【奈良】大和の地こそ邪馬台国に相応しい 箸墓古墳と纒向遺跡、大神神社★2
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http://www.icr.co.jp/newsletter/wp-content/uploads/2019/07/kaza20190701-hirata_3-580x434.png
(前略)奈良県大和盆地南部の巻向地区にある箸墓古墳を中心に近くにある纏向(まきむく)遺跡と大神(おおみわ)神社の探訪記です。季節は5月末のことです。
この古墳は全長280mと大きく堂々とした風格ある森の姿で国道169号線のすぐ脇にありました。日本最古の前方後円墳のひとつで3世紀中頃から後半の築造と推定されています。正式名称は「倭迹迹日百襲媛命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)」という名前で、この倭迹迹日百襲媛命は、すぐ近く数km南にある日本最古の神社である大神(おおみわ)神社に神として祀られている大物主命(おおものぬしのみこと 大国主神のこと)の妻となっています。神々の時代の話なのですが、古墳そのものは実在し築造年代もほぼ科学的に推定されていますので、この古墳は一体誰の陵墓なのか、最古の古墳の被葬者は誰なのかが昔から論じられて来ました。そこで3世紀半ばに没したと魏志倭人伝に記述のある邪馬台国の卑弥呼の墓であると古くから見られて来ました。卑弥呼の墓であるなら、邪馬台国は箸墓古墳のある巻向の地に王都があることになり、邪馬台国九州説は完全に否定されてしまいます。従って、現在でも大和説と九州説との論争は果てしなく続いていますので、この箸墓古墳の被葬者もまた学術的には確定していません。
ただ私は、この箸墓古墳からすぐ近くJR桜井線の巻向駅周辺に広がっている纏向遺跡こそ邪馬台国の王都だったと思っていますので、やはり陵墓は卑弥呼のものであるはずです。
巻向駅のそば、辻地区で掘立柱建物の柱列跡が発掘されて、ここに纏向遺跡の居館群があったと分っています。建物群は3世紀前半に建てられたとみられています。中心的な大型の掘立柱建物は約19m×約12mの規模があり、当時としては国内最大の規模と推定されていますので、これら建物群の復元が出来るだけ早く進むことを願っています。話は変わりますが、一時期、邪馬台国九州説が相当な勢いを持ったのは、佐賀県の吉野ヶ里遺跡の発掘と復元が急速に進んで、弥生時代の大規模な環濠集落や墳丘墓が目に見えるようになったことからだと思っています。吉野ヶ里遺跡にも行ったことがありますが、復元された集落の大きさや楼閣の高さなどを実際に見ると圧倒されて、ここが邪馬台国の王都と思い込んでしまいそうになるほどでした。でも、やはり、大和の地こそ、邪馬台国に相応しいし、すぐ後の時代に実在した大王(おおきみ、天皇)である崇神天皇の陵墓とされる行燈山古墳もほんの2km北にあり、初期の大和王権の所在地磯城(しき)とも近いので、纏向遺跡が邪馬台国の王都で、初期大和王権は何らかの形でそれを実質的に引き継いだ(乗っ取った)のではないかと私は考えています。事実、纏向遺跡も箸墓古墳の完成の後、建物群が廃絶されていますので、何らかの権力の移行があったのではないかと想像しています。
この箸墓古墳もまた天皇家に連なる人物の陵墓ということで宮内庁の管理下にあり、一切の調査はなく立入りは厳禁されていますので、本当に卑弥呼の墓なのかどうかは判定できないままです。卑弥呼が魏の皇帝から与えられた「親魏倭王」の印綬が副葬品として出てきたら、これは決定となるのでしょうが、当分は古墳の調査がなされない以上、結着はつきそうにありません。残念です。私には、ここ纏向遺跡をAR・VRで復元して邪馬台国の王都の姿を見て感動したいという夢があります。一日も早く実現してほしいのですが、遺跡の発掘が1971年以降継続して実施されているものの、現在までのところ南北約1.5km、東西約2kmにおよぶ対象地域のうちの5%程度しか調査できておらず、今後数十年はかかるとの予想ですので、AR・VRで邪馬台国の復元王都を見るという私の夢は果されることはなく終わりそうです。宮内庁には一日も早く古墳の調査を専門家に認めてもらいたいものです。宮内庁管理の陵墓こそ、日本の歴史上の貴重な文化財であり、第一級の世界文化遺産に相当すると思っています。日本人の誇りなので、もっと多くのことを知って理解したいのです。
最後に箸墓古墳の近くにある日本最古の神社、大神神社について触れておきます。この大神神社は山(三輪山)そのものを御神体とし、本殿を持たず拝殿だけという古い形を残している神社で、祭神は大物主命、即ち、国造りの神です。つまり、大和盆地南部は国造りの地であり、邪馬台国や卑弥呼との関係、初期の大和王権との関係、祭司を勤めた豪族大三輪氏との関係など国造り、国譲りの出雲神話とも重なり興味が尽きません。(続きはソース)
2019年7月1日掲載
http://www.icr.co.jp/newsletter/kaza20190701-hirata.html
★1:2019/07/01(月) 22:52:11.21
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1561989131/ 邪馬台国畿内説は、否定証明完了済み。
卑弥呼の居た三世紀半ばは西日本は近畿や吉備や出雲などの有力な豪族が割拠し、緩やかに連合していた時代で、どの勢力も他の勢力を軍事的に統括出来ずに居た。
これは古代日本史の完全な定説で、誰も異を唱えるものなど居ない。
しかし、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺すら軍事的に統括出来ずに居るのに、中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括出来たと主張することになる。
これはバカが言う説であり、もはや学問の体を成していない。
邪馬台国畿内説は立論の段階で失敗しており、学説として成立していないただのファンタジー。
はい、論破w
相応しいってなんだよ?
相応しさで考古学の学説が決まるの? 九州倭国と近畿日本の二つの国があって、
後者が強大化して前者を併呑し
名前(邪馬台=ヤマト=山門)も騙った。
旧唐書にある通り。
はい、終了。
邪をやと読むのは不自然。伊邪那岐命はいざなぎのみことと読むだろ 倭国とヤマトは別の国
もしくは北部九州から機内へ遷都
どっちがでええやん
平和やん 旧唐書以降の中国書を見る限りでは
畿内大和朝廷は倭国の後継とは認められず
日本という別の国として記録されている。 >>1
川崎、神戸(尼崎)、北九州は在日朝鮮人の巣窟
凶悪犯罪を繰り返す在日朝鮮人・帰化人がわきまくってるし
パンスト朝鮮顔を整形しまくったネトエラ(ネット工作の在日朝鮮人)がものすごい勢いで暴れまくってるからな。
日本に密入国してきて図々しく居つき
生活保護を受給しながら性犯罪を繰り返し
日本人になりすましネット工作を続ける在日朝鮮人。
在日朝鮮人はスパイそのもの。
帰化人を含めて 朝鮮人全員をいったん強制送還するしかない。
●●● ネトウヨ連呼厨( ネトエラ)の正体 ●●●
http://karutosouka2.tripod.com/uyokusyoutai.htm
. 神武の感想で九州から大和までは逆らう奴は潰してきてるからな
ただ九州は神武の国の日向以外筑紫一か国潰して終了
瀬戸内は二か国だが、畿内が難波、熊野、大和と三か国
しかも畿内はいずれも大苦戦している
九州にあった大勢力って神武? 巻向駅の周りは昔の王都かも知れないが現在では低所得の市営団地が広がる残念な地域だわな >>1
まあ、これまでは、
古代日本は、朝鮮半島経由で中国大陸との交流・交易をやっていたと
思い込んでいたから、
中国大陸に近い北九州に、古代日本の首府が存在したと思いがちだが、
しかし、ネットが登場して歴史通が新たな可能性をブチ上げてしまった。
それは、中国大陸との交流は、北陸から直接日本海を横切って船で行われた可能性が非常に高いということだ。
それにより、日本の中央部は中国との交易で空前の繁栄をしたと思われる。
南九州の地から、神武天皇が北九州地方など見向きもせず、一路、全力を挙げて近畿を目指した(「東征」)のも、
当時の近畿の繁栄は、日本全国に鳴り響いていたからだろう。 長里説だと、韓国から対海国まで500キロ、また一大国まで500キロ、更に末盧国まで500キロくらい離れてるんだろ
九州説も畿内説も成り立たないよね >>18
まあ、船で日本海を横断すれば半日の距離だな。
当時、すでにオール付きの大型船が中国で使われていた。
中国側から提供されたその船を日本も使っただろう。
アトは、その船に関する遺物が日本で発見されれば完了なのだが。 >>17
>>20
お昔の能登半島では渤海と貿易してたらしい やまたいこく=やまとこく=やまとこく=大和国=奈良
これを認めないアホは朝鮮人www 正式には大和大国(ヤマトタイコク)だからな
シナの役人が聞き間違えて勝手に邪馬台国と記載されただけの話
まあワザとだろうけど
なんでヨコシマなんだよっていう程にそこまでナメられていたのさ
卑弥呼もイヤシイの漢字をワザと当てやがって
本当は日が昇る国の巫女だから日巫女が正しい 中国の又聞き文章でさらに邪馬台国なんて
ちょっと馬鹿にされた当て字さえたのをありがたがるのはなあ
日本に少しは文献残っていないのかね? 奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、
纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、纒向遺跡ではまったく出土していないことから、
魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。 「槨が無い」「100人余りの殉死者」という魏志倭人伝の記述からすると福岡県久留米市の祇園山古墳が卑弥呼の墓の可能性が高い
石室はあっても郭はなく確認されるだけで66人もの殉死体が発見されている
畿内でそんな大量の殉死者のある古墳はないだろう >27
>石室はあっても郭はなく
訂正
石棺はあっても郭はなく
ね >>25
蘇我蝦夷が自宅に火を着けたときに燃えたらしいんだよね、その辺の記録
俺は中大兄皇子がてきとうに攻め込んでうっかり火を着けてしまい全焼、書物も丸焼け
慌てて日本書紀で蘇我蝦夷が自殺して火を着けた事にしたと思ってる
入鹿殺されたぐらいで死ぬ奴なら聖徳太子の息子一家はじめ皇族殺しまくってないでしょ 当時の日本列島の大部分は殷文化の影響が強かったんだろう
