【奈良】ヤマト王権誕生の礎、唐古・鍵遺跡 埋文センター長が本執筆、邪馬台国の最有力候補地「纒向遺跡」との関係など考察★3
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藤田三郎さんが執筆した「ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡」
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2019/05/15/20190515oog00m010075000p/9.jpg
弥生時代の大規模環濠(かんごう)集落、唐古・鍵遺跡(田原本町)について、調査・研究に長年携わっている田原本町埋蔵文化財センター長の藤田三郎さん(62)が、「ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡」(新泉社刊)を執筆し、出版された。遺跡と、邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(桜井市)との関係などを考察している。【藤原弘】
新泉社のシリーズ「遺跡を学ぶ」の中の1冊。遺跡で見つかった大型建物跡などの遺構のほか、楼閣などが描かれた絵画土器や銅鐸の鋳型外枠などについて説明。弥生時代前期から古墳時代前期までの4時期に分け、発掘成果を図示した。
弥生時代終末期から古墳時代前期の集落の姿にも言及。廃村になったかどうか分からないが、纒向遺跡ができてからも唐古・鍵遺跡は存続したとし、「唐古・鍵の人たちが営々と築き上げてきた高度な文化が、次の時代へと継承されていったからこそ、この地域(奈良盆地東南部)に王権が誕生することになった」と論じる。
唐古・鍵遺跡は動物の骨や植物の種子などが状態良く残っているのも特徴。日本最古とされる紀元前4世紀後半のニワトリの骨が確認されたことなども紹介し、藤田さんは「情報量の多い遺跡だと知ってほしい」と期待する。
藤田さんは同志社大2年生だった1977年、県立橿原考古学研究所による唐古・鍵遺跡での第3次調査に参加したのが同遺跡での調査の最初。82年からは町職員として発掘調査に関わり、定年退職後も町に再任用されている。
発掘調査は今では第126次に及んでおり、藤田さんは「自分が一生かかってもまとめきれない刺激を受ける遺跡。ポイントを絞って皆さんが知りたいと思われることを書いた」と話す。定価1600円(税別)。
毎日新聞 2019年5月15日
https://mainichi.jp/articles/20190515/ddl/k29/040/507000c?inb=ra
★1:2019/05/18(土) 18:22:33.43
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1558208778/ 卑弥呼のパワーの源泉は朝鮮交易、
なかんずく鉄の交易路を全部女王国で押さえたことだよ
中国の視察団が安全に通行できた朝鮮南岸、対馬、福岡が総て女王の勢力の下にあったわけだ 本来そもそもこの記事内容自体全く辻褄が合わない
最近弥生人達がヘブライ人達と世間一般にしれ朝鮮都合で誤魔化せないから
縄文人達を朝鮮エベンキ達と勝手に一緒してるのと同じ
そもそも縄文人達のアイヌは旧モンゴロイドの唯一の生き残り
日本民族にしかないY染色体のD2遺伝子を持つ民族に朝鮮人達エベンキ達には全く無いのに何故誤魔化す
言葉も縄文人達アイヌはトルコ語
朝鮮人達はエベンキ語のアリランスリラン
縄文人達アイヌは神道文化なのに全く違うし中国人達や朝鮮人達には神道文化なども全く無い
中国人達や朝鮮人達エベンキは新モンゴロイドのシベリア民族で一万年前に発生
朝鮮人達や中国人達の始祖であるはずのデニソワ人の系列が新モンゴロイドのエベンキ達
縄文人達とはまるっきり違う
縄文人達アイヌはトルコ北部から東ヨーロッパ全般にかけて居た遊牧民
だから縄文人達アイヌは日本国内でも遊牧民
朝鮮人達はシベリア狩猟民族で遊牧民では全く無い
全てが国立人類学者の在日朝鮮人達の誤魔化しで実際と全く辻褄が合わない
そもそも縄文人達や弥生人達はシベリア狩猟民族ではない遺伝子
弥生人達も縄文人達も同じヘブライ人の日本民族
縄文時代の日本はヘブンと呼ばれた国
だからこそヘブンの国の民だからこそヘブライ人で縄文人達もヘブライ人
弥生人達ヘブライ人は元から日本国内に居た縄文人達ヘブライ人で7300年前に桜島の火山噴火の影響で日本から離れ
チベットや中央アジアメソポタミアそして地中海沿岸のエジプトやイスラエル王国に住み着いてたのが縄文人達ヘブライ人達
彼らが2500年前忽然と消えたのは弥生人の渡来系弥生人として日本にもどったからで
チベット四川から中国秦を建国後15年で秦を捨て日本へ19万人もの弥生人達ヘブライ人達が大移動
日本国内へ弥生人として渡来した大和王権のイワレピコが神武天皇としてシュメールのスメラ族のスメトラノミコトとして天皇に
イワレはヘブライ語でヘブライ人
ピコはヘブライ語で初代
天皇家がヘブライ人達であることがわかる
邪馬台国の弥生人達ヘブライ人はイスラエル王国からアラビア海を経て沖縄へ渡来
キリスト十二支族のユダ族の物部氏こそ邪馬台国の民
事実邪馬台国自体ヘブライ語でマタイの国
マタイはヘブライ語でキリスト十二支族の人々
邪馬台国のあった四国剣山に今尚キリスト十二支族の祭りがあるのも事実
アメリカGHQが剣山にあった邪馬台国の民のミイラや遺跡を今もアメリカ博物館へ保管
日本民族のヘブライ文化はカタカナやひらがながヘブライ語
日本の漢字は全てヘブライ語の当て字
日本の万歳のバンザイは日本語でなくヘブライ語
バンザイの意味はユダヤ
ユダヤはヘブライ語で神への感謝する意味
日本民族が万歳万歳と叫ぶ民族だからこそ万歳民族のユダヤ民族と言われた所以
今のイスラエル人はユダヤ民族ではなくトルコ北部に居た白人アシュケナージでユダヤ民族ではない
日ユ同祖はヘブライの縄文人と弥生人が一緒だからこそ 士族の子孫である俺の先祖に清和源氏や桓武平氏や藤原氏や穂積氏がいる。俺の先祖である應神天皇は間違いなく実在した。断言出来る。 栲衾 志 羅 紀 の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり、と詔たまひて、
乙女の胸取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別て、三身の網打ち挂て、霜黒葛闇や闇やに、河船の毛曽呂毛曽呂にき国来国来と引き来縫へる国はや
出雲風土記の国引き神話からも
出雲が新羅の半島系なのがわかる
宇佐神宮Webページ
http://www.usajinguu.com/shinbutsu.html
8世紀の『豊前風土記』には、「むかし新羅の神が渡ってきて、この河原に住んだので鹿
春郷(かわらのさと)と名づけた」ことなどが記されています。つまり、田川郡には銅を産
する香春岳があったので、新羅国(しらぎのくに)の神を祀る技術集団が住んでいたことが
分かります。
北部九州も
出雲信仰、白山信仰と同じく新羅の半島系
福井にも大量の新羅神社がある
北陸も新羅の半島系
コイツラ新羅の半島系の土人どもは、
東北の俘囚になり 3世紀には奈良大和の力は九州に及んでない
しかも倭国大乱の舞台は九州と山陰
畿内説なんかはじめから破綻してる 太平洋側は完全にヤマト朝廷が支配してたからな
日本海側は今現存する神社みてもわかるとおり
新羅のチョンコもどきの土人の巣
丁度北朝鮮の工作員が日本海側に漂着するのと同じ
卑弥呼の時代はすでに
そいつらチョンコもどきの土人どもはすでに
関東東北へおいやられてる 人は記憶型と思考型に大別できる
本物か偽物かの論争があるが、金印が九州から出てる
後漢までは九州に日本を代表する政権があったということなんじゃね どうみても記述では
卑弥呼:倭姫命(ヤマトヒメ)(初代斎王)
台与:豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)
コレですべて辻褄があう
※ 伝承によって記述が逆になった
卑弥呼:豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)
台与:倭姫命(ヤマトヒメ)(初代斎王)
だったのが伝承で変な伝わりかたして
記述の内容が逆になった可能性が高い
つまり、トヨスキイリヒメの時代に倭国大乱がおきてる
> 其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿
つまりこの部分 国道24号から>>1の謎建造物が見える
カールがとてもシュール チベットや中央アジアメソポタミアそして地中海沿岸のエジプトやイスラエル王国に住み着いてたのが縄文人達ヘブライ人達
彼らが2500年前忽然と消えたのは弥生人の渡来系弥生人として日本にもどったからで
チベット四川から中国秦を建国後15年で秦を捨て日本へ19万人もの弥生人達ヘブライ人達が大移動
日本国内へ弥生人として渡来した大和王権のイワレピコが神武天皇としてシュメールのスメラ族のスメトラノミコトとして天皇に
イワレはヘブライ語でヘブライ人
ピコはヘブライ語で初代
天皇家がヘブライ人達であることがわかる
邪馬台国の弥生人達ヘブライ人はイスラエル王国からアラビア海を経て沖縄へ渡来
キリスト十二支族のユダ族の物部氏こそ邪馬台国の民
事実邪馬台国自体ヘブライ語でマタイの国
マタイはヘブライ語でキリスト十二支族の人々
邪馬台国のあった四国剣山に今尚キリスト十二支族の祭りがあるのも事実
結局おそらく中国人達が言ってる日本と中国を同祖とか言ってるのは
中国秦からの渡来系弥生人を中国人と勘違いしてるのでは
中国人達はそもそも12世紀までシベリア
朝鮮人達と同じシベリア民族エベンキ
元寇と共に中国へなだれ込んだ中国人達
それ以前は中国はウイグル人達の国
中国秦も中央アジアメソポタミアからのヘブライ人達縄文人が秦を建国
始皇帝もヘブライ人の縄文人
彼らヘブライ人達が15年で秦を捨て日本へ弥生人として19万人も渡来
始皇帝そのものがシュメールのスメル族のスメトラノミコト
中国の歴史で唯一のエンペラー
それ以後は日本へ全て弥生人として渡来系ヘブライ人達が去った後の中国のエンペラーの歴史はスメル族のスメトラノミコトではなく全くの別物
それを中国人達や朝鮮人達は自国の歴史にして弥生人は朝鮮人だの中国人だの
全て辻褄が合わないデタラメ
倭人もそもそも縄文人達ヘブライ人で中国沿岸に住んでたわけでは無い
倭人もそもそも日本民族で中国人達シベリア民族ではない 畿内説は無理だわ
九州諸国の豪族がなぜ往復数ヵ月もかかる畿内にいた巫女を畿内で女王に擁立するのかさっぱりわからん
不自然すぎて話にならん 大和朝廷が北部九州を版図に治めてからも
大和朝廷と北部九州の一部の豪族と争いもおきてる
北部九州の豪族(チョンコもどきの土人)は新羅との関係が深かった
大和朝廷のほうは百済に支配地域を広げていた
で、南朝鮮の権益で九州北部の豪族は大和朝廷の朝鮮出兵を時折邪魔したりして争いもあったりした
北部九州の豪族が新羅から賄賂をもらってたというのも古事記に記述されてる
もうコタエはでてるワケだからな パルティアからササン朝ペルシャの流れに似てる
地方分権から中央集権へ >>12
どうでもええわ
天動説が主流みたいなもんや 日本書紀にも書いてあるけど卑弥呼は神功皇后だよ。神功皇后は御所を機内に置いていたが、三韓征伐のために九州に陣を構えていただけ。倭国大乱も当時の機内での乱だよ。 実質的に創業者である崇神の活躍は3世紀の後半かそれ以降
しかも身内の反乱やそれの関連とも取れるモモソヒメの悲惨な死といった凶事が続く
崇神政権の安定には数十年かかっている
これは奈良中心とする一連の出来事で九州はそもそも無縁
どの角度から見ても魏と渡り合い朝鮮交易を確保した大女王は奈良にはいない >>19
またお前か
神功と卑弥呼は100年以上ずれてんだよアホ >>19
卑弥呼は3世紀前半
神功皇后は4世紀後半
残念だったな
やり直し 低学歴の知恵遅れの願望関係なく
まちがいなくぴったり一致する
暦年代 纒向編年 土器出土遺構 対応する土器型式
180年-210年 纒向1類 北溝北部下層 灰粘土層 弥生V様式末
210年-250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3類 南溝南部 黒粘土(1)下層 庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4類 辻地区土坑4下層 庄内III式(庄内新新式) 布留0式
290年-350年 纒向5類 辻地区土坑4上層 辻地区土坑7 布留T式
建武中元二年 ⇒ 西暦57年 ⇒ 垂仁天皇86年(皇紀717年)
垂仁天皇 ⇒ 「纒向珠城宮」
景行天皇 ⇒ 「纒向日代宮」
時代も符号
ぴったり >>2
女王国の東、海を渡る千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。又侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り、
人の長(たけ)三・四尺、女王を去る四千余里。
海を渡る千余里 ←関門海峡のこと
復(ま)た国有り、皆倭種なり ←関西人 近畿のこと
又有侏儒國在其南
↑侏儒国は、高知県沖の、沖の島だよ
石切で有名な 強制労働でじっさいに小人が多かったらしい
江戸時代の地誌「沖の島記」にそれらしき描写がある
横山やすしの母方の故郷 >>19
記紀の策略にまんまとはまってる
もう少し考察を深めてみような
まずは九州各地の神功皇后を祀ってる神社を調べてみ
なにかを隠蔽したような痕跡があるから
明らかに神功皇后より古い神が以前にいたことが仄かに垣間見られる >>19
楽浪郡や帯方郡の時代に朝鮮半島に攻め込んだら中国が発狂するぞwwww >>12
おまえそれしか書けんのかw
おまえのせいで学会は笑い物だ ゴットハンドのお陰でジャップの古代史はメチャクチャよ 弥生時代後期後半(2世紀後半)の遺構を含む
古代最大規模の鉄器工場も淡路島で見つかってる
纒向の時代とも重なってる
たな大型の鉄器工房跡 国内最大級か
毎日新聞2017年1月25日 17時03分(最終更新 1月25日 20時46分)
https://mainichi.jp/articles/20170126/k00/00e/040/001000c
弥生時代後期 鉄製品57点と工房含む竪穴建物跡4棟発見
兵庫県淡路市教委は25日、弥生時代後期の舟木遺跡(同市舟木)から大型の鉄器工房
跡を確認したと発表した。遺跡中心部の状況を把握するため狭い範囲で溝(トレンチ)を
掘って調査した結果、鉄製品57点と工房を含む竪穴建物跡4棟が見つかった。同遺跡全
体の鉄器工房の規模が、南西約6キロにある国内最大級の鉄器生産集落で国史跡の五斗長
垣内(ごっさかいと)遺跡(同市黒谷)をしのぐ可能性があるとしている。
舟木遺跡は約40ヘクタールの大規模な山間地集落遺跡。これまでに約5700平方メー
トルを調査し、弥生時代後期の竪穴建物跡10棟や土器、中国鏡の破片が出土しているが、
鉄器工房は確認されていなかった。
2016年度は遺跡中心部の尾根沿いに7本の溝、計128平方メートルを掘り、弥生
時代後期後半(2世紀後半)の竪穴建物跡4棟を確認した。3棟は直径10メートル前後
の大規模な円形で、うち1棟から床が赤く焼けた炉跡4カ所が見つかった。もう1棟は四
隅が丸い隅丸方形建物だった。
イザナミとイザナギがセックスした島に古代 最 大 規 模 の 鉄 器 工 場 もある
※ 弥生時代後期後半( 2 世 紀 後 半 )の竪穴建物跡4棟を確認済
国産みのはじまり淡路島
こおろこおろのすべての始まりの場所だからな
ココが国産みの最初の場所だからな
九州土人みたいな夷人雑類と一切関係ない
わかった? >>24
なんで神功皇后が4世紀後半なんだよ笑笑
西暦200年頃の人ってことさえも知らないのかよ笑笑 >>12
それは、現在の「邪馬台国論争」の「構造」のことである
「邪馬台国畿内説」の証明はない
あるのは、ただ「はじめに邪馬台国畿内説ありき」なのである
ではなぜ、「はじめに邪馬台国畿内説」なのか
それはそのように教育されたからである
京都大学を中心として、その伝統にもとずき、考古学の分野で
そのような教育システムができあがっているからである
その教育システムからはずれれば、就職も生活も出世も不利と
なる可能性がある
「邪馬台国畿内説」はいま学問的、科学的にはきわめて多くの
問題をかかえながら政治的には勝利をおさめつつあるようにみえる >>8
東北人にノーベル賞取れないのも
それか
会津なんて恨の精神だし 伊勢内宮神前祝詞
天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある
天から遠ざかった向津姫
伊勢の向かい側は尾張三河
何か関係あるのだろうか?
また、『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される。
尾張の熱田神宮
瀬織津姫が祀られている
纒向遺跡の外来系土器の半数は東海系
初期のヤマト政権は尾張王朝なのだろうか?
卑弥呼は瀬織津姫なのだろうか? >>35
応神天皇5世紀初頭
仁徳天皇5世紀初頭
履中天皇5世紀中頃
なぜ応神天皇の母親が3世紀にいるのか?納得のいく説明をせよ 真実まとめ
邪馬台国は奈良
日本人は朝鮮人
天皇も朝鮮人
アイヌと琉球こそが縄文人だった >>35
神功皇后が3世紀にいたという根拠はなに? 日蝕の有無で、畿内の巫女さんスゲー!九州の女王はんあかんわー!なっても
後年割と普通に北部九州統括してんねんから、遡れば同族なんやろな 古事記や日本書紀が大和政権と邪馬台国が別物であることを示しているのに、何故むりやり関連付けようとするのかな? 古事記で皇統に尾張氏の血が入ってくるのは
孝昭天皇のとき(コレは突然)
皇后の余曽多本毘売命が尾張氏
余曽多本毘売命
天忍男命
天村雲命
天香語山命
邇藝速日命
正勝吾勝勝速日天忍穂耳命
それより以前はずっと師木県主の血筋が
天皇の皇后になってた
なにがいいたいかといえば
古事記の記述通り、もともと尾張氏は万世一系の正統性のある系譜じゃない >>35
朝鮮半島の時代的背景や子孫の応神天皇や仁徳天皇の古墳の年代からも4世紀でなければ辻褄が合わない >>10
ヤマト→邪馬台国で思考が止まってる上に箸墓の年代が卑弥呼の時代とされたから
だけど、よくよく調べると祭祀的には三世紀後半から発生している後発なので疑問が生まれる
北九州に鏡祭祀の起源がある上に天照という絶対的存在が畿内にいることがあり得なくなる
ここまでの考察だと唐子鍵と巻向の存在意義が謎となるから畿内はもっと複雑な過程を経て権力肥大化したと見るべきなんだな >>41
>參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里(魏志倭人伝)
一周が5千里(約400km)余りの島だってんだから、九州島内以外にはあり得んだろ
近畿説とか頭おかしい
倭人在帶方東南大海之中、依山?爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、漢の頃から大陸への朝貢があり、
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ 訳の判らない過去の徴用工問題が重要で、派遣社員は見殺しだとさ。
完全に理性も統治能力も失っているのでは?
http://edokriko.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=8304704 >>35
卑弥呼が必死に帯方郡に土下座して魏に朝貢してる時代に三韓征伐とか完全な謀反じゃん
魏に攻め込まれても文句言えないわ みんな、俺のご先祖さまの話しをしてるようだが、俺のご先祖さまのことを勝手に決めないでくれ。俺のご先祖さまのことは俺が決めること 弥生時代に稲作を始めたのは縄文人で弥生時代稲作の中心を担ってた
日本に現代日本人の先祖の渡来系弥生人が来たのが4〜3世紀頃で
始めは北部九州にまでしか進出出来なかった
弥生時代末から古墳時代になってやっと日本列島全体に拡散し先住民の縄文系弥生人を取り込み現代日本人が生まれた
未だ日本人居住していない関西に邪馬台国が在ったとは考えられないし
また西日本広域国家なんてあるはずもない。 東国武士のほとんどは
元をたどれば新羅系のチョンコもどきの土人 >>50
北部九州一周が倭地ですね
島原半島、天草、宇土半島経由で有明海沿岸一周ですね。 神功皇后の朝鮮征伐は早くて4世紀だろね
これは八王の乱(291〜)という、
晋(魏からの禅譲王朝)を崩壊に導く内戦で晋が斃れたことと関係してる
もちろん3世紀の朝鮮半島は公孫氏や魏が睨みを効かせているので倭人の侵攻などほぼできない
ちなみに崇神記に任那が朝貢したり新羅と不和になったりの記事が見られるが
これも八王の乱より後で晋の睨みが効かない時期と見るのが妥当だろう
よって崇神の活躍時期も3世紀の前半の卑弥呼とは大分ズレてくるのである 天皇や朝鮮から渡来した藤原のために永遠にねつ造を繰り返しますと 関東の清和源氏は系図を偽造してる
あいつらの出自は新羅系
八幡太郎 賀茂次郎 新羅三郎
もろ新羅系
ホモ信玄の祖先も
石橋八幡神社を創建した新羅三郎義光 >>58
神武かその前のニギハヤヒ、ナガスネヒコに滅ぼされたんですね。 >>54
ほんとそれ
延喜式 出挙稲数 >【稲作の分布】>古代は九州のほうが圧倒的に大きい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
畿内 2,087,126
山城 424,070 大和 554,600 河内 400,954
和泉 227,500 摂津 480,000
西海道 5,990,581 @@@@@@@@@@@@@@
筑前 790,063 @@@@@@@@@@
筑後 623,581
豊前 609,828 @@@@@@@@@@
豊後 743,842
肥前 692,589 @@@@@@@@@
肥後 1,579,117 @@@@@@@@@@@@@@
日向 373,101
大隅 242,040 薩摩 242,500 壱岐 90,000 対馬 3920
延喜式は10世紀だから、古代3世紀ごろはもっと差が大きいんじゃない
弥生時代の農業生産はおそらく畿内全域と九州で10倍くらいは差があったでしょう。
九州に7万戸でも畿内には7000戸とかでしょう。
畿内の狭い見識を九州や他の地方に当てはめて論じています。 >>53
だからお前の先祖の話じゃないんだって
すぐ九州説は大和朝廷は百済人が作ったってしたがる >>60
神功皇后は創作でしょうね
大陸側に記録が無い。 >>50
九州を一周したわけじゃないのにそれが島で、周囲のサイズをかなり正確に把握していた地理感覚すごいな。 俺の曾祖母の父は某藩士で藤原氏。藤原鎌足の子孫である
俺の曾祖父の父は某藩士で清和源氏。清和天皇の子孫である
俺の曾祖父と曾祖母の養父は某藩士で桓武平氏。桓武天皇の子孫である >>47
その「孝」の字が付く4代の天皇の時代に、尾張氏とつるんでクーデターを起こしたんだよ。
その結果、崇神垂仁の頃には大物主は祟り神になってしまっている。
なにがあったかは記紀神代に書かれている。 >>62
関東武士は主に、原住民系
部落の源流 単行本 ? 1997/7 高本 力 (著)
我が国の部落問題も解放令発布以来すでに120年になる。
この長い年月が経っても牢固として部落問題のみが解決しないのは何が故か。
東北地方から移配された蝦夷の俘囚を部落の源流とする本格的研究。
移配された俘囚は、7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争で、大和へ帰服した蝦夷男女が集団で
強制移住させられたものである。
俘囚は、一般の公民百姓らとは大きく異なる生活様式を有しており、狩猟および武芸訓練が俘囚生活の特徴であった。
俘囚と公民百姓の差異に対応するため、812年(弘仁3)、朝廷は国司に対し、俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、
俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令を発出している。 高句麗が出てくるまでは朝鮮は中国の支配下で倭がどうにかできるものじゃないんだよな
高句麗誕生で漢の直接的な支配から抜けて冊封体制になって
中国も南北朝の思惑で冊封して朝鮮は高句麗と倭と百済と新羅で戦国時代みたいになった 中国側の記録によると、
〜3世紀は狗邪韓国の南:九州北部
6世紀末〜7世紀は新羅の東南:九州北部-出雲・吉備、秦王国
8世紀〜:遣使曰く日本国として統合した、秦王国の消息は不明
この遣唐使を派遣した畿内政権の過去の記録は無い >>64
3世紀とすると神武よりニギハヤヒ、ナガスネヒコに滅ぼされた可能性が高いですね
神武はその後だから。 >>63
銅鐸文化を持った出雲族が大和の地を先に支配していた
ニギハヤヒ、ナガスネヒコは出雲系 >>29
香椎宮とか良い例だね。
724年に元正天皇が突然神託を受けたとか何とかで
今の形になってる。元々は廟らしい。
応神天皇生誕場所を宇美八幡、おくるみの場所が志免。
宇美八幡は570年頃創建となってる。
香椎、宇美、志免とか以前の古地名調べると面白いかもね。 >>68
魏志倭人伝の凄さだよね
いい加減なところもあるけど(方角とか)
女王国ってすごいよ
シナにはなかったから、敢えてとりあげたんだろけど >>78
崇神が3世紀末で応神が4世紀末に実在したという説が通説だが
神武が3世紀にいたのならその後の天皇がいた時期がかなりずれるけど? >>72
関東だと群馬に多いんだよな
その蝦夷出の系統がな 俺の曾祖母の実家は初代を平安時代の人になる。源義経の家臣であった。分家とかではなく本家本元である そもそも朝鮮人達はシベリア民族エベンキ
高句麗や百済新羅の朝鮮半島は日本の出雲族の国で全て日本人と同じヘブライ語のヘブライ文化
朝鮮人達が朝鮮半島に住み着いてたのは中国人達と一緒で12世紀までシベリア狩猟民族が元寇に追われ朝鮮半島へ
中国の歴史書にも記載されてる >>73
戦後、韓国と北鮮は、負け犬の遠吠え的ウリナラマンセー教育で国民を洗脳し、日本に与えた影響力を
大いに誇張して喧伝することによって、地に落ちた自尊心を回復しようとたくらんだ
(また、半島における中国の影響も、ほとんど無かったコトになっている。)
それとは逆に日本では半島史研究が急速に衰退したので、連中のデタラメを無批判に信じ込む
反日サヨク教師・バカサヨク学者・バカ左翼マスゴミが言いたい放題を繰り返すことになる
いい例が高松塚古墳の壁画だ。どう見ても漢人の風俗なのに、朝鮮文化だと騒いでいた
ソウル・平壌を含む半島の主要地域は、B.C.108〜A.D.313まで400年間も漢人の植民地(楽浪郡
・帯方郡)で、それ以降も半島には漢人・楽浪文化→中国のコピーが現在まで続いている。
そして半島に、朝鮮(韓国)文化らしいものが芽生え始めたのが、新羅が半島南部を統一した、
7世紀後半以降のことである
朝鮮文化が成立する前のハナシなのに、「これは朝鮮文化だ!」と喧伝するのは危痴害の戯言
以外の何ものでもない
朝鮮人が「朝鮮文化を日本に教えてやった」言っているものは、すべて漢・楽浪文化だ
ようするに、313年に楽浪郡が滅ぶと、漢人達が徐々に南下してきて半島南部や日本側に渡っ
て、その文化を授けたのである
代表例が、日本に漢文を大系的に伝授した王仁博士で、同じ時代に百済も漢人に漢文を教授
されている >>8
>>16
>>57
>>6
ID:Ayefb+he
親日派の棄民白丁 >>80
まさにそれが唐子鍵の人々だね
彼らは肥沃だった敦賀方面から南下し琵琶湖南岸の伊勢遺跡で共同流通のための市を開いたがその後奈良湖が引き始めた畿内の唐子鍵周辺に開拓拠点を作った
その後巻向が鏡祭祀を携えて唐子鍵の東方に拠点を作り強力な物資流通力を背景に唐子鍵の文化を圧倒していった
注目点は環壕の有無だな 俺の先祖に饒速日命もいる。俺の先祖は重重重重重ばかりの先祖だらけだ >>87
倭の五王が畿内政権かはわかってない
九州ではないとは推測されてるけどな >>81
>高良大社のふもとに有りながら、 荒れ放題の祇園山古墳とは、なんだったのか、、、
現在、列島で知られた古代墓の中で、
「大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人」という文献的条件を満たし得て、
庄内や、三角縁や、「甕棺の鏡片の成人女性」などという考古的条件を満たす墓は、
祇園山以外に見つからない >>67
大陸側に史書に載ってないから架空の人物とは?
