【奈良】ヤマト王権誕生の礎、唐古・鍵遺跡 埋文センター長が本執筆、邪馬台国の最有力候補地「纒向遺跡」との関係など考察★4
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藤田三郎さんが執筆した「ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡」
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2019/05/15/20190515oog00m010075000p/9.jpg
弥生時代の大規模環濠(かんごう)集落、唐古・鍵遺跡(田原本町)について、調査・研究に長年携わっている田原本町埋蔵文化財センター長の藤田三郎さん(62)が、「ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡」(新泉社刊)を執筆し、出版された。遺跡と、邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(桜井市)との関係などを考察している。【藤原弘】
新泉社のシリーズ「遺跡を学ぶ」の中の1冊。遺跡で見つかった大型建物跡などの遺構のほか、楼閣などが描かれた絵画土器や銅鐸の鋳型外枠などについて説明。弥生時代前期から古墳時代前期までの4時期に分け、発掘成果を図示した。
弥生時代終末期から古墳時代前期の集落の姿にも言及。廃村になったかどうか分からないが、纒向遺跡ができてからも唐古・鍵遺跡は存続したとし、「唐古・鍵の人たちが営々と築き上げてきた高度な文化が、次の時代へと継承されていったからこそ、この地域(奈良盆地東南部)に王権が誕生することになった」と論じる。
唐古・鍵遺跡は動物の骨や植物の種子などが状態良く残っているのも特徴。日本最古とされる紀元前4世紀後半のニワトリの骨が確認されたことなども紹介し、藤田さんは「情報量の多い遺跡だと知ってほしい」と期待する。
藤田さんは同志社大2年生だった1977年、県立橿原考古学研究所による唐古・鍵遺跡での第3次調査に参加したのが同遺跡での調査の最初。82年からは町職員として発掘調査に関わり、定年退職後も町に再任用されている。
発掘調査は今では第126次に及んでおり、藤田さんは「自分が一生かかってもまとめきれない刺激を受ける遺跡。ポイントを絞って皆さんが知りたいと思われることを書いた」と話す。定価1600円(税別)。
毎日新聞 2019年5月15日
https://mainichi.jp/articles/20190515/ddl/k29/040/507000c?inb=ra
★1:2019/05/18(土) 18:22:33.43
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1558242732/ 高地性集落の分布図からして三世紀初期から中頃まで畿内と九州が戦争してたのは明らか=倭国大乱
しかも畿内が九州勢を押してたのも明らか 偉大なる天孫族である天皇と五氏族が
朝鮮半島から日本に渡ってきて倭猿土蜘蛛を支配したんだよ >>748
筑後平野から続く日田から凄い鉄の鏡が出土しているのに
奈良はこれを無視
平原遺跡からは他で発見されない水銀朱やピアスが出ている
https://www.youtube.com/watch?v=HscW9oNnaVk >>750
畿内が狗奴国だったのか?方角が違うんじゃね? >>9
最初から答出てるのにな。
馬鹿がいくら叫んでも無駄。 このように九州の証拠はいくらでもあるが
奈良は桃の種 >>754
だよな
邪馬壱を邪馬台にして、何とか「ヤマト」と読ませようとしたのも、江戸時代の町医者の捏造だしな 随分昔に結論は出てたんだな。
(旧唐書 倭國条)
倭國者,古倭奴國也。
倭国は昔の倭奴国である。
(旧唐書 日本条)
日本國者,倭國之別種也。
日本国は倭国の別種である。 >>757
忘れてたw
あれは儀式の生贄
生贄の時は銅鐸を叩いてたのだろう
カエルなんかいくら奈良県でも食うはずない
食肉になるウシガエルもいないし >>730
吉野ヶ里が魏志倭人伝の記述と合うって冗談で言ってるんだろ?
「自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛」
卑弥呼の宮殿の説明部分の最初に、見かける者が少なく、1000人の従者が仕える、と書かれている
あんな狭いところに1000人が仕えるのはどうやっても不可能であり、倭人伝の記述に矛盾する
吉野ヶ里みたいな環濠集落は王と庶民が一緒に暮らすための集落で、小豪族の居所だよ
戸数70000戸の大国で、倭王の宮殿である可能性はゼロ >>759
蛙の骨に噛ったような跡があるらしいがw >>760
吉野ヶ里は筑後平野と繋がっているんだよ
小さな国の集合体が邪馬台国なので
時々祇園山古墳とか書いている人がいるが
発掘する場所はたくさん残っている
工場誘致しないかな >>763
お前が研究者なのは特定されてるらしいなw >>749
投馬国=殺馬国=薩摩と邪馬台国は、それぞれの帯方郡からの日数を書いてある >>761
ええっ?食べてたのかよ
海なし県の悲しさかな
焼いて食べれば意外と旨いのかも???
蛇はマムシを食べた事があるが旨かった >>752
やまと(邪馬台)というからには、元々は、山手のクニだわな(山+戸(=門))。
盆地のクニだな。
そこから、筑紫平野に出て来てそこを支配し、強大な国家になっていく。
筑紫平野につながる盆地と言えば、日田盆地だな。
(飯塚とか田川の盆地が第二候補だが、筑紫平野からの水運に難がある。)
自分は、日田盆地こそ、やまと(邪馬台)の起こりの地だと思っている。 >>763
裁判起こす?
誰に?
貴殿は一体どなたなのでしょうか? >>752
日田の鉄鏡は出土状況が不明であり、鏡の銘文から漢鏡5期あたりだろう言われてるよな
卑弥呼の時代から200年もズレてる
そんなものを持ち出して物証だなんて詐欺だろ 1492年のコロンブスですらアメリカ大陸とインドを間違えたレベル
それよりも遥かに劣る測量技術の地理的情報なんて全くアテにならない >>760
吉野ヶ里は、華奴蘇奴国(かなさきなこく)
吉野ヶ里の地名は「かんざき」 >>659
魏略(逸文)も同じで
「さあ伊都国に着いたぞ。もう邪馬台国はこの南だ」と書いてる。
おそらく魏の国使の報告書をそのまま写しただけ。
逆に陳寿の魏志倭人伝が、多くの資料を使って膨らませようとして
(行ったことのない場所なので)逆にチグハグになってしまった感じ >>771
ダンワラ古墳ですよ
近くの小学校に寄贈されましたが
泥棒に盗まれて京都の古物商で見つかりました >>740
魏志と隋書のこの違いについて説明して。
魏志倭人伝
>又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國
隋書倭国伝
>又東至一支國
魏志では対馬から壱岐は「南」で、隋書では対馬から壱岐は「東」。 畿内説の方々もいい加減に内藤湖南という
魏国が南と東を間違えたという説から目を覚まして下さい
魏が南と東を間違えるはずありませんから
しかも魏からは船4隻ですよ
4隻が全部間違える?そんなアホな >>771
邪馬台は、漢の時代は長期に渡って倭国の覇権国だったんだよ。
日田から広がり、筑紫、さらには、みなと奴国(博多)を配下に収め、
奴国をして漢に朝貢させ、これでもって倭国の覇権国の座に就いてた。
このころには、邪馬台は、領域国家に成って居たわけで、
地政学を考えれば、事実上の首都は大宰府だな。
日田は、古都で儀礼上の首都だな。
魏誌に出てくる。卑弥呼の時代は、漢滅亡後。倭国大乱で負け、
男王(=覇権)を禁止され、朝貢させられてた時代。邪馬台の末期。 倭国大乱は普通にヒミコより前の時代におこってるからな
低学歴知恵遅れはすぐにテキトーなこと書く
暦年代 纒向編年 土器出土遺構 対応する土器型式
180年-210年 纒向1類 北溝北部下層 灰粘土層 弥生V様式末
210年-250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3類 南溝南部 黒粘土(1)下層 庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4類 辻地区土坑4下層 庄内III式(庄内新新式) 布留0式
290年-350年 纒向5類 辻地区土坑4上層 辻地区土坑7 布留T式
倭国大乱(146年-189年)
卑弥呼(-242〜248年
垂仁天皇(壬辰→西暦212年)
┣景行天皇(辛未→西暦251年)
┃┗倭姫命(トヨスキリヒメ)
┗豊鍬入姫命(ヒミコ)
ぴったり一致
AD 238
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →朝貢(ナマオナホ+ドレイとかいろんなもん)→ 明帝
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) ←下賜(倭王とか一杯いろんなもん)← 明帝「いいもんくれた オマエを倭王にしてやる」
AD 240
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) ←下賜(仮の倭王とかいろんなもん)← 斉王「まえのヤツは死んだ 挨拶だ おまえのことよく知らんから一旦仮の倭王にしてやる」
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →(お、ありがとな)→ 斉王
AD 244
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →朝貢(ドレイとかいろんなもん)→ 斉王「おい だれか黄色い旗刺しでもやっとけ ん? もってけるやつがいないのか?」
AD 247
アマテラス御杖代伊勢斎王(ヤマト ヒメミコト) →(クマソどもぶっころしにいった キャハ)→ 斉王
AD 248
アマテラス御杖代伊勢斎王(ヤマト ヒメミコト) →朝貢(ナマオナホ+ドレイとかいろんなもん)→ 斉王
以後、ずっと交信記録なし
コレもぴったり一致 >>776について検討するのが史学の史料批判だよ。
何も無しに「方向おかしいんじゃね?」と言ってるわけではない。 ヤマトヒメノミコトもカンナギ
トヨスキイリヒメノミコトもカンナギ
ヒミコもカンナギ
トヨもカンナギ >>782
いや最終的にそのような意味のことが書かれている
自国から見てどの方向にあるかだ >>776
地図見りゃ分かる
対馬の北端から見たら壱岐は「南」
対馬の南端から見たら壱岐は「東」 ヒミコの時代、大和朝廷の東にはエミシ西にはクマソがいる
倭国大乱前
北部九州、出雲 ←→ 大和朝廷 → 北陸
※ 北部九州、出雲は、北陸は新羅系のチョンコもどきの土人
倭国大乱後 ヒミコの時代
熊襲 ←→ 大和朝廷 ←→ 東夷(元新羅系のチョンコもどきの土人 俘囚)
※ 隼人土人は9世紀初頭まで朝廷の公民ですらない
※ 東夷の柵
※ https://www.sekainorekisi.com/wp-content/uploads/2018/03/a9db036739edf33a636fa120892b858a.png >>784
ここいらは、もろに佐賀の地名
つぎに対蘇国(とすこく)がある。
つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。
つぎに呼邑国(おぎこく)がある。
つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。
佐賀
小城
鳥栖
神崎 奈良を統治していたのは三輪山の物部氏で大物主(大国主}
地名に出雲が残っている
銅鐸を使って生贄の儀式を行っていた
それを止めさせたのが秦氏であり皇室
だが本当は秦氏より物部氏のほうが古いんだよ
なんで国を譲ったのかは分からないが
黄泉の国にもぐってしまった >>787
当時の人間がそうしたと確認できたのか?
それを示せ。 >>786
なんか勘違いしてない?