獣の肩甲骨を使った卜占、動物や人の生贄、殉葬、酒を使ったトランス状態で神託をきく、太陽神の末裔、
邪馬台国の記述や纒向遺跡の祭祀遺構に合致する
殷では女性は巫女として政治に参加し、戦争の最前線で活躍するなどその地位は非常に高く、飲酒は神事であった
桃の種は大量の酒を作った跡だろう
卑弥呼のいた邪馬台国、ヤマトは戦争の最前線
纒向遺跡は、対狗奴国の前線基地
河内、和泉の狗奴国と争っていたんだろう 穢れを嫌う文化から見たら、生贄、殉葬は鬼の所業に見えたに違いない
中国大陸で殷が滅びたのと同じ理由で、日本列島でもその残酷さ故、奈良時代迄に殷の影響は排除されていったんだろうね
天平時代
令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
蘭はイチイ、アララギのことかな
中部地方以北の寒い地域に多い植物
珮は殷、周の時代に流行った飾り
立派な月は風と手を組み、梅が鏡についた白い粉を払った。東国では殷の末裔の影響が残っていた 卑弥呼は白山ヒメと関係あるかもな
亀と瓜
胡瓜が大好物なのは河童
蜻蛉日記にはアマテラスは河辺に住む河伯とある
河伯は黄河の神、黄河文明の流れを引くのかな
崇神の代に創建されたと言われている白山比め神社
その神紋は三子持亀甲瓜花
亀甲が三重になっているが
三子持が気になる
崇神の前は、卑弥呼、男王、台与 崇神の代に建てられた廣瀬大社
【若宇加能売命】が祀られている
かなり重要な存在と思われる。一説によると稲荷神と関係あるとか
若、【ワカ】
インカ帝国では、【ワカ】は川や泉などと結びついた聖なる存在
アイヌ語で【ワッカ】は清らかな水
インカ帝国はy染色体ハプロタイプはQ系
殷もQ系だったらしい
日本にもQ系は1%弱いる
インティはインカ帝国の太陽神
殷の王族は太陽の末裔
殷の王はシャーマンであり鬼神を崇拝していた
稲荷はイネカ→インカ
廣瀬大忌神、稲荷は殷系の渡来人と関係あるのだろうか? 日本の歴史は汚鮮されてきた
その最後の残党が九州チョン >>26
ただまあ、
卑弥呼が生存していたのは、神武東征から900年後のことだからな。
神武以後、奈良を中心として大和王朝を築いた天皇家は、
卑弥呼時代には、有名な「ヤマトタケル」によって九州征伐をやっている。
もちろん、奈良から九州に遠征したのだ。
当時、北九州は、近畿に次いで繁栄しつつあったろうが、とても近畿の朝廷に匹敵できるものではなかったろう。
なぜなら、それほどの大きな勢力が当時、北九州にあったなら、はるばる九州熊襲を近畿から遠征して征伐することもなかったろうからだ。
北九州から南九州に軍を送ればいいからだ。
また、近畿から中国渡来の「剣、鏡、勾玉」が出土していないのは、
それが「天皇家の三種の神器」になってることでも分かるように、そこら中で大量に使用されて、後年、ザクザクと発掘されるようには扱われていなかったのだろう。
つまり、外国渡来のモノを、保守的な天皇家がホイホイとスグに利用したとは考えにくい。
輸入戸口の北九州に集積されていた可能性が大きい。 纏向は明らかに邪馬台国ちゃうわな。
土器からして纏向は東国勢力の遺跡らしいのだが
記紀神話にはヤマトタケルの東国遠征以外ろくに東の話が出てこない。
ヤマトタケルは4世紀でなく3世紀に東国主体の初期大和朝廷を建てたが消された悲劇のヒーロー? ヒミコ→日向
トヨ→豊前豊後
邪馬台国7万戸というのは、今でいう日向全域、或いは日向・豊全域の戸数 神武は邪馬台の敵対国(狗奴か投馬)で新天地求めて近畿に来たら気候的に住み心地良かったから定住しただけのような気がするな ●「日本人とユダヤ人の先祖は同じである」という説を日ユ同祖論という。これを最初に言い出したのは、日本人でもユダヤ人でもなく、スコットランド人のノーマン・マクラウドという人物が言い出した説である。
このノーマン・マクラウドなる人物のことはよくわからない。一説にはイギリスでは売買を商っており、日本や韓国では宣教師として活動ながら「イスラエルの失われた十支族」を探していたという。
マクラウドが日ユ同祖論を展開したのは、イギリスに元々あった「イギリス・ユダヤ人同祖論」を日本とユダヤに当てはめたものであるらしい。
内容は、日本の天皇、宮家、公家の儀式とユダヤ教の儀式が似ているからというものであった。
ちなみにアメリカの黒人は「イスラエルの失われた十支族」である説。
ネイティブアメリカンは「イスラエルの失われた十支族」である説。
韓国人は「イスラエルの失われた十支族」などなど世界中にあるらしく、特にめずらしいものではないようだ。
日本の場合、ノーマン・マクラウドの講演を聞いた日本のキリスト教指導者数人が、明治から昭和初期にマクラウドの説をさらに解釈を加えて日ユ同祖論を作っていったらしい。
なぜか?
明治〜戦前の日本はまだまだ二等国だと思っており、なんとか一等国に欧米のキリスト教国に思ってほしかったのである。そして日本は偉大な国であり、神の国であると日ユ同祖論者は口をそろえる。
例えば、「日本は神の国である。ゆえに蒙古襲来の神風から日清日露戦争にいたるまで負け知らずであったのは、我々日本人がユダヤ人と同じく神に選ばれた民だからだ」
とか、「旧約聖書に数か所「日の出る所から、その沈む所まで」という聖句があるが、この中の「日の出る所」とは地球の中央であるエルサレムから一番東にある「日いずる国」である日本のことだ」
とか、『日本は神に選ばれた国であり、日本民族は神に選ばれた民族である』といういわゆる神国ニッポンの皇国イデオロギーと同じなのである。 ●ユダヤ人は日本人のことをどう見ているのか?
ユダア人研究でも有名な神戸女子学院大学の内田樹教授によると『エンサイクロペディア・ジュダイカ』という、全26巻におよぶ英語で書かれた百科事典がある。
『エンサイクロペディア・ジュダイカ』は文字通り『ユダヤ人の百科事典』という意味で、その厖大な百科事典に、日本についてのことがどれくらい記されているかというと、0.009%、ページ数にしてわずかに2ページ程度であるという。
日ユ同祖論に熱心な日本人には申し訳ないが、イスラエルを含む英語圏のユダヤ人は、日本や日本人にほとんど、あるいは実質この程度しか関心がない。
Wikipediaによると、一時滞在も含めて日本に住んでいるイスラエル国籍者は802名(2005年末)であるそうな。
ユダヤ系アメリカ人など他国のユダヤ人を含めると2000人ほどいるらしいが、極めて少ないといっていいだろう。
よって日本にユダヤ教のシナゴーグ(集会所)もほんの数か所しかなく、そして開国してからあまりユダヤ人は日本に住みつかず、
もっといえば第二次世界大戦前に日本に横浜や神戸、長崎にあったユダヤ人コミュニティーも、戦後になるとみんなアメリカに移住しちゃってなくなってしまうありさま。
どうやらほとんどのユダヤ人にとって、日本については関心もなく、また世界のあらゆるところに移り住んだユダヤ人だけど日本はあまり魅力的ではないのかも知れない。 ◎日ユ同祖論の年代矛盾。
ダビデの星がユダヤの象徴になったのは十七世紀から(イエズス会製)。
伊勢神宮のダビデの星がある石灯籠の設置は戦後。
ユダヤ・カバラで生命の樹理論の元型ができたのは12世紀(盲人イサク)から。
クリスチャン・カバラ(生命の木中心)は15世紀にピコが創始。
◎日ユ同祖論の方位矛盾。
メルカトル図法は方位が不正確。
方位が正確な正距方位図法ではイスラエルの東北の果てが日本であり、東の果てならニューギニア島あたり。
聖書が根拠の失われた十支族に考古学的証拠なし。
イスラエル中心の正距方位図↓
http://ronbarak.tumblr.com/post/39738833512/online-map-creation-using-azimuthal-equidistant
◎日ユ同祖論は縦書きの漢字とヘブライ語(横書き)の子音表記を無視。
公にしない支配者層の文章ですら漢字と漢字の変形(仮名)。
漢字否定の為に神代文字を捏造。
ヘブライ語は子音表記で母音記号(ニクダー)がないと正しい読みは不明。
都合よく読めばどんな言語とでも同祖論を作れる。
◎日ユ同祖論は仏教と道教を無視。
本地垂迹説(神の正体は仏)で神の実体を否定する仏教が国教(寺が神社を管理)。
天皇も側近も仏教徒。
日本語に仏教用語は多いが神道用語は少数。祇園は仏教用語。
昔の神道=和風道教。神道・神器・天皇は道教用語。
天皇は道教最高神・天皇大帝(北極星)の略。
◎日ユ同祖論はユダヤ教の最重要教義を無視。
神道は多神教で安息日がなく(十戒=最重要事項違反)、
バルミツバ(13歳でする成人式)もない。
祇園は仏教用語。シオン祭というユダヤ教の祭りは存在しない。 RiekoPiano@RiekoPiano • 7月23日
ユダヤ教徒の妻ですがシオン祭などというのは見た事も聞いた事もないですね。日本独自の都市伝説です。そもそも7月1日がロシュハシュナでシオン祭の初日という記事もありましたが今年のロシュハシュナは9月24日から26日です。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月23日
ネタとしては青森のキリストの墓と同じで面白いなあとは思うのですが(笑)、世界のどこにいても伝統行事を大切にしているユダヤ教徒に話したら「なんじゃそりゃ」と笑ってました。ユダヤ教の行事カレンダーも7月は空白です。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
何度も言いますがシオン祭と言うもの自体が存在しないのです。ユダヤ人は古代の行事伝統をすべて大事に今でも行っている民族ですがそのユダヤ人たちの間でこのような祭りが存在しないのです
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
シオン祭で検索してみてください。祇園祭に関連する記事以外何も出てきません。本当に存在する、あるいは存在したものなら、たとえユダヤ教やユダヤ人の文化の記事として必ず英語か日本語でみつかります。それが何もないのです。
RiekoPiano@RiekoPiano • 7月24日
ユダヤ人たちは、世界のどこにいても、その多くが子供の時からヘブライ語を学び、自分たちの民族の歴史や伝統をしっかりと教え込まれます。そのための学校も必ずあります。その彼らが「シオン祭?何それ?そんなもんないよ」と言っているのです。
RiekoPiano@RiekoPiano • 9月5日
それで、伝統をこの上なく大事にして何千年も多くの行事を続けているユダヤ人たちが知らないシオンの祭典って何ですか?
ユダヤ人の祭り
http://www5f.biglobe.ne.jp/~jesus/NT-intro_festivals.htm
ユダヤ教 ━ ユダヤのお祭り
http://myrtos.co.jp/info/judaism03.php もう朝鮮人の妄想はいいから
遺構のひとつでも出せカス 日帝ジャップは馬鹿だから
「ジャップは太古の昔から天皇に統一的に支配されていた」
という妄想を維持したい。
しかし『魏史』倭人伝の卑弥呼の記述は、
明らかにそれに都合が悪い。
卑弥呼は「倭女王」だ、とはっきり書かれてるからな。
だから、ジャップは「邪馬台国は近畿にあった」
という妄説を主張して、自分たちの妄想を守ろうと悪あがきをする。
邪馬台国ネタは、
ジャップの支配層の本質的な幼稚さを暴露する
格好のネタw
だからネットでもどこでも
繰り返し話題にされる。 「邪馬台国」を「ヤマタイコク」と読むヤツはいろいろと馬鹿。
まず原資料の表記は、邪馬「台」国じゃなくて 邪馬「壹」国。「一」の難しい漢字。
で、これは中国の史書に出てきた用語。当時の中国語で読むのが当然。
だから例の国の名前が「ヤマタイコク」である可能性はほぼゼロ。ゼロ。
こんな基本事実をいつまで無視してたジャップのバカぶりは無限大w
だから「邪馬台国」という名前を勝手にジャップ語で
「ヤマタイコク」と呼んで、
ヤマトに似てるから「邪馬台国」は畿内に違いない!
とか言ってる奴は白痴オブ白痴の大馬鹿野郎。
「ヤマタイコク」(笑)よりまともな推測音はこんなかんじ。
邪
・z-a, ia, ua (1) ザ、ズィア、ズア のどれか
・j-a, ia, ua (1) ジャ、ジア、ジュア のどれか
馬
・m-a, ia, ua (2) マ、ミア、ムア のどれか
壹
・?-in, it(4)イン、イト のどれか
いっとくが j-a, ia, ua は、ヤ、イア、ユア とは読めないからな。 永遠に馬鹿なジャップは例によって、
「卑弥呼」を勝手に「ひみこ」と読んで知らん顔。
しかし言うまでもなく「卑弥呼」は中国の史書に出てきた単語。
当然当時の中国語を基準とした読み方をすべき。
幾つかの可能性があるんだが、その中の一つは、
「ぴみは」 ないし 「ぴみか」
になる。
いずれにせよ「ひみこ」なんて読み方はありえない。
勝手に「ひみこ」を正当な読み方みたいにしてんじゃねーぞ、糞ジャップ 象牙が皇帝の印で、そこから金、銀、銅の印にクラスが下がっていくけど
面積5.78 kmの小島(志賀島)にそんな大きな領地の国があったのですか?
(答え) ない
金印にふさわしい遺跡もない
遺跡がないのに遺物だけがある
そこにあったこと自体がおかしい
つまり偽物 岸本直文准教授(大阪市大)によると、
おおむね5世紀に在位した
天皇の「お墓」11基のうち、
9基は、別人か、古墳ではない、と考えられる。
http://i.imgur.cOm/tat3PNs.jpg
ちなみに、15代応神から25代武烈まで。
仁徳は16代
古墳ではない???
ジャァァーーーーーーーーーーッッププ w >>45
ほらすぐ正体晒すだろ
反日朝鮮人が日本の歴史を捏造してるんだよ >>51
「ヤマタイ国はどこですか」
「ハア?」
「ヤマト国?」
「何のこと?」
「あの後世、魏志倭人伝にこう書いてあるんですが」
「漢字読めん」
「女王様いらっしゃるでしょ、ヒミコ?ピミウォ?」
「知らん」 >>49
すでに「金印」は、外国使節の帰国時の土産物用のレプリカと指摘されてるな。
大きさが小さ過ぎる。
現在の中国でも、外国使節に手土産に中国の「国璽」のレプリカを渡す慣習があるようだ。(もちろん、最重要な使節だけだが) >>18
238年2月に魏の明帝は、司馬懿に公孫淵征伐の【詔(みことのり)】を下す。
魏の京師( jīng shīケイシ=みやこ=京都)の洛陽から、公孫氏の居城である襄平までは四千餘里=100日の行程であった。
現代の地図上で直線距離1500km余り。
この尺度を(帯方)郡から邪馬台国までの距離万二千余里に適用すると4万5千km以上。
インドネシアのJavaジャワ島で名前もよく似てるから
「邪馬台国はインドネシアにあった」でいいじゃん。 >>57
間違った
4万5千km以上なら地球一周する距離
4千五00km以上だ >>1
奈良は色々とあるんだから佐賀に譲ってやれよ 大和・磯城・伊勢路方面域を邪馬台国として、
箸墓が卑弥呼の古墳だとは、いまひとつピンと来ないな。
内乱、死、男王、反乱の流れですぐに大きな墓を作ったとは思えない。
男王が気を利かして作らせたとか、親族の台与が作らせたとか色々解釈は出来るけどね。 >>60
だから孫は文武天皇や聖武天皇のことですよ 馬具が4世紀以降の土器の下に埋もれて発見された箸墓は5世紀だと全ての矛盾が解決する。
3世紀だと世界史から書き換える必要がある。 >>64
その馬具(鐙)は四世紀以前に存在したオーパーツなんですか? これは本当に同意する
大神神社とその周りは他と違うもの もう決着してます
5ちゃんねるでは九州説が人気のようですが、俗説です
国立歴史民俗博物館FAQ
Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
Answer 大多数の考古学者は大和説です
http://www.rekihaku.ac.jp/contact/faq01.html#c 勝手に変なババアの墓扱いされて、倭迹迹日百襲媛命も草葉の陰で嘆いてる事だろう。
当時他の遺跡と一線を画す日本最大の都市であった巻向の王である孝霊天皇の娘であり、霊能的な能力を持ち予言を行った人物。
纏向遺跡から出土している桃や蛙は、倭迹迹日百襲媛命が儀式で使ったものだ。
畿内だけでなく、北は東山道から西は山陽道まで広く交易が行われ出雲の一族とも外戚関係を持ち
阿曇氏や和邇氏、尾張氏といった海洋系一族も広く交易に参加し、大和にも居を構えていた。
それを事もあろうに九州片田舎の占いババアだとか、失礼にも程がある。 >>70
まあそれこそが出雲族でしょうね
朝鮮半島(特に新羅)や大陸とも
非常に関係が深かった >>68
出鱈目というわけではないが、北九州邪馬台国は明らかに他の地域とは別系統。
朝鮮半島から移住してきた一団が住んでおり、周りとは交流してなかったと伺える。
海洋系一族は阿曇氏だけではないが、当時日本中を活発に行き来していたのは、日本各地の遺物で証明されている。
にも関わらず、何故か九州の北部からだけは大陸のものしか出てこない不思議地方。
南九州ではちゃんと日本各地との交易の痕跡が出てくる。
実際には当時北九州よりも南九州の方が、遺跡も多く人口も多かった事が証明されている。
北九州に住み着いた朝鮮人が倭人を勝手に名乗って魏と交流したんだろう。
ウザがられて南九州から攻撃されて滅んだようだしな。 >>Q3.邪馬台国はどこにあったのですか?
>>Answer 大多数の考古学者は大和説です
Q.神様っているの?
Ansewr 存在します
で信じる人きたな・・・ >>72
倭迹迹日百襲媛命は出雲族の大物主と結婚する事で、外戚関係を結んだと思う。 邪馬台国に幻想持ちすぎなんやろ
福岡市程度しか支配してなかった奴国にも金印くれたくらいだし
邪馬台国も戸数やらの数字盛り盛りの可能性だってある >>77
そりゃ元が朝鮮人だから嘘しか言わない
北九州説も魏志倭人伝を捻じ曲げまくってるのは、朝鮮人気質の現れ。 幻想持ちすぎっていうか
何の根拠もないムーな話なのよ
大学に考古学って置くのやめようや >>76
その時期の大和地方の原住民=出雲族
という話@記紀捏造マジック 邪馬台国は中国の朝廷とやり取りしてる
それが日本側の記録に残ってないんだから
大和朝廷とは無関係なのは明らか >>80
そりゃヤマト王権の前は出雲族が日本を〆てたんだし当たり前。
ヤマト王権の前進は南方海洋系一族だろう。
南九州から東に進出していったわけだ。
それが大和で大物主との結婚に暗喩されるように、融和したんだと思うよ。 近畿説は女王に従っていた30ヶ国を書いてくれる
従っていなかった70ヶ国も書いてね >>83
つまり邪馬台国は南九州にあったんですね
分かります >>85
いや邪馬台国は南九州ではなく北九州北岸に住み着いた朝鮮人
神武東征が豊予海峡を船で北上し宇佐で上陸している。
明らかに南九州の海洋系ルート >>81
大和朝廷は記紀書いた時に中国文献読んでて魏志倭人伝も読んでるけど、
邪馬台国や卑弥呼のことを中国文献に名が出ている、程度の認識なのか?
それとも自分たちの伝承でハッキリ分かった上で意図的に記紀に載せてないのか? >>86
邪馬台国は記述から明らかに海洋系ですよ
いわゆる「朝鮮人」ではないでしょう >>83
大和国の勢力は纏向作った東海勢力→出雲や吉備→九州からきた天皇家?
もしかしてナガスネヒコが東海、ニギハヤヒが出雲や吉備系? >>88
邪馬台国が海洋系ならもっと移動範囲は広い。
魏志倭人伝に船で一年とか、大法螺吹いてるのは朝鮮人気質の現れ。
>>87
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守ケ夏、遣吏將送詣京都也。」
明らかに他所の話として載せてるだけ。 >>90
私は邪馬台国=伊勢説なので
まったく矛盾は感じないです 伊勢か・・・奈良よりはるかにありそうだな
四国もちょっと気になるが >>89
大和の勢力をいつ作ったと考えるかにもよるんじゃないか?
国津神大国主命が出雲を起点に本州の広範囲での交流交易関係を築いた時点で
海洋系の少彦名命や大物主も協力している。
少彦名命は途中で仲違いして離脱したようだが。
広域ネットワークが完成した時点で、大物主の一族は大和の三輪山に居を構えているので
日本書紀に出てくるタイミングとしては、これが大和の起点かな。 >>74
残念ながら、科学の世界は多数決ちゃうんやなwwww >>91
いやそういう話でなくて、魏志倭人伝では東の倭種をよくわからないと言ってる。
海洋系なら交流してなきゃおかしいでしょ。 祇園山古墳の主体部がなんも残って無いのがな
何か残ってれば、あるいは、、て気がするんだが >>94
多数決で史実が決まるって、文系脳ヤバイよなw >>95
それは海洋系の定義による
私は刺青や体に朱を塗るという点で
南方海洋系の民俗風習と考えています 3世紀の日本は結構開けてたと思うのでそのうち古墳から証拠出ると思うけどなあ
九州説の方が有力だと思うが奈良も捨てがたい >>90
数字を誇大表現するのは朝鮮人ではなく中国人だよ
もっと勉強しなさい >>99
実際に関東から南九州まで、開けてたからな >>65
4世紀以降の土器を6世紀まで使ってから
濠に捨てたなら矛盾は無い ヒント大物主
天照大御神と大物主を一緒に祀ったら災いが起こった
んで天照大神は奈良県内をぐるぐる回った挙句伊勢に行くわけですな
ここに卑弥呼邪馬台国と大和朝廷との関係を見る 道程を畿内説のように解釈出来るのであれば東海伊勢の方が信憑性も高いと感じる。 邪馬台国は南側に接する狗奴国に滅ぼされた。
東征は日向から宇佐に最初に向かっているが、そこが邪馬台国。邪馬台国を滅ぼした後は瀬戸内海をかなりの年数を掛けて統治を進めて淡路島に至っている。
東征は空白の4世紀。事実は意図的に抹消された。 邪馬台国は帯方郡から一万二千里。
帯方郡から半島南部の狗奴韓国まで7千里。
狗奴韓国から対馬と壱岐と九州北端の末盧国まで、それぞれが約千里と書いてある。
つまり帯方郡から九州北端の末盧国まで1万里。
残り2千里で東側に海があるのは宇佐しかない。 日本最大の古墳群がある日向の西都原古墳群。
日本最古クラスの前方後円墳がある宇佐。
しかし箸墓は5世紀。
つまりそういうことだ。 七万戸ガーと喚く人は
七万戸という数字は信用するのに、東や南しか進まない事には疑問を持ってないのがおかしいんだよ >>107
日本最大規模の古墳群は百舌鳥古市古墳群だよ。 古墳のサイズなら百舌鳥だが
古墳数なら西都原やろな 出雲も宗像も邪馬台国勢力も狗奴国東征勢力も海洋族。
蛇も海洋族の神なので大物主、三輪家も海洋族。
だが、カエルや桃の種や馬具の纒向は海洋族ではない。
奈良は何度も勢力が入れ替わっている。 >>15
神武は存在したが、神武東征は作り話し。
はい終了。 >>109
西都原は411基
百舌鳥古市古墳群は何基? >>109
西都原はまだ全然発掘が進んでいない段階であるにもかかわらず、
既に数で、他を圧倒している。 411基じゃなくて311基だった
>>110
最大規模という字面で古墳の大きさと勘違いしたのかな? >>67
箸墓は卑弥呼の墓では無いことは確定済み。 纒向の最大の発見はオンドル。
明らかに魏志倭人伝の邪馬台国の記述とは異なります。 >>120
多分そうだと思う
百舌鳥は現存44基で、消滅した古墳を併せても100基行かなかったはず
数だけで言うなら、宇佐にある川部・高森古墳群(約120基)にも及ばないかと
まあ百舌鳥のは規模がでかいからなあ、、 >>52
広東語で読めばpei mei fu
厦門方言なら pi mi khɔ
[kh]は江戸弁のように威勢よく息をドバーッと吐きながら発音するカ行子音k。
[ɔ]は日本語のオより大きく口を開いて発音するオ。
広東語は威勢がよすぎてkhがfに聞こえてしまった。
厦門方言を話す中国人、台湾人は音に対する感性が日本人に一番近い。 >>108
そうだけど七万戸は正しいよ。
女王の領域は筑紫平野+山陰だから。
山陰を入れて無いから七万戸が荒唐無稽に聞こえるだけ。 >>126
規模が大きいという事はそれだけ歴史的に新しいという事なんだけど、
彼らはそういう事知らないんだろうな >>125
そんなこと言わなくても畿内説は否定証明完了済みだよ。 >>111
北九州は海洋系だと思うけど
出雲国は違うと思うよ
ただしそこらは仲が良かったと思われる
アマテラス(伊勢)とスサノオ(出雲)の誓約
に出てくるのが北九州の海洋族だろう
おそらくこの人たちが魏の使節を邪馬台国に
案内したんだろうね >>128
福岡市付近に在った奴国だけで2万戸だから
北部九州の国々の連合体の邪馬台国が7万戸で矛盾なし。 >>48
ちなみに今の日本語の「ひ」を古代では「ぴ」と発音してたって説が
あったような気がする。 >>129
百舌鳥のは最盛期の頃のだしね
初期は大概小さい >>90
北九州僻地のアクセントは朝鮮語っぽい
はい論破w 七万戸の問題は、
女王の領域は筑紫平野+山陰だってことと
奈良時代の日本の人口と三世紀の日本の人口はそれほど違わないってこと。ザックリ2/3程度。
奈良時代の九州+山陰が100万人+α
だから三世紀の九州+山陰は70万人くらい。
九州や山陰は三世紀は先進地域だったことを考えたらもっと多くてもおかしくない。
一戸=四人として18万戸ぐらいになる。
女王の領域七万戸
奴国二万戸
投馬国五万戸
狗奴国三万〜五万戸
その他諸々一万戸
別に入る。
陳寿は天才。お前らカスが勝手に間違えてるだけ。
大和朝廷成立ちのキーマンの秦氏と宗像は密接な関係にあった。
宇佐神宮を乗っ取った秦氏。宇佐神宮に祀られている宗像三女神。そしてスサノオとの関係。
つまりそういうことだ。 カスは勝手におかしな考えをして
正しい考えを胡散臭いとか言いだす。
胡散臭いのはお前の腐敗した脳だよバーカwww
>>114
百舌鳥古墳群だけで377あったが、延喜式にない墓は壊されて今現存するのは100チョイ
古市古墳群が120とかだったはず。
まぁ仁徳陵古墳もあるし、百舌鳥古市古墳群にはかなわんよ。 いくら古代人とは言え九州より大きい本州を拠点に選んだろうな >>112
まあ、作り話とは言えないが、
たとえそうだとしても、その作り話を「作る理由」があったということだ。 >>95
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http://www.officiallyjd.com/archives/430854/
宮根誠司、羽鳥慎一らが所属するバーニング系列事務所の黒い噂…肉弾接待、枕営業、所属タレントらも関与か
http〇s://hay〇abus〇a9.5〇ch.net/test/read〇.cgi/mnewsplus/1559599625/
【俳優】北村一輝はなぜ韓国「反日映画」出演を決めたのか?
htt〇ps:/〇/ww〇w.excite.co.jp/news/article/Cyzo_201504_post_18343/
「“芸能界のドン”は宅見組長が育てた」バーニング周防郁雄社長と暴力団“黒い交際”暴く衝撃ブログ
エイベックスもヤクザバーニング系です。エイベックスのトップの松浦の暴力団を使った脅迫行為など上場企業のトップとして決して許されません
↓
https://www.excite.co.jp/news/article/Litera_2781/
エイベックスの問題はブラック労働だけじゃない! 金、パワハラ、暴力団を使った恐喝...背景に松浦社長の体質が
.
.
602462 >>136
>奈良時代の日本の人口と三世紀の日本の人口はそれほど違わないってこと。
魏志倭人伝の記述によると少なくとも北部九州の国々の人口は奈良時代と変わらいみたいだな。 5chは既に在日チョンに買収されているのをご存知ですか?
↓
http://irohamatumae.blog.jp/archives/19087374.html
2chの譲渡先、5chの代理人弁護士は通名のしばき隊員
【民主党=立憲民主党の正体】
韓国民団生野支部での民主党議員の挨拶【在日参政権を約束】
http://www.nicozon.net/watch/sm9751328
菅 直人(民主) 日本人拉致犯 シンガンス釈放署名
江田五月(民主) 日本人拉致犯 シンガンス釈放署名
千葉景子(民主) 日本人拉致犯 シンガンス釈放署名
岡田克也(民主) 「拉致被害者を北朝鮮に戻すべき」と主張
岡崎トミ子(民主) 慰安婦への謝罪と賠償法案 8回提出
福山哲郎(民主) 陳哲郎
白眞勲 (民主) 元韓国籍
土肥隆一(民主) 朝鮮京城に出生
中井洽 (民主) 吉林省長春に出生
辻元清美(民主) ピースボート創設(北朝鮮組織)
辻元清美(民主) 「私は国家の枠を崩壊させる国壊議員」
有田芳生(民主) 嫌韓デモの法規制 「ネットで書いたら逮捕!」
末松義規(民主) 「在日朝鮮人に選挙権を与えよう!」
角田義一(民主) 朝鮮組織から献金 2500万闇献金疑惑
前原誠司(民主) 「外国人参政権を成立させる」と民団で約束
安住 淳 (民主) 大震災の年に「韓国に5兆円支援」の財務大臣
山岡賢次(民主) (「金賢二」、通名は「金子賢二」、後に「藤野賢次」→「山岡賢次」)
.
.20491572 >>140
3世紀だと関西には河内湾や奈良湖が在って土地が狭く人も少なかったようだけど。 人口は古代では非常に緩やかに増えて、近年になって爆発的に増えている。
奈良時代と三世紀が人口がそんなに違わないのは全然おかしく無い。
耕作地の面積の比較などからもそんなに違わないことが分かっている。
奈良時代と三世紀とで五百年も経っているから変に感じるかも知れないが、それもただの気のせい。
鎌倉時代なんて平安時代から五百年たってるが
人口は減ってる。
>>132
そういう数字を余り信用しない方がいいだろう。
当時「戸籍台帳」が日本にあったワケじゃなし、数える方法がない。 >>145
そう。五百年も経ってるから変に感じるんだが、それは気のせい。
別に変じゃ無い。 >>146
このアホは、チョン(腐れ韓国人)の工作員とバレてるぜ。 畿内説は巨大であれば卑弥呼の墓に決め付ける。
しかし邪馬台国は狗奴国からいじめられていた弱小ヘタレ国。
さらに卑弥呼の死後に戦乱が起きていて巨大な古墳の建造なんて絶対に不可能。
畿内説は歴史を無視しないと成り立たない。 より近世に近い
平安時代〜鎌倉時代(五百年)で人口は減ってるんだ。
三世紀〜奈良時代(五百年)で人口がそんなに違わないのは全然おかしく無い。
従来の推計が間違っていただけ。
>>142
そう言う人は決まって魏志倭人伝を読んでないだろ。
畿内説は邪馬台国への道のりが南と書かれた理由をしっかり説明できなきゃね。
今は想像説にしかなってないから。 2007年時点で既に確認されている3世紀の遺跡数。
関東1768
中部1503
近畿1934
九州1877
北九州は現実が見えていない。 >>139
https://www.sakai-tcb.or.jp/feature/detail/1
百舌鳥はかつて100基以上、現存44基
古市(約120基)と併せて200基以上
って書き方だから、百舌鳥単体なら100基強で、古市を併せても300までは無かったんじゃないの
ただどこまでを古墳と数えるか、という問題はあったかもだけど 七万戸の問題は、
女王の領域は筑紫平野+山陰だってことと
奈良時代の日本の人口と三世紀の日本の人口はそれほど違わない(ザックリ2/3程度)
ってことに注意すれば自然に解決する。
奈良時代の九州+山陰が100万人+α
だから三世紀の九州+山陰は70万人くらい。
九州や山陰は三世紀は先進地域だったことを考えたらもっと多くてもおかしくない。
一戸=四人として18万戸ぐらいになる。
女王の領域七万戸
奴国二万戸
投馬国五万戸
狗奴国三万〜五万戸
その他諸々一万戸
別に入る。
陳寿は天才。お前らカスが勝手に間違えてるだけ。
より近世に近い
平安時代〜鎌倉時代(五百年)で人口は減ってるんだ。
三世紀〜奈良時代(五百年)で人口がそんなに違わないのは全然おかしく無い。
少なくとも耕作地の面積の比較からそんなに違わないことはハッキリと分かっている。
従来の推計とお前らの腐れ脳みそが間違っていただけ。
>>152
すでに、卑弥呼時代より千年も昔の日本は、
北陸地方から直接、日本海を横切って中国大陸と船で交流・交易してる事実があるからなあ。
それにより、北陸を利用できた近畿に、当時の日本の膨大な富が蓄積したと考えるのが自然。
だからこそ、神武が南九州の田舎から、繁栄地の近畿をガムシャラに目指した理由があるワケだ。 灌漑が進んだ江戸時代でさえ陸稲が半数以上だった。
弥生当時は陸稲が圧倒的な時代。
つまりそういうことだ。 「天孫」九州南部に上陸
→地元の有力者の娘を娶る→西都原に祀られる
→孫の代で東征→大阪に墓建てる
こんな流れ >>159
日向から逃げ出した理由は噴火と地震と津波。
奈良が災害リスクが少ないことは幸魂奇魂が伝えている。 邪馬台国は正直どこでも構わんけど
観光地としては北九州より奈良のほうがいいね >>162
ヤマトが都であり繁栄してたからわざわざ遠回りしてでもヤマトに入ったんだろう >>103
東征がどこまで本当かは別にしても大和朝廷は「天皇家は九州出身」と明言していて、
卑弥呼トヨのイメージのアマテラスを皇祖神として位置付けている。
バイアスが入ってても王権の正当性を示す重要なことに根も葉もないこと書けないよね。
だから女王神話は九州から持ち込まれたのは正解、だが直接邪馬台国が東征したとはかぎらないとの結論。
日向国出身の神武が北九州勢力を味方をつける説得工作でこういうのがあったのかも。
俺は伝説の女王卑弥呼の遠い親戚で正当な後継者だとかプロパガンダ活動やった気がする。 タカラ貝が海外との交易で通貨として使われていた当時、近代まで禁足地だった青島神社の歴史を紐解くと南方からの貝交易の拠点だったことが分かる。
天孫族は南方から来た勢力で半島の勢力では無い。 >>163
それは無いなw
行くとしたら鹿公園ぐらいなもんかな。
寺とか好きな人なら京都の方をおすすめするけどなあ。 東征はそもそも大阪から奈良までしか移動してないし
日向は出身地 日向の天孫族は最初に宇佐に向かっている。
そこにあった邪馬台国を征服して東征した。
モモソはトヨの子供か親族だったのかもしれない。
ナカツコク葦原は宇佐に接する中津国。 >>107
最古が宇佐で、箸墓が5世紀とか書いてるが、その珍説に根拠はあるのか?
そういうこととはどういうこと? >>170
日本書紀によると、宇佐にいたのは一月だけ。
まさに瞬コロ >>168
寺を見るなら京都
仏像を見るなら奈良
ってのが定番 >>171
なら5世紀の馬具が埋まっていた箸墓は何世紀なのか教えてくれ >>154
小学校で習ったはずだが
倭人伝の行程をそのまま進むと太平洋にドボン
方角か日数のどちらかに間違いがあることになる
方角が間違いだと仮定すれば畿内、日数が間違いだと仮定すれば九州
行程記事からは場所を特定できないと 弥生時代の権力の指標は鉄だった。
■魏志韓伝より
國出鐵韓濊倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡
(国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。
諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。)
■重要事項
・3世紀の鉄はお金として使えるほど貴重だった。
・九州では武器や農具に鉄を使えるほど潤っていた。
・しかしこの時代の畿内からは鉄が出土していない。
↓鉄の出土状況
https://i.imgur.com/eRF3Zza.png
■推測されること
・畿内政権は鉄を取りに行っていない
・畿内政権は九州に鉄を分けてもらえなかった
・一大率は畿内への鉄の供給を行わなかった
■結論
・3世紀の北部九州と畿内の関係は希薄だった(倭国大乱で分裂?)
・一大率は畿内政権とは無関係だった
・畿内は倭国ではなかった(畿内が狗奴国か?)
■裏付け
纏向遺跡では九州産や半島産の土器は出土していない。
もと歴博の館長もやった佐原真いわく、
「近畿圏では鉄は溶けやすいので、残っていないのだ」
(開き直り) なんで邪馬台国にこだわるのかね。
普通に小国だったと思うぞ。
大和朝廷と関係あるなら、卑弥呼の存在が日本書記や古事記に書かれるはず。
だけど、書かれていないから関係なし。
朝鮮半島と交易し、朝鮮半島が仲介役になって、中国の土下座してるわけだから、
この動向をみれば、どうみても北九州か出雲だろ。
歴代の北九州勢力も朝鮮半島と交易し中国と仲良くすることで栄えるのが北九州勢力の鉄則。
朝鮮討伐し中国に喧嘩を売る大和朝廷とは別物。 >>175
魏志倭人伝の行程通りに行くと宇佐。
キチガイ畿内説だと畿内か太平洋。
それだけの話。 今は国名が日本だけど、古代はヤマトなわけだから
場所とか実際は意味ないかもな
日本の首都をさがして日本のどこに日本があったのかという議論をしてる可能性もある >>181
宇佐という土地はともかく
八幡信仰は新羅征伐ありきだからな
歴史が浅いよね >>181
倭人伝の歪曲は不可
黒を白だと言い張っても、黒は黒
行程記事からは宇佐には到着しない >>179
木製の鐙は水に浮くことが証明されている。
濠に埋まっていたということは、建造に馬を使っていて完成前に埋まっていた。
つまり馬が入ってきた5世紀以降に建造されたのが箸墓。 >>184
到達しない理由を完璧に説明してくれ。
畿内説は理由を説明しないで逃げてばかり。 日本のどこに、日本があるか考えたら関東は日本らしくないから除外
大阪は日本人がいないことが発掘でわかったから除外
福岡は韓国だから除外
日本がどこにあったか判らないという論争になる可能性も >>187
だから伊勢って言ってんだろ
すべての日本人の心のふるさと
次点で出雲 >>179
掘削調査もされていない箸墓の年代はどうやって決めたのか知らないのか?
周濠から掘り出された土器の付着物で編年しただろ?w
同じく周濠から出土した馬具は無視する事こそ捏造事件だなw
勝山も同様。
軒並み4世紀半ば以降の遺物だぞ。 >>185
そんな空想、妄想による創作は無意味
読め
>輪鐙が出土したのは幅約10mの箸墓古墳周濠の上層に堆積した、厚さ約20〜25pの植物層の中層から
http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html 九州の最古級前方後円墳
福岡市だと那珂八幡(三世紀中〜後半)
宇美町だと光正寺古墳(三世紀中〜後半)
宇佐市だと赤塚古墳(三世紀後半〜末)
北九州だと石塚山古墳(三世紀中?〜後半)
糸島(伊都国?)だと御道具山古墳(三世紀末〜四世紀)
大分(杵築)だと小熊山古墳(三世紀後半〜四世紀)
宮崎だと生目古墳群一号墳(三世紀後半〜四世紀)
西都原だと81号墳(三世紀中?) >>183
八幡信仰は宇佐を乗っ取った秦氏が8世紀に始めた神仏習合の戦略。
宇佐神宮の本殿がある亀山は径百歩。
本殿の地下には石棺が埋まっている。 >>190
発見当初は4世紀以降の土器の下に埋もれていたと書いてある。
それこそ捏造。 >>186
北部九州から合計2ヶ月の行程
会稽東冶の東
一大率を刺史に例える
陳寿は倭国が南北に長い島だと想定していたことを意味する >>193
布留1が4世紀初頭なんだから整合性がとれている >>190
その20cmほどの層に4世紀の土器の破片も見つかっている。
箸墓はどれだけ遡っても4世紀だ。
中を確認できない以上、3世紀で断言するのは捏造に値するぞ。 >>165
東征は作り話し。
記紀は神武東征の捏造をやるために書かれた。 >>194
北部九州から二カ月と勝手に捏造するのが畿内説。
帯方郡の役人が書いたから、それぞれの行程は帯方郡が起点。 >>197
整合がとれても280年はすでに卑弥呼の時代では無いよ。 さらに会稽東冶の東もコピペミスの文献を根拠に沖縄あたりと言い出すのが捏造大好き畿内説。 >>200
帯方郡を起点にすることが曲解だ
10日で北部九州上陸は不可能
国の二重表記も矛盾 「邪馬台国は畿内から九州までを支配する統一王朝だった!」と本気で主張してるのが畿内説 >>205
何言ってるのかまるでイミフなんだよキチガイ >>194
当時の大陸から見て倭国は九州とプラスアルファだから南北に長いで間違ってないだろ。
九州の東に四国や本州があってそこにも倭人がいることは分かっていても
その先がどこまで続いているか分からないと。 北九州が邪馬台国。
日向に狗奴国。
邪馬台国は狗奴国に圧迫をうけて滅ぼされちゃう。
日向の狗奴国が東遷してヤマト王朝になる。
資料から照らし合わせても、整合性とれていると思うけど。 >>204
会稽東冶の東であってるよ。
魏志倭人伝は反時計回りに三十度くらい方角がズレている。
恐らく夏の太陽が昇る位置を東としているのだろう。
大体筑紫平野になる。
ドンピシャね。 >>209
九州を巨大な島だと勘違いしたという地理観でも構わんが
邪馬台国は北部九州から遥か南方にあるという地理観だ 大体、東の漢字は日の出の太陽とそれに重なる木から出来ている。
中国人の感覚では日の出の位置=東は非常に自然な考え。
渡航したのは夏だから東は夏の日の出の位置。
畿内説はまず魏志倭人伝記載の方角「南」が「東」の間違いであることを
先に証明しなければ、仮説を発表することすら出来ないはずだが?
会稽東冶の東と記載されている地域は、ちょうど九州あたりです。
「混一疆理歴代国都之図」
https://i.imgur.com/PAiNBQf.jpg >>210
それなら邪馬台国を滅ぼしたという歴史を
きちんと正史に書くだろうにね >>165
自分もそんな所だろうとは思うんだけどだとしたら後に日本書紀で神功皇后の敵として卑弥呼を匂わせる山門国の田油津媛を出したのは何でなんだろうな? 日本の首都になったのは 奈良時代になってから
それまでは地方豪族
九州倭国の都市部にいたのが移民で来たのが
奈良県民 >>205
帯方郡から時速10kmで1日6時間の航行で九州北端に着くのに意味不明に否定するのが捏造大好き畿内説。 Google earthではなく、
メルカトル図法(角度が正しい)のGoogle mapで
対馬〜壱岐島の線が南北方向になるように
三十度くらい斜めに傾けて会稽東冶の東を見ればいい。
筑紫平野だ。
ドンピシャ。
陳寿は天才。
平安時代に土佐国国府から大阪までの紀貫之の記録で
室戸岬周り淡路島経由の水行で250キロで39日。
波が荒くて舟を出せない日があったのだろうが日あたり10キロ進めていない。
倭人伝の水行が博多湾周辺から関門海峡超えて大分方面へ
投馬国20日→邪馬台国へ10ないし陸路30日でもそう遠くは行けないよね。
仮に瀬戸内海や日本海を東進するにしても。 >>219
時速10kmを証明してくれ
帯方郡から600kmで九州到着は明らかに捏造
捏造はやめろ 対馬→壱岐の方角を南と記述している魏志倭人伝に従えば、
邪馬台国は九州島のどこかであることは確かだ。
この視点から見て南の方。
https://i.imgur.com/t1La2wr.png
魏志倭人伝より
至る対馬
又南渡一海千餘里
↓
至る壱岐
「耕田猶不足食、亦南北市糴」
作物が不良の時は南北から買ってくる >>220
三輪そうめん
特に暑い盛りに食べるとちがう ちなみに野生号は仁川から博多まで47日かかっている >>199
天皇家が九州出身はデタラメといいたいの? >>216
中国が認めた倭国を滅ぼしたと書けるかな?
それを読んだ中国に朝貢できるかな? >>216
東征では宇佐だけでなく安芸や備前でも長い年月を要して淡路島まで辿り着いたがその間に滅ぼした国のことは書いていない。
一方的に滅ぼすのではなく時間をかけて統合して行ったのだろう。 >>227
神武は実在。
東征が捏造なだけ。
神武は東征したのではなく、近畿日本に招かれて頭に座った雇われ店長。
記紀の東征は単なる旅行譚を東征に捏造して載せたもの。
新井の白石が300年も推測していまだ確証が得られないのはもう諦めそこにはないのだよ >>216
神功皇后が征服した、山門のタブラツ姫とかは?
卑弥呼の数代後の女王だったりしないかな? >>228
それで歴史を捏造したんですね、分かります
結果的に信用はしてもらえず朝貢も断られ
挙句に新羅を逆恨みするという気の毒な結果に… 会稽東冶の東で正しい。
魏志倭人伝は反時計回りに三十度くらい方角がズレている。
恐らく夏の太陽が昇る位置を東としているのだろう。
大体、東の漢字は日の出の太陽とそれに重なる木から出来ている。
中国人の感覚では日の出の位置=東は非常に自然な考え。
渡航したのは夏だから東は夏の日の出の位置。
Google earthではなく、
メルカトル図法(角度が正しい)のGoogle mapで
対馬〜壱岐島の線が南北方向になるように
三十度くらい斜めに傾けて会稽東冶の東を見ればいい。
筑紫平野だ。
ドンピシャ。
陳寿は天才。
<<大和朝廷と関係あるなら、卑弥呼の存在が日本書記や古事記に書かれるはず。
<<だけど、書かれていないから関係なし。
書かれてるのに、それを認めないんだな
神功皇后に滅ぼされた 土着国 筑紫 山門(ヤマト)の女王国が 魏史の邪馬台国
卑弥呼トヨの二人女王の話が 伊勢神宮祭神にピッタリ一致してるのは?
ワ族は 女性先祖崇拝だったのかも
自分の母親は誰か分かるが 父親は誰か分からなかったのかも
だから先祖崇拝は 母 と祖母を崇拝する >>234
日本側の記録だけ、ヤマトの初回朝貢の記録がカットされているのが、それを物語っている。 >>233
神功皇后≒卑弥呼 くらいの勢いらしいよ >>237
大和時代で既に邪馬台国は伝説の国だったと考えればいい。
よく分からないけど、史書に書かれているのでちょっとだけ記載しておいた。
その程度だろうよ。 畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の巨大【銅鐸】が見つかった伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう
中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。
伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない
魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い
万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?
信長秀吉家康の例え話
ホトトギスは何を指すのだろうか? 倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?
畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落
弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている
池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落。6cm大の巨大勾玉が出土
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、褐鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。
これらの集落の人々はどうなってしまったのだろうか?
仁徳天皇の治世、再び勾玉が大ブームになる。
弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろう
か? >>216
そんなの簡単。
記録していないからよ。
そもそも、日本書記も古事記も神武天皇やその前のことも伝承をかき集めたもの。
神武天皇の父や祖父の時代で邪馬台国討伐を完了していた可能性がある。
そうでないと東遷は不可能。
神話を否定する奴がいるけど、ギリシア神話を参考にしてトロイの遺跡を発見したシュリーマンはどうなるんだよw
神話はフィクションとノンフィクションを混ぜたもの。
全てを信じてはいけないし、全てを作り話だと決めつけてもいけない。
逆に魏志倭人伝の記述をバカ丁寧に読んでる奴らのほうが、おバカちゃん。
当時の地理なんて性格に把握しているわけない。
地図そのものが、未発達なのに、その当時の未熟な地理環境の記述で現代の地図に当てはめて議論してるんだから、アホというしかない。 スズという音で思い出すのは、サザキ
スズは古語で小さいという意味らしい。
小、少、スクナい
鐸は鈴
仁徳天皇
大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ
日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子スクナヒコナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな
神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話
この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します >>245
だったら神話のどの部分に該当するんです?
そんな大事が記録(記憶)にないなんて
おかしいって話なわけですよ >>245
東征でヤマトに王権を立てたこと事態が邪馬台国の征服だよ >>245
でもさな「都合の良い部分だけ事実認定」して
「都合の悪い部分は嘘認定」して
それで成立したところで、説得力はゼロだろ。
だって、読み手次第でいくらでもコロコロ変わる話を
「これこそが正しいんだ」って言い張ってるだけのアホってことになるからな。 >>232
宇佐説は捏造のオンパレード
行程を捏造
7万戸の国があったと捏造
30ヶ国の連合があったと捏造
中国との外交があったと捏造
実際には候補となりえる遺跡すらない
もう妄想全開の与太話はやめろ >>240
なんか、神功皇后と卑弥呼、台与とは時代が合わんとか言う反論を見た事がある
…なら、タブラツ姫が卑弥呼の末裔なら問題ないじゃんって思ったモンで 三十度は大き過ぎたな。二十とプラスαね。
これで見るといい。
https://hinode.pics/lang/ja/maps/sun
赤い腕が二本出てるが、日の入りと日の出の方角を示している。
真夏の8月1日くらいで見るといい。
まあドンピシャね。
紹興市の真東が筑紫平野。
>>244
翡翠の勾玉が全国に流通したのは縄文時代だそうだ。
それを大切に使いまわしていたのかもしれない。 >>230
じゃあ、なんで神武天皇の兄貴が死ぬこともフィクションにしなきゃいけないの?
当初、神武天皇は難波を目指してたけど、合戦で負けちゃったから奈良で落ち着いた。
ちゃんとして、事実を記述にしてると思うけどね。 会稽東冶の東で正しい。
魏志倭人伝は反時計回りに三十度くらい方角がズレている。
恐らく夏の太陽が昇る位置を東としているのだろう。
大体、東の漢字は日の出の太陽とそれに重なる木から出来ている。
中国人の感覚では日の出の位置=東は非常に自然な考え。
渡航したのは夏だから東は夏の日の出の位置。
これで見るといい。
https://hinode.pics/lang/ja/maps/sun
赤い腕が二本出てるが、日の入りと日の出の方角を示している。
真夏の8月1日くらいで見るといい。
まあドンピシャね。
紹興市の真東が筑紫平野。
陳寿は天才。
お前らが低脳なだけ。
会稽東冶(紹興市)から見て
真夏の太陽が昇る方角(真東)は
筑紫平野。
>>238
野生号はデザイン優先で実用を無視したインチキ模型。半島南部から鉄のインゴットを海賊から逃げ回りながら海峡を渡って運んでいた海人族がそんな使い物にならないノロマな船を使う理由が無い。 弥生時代に天皇がいたとは証明できないと橿原考古学研究所員が言ってる。明らかになったところで、神武天皇に関する記述を修正するだけのことなんだろうけれどそれもまた困難なのだろうか。、 >>250
宇佐神宮の本殿がある亀山は径百歩。
本殿の地下に石棺が埋まっている。 >>244
奈良は銅鐸の国家から古墳勢力に征服され、その後、物部が征服した後も蘇我、その後に藤原と、何度も勢力が入れ替わっている。万世一系じゃないことを記紀が証明している。 >>259
自然の山を人工の墓だと言い張ってるだけ そもそも邪馬台国が政治力持ってたか微妙だろ。伊都国が交渉してるし邪馬台国は宗教の本部だっただけじゃないの? >>251
魏志倭人伝にもたくさん国の名前が出てくるし
そのうちの一つの可能性はあると思うけど
邪馬台国=伊勢 と考えると
自分はなんかおぞましい歴史が見えてくるので
とりあえずこっちで行こうかな。と思う^^ 邪馬台国が古代史にそこまで重要なのか?
もちろん、邪馬台国からもたらされた倭国の情報は貴重だ。
だけど、邪馬台国そのものは重要ではないと思う。
それに、あくまでも邪馬台国が把握している倭国像なのであって、当時の正確な倭国像でもないだろう。
古代史をテーマにするときに、邪馬台国が大国であるという前提になっちゃってる。
それは先入観だし、おかしい。
あくまでも、邪馬台国は朝鮮半島と交易していただけだ。
それならば、対馬を例にとっても、小さい勢力でも地理的環境がよければおこなえる。
邪馬台国は小さい勢力であるという、意見が乏しいことに、古代史の狭さが感じられる。 邪馬台国→ヤマト政権の万世一系だと考えてる考古学者は全員、学問に向いてない人たちだよな。 ひとつ聞きたいんだけどさ、樽悶はどうして邪馬台国スレを立て続けるの?
お金が入ってくるの?
お金儲けなの? >>255
>魏志倭人伝は反時計回りに三十度くらい方角がズレている。
末盧国から伊都国は90度ずれてるよ?