記紀に載ってて神武天皇所縁の神社が福岡を中心に100社以上も
あるのにそれは全くの無視かい 崇神の代に建てられた廣瀬大社
【若宇加能売命】が祀られている
かなり重要な存在と思われる。一説によると稲荷神と関係あるとか
若、【ワカ】
インカ帝国では、【ワカ】は川や泉などと結びついた聖なる存在
アイヌ語で【ワッカ】は清らかな水
インカ帝国はy染色体ハプロタイプはQ系
殷もQ系だったらしい
日本にもQ系は1%弱いる
インティはインカ帝国の太陽神
殷の王族は太陽の末裔
殷の王はシャーマンであり鬼神を崇拝していた
稲荷はイネカ→インカ
廣瀬大忌神、稲荷は殷系の渡来人と関係あるのだろうか? >>69
かまたりと、ふひとを自慢しないほうがいいね
歴史の汚点 樽悶 ★
↑
ID可変自作自演ウンコ
九州説は、こいつ一人 >>85
群馬県太田市の金山城のまわりも被差別地域だらけ
1か所のぞいてぜんぶ部落
金山城 新田氏がたてこもって足利に反抗したさいごの砦
きれいごとの畿内厨のバカな歴史観 粉砕してやるよ ID:OlXnuzDm0
10世紀のデータ出してくるウンコもぐもぐ
人口には触れず >>83
倭人伝は方向はずれて認識しているよね。
南と書かれていても45度以上ずれて実は南東よりまだ東寄り。
このことから邪馬台国本国は大分。
名だけ出しただけの20か国は豊後西部、肥後北部、筑後、佐賀あたりとみる。
だから熊本の狗奴国は邪馬台国本国とは隣接していないとみる。
女王国の南=邪馬台国連合国全体の南。 970名無しさん@1周年2019/04/28(日) 16:40:25.64ID:Vl8RlZi0
◆最新:現代日本人(≠韓国人)のまとめ
〔日本人のDNAは朝鮮人や中国の東北部人とは異なっており琉球人やアイヌ人のDNAと共通点が多い〕
Y染色体の80種類ほどの遺伝子のうち
日本人は「D2 (D1b)」 を持っているが
Y染色体の中でも 非常に古くからある系統。
日本人のD系統は ほぼ100%が「D2 (D1b)」系統。
同じD系統であってもチベットや東南アジア が
D1とD3系統。
もちろん同じD系統だから近縁であることは
間違いないがD2 (D1b)系統は世界の中で
日本人にしか存在しない固有の系統。
さらに大きな意味な持つのが、日本の隣の
【韓国にはY染色体D系統が存在しないこと】。
この系統を持っているのは世界的にも珍しく
【圧倒的に日本人に多く存在し韓国人には先ず
見られない】。
核DNAというのパターンを網羅的に解析した
結果、【日本人は韓国人と大きく異なる】ことが
判明した。その【「D2 (D1b)」をいちばん多量に
持っているのがアイヌ人と沖縄人である】。
[現代の科学がアイヌ人と沖縄人が日本人の源流であると証明してしまったのである。]
DNAでわかった東アジア人は大きく分けて
「4集団」ある。
・東南アジア集団
・中国集団 (北京、ソウル(韓国)を含む)
・モンゴル集団
・日本列島集団(ヤマト人、オキナワ人、アイヌ人) この時期に朝鮮からの中国人視察団がすいすいと朝鮮南岸をとおり、対馬を経て福岡に来れるというのは
女王国の権威が朝鮮南岸と九州北岸の両岸に渡って鳴り響いていた事を示すんだよ
しかもその移動経路で産業や人口、地勢をすらすらと聞き取りできてるのも凄いことだ
女王国とは東夷の野蛮人ではなく外交貿易に非常に明るくしかも九州における内政も非常に充実した大国だった訳である
そして当時奈良がそうであったような記録も遺物も何もない
むしろこの時期に奈良が九州と行政面や産業面での関係があったとすら思われない 神功皇后って不思議な存在だよな
最初は実在を疑ってる人も調べれば調べるほど実在を信じるという
特に九州における神功皇后の存在感は本物と感じるものがある 972名無しさん@1周年2019/04/28(日) 16:40:48.71ID:Vl8RlZi0
現代の科学がアイヌ人と沖縄人が日本人の源流であると証明してしまったのである。]
DNAでわかった東アジア人は大きく分けて
「4集団」 ある。
・東南アジア集団
・中国集団 (北京、ソウル(韓国)を含む)
・モンゴル集団
・日本列島集団(ヤマト人、オキナワ人、アイヌ人)
であり、4つの集団は、各々DNA上離れて存在する。
【ソウル(韓国人)は中国集団に分類され】、DNA上、
華北人と韓国人とはそれほどの違いはなく、
【韓国人は日本人よりも中国東北部の人間に近い】。
またこのD系統は、アジア人種のみならず地中海
沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、
Y遺伝子の中でも非常に古い系統である。
東アジアの地域全体には南方系O系統が広く分布し、
島国の日本や山岳のチベットにのみD系統が残ったと
考えられる。
D2 (D1b)系統は
【アイヌ人88%】、
【沖縄人56%】、【本土日本42〜56%】
チベット33%で、【韓国ほぼ0〜3%】
である。
アイヌには南方系O系統は殆んど無い完全なD系統
であり、本土日本人と沖縄人には南方系のOが混ざり、
つまり事実上アイヌと本土日本人は大差がなく、
アイヌに南方系を足したのが本土日本人となる。
つまり【日本国は民族として非常に安定したまとまり
を持った国家】 である。 もういいだろ樽悶 ★ が惨めで可哀想
ウンコも食べるし 日本国内へ弥生人として渡来した大和王権のイワレピコが神武天皇としてシュメールのスメラ族のスメトラノミコトとして天皇に
イワレはヘブライ語でヘブライ人
ピコはヘブライ語で初代
天皇家がヘブライ人達であることがわかる
大和王権がメソポタミアのシュメール人達スメル族の国で神武天皇がヘブライ人の天皇の初代とわかる
邪馬台国の弥生人達ヘブライ人はイスラエル王国からアラビア海を経て沖縄へ渡来
キリスト十二支族のユダ族の物部氏こそ邪馬台国の民
事実邪馬台国自体ヘブライ語でマタイの国
マタイはヘブライ語でキリスト十二支族の人々
邪馬台国のあった四国剣山に今尚キリスト十二支族の祭りがあるのも事実
邪馬台国がイスラエル王国からのキリスト十二支族のユダヤ民族ユダ族の物部氏の民
ニギハヤヒが物部氏だからこそ邪馬台国自体の民と同じキリスト十二支族のユダ族の司祭とわかる
ニギハヤヒが同じヘブライ人でもスメル族のスメトラノミコトの天皇家では無いことがわかる >>95
高良さんと祇園山の関係性は興奮する
ここに太陽祭祀、鏡祭祀の源流を感じる
伊都国からもたらされた物資が筑後平野において活用されるための拠点だと思う
女王とは鏡などの物資に祭祀的価値を付加するための存在だったと思うんだよね ★ 瞬殺される在日韓国人の無茶苦茶解説w★
600 名無しさん@1周年2019/05/01(水) 00:42:51.62ID:tE8rei4P0>>609>>610>>612>>613
下野守 栃木県
秦大魚(746年〈天平18年〉9月) 従五位下 〔続日本紀〕
百済王俊哲(再任:791年〈延暦10年〉9月22日〜795年〈延暦14年〉8月7日卒去) 正五位上、後に従四位上、陸奥鎮守将軍〔続日本紀〕
百済王教俊(809年〈大同4年〉1月16日) 従五位下 〔日本後紀〕
甲斐国 山梨県
田辺史広足(天平3年12月21日補任(以下補任日、『続日本紀』)渡来系
馬史比奈麻呂(天平13年12月10日、『続日本紀』)朝鮮系
山口忌沙弥麻呂(天平宝字5年10月1日)朝鮮系
坂上大忌苅田麻呂(天平宝字8年10月20日)朝鮮系
5世紀はヤマト王権による中央集権化に伴い東国の軍事的征服が行われている時期で、この頃には朝鮮半島から乗馬風習が伝来している。 >>92
>>94
倭王武から磐井の乱まで50年だがこの間に朝鮮出兵するような強国が滅びたとは思えんわ 609名無しさん@1周年2019/05/01(水) 05:47:44.39ID:6XSsaE4p0
>>1
桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫 についてだけど、
皇統が125代続く中で、百済系がたったの1人で高野新笠が
武寧王から200年後の人物で、限りなく血は薄いよ
>>600
この出鱈目ぶりは日本人じゃない気がする
やっぱり在日コリアンなのかな
まず、高校生でも知っている坂上氏は後漢霊帝の末裔で
坂上氏自体が朝鮮族ではないよ
坂上大忌苅田麻呂も、後漢霊帝の孫の阿智王にもかかわらず
姓が低いと不満を申して宿禰をもらったことで有名
この>>600は日本史の知識ゼロなのが丸わかりなんだけど
なにかの文字起こしして嘘を付け足している感じかな
在日の人ってみんなこんな感じの捏造するのんだったら
怖いね
日本の渡来系氏族の中では後漢霊帝の後裔たちが優秀で
活躍してる
それを在日の人がすべて朝鮮系と勝手にしてるだけかもしれない
だから注意だね
みんな徴用工になっちゃう感じだよね
田辺史広足は「姓氏録」では崇神帝の後裔、だけど「諸蕃雑記」で
百済系とされてて、その背景は天皇がその出自を憐れんで豊城入彦の
後裔に入れたのね
ただし当時の朝鮮系の諸蕃の蕃族は出自を偽ることが多かったけど、
この一族は東大寺建立にあたり一千貫を寄付しているまともな一族
百済王俊哲は、蝦夷との北上川の大会戦で、夏草が茂って戦えない、
馬の餌がないと臆して戦わずで、桓武天皇の逆鱗に触れたバカ者
強い蝦夷の伊治 呰麻呂と戦うのが嫌で、周辺の神社の格上をして神仏
の力だけで勝とうとしたバカ者
この生母が高野新笠なんだけど、百済渡来は歌と舞の才能がある者が
少々のみ
もちろん、舒明帝の時に義慈王は豊璋を日本の人質として義慈王は
唐に拉致され、豊璋は帰国し663年に唐新羅と戦って敗走し、そして
百済滅亡させた
最初から日本に依存してばかりで、最後には日本を泥沼に引きずり
込んだから、もう最低の民族
本当に百済は、日本の疫病神の働きでよく貢献してくれていたよ
山口忌沙弥麻呂も、また>>600の大嘘
事実は坂上氏と同じ後漢霊帝の後裔で中国系の漢人系で遠い親戚
ただ、本拠は奈良と大阪の県境の大和川の荷物積み替え地の付近
だから、山口氏の2つしかない2系統目で、大和の大豪族の武内宿禰
の末裔かもしれない
いずれにしても山口忌沙弥麻呂が朝鮮系というのは大嘘です 唐・韓・漢(から)とは
@ 中国や朝鮮。また、外国。 「 −天竺てんじく」
A 中国や朝鮮の、中国や朝鮮から伝わった、舶来のなどの意の複合語を作る。 「 −芋」 「 −織り」 「 −櫛笥くしげ」 >>103
延喜式のことかい?
それ以外ないから、類推するしかない ID:OlXnuzDm0
10世紀のデータ出してくるウンコもぐもぐ
人口には触れず
。。。 纒向では
ニイナメオスクニする祭祀場もみつかってるからな >>109
(前略)小浜さんは形質人類学の立場から日本列島の、東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘されておられます。
その中で私(網野善彦)がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びととがきわめてよく似ており、
形質上は同じであると指摘されている点です。
そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人との違いに比べて、はるかに大きく、
東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。
これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、
差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。
小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。
(網野善彦『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』(岩波現代文庫,2013)137-138頁) 卑弥呼とは姫巫女
つまり祭祀を司る皇女
女性天皇である
すなわち神功皇后である もう、畿内論者も本音では「無理筋」だと
分かっているんでしょ?
だから、途中から元々は九州にあって「東遷」だの言いだしたが、結局は「何とか大和朝廷と
関係ある事にしたい」が目的になってる
しかし、邪馬台国は大和朝廷とは関係ない >>105
呼子付近に上陸し唐津市街地方面へ南下
唐津市街地方面から東に向かい糸島市へ
実際に通った感覚で書いてたから南東
実際には東に近いけどね
正確に方角を計測しないで体験者の感覚で報告したんだね。
12000里だから伊都国、奴国付近が魏使の目的地。 ニイナメオスクニは即位された陛下が
11月に行われる
即位後初の特別な儀式だからな >>128
こういう馬鹿が定期的に現れるwww
何百年も時代が違う 卑弥呼が伊都国出身の王族で
平原遺跡に埋葬されたの女性と同族で
共立のために奈良に呼ばれて巫女をしたとしたらいろいろ説明がつくが
確証はない どう考えても邪馬台国は一時代の強国で歴史も何も消え去った敗者国なのに無理矢理大和と絡めようとするからおかしくなる
その後の日本史にはほとんど影響の無い国だから日本史と絡めて探しても見つかるわけない >>128
言語学者・長田夏樹は、日本の古代言語は三つの異なる地域に分けられるという
すなわち、S音の北部九州、ts音の近畿、tf音の東国
魏志倭人伝を分析すると、ほとんどがS音をつかっていることが明らかであり
これから推測すると、S方言圏は北部九州であり、云々
つきつめて言えば、記紀に書かれていないことが
ヤマト側にとって都合がわるいこと
銅鐸 → 無視
卑弥呼 → 神功皇后 >>137
神功皇后の息子は5世紀に実在した天皇なんだが? >>129
ではなぜ、「はじめに邪馬台国畿内説」なのか
それはそのように教育されたからである
京都大学を中心として、その伝統にもとずき、考古学の分野で
そのような教育システムができあがっているからである
その教育システムからはずれれば、就職も生活も出世も不利と
なる可能性がある
「邪馬台国畿内説」はいま学問的、科学的にはきわめて多くの
問題をかかえながら政治的には勝利をおさめつつあるようにみえる
「邪馬台国畿内説」は、実証的根拠をもたない
出発点である「魏志倭人伝」の記述とあっていない
「邪馬台国畿内説」は確かな根拠といえる鉄の骨をもたない
土の虚塔である
空中楼閣である
いつかはかならず崩壊する
「兵用 矛 楯 木弓」
矛のでてこない畿内はありえない
竹箭或鐵鏃或骨鏃
↑鐵鏃のでてこない畿内はありえない 契丹古伝には、新羅は熊襲が興した国だと記されている。
古事記には新羅を討てば、熊襲は自然に従うと記される。
熊襲は山口県から福岡県の各所で出現する。
仲哀天皇が陣を構え熊襲討たれたのは筑紫平野に入って間もなくである。
熊襲は筑紫をコアとし山口県まで分布する新羅集団である。 ヤマト王権って表現が未だに馴染まない。
大和朝廷にもどせ。 >>143
ぶっちゃけ大化の改新までは大和豪族でもいい まあ、畿内論者はあまりにも物証が出ない
んで、なんとか大和朝廷を絡めようと
「東征」に転向したようだ
邪馬台国は大和朝廷とは関係ない ID:oA8w+1xK0
ウンコはいつも偽書を引用
契丹古伝 聖徳太子も新羅に朝鮮出兵しようとしてたたのに
なにいってんのコイツ さすがに広域統治システムが確立してない時代に封建制度を用いずに畿内から北九州を統治するは無理ゲーじゃないか?
九州の豪族が畿内の卑弥呼を共立するとかいう畿内説はありえない >>129 しかし、邪馬台国は大和朝廷とは関係ない
金沢大学の半沢英一氏の著書「邪馬台国の数学と歴史学」を拝読すると、
当時の中国の数理天文学書や数学書を典拠として魏志倭人伝の行程が
極めて合理的に論証されているので、私には半沢氏の九州説が妥当と思え、
魏志倭人伝の記述の南を東に読み変えねばならない畿内説は分が悪い気がする。
第12章 邪馬台国大和説批判
55 邪馬台国は日本最強の勢力という思い込み@@@@@@@@@@@@@@@
56 大和説の根拠としての『日本書紀』
57 日本の王は天皇だけという思い込み
58 大和説の根拠としての三角縁神獣鏡
59 下賜鏡ではありえない三角縁神獣鏡
60 卑弥呼の墓になじまない箸中山古墳@@@@@@@@@@@@@@
61 倭人伝そのものが否定する邪馬台国大和説@@@@@@@@@@@@@@
62 前史がなかった大和@@@@@@@@@@@@@@@@@
第13章 前方後円墳王権に併呑された邪馬台国
63 文献から消えた邪馬台国
64 前方後円墳創出に寄与せず、やがて前方後円墳圏に入った九州@@@@@@@
65 前方後円墳王権に併呑された邪馬台国@@@@@@@@@@@@@@@@ ワカが付く地名でパッと思い出すのは、
若狭ワカサ、和歌浦ワカウラ
東大寺のお水取り
「若狭井」と呼ばれる井戸から神聖な水を汲み上げ、仏前にその水をお供えするという儀式
若、若狭、聖なる水、謎が深まるな >>140
5世紀は高句麗の全盛期で倭国と戦ってたのは新羅じゃなくて高句麗なんだがな。 >>149
ほんとこれ
畿内説論者は頭おかしい
畿内からどうやって九州を直轄支配するんだうね
さすがの卑弥呼の力をもってしても物理的に不可能 卑弥呼は天子さまじゃないからな
天子さまより格下の伊勢斎王さま
九州にいるような土人相手するのなんか
実務(祭祀)を行う伊勢斎王さまで十分だからな 朝鮮半島南部に領域を持ってた時点で同一の国。朝鮮出兵が盛んになるのは列島側の政情が安定してきたから。 そもそも記紀を書いた皇室には九州の業績を横取りする気はさらさらない
わずかに始祖の神武が九州の日向の生まれと記すのみ
そうであれば女王国の係累なわけだが大女王の業績まで自分の子孫につけ変えるほどバカではなかった
神武記も崇神記も奈良中心に土着勢力や周辺勢力を懐柔し或いは征服する歴史で九州経営には一切触れてない
ところが戦後の学者が畿内こそ九州を3世紀に統べた女王国と言い出すから無茶苦茶になった
皇室も迷惑してるんではないか ID:OlXnuzDm0
↓
ID:1hRacCwb0
10世紀のデータ出してくるウンコもぐもぐ
人口には触れず
ID変更
近代以前の日本の人口統計
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
200年 50万〜70万人 卑弥呼
300年 60万人
400年 150万人 倭の五王
500年 200万人
600年 300万〜400万人 聖徳太子 >>143
「漢の委の奴の国王」
わ な
↑3段細切れ読み 根本的にまちがい!! イトまたはイドと読みます
金印は当然、政庁におかれた
皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない
印文のルールとは、二段国名が取られていたこと
現代中国人は漢委奴国王をどう読むか?
仏教大学の黄當時教授は、2014年の10月に開催された
「第8回金印シンポジウム志賀島」において、
「金印の韻文は『漢の委奴の国王』と2段に読むしかない」
『3段読みは』致命的ともいえる欠陥を抱えている。固執は不毛である」
と述べ、また委奴国という漢字を見せられて、「ヤマト」「ワノナ」
と読む中国人はいないと断定している。
↑畿内厨!!! 宿場町や街道が整備されてた江戸時代ですら九州から畿内は1ヶ月近くかかってた
弥生時代に100年以上倭国大乱やってた九州の連中が遥か彼方の畿内の女王を共立するとか意味わからん 九州は小国乱立、飛び抜けた国がなかったから
九州説はウンコを食べる 朝鮮出兵でチョンコどもしばきにいく労力からすれば
北部九州のチョンコもどきの土人程度をしばくのなんか
軽いもんだからな 邪馬台国が九州にあったとして、熊本県のトンカラリンは何か関係あるんだろうか?
近代以前のトンネル遺構っていうのは世界的にもわりあい少ない 奈良県人だが邪馬台国は北九州にあげるわ。奈良は何や言うて色々あるしな。明日香はあるし、都もあったし、平城京に藤原京、有難い事に日本史上に奈良時代なんてのもあるし、ありすぎてお腹いっぱい。 >>160
魏志倭人伝によれば、女王国の南には狗奴国があり、女王と敵対していたという
つまり女王国の所在地は邪馬臺国連合の南端付近であると分かる
卑弥呼は魏から親魏倭王と認められたのだから、その敵対国である狗奴国は
魏との交流を持っていないと考えられる
ゆえに、邪馬臺国がどこであったかは出土品の分布を見れば一目瞭然
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
金銀細工や硬玉やガラス製の勾玉など、大陸産のものが
佐賀、福岡、熊本にかけて大量に出土していることが分かる
そしてそれは熊本県八代市あたりでぷっつりと途切れている
ここが邪馬臺国と狗奴国の勢力境界線である 大和王権が広い地域を支配できるようになったのは皇族の王を地方に派遣して統治させる封建制度を導入してから
封建制度導入前の3世紀に畿内の大和王権が九州を支配するのは不可能
よって畿内説は成り立たない >>153
三種の宝物(神器)を集められるほどの富と権力をもつ国家の淵源が
九州に端を発していることが重要。
自身の権力の正統性が他所で端を発していることは本来
他所にけちをつけられる危険をもつことから厳に避けなければならないのに
畿内政権がそれを避けなかったということ、
さらに記紀で自身の出自を九州に求めたことは
畿内政権が自身の正統性が九州にあったと誇示しているとみるべき すでに冊封(コレも儒教に由来してる)の概念があるのに
封建制の概念がないわけがない >>169
そもそも当時の日本人は皆九州に渡来した人たち
天皇の先祖が日向あたりに渡来したのならおそらく黒潮に乗ってきた中国人だろうな >>167
じゃ、スレ立て止めろよ
ウンコ
樽悶 ★ 倭人は半島ボコしすぎだろ
当時は半島はジューシーだったのかな 糸島市の平原遺跡の女性の墳墓の東に
大きな柱が立っていたと思われるあとがあって
太陽信仰でこの女性は卑弥呼より少し年上と思われる
卑弥呼が九州北部から奈良にきて銅鐸をやめて
太陽信仰の宗教をもちこんで
狗奴国のせいで出身地伊都国がやばそうだから
奈良にいながら魏に協力を求めた
とこのくらいまで説明がつくが
纏向と九州北部でつながりを示す物があまりでなくて弱い 当時の構図って
北九州の邪馬台国vs南九州の狗奴国←(支援)←畿内のヤマト王権なんじゃね?
南九州には天皇に由来する名所がかなり残されてる
畿内のヤマト王権の天皇の親戚が南九州にいたのでは?
狗奴国はヤマトの王権の封建制の属国だったのかも 邪馬台国とは大和朝廷の事
畿内説で正しい。
九州では外国に攻められやすい
内陸の奥に構えるのが自然
そもそも神武天皇である徐福が
この列島を制圧したのだから
その弟子が九州を治めていても不思議では無い 南九州って、熊襲や隼人がいるのに
大和朝廷も平定に手間取ってる >>163
古建築秘話 / 伊藤平左エ門‖著 / 鳳山社 , 1962
おもしろ歴史話 法隆寺移築説
宮大工の棟梁の家系に生まれた十一世平左衛門が書いた「古建築秘話」で伊藤平左衛門は、建築に使われる尺度の
歴史的違いに着目することで、法隆寺は後世の再建で、別の場所から移築されたと結論付けた。高麗尺で作られていて、
当時奈良に都がなかった為に他所から移築と
↑法隆寺は、九州大宰府、観世音寺から移築された ID:OlXnuzDm0
法隆寺が全焼して、再建されたのはみんな知ってる話
九州説はウンコを食べる 唐古・鍵遺跡から大和川を上れば簡単に纏向遺跡にも行けるし
歩いても1時間で行けるし、関係を解明してほしい >>178
当時の支配体制では畿内の朝廷が九州を支配するのは無理じゃね?
九州で反乱が起きるごとに畿内から指示出すのは効率悪すぎるし
九州の軍事内政を九州に全委任してたのでは全く女王共立連合が機能してない >>171
民俗学者・鳥越憲三郎が、倭人は江南・雲南からきたと言ってる
下駄があり、赤飯があり、ちまきがあり、鳥居があり、納豆がある
とても無関係とはおもえないと…
おれも鳥越説に賛成だ
下戸遺伝子の分布をみると、江南から多数の人々が畿内や能登半島に渡来したのは事実。
その数も元々の原住民の人数に近いだろうね。 香具山に月が産まれた石がある。
超古代の巨石信仰っぽいけど卑弥呼の時代なのか? >>180
それはない
年輪測定とかであの場所に建てられた時期とか木材採取場所とか木材採取時期まである程度特定されてる 甕棺に見られるようにシナ南部系であったが、
いつ頃からか熊襲(新羅)の跋扈する土地になった。
北部九州の豪族が新羅から贈賄され歯向かった旨記されている。
新羅は日本海側に広く見られた。
新撰姓氏録によれば畿内の諸蕃(帰化人)氏族は326氏で、
漢系163、百済104、高麗41、新羅9、任那9、である。
新羅人は用いられなかった。 当時の支配体制では畿内の朝廷が九州を支配するのは無理ニダ
その後の時代で何か進歩したんかね
有線・無線ができるまで、大差ないだろ
九州説はウンコを食べる >>185
天皇の使者が呉太伯の子孫だと名乗ったことや
鹿児島神宮で呉太伯が祀られてることからも
天皇が呉の王族と何らかの関係があるんだろうなと思ってる そもそも当時日向なんかないからな
律令制ができたころでもまだ土人の巣だったわけだしな
九州説の知恵遅れたちは
そんな基本的な歴史的事実すら分かってない
そもそも神武東征は天孫降臨から179万2740年後
まだ観念世界の継続
現実の世界とは一切関係ない モモソヒメが箸墓古墳に眠るとすると崇神10年頃に亡くなってるから
崇神の即位年にも関係してくる
箸墓古墳は不可解なゴッドハンダー的変遷でどんどん古くなるが
どんなに古く見ても250年頃だろう(アブミなど全然矛盾する遺物が出る点はこの際無理やり不問と仮定する)
そうだとすると崇神は丁度魏への使節団を組織し魏と外交交渉したはずだが、そのような記事が崇神記に全然ない
むしろ異母兄弟か叔父と見られる地元皇族の反乱に四苦八苦して奈良盆地を東奔西走してた時期な訳である
華々しい女王の外交とはあまりにも巨大な差がありむしろ崇神が気の毒に見えるぐらいである
要するにゴッドハンダー的な年代比定に乗っかったとしても奈良中心の土着政権の創業時期で
到底九州に号令したり超大国魏と渡り合うようなパワーは全くない
もちろん纒向からも3世紀の前半、九州との行政・産業の関係を示唆するものはほぼ何も出てこない訳である >>189
封建制度を取り入れていくでしょ?
4世紀頃から徐々に皇族が地方に派遣されてるのが確認できてる 律令制が整った時代になってもの
まだ(朝廷の公民にすらなってない)土人しかいない場所から
どうやって東征するわけ? マジで
九州説の池沼たちがなにいってるのか分からないワケ
日向という地名も景行天皇になるまで、そんな地名すら存在しない 畿内説なんて学説は存在して無いことは証明済み。
はい、論破w http://yamatai.cside.com/katudou/image2/341-02.gif
美濃でセックスしまくってた景行天皇が
貢物よこさないナマイキな熊襲土人を
速攻でしばきにいってたのでも分かるとおり
すでに北部九州はヤマトの支配地域だからな
北部九州の新羅系のチョンコもどきの土人は倭国大乱ですでに一掃されてる
南部九州のクマソ土人は9世紀初頭まで朝廷の公民ですらない 3世紀に畿内と九州が密接に結び付いてたと言う証拠が皆無
畿内の九州の土器は交易で流れてくる程度だと思う
その程度では畿内の王族の権威が九州に及んでたとは言えない 宮崎、大淀川流域、生目古墳群。
円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、ヤマト政権と同じ旗印の勢力が宮崎にいたのが分かる
かなりの労働力(人口集積)があったと思われる
九州北部から船で南へ20日の投馬国だろう
ミミの国
都萬、サツマ >>199
そもそも邪馬台国の後継国は応神天皇の頃までに大和朝廷に滅ぼされたんじゃないか? 魏志倭人伝
> 南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日 彌 彌 那 利 可五萬餘戸
日本書紀 巻第七
> 二曰 耳 垂 。殘賊貧婪、屡略 人民。是居於御木木、此云開。
つまり投馬国は御木
いまの福岡県三池郡あたりと比定できる
この部分について だ け はほぼ間違いない
しかもコイツを 景 行 天 皇 が し ば い て る
つまり魏志倭人伝をどこをどう読んでも
邪馬臺国は畿内しかない
建武中元二年 ⇒ 西暦57年 ⇒ 垂仁天皇86年(皇紀717年)
垂仁天皇 ⇒ 「纒向珠城宮」
景行天皇 ⇒ 「纒向日代宮」 >>203
なら絶対に畿内説とか成り立たないじゃん
律令以前の時代に封建制度を用いずに往復2ヶ月以上かかる地域を支配するのは不可能
畿内説は完全に破綻することになる >>202
実際は100年くらいかかってる(畿内を制圧するまで)
神武もおれは、九州勢力のバガボンド(放浪者・はぐれ者)だと思ってる
『香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡』
http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/0d4526b0139cfe8d47b520326d6862b9
>本年度の調査で、長方形で2本柱という九州地方で一般的な構造とよく似た竪穴住居跡を新たに発掘した。
>九州地方の特徴を持つ壺も出土しており、九州地方から移り住んだ人が同遺跡に住居を建て、生活していたこと
を示しているという。
@香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡
@紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡
↑いずれも直線距離で、8キロから10キロ ゲリラ戦を展開するにはいい距離じゃないか?
↑これこそ、「神武」のひとりだったかもしれない… 低学歴知恵遅れの願望は関係ない
普通に冊封はあったからな
間違いなく主従関係の概念はあった ID:Ayefb+he0
ウンコもぐもぐは、誰か引用してみて 唐古・鍵遺跡に去年位に道の駅できたけど、フードコート系がイマイチやねんな〜。 >>210
単純な主従関係では支配はできないよ
邪馬台国が九州から往復2ヶ月以上もかかるところにあるなら簡単に裏切るわ
俺が当時の九州の王なら畿内にいる卑弥呼とか完全に無視するわ >>215
だってそもそも畿内説なんて学説存在しないしな。 >>133
一属国の伊都なのに厚かましい
奈良推しと同じで妄想だけ >>210
3世紀頃の大和盆地の農業生産力なら九州一国にすら勝てないと思う
3世紀頃は九州に日本の8割の農業生産力があったと言われてるから 畿内の九州統治はゆるい感じだったんだろ
一大卒で軍事的に統治して大倭が税を取るぐらいだよ 畿内説なんてただのファンタジーなんだから、根拠無しにいい張るだけだよなw 源氏鎌倉幕府と足利尊氏幕府みたいなもんじゃないの? >>220
妄想乙w
実際は恐らくその逆。
九州以外の西日本は九州倭国の属国扱いだったんだから。 >>164
これみると、投馬国が水行で行かざるを得なかったのがわかる
陸路だと支配国じゃないから危険 まあ古代史をちゃんと組み直そう。
いまのファンタジー日本史じゃあチョンを少しも笑え無い。
似たようななもの。 >>213
大杉博の本には感銘をうけた
古い本(阿波徳島研究会?)も取り寄せて読んだ
だけど、人口がねえ… >>220
ゆるい感じで百年の倭国大乱を鎮めることができるわけがないだろ
ちょっとは考えろよ 中央集権でも、主従関係はあるわね
国造は豪族がそのまま任命された例が多いが、
その下の県主も、やっぱり朝廷が任命する形になってる
後の武士のような階層構造になってない
県主を直接統制することで、国造が形骸化し、中央集権化が進んだんだと思う まぁ畿内と九州の関係は、元と李氏朝鮮みたいな感じだったみたいだね >>215
だって、主戦場がマスコミを通しての闘声だもの
邪馬台国は纏向で決まり!
世界でBTSが大人気!
ほら、似てるだろ?www >>229
元と高麗のような圧倒的な国力差があればそういうのが成り立つかもしれないが
畿内と九州にそれほどの国力差があったとは思えない
むしろ九州の方が圧倒的に強国 >>177
狗奴国はヤマト王権と関係あったかもな
邪馬台国滅ぼした後に関係もったかもしれないし
何にしても邪馬台国とヤマト王権は無関係だわな 1. 畿内説はファンタジー。学説では無い。これは証明済み。
2. 東征も東遷も存在しない。考古学的に否定済み。神武は存在したが東征したのでは無く、近畿日本に招かれて頭に座った雇われ店長。
3. 記紀は捏造のオンパレード。
4. 魏志倭人伝は、伊都国基点の放射読みが正しい。また、陸行一月は単なる陸行一日の写し間違い。
5. 邪馬台国(山門国)は移動している。卑弥呼の時代は御井で、卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳。また、狗奴国は球磨国で投馬国はtuma国で西都原の妻のこと。 >>230
333名無しさん@1周年2019/05/19(日) 09:25:26.25ID:nljSQmpd0>>365
箸墓は卑弥呼の墓?
奈良県桜井市の箸墓古墳は全長280メートルの初期の巨大前方後円墳で、卑弥呼の墓との説
もあった。ところが、箸墓の周濠から木製の輪鐙(わあぶみ=乗馬の時に使用する足掛け)
が出土した。倭人伝によれば、卑弥呼時代は日本に馬はいない。鐙自体は中国晋王朝時代
(4世紀半ば)に発明され、邪馬台国より時代 が新しい。記紀の記録でも日本で馬の使用は
早くても4世紀後半。畿内説の牙城であった 橿原考古学研究所さえ、箸墓は卑弥呼の墓では
ないと言い出しており(台与の墓とか、台与の 後の男王の墓と言っている)最近は完全にトー
ンダウンしている。畿内説は卑弥呼の墓を新た に見つける必要がある。
箸墓死亡www 低学歴の知恵遅れの願望関係なんか関係なく
まちがいなくぴったり一致する
暦年代 纒向編年 土器出土遺構 対応する土器型式
180年-210年 纒向1類 北溝北部下層 灰粘土層 弥生V様式末
210年-250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3類 南溝南部 黒粘土(1)下層 庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4類 辻地区土坑4下層 庄内III式(庄内新新式) 布留0式
290年-350年 纒向5類 辻地区土坑4上層 辻地区土坑7 布留T式
建武中元二年 ⇒ 西暦57年 ⇒ 垂仁天皇86年(皇紀717年)
垂仁天皇 ⇒ 「纒向珠城宮」
景行天皇 ⇒ 「纒向日代宮」
時代も符号
ぴったり
>>34 ← 鉄もこのとおり >>174
カラコとは古語で干拓した土地
元は沼地などの湿地帯だった
元々の日本列島は平地が少なく、平地も沼地ばかりで雨で冠水する土地ばかり
古い遺跡も昔の海岸線の近く以外は山などの高地にある
沼地を干拓する技術が入ってからようやく平地に住み出すようになる
干拓技術が入ってからだから弥生時代末期移行だろう
それまでは誰も住めない湿地帯 圧倒的に強国のはずの九州が、なぜか大和朝廷に土下座してるでござる >>193
そもそもモモソヒメって結婚してんだろ
その時点で卑弥呼じゃないんだがな >>234
残念ながら弥生時代は米の生産量が九州に片寄ってる時代
畿内から1ヶ月2ヶ月かけて九州に遠征しても畿内の軍では返り討ちに合う 願望ではなく
考古学の知見からの
客観的な検出結果だからな >>240
卑弥呼の後急速に弱体化する。
恐らくは狗奴国が強力だったからだろう。 畿内王朝が米処、筑後川周辺の邪馬台国や外交ルートやチョン南部まで支配下に持ってる九州の土地をほしくなるのはわかるが、邪馬台国側からしたら畿内なんてただのいち地方
それより従属しないクナ国が悩みの種だった。 また低学歴が
九州つおい()を妄想してるわ。。。
九州説は低学歴知恵遅れがかかるオツムの病気 >>199
そもそも九州の邪馬台国とヤマト王権が無関係なんだから、そんな神話の大移動初めからねえよ 低学歴の知恵遅れの願望関係なんか関係なく
まちがいなくぴったり一致する
暦年代 纒向編年 土器出土遺構 対応する土器型式
180年-210年 纒向1類 北溝北部下層 灰粘土層 弥生V様式末
210年-250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3類 南溝南部 黒粘土(1)下層 庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4類 辻地区土坑4下層 庄内III式(庄内新新式) 布留0式
290年-350年 纒向5類 辻地区土坑4上層 辻地区土坑7 布留T式
なにが願望なわけ?
纏向の発掘進捗は5%もいってない
これだけでもこんな広範囲な年代の遺物が検出されてる
チンカスみたいな九州の土人遺跡集落とは規模が違うからな 残念ながら広域国家なら、九州の生産量なんか楽に越せる
大体、小国乱立状態だろ
南には熊襲や隼人もいるし 神武東征
古事記では
日本統治のために本拠を東(大和)へ移そうという提案をし
宇佐(大分)、岡田宮(福岡)、安芸(7年)、
吉備などを経て高嶋宮(岡山)に入り、
8年もの準備期間の後に大和(奈良県)に入る。
しかし
大阪から大和に入ろうとするが阻まれ、
熊野に廻って大和入りを目指すが、
ここでも苦戦がつづき、兄弟を失い自らも重症を負う。
ようやく高天原からの支援(神剣を贈られる)により
大和入りを果たし、橿原宮で即位する。(古墳:橿原神宮)
つまり
大和には「狗奴国」を退ける巨大な勢力があった事になる
卑弥呼が亡くなったのは
魏志倭人伝によると248年
その死の直前に、
狗奴国王との争いがあったことが魏史に記されている >>208
(横だが)
魏志倭人伝を読み解くと、3世紀頭、漢滅亡の混乱期に倭国大乱が起きてて、
つまり、朝貢秩序の途切れたスキに、列島で権力の遷移が起きてるのが判る。
この大乱で邪馬台(やまと:九州だな)が負け、男王を禁止=権力を放棄
させられてる。 この時、奈良が新覇権国になったと思われる。
その昔、漢の時代には、邪馬台(やまと)が覇権国であったと考えられるが、
自ら朝貢せず、隷下?の奴国(博多)に朝貢させてたわけだが、
今度は、倭国大乱で勝った奈良が、負けた邪馬台(やまと)をして、
表向きの「倭国盟主」として、魏に朝貢させたわけだ。
つまり、この倭国大乱で、朝貢秩序と大陸との地理的優位性によらず、
実力で列島に君臨できる権力が誕生したのが分かる。 しかも邪馬台国って軍事力で九州支配したんじゃないからな女王共立だぞ
なぜ九州の平和のためにわざわざ九州から数百キロ離れた僻地の畿内のわけのわからん女を女王にするんだよ
その女に会いに行くだけでも数ヵ月かかるぞ
女王に会いに往復してる間に祖国が滅ぼされてしまうかもしれん >>254
3世紀に統一王朝とか、馬鹿ココに極まれりw >>251
日向国都萬(つま、都萬神社周辺、現西都市妻地区
164のマップみるとそのあたりの出土は特出、北九州から水行したはず 日本の古代史を正しく組み直すべき。
1. 畿内説はファンタジー。学説では無い。これは証明済み。
2. 東征も東遷も存在しない。考古学的に否定済み。
神武は存在したが東征したのでは無く、近畿日本に招かれて頭に座った雇われ店長。
3. 記紀は捏造のオンパレード。記紀は単なる旅行譚を征服劇に脚色捏造した。これが記紀が書かれた本当の理由。記紀が編纂される前に焚書が行われているが、これはそれが理由。、
4. 魏志倭人伝は、伊都国基点の放射読みが正しい。また、陸行一月は単なる陸行一日の写し間違い。
5. 邪馬台国は山門国。山門が発祥の地だから。邪馬台国は移動している。卑弥呼の時代は御井で、卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳。また、狗奴国は球磨国で投馬国はtuma国で西都原の妻のこと。また、妻国=囎唹=隼人。
6. 神武は隼人出身。天孫降臨は、血は繋がっているが単なる傍系である神武の血を飾るために作られた捏造。
どうみても記述では
卑弥呼:倭姫命(ヤマトヒメ)(初代斎王)
台与:豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)
コレですべて辻褄があう
※ 伝承によって記述が逆になった
卑弥呼:豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)
台与:倭姫命(ヤマトヒメ)(初代斎王)
だったのが伝承で変な伝わりかたして
記述の内容が逆になった可能性が高い
つまり、トヨスキイリヒメの時代に倭国大乱がおきてる
> 其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿
つまりこの部分
卑弥呼の時代、
すでにチンカスの北部九州の土人地域は大和朝廷の版図内
新羅系のチョンコもどきの土人は
倭国大乱で駆逐されたあと >>248
477 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2016/09/02(金) 17:02:04.88
仮説からくる自論だからね。。オハナシにならない
247 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/03/31(金) 23:27:42.19
つい先日おバカな九州説じいさんが
九州説支持者が圧倒的に多いという現実だー!と叫びながら持って来たアンケート
http://v-183-181-162-19.ub-freebit.net./wakoku/surveys/top
の現実が、あらまあ
回答者の72.7%が自称「マニア・在野研究家」であったという
笑えすぎる現実
↑シュリーマンの例の発掘も、「仮説からくる自論」
「仮説からくる自論」を軽んじてはならない…
なぜか、差別主義者が多い畿内厨
なぜか、権威主義者が多い畿内厨 畿内説の人は九州の平和をどうやって畿内から維持したと思ってるんだろうか 銅鐸廃棄は高地性集落と併せて武力闘争との関連をメインに
大規模な土器の移動も奴隷労働力の移動を先ず考察すべきで
史書が皇統起源や支配の正当性の宣言なら、疑うべきは東征ではなく畿内中心史観なのだが
畿内説は、神武が卑弥呼に変わり紀元前660年が3世紀に変わっただけで戦前の皇国史観と
本質は何も変わらない あと、不弥国は宇美国。ただし今の宇美の位置では無く福岡市東区のあたり。
海の中道とは「宇美の中道」のこと。 卑弥呼の後に九州が乱れて、負けた投馬国のおっさんが近畿に流れて全国制覇したんの? 「今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り、身体に入墨をして大魚や水禽を避けていたが、後には飾りになった。」
「土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。」
大和よりは九州の描写という感じだなあ >>268
あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27 臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 ID:Bis4CfpZ0
ID:nljSQmpd0
ウンコ臭い >>270
不弥国は方角、距離から考えて那珂川町、春日市方面だよ。 魏志倭人伝当時一大卒を設置して九州北部を支配下に置いていたのは瀬戸内海の勢力
博多には播磨など瀬戸内海の土器が多数出土している
吉備はヤマトの卑弥呼を共立した勢力の一つだったんだろう
纒向遺跡からも吉備系の土器が多数出土している
吉備は元々九州北部に進出して大陸の鉄利権を目指し、その後卑弥呼共立に加わって、近畿地方征伐に加担したんだろう 河内や摂津の大規模な水田開発は4世紀5世紀から
卑弥呼の時代に近畿地方は米がほとんど取れない 日本の古代史を正しく組み直すべき。
1. 畿内説はファンタジー。学説では無い。これは証明済み。
2. 東征も東遷も存在しない。考古学的に否定済み。
神武は存在したが東征したのでは無く、近畿日本に招かれて頭に座った雇われ店長。
3. 記紀は捏造のオンパレード。記紀は単なる旅行譚を征服劇に脚色捏造した。これが記紀が書かれた本当の理由。記紀が編纂される前に焚書が行われているが、これはそれが理由。、
4. 魏志倭人伝は、伊都国基点の放射読みが正しい。また、陸行一月は単なる陸行一日の写し間違い。
5. 邪馬台国は山門国。山門が発祥の地だから。邪馬台国は移動している。卑弥呼の時代は御井で、卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳。また、狗奴国は球磨国で投馬国はtuma国で西都原の妻のこと。また、妻国=囎唹=隼人。
6. 神武は隼人出身。天孫降臨は、血は繋がっているが単なる傍系である神武の血を飾るために作られた捏造。
7. 不弥国は宇美国。ただし今の宇美の位置では無く福岡市東区のあたり。海の中道とは「宇美の中道」のこと。また恐らくは、海は宇美から来ていて、元々は博多湾のこと。
侏儒国は高知西部の幡多(はた)のこと。侏儒とはスクナビコナのことで、ワダツミとは「幡多つ宇美」のこと。
東海 54,400 ← 大和朝廷の版図内(景行天皇が美濃でセックスしまくってる)
畿内 30,200 ← 大和朝廷の版図(そのまんま)
畿内周辺 70,300 ← 大和朝廷の版図(そのまんま)
山陰 17,700
山陽 48,900 ← 大和朝廷の版図(チョンコとクマソをしばきにいくために九州北部まで行軍してるから当然)
北九州 40,500 ← 大和朝廷の版図(チョンコとクマソをしばきにいくために九州北部まで行軍してるから当然)
南九州 64,600 ← 大和朝廷の版図外(班田収受で隼人の乱がおきて鎮圧するまで放置)
九州土人(プッ >今、倭の漁師も好んで水にもぐって魚や蛤を捕り
九州である必要性ないじゃん
ハマグリ
1位 茨城県 579t 66.8%
2位 熊本県 106t 12.2%
3位 千葉県 82t 9.5%
4位 三重県 60t 6.9%
5位 大分県 13t 1.5% >>273
いや、大和朝廷は魏志倭人伝に出てくる国とは
一切関係ない
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種
可能性があるのは、この和種くらい >>273
投馬国が任那になり、その後滅亡し
任那に住んで居た住民が日本列島に移住してきた
九州では住む所が無く日本列島を東へ移住
最後に関西にやって来たのが神武。 卑弥弓呼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%BC%93%E5%91%BC
卑彌弓呼(ひみここ、生没年不詳)は、
『魏志倭人伝』に記録される狗奴国の男王
3世紀の倭国(現在の日本)の人物である
崇神天皇陵(行燈山古墳) 【天理市】←※【重要(狗奴国の国王の墓が奈良の天理に実在)】
古墳は全長約242m
築造された年代は4世紀後半(古墳時代前期後半) という訳で何も出ないのでいよいよ畿内説も苦しい訳である
昔教科書では最大の論拠の如くであった三角縁神獣鏡も
日本中で山ほど出るありふれた鏡と判明しもはや誰も触れない
モモソヒメの古墳とされる箸墓古墳も年代比定が極めて不可解だし
仮に卑弥呼の死去と時代が合うと仮定するとしても
それなら王都にふさわしい遺物が3世紀の前半の纒向からどんどん出るはずだが何もない
むしろ九州まで号令する王都であったとの見方を支えるような纒向遺物が皆無である
土器の方も3世紀の前半の庄内式は西日本全域で作られたありふれた製法
と判明し全く畿内王権の分布の証拠にならない
最初から畿内に3世紀の前半の九州を統べた王都有りとの思い込みが狂っていたのである >>284
渡海千餘里は80kmくらだから
この倭種は関西ではなく中国地方の人。 1. 畿内説はファンタジー。学説では無い。これは証明済み。
2. 東征も東遷も存在しない。考古学的に否定済み。
3. 記紀は捏造のオンパレード。
4. 魏志倭人伝は、伊都国基点の放射読みが正しい。また、陸行一月は単なる陸行一日の写し間違い。
これが骨子ね。後は全部自動的に出てくる。
>>166
なぜ最古の文字が和歌山なんすかね
九州(苦笑) >>279
壱岐、対馬、松浦等が女王国以北だから女王国はその南の北部九州だよ。 邪馬台国(九州)と対立してた狗奴国って出雲国(島根)か吉備国(岡山)じゃないの?
倭国大乱の痕跡や鉄の生産ができた軍事強国だったことからも狗奴国は古代出雲国じゃないのかな >>281
で、九州からそれ以後の時代の文明の爪跡すら出ない事の説明は? >>292
関係ないよ
未だに皇国史観を持ってる人が大和朝廷と繋げようと騒いでるだけwww コレが定説
九州説の珍説なんかだれも相手にしてないワケ
時間と空間の設定―神武東征と即位― そのカムヤマトイワレヒコは
よき地をもとめて日向から大和へと東征し、磐余宮で即位して初代の神
武天皇となる。これは地上における大和という地理的な特定地点の由来
を説明する物語である。ここで最重要の主題は、 神話から歴史への転換、
つまり、人間としての神武天皇という存在の位置づけである。そして
もう一つが現実的な空間的地理と時間的年代の設定である。時間につい
ては天孫降臨から一七九万二七四〇年余が経過したといい、東征の開始
の年を「是年、太歳甲寅」とし出発の日を「冬十月丁巳朔辛酉(五日) 」
としている。そして、橿原宮に即位した神武天皇元年が、辛酉年の正月
庚辰の朔(西暦への換算では紀元前六六〇年)としているのである。空
間については、出発地を九州の日向として瀬戸内海を通過し浪速、河内
から紀州へと旋回して熊野から大和の東部山中の菟田に出てそこから西
方に向かって大和盆地へ入る、という地理的関係を設定している。
ここで重要なのは大和盆地という現実的な王権発祥の土地であり、出
発地の日向については神話的な構成の産物にすぎないという点である。
先の一七九万二七四〇年余という時間が歴史時間として虚構であるとす
るならば、同時にこの日向という空間と地理も神話的な構成によるもの
である。それは、 『日本書紀』第9段の天孫降臨の一書〔1〕で、天孫
降臨の地が「筑紫の日向の」高千穂のクジフル峯であるといい、 『古事
記』でも同様で、 さらに「此地は韓国に向ひ、 笠沙の御前を真木通りて、
朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、故、此地は甚吉き地。 」と表現
されていることからも明らかである。 「筑紫の日向の」小戸の橘の檍原
に至りまして、という言い方は、三貴神の誕生を記す『日本書紀』第5
段の一書〔6〕でも、『古事記』でも同じくみられる表現であり、この「筑
紫の日向の」という表現こそが重要な伝承である。その筑紫は地名であ
り日向はその筑紫における太陽信仰に関連する呼称である。それについ
て現実上の日向国という地理的認識を与えたのは、国郡制などが整備さ
れたのちのことであり、記紀編纂の最終段階であった可能性が高い。つ
まり、一七九万二七四〇年余という時間と日向という空間とは現実の時
間と空間ではなくまだ神話の中での伝承情報と考えるべきなのである。 九州から奈良に移ったんだよ
神の国・日本列島の端っこにいた無名の八幡神が
破竹の勢いで立身出世して畿内(中央)を掌握した歴史が
邪馬台国は最終的に奈良だった証左だ
地方都市に本社を持つ企業が成長して東証一部上場企業になると
東京に本社を移すのと同じだ
かつて奈良は今の東京のような存在だった(´・ω・`) 八幡神ってな
元をたどれば
新羅系のチョンコもどきの土人が信仰してた神だぞ >>297
ローカルすぎる
畿内とか無縁すぎる
まぁあの時代に軍を何百キロも遠征できないわな 邪馬台国→山門国
狗奴国→球磨国
投馬国→妻国
不弥国→宇美国(ただし福岡市東区辺り)
侏儒国→スクナビコナの国で高知西部の幡多のこと。ワダツミは「幡多つ宇美」
こういうこと。 >>257
現代日本人が日本列島全体に定着する前だしなw
統一王朝とか無いよな、無理だな。 八幡神って、応神天皇なのに
九州説はウンコを食べる 新羅本記でも倭人が
新羅にどんどこ責めてるのに
北部九州の行軍なんかへでもない 田能とか池上曽根とかあるだろw
だいたい唐古・鍵のスレなんだからちょっとは弥生時代の実像を捉えてからレスしろよw 八幡神は元をたどれば普通にスサノオだからな
低学歴はホントに一般教養が皆無
コレもまともな教育を受けてないことに由来する >>257
「覇権国」と書いたんだが、お前、馬鹿ココに極まれりだな。
今の世界で例えれば、アメリカがいつ世界を統一したのか?
ん? どうした? >>300
邪馬台国には九州の倭国大乱を平定する役割があったのに畿内にわざわざ移す意味がわかりません 半島は、ツングースの南進神話だよな
樽悶 ★
↑
うんこ美味しいチョン(確
w >>304
それは違うね
投馬国→朝鮮半島南岸
邪馬台国→九州北部
狗奴国→九州南部
伊都国→糸島市東南部(女王国卑弥呼の都)
奴国→福岡市周辺
不弥国→那珂川町、春日市
侏儒国→四国の何処か 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳。
法律エッセイとして異例のベストセールスを続けた名著を
手軽に読みやすく。短編×100話なので気軽に読めます。
法窓夜話私家版 http://pesc.pw/HFPRH
(続)法窓夜話私家版 http://pesc.pw/H7DJW
kcl あと裸国、黒歯国とはハワイのこと。東日本大震災の震災瓦礫が丁度一年でハワイへ到着している。
スクナビコナは恐らく幡多に漂着したポリネシア人。 >投馬国
これはダジャレ(音の類似)で考えるのじゃ。
イズモ、イが消えてスモになる。
スモとツモ。
これが投馬=出雲説。
水行という条件もクリア。
わりとポピュラーな説。
1. 畿内説はファンタジー。学説では無い。これは証明済み。
2. 東征も東遷も存在しない。考古学的に否定済み。
3. 記紀は捏造のオンパレード。
4. 魏志倭人伝は、伊都国基点の放射読みが正しい。また、陸行一月は単なる陸行一日の写し間違い。
これが骨子ね。後は全部自動的に出てくる。
>>294
投馬国から倭人(渡来系弥生人)が来たんだよ。 日本人は朝鮮人だという事は言語学や民俗学ではずっと指摘されてきた
ネトウヨ系の人たちは火病って否定してきたが、ゲノム解析でも日本人が朝鮮人だと証明された
畿内(日本の中央)は髭が薄く、彫りが浅い顔が多い
皇族がその典型だ
これは朝鮮人だ
比して、沖縄やアイヌは髭が濃くて堀が深い日本人離れした顔をしている
阿部寛がその典型だ
これは先住民である縄文人だ
しかし、九州は日本の端っこなのに朝鮮顔が多い
それは朝鮮人が日本に上陸した時、九州を橋頭堡にしたからだ
そして、知能の低い縄文人を駆逐して勢力拡大すると共に中央である奈良へ進出した
卑弥呼は朝鮮人だ
その後も天皇が卑弥呼を征したが、その天皇も朝鮮人だ
先住民である縄文人ら沖縄とアイヌはずっと敗者のまま21世紀を迎えた
もののけ姫のアシタカとサンとエボシは縄文人なのだ
あの物語は縄文人が朝鮮人の圧倒的な力と抗う物語でもある 九州が荒れて、倭国大乱
( ´,_ゝ`)プッ( ´,_ゝ`)プッ 東の夷人雑類はコイツラ
田舎もんは朝廷の公民ですらなかった夷人雑類
北部九州、山陰、北陸 (つまり新羅系のチョンコもどき)
↓ ↓ ↓ (倭国大乱で東へ北へと追いやられる)
関東 東北
↓ (征 夷 大将軍の 坂上田村麻呂にさらに北へと追いやられる)
東北
東北にも古い八幡神社があるのはなんでか
もう分かるな >>279
今でも瀬戸内海なんて陸の孤島なのに
制覇したなら住みやすい
筑後川へいきますやろな ID:Bis4CfpZ0
樽悶 ★
↑
うんこ美味しいチョン(確
w >>325
そう。博多の奴国と筑紫平野の邪馬台国との勢力争い。 >>314
大乱を平定すれば中央へ進出して天下統一を目指すのは
人間の行動原理だ
信長だって尾張を平定したから天下布武を掲げた >>321
倭人伝の順番と異なるね
何故に経路が戻るんだろ >>280
稲作はBC400年には畿内一帯にありました >>335
弥生時代の奈良なんて、中央でもなんでもない
ただの田舎 ID:Bis4CfpZ0
樽悶 ★
↑
うんこ好きだよなチョンww >>316
間違い。
邪馬台国→山門国
狗奴国→球磨国
投馬国→妻国
不弥国→宇美国(ただし福岡市東区辺り)
侏儒国→スクナビコナの国で高知西部の幡多のこと。ワダツミは「幡多つ宇美」
こういうこと。 >>328
宮崎駿の場合はアニメだと馬鹿にできんよ 畿内には女王国の名残がひとつもない
シャーマンなのに
シンボリックな三輪山は女人禁制 >>335
日本史を通じて九州なんて、中央でもなんでもない
ただの田舎 邪馬台国は九州で、ヤマト政権は近畿だと思う
或いは魏の使者が近畿政権の九州の出先機関まで行っただけ >>335
あのさぁ
当時の畿内とか僻地だぞ?
米もほとんど取れないゴミのような地域
楚漢で言えば巴蜀
三国志で言えば西蜀
戦国時代に米処だった美濃とはわけが違う 暦年代 纒向編年 土器出土遺構 対応する土器型式
180年-210年 纒向1類 北溝北部下層 灰粘土層 弥生V様式末
210年-250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3類 南溝南部 黒粘土(1)下層 庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4類 辻地区土坑4下層 庄内III式(庄内新新式) 布留0式
290年-350年 纒向5類 辻地区土坑4上層 辻地区土坑7 布留T式
纏向の発掘進捗は5%もいってない
これだけでもこんな広範囲な年代の遺物が検出されてる
チンカスみたいな九州の土人遺跡集落とは規模が違うからな
卑弥呼の時代
奈良には超巨大な帝都があったからな
新羅系のチョンコもどきが群がってた未開の土人地域の北部九州に
そんなんあったの? あまりいいたくないが
古墳がたくさん作られた奈良あたりは
奴隷がたくさん塚の周辺に住みついてたはず
奈良の人はまず自分のルーツを探ろう
もしかしたら箸墓を作った人がご先祖様かも >>351
その巨大な帝都が負けそうになる
狗奴国ってドコ? >>338
それは小規模な生産跡な?
弥生時代の大阪平野は一面萱に覆われた湿地帯 倭の五王の存在、九州歴の存在、「筑紫の君」と呼ばれていた磐井の存在、神籠石の存在、、、
跡だらけだキチガイ野郎w >>338
関西では縄文系弥生人が稲作を古墳時代の初期まではしてたね。 倭の五王の存在、九州暦の存在、「筑紫の君」と呼ばれていた磐井の存在、巨大な太宰府政庁の存在、神籠石の存在、、、
跡だらけだキチガイ野郎w
奈良県の住居跡は山裾に限られてるからね。
中心部は低湿地帯で住居跡はほとんどない。
従って稲作も少なく、人口も少ない。
大和国の人口を見ると、平城京のときに
30万人を超えているが、それ以外は13万人ほど。
本来の大和国の生産量はそれくらいということだ。 >>352
大和朝廷が成立したのは701年、8世紀からだね。 九州南部が朝廷の支配が及ぶようになったのは
班田収受法にさからって隼人の乱がおきてから
律令の時代になってからも
ずっとあとのこと
隼人の乱がおきる前ははっきりいって
朝廷の支配が及ばなかった地域といっていい
隼人の乱を鎮圧されて、しばらくたって公民と認められてから
班田収受法が適用されるようになった
当の班田収受法自体は制度がひどすぎて
すぐに制度崩壊がおきる
それまで九州南部の土人は
大宝令の賦役令にもあるように
朝廷の公民ですらない
土人扱いだからな
↓このとおり
凡邊遠國。有夷人雑類謂。夷者夷狄也。雑類者夷之種類也。釋云。夷。東夷也。挙東而示餘。推可知雑類。謂夷人之雑類耳。
古記云。夷人雑類謂毛人。肥人。阿麻彌人等類。問。夷人雑類一歟二歟。仮令。隼人。毛人。本土謂之夷人也。此等雑居華夏。謂之雑類也。
一云。一種無別。 之所。應輸調役者。随時斟量。不必同之華夏。謂。中國也。
で北部九州については
はすでに卑弥呼の時代、大和朝廷の版図内 >>350
かつての北米もそうだった
その僻地をアングロサクソンが開拓した
そう、「開拓」である
東京だって古代から中央だったわけではない
人間が「開拓」しないのならば、今でも首都は九州のはずだ 九州説ってのは、まあ、ファンタジーの一種だな
源義経がチンギスハンみたいな
ロマン系ファンタジー マジレスすると大和朝廷が開墾しまくった後の奈良時代になっても畿内の米の生産力は九州に負けてる
倭の五王の存在、
九州暦の存在、
「筑紫の君」と呼ばれていた磐井の存在、
巨大な太宰府政庁の存在、
神籠石の存在、、、
跡だらけだキチガイ野郎w
倭国大乱のメインプレーヤは、
・九州やまと(邪馬台)
・出雲
・奈良
自分の予想では、九州やまと(邪馬台)+出雲 vs 奈良 の大枠で戦われた。
結果、おそらく出雲が滅んだ。これで九州やまと(邪馬台)は万事休す。
男王禁止を受け入れ(卑弥呼即位)、列島覇権国の地位を奈良に明け渡した。 ○倭の五王の存在
×九州暦の存在 ねえよ、ウンコ
○「筑紫の君」と呼ばれていた磐井の存在 「君」のつく国造なんか、いくらでもいる。皇統ね
○巨大な太宰府政庁の存在 大和朝廷の出先機関
○神籠石の存在、、、 瀬戸内海にもあるけど、何なの?
で、何? >>369
博多の奴国が抜けてる。
ツクヨミのことな。 >>369
倭国大乱は北部九州内の乱だからそれ以外の地域は関係ないの。 >>369
残念ながら2世紀の戦乱の痕跡は九州から山陰にかけての地域に限定されており
2世紀に畿内で戦乱があったという痕跡はほぼ見つかっておりません
倭の五王の存在、
九州暦の存在、
「筑紫の君」と呼ばれていた磐井の存在、
(中央政府?に「反乱」したはずなのに、存続してるとかwww)
巨大な太宰府政庁の存在、
神籠石の存在、、、
跡だらけだキチガイ野郎w
>>369
倭国は、周囲5000里と魏志倭人伝にある
せいぜい、北部九州 天智天皇は長く太宰府で政務を取り
白村江で大敗北をして近江大津京に、疎開する。
奈良時代直前には、畿内勢力も
力を持っており、大敗北で弱体化した
天智天皇勢力を駆逐し大和朝廷を設立する。
しかし天智天皇の九州の旧勢力も
国力ではものすごくて、
入れ替わった天武天皇勢力を
再び駆逐し、天智系に戻される。 滋賀県大津市のびわこ競艇
人気ボートレーサー
44歳守○俊介
空港でのSNS投稿画像
回転寿司でお茶の粉末で富士山
不適切な画像投稿多数のSNS
https://i.imgur.com/PzSRjFQ.jpg
https://i.imgur.com/mh3tsyl.jpg ID:Bis4CfpZ0
樽悶 ★
↑
うんこ好きだよなチョンww
。。。 潰しあったか共立したか
この差が大きい
祭祀は畿内に引き継がれ九州は弱体化した
鏡の出土やその後の古墳の分布がその根拠だが、全ての始租が畿内なのは間違い
その両者を仲介した海人系倭人の活動を見過ごしてはならない
彼らは交流で文化を広めネットワークを構築した >>164は九州説が得意の詐欺なのに
その詐欺にあっさり騙されてしまう>>258は将来オレオレ詐欺に遭うだろうな 太宰府政庁ってもう跡しか残って無いが、これが巨大なんだよなw
あと、水城も巨大で、位置的に太宰府政庁の防御だけが目的で作られたとしか考えられない。
あの巨大な防衛施設を。 >>369
倭国大乱は九州ローカル
邪馬台国は倭国大乱後にできた国だからどう考えても九州
畿内には邪馬台国とは関係のない全く別の国があったと思われる >>364
九州が沖縄を侵略して、東京を侵略して、東日本を支配して
アメリカに攻撃して日本を滅ぼしたんですよ
米軍基地が横須賀と東京に在るのは
日本で一番安全なのが東京だから >>344
極端な女性忌避の傾向をもつ仏教が最初に日本にもたらされたとき、
『本邦最初の出家が女性(善信尼)』たちであったという事実は、
まことに注目すべきことである。これは、大隅も指摘しているように、日本の土着信仰においては、
神の<よりまし>となるのが女性であったという理由からであろう。このことは、
日本において、仏教がはじめはその呪術的な面が重んじられて受け容れられた事実を反映していると思われる。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yumeiki9.html
ぜんしんに【善信尼】
日本最初の尼僧。六世紀後半頃の人。司馬達等の娘で俗名は島女。
排仏派の圧迫の中で仏教を守り、のちに百済に渡って戒律を学び、
帰国後、『大和(やまと)(奈良県)桜井寺』に住して尼僧を度した。
https://kotobank.jp/word/%E5%96%84%E4%BF%A1%E5%B0%BC-88421 【畿内厨】
歴史に無知&ネットを庶民のSNS(電通)程度に思っていて
記紀を丸々信じ
紀元前から奈良に巨大王朝があったと思い込んでる
基地外 そりゃ、大宰府は最前線だから
そんなところを都にするか 水城を見たら、あの巨大な防衛施設をただただ太宰府政庁を守るためだけに必死になって作られたのが直ぐ分かる。
太宰府が九州倭国の都だったからだ。
熊襲は
あとの時代になって
大和朝廷に恭順してるのを示すために
イヌみたいにおなか出して
おちんちんびろーんしながら
隼人舞踊る
コイツラは北部九州にいた土人とは
また別種だからな ID:Bis4CfpZ0
樽悶 ★
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うんこ好きだよなチョンww
zzz
単なる出先機関に過ぎない一地方政治機関を守るために、
あんな巨大な水城など作らない。
畿内説が如何にキチガイかの一つの証拠。
あれは明白に、ただ太宰府政庁を死守するために無我夢中で作ったもの。
>>368
やまと(邪馬台)は、起こりこそ、その名(やまと=山+戸(門))の通り
山手(盆地)のクニだろうが、その最盛期には、九州北部を広く支配し、
地政学を考えれば、政治・軍事の拠点を大宰府に置いたのは、自明かな。
倭の五王は、違う。
4世紀、奈良がやまと(邪馬台)を滅ぼしその権威を奪い、大和朝廷に。
調子に乗って半島で暴れていたが、5世紀頭に高句麗との戦争で負ける。
これで危機感を募らせ、半島利権を安んじようと、南朝(華北は混乱中)に
慌てて朝貢し出したのが倭の五王だわ。(※ 五王とは、歴代の五王。) >>353
第225回活動記録 神武天皇陵の謎 菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)
はその著書のなかで、洞村(被差別部落)の区長宅で多くの老人たちから聞いた
洞村内部の話を次のように伝えている。
洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は
街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上で ...
yamatai.cside.com/katudou/kiroku225.htm - 13k - キャッシュ - 関連ページ
↑うちらの先祖は九州から神武にくっついてここに来たという伝承をつたえる >>393
そうね。
倭国大乱は奴国(ツクヨミ)と筑紫平野の邪馬台国(アマテラス)の戦い。 >>381
ヤマトという地名も北部九州から移った
考古学者・森浩一、最後のインタビュー(足立倫行「倭人伝、古事記の正体」2012)
伊都国の平原古墓は、すべての銅鏡が破砕して墓に埋納されていたことで有名ですが
奈良県桜井市の前期の外山茶臼山古墳でも、2009年の再調査で、実に81面の
銅鏡が埋納され、ことごとく破片だったことがわかりました、2つの墓は
100年ほど年代が隔たっていますが、弥生時代の近畿には墓へ銅鏡を入れる風習も、
その銅鏡を割る風習もなかったことを考えると、北部九州の強い影響は明らかです
また「魏志倭人伝」では、中国人が倭地の朱や丹に関心を持っていたことが記されていますが、
伊都国の平原古墓や井原鑓??溝古墓では棺の中に大量の朱が使われました
近畿でも、前期の前方後円墳では遺骸の周囲に朱を撒くことが知られており、
奈良天理市の大和天神山古墳では約40キロもの朱がキビツに埋納されていた
これなども、北部九州からの風習の伝播でしょうね
そもそも、ヤマトという地域名、いずれ国名になる名称自体が北部九州からの東遷の結果です >>353
かつて塚は神聖であった
村上春樹の1Q84で大塚環という女性が出てくるが、
これは塚(古墳)と環(輪廻転生)のメタファーだ
日本人にとって塚は禍々しいものではないのだ >>391
太宰府を守る為に大野城・基肄城・鞠智城や神籠石式山城が多数造られてるからな
太宰府が九州倭国の都だったのは確かだな。 ID:Bis4CfpZ0
ID:gdAqwy6v0
ID:OlXnuzDm0
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倭の五王の存在、
九州暦の存在、
「筑紫の君」と呼ばれていた磐井の存在、
(中央政府?に「反乱」したはずなのに、存続してるとかwww)
巨大な太宰府政庁の存在、
神籠石の存在、、、
跡だらけだキチガイ野郎w
ID:Bis4CfpZ0
ID:gdAqwy6v0
ID:OlXnuzDm0
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xxx >>396
支配地域が大きくなればなるほど
一番防衛に力を入れるのは海外と接点となる場所 畿内説の人って卑弥呼が畿内で祭祀をしてその力で往復3ヶ月かかる大乱中の九州を平定したとかマジで信じてるの?
畿内説の人の頭のなかでは卑弥呼って何者なんだよ
畿内説ってもはや宗教としか言いようがない ところで卑弥呼の外交を見てみよう
畿内説ではほぼ触れないが卑弥呼の外交は天才的で、中国の歴史にも残るものだ
まず黄巾の乱後に遼東から朝鮮北部までに半独立状態を作った公孫氏が問題になる
そもそも遼東は鉄の一大産地であり、更にその交易中心である楽浪まで公孫氏が占拠したから
卑弥呼は横暴な公孫氏から安定して鉄を輸入するには苦労したと思われる
この公孫氏が魏に謀反を企て魏の名将司馬懿との激戦となる
これに勝利した司馬懿の下に即座に卑弥呼が使節団を送ったので
司馬懿はこれを見て我が徳の現れであると大変上機嫌になったという
峻烈苛酷な性格で知られる司馬懿に好感を抱かせた卑弥呼の外交手腕は
日本史上に残る快挙ではないだろうか
しかし今度は公孫氏討伐にも参加した高句麗の東川王が反乱を起こす
高句麗も吉林から北朝鮮方面を占拠してたので鉄の交易に大きな障害になったと思われる
この時期卑弥呼と魏は盛んに使節団を往来させている
これも高句麗の脅威から友誼を固める必要があったのであろう
そして卑弥呼の死去により交流は途絶えたと見られる
要するに東アジア北部の激動の時期に司馬懿と渡り合い友誼を結んだ卑弥呼は日本史上に残る外交をした
その背景には朝鮮経路でしか入手できない鉄の確保があった
もし卑弥呼でなければ気難しい司馬懿と友好を結べたか極めて疑問である
さてこれほどの国際感覚を具えた稀に見る才女が奈良の地方政権にいたのであろうか
モモソヒメはあくまで崇神にアドバイスする霊能者に過ぎない >>383
太宰府が作られた頃には関西には太宰府規模の都市は存在していないからね。 >>391
太宰府がそのようになってるのは防人からもわかるだろ
大陸からの侵攻に対抗する防衛拠点だからだ
単なる出先機関に過ぎない一地方政治機関を守るために、
あんな巨大な水城など作らない。
畿内説が如何にキチガイかの一つの証拠。
あれは明白に、ただ太宰府政庁を死守するために無我夢中で作ったもの。
太宰府は土人がワルサしないか
監視するとこだからな >>391 402
又東至秦王國。其人同於華夏、 『隋書』倭国伝
↑そこにいたのは、シナ人だった
九州東北部の神籠石のある地域だ
そこが邪馬台国だ
秦氏の根拠地…
隋書倭国伝
彼 裴世清が見た「夏人(シナ人)」の国とは
卑弥呼の居城、福岡県の京都郡の神籠石 御所ケ谷のことな
卑弥呼以後、新羅文化の流入が大きくシナ人化したようだ
裴世清からみればシナ人とみえておかしくない
5-6世紀に建設された神籠石と3世紀の邪馬台国とは関係ないとの反論もあるが、200-300年程度で国(国邑)の配置が
大きく変化することはないし、神籠石が5-6世紀に建設されたとする根拠も希薄なものである。 水城は1200m×80mに加えて、周囲の
丘の隙間を埋める小水城もある。
太宰府を守る以上、中途半端に隙間を開けておくと防衛にならんからな。 >>400
そう。名称だけが東遷したのである!
東遷神話では、東遷前の、天皇の祖先と位置付けられたその人達は、
みな、神々にされてしまってる。 要するに、滅ぼされたわけだ。
九州やまと(邪馬台)の王族は、皆殺しにされてしまったということだな。 >>413
水城は始めは3世紀に造られてその後2回改修されてるんだ
最後の改修は7世紀。 >>366
だからこそ、地母神信仰になったのだろう
朝廷が開墾しまくっても米の生産量が芳しくない
当時の民にとっては地母神は崇拝すべき存在だった
あの巨大な水城は、ただただ都である太宰府を守るためだけに、後先考えずに無我夢中で作ったもの。
現物見りゃ直ぐ分かる。
大和朝廷が一番力を入れたのが北部九州
武器庫でもあっただろうし
一番信用のおける兵隊を送り込んで
裕福に暮らさせてたと思う
都では鉄は反乱の元になると所持を禁止した
現代の銃刀法と同じ
平和なところほど要塞は必要なく
殖産に力を入れる必要もない >>420
単なる出先機関に過ぎない一地方政治機関を守るために、
あんな巨大な水城など作らない。
畿内説が如何にキチガイかの一つの証拠。
あれは明白に、ただ太宰府政庁を死守するために無我夢中で作ったもの。
>>423
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
奈良の訳は無いなwww >>390
倭国は朝鮮半島南岸にも領土を持っていたから
大宰府は最前線じゃなくて後方の兵站の中心拠点だよ。 周囲の要所の山中に作られた
神籠石山城、これも初期の太宰府防衛拠点だろうね。
あの巨大な水城は、ただただ都である太宰府を死守するためだけに、後先考えずに無我夢中で作ったもの。
現物見りゃ直ぐ分かる。
北部九州が都なら一番力を入れるのは関門の方になるだろうな
畿内の勢力を退けるために
それがないってことは北部九州はすでに畿内の勢力に落とされてたんだよ
定説より前にね >>415
沿岸はすぐに攻め込まれるため那津官家を沿岸から太宰府に移しておるだろう 弥生時代に非軍事的に畿内が九州を支配するのは距離的に無理
畿内説は完全に破綻してる
倭の五王の存在、
九州暦の存在、
「筑紫の君」と呼ばれていた磐井の存在、
(中央政府?に「反乱」したはずなのに、存続してるとかwww)
巨大な太宰府政庁の存在、
神籠石の存在、、、
跡だらけだキチガイ野郎w
「邪馬台国は九州にあったけど、遺跡や墓が見つかってないだけだ!!!」
こういう言い訳をよく見かけるが、
伊都国や奴国があったことが確定してる
北部九州の発掘結果は九州説には絶望的状況
伊都国や奴国が
九州邪馬台国なる九州勢力の傘下に入っていた痕跡皆無
一方、奴国の中枢であった比恵那珂地域からは
3世紀前半になると畿内系土器が大量に出土しており、
畿内系住人の移住が確認できる
また3世紀後半には
那珂八幡古墳が築造されるので、畿内政権の傘下に入っていたことになる >>431
九州の東には大した勢力は無かったんだよ
東は九州の植民地
主敵は朝鮮半島にいたんだ。 兵站の中心拠点といえば
7世紀頃に糸島で作られていた大製鉄拠点の
元岡遺跡。
数十基の斜め式製鉄高炉が並ぶ
鉄生産拠点だ。
白村江の兵士の武器などが作られた
可能性は非常に高い。 >>434
九州の勢力って想像以上に人が少なかった可能性が高い
アカホヤだな 邪馬台国の場所が、九州でも畿内でもどちらでもいいけどな、その後どうなったのか、説明してみ?!
突然と消えたのか? はたまた、どこかが引き継いだのか? そんな円広志の夢想花のような一発屋的ヒットした文明って他にあるのか?
どうして、誰も疑問に思わないんだ?? >>437
卑弥呼の墓は御井の祇園山古墳。
魏志倭人伝の記述と一致する、唯一の墓。
>>431
いやそもそも畿内の勢力が九州まで遠征するとか無理だし
遠征軍が通る道がない >>437
伊都国が在った糸島市だけで奈良県全体を上回る数の遺跡があるんですけど。 >>400
だから言ってんべ?
九州の中小企業が大企業になると共に奈良へ本社を移したと 九州が中心だったと言うには
それに値する遺跡が無いんだよな
古墳から律令国家の流れを考えても
畿内しかない
九州説はいちゃもんレベル >>428
神籠石山城
どうみても太宰府を取り巻いているからな
畿内はかんけーねー >>440
農業生産力を見れば当時の軍事力の分布がわかる
3世紀当時の軍事力は殆ど九州に片寄ってた >>443
九州説キチガイが好きな磐井の乱も、朝廷軍にぶちのめされてるがな >>445
だから言ってんべ?
その頃の奈良は、とてつもない田舎だとwww 朝鮮出兵までできてるのに
できないわけがない
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/341-02.gif
普通に美濃でセックスしまくってた景行天皇が
貢物よこさないナマイキな熊襲土人を
速攻でしばきにいってたからな
すでに北部九州はヤマトの支配地域だからできる >>443
大陸で何が起きていたかを考えれば、
時代認識がズレてるぞ。
弥生人の軍事力を甘く見過ぎ。 筑紫磐井って、皇統
だから「君」がつく
息子らはさっさと降伏 >>408
大乱(実際は小乱だがw)を平定したから奈良へ上京したのである
卑弥呼とは朝鮮から渡ってきた朝鮮人であり、九州の先住民である縄文人を支配下に治めた後に、
奈良まで破竹の勢いで進軍した女王だ >>447
古墳から律令国家までの流れは否定しないけど
それは邪馬台国とは無関係な国の話
畿内と九州で全く違う国が存在したとしか思えない >>72
>我が国の部落問題
古墳時代に、鉄の原料である砂鉄を入手するために『参韓征伐』を実施し、侵攻作戦を遣った。
此の時に大陸から捕虜として、拉致・誘拐されてきた朝鮮半島人(加羅、任那ではなく、新羅系、
百済系)が倭・大和に連れてこられた。古墳やら、マーマー偉い人の墓守をさせられており、これ
が同和の起源の大本の一つであるとだということが、記紀から読み取れる。記紀には、そのよう
に書かれているんだ。
新羅は、出雲大社の来歴とは関係があるというが、出雲風土記に言う処は。
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_dsg&data_id=68656
>「古くタクフスマが新羅の産物として知られた事実があり、一方タクフスマの連想させる白
>(シロ)と新羅のシラの音の類似とから枕詞となったものか」とする。 >>425
奈良の博物館とかで腰を据えてるような人は
大凡、天皇家の系譜の墓なんで卑弥呼とかじゃないと思いますけど…
って感じだけどな、畿内説騒いでんのは山師みたいな胡散臭い奴だけ 弥生人というのは古代中国の春秋戦国時代に戦乱を避けて大陸から日本へ渡来してきた人たちらしい。
彼らは現在の九州へ上陸して稲作をしながら当時の原住民の縄文人を駆逐しながら次第に居住地域を広げていった。
これが神武東征のモデルとなった。 ところで記紀には九州本家の卑弥呼の業績は書けない
その理由は卑弥呼の中国側の交渉相手が後に皇帝にまで昇りつめていく司馬懿だったから。
嘘を書けば次の中国使節団が斬られる可能性もある
やはり卑弥呼は偉大な女王だよ >>450
磐井の乱は九州内の内乱だよ
現在も久留米に長門石があるが、そこで分けようって話。 筑紫磐井って、皇統
だから「君」がつく
息子らはさっさと降伏
ID:jKV4uNAn0
ウンコ >>447
崇神天皇から応神天皇までの百年以上の間に大和朝廷が九州に遠征して邪馬台国を滅ぼしたというシナリオだとすべて辻褄があうんだよ >>459
だから漢人と高句麗人の列島切り取り合戦だって
日本の遺伝子が語ってる倭人は征服されて名前取られた側 >>459
『隠された物部王国{日本ヒノモト} 谷川健一
かつて列島に併存していた「倭国」と「日本ヒノモト」
「日本ヒノモト」はいつ、だれによって併合されたのか
物部も九州から、遠賀川流域から来たんだよ
東遷は2回あった
谷川健一がいってるように 纏向の宮殿は当時最大規模
陶片鑑定したら全国から集められた陶器と断定、これわ >>459
もしそうなら畿内に支配勢力が大きく変わったことが
中国の文献にも残るはずなんだよな
昔から変わらず畿内勢力が支配してたと考えるしかない >>452
景行天皇は大隅に6年滞在したり
肥後回るのに二年かかってるに
そんなにしょっちゅう畿内を
往復できるわけないじゃない。
実質は筑紫の豪族だよ。 次有奴國 此女王境界所盡
女王国の境界は、奴国
奈良は有り得ないwww 機内か北九州かの違いは、日本列島の開発度合いと邪馬台国の支配地域の広さの争いといっていい。
紀元前2〜3世紀に弥生人という外来勢力が海を渡って日本列島に侵入し、弥生時代が北九州から始まって出雲周辺まで開発されたことはわかってる。
そして邪馬台国は3世紀のもので、100国以上を支配した支配国。
つまりこの間の弥生人の支配地域の拡大と日本列島の開発(縄文後期縄文人はかなり死に絶えて小集落化していた)が
どこまで進んだかの問題。
邪馬台国が北九州なら弥生前期と変わらない開発度合いで、支配地域も北九州近辺に限られてる状態。
機内ならば、支配地域は日本列島本州の大部分に拡大し、支配地域も大幅なものとなる。
新潟の翡翠などが朝鮮半島、中国から出土してることを考えると
紀元後数世紀の間の弥生人の隆盛は、ほぼ日本列島を多い尽くしたとみるのが相当。
現代日本人の縄文由来の遺伝が僅かしか保有してないこととも合致する。
縄文後期、縄文人は死に絶えて、僅かに残る集落しか残っていなかった。
弥生人は空き地となった日本列島に侵入し、日本人を形成した。 >>409
これほどの国際感覚を具えた稀に見る才女が奈良の地方政権にいたのであろうか
↑
初めは九州だろう。
朝鮮人である卑弥呼は大陸に明るかった。国際感覚があった。
そのように有能な女王だから九州を平定し、次に勢力を拡大していった。
アングロサクソンが北米や豪州へ勢力を拡大したように。
天才女王・卑弥呼の快進撃は日本列島の中央である奈良まで続いた。 >>464
いきなり海に飛び出す事はない
普通に戦乱の前に開拓に来てた可能性が高い
縄文人は湿地にはそもそもいなかった >>464
稲作を日本列島で始めたのは基から住んでた縄文人
渡来系弥生人が現在の九州へ上陸したのは紀元前4〜3世紀頃
原住民の縄文人を駆逐しながら次第に居住地域を広げていったのは弥生時代末から古墳時代
前に考えられていたよりも遅いことが判明したんだ。 >>472
魏志倭人伝から倭五王まで空白になってて何が起きたのかがわからない
倭五王の応神仁徳の頃にやっと九州平定できて中国に朝貢できたんじゃないか?
応神仁徳の頃に一気に古墳の規模も大きくなってるし九州を飲み込んだ時期と一致する >>477
>そのように有能な女王だから九州を平定し、次に勢力を拡大していった。
平定も何も、狗奴国との戦争中に死んでんだけどwww なんで漢人を無視するんかね
和風なのは名前だけで遺物みたらハッキリしてんのに
古代豪族は地方領主じゃなくて普通に漢人の王国
砂鉄利用は漢人の特徴 >>471
その陶片は尾張伊勢吉備河内の沿岸都市から畿内にもたらされたもの
九州からは極端に少ない
これは距離的な要因だろう
これが海人系倭人が鏡祭祀を推戴しながら畿内で隆盛していたオオクニヌシ勢力を物品で懐柔するために巻向を建設した要因 現代でも三種の神器と言われる勾玉、鏡、刀剣が
祈祷に使われててまとめて出土されたのは九州北部なんでしょ? >>472
いやそもそも4世紀の崇神天皇以降も大和朝廷は九州と戦ってるでしょ?
邪馬台国が畿内にあったなら崇神天皇の時点で戦わずに九州を統治できてたはず 物部氏の始祖、ニギハヤヒは、河内に直接天孫して、大和に移ってる
実際、物部氏の根拠地は、大和国山辺郡と河内国渋川郡 >>446
磐井の乱は、邪馬台の王族ではないだろうな。
邪馬台の王族は、邪馬台が滅ぼされた際、皆殺しに遭ってるはず。
王族の遠ーい親戚というのは有りかな。 >>475
>つまりこの間の弥生人の支配地域の拡大と日本列島の開発(縄文後期縄文人はかなり死に絶えて小集落化していた)が
>どこまで進んだかの問題。
縄文弥生人が渡来系弥生人に次第に追い詰められたのは弥生時代末から古墳時代に掛けてのこと
3世紀には一部を除き日本列島全体に縄文系弥生人が住んでいたんだよ。 >>485
倭人の船はボートみたいなものだぞ
海人て言われてるのは新羅人だよ
アマなんちゃらて名前は新羅人の特徴 ID:jKV4uNAn0
息を吐くように嘘をつくウンコ >>488
物部氏は九州起源の海人系の代表格だね
まことによい拠点を押さえている
神道の起源である鏡祭祀を仏教勢力から最期まで守った
軍事と流通を担ったかれらはまさに畿内ヤマト王権成立の鍵を握っている存在だと思う 魏志倭人伝も担当者が面倒だから報告書を適当に作っただけかもよ
伊都国あたりで話を聞いて、さも自分で見たかのように色付けして報告したとか >>45
>古事記や日本書紀が大和政権と邪馬台国が別物であることを示している
土蜘蛛族として、邪馬台国の卑弥呼を描いている。しかしながら、白村江の戦いで敗れ、唐の守護代の
監視のもとで、記紀を編纂した為に、滅ぼしてしまった「邪馬台国の卑弥呼」は、土蜘蛛として、
暗に認めている。が、大和朝廷のその万世一系性を主張するために、卑弥呼と一致した神話を
編纂するために、滅ぼした「卑弥呼」は、実際には載せられないので、卑弥呼と思しき神話を作り上げた
ので、後世の者は、記紀にの編纂に騙されて、想像逞しくして、記紀の狙い通りに、卑弥呼を神功皇后だ
とか、アマテラスだとか、フザケたことを言っているのだ。
考えても見てほしい。海外の大陸で覇権を握った国家が編纂した歴史書に名前が出ていれば、
それに当てはめた名前が出てこなければ、滅ぼしてしまった国だと考えるのが普通であるが、それでは、
自分が惨めである。乗っ取ったことが暴露されてしまうからだ。だから、例えば、M&A、TOBで手に入れ
た会社の創業家を追い出した場合には、なんて書いてあるかというと、従業員を奴隷並みに扱って評判
が悪かったとか、カジノですってスッテンからりんとして、会社の経営を危うくしたので、取締役会議・理
事会で他社の傘下に入ったとか書いて、創業家を貶めるのだ。しかし、既に滅ぼしてしまって、子孫がい
なくなれば、それも書けない。それで、トックノ昔に、史実とは似ても似つかぬ名前を仄めかすような、
虫とか、貉の名前をつけて、滅ぼしたことを隠すのだ。 書いてある。
(旧唐書 倭國条)
倭國者,古倭奴國也。
倭国は昔の倭奴国である。
(旧唐書 日本条)
日本國者,倭國之別種也。
日本国は倭国の別種である。 弥生時代に九州から近畿まで拡がる統一国家なんかがあったわけがない
大和朝廷が九州が平定できたのは5世紀以降だわ
畿内説とかもはやファンタジーで笑えるんだが ID:vp+ISpIi0
毎度おなじみ、旧唐書ウンコ
ループ >>491
知らないのか
繰り抜き平底船という構造の船で走力は遅いが陸地運搬も可能な当時もっとも適した構造だ
そして海人系とは総称であり名前ではないよ
それも生粋の倭人だ
彼らは縄文と弥生の両方の習性と特質を持っている 聖徳太子は隋の煬帝を激怒させたとされる
皇帝との交渉は常に命懸け、戦争も起きる修羅場である
魏の実質ナンバー2で後に皇帝となり晋を開く司馬懿が
公孫氏討伐に大軍を率い、中国史上でも有名な激戦をした
この際の処罰も苛烈を極めたものだった
その勝利の直後に司馬懿に使節団を送り上機嫌にさせるという神業を卑弥呼はやってのけた
日本史上に特筆されるべき偉業である
畿内説だと全然触れないがww >>451
北米も豪州も東京もかつては田舎だったっぺ?
「開拓」や「勢力拡大」とは田舎っぺを支配下に治める事だ。
アングロのクリスチャン・デューティ(キリスト教徒の義務)は
異教徒=非キリスト教徒の魂を救うために領土・植民地を支配しなければならないという
考え方で20世紀にはフィリピンでは30万人を殺した。
マニフェスト・デスティニー(明白なる天命)
アメリカ合衆国の西部開拓を正当化する標語。
「文明は、古代ギリシア・ローマからイギリスへ移動し、そして大西洋を渡ってアメリカ大陸へと移り、
さらに西に向かいアジア大陸へと地球を一周する」という、いわゆる「文明の西漸説」に基づいたアメリカ的文明観である。
要するに、文明は聖なる地から穢れた非文明国へ移るという思想だ。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fd/American_Progress_%28John_Gast_painting%29.jpg/250px-American_Progress_%28John_Gast_painting%29.jpg
1872年に描かれた「アメリカの進歩」。女神の右手には書物と電信線が抱えられており、
合衆国が西部を「文明化」という名の下に征服しようとする様子を象徴している。背後には1869年に開通した大陸横断鉄道も見える。
卑弥呼がした事もこれと同じだ。
「高貴なる文明は北九州から中国地方と四国地方を経て近畿地方まで移る」という思想である。
畿内説否定は
「アングロサクソンのような世界覇権を握った才能ある民族が、インディアンが住んでいた北米に
アメリカ合衆国という名の国を建て、世界覇権国になるなんてあり得ない」
と反論しているようなものである。 なんか雇われ店長さんの主張に隼人族が入り込んでいる?
まだまだ相違点は多いけど地道なコピペも必要だな
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷
日向風土記逸文(713、引用は続日本紀797)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。本当に原本にあったか?)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) 3世紀も弥生時代
北部九州は渡来系弥生人(倭人、現代日本人)住んで居た
関西には縄文系弥生人が住んで居た
九州から関西まで拡がる統一国家があり
しかも都が縄文系の中にあるなんてナンセンスw >>500
残念だがその優秀なお舟では軍隊を率いて日本海を渡れない >>490
>弥生時代末から古墳時代
だから、矛盾しないでしょ。それを紀元後から3世紀までの間と捉えるなら。
弥生前期が北九州から出雲までの地域。そこから邪馬台国までの間にどこまで拡大したかの話。
邪馬台国が北九州なら、弥生前期と全く変わらず拡大してない。
にも関わらず、古墳時代の中心は機内にあり、日本海側のみならず関東まで拡大してる。
北九州説だと、この邪馬台国以降に弥生人の日本列島開発が進んだと考えねばならなくなるため矛盾する。 >>470
物部とか畿内で湧いて出たような嘘八百を垂れ流して他人を蹴落とし権威に背乗りする
典型的畿内人もしかしたら半島人
コレと藤原南家こいつらはホントの古代本流の日本の歴史とは余り関係ない
しかし、好き勝手された結果それしか残ってない
せっかく万葉集から令和っていう元号になったし
大伴家持とか大伴氏などの指点から藤原南家を見てみると良いホントにクズ
そいつ等が作り上げたのが日本書紀、古事記 ID:vp+ISpIi0
ID:nljSQmpd0
毎度おなじみ、旧唐書ウンコ
猿のオナニー >>482
391年には百済新羅を破ってる(広開土王碑)からこの前だろうな
300年代に入ると邪馬台国は他勢力が間にできて中国(西晋)と国交が途切れたんじゃないか 「日本舊小國 併倭國之地」(旧唐書)
国名変更を願い出た遣唐使が唐の宮廷で
『日本は小国でしたが倭国を併合したんです』と言ってる。
ヤマトは小国だったんだよね。つまりローカルなクニ。
それがシナでは周知の大国、倭、を併合したと。
あれ?倭はどこにあったの?ヤマト(=奈良)じゃないぞw 倭の五王の応神天皇の頃にはじめて朝貢したというのがポイント
応神天皇の時にやっと九州を平定した
それまで九州とは戦争してたから中国に朝貢出来なかった 伊勢遺跡が邪馬台国だよ
箸墓は大和朝廷で邪馬台国を滅ぼした方だから卑弥呼の墓ではない >>509
よっぽど旧唐書がウンコ君には都合が悪いと見えるwww >>510
やはり崇神天皇かその息子が邪馬台国を滅ぼしたな >>511
倭は吸収にあった周の分家
中原の本家が滅んで小勢力として取り残されたあと半島からの切り取り合戦で吸収されたと思われる 海人系の氏族は安曇氏、物部氏、尾張氏が代表格
どれも瀬戸内から太平洋沿岸果ては関東まで地名を残してるが、特に遠方広範囲かつ内陸まで進出したのが安曇だな
これらの氏族が米と流通を求めて内陸型弥生民や出雲系稲作民と接触し融合することで権力の増大が起こった
九州は不幸なことに本拠地なので奪い合い争いが続いたために衰退したのだと思っている >>510
391年って応神天皇の頃か?巨大古墳作れる国力があった頃だよな ID:vp+ISpIi0
ID:nljSQmpd0
ID:66xaN5hP0
毎度おなじみ、旧唐書ウンコ
猿のオナニー
キチガイが3人も現れるのは不自然だからね >>318
女王国から海路一年というけとど現実は180日だとな。
どから倭人伝でいう裸国、黒歯国はハワイやフィリピンはもちろんトンデモ。
もしかしてこれが大和朝廷だったり、名古屋や静岡の国だったりして。 そもそも魏志倭人伝が生まれたのも司馬懿と卑弥呼のおかげである
晋に仕えた歴史家はその始祖である司馬懿の業績を詳細に書く必要があった
そして司馬懿が怒涛の出世をする中で公孫氏を破った大勝利が皇帝への決め手となったのである
その直後に司馬懿に送った倭人使節団は司馬懿の偉業に花を添える重要なエピソードだったのだ
以上からして倭人伝には相当な調査と労力を書けて陳寿は執筆している
空想であれば帝室侮辱であるから死罪有り得る 普通に皇統と隼人土人(律令制の時代に)なんか無関係
明治時代に薩摩のどこかのゴミが言い始めたホラ話といっていい
記紀を忠実に読めば、皇統と九州の土人は無関係
↓普通にこうなるからな
https://i.imgur.com/5dhXZIN.png
どこにも九州の土人血なんかまぎれこんでない >>506
それはその通り
だからこそ内陸地まで勢力を伸ばす必要があった
九州は大陸に渡る航法があったためにある時期までは独占貿易が可能で栄えることができた 伊勢に二見ヶ浦がある
伊都国があった糸島にも二見ヶ浦がある
その両方の二見ヶ浦の近くに「志摩」という地名がある
伊都の人が伊勢に持って行った? >>511
旧唐書倭国伝
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
↑全く別の勢力がやってきて新しく支配を始めた なりすまそうとしたが、あやしまれたということ >>503
それは、列島に弥生人が入ってきたころの話。
卑弥呼の時代は、アメリカ南北戦争じゃないけど(ちょっと違うなw)、
本家のやまと(邪馬台)が、未開の地だった奈良に入植した勢力に敗れ、
結果、男王(=覇権)を禁止され、即位したのが卑弥呼。 邪馬台国は九州北部
占い女王がまとめる連合国家という変則的な形態だったために長続きせず衰亡
それとは無関係に畿内に政権ができて大和政権の礎になる
これが真相 当時、公民ですらないけがらわしい夷人雑類の血が
皇統にまじってるとかな笑わせるワケ 倭からの使者は漢倭奴国王印か、
親魏倭王印の封泥のある国書を
持っていたんだろう。
それが隋代に途切れ、唐の代には
封泥のある国書を持ってこなかったために
疑われて白状させられたわけだ。
そして、古に関係はあったとしても
倭とは認められず日本国として
記録されたわけだ。 >>468
>崇神天皇から応神天皇までの百年以上の間に大和朝廷が九州に遠征して邪馬台国を滅ぼしたという
>シナリオだとすべて辻褄があうんだよ
じゃー、神武東遷はどうなるん?
貴方の言い分だと、崇神、応神が存在して、西日本を侵略したのだから、「西進」じゃん。 >>519
本州と九州だな
日本国=本州
倭国=九州 >>519
ちゃんと倭が九州、日本が本州っぽい
位置にあるね。 >>299 ←神武東征はコレが定説
そもそも当時日向なんかないからな
律令制ができたころでもまだ土人の巣だったわけだしな
九州説の知恵遅れたちは
そんな基本的な歴史的事実すら分かってない
そもそも神武東征は天孫降臨から179万2740年後
まだ観念世界の継続
現実の世界とは一切関係ない 奈良人はもともと福岡からの移民が多くて
邪馬台国の血筋もいるので
マジキチで自分のいる場所が邪馬台国だったと思うのがいる >>512
ちゃうよ。
五王の朝貢の前に、もう大和朝廷が三韓征伐やってんだから。
大和朝廷が高句麗に負けたんで、危機を感じて朝貢したんだよ。
五世紀前半だ。 >>534
崇神前は弱小豪族だろ?
日本書紀には東遷ってたいそうに書いてあるけど単なる九州から畿内への移住
しかも神武は卑弥呼の時代より前でなんの関係もない >>452
ここまでやってるのに息子のヤマトタケルがさらに九州を攻めてるんだよな。 >>540
まぁいずれにしても大和朝廷が九州侵出したのは4世紀後半だろ? >>495
>考えても見てほしい。海外の大陸で覇権を握った国家が編纂した歴史書に名前が出ていれば、
それに当てはめた名前が出てこなければ、滅ぼしてしまった国だと考えるのが普通であるが、それでは、
自分が惨めである。
論がどうこうの前に日本語が変だから論外なんだけど。
世界的にも征服王朝はむしろ征服を誇っている。日本で言えば神武東征にあたり、ヤマトタケルにあたるが。神功皇后もこれにあたる。
名前が異なると考えるのが普通。現代でも日本とJAPANのように国内的名前と国際的名前は一致してない。
なぜか。海外では外国語で表記され、基となるものも一致しないから音韻も一致しない。 ちゃんと書いてある。
伊都国と斯馬国は連なっていた。
廣志(呉書)曰く、、、、到る伊都国、又南、至る邪馬臺国。
つまり邪馬台国は伊都国のすぐ南にある。
https://imgur.com/XhNaI3F ・瀬戸内海は複雑な海流をおさえれば、漕がずとも高速で航行できる海のハイウエイー。 >>532
隋と唐は異民族王朝だから倭や半島含めた古くからの漢人系の国との関係は注意してみないといけない >>423
東京が首都の現在も、政府は沖縄を軍事拠点にしているよ。
地政学的に沖縄や九州は大陸に対する防波堤になるから。
それで、現在の首都は沖縄なのかね?(´・ω・`)
軍事要塞と違う地域に首都を置くのが定石だ。
最前線に首都を置いてどうする?旗本に切り込み隊長をさせるのかね?
ん?ん?ん? そもそもとして、魏志倭人伝に統一国家などとは書かれていない。卑弥呼なる女王が治める大きな国があると書いてるだけ。 >>534
え?神武は卑弥呼より前の時代でしょ?ちょうど倭国大乱の頃かな?
激化する戦乱に嫌気がさして九州から平和な畿内に逃げたんじゃないか? >>516
それはもっと古い時期の話。
倭=紀元前のシナ江南地域に居た民族
だから人偏の文字になってる。
シナの楽浪郡より海を東南に隔てた地域のイメージになるのは
もっとあとの卑弥呼なんかの時代 >>549
九州諸国が共立した女王の国な?
邪馬台国はどう考えても九州だろ 魏志倭人伝に邪馬台国は帯方郡から一万二千里と書いてある
畿内説は100%インチキ
魏志倭人伝を読んで出直して来い >>527
日本と言うか遠出どころか外出すらリスクの高い古代は妻問婚が多い
皇統など一部を除けば日本は平安時代ですら妻問婚
王が食料を取りに行って死んで、部族間の諍いで死んで、散歩して野獣に襲われて死んではあっさり氏族が絶える
家財を継承するのは女もしくは女系の男子、それでも男は氏族の名前を背負って
氏族間の連合、連携を強化する為に他の氏族の女を口説いてSEXしてでコネを作る島耕作的人物となる
一応、氏族の王の様に描かれる天津神・国津神の男神達ですら女神を訪って
妻として現地に置いたままの事例がよくある
古代日本では家財領土を地元を動かない女が相続する女王は普通なんだよ その邪馬台国も九州にある小国や投馬国と交流があり。狗奴国とは対立している。と書かれているので、統一国家ではない。
むしろ狗奴国が邪馬台国を支配下におき北部九州まで遠征し統一的な統治機構を作ったと考えた方がしっくりくる。 >>550
なんか昔は
神武天皇の先祖のアマテラス=卑弥呼みたいな話だった気がするが
俺が子供だっただけかな >>498
>弥生時代に九州から近畿まで拡がる統一国家なんかがあったわけがない
むしろ反対で、日本列島の開発速度をみると。
古墳時代に突然、東北は山県以南から九州までの統一王朝ができたとみる方が不自然。
弥生時代の前期が開発が早いのに、中期後期と開発が進まず、古墳時代に突然のもうスピードで開発が進むとするなら
古墳中期までの間に各地で相当大規模な戦闘、殺戮があったと見なければならないが
そんな跡は日本にない。 >>553
帯方郡から、末盧國(唐津・呼子)まで10000里を費やして、残り2000里 ここは唐古・鍵スレだちゅうの。
文献学的なことはもうわかったからw >>530占い女王がまとめる連合国家
その認識が間違いだわ。たぶん教科書がミスリーディングで、
そういう印象をばら撒いている。
魏志倭人伝をよく見ると、邪馬台は倭国盟主だったが、
倭国大乱に負け、男王(=剣を持つ王=覇権)を禁止され、
それで即位したのが卑弥呼だ。権力無き権威だ。
この大乱で、倭国盟主だった邪馬台が覇権を失い、新覇権国から
大陸向けの「倭国盟主」として朝貢*させられた*、ということ。 >>539
逆だろ
白村江の戦い後に防人として九州に送られた畿内人が
邪馬台国の駐屯所の遺跡を見て、ここもかつては邪馬台国だった
大和なのだと望郷の歌を詠んだりしたのさ
そも福岡って地名すらもとは兵庫の地名から来てるのに
九州北部なんて所詮は疑似関西。日本中にある○○銀座みたいな町なのよ よって大和朝廷は狗奴国の末裔なのでその歴史書には邪馬台国や卑弥呼の記述がないというか把握してない。 >>555
そしてその狗奴国の正体が大和朝廷ということか >>554
邪馬台国でも卑弥呼の後は短期だが男が王だし
邪馬台国の南隣の狗奴国も王は男だし
男の方が多い >>556
卑弥呼が死んだ時に日食が起きたような事が書いてあるのを
これが天照大神が岩戸に隠れて世界が暗くなったエピソードの元ネタだー!
ってだけの説やな 本当は畿内の出る幕は無い。
畿内は蘇我氏、藤原氏が持っていたであろう過去の記録を探すべし。 >福岡って地名すらもとは兵庫の地名から来てるのに
それ、黒田官兵衛の時代だからwww >>556
畿内説の左翼学者が好む説だろね
そもそも記紀には根拠ゼロと思ってるから自由自在なナンチャッテ解釈をする >>549
大きいとも書いてないけどな。
日本各地で豪族が大王を名乗ってた時代。
邪馬台国は畿内ではなく、北九州にあったさ。
ただ九州説が短里法を用いる限り、大連合国家なんてレベルのものにはならない精々筑紫平野一帯が限界。
さらに放射読みを使い出すと、筑紫平野すらカバーしきらないような小さな勢力になる。
狗奴国との戦争に負け、4世紀にはもう過去のものになったから、確証の持てるような物証が出てこないのよ。
当然東遷なんてファンタジー以外の何物でもないし、アマテラスとの関係なんてあり得なくなる。
北九州説と大連合国家や東遷、大和王権の基礎という空想は相反する事になる。 >>563
そう考えた方がしっくりくる。邪馬台国と違って中国に対してはかなり対立的。 魏志倭人伝に名前が残っちゃったから持ち上げられてるけど
現実はその後あっさり滅びた国の単なる王女ってだけじゃないの? >>431
僕は逆の味方をする。
八幡神が『尋常な』立身出世をした事からも、
北九州が畿内を勢力圏に吸収したのだよ。
デンマーク、ギリシャ、イギリスから勢力拡大したアングロが
北米や豪州を制圧した。今、世界覇権国は北米のアメリカだ。
ギリシャやイギリスがインディアンやアボにジニーの勢力を
退ける準備をしていなかったからと言って、
ギリシャやイギリスがインディアンたちに制圧された事にはならない。
始まりはギリシャ(デンマーク)や北九州(朝鮮)なのだ。
勢力拡大する始まり側が制圧される準備をする必要は無い。
自分たちが制圧する側だからだ。 女王国の以北にある、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と投馬国、
邪馬台国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として
斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、
對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、
躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国が記録されている。
また、南の狗奴国の男王卑弥弓呼とは不和との記録もある。
奴国は2回記されているが同一の国とする説と別の国とする説がある。
畿内の出る幕ないね >>572
それだけインパクトのある外交をしたから中国側も詳細に書いたわけだ
卑弥呼は天才だよ ヒミコは伊勢斎王さま
神の子以外は天子さまにもミコにもなれない
皇族は神の子
皇子
皇女
親王
御子
神子
コレ全部ミコと読む
古代の祀り事(マツリゴト)は政(マツリゴト)
ヒミコも神の子
ヒミコはヤマトヒメノミコト
わかりましたか? 確かに広域の版図を持ったヤマト王権が5世紀に突然登場するのは不自然
ヤマト王権の前身が邪馬台国 >>537
定説って眉唾の推測情報なんだな
それだとわざわざ機内に既存勢力がいたことを書く意味がないし、東征して失敗する必要もないし
なにより神武東征の記述と、その年代の地形がぴったり一致することの説明がつかない
神武東征に書かれてる記述は記紀が書かれた年代の地形とは一致せずに本当に昔の地形をしらないと書けない内容になってる >>577
単に遼東を魏が攻略し、帯方郡が出来た直後に挨拶に来たからだよ。 >>564
だから女王の息子だってば女が継承して子に継承する
姉、妹が居れば継承権はそっち
だから王は積極的に頑張って外に出る、死んでも別に困らないから
逆に男一人が継承者の氏族はそいつぶっ殺せば乗っ取りが容易なので
周りは一丁やってやろうかとテンションが上がる 日本国の遣唐使いわく、
「日本舊小國,併倭國之地。」
日本(畿内)はかつて小国だったが、倭国を併合した。
これが8世紀初頭の唐への報告だ。
畿内説が3世紀から統一国家だったなどというが、遣唐使の言葉はそれを否定している。 >>579
いや大和朝廷は応神天皇まで百年以上かけて九州攻略してるよ
むしろ邪馬台国こそ九州の小国 >>581
ところが司馬懿ちゅうひとは苛烈過ぎる性格で有名
公孫氏を皆殺しにして高ぶってるときに挨拶したらどうなるか分からんぞ
卑弥呼の読みは天才的としか言いようがない
天才の聖徳太子すら相手を怒らせたぐらい皇帝クラスとの交渉は難しい 旧唐書の一部を切り取って、倭国と日本が別の国だったから
邪馬台国は九州だと主張してるやつってインチキしてる自覚ないのか?
不正行為の証拠を自分で提示してるんだがな
九州説のこういう倫理観、道徳観がまったくわからん >>579
いやいや突然登場してないだろ
3世紀の纏向箸墓の頃から5世紀の仁徳まで長期に渡って勢力拡大し続けたと見るべきだわ 日本書紀中にも、明らかに女系と思われる豪族がいくつか出てくる
〜トベとかいう女酋長
が、皇室が男系原理採ってるから、徐々に消えていったんだと思う
中華とのコンタクトの影響もあるだろうね >>583
なんで旧唐書をみんな無視するんだろうな
少なくとも大和朝廷の公式見解として中国側に説明したものがもとになってんのに
昔から大和朝廷がそこにあったなら絶対先祖の否定とかしないだろうに >>552
それ間違い。
倭国大乱の結果、倭国(諸国)が『共立』した、倭国盟主邪馬台の女王、
ということ。九州だけの話ではない。
だが、これは人聞きの良い表現。 別の言葉で書くと:
大乱の当事者が、邪馬台の覇権放棄(=男王禁止)を条件に、邪馬台の
存続と名目上の倭国盟主の地位を認め、和議が成った、ということ。
要するに、大乱で奈良?が新覇権国となり、邪馬台は名目上の盟主、
権力無き権威に落ちた、ということ。 結果、魏に朝貢させられるハメに。 >>447
「九州説はいちゃもんレベル」
痺れますた(´・ω・`) >>573
八幡神が出世したんじゃなくてハチマン=ヤハタ神こそ
邪馬台の国名にもなってた卑弥呼が奉った鬼道の神なんやろ
畿内政権は一地方神として封じ押さえた
しかし俘囚等で全国に散る事になる隼人等の信仰は水面下で伝えられ
やがて俘囚の過去も遠くなった頃時にヤマトと共に時にはヤマト自身と勇猛に争った九州の神は
武家の信仰を集める神になったなんだかんだ言って八幡神は正体不明だしな >>594
倭国大乱は九州限定な?畿内に倭国大乱なんて起きてない >>582
卑弥呼の後は息子じゃない
卑弥呼は結婚もしていないし子供もいない
魏志倭人伝を読み直して出直して来い >>593
ほんとそれ。
中国の史書は伝統的に、変化が無い限り過去の記録をコピペして終わり。
日本条を別途記載するなんて異例だと思う。 >>449
今も世界最強のアメリカ軍は沖縄にいるが東京にはいないぞ。
地政学的に東京や奈良が軍事拠点になる事は無い。
日本にとって脅威は大陸と半島であり、山賊や太平洋を渡ってくる何か、
ではないからだ。 畿内説の人は唐子鍵と巻向の関係性の説明をどうつけるのか
興味あるが陳腐な推察は止めてくれよ 旧唐書いい加減うざいな
唐の前の時代の隋で大和が邪馬台国だと認識しているんだよ。日本も中国側も
当然、遣唐使の認識もそう
トンデモ解釈し過ぎ >>583
なんだ、旧唐書にはっきりと書いてあるじゃん
日本(大和朝廷)と倭国(邪馬台国)は別物だってwww 解決だな >>603
しかも纏向遺跡は4世紀前半で消滅している。
その後の遺跡は発見されていない。 八幡神は普通に新羅系のチョンコもどき土人の渡来神だからな
普通に元をたどればスサノオ
出雲、八幡、白山の信仰
つまり、関東東北へと逃げたヤツラ
つまり俘囚になるようなヤツラだからな
隼人は九州にいた
ただの土着土人
ずっとそこにいる 八幡神は、明白
応神天皇(誉田別命)を主神として、比売神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神
武家が信仰しはじめたのは、神仏習合して、八幡大菩薩になってから
後の話で、今の話に関係ない >>477
>朝鮮人である卑弥呼は大陸に明るかった。国際感覚があった。
違う。倭だからだ。倭は人偏だ。秦代に徐福の連れて行った5000人の童のペアー(男・女)
末裔だから、中国人の血を引いており、人偏にしてある。朝鮮だったら、人偏ではなくて、犭か、
豸を使うのだ。「卑弥呼」と、人間だけど、袖もポケットのない袴も履かず、「貫頭衣」を着ている
ので「卑しい」、「弥」も弓偏だ。「魅」じゃない。「胡」ではなくて、口偏の「呼」と書いている。奴国
には卑弥孤呼というライバルの男首長も居たのだ。彼も犭でもなく、豸でもない。朝鮮人では
ない。言って見れな、中国人漢族の成れの果て。
朝鮮人に対する、漢族の優越思想、言ってみれば、万里の長城を築かなければ、厄介だった
詩経・易経に出てくる遊牧民の氵の穢、匈奴、夫余の末裔特別しているのさ。
大日本帝国時代に、日本が沖縄県人(琉球国:薩摩が滅ぼしたのだ。)に人偏を強要したの
と似ている。日本人が、高尾の高砂族台湾人に人偏など強要しなかった。彼らは、もっともっと
「貫頭衣」もないPrimitive な生活をしていた。暑いから、裸だ。
たとえば、インド人がメルセデスとか名乗るか。または、中東アラブ人・ペルシア人が果たして
自分から、なんと名乗るかを考えてみよ。ボクサーのモハメッド・アリ氏は、最初は、改宗する前
はカシアス・クレーだろう。卑弥呼は、鬼道に通じており、改宗しなかったのだ。だから、「卑しい」
のだ。
モハメッドは、さしずめ、「神」だろう。キリスト教圏で、イスラムだ。卑弥呼は、仏教、景教、道教
の中の、道教を選んだのだ。だから、鬼道だ。
と言うことらしい。 シャーマンの卑弥呼と
ヤマト調停の大神神社やらの時代には明らかに
数百年単位での時代の違いと文化の違いがあるだろ
箸墓だの景行だの崇神とかが生きた時代の前段階の九州王朝のひとつが
邪馬台国なのに >>599
別に卑弥呼自体の事を言ってるのではないよ
男系王を禁じられて女王国になったとかいう日本の習俗に合わない推論に異を唱えてるだけで
女が継ぐのは支配されてる証みたいな話は破綻してるというだけ 倭人伝の書きぶりだと九州から遠くなるほど情報も減り
逆に九州内部は超詳しい
このへんからも基本的に女王国は九州の王権と見てたと思うがな
倭国大乱も九州がメインでそもそも畿内とか視野にも入ってないのじゃね この時代は天皇家が確立されていないだけで邪馬台はヤマト以外ないから ちょっとは唐古・鍵についての知識を得ようとは思わんのか?
邪馬台国スレじゃないだぞw ほんと自分の言いたいことしか言わないなw >>598 (>>609つづき)
もちろん、畿内で戦闘なんてなかったと思うよ?
第二次大戦でアメリカ本土で戦闘(らしき戦闘)が無かったのと同じ。 >>583
日本国の遣唐使いわく、
「日本舊小國,併倭國之地。」
日本(畿内)はかつて小国だったが、倭国を併合した。
わお!遣唐使(大和朝廷)自ら言ってるのねwww 滅ばされた側で戦闘があるのが
普通だからな
アホなこといってるわ
都周辺が戦場になるようだとおしまい すれ違いだが。
>575
>女王国の以北にある、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と投馬国、
「狗邪韓国」というのが、それだ。犭だ。 樽悶 ★
↑
旧唐書ウンコはしつこいね
ID変えてるけど、一人だろ 出雲の宝物を大神に持ってきたのが崇神天皇
出雲の管理者はそのとき筑紫国に行って留守と
出雲系と九州筑紫系は同盟国 >>618
しかも以前の倭は奴国(福岡)とも言ってる気がw
皇帝の前だから恐怖で自白したのじゃね
嘘言うと処刑されるからね >>5
応神の血筋は武烈で終わったよ
継体は越からきた豪族 >>558
壱岐対馬の外寸300里×2+400里+2=1400里を加えれば
11400里で残り600里
伊都国までが500里、奴国までが100里だから
伊都国と奴国の国境線付近で丁度12000里
伊都国と奴国の国境線付近が魏志倭人伝の女王国。 邪馬台国は滅ぼされた国で
今の日本の礎とはなってないんでしょ
だから謎が多い
だって大昔に滅びた小さな国に過ぎないんだから 倭国大乱というからには、地域のローカルの争いではありえないので、
倭国大乱といえば考古学的に高地性遺跡の出現、という事態に対応させるのが常識。
何をいっても自由だとはいえ、ちゃんとしてないと誰も相手にしてくれないよw 廿五年春二月丁巳朔甲子 詔阿倍臣遠祖武渟川別 和珥臣遠祖彦國 中臣連遠祖大鹿嶋
物部連遠祖十千根 大伴連遠祖武日 五大夫曰 我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇 惟叡
作聖 欽明聰達 深執謙損 志懷沖退 綢繆機衡 禮祭~祇 剋己勤躬 日愼一日 是以
人民富足 天下太平也 今當朕世 祭祀~祇 豈得有怠乎 ○三月丁亥朔丙申 離天照大
~於豐耜入姫命 託于倭姫命 爰倭姫命求鎭坐大~之處 而詣莵田筱幡 【筱此云佐佐】
更還之入近江國 東廻美濃到伊勢國 時天照大~誨倭姫命曰 是~風伊勢國 則常世之浪
重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國 故隨大~ヘ 其祠立於伊勢國 因興齋宮于五十鈴
川上 是謂磯宮 則天照大~始自天降之處也 【一云 天皇以倭姫命爲御杖 貢奉於天照
大~ 是以倭姫命以天照大~ 鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之 然後隨~誨 取丁巳年 冬十
月甲子 遷于伊勢國渡遇宮 是時倭大~ 著穗積臣遠祖大水口宿禰 而誨之曰 太初之時
期曰 天照大~悉治天原 皇御孫尊 専治葦原中國之八十魂~ 我親治大地官者 言已訖
焉 然先皇御間城天皇 雖祭祀~祇 微細未探其源根 以粗留於枝葉 故其天皇短命也
是以 今汝御孫尊 悔先皇之不及而愼祭 則汝尊壽命延長 復天下太平矣 時天皇聞是言
則仰中臣連祖探湯主而卜之 誰人以令祭大倭大~ 即渟名城稚姫命食卜焉 因以命渟名
城稚姫命 定~地於穴礒邑 祠於大市長岡岬 然是渟名城稚姫命 既身體悉痩弱以不能祭
是以命大倭直祖長尾市宿禰 令祭矣】
倭姫命 = ヤマト ヒメノミコト(ヤマトコクの女王と使節が勘違い)
ヒメノミコト ⇒ ヒミコ
コレ以外ない
夜(ヤ)麻(マ)登(ト)波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
ヤマトは奈良しかない
邪(ヤ)馬(マ)台(ト)は奈良
ヤマトはずっと奈良 >>631
当時の中国の認識では倭と言えば九州で完結してたと見るべき >>623
読んだ?
(旧唐書 倭國条)
倭國者,古倭奴國也。
倭国は昔の倭奴国である。
(旧唐書 日本条)
日本國者,倭國之別種也。
日本国は倭国の別種である。 狗邪とはカラの当て字で
つまり全羅南道の任那と慶尚南道の加羅の意味でしょね
ここのうち金海市と釜山市が対馬に渡るルートだよ >>631
ありえない、常識
全く、根拠になっていないwww >>602
どっちかというと卑弥呼やら邪馬台国よか
強力な社格を与えられた八幡神とは何者かって感じの話だしな
でも神社ってのは元々氏族で世襲し自分達の氏神を奉るもので
その氏族の格=その神格、社格でもあるから
記紀にも出てこない八幡神を奉る一族の格は何故か他ならぬ
畿内ヤマトによって担保されてたとも言える
武家の神になったどうのこうのの辺りはロマンだけどなw アマテラスと聖徳太子は
聖母マリアとキリストのパクり いやいやそうじゃなくて、
もし倭大乱という内戦があったとしたら、
高地性遺跡との関連をのぞいてそれらしいものが出てない、という意味。
まあ聞く耳もたないミミノミコトの集まりだろうからあれだけどw >>606
纏向遺跡も縄文系弥生人の遺跡だったんだ
4世紀前半に西から来た渡来系弥生人に滅ぼされたんだ。 樽悶 ★
↑
旧唐書ウンコはしつこいね
ID変えてるけど、一人 ぜんぜん関係ない
天子さまの祖先は天照の勾玉だから
モノだからな
そもそもアマテラスは無性
性別なんかない >>630
朝鮮半島南部に倭人の故郷の投馬国があり
その中心が狗邪韓国なんだ。 アマテラスは無性神
地におりてから有性になる
こういった神話は東アジアの各所でみられるからな
特段珍しいもんでもない
ちなみにアマテラスの勾玉を
スサノオが噛み砕いて産まれたのが
天子のさまの祖先
そもそもモノに性別があるわけがない キラキラアイテムの山ほど出るあたりが女王国でしょね
鉄や文物の交易を握ってたわけでオシャレアイテムは沢山持ってる 日本国の遣唐使いわく、
「日本舊小國,併倭國之地。」
日本(畿内)はかつて小国だったが、倭国を併合した。
畿内説が即死w >>645
そういえば纏向より南の明日香で、4世紀後半に建てられた朝鮮式住居が発見された。 後ニ所生リマシシ五柱ノ男子物、物実、我ガ物ニ因リテ所生ロマセリ 故、自ラ吾ガ子ナリ
先ニ所生リマシシ三柱ノ女子物、物実、汝ガ物ニ因リテ所生リマセリ 故、乃チ吾ガ子ナリ
天地之中生一物 状如葦牙 便化為神
つまり古代人はモノ自体が神だった
https://i.imgur.com/ffVSfTW.png
モノに♂も♀もない 投馬国から水行…日というあたりは徹底無視しているのが笑えるw
あっスレチしてしもうたw 旧唐書の一部切り取りは九州説がいかにインチキしてるか、晒してるだけなんだがな
アホとしか思えん >>601
新羅征伐に向かった欽明という天皇は早くて安全な海沿いではなくなぜか死人が出るような険しい内陸の山道を行った
な〜ぜ〜?海沿いには武装した漢人がいたからだ 宇佐八幡宮は8世紀創建だが昭和になって本殿の地下から石棺が発掘されたのに慌てて埋め戻した
つまりそういうことだ >>648
位置関係が破綻してるぞ
女王国の以北にある、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と投馬国、邪馬台国の他に、
遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、
不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、
支惟国、烏奴国、奴国が記録されている。また、南の狗奴国の男王卑弥弓呼とは不和との記録もある。
奴国は2回記されているが同一の国とする説と別の国とする説がある。 日本と倭の読み方をヤマトと定義した統一国が狗奴国や伊都国なわけねーだろw >>627
「倭国大乱」は北九州の話。
当時の鉄製矢じりは筑紫平野の博多近辺や福岡がダントツ。
考古学的にも無視しないと成り立たないのが(トンデモ)畿内説w >>594
罰ゲームで大陸に朝貢とかあり得ないな
先進文明が大陸から伝わってきた時代だから倭、日本を代表して大陸と交流するという事は日本の盟主を意味する
当然大陸の先進文化や技術を自分達が優先的に知ることが出来るのは盟主として国内統治の必須条件だろ
江戸幕府が鎖国して各藩には交流を禁止しても自分達だけは出島で交易を続けたの同じ >>551
その人偏云々てプラスで見た話じゃない?
いや〜わかってくれてうれしいよ周と漢人の関係を見れば倭国の勢力図も見えてくるよね >>655
投馬国から水行とは書いていない
帯方郡の役人だから全て帯方郡からの日数 >>660
旧唐書と翰苑の「廣志曰く〜」は畿内説が拒絶反応を示す文献。
書いてあるものは書いてあるんだから認めなきゃ話はこじれるだけ。
飯を食うためにわざとそうしてるのかもと疑ってしまうね。 司馬仲達が公孫氏を滅亡させたあとに魏は朝鮮半島も領土に加えたんだよな。
そして倭国の使者が訪れるようになった。 >>659
美濃とか伊勢、紀国、播磨、土佐、石見、伊賀があるね 書いてないって…。
せめて俺はそう解釈した、そういう説読んだ、とか言えよw >>608
なぜ畿内に奉って高神格の社殿にしなかったのだろうなぁ
比売神は祭神の娘などを指すが
応神天皇も娘八田皇女も神宮皇后も畿内に推定される墓があるというのに
何故そこで奉らず九州等という争い絶えない土地に封じるような真似をしたのか
いやー謎だね謎 魏志倭人伝
> 南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日 彌 彌 那 利 可五萬餘戸
日本書紀 巻第七
> 二曰 耳 垂 。殘賊貧婪、屡略 人民。是居於御木木、此云開。
つまり投馬国は御木
いまの福岡県三池郡あたりと比定できる
この部分について だ け はほぼ間違いない
しかもコイツを 景 行 天 皇 が し ば い て る
つまり魏志倭人伝をどこをどう読んでも
邪馬臺国は畿内しかない
建武中元二年 ⇒ 西暦57年 ⇒ 垂仁天皇86年(皇紀717年)
垂仁天皇 ⇒ 「纒向珠城宮」
景行天皇 ⇒ 「纒向日代宮」
つまり投馬国はすでに大和朝廷の版図にはいってる 位置関係でも狗邪(加羅)の南って九州しか有り得んな
あとは九州でオシャレな大陸交易品がたんと出るところを探せば良いだけ
交易を独占してるからこその女王国でしょ 日本や倭をヤマトと読むように
注釈を入れたのは平安時代。
なお、注釈を入れるくらいだから
あまり日本や倭をヤマトと読まれていなかった模様。 鉄って非常に重たいんだが、当時はどうして運んだんだ?
基本的に現地調達できないとどうしようもないだろ。攻める方も守る方も。
淡路島で鉄器の生産が始まった頃は船で運べるようになったからなのか? 時間で説明すると
帯方郡から南へ水行20日で投馬国(狗邪韓国)
投馬国(狗邪韓国)から南へ水行10日陸行1日(月)で邪馬台国(伊都国)
距離で説明すると
帯方郡から投馬国(狗邪韓国)までが7000里
投馬国(狗邪韓国)から邪馬台国(伊都国)までが3000里 何度も言うが卑弥呼の非武力的なカリスマ的力のみで畿内から九州を支配するのは無理あまりにも遠すぎる >>660
倭國自惡其名不雅,改爲日本
倭国から日本に国名変更したという部分を意図的に削除するのが
九州説の定番のインチキ
どんな不正行為をしてでもゴリ押ししたいんだろ ちなみに畿内説だとこの部分はどう翻訳するんだ?
(旧唐書 倭國条)
倭國者,古倭奴國也。
倭国は昔の倭奴国である。
(旧唐書 日本条)
日本國者,倭國之別種也。
日本国は倭国の別種である。 >>677
投馬国(狗邪韓国)から邪馬台国(伊都国)までが3000里
5000里じやね?
計 12000里だから >>676
最初は鉄板で燕(遼東)から朝鮮経由で輸入
しかし後漢になると鍛冶原料になる鉄塊にして輸入してたようだよ
現代でも日本刀はそのような二段階の作り方だ
だから3世紀の国内製鉄遺跡はないけど鍛冶遺跡はあるわけだ >>635
太古の三勢力
@み「な」と =奴国=博多
Aみなかた(=みなとの横の意) → 後世なまって、ムナカタ(宗像)
宗像が、かつての地域覇権国で、みなとを支配。
B内陸から台頭してきたのが、やまと(=山・戸(門)=山手のクニ)
やまと が 半島倭人や漢の帯方郡?と通じて、宗像(みなかた)から
権力を奪取したのが、海幸彦・山幸彦の神話であり、
朝貢(神話中「玉」)と鉄貿易(神話中「釣り針」)を握り、列島の覇者となる。
これは、天照(やまと:邪馬台)とスサノオ(宗像)の誓約として、再掲される。
3世紀頭に、同じことが、再度起きた。
奈良が百済地域と通じ、鉄輸入を邪馬台から奪い、
列島の新たな覇者となる。4世紀にはやまと(邪馬台)を滅ぼし、その名を奪う。
これが、「日本」である。 >>676
半島南部の任那日本府で鉄鉱石を製鉄してインゴットにして九州に船で運んでいたと書いてある
5世紀くらいに出雲でたたら製鉄が始まったら優位性がなくなったから撤退した >>665
テレビは持ってないよw(テレビ東京だけはビジネスネット会員)
たぶんテレビよりもっと元の漢籍やそのブログがソース。
エバるわけじゃなくてネットとはそういう時代 >投馬国(狗邪韓国)
なんなんだよwこれはw
しれーと書くな。俺はこう解釈しているとか、せめてそういう良心を示せよw 銅鐸の鋳造設備があるなら出雲系
邪馬台国じゃないよ
なんでこのおっさんはわかりきったことを無視して邪馬台国説を主張してるのか
キチガイなのか 対外的に示した国名は
古くは倭、のちに日本となる。
ヤマトと示したことはない。 >>679
卑弥呼は句奴国(大和朝廷)と対立してた連合体のフロントラインにいたってこと。
そのフロントラインが当時は九州だったのか、大和だったのかという話と。
場合によってはその場所に中国が欲する何らかの交易物があったからいたと。
本居宣長じゃないが、滅ぼされた方だと思う。 >>659
>>677
投馬国は馬韓、辰韓、弁韓と同じような都市国家の連合体
邪馬台国も同じで都市国家の連合体
狗邪韓国や伊都国は都市国家。 畿内説のおバカちゃんには申し訳ないんだが普通に考えてさぁ
本当に畿内の卑弥呼が北九州を支配できたんなら
普通に帯方郡が北九州を支配してましたわ
畿内からも帯方郡からも距離的にあまり変わらん
当時の帯方郡は倭国にとっては文明の最先端だから
野蛮な畿内より帯方郡の影響の方が大きい >>688
俺がニュー速で最初に言ったと言いたかった
恥ずかしくなってきたのでもういい ヤマトは奈良のことだからな
それがそれがいつのまにか国自体を表すことばになった >>686
淡路島での鉄器の生産は僅かなものだよ。 >>679
自分の先入観を何度言おうと考古学的事実の前には無意味
3世紀中頃の北部九州、とくに博多湾沿岸は初期ヤマト王権の傘下 倭(ヤマト)建命がヤマトの歌を歌ってる
夜(ヤ)麻(マ)登(ト)波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯 奈良時代以降、奈良県周辺の国名をヤマト
と読むことになるが、畿内にヤマトの
語源となるような古地名は存在しない。 >>687
なるほど、しかしそれを畿内に運ぶって言うのは困難極めるだろ。
当時の兵站能力なんてしれてるんだから。九州方面では主力の武力になったということで。
大和方面でやりあってたら、その時点では双方とも石器でやりあってたと。
大和を制圧した朝廷が九州平定に苦労したのは鉄器の現地調達が簡単だからではなかったからではないのか? イズモ系といっても、葛城と事代主とか、後代に習合した結果というのもあるし、
イズモと近畿の関係はまだ不明な点が多いよ。 卑弥呼は祭祀王、権威、邪馬台国傘下の豪族は権力、軍事力で近畿から北部九州を治めることができる >>699
残念だが三世紀末の崇神天皇の頃はまだ大和朝廷は九州を支配できてないという現実 >>705
纒向ではほんのちょっと鍛冶遺跡があるだけ
鉄器もほぼ出てない >>699
大和朝廷のどの天皇が九州に遠征したの? >>709
畿内で武器が出土しないのは何故?
素手で闘ったの? 鉄は出雲系だよ
吉備の伝承にもあるが、いずれにしても日本海沿岸から来た朝鮮系の流民が持っていた技術だろう
彼らが大和を征服した
日向系という九州ルートも間違いなくあった
これが邪馬台国かは知らん
で、日向系が大和を後に支配したのは八咫烏が知っている >>34 ← このとおり
【平成27年度】
・中国鏡の発見
【平成29年度】
・大型の竪穴建物跡1棟の発見
・104点の鉄器の発見
その中に鉄製ヤス(あるいはモリ)があります。弥生時代のものとしては、九州北部や山陰地域での出土例はあるものの、
そ の 数 は 少 な く、他の地域では極めて 稀 な 鉄 器 といえます。
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer
(-略-)
私(佐原)は
(-略-)
なお、しいて「どちらか」というなら私は大和説で、卑弥呼の使いの時の年号を書いた「三角縁神獣鏡」が近畿を中心に出土していることなどからです。
大 多 数 の 考 古 学 者 は 大 和 説 で す。
参考文献として、『邪馬台国への道』(朝日新聞西部本社編 不知火書房 1995年)を挙げておきます。
(元館長・佐原真)
つまり淡路島は
新羅系のチョンコもどきの土人(北部九州、山陰、北陸)とは一切関係ない >>706
纒向型前方後円墳から定型化された前方後円墳の築造
それに先行して畿内系土器の浸透 鉄は危険な朝鮮半島を通るので高価なはずだね
田舎だとやむを得ず青銅器で代用してたんじゃね
まあ殆ど使えんけどな >>718
それ最近違うってわかったよね。
畿内説ももうその話は出さないはずだが?
那珂八幡の件ね。 >>710
そもそも支配なんかしてない
政治連合だ
九州も政治連合に入る時期は地域によって異なるが、北部九州は3世紀中頃からだ >>711
それも興味深いな。
少なくとも纒向で作ろうとしてたということは、そこの勢力は鉄器の作り方知ってるな。
鉄を大量に持ってこれなかった可能性は高いが。それが4世紀に忽然となくなった要因かもな。
大和朝廷側はかなり遅くまで鉄を武器としては使えてないんだろ? 出雲は、たたら製鉄だろ
砂鉄が採れる
倭(やまと)鍛冶系
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A0%82%E9%89%84
出雲地方は「たたら製鉄」ゆかりの地であるが、当地では周辺地域に産する砂鉄を2種類
に呼び分け、その性質に応じて適宜使い分けてきた。
一般的には、山陰側(山陰帯)の磁鉄鉱系列花崗岩に由来する砂鉄は純度が高く、
「真砂(まさ)砂鉄」と呼ばれる。いっぽう、山陽側(領家帯)では花崗岩はチタン鉄鉱系列
であり、ほとんど砂鉄を含まないが、安山岩、玄武岩などの火山岩に由来する
「赤目(あこめ)砂鉄」を産出する。純度は高くないかわりに加工のしやすさが特長であるという。
道後山山頂付近の大池はかつて砂鉄を採掘した跡であると推定されている。 まず戦後教育と漫画やドラマの影響でみんな権力者とか争いを今風に解釈しすぎなんだと思うよ
縄文時代の日本は小規模な集落がいくつもあって、争いもなくそれなりに食えていたわけだ
その後、水稲が始まったからって急に争いなんて起こらないし、急に強力な国なんてできないから
大小の国の乱立状態がつづくよね。争いが激しいのなんてごく一部
そんな中でなんで倭国大乱になるかっていうと、権力者の争いみたいな今風の動機ではなくて、
天候不良による不作が続いての食べ物をめぐる争いだよね
ちょうど2世紀は地球規模の寒冷化の時代だから、それが倭国大乱の理由で、
その後、食料面の事情からより大きな集落をつくって治水作業や開拓を行う中で強大な権力がうまれるってのが自然な流れじゃない?
つまり元々中国に朝貢してたのは統一王権でもなんでもなく乱立している中で有力だった国の一つと考えるのが妥当
そしてその時に中国に朝貢する必要があるのは九州北部の豪族と考えるのが妥当
それと同時に大和にもっと大きな勢力があっても別に不思議じゃない 畿内と九州の距離は
九州と帯方郡の距離と変わらん
畿内はあまりに遠すぎて畿内の卑弥呼の力では九州を支配できない
畿内説だと九州人からすると卑弥呼なんてあいつ誰だよ状態になるぞ >>727
発掘によると北九州の鍛冶技術でわと言っておった記憶があるな
畿内にはないから九州の工人を出張させたんじゃね >>723
貴重品だったので農具として再利用してただけ
領主が独占してたかから倉がえらく重要だった
漢人が砂鉄をとれたのは鉄鉱石を砂状に砕いて鉄を取り出す最新技術があったから
日本で鉄の量産が起きてるのは間違いなく漢人の影響 >>725
はあ?
どこの誰が違うと言ったんだ?
九州説のド素人が違うと喚いてるだけだろ
那珂八幡は纒向型前方後円墳の亜流というだけで、前方後円墳の一種であることには変わらない >>691
おいおい、
それは、漢語標記か、大和言葉での表記かの違い。
今日、国際社会で Japan と書くか、国内でニッポンと言うかの違い。
理解した? 投馬国を構成している都市国家
1.狗邪韓国
邪馬台国を構成している都市国家(女王国の以北)
1.対馬国、2.一大国、3.末盧国、4.伊都国、5.奴国、6.不弥国、
邪馬台国を構成している都市国家(遠くに在って国名だけしか分からない国)
7.斯馬国、8.己百支国、9.伊邪国、10.都支国、11.彌奴国、 12.好古都国、
13.不呼国、14.姐奴国、15.對蘇国、16.蘇奴国、 17.呼邑国、18.華奴蘇奴国、19.鬼国、20.爲吾国、21.鬼奴国、 22.邪馬国、23.躬臣国、24.巴利国、
25.支惟国、26.烏奴国、
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国と、の他に、
遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、
不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、
支惟国、烏奴国、奴国が記録されている。ま 神の宿る島、沖ノ島は半島からの鉄の海上輸送の無事を祈る島
鉄を確保するために朝鮮半島に滲出したんだろうな >>726
往復2ヶ月も3ヶ月もかかる遥か彼方の軍事弱国の畿内の女王が連合作ろうなんて呼び掛けて誰が従うんだよw
頭悪いの?おまえ?想像力が無さすぎる
自分が当時の九州の豪族だとして従う気になるか?無視して戦争続行だろ? 投馬国を構成している都市国家
1.狗邪韓国
邪馬台国を構成している都市国家(女王国の以北)
1.対馬国、2.一大国、3.末盧国、4.伊都国、5.奴国、6.不弥国、
邪馬台国を構成している都市国家(遠くに在って国名だけしか分からない国)
7.斯馬国、8.己百支国、9.伊邪国、10.都支国、11.彌奴国、 12.好古都国、
13.不呼国、14.姐奴国、15.對蘇国、16.蘇奴国、 17.呼邑国、18.華奴蘇奴国、19.鬼国、20.爲吾国、21.鬼奴国、 22.邪馬国、23.躬臣国、24.巴利国、
25.支惟国、26.烏奴国、 >>714
半島南部の任那日本府は倭人が統治して鉄鉱石を製鉄してたのにお前な馬鹿か? >>737
お前プロなのか?
5chで考古学のプロってw > ヤマト王権
これパヨク用語な
まともな教育を受けてきた人間は
大和朝廷だから たたら製鉄は日本独自だって
中国は砂鉄は利用しない >>677の訂正
時間で説明すると
帯方郡から南へ水行20日で投馬国(狗邪韓国)
投馬国(狗邪韓国)から南へ水行10日陸行1日(月)で邪馬台国(伊都国)
距離で説明すると
帯方郡から投馬国(狗邪韓国)までが7000里
投馬国(狗邪韓国)から邪馬台国(伊都国)までが5000里 >>12
遺跡が出た!→邪馬台国に違いない!
これ本気で言ってるなら学者アホ過ぎるよ >>726
3世紀頃の鉄の供給源は専ら帯方郡
畿内だと下流になるから軍事的にかなり不利
畿内が北九州諸国を従わせるのは不可能 魏志倭人伝で重要なのは、韓国の南の地方、新羅、百済が任那(伽耶地方)が日本の支配地であると書いてあること。
だから、あとの倭の五王の時代、中国皇帝にそのあたりの支配権を認めてもらっている。
朝鮮の歴史書(三国史記)にも新羅の王は途中から倭人(丹波あたりから瓢を下げてやってきた)になったと書いてある。
朴という名前は、瓢、ひょうたんという意味。元倭人の名前だ(だからあまり中国にはない)。この瓢は丹後半島の天橋立のところの籠神社の紋章。
よって、朴氏は、恐らく海部氏が祖先だ。 >>743
任那日本府というのがファンタジーなのをしらないのか? >>741
だから、そんな妄想は無意味だ
否定したいならヤマト王権が存在しなかったことを根拠をあげて反論しろ 魏志には各国に首長(官と表記されている)がいることが記述されており、邪馬台国にも官がいる。
他の国々が官と副がいるという記述であるのに比べ邪馬台国のみ「官に伊支馬あり、次を弥馬升といい、
次を弥馬獲支といい、次を奴佳鞮という」と歴代で記述されている。
伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳鞮を崇神天皇前後の天皇に比定する説は昔からある。 >>733
だから畿内攻略なんかしてねーっての。
(それが起きたのは、弥生人が入ってきたときの、対縄文人の話w)
東遷は、九州やまと(邪馬台)を滅ぼし、その権威を簒奪した
奈良による虚構なんだっての。
奈良が権威ある「やまと」の名を名乗る正統性を作る為の >>732
日本は縄文時代から船による交流があって、お互いに貿易しまくってたわけだから
日本海を隔てた大陸と同じに扱うのは明らかに間違い >>751
九州と半島は行ったり来たりしてるから別におかしくないよ >>743
任那よりも金海の方が有名だろね
金海(金官加羅)も倭人ゆかりの貿易拠点だが鉄原料が出るんだね
いずれにせよ後漢の製鉄技術を取り入れて朝鮮南端が次第に製鉄地帯になるのが3世紀ぐらいかと >>744
ド素人だが
プロが言ってることを否定してるのは自分だろ >>752
ヤマト王権の存在は否定しないが九州の邪馬台国とは全く別の畿内の国でしょ?
なぜ邪馬台国とヤマト王権がセットなのか理解不能 五斗長垣内遺跡 遺物の鉄器は、矢尻、鉄片、鏨(たがね)、切断された 鉄細片など75点が出土した。
方保田東原遺跡 合計500点以上の鉄が見つかっていて、その多さは全国でも際立った数です。 種類は斧やナイフなどのほか、鎌や釣り針など非常に多彩です。
注目されるのは、製品ではない塊や棒や板状の破片です。 これらは鉄器の素材となった物と考えられます。 出土数は全体の約半分を占めているので、この遺跡ではかなりの規模で 鉄器づくり(鉄鍛冶)が行われていたようです。
西弥護免遺跡 弥生終末期(581点の鉄器、細い針状の鉄滓など) >>751
「任那日本府は、ファンタジー」
それ戦後学会のファンタジーだからw >>751
任那日本府は実在した
任那日本府をファンタジー扱いするのは朝鮮人
邪馬台国時代には投馬国と呼ばれていた。 >>751
ファンタジーで前方後円墳はできないからな
広開土大王「俺が嘘ついてるとでも?」 近畿説はどうしても北部九州を支配下にしたがるけど
じゃ相対する狗奴国ってどこ?ってなるから
いい加減ありもしない支配下説はやめような >>752
邪馬台国が畿内にないとヤマト王権が存在しなかったことになるという意味がわからん
九州に卑弥呼の邪馬台国があって畿内に纏向箸墓造ったヤマト王権があったんだろ? >>759
その「プロ」は、学問より学会内政治にお忙しいようで
素人からの評判は、芳しくないのよねwww ヤマトとヤマタイコクって同じなの?
ヤマトは奈良のことだと思うけど >>757
任那日本府の存在を主張するのは邪馬台国が奈良にあったと主張するのと同じだぞ つうか3世紀後半の崇神天皇が九州遠征してるよな?
3世紀後半時点で九州支配できてなかったってことだろ? 大事なことだけど、三國志は筆者である陳寿の「草書体」を
その死後皇帝命令で官僚が書き写してるので、
和名の音書き部は誤字(=読み取り間違い)が多い。
誤判別「投馬国」=「殺馬国」(=薩摩国)
というのが書道プロの見解。
対馬や壱岐の間違いもそれで氷解する 任那日本府はいつから「日本」を名乗ってんだ?
日本より先じゃないの? >>752
お前の方が妄想
邪馬台国=大和朝廷だと信じてるカルトだろ? >>766
クノ国ではなく犬人国な
犬や狼が先祖ていうのがアジアに広くいる
朝廷では民に犬の鳴きまねをさせてたてどこかで見たがどこだったか…
とにかく縄文人とやらがこれなんじゃないかね 畿内説がファンタジーに見えるのは、文字も無けりゃ馬も居なかった時代に
全国統一国家があったなどと現代人感覚で解釈しているところ。
アニメの見過ぎだろ。 >>771
あの辺の領土なんて取ったり取られたりだよ
あったんだよ なぜ3世紀に大和朝廷が九州を支配してたと思い込んでるのやら >>775
任那日本府は本来は任那倭府だろうな
日本書紀編纂時に任那日本府としたんだろうな。 >>760
そうじゃないと邪馬台国が東遷できないから。
ひいてはアマテラスから連なるヤマト王権の基部は邪馬台国のあった北九州からの遷都であるというメルヘンが言えなくなるから。
実態は神武東征は宮崎県の高千穂からなので、北九州とは言い難いのだが、神武東征の移動ルートを無視して筑紫国の日向をスタート地点に置きたがるとかね。 >>775
遣隋使あたりじゃないか
日の丸も遣隋使から
天平の甍だよ そもそも全羅南道に倭人貴族の前方後円墳ができるのは日本より遅い
つまり任那(全羅南道)が倭人地帯になるのは五世紀ぐらいでしょね
記紀だと倭人と百済人の貴族がいたようだよ >>779
3世紀の関西には未だ日本人もいないんだぜ。 3世紀どころか4世紀の景行天皇の時代ですら未だ九州と戦争してた >>764
ほら見ろ、言ってない
久住猛雄さんは「近畿の古墳をまるまるコピーしたのではない」
九州大の溝口孝司教授(考古学)は「近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合という形」
讃岐型と同様に纒向型の亜流だということだ 倭(ヤマト)
邪(ヤ)馬(マ)台(ト)国 → 台(ト)与(ヨ)でもわかるとおりそのまんま
夜(ヤ)麻(マ)登(ト)
大和(ヤマト)
そのまんま >>783
新羅や加羅は倭を全く隠さないのに
任那日本府だけ倭を隠す
何か変だな >>785
邪馬台国が東遷とかおまえの脳内ファンタジーどうでもいい
邪馬台国は卑弥呼死亡後にすぐに滅亡する 「任那官家」「在安羅諸倭臣」の存在まで否定するのは学会の主流ではない。 >>775
他に記録がないから「日本書記」からだと思う >>790
前方後円墳を根拠にヤマト政権による統一国家があったと誰が言ってた?
お前らが言ってるだけなんだよ。
畿内説は「緩い祭祀連合」としか言ってない。
お前らの妄想で畿内説考古学者はディスられるだけw 日本書紀は基本的に奈良時代の用語で統一されていることを知らないのがあーだこーだ言っているのか・・・ >>787
前方後円墳は重要じゃないよ
倭人(渡来系弥生人)は朝鮮半島から日本列島に渡ってきたんだよ
弥生時代末から古墳時代に日本列島で縄文系弥生人と混血して現代日本人が誕生した。 俺の説だと4世紀に百済と大和朝廷とで北九州連合を挟み撃ちにして九州を統一したと見てる
だから百済と大和朝廷は忠義の関係が成立した >>791
邪馬台国九州説内の一部の頭のイカれたやつのファンタジー小説 >>19
書紀について語りたいなら
神功皇后の複雑な神話構成くらいは抑えとけ でも、古代史中国人はなんで人偏の倭の字を当てたんだろう
獣偏の犭じゃないんだ? ところで畿内説だよココはどう翻訳するのだろう?
(旧唐書 倭國条)
倭國者,古倭奴國也。
倭国は昔の倭奴国である。
(旧唐書 日本条)
日本國者,倭國之別種也。
日本国は倭国の別種である。
日本舊小國,併倭國之地。
日本(畿内)はかつて小国だったが、倭国を併合した。 >>544
>名前が異なると考えるのが普通。現代でも日本とJAPANのように国内的名前と国際的名前は一致してない。
>なぜか。海外では外国語で表記され、基となるものも一致しないから音韻も一致しない。
卑弥呼の時代は、アステカ文明と同じく、縄を結って結び目で文字の役割を遣っており、字がなかったらしい。
それで、魏書には音を表すには、漢字を当てた。発声・発音記号がない時代であり、金印も持ち手の紐を
通す部分も、格付け(駱駝、蛇、ツチ:日本はツチ)があった時代であるので、日本を「ニホン」ではなくて、
「ニッポン」と読んでいた漢族とは別の異民族蒙古・モンゴル帝国のフビライ・カーンから紹介を受けてたこと
から、東方見聞録の作者のマルコポーロは、Japon「」とモンゴル人の発音で紹介するしかなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%B0
>東方見聞録には「ジパング諸島の偶像教徒は、自分たちの仲間でない人間を捕虜にした場合、もしその
>捕虜が身代金を支払えなければ、彼らはその友人・親戚のすべてに『どうかおいで下さい。わが家でいっ
>しょに会食しましょう』と招待状を発し、かの捕虜を殺して――むろんそれを料理してであるが――皆でそ
>の肉を会食する。彼等は人肉がどの肉にもましてうまいと考えているのである。[3]。」との記述がある。こ
>の記述は、ジャワ島付近の諸島の解説にもみられる[4]。
>「ジパング」の綴りは『東方見聞録』の写本・刊本によって一定せず、平凡社東洋文庫版(愛宕松男訳)
>の底本であるアルド・リッチ英訳本では「Chipangu」、フランス国立図書館 fr. 1116 写本(14世紀、イ
>タリア語がかった中世フランス語)では「Cipngu」、グレゴワール本(14世紀、標準フランス語)では
>「Sypangu」、ゼラダ(英語版)本(1470年頃、ラテン語)では「Çipingu」、ラム―ジオ(英語版)本(1559年、
>イタリア語)では「Zipangu」となっている[5]。愛宕訳ではリッチ英訳本に基づいて「チパング」と訳している。
チパング??!! >>789
景行天皇は九州内の話で九州統一の物語だよ。 >>767
そういうこと。
やまと(邪馬台)がその名にある「山手のクニ」から脱し、
広域国花になった後の拠点は、おそらく大宰府。
朝貢と鉄輸入を握り、列島の覇権国になる。しかし、奈良が台頭。
3C頭、漢滅亡で朝貢秩序が崩れた際、倭国大乱が起き、
奈良(纏向)が勝ち、覇権をやまと(邪馬台)から奪う。(→卑弥呼の時代へ)
4C華北が完全崩壊すると、奈良(纏向)がやまと(邪馬台)を滅ぼし、
権威あるその名を奪う。
なお、方言として、やまと(邪馬台)とやまと(大和)では、発音に違いが
あったかも。それが不思議な邪馬「台」の字が当てられた理由かな。 >>806
都合悪い物は見えません。読めませんwww >>806についてもう一つ質問。
日本の使者はなぜ「いにしえの邪馬台国です」と名乗らなかったのか? >>798
>前方後円墳を根拠にヤマト政権による統一国家があったと誰が言ってた?
畿内説ではこんなのこと言ってないが
3世紀は祭祀を共通にした政治連合だと最初から言ってる
おまえは誰も言ってないことを言ったとイチャモンつけてるだけだ そもそも筑紫磐井と物部麁鹿火の争いは任那日本府が原因だったよなぁ 魏志倭人伝の文章からして、著者は邪馬台国には行っていない。奴国以降が伝聞である。
よって、その当時すでに、邪馬台国は北部九州にはなかった。
魏志倭人伝の著者が来る少し前に邪馬台国は九州から奈良に移ったと考えられる。
だから、方角の記述が混乱している。
恐らく、倭国大乱と同時期に移したのだろう。このころ吉野ケ里も衰退した。
また、次第に朝鮮半島に対する支配も手薄になっていき、朝鮮半島から撤収する倭人、帰化人が生じていった。 畿内と北九州って中国で言うと長安と成都くらい離れてる >>811
そもそも3世紀の初頭の纒向ってただの寒村だよ >>816
漢人磐井と駒人物部の闘いねほらねほらね >>800
史書にある倭人の存在との整合性が取れないんだが。 北部九州、出雲、北陸の新羅系のチョンコもどきの土人は別種だからな
そいつらは東へ北へと逃れてる 最古級の前方後円墳とか纒向型とか全部根拠の無いから
近畿地方以外誰も正しいとは思ってないから注意な >>819
教科書にも書かれてるほどの基本的知識だろが 邪馬台国は単なる北九州連合国だろ?
なぜそれを畿内の大和朝廷と結びつけようとするのか理解できない >>817
行ってるよ
皇帝の使者が冊封した王に合わずに帰るかアホw >>825
三韓は全部高句麗から分かれてる
ただ住民がごちゃまぜだから建国の王様だけ見てると分かりにくい >>806
壬申の乱の前後の話と神武東征の話を唐人が混同した。 >>806
どうして倭は自ら日本に国号を変えたという記述を無視するの? >>823
取れてますよ、何処が変?