倭国の東にも亜種がいると書かれてあるだけ
倭国は九州であり卑弥呼時代に朝鮮半島と関係ない >>795
ID:YG1h5JwB0は「会稽東冶の東」を勘違いしてるんじゃね? その九州北部が
普通にチョンコもどきの土人の巣だったからな
その土人どもを追い出したのが倭国大乱になる
宇佐神宮Webページ
http://www.usajinguu.com/shinbutsu.html
8世紀の『豊前風土記』には、「むかし新羅の神が渡ってきて、この河原に住んだので鹿
春郷(かわらのさと)と名づけた」ことなどが記されています。つまり、田川郡には銅を産
する香春岳があったので、新羅国(しらぎのくに)の神を祀る技術集団が住んでいたことが
分かります。
北部九州も
出雲信仰、白山信仰と同じく新羅の半島系
栲衾 志 羅 紀 の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りあり、と詔たまひて、
乙女の胸取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別て、三身の網打ち挂て、霜黒葛闇や闇やに、河船の毛曽呂毛曽呂にき国来国来と引き来縫へる国はや
出雲風土記の国引き神話からも
出雲が新羅の半島系なのがわかる
福井にも大量の新羅神社がある
北陸も新羅の半島系 >>792
なんだ?このくれくれ君は?
対馬から、見る位置によって壱岐が
南に見えたり、東に見えたりするのは事実だろ? 畿内の人は何故物部の歴史を大切にしないのか
邪馬台国とか九州北部にあったすぐに滅んだ国だ
お前たちが大切に守るのは三輪山の物部氏だ
そりゃ凄かったんだよ、まさに王様だった 卑弥呼の時代は狗奴国との戦争の真っ最中で卑弥呼の宮殿の周囲にも警備の兵士がいて
ものものしい雰囲気だったと書いているが纏向遺跡からは武器は全く出土していない
戦争があった気配すら感じさせない。纏向と邪馬台国は別の国だ。 >>795
>倭国の東にも亜種がいると書かれてあるだけ
>倭国は九州であり卑弥呼時代に朝鮮半島と関係ない
魏志倭人伝には「倭国」という表記はない。
地域を示す倭かそこの人間である倭人、倭種であり、卑弥呼がいる連合は女王国と書いている。
魏が卑弥呼に与えた称号は「親魏倭王」であり「親魏倭国王」ではない。
なので「倭国は九州であり」はあり得ない。 >>798
あのさ、当時の人間がどういう知識、価値観、状況でそういう判断をしたのかということを
検討しないといけないの。
お前はただ現代の地図を見て現代人の知識で言っているだけなの。 三輪では倭大国魂神
伊勢では天照大明神
が祀られてからな
倭大国魂神がヤマトの氏神 神武は宮崎が津波で壊滅して
どっか安全な国が欲しいなとやってきた人物
畿内にはその前から広大な土地を治めていた
物部氏がいたんだよ
天皇家を否定するわけではないが物部のほうが古い コレが定説
九州説の珍説なんかだれも相手にしてないワケ
時間と空間の設定―神武東征と即位― そのカムヤマトイワレヒコは
よき地をもとめて日向から大和へと東征し、磐余宮で即位して初代の神
武天皇となる。これは地上における大和という地理的な特定地点の由来
を説明する物語である。ここで最重要の主題は、 神話から歴史への転換、
つまり、人間としての神武天皇という存在の位置づけである。そして
もう一つが現実的な空間的地理と時間的年代の設定である。時間につい
ては天孫降臨から一七九万二七四〇年余が経過したといい、東征の開始
の年を「是年、太歳甲寅」とし出発の日を「冬十月丁巳朔辛酉(五日) 」
としている。そして、橿原宮に即位した神武天皇元年が、辛酉年の正月
庚辰の朔(西暦への換算では紀元前六六〇年)としているのである。空
間については、出発地を九州の日向として瀬戸内海を通過し浪速、河内
から紀州へと旋回して熊野から大和の東部山中の菟田に出てそこから西
方に向かって大和盆地へ入る、という地理的関係を設定している。
ここで重要なのは大和盆地という現実的な王権発祥の土地であり、出
発地の日向については神話的な構成の産物にすぎないという点である。
先の一七九万二七四〇年余という時間が歴史時間として虚構であるとす
るならば、同時にこの日向という空間と地理も神話的な構成によるもの
である。それは、 『日本書紀』第9段の天孫降臨の一書〔1〕で、天孫
降臨の地が「筑紫の日向の」高千穂のクジフル峯であるといい、 『古事
記』でも同様で、 さらに「此地は韓国に向ひ、 笠沙の御前を真木通りて、
朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、故、此地は甚吉き地。 」と表現
されていることからも明らかである。 「筑紫の日向の」小戸の橘の檍原
に至りまして、という言い方は、三貴神の誕生を記す『日本書紀』第5
段の一書〔6〕でも、『古事記』でも同じくみられる表現であり、この「筑
紫の日向の」という表現こそが重要な伝承である。その筑紫は地名であ
り日向はその筑紫における太陽信仰に関連する呼称である。それについ
て現実上の日向国という地理的認識を与えたのは、国郡制などが整備さ
れたのちのことであり、記紀編纂の最終段階であった可能性が高い。つ
まり、一七九万二七四〇年余という時間と日向という空間とは現実の時
間と空間ではなくまだ神話の中での伝承情報と考えるべきなのである。
そもそも当時日向なんかないからな
律令制ができたころでもまだ土人の巣だったわけだしな
九州説の知恵遅れたちは
そんな基本的な歴史的事実すら分かってない
そもそも神武東征は天孫降臨から179万2740年後
まだ観念世界の継続
現実の世界とは一切関係ない >>795
自国とは魏のことだ
西へ東へ水行などは行き方を書いたものだけどそれでは邪馬台国はどの方向にあるのか
それは魏から見て真東だと 九州説の都合のいい切り取りと解釈が凄まじいな
電波はここだけの話にしておけよ >>808
中国の港を出る
東へ西へ水行する
地図を見るとその通りなんだよ
朝鮮半島南端までの足取りを見てごらん >>809
それ奈良だから
聖徳太子も教科書から消えたし
蘇我もいなかった事になる
奈良は嘘だらけ >>808
そんなことも書いてないな。
帯方郡から東南の海中にあるとは書いてあるが。 倭人伝には倭国は百余国から成り立っているが魏国と国交があるのは僅か三十余国と
書いているから魏国と国交の無い国の方が多かった訳だ。国交の無い国に魏使が
のこのこ出向いていく事は絶対に無い。三十余国(邪馬台国連合国家)
とは北部九州の国の事で近畿は魏国との国交は無い。 >>810
内藤湖南のキチガイ説は相手にしたくない >>786
どうやって当時の魏人は自国の位置を把握したの?
GPSは無いんだよ。 >>804
おう、やっぱ対馬の北から見れば壱岐は
南だな、南端だと東だ
つまり、北端から渡れば南に向かい
南端から渡れば東に向かうんだなぁwww >>811
聖徳太子のことはお前が勘違いしているか都合が良い歪曲をしてるだけだ。 >>816
だからね、どこにも「南に見えた」とか「東に見えた」とかは書いてないの。
「至る」「渡る」なの。
そして、お前は海流と季節風を無視してる。
北端から南に行っても壱岐にはつかんぞ。 >>817
そこらへんにいる小中学生に
聖徳太子知ってますか?と聞いてみ
知らないと答えるから >>818
>海流と季節風を無視してる。
ぷっwww >>814
文書の一部だけを見ているからそうなるんだ
全部を読んでごらん
最初にどこから出発してどのように進んだのか書かれているから 毎度毎度同じ結末だな
もうどこでもええがな、九州だろうと畿内だろうと
決定打出てもどうせ信じない奴らばっかやろw 倭 在帯方東南大海 中、依山島為国 。(魏略)
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。(魏志)
帯方より女 国に至る万二千余里。(魏略)
郡より女王国に至る万二千余里。(魏志)
自帶方至女国万二千余里(太平御覧・倭条)
百女国以北其戸数道里可得略載(翰苑)
自女三國以北其戸數道里可得略載(紹興版本魏志倭人伝)
と中国の歴史書なんかテキトーに孫引きして
もともと酷いシロモノだからな
こんなシロモノに書いてある数字をいちいち正確に真に受けるほうが
どうかしてるからな >>821
渤海国の使節の船が朝鮮半島東岸に沿って南下し対馬海峡を渡ろうとしたら対馬海流に流されて
北陸まで行ってしまったこと度々。
歴史関連での対馬海峡の話では良く出てくる例だ。 晋書 三巻 武帝紀
太康10年(289)
是の歳、東夷絶遠三十余国、西南夷二十余国、来献せり。 >>828
奈良は物部氏
国を譲ったので激怒した人達が
長野に行って諏訪大社を建立した
これは揺るぎない事実
調べなさい スレを見ていても都合よく解釈してねじ込むのが九州説だな
数字的不整合があろうと着地点ありきで無理やり当てはめ、説明がつかない部分は華麗にスルー
これじゃ支持されなくて当然 7世紀から続く皇国史観から解放されて100年もたってないからなぁ
九州と近畿の力関係が逆転した時期がいつかってだけの話がこじれる >>824
もう、決定打は出ているwww
(旧唐書 倭國条)
倭國者,古倭奴國也。
倭国は昔の倭奴国である。
(旧唐書 日本条)
日本國者,倭國之別種也。
日本国は倭国の別種である。 >>832
それ九州説はインチキしてると白状してるようなもんだぞwww 邪馬台国は北部九州にあったが滅んだ
ただそれだけのことだ
天皇家と何の関係もない >>832
残念ながらそれは決定打でもなんでもない
とっくにここの住人なら知ってるネタ
その程度のことはみんな百も承知であーだこーだ
言い合ってるんだよ つまり物別れで終わりw >>830
スレを見ていても都合よく捏造してねじ込むのが畿内説だな
何の物証も出てこないのに着地点ありきで無理やり当てはめ、説明がつかない部分は桃の種で華麗にスルー
これじゃ支持されなくて当然 歴史の改ざんて、わりとマジにこんな感じで行われるんだろうなあ
天皇と国がタッグで進めれば逆らう人はいないからな
学者ですら見て見ぬ振りしてくれるし >>834
何処がインチキ?論理的な説明で頼むwww >>836
畿内信者のマトモな反論は一回も見たことが無いwww
(旧唐書 倭國条)
倭國者,古倭奴國也。
倭国は昔の倭奴国である。
(旧唐書 日本条)
日本國者,倭國之別種也。
日本国は倭国の別種である。 >>838
勝てば官軍というだろ
物部の先代舊事本紀とか隠されて
表にでない
まあ皇室は支持しますけど 隋書倭国伝では600年(推古8年)に倭国が使者を送ってきたとかかれてる
が、日本書紀ではなぜか書かれていない
607年(推古15年)には小野妹子が遣わされているがこれは日本書紀には
ちゃんと書かれてる
はてさてどういうことかw >>840
別に反論する必要ないじゃん 倭国と日本という国があった
日本と言う国が倭国を併合したってだけの記述
だからといって倭国が邪馬台国だと確定させるには決定打が無い >>843
簡単さ
倭国と大和朝廷が別だって事です >>839
九州説に都合の悪い部分を切り捨ててるからだよ
卑怯なことをやってる自覚はないの?
旧唐書
倭國自惡其名不雅、改為日本。
隋書
都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也
北史
居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也 考古学者って頭悪いよな
紅花の花粉が出てきたと言って記者会見するんだぜ
卑弥呼が朝貢したのは紅い絹織物
絹何か奈良から出ていない
この銭ゲバ考古学者どもが ほんと、自分の都合のいい部分だけ切り取って解釈するから嫌いだわ >>845
そう 二つの王朝が有ったと俺は思ってるが
決定打があるわけでもない そう考えるのが自然だってだけのこと
邪馬台国論争はいつもこの結末で終わる
たぶんずっと同じだよw >>838
歴史なんか科学の発展や政治や研究者の忖度によって変わるそれは歴史が証明してる
タイムマシンがない限り事実はわからない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています