神戸山口組に反旗を翻して結成された任侠山口組が、これまでの代表制から他の2派並みに組長制に変わった。やはりヤクザ組織は親分―子分の関係の方が統制を取りやすいのだろう。

 2年前の発足時、しかるべき人が現れればその人を組長にという合意から、織田絆誠代表でスタートを切ったが最近、幹部や組員の間から「2年経って織田代表は変わったか。組長に就いたからといって、カネを持ってこいなどと言い出す人でないと分かった。しかるべき人は織田代表しかいない」という声が上がり、織田代表を親とする盃事が行われたのだ。

 4月16日、当初、式場は大阪に予定されていたが、大阪府警がメンツにかけて開かせないと強く出たため、急きょ長野県上田市にスイッチ、任侠の一団は深夜、高速で上田に移動、同日未明に四十数人が親子盃、舎弟盃を交わした。

「今現在、懲役に行っている者4人を除き、入院者は代理を立て、組員の9割強が盃事に参加しました。ほぼ脱落者なし。完璧に織田組長で固まりました」(任侠山口組幹部)

 任侠山口組は攻守両面で臨戦態勢をより強化、整備したといえる。そうでなくても最近、任侠山口組は好調である。

 4月8日、神戸山口組執行部会で太田守正舎弟頭補佐(太田興業組長)が「私が今あるのは織田氏のおかげ。今後、太田興業は任侠山口組といい付き合いをしていく」と言い切ったのだ。これにより神戸山口組は大きく揺れた。

 織田組長は神戸山口組から絶縁処分を受けている。それを承知で、あえて太田組長が「交際する」と明言した。もちろん処分覚悟の発言である。

 太田発言に対して執行部は反論できず、一様に下を向き、黙認する形になったと伝えられる。

 太田発言を知った任侠山口組は翌9日、通達を出した。大要は、太田組長の熱い思いに応え、任侠山口組も太田興業とは仲間意識で接する。ただし、神戸山口組との関係は従来通りといったものらしい。

 太田組長の「今日、私があるのは」という発言には説明が必要だろう。

 太田組長は執行部を批判して2008年、山口組から除籍された。太田興業は組長代行の秋良東力が引き継ぎ、秋良連合会と改称した上、秋良組長は6代目山口組の直参に昇格した。

 太田氏は和歌山県白浜に蟄居、引退したが、神戸山口組の発足後、織田組長が白浜に足を運んで復帰するよう口説いた。神戸山口組には太田復帰反対の声もあったが、織田組長は反対論も説得、ついに16年、太田組長の神戸山口組参画を実現する。太田復帰は秋良連合会潰しも睨んでのことだが、太田組長は織田組長の労を多としたのだ。

ソース
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/252439