ってから、始めて海を渡るんだ だから到着する島も対馬国では無く、対海国に至る…とあるのさ ちなみに 「狗」「邪」韓国は 狗奴国…魏に反旗を翻した公孫氏から玉璽された倭奴国と 邪馬台国…出雲王国を武力併合した大和王権が 共同で利用している 西を海に接している辰韓のすぐ南にある 出雲6代目主王で スサノオたちの母の故郷の根之堅洲国須賀の地がある西出雲王国の 神門臣家の八束水臣津野命が国引きした 新羅の岬の曽尸茂梨 朝鮮ルーツを認める奴が人として大らかで 認めない奴がワガママ、みたいに考えてるのが 媚鮮論者 なぜそう考えるんだろう 内心嫌なのを我慢してるのは自分の方だろ 普通に生きてて「あなたは私の親戚のはずです」なんて突然言い出す奴がいたらストーカーだよ >>654 他の人が上に書いているけど、今回の銅剣に関しては、そもそも 日本で作られた銅剣は中国遼寧から半島にかけて作られていた 琵琶型銅剣の特徴を持っていて、実際に日本にはその琵琶型銅剣 から変化した細型銅剣が伝わってきたとされているので、 今回の件に関しては半島経由なのは確かだと思いますよ。 ちなみに、帯方郡から倭奴国の王都 九州の筑紫城 博多湾沿岸の福岡県春日市の須玖遺跡群に行く場合は 636年に魏徴が書いた隋書にあるように 百済-竹嶋-耽羅国(済州島)-都斯麻国(対馬)-一支国(壱岐)-竹斯国(筑紫) 東京土民は徴兵から逃げまくってほとんど従軍してないらしいよ だから東京土民は戦後も残った家が多い 口だけの卑怯者地域 「朝鮮人が嫌だ」という想いが募りすぎて 逆に「親戚だと認めねばならない」という克服願望を生み出すんだろうか それは他人に強要するべきじゃないだろ 妙な自己修練は自分だけの趣味にとどめるべき >>662 宮内庁や皇宮警察の関係者で、兵役の免除または大幅な優遇(激戦区ではなく比較的安全な地域への派遣)を受けていたケースもある ソースは母方の祖父(父つまり曾祖父が皇宮警察) >>660 日本で作られていた銅剣が大陸にも広まって、琵琶型を淘汰したのか。 >>656 西と東が逆だな 倭が鉄をとっていたのは 九州の倭奴国側の、西を海に接している馬韓では無く 出雲王国が国引きした新羅の曽尸茂梨側にある、東を海に接している辰韓 狗邪韓国は 出雲6代目主王で スサノオたちの母の故郷の根之堅洲国須賀の地がある西出雲王国の 神門臣家の八束水臣津野命が国引きした 新羅の岬の曽尸茂梨のことで 西を海に接している辰韓のすぐ南にある 狗奴国…魏に反旗を翻した公孫氏から玉璽された倭奴国と 邪馬台国…出雲王国を武力併合した大和王権が 共同で利用しているから 「狗」「邪」韓国 狗邪韓国は 出雲6代目主王で スサノオたちの母の故郷の根之堅洲国須賀の地がある西出雲王国の 神門臣家の八束水臣津野命が国引きした 新羅の岬の曽尸茂梨のことで 西を海に接している辰韓のすぐ南にある ↓ 東を海に接している辰韓のすぐ南にある >>665 自分なりに整理すると 琵琶型(遼寧〜朝鮮)→細型(遼寧〜朝鮮)→ 日本に渡ってくる 細型(日本)→平型(日本) と変わっていったらしい。で、日本に細型が伝わったすぐ後に鉄器も 伝わってきたので、早い時期に銅剣自体が廃れてしまったようです。 >>643 仲哀天皇のゆかりの地はみやこ郡って呼ばれてたし 神功皇后もヤマト政権と関係ない説あると思う あの人のエピソードほぼ九州よね マスター藤村じゃね? 在野のアマチュア発掘者を持ち上げまくった末の悲劇 >>669 神功皇后はヤマト政権側の渡来系豪族の息長氏の族人 (男性)が、九州系豪族の応神といっしょに熊襲と三韓 征伐をしたのを、アマテラスや持統天皇なんかにイメージ を重ね合わせて創作した人物だと妄想している。 今回のスレは邪馬台国論争ではないから安心して書けるがw 邪馬台国はヤマトだった 「台」で江戸時代から延々論争続いたが「ト」とも呼ばれてた 現に魏志倭人伝に記される邪馬台国を都とした倭の女王卑弥呼の宗女である台与も「トヨ」 東京が日本一だった事なんて日本の歴史上一度もないんだがw 日本=近畿といっても過言じゃないのにw むしろ東京は無くなった方が日本の発展につながるんだがなあ >>674 縄文時代は関東が一番人口が多かったって話があったような 東京じゃないかもしれないが https://i.imgur.com/uUOBHLL.png 黒龍江省(アムール川) 吉林省 遼寧省(西遼河) 北朝鮮(楽浪郡) 韓国(百済新羅加耶) 内モンゴル自治区 北京市 山東省(徐福村) 山西省(黄河) 古事記に書かれている神武東征とは、実時間で何年間のこと? 長年の征服事業を神話化した物語ではなく、ジンム個人がヤマトを征服した覚書でしょうよ 逆に試行錯誤した後があるなら、むしろ独自に銅を使い出したとも言えるのではない? まず銅鉱石なら無知でも誰でも緑や青色の石に気づける、それも温泉地帯の露頭にある 別格に怪しい石だし鉛の次に使うことになるわけで鉛製の何かが見つかるなら可能性がもっと高い 蛇紋岩も角閃石岩も日本ではむしろ大陸で一般的な斑岩レベル というか色々な石をすでに識別してたんだね、それに驚いた 古代西遼河流域 新石器時代のヒトの拡散については、4つの地域で生じた集団の拡散について、言語の伝播と絡めて検証しています。 そのうちの西遼河流域とアムール川流域およびモンゴル東部の関係に着目しますが、今回の解析ではモンゴル東部とアムール川流域の狩猟採集民は、現在のモンゴルおよびツングースの諸語の話者と祖先を共有する一方、 西遼河流域の農耕民(紀元前3000年頃)とは共有していないことが明らかとなりました。このことから本論文では、西遼河地域の農耕民の拡散がモンゴルおよびツングースの祖語を伝播したとする仮説を否定しています。 ちなみに西遼河流域については、Ning et al.(2020)が新石器時代中期、新石器時代後期、青銅器時代の大きく3つの時期の人骨のゲノムワイドデータを解析し、新石器時代中期にはアムール川流域からの影響があると指摘しているので、逆の流れは存在したようです。 Ning et al.はさらに、新石器時代後期の夏家店下層文化期には、黄河流域の集団の遺伝的影響が強くなり、アムール川流域の北からの影響は弱くなるとしています。 この弱まったアムール川流域の影響は、青銅器時代の夏家店上層文化期に乾燥化と寒冷化に伴って牧畜を主体とした集団が南下することで、再びもたらされます。 この、日本の縄文時代から弥生時代への移行期に、西遼河流域の遺伝的構成に変化が生じていることは、日本への渡来人の遺伝的背景を解明する上でも考慮すべき点です。 現代日本人は遼河地域の青銅器時代となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化されています。 したがって、以前から指摘されているように、弥生時代以降に日本列島にはアジア東部大陸部から人類集団が移住してきて、現代日本人に大きな遺伝的影響を残した、と考えられます。 朝鮮半島において紀元前千年紀後半以降に、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合をずっと低下させ、遺伝的構成を大きく変えるようなアジア東部大陸部からの人類集団の流入があり、 そうした集団が古墳時代以降に継続的に日本列島に渡来し、現代日本人の遺伝的構造の地域差が形成された、と考えられます。 「弥生人」に継承されたユーラシア大陸部の構成要素は、本論文のデータセットではアムール川祖先系統を高水準で有する 西遼河流域の中期新石器時代および青銅器時代の個体群により最もよく表されます(HMMH_MN およびWRL_BA_o)。 西遼河流域の人口集団は時空間的に遺伝的には不均質です。 6500~3500年前頃となる中期新石器時代から後期新石器時代への移行は、 黄河祖先系統の25%から92%の増加により特徴づけられ、アムール川祖先系統は75~8%へと激減し、これは雑穀農耕の強化と関連しているかもしれません。 しかし、西遼河流域では3500年前頃に始まる青銅器時代に人口構造が変わり、それはアムール川流域からの人々の明らかな流入に起因します。 これは、トランスユーラシア語族とシナ語族の下位集団間の集中的な言語借用の始まりと一致します。 「弥生人」への過剰な類似性は、古代アムール川流域人口集団もしくは現代のツングース語族話者人口集団と遺伝的に密接な個体群で観察されます。 6500~3500年前頃に西遼河流域への流入、92%が黄河流域古人集団(現代北京人)へ交代。Y-DNAはウラルN、弥生O1bから漢民族O2、C2へ。 西遼河流域古人集団の朝鮮半島への流入によりY-DNAは縄文DからウラルN、弥生O1bへ。 3400年前頃から徐々に黄河流域古人集団(現代北京人)が南下。朝鮮半島のY-DNAは弥生O1bと漢民族O2、C2へ。縄文Dはほぼ消滅。 遼河文明 中国東北部の遼河流域で起こった• 夏家店上層文化(かかてんじょうそうぶんか) :紀元前1100年頃 -紀元前500年頃(3100~2500年前) • 遼河文明の6500年前から3600年前にかけての古人骨のY染色体ハプログループ分析 ウラル系民族で高頻度に観察されるハプログループN、朝鮮半島北部の基層 ハプログループNが60%以上の高頻度で認められる。 遼河文明を担った集団はウラル語を話していた可能性がある。 後の夏家店上層文化の時代になると、ハプログループO2やハプログループC2へ民族が交代。中国の古代文明の一つ。 紀元前6200年頃から存在したと考えられている。 1908年に考古学者の鳥居龍蔵が遼河文明の一つである紅山文化を発見したことから始まる。 [文化の名称/年代] • 興隆窪文化(こうりゅうわぶんか) : 紀元前6200年頃-紀元前5400年頃(8200~7400年前) 中国最古の龍を刻んだヒスイなどの玉製品が発見 櫛目文が施された平底円筒土器、けつ状耳飾りなどが出土。 • 紅山文化(こうさんぶんか) : 紀元前4700年頃-紀元前2900年頃(6700~4900年前) • 夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか) :紀元前2000年頃-紀元前1500年頃(4000~3500年前) • 夏家店上層文化(かかてんじょうそうぶんか) :紀元前1100年頃 -紀元前500年頃(3100~2500年前) • 遼河文明の6500年前から3600年前にかけての古人骨のY染色体ハプログループ分析 ウラル系民族で高頻度に観察されるハプログループN、朝鮮半島北部の基層 ハプログループNが60%以上の高頻度で認められる。 遼河文明を担った集団はウラル語を話していた可能性がある。 後の夏家店上層文化の時代になると、ハプログループO2やハプログループC2へ民族が交代。 >>506 267年という指摘にすごく興味深い数字だなと思ったよ というのも 魏が滅亡したのが265年 倭国から西晋への最後の朝貢が266年 この後倭国は消息不明になりそのまま空白の4世紀に突入してしまう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる