【古代】三重・熊野灘沿岸で発見の土器片、邪馬台国の最有力候補地「纒向遺跡」で作成か 「ヤマト王権の航行おさえる拠点」★3
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調査の結果、3世紀後半にさかのぼる近畿中央部系の物が含まれていることが判明した土器片=三重県大紀町教委提供
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2019/06/08/20190608oog00m010047000p/9.jpg
三重県大紀町の沿岸部で1950年代に発見された土器片の中に、3世紀後半に近畿中央部で作られたとみられるものが確認された。調査に当たった桜井市纒向(まきむく)学研究センターの橋本輝彦・統括研究員は「(現地は)ヤマト王権にとって熊野灘の航行をおさえる重要な拠点だったのでは」と見ている。
土器片は地元の中学生らが見つけた後、現在は町が所蔵している。橋本統括研究員はうち20点余りを分析。その結果、20点が3世紀後半〜4世紀中ごろの近畿中央部系の「庄内式・布留(ふる)式土器」の破片で、うち5点ほどは3世紀後半にさかのぼると判明した。近畿中央部で作られた土器が、大紀町へ運び込まれたと考えられるという。
3世紀後半は邪馬台国の最有力候補地とされる纒向遺跡(桜井市)の最盛期に当たる。橋本総括研究員によると、同様の土器片は瀬戸内海や福岡県博多湾沿岸などで見つかっているが、紀伊半島の熊野灘沿岸では初めて。橋本統括研究員は「ヤマトとの関係を示す証拠と言える」と話す。
調査された土器片は大紀町役場錦支所で公開されている。問い合わせは、大紀町教委。【藤原弘】
毎日新聞:2019年6月8日
https://mainichi.jp/articles/20190608/ddl/k29/040/458000c?inb=ra
関連記事:6/2(日) 11:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190602-00000609-isenp-l24
★1:2019/06/11(火) 20:03:48.44
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1560408101/ >>946
つか、「渡海」と「水行」とを同じ文脈で解釈しようとするから
おかしなことになるんじゃないかと。
「海を渡る」「川を遡る」「山を越える」なんかは、イベントの記述だよね。
一方、「陸を行く」「水を行く」は、ルートの記述。
これらを一緒くたに考えてるから、循海岸水行で悩むハメになる。 >>941
国譲りは、神話の時代に出雲を譲って貰ったにも関わらず
天皇の時代にまた四道将軍を送ったりしてるので
崇神の時代の各地の征服を神話化したのかも知れない、なんて思ったりする
(少なくとも古墳時代までは、出雲はヤマト政権とは別系統の葬送形式を持っていたように見えるし)
傍証でしかないが、記紀では10代崇神の時に四道将軍を送って各地を制覇し
(この時西側は吉備、出雲まで勢力下に)
その後12代景行で九州を征伐するから、某かの事実があるなら
四道将軍で畿内勢力を広げ、力を蓄えてから
吉備、出雲、と来て長門、そして九州の順で制覇していった、のかもしれない >>722
王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露。
この皆は
倭王が京都(洛陽)帯方郡や諸韓国に使いを送るときも、
郡が倭国に使いを送るときも「皆」だ
みんなで皆臨津搜露する訳じゃないよ >>937
女王國とは伊都国と奴国のこと
女王卑弥呼を共立した中心国
邪馬台国(女王)とは女王卑弥呼を共立した結果、結成された共立した北部九州の国々の連合体
伊都国と奴国を中心に対馬国、一大国、末盧国、不弥国、及び傍国20か国 近畿の魏鏡とか言ってる仿製鏡って日本中で出土してるんだよな >>953
それとなく記紀に忍ばせているのかな。
伊勢は卑弥呼、出雲は、その弟、
豊鍬はトヨとか? >>955
2つの事柄で皆は無いですよ
3つ以上じゃないと。 親魏倭王の印綬か封泥が出れば
ちなみに倭人伝には正始元年、太守、弓遵は建中校尉、梯儁等を遣わし、詔書、印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮す
とあるから、印綬自体は邪馬台国まで行ってるけど
卑弥呼に渡ったかは「拝仮」だから判らんかも
むしろ、部下が貰った銀印が出る可能性があったりするかも >>951
仮綬じゃ無いだろがそれは。
お前魏志倭人伝読んで無いのバレバレだなw 暦年代 纒向編年 土器出土遺構 対応する土器型式
