2005年4月に起きた尼崎JR脱線事故で、瀕死(ひんし)の状態に陥った兵庫県西宮市の鈴木順子さん(43)が、伊丹市の介護施設で働き始めた。「ずっとリハビリやったから、お金をもらう作業ができることがうれしい」。施設の印鑑を丁寧に押しながら笑みをこぼす。事故から約1カ月後に目を開き、「生きること」に必死の毎日を過ごしてきた。リハビリを重ねて13年。脳に後遺症を抱えつつ、社会参加の一歩を踏み出した。(中島摩子)

 伊丹市鴻池3の通所介護施設「スイッチオン伊丹」。順子さんは昨夏から週1回、午前10時から午後3時半までパートで働いている。事故の後遺症で、歩くことや記憶すること、手を動かすことに困難が伴うため、勤務には知人女性(64)が寄り添う。印鑑を押したり、紙を切り離したりしながら、前向きな言葉を口にする。「笑顔でする作業はプラスになる」「楽しくやらな損やん!」−。

 事務作業にも徐々に慣れてきた。パソコンで文章を打ち、施設利用者の誕生日カードや年賀状のデザインも任されるようになった。事故前、絵が得意だった順子さんは「自分の世界に入れるからデザインはうれしい」。給料が振り込まれたり、利用者のお年寄りと会話を楽しんだり、「働くことはすごく貴重で感動的」と話す。

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 05年4月25日、当時30歳の順子さんはパソコンの講座に通うため、快速電車の2両目に乗っていた。電車はマンションに激突。約5時間後に救出され、ヘリコプターで大阪市内の病院に運ばれた。脳挫傷や出血性ショック、脾臓(ひぞう)破裂などで意識不明が続いた。

 搬送当時は「99パーセント助からない」とされたが、「1パーセント」に望みをつないできた。約5カ月後に言葉を発し、約11カ月後に退院。「立った」「食べた」「書けた」…。一つ一つを家族と喜んだ。歩行訓練や水泳に励み、周囲が驚くほどの回復の道のりを歩んできた。

 今、トイレや食事は一人でできるが、歩くのは支えが必要で、自宅内は車いすで移動する。光をまぶしく感じる後遺症もあり、サングラスが欠かせない。脳挫傷の影響で「高次脳機能障害」と診断された。直前のことが記憶に残らないことや、同じ質問を繰り返すこともある。

 そんな中、母もも子さん(70)が介護施設経営者の母と知り合い、パートの話が舞い込んだ。「思ってもみなかった」と驚きつつ、社会参加のチャンスと捉え、挑戦することにした。

 あの日から13年になる。「事故でゼロになって、ここまできた。時間がかかったけれど、事故前の『当たり前』が戻ってきた」と、もも子さん。朝、元気にあいさつしたり、順子さんと姉がけんかしたり、そんな日常がかけがえのないものに思える。

 順子さんは「私は悪いことしてないのに、事故があってこうなったことが悔しい」と話し、こうも言った。「私、負けず嫌いやから」



神戸新聞NEXT 2018/4/22 06:40
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201804/0011186461.shtml