平成に入って、自然科学系ノーベル賞を受賞したのは18人(アメリカ国籍取得者含む)。その中でも世界を驚かせたのが、2002年(平成14年)にノーベル化学賞を受賞した田中耕一だ。いち民間企業のエンジニア、修士号すら持たない研究者に化学賞が贈られたのは、世界で初めてのことだった。バブル崩壊の後遺症に苦しみ、「失われた20年」と言われた時代。中年サラリーマンの快挙に、日本中が沸いた。

 ところが、時代の寵児となった田中は、こつ然とテレビの画面から姿を消す。その後、16年間、メディアを遠ざけ続けてきた。再び表舞台に登場したのは去年。発症30年前にアルツハイマー病の診断につながる技術を開発し、科学誌ネイチャーに掲載されたのだ。この間の田中の知られざる苦闘。これこそが番組の命題である「平成のスクープ」となった。

■ノーベル賞は苦痛でしかたなかった

 実は田中は、この16年間、サインを求められても、一度として応じることがなかった。人前では握手すら断っていた。ノーベルメダルは、自宅の押し入れにしまったまま。田中は科学界、最高の栄誉が与えられたことが苦痛でしかたなかったという。

「ノーベル賞に値することをやっていたとは、私自身思っていなかった。周りの人もそう思っていた。受賞する人たちの功績を見ると、最初に発見をしたこと、かつそれを育てていったこと、ペアでやっている方が多い。私はあくまで発見しただけで、何か大きなことを成し遂げた気持ちになれなかった」

 田中が自分の業績に自信が持てなかったのは、“世界的な発見”に至る過程にあった。大学では電気工学の専門だった田中だが、島津製作所に入社後、化学の研究を命じられる。課題はレーザーを用いてタンパク質を分析する方法の開発だった。

 人体の15%を占め、生命活動に重要な役割をするタンパク質。さまざまな病気の解明の鍵を握ると思われていた。だが、いくつものアミノ酸が連なり、複雑な構造を持つタンパク質を壊さずに分析することには、世界で誰も成功していなかった。

「自分は何かを成し遂げたのか」と自問

 田中はレーザーを当ててもタンパク質が壊れない、「緩衝材」の作成に取りかかった。入社2年目の冬、田中は、試薬にグリセリンを誤って混ぜてしまう。以前の実験で、グリセリン単体では緩衝材として効果がないことを確認していたが、それでも敢えて実験してみることにした。すると、タンパク質の反応が現れたのだ。このとき、田中は25歳だった。

 それからおよそ20年。突如、ノーベル賞授賞の知らせが届いた。田中の人生は一夜にして変わった。一歩外へ出れば人々に囲まれ、「先生」と呼ばれるようになった。受賞当時、田中はまだ43歳。「次はどんな大発見をするのか」と、周囲の期待は膨れあがっていった。一方、学術界の一部からは「偶然、発見をしただけだ」「研究を発展させた科学者のほうが受賞にふさわしい」といった批判的な声が聞こえてきた。「自分は本当に何かを成し遂げたのか」。「自分は受賞に値する科学者なのか」。田中は自問自答を続けた。

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■血液一滴で病気を診断する方法を開発する
■実験結果が医学界の常識を覆すことになった
■「偶然は、強い意志がもたらす必然」

■インタビューでは終始謙遜していたが……

 受賞から16年、ノーベル賞の呪縛から解き放たれた田中。「もがいて進んできた」経験を伝えたいと、私たちの取材に応じることも決断してくれた。

「例えば化学の実験で、これは間違っているからやめておこうということも、私たちは深い専門知識がないためにやってしまう。天才だったらこんなことしないだろう。でも、こういうふうに解釈したら、別の分野の考え方で捉えたらうまくいくことがいくつかできたために、発展ができた」

「失敗を恐れて取り組まないと、結果として何もできないということになる。もっと色んな可能性というものにチャレンジというか、失敗してもいいから、私も失敗ばかりしていますから、チャレンジしてほしい」

 インタビューでは終始、謙遜していた田中だが、一つ一つの言葉は自らの手で掴んだ確信から絞り出されたもののように思われた。

3月26日 文春オンライン
https://bunshun.jp/articles/-/11145
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