最近のDNAの解析結果とも整合性が取れてるんだが。 旧唐書が強烈すぎるなら魏志にしてあげようか
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南
畿内説だと女王国の東の海を渡った先の倭種の国ってどこだよ?
また、南の侏儒国はどこ? >>820
しらん
じつは韓国併合したのち任那日本府を日本軍が調査したが証拠がみつからなかった >>809
実在したかどうかは知らんが、福岡県にはいたるところの神社に
神功皇后に関する伝承が濃密に伝わっている。
たとえば俺が小学校の頃に遠足で行ってた池の横の神社には、
は村人が産気づいた神功皇后の輿を担いだ伝承があるし、
大学の近くの神社には、応神天皇の胞衣が埋まっているらしい。
架空の存在だとして、誰が何のためにこれだけの質量の虚構を構築したのか…。 畿内説のバカに共通するのは邪馬台国と大和の発音が似てるから同じ国に違いないと信じてるとこ
ヤマトは当時の倭人の外交用の呼び名だろ? >>826
そこ重要
畿内ゴッドハンドで最古を作れるからひどい
本当の最古はほかの地方を探すべき >>700
日本書紀では景行天皇が何故か九州で歌ってるがな
正史として収蔵する文書は九州でヤマトを讃える歌を歌った事を書いているのに
大和言葉で国内の大勢に流布する用の古事記では
ヤマトタケルが三重で歌った事にしたのはなんでやろなぁ
ヤマトタケル自体の存在も九州行幸では違って来るし
いやー謎だね謎 >>834
東の海を渡った先はアメリカ大陸じゃないのw
南はオーストリアかなwww >>813
奈良が、やまと(邪馬台)の名を継いだが、
漢語では、倭国を統一したとして、大倭とした。(のちに同音の大和に変更)
そのため、国内では歴史的国内権威を示す「ヤマト」の名を用い、
大陸向けには、統一したとして「大和」、もっと大きく出て「日本!」
を名乗ったわけだ。 倭(ワ)→大倭(ダイワ)→大和(ダイワ)
までは変更可能だが
大和(ダイワ)→大和(ヤマト)
になるような経緯がない。
突然後世に、おそらくは平安時代に
ヤマトと読ませたい勢力があったのだと思うが
古地名も無く変わった経緯がわからない。 >>819
ほれ、山川の教科書からの抜粋だ
【ヤマト政権について】
「3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現する。
(一部略)
古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、
その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは、奈良県(大和)にみられ、
この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。」 東の海を渡った先の倭種の国は
倭国大乱で
滅ぼされた新羅系のチョンコ土人が群がってる場所ことだ
邪馬台国は勝者であり支配者でもある大和朝廷だからな >>836
むしろ邪馬台国とか切り捨てた方が日本書紀の記述に信頼性が増すのでは?
邪馬台国を切り捨てないと卑弥呼に該当する人物がいないから信頼性が下がる一方 >>840
古墳の築造年代は見直さないといけないな
根拠があやふや過ぎるな。 >>844
というか、どっから「ヤマト」なんて
持ってきたんだろうな。 やっぱ蘇我さんの御子息で倭を以て日本とせよと融和策してた立派な方が居たけど
理解されず殺されて
シレッと背乗りした連中が日本を名乗ったんじゃないかなぁ >>845
www
だれか柿の種を埋めてみて欲しいwww >>844
倭人たちの発音では、
倭(やまと)→大倭(やまと)→大和(やまと)
じゃなかろうかと。 4世紀の景行天皇が九州遠征してる
3世紀はまだ大和朝廷は畿内ローカル王朝 記紀で普通に倭(ヤマト)建命がヤマトの歌を歌ってるからな
夜(ヤ)麻(マ)登(ト)波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯 >>800
呉や越あるいは楚の民が
地理的に朝鮮半島経由でも大量に日本列島に流れ込んで来たのは
ほぼ確かだと思う。
また半島南端に倭人が居たのは考古学的にも記録的にも事実。
その時に朝鮮半島の原住民がどの程度居たのかはわからない。
弥生期の渡来人が解明されるのはこれからの古人骨DNA解析待ち >>846
そう言った考古学者の名前を示せと言ってるんだよ。
旧石器時代もよく確認もせずそうやって教科書に記載されていたが、消されたよなw 魏志倭人伝によると当時大陸の人達は日本を訪れるとその進んだ技術に驚いたらしいな
鉄工や木工技術が高くて大陸から視察団が来て日本の技術を学ぶ番組が当時からあったとの記録がある >>808
日本書紀には、景行天皇の九州遠征において今の山口県から福岡県の京都郡(現・行橋市)に
上陸し仮宮を建てたことが記述されている。
4年前に、行橋市でこれを裏付ける可能性がある遺跡が発見された。
【考古学】福岡・延永ヤヨミ園遺跡から国内最古級の「導水施設」、3〜4世紀中頃のものと判明 [15/03/16]
https://daily.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1426577492/ ジャパンは マルコポーロのジパング
中国読みでヒポンがジパング 纒向でメロンの種出たら大騒ぎだろなあ
九州ではその500年前にメロン食ってたがw >>848
邪馬台国を切り捨てなくても日本書紀の記述の信憑性は下がる一方だよ
新しい研究結果では現代日本人が成立したのは弥生時代末から古墳時代なんだからね。 >>809
実在というかモデルがあって、それがすごい複雑
まず古韓半島の津波の記録
6世紀後半〜7世紀前半頃のどこかで台頭してきた息長氏の格を上げるため
斉明天皇の百済復興・新羅進軍の情景
これらを重ね合わせたもの 「ヤマト」というのが固有の地名
それにいろいろな漢字を当てはめてるだけ
倭や大倭や日本から、「大和」に変えたのは、律令制の一国として扱うため 4世紀の景行天皇が九州を平定してヤマトタケルの時に謀反が起きて再び平定しにいったと言うのが日本書紀
つまり3世紀の卑弥呼の時代は九州を平定できていないと日本書紀様が仰ってるわけだが?
なぜ畿内説カルトはこれを無視するの? >>839
邪馬壱→邪馬台に、江戸時代初期の町医者がゴットハンドした >>767
畿内説とは、初期ヤマト王権を邪馬台国とみなすという説なんだよ
九州説のやつらは畿内説を否定したいから、いろいろイチャモンをつけてくるが
それはヤマト王権の存在そのものを否定するのと同じこと >>833
いわゆる渡来系弥生人とされるものは現代朝鮮人と同一ではないということは判明したが、
それを歪曲してるだけだな。 しばきにいったのはクマソ(九州南部)だからな
九州北部の土人を追い払ってないと
九州南部の土人をしばきにいくことなんかできない >>856
ヤマトは、くにのマホロバ たたなづく・・・
マホロバ って何だ?
ハッテンバみたいなもんか?w 魏志倭人伝にある通り、女王の治める邪馬台国と長年覇権争いを繰り広げていた男王治める狗奴(クナ)国こそ初期の天皇が拠点にしていた熊野国だろう。
まさに日本書紀の記述の通りで全く矛盾が無い。 争いより農業に重きを置いたほうが真実に近づける気がする
鉄器以前は広大な農地が作れないから、大災害や大不作のときに遠くの地をもとめて住民大移動が行われた
これが伝説化したのが神武東征
鉄器が伝わると、争うとか以前に、農地を増やせるから新しくどんどん農地をひらくとそれに伴って
用水路をつくったり、上流の村と下流の村でうまく水の権利を調整したり、洪水の時に水を逃がす場所をつくるために治水をおこなったり
周辺の村々が頭のいい指導者のもとに協力する必要がある
中国だと上流の国の治水工事のせいで下流の国に水がこないとか洪水が起きるとかあるので、大規模戦闘が起こったが、
日本はそんなに広くないので、話し合いによる広域連合がつくられやすかった。それが一番機能したのが機内であり
その技術が広まる過程で影響力がまして、大和朝廷の形ができていった。 >>872
大和朝廷が701年に成立したことを否定しない。 >>872
そもそも3世紀に大和朝廷は九州を平定できてないよね?その辺はどう説明するの? >>872
3世紀の畿内にも文字の書けない政権があったかもしれないな。
それは否定しない。 >>874
だから景行帝は、筑紫を避けて大分から上陸したんだってば。 畿内説を唱える大先生が近々死ねば消える
学会なんて忖度のかたまり >>870
だから漢人と高句麗人の戦争だって高句麗人は韓人とか新羅人て言ってもいい
平定じゃない普通に外戦
漢人みたいな技術者を奪いに行くのは古代の定番 熊襲という野蛮人と
新羅系のチョンコもどきの野蛮人は
別種だからな >>879
北部九州が初期ヤマト王権の王権の傘下に入ってるだけで十分だろが
畿内説の論拠に何で九州を平定する必要があると考えるんだ? >>873
渡来系弥生人は源倭人でしょ
渡来系弥生人が日本に渡り先住民の縄文系弥生人と混血して現代日本人が誕生したんだよ
渡来系弥生人と現代朝鮮人は全くの別物。 >>872
ヤマト王権と邪馬台国は別の
ヤマト王権は畿内
邪馬台国は北九州
ヤマトは倭全体の呼称 科学検証に基ずいた、史書との整合しなきゃならないから たいへんなんだよ
測定の行程をちゃんと見ておかないとぉ〜
筒をブスリと地中にさして 地質を調べながらなんだぞ
色、成分、内容物の分析 記紀の編者は魏志倭人伝の卑弥呼のことを知っていたが
大和朝廷より先に日本を統治していた女王がいたとしてはまずいと偽造した
ここ点でも他の外部勢力を示しているよな
やはり北イスラエルの民が中央政権に背乗りしてきたのか >>888
北部九州が初期ヤマト王権の王権の傘下にいつの間に入ったの
初期ヤマト王権って何時どうやって誕生したの? >>888
傘下に入って、なんの得があるんだ?
狗奴国に負けそうになって、魏に援軍を
求めてるのに >>889
違う
出雲系はほぼ混血してないことが証明された
NHKサイエンスゼロからの知識だが
これにより出雲ルートが決定的となった
これに実はほぼいろんなことが確定した そもそも邪馬台国が当時の列島を代表する国(勢力)かどうかも分からん
金印なんて奴国王でさえ貰っているわけだし 卑弥呼は30カ国から共立されたって書いてあるだろ?
強い弱いとかじゃないのよ。均衡点、不動点だったわけ。 >>888
倭国大乱やってた北九州諸国がいつ大和朝廷の傘下に入ったのやらさっぱりわからんのだが? 邪馬台国が日本の歴史の及ぼした影響は実際のところほとんどないんでしょ。
言ってみれば明治維新の坂本龍馬みたいな存在。
ネームバリューだけ大きいだけで、あんまりそれを中心に考えると歴史研究も歪んじゃう。
それよりも、邪馬台国は抜きにして、纒向遺跡なり他の遺跡なりがそれぞれ果たした役割を
きちんと調査研究していくのがよいでしょ。 魏志に記載してある卑弥呼の占い
「輒灼骨而卜 以占吉凶」
骨を焼いて吉凶を占う
天皇がやってた亀の甲羅でもないし、カエルでもないな。 桃の種で決まるって
もはやキチガイだが
学者は恥ずかしくないのか 詳しい人に聞きたいんだが景行天皇の時北九州は大和朝廷に従ってたの? >>884
だから、ちょっとオマイは、土人土人て、あんまり言わないように
下品どすえ? そうだ、そうだ、もう残り少ないが、唐古・鍵について書けよw >>894
九州王朝説カルトは放置
>>895
それ九州説を前提とした妄想
畿内説には関係ない >>904
畿内説はもはやキチガイを隠そうとしなくなったwww >>904
それだけ畿内説は追い詰められてるんだろwww >>896
2世紀に来たばかりの渡来人が出雲に居たってだけでしょ。 >>902
縄文弥生の文化なら全国で共通したものがあってもおかしくないよね。 >>905
4世紀前半とされる景行天皇。
熊襲が背いたので征伐に赴いたという建前だが、熊襲どころが九州は全く支配できていない。
何とか日向に入る。ただ日向にだけはスムーズに入っている。
そしてそこを拠点に熊襲を討つ。
さっさと帰れば良いのだが、日向で嫁をもらって6年過ごす。何をしていたかは書かれていない。
ここで問題の歌を詠む
倭は国のまほろば、たたなづく青垣、山隠れる、倭しうるはし
A説 通説 望郷歌。帰りたいけど帰れない
B説 南九州こそが倭(やまと)
@なら力関係は、日向>景行天皇 Aなら九州=倭国
どちらにしても隣国と敵対した日向の派遣要請に辺境の友好国が応じたと解釈するのが妥当。 ジャパンは間違った呼び方だと言わなかった
長州チョンのせいで
日本で通じないキチガイ国になった >>907
そうだそうだ。
俺は一生懸命くるりんの謎を解いたのに>>768、
誰も褒めてくれんw 九州王朝とか今の九州説の人らさえ考慮してないのを持ち出してこないでw >>907
纏向より弥生らしい遺跡。
消えた理由が南海トラフなのか?洪水なのか?
邪馬台国ばかり気にしてそれすら調べない考古学者。 畿内説のバカは景行天皇や日本武尊が必死に九州まで軍を連れて遠征して九州を平定したのに
卑弥呼は遠征せずに祭祀の力だけで畿内から遥か彼方の九州を平定したと思ってんのか?
卑弥呼って何者だよwww >>914
南九州がヤマトはない
なぜなら土壌の関係で穀物が作れなかったから >>904
こいつ昨日から捏造ばっかりやってたやつか
畿内系土器がヤマト王権と関係ないとか言い張るが、追求するとダンマリ
ほとぼりが冷めるとまた嘘を連呼するやつ >>876
熊野国みたいな平野の無い地域にそんな強力な国ができるとは思えない。 >>809
神功皇后が新羅を従属させたとか言う話は信じられないけど、倭寇みたいに
韓国沿岸部の集落を襲って略奪したということはあっても不思議じゃないよな。
神功皇后は伝説の女海賊みたいな存在で、それを大和朝廷が皇后であるかのように
話を作り替え、新羅を従属させたという話にしたということはあるんじゃなかろうか。 >>917
近年の古代人のDNAの解析結果を見ると九州王朝説が事実だと思えてくるね。 >>834
>東の海を渡った先
伊勢湾を渡った先だな。
ここは古代から近代にかけて渡海が基本。
古代は濃尾平野の半分が海で、その北の陸地は東山道になる。
海を渡るから東海道な。南海道も西海道も海を渡る。
海を渡らない北陸道、東山道、山陽道、山陰道には海の字はない。 別に桃の種でも出りゃ成果だろうけど
それが卑弥呼の証拠って狂喜乱舞する畿内説の学者はまじで既にオカシイね
多分トウシツだと思うね >>925
新羅の人も神功皇后の存在は「共有」していた、という証拠はある。
西宮の廣田神社は神功皇后が新羅征伐からの帰りにアマテラスを
祀った神社なんだが、平安時代の延喜式の外交プロトコルでは、
新羅の使者はここで酒を与えてもてなすことになっていた。
新羅の人を仇敵の神功ゆかりの地でもてなすのは嫌がらせの極みだが、
この嫌がらせが機能するのは、新羅人にとっても神功皇后の実在が
共有されていたからだよね。てなわけで、当時の日本と新羅との間では
神功皇后は生々しく存在していたと。 >>926
人が多いだけだと部族社会になるから
王朝ができるのは軍隊が来てから >>927
渡るって島から島へ渡る
又は川の対岸へ渡ることだよ
東海道へは陸が続き岸に沿って進むから渡るではない >>860
たぶん、その時に今の日本人の祖先の一部が渡って来たんだと思うよ?
たぶん職人だったんだろ、古事記とかの かなり古い時代のころだね >>907
唐古・鍵の特徴的なのは銅鐸鋳造設備
銅鐸の破片が出土
これは出雲系だと思われ
邪馬台国は全く関係ない 邪馬台国は王朝と言うほど立派なものではない
ただ地理的に魏(中華)に近かったから、
朝貢した。目的は、狗奴国に負けそうになったら助けてもらおうと思っただけ >>923
庄内式土器が西日本全域で作られたのにいったい何の証拠になるのかな
昨日もキモいレスでまじでやめてほしいね
多分畿内説で必死なんだろうけどw 九州って古墳が存在しそうなところは高速道路、自衛隊基地、ゴルフ場、工業団地、今ではメガソーラーになってるからな。どうにもならん。 畿内説の致命的なのは北九州支配のために使った武器が殆ど畿内で見つからないというところ
武器なしでは数十年戦乱が続いてた北九州を鎮圧できないよ >>927
3世紀と言われている纏向では東海土器が大量に出土してるが、それが国名すら分からない倭種の国?
矛盾だらけw >>844
令制国の倭(やまと)がまずあり(令制国はわかるよね?)、奈良時代の法令で地名は全て二字の
佳字にすることとなり(明日香が飛鳥とか)、倭は養徳となった。
これに天子の国であることを示す大の美称(大漢、大唐、大日本など)を付け大養徳に。
それを更に変えて大和になった。 大和政権が魏志の朝貢を神功皇后の歴史として認めている事実は変わりません >>928
犬の糞が出ても卑弥呼の証拠と言いそうだw >>917
唐になってかなり直接情報がもたらされた時代でも
『天皇は代々「筑紫城」に住んでた』と書かれてる。
どこがヤマトなんだろうなw >>923
福岡から見つかってる古い畿内式土器は
埋蔵された年代がはっきりしてないので証拠にはならんよ
何しろその土器が見つかった遺構の年代はその見つかった土器の型を基準に決めてるので
本当にいつ埋められたのかはよく分かってない
ただ特殊な土器のはずなのに側溝に捨てられてるなどあまりいい扱いは受けてないので
祭祀の繋がりは考えにくい >>923
(横だが)
畿内系土器が3Cの九州から出るのは、当たり前なんだよ。
魏志倭人伝を読めば、3C頭の倭国大乱で、やまと(邪馬台)が負けてる。
九州やまと(邪馬台)は、権力無き権威(というより朝貢要員w)に落ちて、
奈良(纏向)が列島の新たな覇権国になったのがわかるわな。 北九州の邪馬台国って狗奴国に負けて熊襲に九州全土を乗っ取られてたんじゃないか?
日本書紀見ても九州征伐はだいたい対熊襲熊襲だよな?
哀仲天皇の時に九州北部の筑紫で熊襲と戦ってることからも明確じゃない?
4世紀には熊襲が九州全土をおさえてた >>869
スレ先の記事を読めよ。
>ヤマト政権発祥の地とされる奈良県の纒向(まきむく)遺跡で出土した国内最古の3世紀後半〜
>4世紀初頭のものとほぼ同時期で、近畿で始まった水の祭祀が極めて短期間に九州にも伝わっ
>ていたことになる。誕生したばかりのヤマト政権が延永ヤヨミ園遺跡一帯を九州支配の拠点と
>していたとみる識者もいる。
>西谷正・九州大名誉教授(考古学)の話 ヤマト政権の最新文化が時間差なくもたらされており、
>この遺跡一帯が誕生したばかりのヤマト政権の九州支配の拠点だったのではないか。 纒向の土器は吉備とか東海はあるが九州はほぼないらしいね
普通に考えて奈良の近所から入植させた開拓地なんじゃね >>935
ヤマト王権と関係ないと言い張るなら、畿内系土器と前方後円墳が
同じ地域(庶民が勝手に拡散した例外は除いて)に分布する理由は?
関係ないと言ってる学者は誰だ? >>949
縄文文化の名残りだなw
全国共通当たり前。 >>946
俺もそれだと思う
狗奴国と邪馬台国の戦いは結局邪馬台国が負けて九州北部まで狗奴国になってたところに畿内の大和朝廷が大軍派遣して百年以上戦い続けたんだと思う >>944
共伴する「九州の土器」で年代を決めてるんだよ
デタラメは不可 >>949
てか、魏志倭人伝には「塚」しか出てこないのに、前方後円墳てwww 神功皇后が卑弥呼とかもう誰も言ってないのに
いまだに言う人いるんだな そうか、九州説の学者は、桃の種を探せばいいんだな?w >>949
それは4世紀の話だね
庄内式は3世紀前半
まじで昨日と全く同じレスだナ
ちょっと頭がおかしいんじゃね >>954
百年以上歴史がずれてるからな話にならん >>948
距離の差を考えような?
ほぼ無い=ゼロではない。つまり交易は成立していたって事だ。 >>948
そいや吉備だって漢人文化だよなあからさまに鬼の城なんて言っちゃってるし
中原の主食だった黍も吉備の国の食い物だからキビて呼んでるし >>943
それは宋の時代に日本の僧侶が皇帝に天皇の系図が書かれた史書を献上したというものな。
そして筑紫城云々は記紀の日向三代までのことで、神武天皇は筑紫を出て「大和州橿原宮」に
入ったと書いてある。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/soushi/soushi_yomi.htm 畿内説の根拠の原理はこれ。
現代中華製品で溢れる世界は中国の属国だ!
iPhoneが全土から出土する日本はアップルの属国だ! この国は中国から徐福がやってきてヤマトを
作ったんです。
その縁で中国に朝貢していたんです。
ただ中国の属国になるわけにはいかなかった
ので徐福が来る前からヤマト王権はあったと
捏造して中国を牽制したんです。
それが神武天皇や欠史八代の歴史なんです。 邪馬台国は狗奴国に滅ぼされてる
畿内の大和王権とはなんの関係もない 邪馬台国が畿内にあった説以上に、邪馬台国が大和朝廷の前身という説のほうが無理筋だと思う >>958
要するに纒向って九州とほぼ無縁だわな
土器の流入からは明白 >>956
どこの遺跡を4世紀と誰が言ってるんだ? 新唐書には
国王の姓は阿海(あめ)氏、彼が自ら言うには、
初代の国王は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、
彦瀲(なぎさ)に至るにまですべて三十二代、
いずれも「尊(みこと)」と呼ばれ、筑紫城(ちくしじょう)に住んでいた。
彦瀲の子の神武が立ち、あらためて「天皇」と呼ぶようになり、都を大和州に遷した。
年代的に日本の記紀も参考にしてると思われるが
ハッキリ九州から大和(どこか分からんが)に移したと書かれてる もう、邪馬台国が大和朝廷と関係が無い事は
一般常識となったなwww キリストの生まれ変わりが文鮮明だと
思う統一教会員よりマシ >>955
桃の種の出土される多さでは圧倒的な岡山が何も言わない件。
「桃の種」を卑弥呼と結びつけたアフォは切腹ものw >>965
せやな。
ゼロではないが、本州の他地域と比べれば交易の規模や頻度は小さかったと解釈していいんでない? >>961
しかもそのiPhoneがアメリカじゃなくてメキシコ製なのに
なぜかアメリカの植民地と言い張る
二重にめちゃめちゃw >>952
ところが肝心の畿内式の古いのは他の型の畿内式と出たり
ポツンと一つだけ見つかったりとあまり参考にならないんだよ
どちらにしろ道路の側溝の遺構に捨てられてることが多いので
祭祀に使われたとは思われてないけど >>968
そもそも論として遠すぎて戦わずに九州を鎮めるのは不可能
もはや畿内説はファンタジーだわ まあ、今の時代、文科省に気に入られた研究者が研究費を総取りだからな。
畿内説の方は研究費を使いまくって成果がどんどん出るし、マスコミにどんどん
発表するから、あたかも畿内説で確定したかのように印象付けられる。そうなると
益々畿内説の学者だけ研究費を獲得できる。九州は場所も特定できないし、発掘も
進まないから、益々日陰者になる。 >>977
そもそも古代の近畿て海面の関係で平野ないし 九州の地形から当時7万戸も擁する土地は
筑後川一帯しかないだろうね
水と平野 インフラはある 纒向の外来土器に戻るけど、吉備と東海
しかし九州はほぼゼロ
これって奈良の近所から物資や人間が来てしかも九州は無縁としか読めないよな
どこが九州に号令した王都なのか 「邪馬台国は東遷した!」
「何のために?」
「…」 圧倒的出土物の差が全て
・金印、金鏡、八咫の鏡、五尺刀(卑弥呼が貰ったやつ)
・桃のタネ(食いかけ) >>976
久住IB期までは、布留式は1つも出ない
嘘はダメ 大和王権は纏向箸墓の畿内ローカル
邪馬台国は北九州ローカル
そもそも卑弥呼が畿内にいたら九州の大乱を止められないでしょ?畿内説とか頭悪すぎる >>973
メキシコもアップル政権の傘下っだったとか言うはずw 魏の年代の記された紀年鏡が前方後円墳から出土している以上は前方後円墳と魏は関連が
あるとみてよい。
つまり、間接的に魏の支配下・影響下にありますよということを示唆している。 >>956
どこの遺跡を4世紀と誰が言ってるんだ?
逃げずに答えろ
答えられないなら、捏造を認めろ >>938
東から移動してきた民が かなり多いそうだわ
土器が その証拠となる >>984
大元の発掘調査では年代不明としか書かれてない
何しろ年代特定できるものが他に出てないから
畿内式の土器はその程度の代物だよ 魏が卑弥呼に銅鏡百枚を贈ったのは支配下の国に配布してという意をこめて贈った。 奈良以外にあると考えるほうが不自然
奈良の歴史を見てみろ
九州とかゴミだぞ >>921
卑弥呼が畿内にいた場合は、九州(東シナ海、日本海沿岸)の勢力が畿内まで影響力をおよぼしていたということ。
それが句奴国に敗退して、九州まで逆に攻め込まれたとなる。 >>981
シャーマンの時代より新しい4世紀とかの遺構でしょ
纒向
崇神〜景行 ヤマトタケルあたりは邪馬台国とは時代が全然違う
記紀に書かれてることと魏志倭人伝の時代は異なる 畿内説の人に伺いたい
3世紀に大和王権が九州を支配できてたのなら
4世紀の景行天皇や日本武尊や仲哀天皇は九州になんのために遠征したの? このスレッドは1000を超えました。
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