【歴史】「関ケ原」の研究 石田三成、西軍敗北へ3つの戦略ミス
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※総踊りスレ
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「怜悧(れいり)なインテリ官僚という石田三成のイメージは後世の間違いで、武将としての資質を備えていた」――。中野等・九州大学教授はこう言い切る。中野教授は「石田三成伝」(吉川弘文館)で同時代の一次史料を徹底的に分析し、「果断にことを進める剛胆な」等身大の石田三成像を描き出した。三成が出世階段を上るきっかけのひとつが、賎ケ岳(しずがたけ)の戦いで情報将校としての活躍であったことはあまり知られていない。その後の太閤検地で、担当者として三成が現場へ赴くのは事実上敵国に乗り込むようなものだったという。
反転攻勢読み切れず兵力分散
「関ケ原」で決起してからの三成の動きはクーデターのお手本とすらいえる。最初は豊臣家から「反乱者」と見なされていた。約1週間後に毛利輝元が大阪城に入った時は、三成は徳川家康に対して圧倒的な優位を築いていた。家康はしばらくの間、忠実だったはずの奉行らが三成側に寝返り、自分が豊臣政府の最高権力者から反乱軍の首領に転落していたのを気付かなかったようだ。
その三成はなぜ敗れたのか、3つの戦略ミスを追ってみた。
中野教授は「家康の反転攻勢のスピードを読み切れなかったことが大きい」と指摘する。それが兵力の分散を招いた。同教授は三成ら西軍の戦略は支配地を拡大する「面」の戦い、家康の戦略は中央突破を軸とする「線」の戦いだったとみる。西軍は京都・大阪を掌握したのちは北陸・伊勢・京都北部と戦線を拡大し、どの戦場でも有利に戦いを進めていった。毛利軍は四国、中国地方へも出兵している。その一方で兵力の分散のため、三成が担当していた濃尾方面軍は手薄になった。
得意の情報戦で大きく後れ
「豊臣政権の権力構造」(吉川弘文館)の堀越祐一・国学院大講師はその戦略ミスが現実化したのが岐阜城の失陥とみる。岐阜城攻防戦では兵力差が東軍約3万5千に対し西軍は約6千と大きな差がついていた。岐阜城主の織田秀信は祖父・信長の例にならって野戦を仕掛けるが完敗、岐阜城も約半日で陥落してしまう。堀越講師は「岐阜城はいわば織田家の聖地で、大きな意味を持っていた」としている。堀越氏は「もし秀信が籠城策をとれば東軍の福島正則、池田輝政らかつての織田家の臣下は攻めなかった可能性も残る」という。
それまでの西軍有利の流れを変えたダメージは大きく、大阪城の西軍首脳にまで動揺が広がったという。実際、京極高次は西軍から離脱し約3千で本拠地の大津城に立てこもった。同城は9月15日に陥落するが、その日がちょうど関ケ原合戦の当日。攻城側の西軍1万5千の将兵は決戦に間に合わなかった。
堀越氏は「情報戦の面でも三成は大きく後れを取っていた」と指摘する。家康は反徳川で同盟した東北の上杉景勝軍と三成ら西軍主力との情報ルートを遮断していた。三成は中間地点の上田城で戦う西軍の真田昌幸に何通も書状を送り、上杉軍と連絡してくれるよう依頼している。その真田宛の書状もいくつかは家康の手にわたっていたという。岐阜城陥落を知った家康は江戸から最前線へ急行したが、三成はその具体的な動きを把握していなかったフシがある。一方、家康は秀頼の不出馬など大阪城の動きを確認できていたようだ。「東西両軍に保険をかけていた武将は大勢いただろう」と中野教授はいう。その状況を積極的に活用したのは家康だった。大阪城にも徳川シンパは残っていたという。
本来ならば戦場での戦闘より情報戦こそが武将・三成の得意分野だった。堀越氏は「三成が決起直後に自らを豊臣政府軍、家康を反乱軍と逆転できたことで油断が生じた」とみる。油断が兵力の分散や情報戦の軽視を招いたとしている。「秀頼を擁立している自分らに積極的に攻めかかってくることはあるまいと考えていた。家康はその隙をついた」(堀越氏)。中野教授も「豊臣政権への信任は三成が信じていたほどではなかった」という。さらに家康は、秀吉死去前後からシンパを形成するための多数派工作を行っていた。中野教授は「黒田長政や細川忠興らは豊臣政権下では先行きの見通しが暗かった」と指摘する。「反乱軍」になっても家康に従う強い意志を持った武将が少なくなかった。
三成は西軍のリーダーではなかった
最大の誤算は西軍首脳の戦略目標にブレがあった点だ。西軍首脳に数えられるのは三成のほか毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、安国寺恵瓊−−と多い。
(続きはソース)
8/13(月) 13:40配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180813-00010001-nkbizgate-bus_all 総大将は毛利輝元だろ。 西軍として参戦していれば・・・
漁夫の利を得ようとして大失敗。 最初から滅ぼす気じゃないだろうに
1603年 秀吉の遺言通り、千姫を秀頼に嫁がせる
1605年 忠輝が挨拶
1611年 二条城で秀頼と会見 >>947
近年の研究では、関ヶ原の合戦の際、淀の方は北政所と連携して東西両軍の和解を図ったことや
大坂の陣前夜に家康が淀の方を人質に差し出すように要求した際に、淀の方は素直に江戸に赴こうとしたが
秀頼が止めたことがわかってきている 三法師こと織田秀信なんか豊臣に対して激甘だもんな
主従転倒させられてるのに恨むどころか豊臣に付き合って自害
家康はほんとに秀吉と同じことしようとしてたんじゃないの? >>940
腹の読めぬ奴も気持ち悪くて警戒されるよ
しかし官兵衛より家康のほうが役者は上だったんだな >>940
6歳から人質生活一筋の子ども時代
成人後は信長のパワハラと信玄に脅迫に耐え続けて20年だからな
秀吉の前で仮面被り続けるくらいお手の物だったんだろうw >>938
鍋島とかどうや
徳川の世になって幕府や龍造寺の長老たちから要請があるまで龍造寺にとって変わることはしなかったぞ >>941
清州城な
福島正則は秀吉子飼いだし味方するかもって思っていたかもしれない
それより怒らせたら他の子飼いにも波及するからな >>957
織田は天下取ってないからな
だから信長の官位超えた時点で
扱い変わっても形式的にはよかったけど
天下人関白の息子と言うのがタチが悪い秀頼の場合 >>960
秀吉より家康の方が1枚上手だね
最後の最後まで秀吉は家康の野心を見抜けなかったんだから >>940
タヌキともいわれてたかと
まあ家康は見返りきちんと払うほうだったんだろ
みせつけ処刑も少なかったし 裏で動いてたのは大政所だろうな。
関ケ原の戦いの前くらいから、家康と大政所は頻繁に会ってる。
一説によると、大政所はあげまんの噂があるんだよ。 >>927
秀長存命中は秀長が、秀長死後は秀次が、その役をやっていた
で、秀次が死んで秀次に借金していた大名が連座されそうになったところを家康が恩を売った
豊臣政権中の大名はずっと経済的に困窮していたようだ 徳川の野心は朝廷とは離れてだったんだろ
だから源氏の名を使い幕府を開いた >>965
たぬき親父だね
義元が死んだらそっこー三河分捕って独立して裏切って
信長と同盟して
信長が倒れたら旧武田信長領分捕って
秀吉の前ではおとなしくして
最後に裏切って >>965
けっこう根に持つ人らしいね
家康の長男は信長に切腹させられてて
それを秀吉の子供にもしてるし >>956
淀君の江戸人質の件の頃は、ほぼ豊臣詰み状態
家のため、秀頼を説き伏せても行くべきだったな
秀頼は淀には基本イエスマンだから説き伏せてたら最後は聞いただろう 家康って、素人がやったら下手をすると相手を怒らせて敵に寝返りかねないような離れ業をやっているじゃん
福島正則に村越茂助を使者に立てて、さっさと岐阜に進軍しないとお前ら信用できねーぞ、とか
小早川に銃撃を加えて恫喝するとか。
やっぱりあらゆる辛酸をなめつくした男じゃないと天下は治められないのよ >>970
氏真が復讐戦に立たなかったから自立したんじゃなかったっけか 家康は名前からして家を守りたいマンだし
過剰防衛しまくってたら誰も居なかった >>968
豊臣方の大名ですごい金額の借金があった人が居て
秀吉に取り立てられて
色々な大名に借金したけど断られて 前田利家も断って
最後の最後に家康がキャッシュで一括で立て替えて
そいつはそれが恩で関ケ原で東軍についた >>972
秀次は秀吉の命だぞ?
秀頼は切腹かどうかは把握してないような >>975
義元がなくなって
どさくさに紛れて三河で独立して
まだ力がある氏真か新興の信長がどちらに付くか迷ったけど
氏真が義元の弔い合戦をしないのを見て
意気地なしと見て 信長と同盟した いろんな意味で秀頼から秀吉のDNAを感じないわw
家康もこらイケると思って黙ってたんかのw まあ家康が関ケ原後に島津を排除できなかったのと同じように
秀吉も家康を排除できなかったってことやね
豊臣政権にとって徳川は東国経営の重要なキーパーソンだったし
おかげで国内を早期に安定させられて遠征が可能だったって側面もある >>973
その詰み状態で華々しく散ってやろうと浪人に乗っかって戦をおっ始めたのが秀頼じゃん?
で結局は出陣することもなく自害とか、情けなさすぎる 毛利が総大将のくせに動かないのと小早川だな 決め手は
これで決まった
あと、島津が三成にに奇襲かけるぞと提案されてるのにかけなかったのも敗因
やっとけば相手方を崩せただろう >>8
嫌いっていうか秀吉に重用された三成に対する嫉妬だからな。 >>972
関ケ原で東軍についてくれた
旧豊臣の大名も関ケ原の戦いが済んで
用がなくなったら 冷遇してるし
清正も正則もみんな後悔してたらしいね
それと主を捨てて裏切る人にも冷たかった
穴山とか >>975
徳川方の記録はそうなっているようだが、
実際のところは織田の三河侵攻に対して後詰をしなかったってところだろう
前線の味方の後詰をしない大名は見限って良し、というのが当時のならい >>53
そんなもんじゃないのか?
科学に取り憑かれた人間のなれの果ては火星に行こうとしたりしているし >>984
気持ち悪いよね
すぐに裏切る戦国時代の同盟で信長と20年も同盟して
一切裏切らなかったし
いや信長が凄すぎて裏切れなかったのかもしれんが >>986
嫉妬もあるけど晩年の秀吉はあれだぞ
あれで実質三成に牛耳られてる思われたらきついわな >>25
あの裏切りモンと一緒にしたら三成が気の毒だし、敵味方はハッキリしてるけど味方はいるのが三成だ!いないのは石破のオッサン。 >>8
福島正則も加藤清正も関ケ原の戦いが終わってから
徳川政権ではすごい冷遇されて
東軍に付いた事を死ぬまで後悔してたらしいぞ
やっぱり裏切りは駄目なんだよ >>983
真田幸村の要請で出陣もしようとしたけど
淀君に反対されて思い留まってる
まあ秀頼が意志を貫けないヘタレなのは情けないけど
まあ戦の実戦経験も無く怖気づくのも仕方ないかも知れんが 関ヶ原の合戦は、かくして6時間の死闘の末、東軍の圧勝となり申した このスレッドは1000を超えました。
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