180年-210年 纒向1類 北溝北部下層 灰粘土層 弥生V様式末
210年-250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3類 南溝南部 黒粘土(1)下層 庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4類 辻地区土坑4下層 庄内III式(庄内新新式) 布留0式
290年-350年 纒向5類 辻地区土坑4上層 辻地区土坑7 布留T式
倭国大乱(146年-189年)
卑弥呼(-242〜248年
垂仁天皇(壬辰→西暦212年)
┣景行天皇(辛未→西暦251年)
┃┗倭姫命(トヨスキリヒメ)
┗豊鍬入姫命(ヒミコ)
ぴったり一致
AD 238
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →朝貢(ナマオナホ+ドレイとかいろんなもん)→ 明帝
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) ←下賜(倭王とか一杯いろんなもん)← 明帝「いいもんくれた オマエを倭王にしてやる」
AD 240
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) ←下賜(仮の倭王とかいろんなもん)← 斉王「まえのヤツは死んだ 挨拶だ おまえのことよく知らんから一旦仮の倭王にしてやる」
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →(お、ありがとな)→ 斉王
AD 244
アマテラス御杖代(トヨ スキイリヒメミコト) →朝貢(ドレイとかいろんなもん)→ 斉王「おい だれか黄色い旗刺しでもやっとけ ん? もってけるやつがいないのか?」
AD 247
アマテラス御杖代伊勢斎王(ヤマト ヒメミコト) →(クマソどもぶっころしにいった キャハ)→ 斉王
AD 248
アマテラス御杖代伊勢斎王(ヤマト ヒメミコト) →朝貢(ナマオナホ+ドレイとかいろんなもん)→ 斉王
以後、ずっと交信記録なし
コレもぴったり一致 >>960
だ・か・ら、光武帝は印を以って賜ったもの。
親魏倭王の印は仮綬したもの。
どうみても記述では
卑弥呼:倭姫命(ヤマトヒメ)(初代斎王)
台与:豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)
コレですべて辻褄があう
※ 伝承によって記述が逆になった
卑弥呼:豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)
台与:倭姫命(ヤマトヒメ)(初代斎王)
だったのが伝承で変な伝わりかたして
記述の内容が逆になった可能性が高い
つまり、トヨスキイリヒメの時代に倭国大乱がおきてる
> 其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿
つまりこの部分
卑弥呼の時代、
すでにチンカスの北部九州の土人地域は大和朝廷の版図内
新羅系のチョンコもどきの土人は
倭国大乱で駆逐されたあと
>>138 ← 疑いようがない
邪馬台国大和説以外、説明しようがない ヒミコは伊勢斎王さま
神の子以外は天子さまにもミコにもなれない
皇族は神の子
皇子
皇女
親王
御子
神子
コレ全部ミコと読む
古代の祀り事(マツリゴト)は政(マツリゴト)
ヒミコも神の子
ヒミコはヤマトヒメノミコト
わかりましたか?
とにかく、祇園山古墳が卑弥呼の墓であることだけは100%間違い無い。
邪馬台国も普通考えてその周辺だろう。
そもそも発祥の地が山門で、御井に移ったのは御井が筑紫平野の軍事的要衝だからと言うのが理由。
墓だけを御井に作って邪馬台国は別の場所と言うのは極めて考え難い。
当然邪馬台国も御井のどこかにあったことは間違い無い。
暦年代 纒向編年 土器出土遺構 対応する土器型式
180年-210年 纒向1類 北溝北部下層 灰粘土層 弥生V様式末
210年-250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内I式(庄内古式)
250年-270年 纒向3類 南溝南部 黒粘土(1)下層 庄内II式(庄内新式)
270年-290年 纒向4類 辻地区土坑4下層 庄内III式(庄内新新式) 布留0式
290年-350年 纒向5類 辻地区土坑4上層 辻地区土坑7 布留T式
纏向の発掘進捗は5%もいってない
これだけでもこんな広範囲な年代の遺物が検出されてる
チンカスみたいな九州の土人遺跡集落とは規模が違うからな
卑弥呼の時代
奈良には超巨大な帝都があったからな
新羅系のチョンコもどきが群がってた未開の土人地域の北部九州に
そんなんあったの?
コレがすべて 倭 在帯方東南大海 中、依山島為国 。(魏略)
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。(魏志)
帯方より女 国に至る万二千余里。(魏略)
郡より女王国に至る万二千余里。(魏志)
自帶方至女国万二千余里(太平御覧・倭条)
百女国以北其戸数道里可得略載(翰苑)
自女三國以北其戸數道里可得略載(紹興版本魏志倭人伝)
と中国の歴史書なんかテキトーに孫引きして
もともと酷いシロモノだからな
こんなシロモノに書いてある数字をいちいち正確に真に受けるほうが
どうかしてるからな >>958
日本書紀には神功皇后の記事に、倭人伝の卑弥呼の記事を混ぜてる
日本書紀の編者は、神功皇后=卑弥呼では?と考えてた節がある
ただ、台与では?と思われる266年の晋への使者も記事に組み込んでるから
かなり無理がある記述になってたりする
それに卑弥呼の時代には存在しないか、国としては大した事無かった、三韓(高句麗、百済、新羅)征伐を神功皇后がやった事になってるので余計におかしな事に Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer
(-略-)
私(佐原)は
(-略-)
なお、しいて「どちらか」というなら私は大和説で、卑弥呼の使いの時の年号を書いた「三角縁神獣鏡」が近畿を中心に出土していることなどからです。
大 多 数 の 考 古 学 者 は 大 和 説 で す。
参考文献として、『邪馬台国への道』(朝日新聞西部本社編 不知火書房 1995年)を挙げておきます。
(元館長・佐原真) 九州王朝説・多元王朝説
弥生中期から卑弥呼の時代はもとより7世紀にいたるまで、ヤマト王権のみならず、日本列島内において様々な勢力圏、連合独立地域自治権、が存在していた、
という多元王朝説が古田武彦らによって1970年代以降提唱され、かつては歴史愛好家などから一定の支持を得たこともあったが、
存在している文献資料の検討や古墳をはじめとする考古資料から、現時点において、学界は「この説は信憑性に欠けている」としている。
なお、これをさらに発展させ、九州王朝のみが存在したとする九州王朝一元説や、大和に王朝は存在せず、本来は豊前の王朝だったとする豊前王朝説、
九州王朝と東北王朝のみが存在し、大和は東北王朝の支配下にあったとする東北王朝説もあるが、多元王朝説論者も含めて学界からは無視されている。
コレが現実だからな >>971
単に本当に分からなくなっただけでは無いかと思う。
卑弥呼は九州倭国の人間で、近畿日本にはどうでも良い人間だから。 廿五年春二月丁巳朔甲子 詔阿倍臣遠祖武渟川別 和珥臣遠祖彦國 中臣連遠祖大鹿嶋
物部連遠祖十千根 大伴連遠祖武日 五大夫曰 我先皇御間城入彦五十瓊殖天皇 惟叡
作聖 欽明聰達 深執謙損 志懷沖退 綢繆機衡 禮祭~祇 剋己勤躬 日愼一日 是以
人民富足 天下太平也 今當朕世 祭祀~祇 豈得有怠乎 ○三月丁亥朔丙申 離天照大
~於豐耜入姫命 託于倭姫命 爰倭姫命求鎭坐大~之處 而詣莵田筱幡 【筱此云佐佐】
更還之入近江國 東廻美濃到伊勢國 時天照大~誨倭姫命曰 是~風伊勢國 則常世之浪
重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國 故隨大~ヘ 其祠立於伊勢國 因興齋宮于五十鈴
川上 是謂磯宮 則天照大~始自天降之處也 【一云 天皇以倭姫命爲御杖 貢奉於天照
大~ 是以倭姫命以天照大~ 鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之 然後隨~誨 取丁巳年 冬十
月甲子 遷于伊勢國渡遇宮 是時倭大~ 著穗積臣遠祖大水口宿禰 而誨之曰 太初之時
期曰 天照大~悉治天原 皇御孫尊 専治葦原中國之八十魂~ 我親治大地官者 言已訖
焉 然先皇御間城天皇 雖祭祀~祇 微細未探其源根 以粗留於枝葉 故其天皇短命也
是以 今汝御孫尊 悔先皇之不及而愼祭 則汝尊壽命延長 復天下太平矣 時天皇聞是言
則仰中臣連祖探湯主而卜之 誰人以令祭大倭大~ 即渟名城稚姫命食卜焉 因以命渟名
城稚姫命 定~地於穴礒邑 祠於大市長岡岬 然是渟名城稚姫命 既身體悉痩弱以不能祭
是以命大倭直祖長尾市宿禰 令祭矣】
倭姫命 = ヤマト ヒメノミコト(ヤマトコクの女王と使節が勘違い)
ヒメノミコト ⇒ ヒミコ
コレ以外ない >>973
猿は自己紹介激しすぎwww
光武帝は印を以って賜ったもの。
親魏倭王の印は仮綬したもの。
>>1
在日エベンキ奴隷は同じようなスレばかり建てるな
おまエラは日本の歴史になんの関係もない 夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
ヤマトは奈良しかない
邪(ヤ)馬(マ)台(ト)は奈良 >>974
畿内説は否定証明完了済み。
これが現実。
>>964
うん、だから判らんと書いた。まあ拝仮だし、渡してないかも
ただ日本まで持って来てるのは確定だから
もしかしたら封泥くらいはあるかもしれない
部下の銀印はほぼ貰ってるのが確定(しかも複数人)だから
こっちの方がもしかしたら見つかるかも >>726
>甕棺つくりながら1000年くらいのんびりやってた列島の弥生人とはちょっと毛色の違う人らが
甕棺墓の時代はそんなに長く続かない
盛行するのは板付遺跡から桜馬場遺跡までくらいの時間幅だし
分布もほぼ九州西北部に限られる
偏った知識、偏った見方からは間違った想定しか出てこないよ >>981
普通考えて無い。
倭国と中国はその後もずっと行き来してるんだから、
普通考えて返却してる。 >>972
大半の考古学者はすでに邪馬台国と証明するのは不可能って言ってるよw
あとは畿内説の学者がパズルしてるだけw
解答が纏向になるようように色々捏造してw
とにかく、祇園山古墳が卑弥呼の墓であることだけは100%間違い無い。
邪馬台国も普通考えてその周辺だろう。
そもそも発祥の地が山門で、御井に移ったのは御井が筑紫平野の軍事的要衝だからと言うのが理由。
墓だけを御井に作って邪馬台国は別の場所と言うのは極めて考え難い。
当然邪馬台国も御井のどこかにあったことは間違い無い。
>>980
48レスとか、証明できたのは
お前が只の基地害というだけw >>975
自分は九州説に近いから、その可能性が高いのでは?とは思う
ただ、近畿説でも、河内王朝への移管時に存在は抹消され、アマテラスという神として
祀り上げられた、なんて考え方も出来そう >>729
日本の低い峠越えのどこが命懸けなんだ?
本当に根拠なしの言いがかりしかしないな、九州説の人は >>990
涙拭けよ否定証明完了済みの近畿パーwwww 蜻蛉日記にはアマテラスは河辺に住む河伯とある
河伯は黄河の神、黄河文明の流れを引くのかな?
三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
→アマテラスは河伯でもあり石でもある
牛鬼伝説に通じる
石に倒された海神牛鬼は石の子を生むようになる
石は石棒のことか?
アマテラスは殷系の母系と石棒系の父系かもしれない。 >>992
お前本当に根拠無しの言いがかりばっかだよな近畿パーwww
とにかく、祇園山古墳が卑弥呼の墓であることだけは100%間違い無い。
邪馬台国も普通考えてその周辺だろう。
そもそも発祥の地が山門で、御井に移ったのは御井が筑紫平野の軍事的要衝だからと言うのが理由。
墓だけを御井に作って邪馬台国は別の場所と言うのは極めて考え難い。
当然邪馬台国も御井のどこかにあったことは間違い無い。
>>733
畿内説は祭祀連合というまとまりとしかいっていないんだが
ID:ST49tW8t0のbotの勢いが強すぎてこのスレも終わりだな >>998
涙拭けよ否定証明完了済みの近畿パーwww
とにかく、祇園山古墳が卑弥呼の墓であることだけは100%間違い無い。
邪馬台国も普通考えてその周辺だろう。
そもそも発祥の地が山門で、御井に移ったのは御井が筑紫平野の軍事的要衝だからと言うのが理由。
墓だけを御井に作って邪馬台国は別の場所と言うのは極めて考え難い。
当然邪馬台国も御井のどこかにあったことは間違い無い。
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