https://i.imgur.com/0eJ45rZ.jpg >>251
神功皇后の事跡には百済の肖古王が出てくるけど
(七枝刀を日本に送ったとされる人)
大体これが四世紀半ばの人(13代百済王)
その孫として枕流王が出てくるのも日本書紀と三国史記で一致してるので、事実の可能性は高い
神功皇后が居たとしたら、四世紀半ばから後半になり
大体卑弥呼から一世紀半近くずれる事になる >>266
3世紀の国のカタチを探る意味で重要。
邪馬台=ヤマトなら3世紀には西日本を統率するヤマト王権が確立してたことになる。
邪馬台国がヤマトではないならヤマト王権以前に女王が君臨していたことになる。
邪馬台国が九州だったら部族による都市国家が乱立していたことになるし
その時の巻向の勢力は何者なのか?という話になり、どう統一して行って畿内にヤマト王権が誕生したのかが課題になる。
とは言え、最も重要なのは九州の観光を左右することw >>245
神武天皇の5世代くらいあとの崇神天皇の頃のヤマト王権が、ヤマトの音訳で邪馬台国と
書かれたんだよ
卑弥呼は崇神の頃の巫女王(のちの斎王)である倭迹迹日百襲姫命
神武天皇の東征は、卑弥呼の共立のときに、祖先筋に九州から来た人がいて
九州の血も引いてるという話を強調したことの名残 >>274
気にするほどでも無い事に拘るのは、お前の脳がずれてるからだよ。
「計其道里、當在會稽東冶之東」
(道里を測るに、会稽東冶の東あたりだ) 観光とか言ってる人らね
魏志倭人伝ツアーとかやればいいじゃない
記述に沿って実際廻ってみよう!みたいなの >>277
植生といえば史書ではクスノキ科がいくつも記載され、強調されている。
樹齢1700年を超えるクスノキは九州にはあるが、奈良には無い。 >>271
>日本書紀と三国史記で一致してる
三国史記は、日本書紀よりずっと遅れて書かれたものなので、
日本書紀を参照して書いてるんだよ
ある意味一致してないほうがおかしくて、一致していない点の理由を考えると
三国史記成立当時の朝鮮の事情が分かる、という代物 孔子・ブッダ・古代ローマ・ユダヤ帰還(前5世紀頃のジャップ
↓
縄文時代(文献史料なし
wwwwwwwwwwwwwwwwww >>276
日本書紀には崇神の晩年に初めて任那からの使者の記録があるが
魏の時代は馬韓弁韓辰韓の三韓の時代で、任那なんて無い
次の垂仁の時代には新羅が出てくるが、他の三韓の記事なし
ましてや帯方郡も魏も晋も出て来ない
ヤマト政権が半島と関わり出すのは、帯方郡が滅んで三国時代(半島版)に
移行しだした四世紀前半以降にしか見えない >>282
三国史記には173年に卑弥呼の使者が来たと書いてある。
当然ながら中国の文献も参照していると思われ。 >>233
神夏磯媛の方が名前からしてそれっぽい
田油津媛では、ちっともえらそうじゃない >>282
何の事情が解るのか判らんのだが
半島にしてみれば、日本にへいこらしてた王の事跡なんて消し去りたいだろうに 市町村長や区長が王と名乗っていた時代。そっから選出されて卑弥呼を女王としたのが邪馬台国。ややこしいのは、そのころ、別に倭国や3韓やらの衛星国みたいのもあったこと >>273
だから、邪馬台国がもたらした情報は貴重だし、
邪馬台国の構造は重要。
だけど、群雄割拠であるといってるわけだし、
連合体はあっても、王権とよべるほどの勢力はない。
そして、畿内には畿内の勢力が別にあった。
それを邪馬台国は完全に把握していない可能性がある。
そもそも列島は東西にはっきり分かれている思うね。
古代では九州が畿内がちょうど、東西になって、時代につれて、それが関西と関東に移り変わっていくわけで。
邪馬台国は九州のことしか把握していない。畿内にはまた違う群雄割拠があった。
で、なぜ俺が邪馬台国をこだわらないほうがいいと思うのは。
出土される土器や古墳、遺構には、北九州や山陰と、南九州では違うからなんだよ。
北九州と山陰は連関がある、日向を含めた南九州と畿内は連関がある。
つまり、中国や朝鮮半島から強い影響を受けた文化圏と、
中国や朝鮮半島から受けた影響は全くなくはないけど、影響が小さい文化圏がある
古代には、文化圏はっきり2つに分かれている。
古代のルーツを探るなら、異なった文化圏から比較しながらおこなったほうがいいと思う。
邪馬台国にこだわることが、かえって古代史を混乱させている。 >>289
>出土される土器や古墳、遺構には、北九州や山陰と、南九州では違うからなんだよ。
それが、3世紀半ば頃に布留式土器で統一され、その前の庄内式土器のときから
広い範囲で同じ形式の土器が使われ始める
この社会変化の契機として、卑弥呼の共立を考えるのが現在の多数説
じきに定説と呼ばれるようになるだろうけれど >>290
だったら、古墳はどうなる?
日向を中心に南九州にはどでかい古墳があるし、畿内にも天皇陵や有力者には古墳が大きい。
だけど、北九州は古墳は乏しい。
そして、邪馬台国は古墳文化じゃない。
それでも邪馬台国や卑弥呼にこだわるのかい? >>290
しかし庄内式は、伊都国があったと言われる糸島半島ではほとんど出ない
糸島ではこの時期の畿内の影響がほぼなく、隣の福岡市に比べて浸透が遅い
卑弥呼の代官である一大率が置かれていたとされる場所なのに
その一大率が畿内から来ていたとしたら、不自然過ぎる >>177関連情報
なんで畿内説は邪馬台国としての条件を満たしていない纏向遺跡を関連付けたがるのか?
■纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
「これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、
九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。」 >>290
誰がそう言ってるのかそのバカ学者の名前を挙げてくれ。
土器様式によって勢力圏を判断するという畿内説的思考で考えると、
東海政権がTOP政権となってしまう件w
■畿内説曰く
3世紀に入ると九州で畿内式土器が出現する。
これは畿内政権が北部九州を傘下においていた事を意味する。
■九州説曰く
それは畿内が北部九州に納品(献上)していた物であり、
逆に纏向では九州産の土器は出土しない。
畿内は北部九州の傘下にあったとも考えられる。
■東海説曰く
同時期の纏向遺跡からは東海式土器が大量に出土する。
これは纏向が東海政権の傘下にあった事を意味する。 >>294
日本の広域に影響力があったってことじゃない?
九州や朝鮮由来とかより、支配の大きさが重要じゃないか? >>139
百舌鳥はせいぜい100基ちょいだろ
どこ情報で377なんだろ? >>296
そう、支配を象徴するもの、権力を象徴するものが古墳。
古墳は大きければ大きいほど、人を動員するから権力が高くないとできない。
古墳が大きい地帯には、かつて大きな勢力、王権があったことを意味する。
そして、巨大な古墳群が畿内や日向にあるという事実。 >>289
その「連合体があった」とか「王権と呼べるほどの勢力はない」とか「畿内に別勢力があった」というのは想像の範囲でしかないから邪馬台国論争があるんだよ。
5世紀になれば強力な勢力がヤマトにあったのは事実だから、そこに至るプロセスを探るのが本題。
場所論争は空白の4世紀を埋めるスタートラインの設定論争に過ぎない。 巨大古墳は天孫系だよね
邪馬台国と結び付けたから変なことになってる
ほんとは滅ぼしたのに >>294
どう考えても、奈良は狗奴国だな。
宮崎から東征して大和王権の元となった。
倭国大乱で北部九州の女王国と、宮崎、四国、近畿、東海連合に分裂してたんだよ。 邪馬台国の南の狗奴国
魏志倭人伝の狗奴国の版図は南河内と和泉だろう
元々狗奴国は畿内くらいの版図があったんじゃないかな
2世紀末の畿内征伐で、なにわ、北河内、ヤマトは卑弥呼を共立した勢力によって征伐されたんだろうな
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦だろう >>299
想像ではないよ。
要するに、残された遺構から判断してるの。
古墳、土器、副葬品、棺、刀、銅鐸、銅矛
これらから、実用品ではないものから、王権を考える。
実用のために使うのではなく、権力や地位の身分を表すものや古墳。
土器は実用性が高いから、権力を考えるときにはあまり参考にならない、当時の流通は参考になるけど。
で、畿内と南九州には、古墳で大きなつながりがある。
で、邪馬台国は朝鮮半島と交易してるから、邪馬台国が巨大であったり、畿内の本拠地があったら、
埋葬や副葬品に大陸や朝鮮半島の文化を深く影響をうけたものがでてくるはずなんだよ。
古代と墓は切っても切り離せないし、権力を物語るわけで。 だいたい、ネット領域全域に対して
オオサカの条例を適用する法的根拠は何ですか?マトモな答えが来るまでオオサカ叩きを止めない 邪馬台国というのは、
三国志に記録された、247年までは存在した九州の小国
であることは 600年辺りでこれを読んだ、聖徳太子ですら看破している。
倭人伝を読んでも、当時の中国人が、
卑弥呼を大倭王と認識していないことは明確に読み取れる。
この時の旅程記録で、女王の居所は帯方郡から南方一万二千里
この謎の里程は基準として、壱岐対馬間が千里である。
国勢は7千戸、女王共立諸国を周旋しても5千里しかない。
このほかの日本列島について、中国人の認識は
女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種 であるが
其餘旁國遠絶 不可得詳 と言っている。
なんで大和が、この邪馬台国にふさわしいんでしょうか?
九州説で良いんだけれど、この時の九州が東征しないと
大和起源の日本国が誕生しないとかも、アホですか?
金印貰ったからって大倭王である必要は無い、って根拠は、
志賀島でそれ以前の小国の金印出てるんじゃないのかな? 維新が議席を取っただけネット言論が弾圧されるなら
我々は共産党に投票する用意がある >>246
高田崇史先生のQEDシリーズ、面白いから読んでみて。 共産党がオオサカを奪還したら、お前ら強制収容所送りだ 狗奴国に攻められて中国に助けを求めるぐらいの規模だという事を忘れてるよ。
つまり女王国の方が小規模だった可能性が高い。 >>307
畿内説(大和説)がいつまでもアホなこと
言ってなければね、これで終わった話なのに >>312
むしろこのスレは、九州説がアホなこと言って嘲笑されるスレになってるのが残念だよな >>136
邪馬台国までの距離と
公孫淵征伐の距離と
二枚舌を使う丸で朝鮮人のような嘘書きの天才w 纏向は「卑弥呼が死んだ時代」に急造された人為的な都市だろう
卑弥呼の死亡で九州倭国(邪馬台国連盟)が空中分解してしまい
後継者争いが起こったのちに新しくまとまった新連合が近畿ヤマトだな >>313
うん、なんか九州説もまとまりがない
人によって言ってることがまちまちだし 九州説ってさ
・魏志倭人伝を都合よく捻じ曲げて
・畿内の物証を根拠もなく否定して
・九州の物証の無さに目を瞑って
はじめて成立する説だからな
正直、無理がありすぎる
理屈捏ね回すタイプにとっては、面白いかもしれんが
結局その域を出ない >>311
実際に九州は北部よりも南部の方が人口は多かったからね。
九州北部4万人
九州南部6万人
出典
鬼頭宏、『図説 人口で見る日本史―縄文時代から近未来社会まで』、PHP研究所、2007年。 >>313
全うな畿内説なんて聞きたことないけど? >>319
九州邪馬台国連合30国vs狗奴国連合70国 >>270
後漢書東夷伝の倭の部分と比べると
魏志の南=後漢書の東
古田教を盲信してるヤツはカルト教信者 >>318
まあでも畿内の物証って桃の種とかでしょ
さすがにそれは… >>322
そういう事だろうね。
吉野ケ里なんかで出てる槍の刺さったままの遺体なんかは、倭国大乱ではなく狗奴国に蹂躙された時のもの。
普通戦乱の後同族が残ってたら、遺体は回収され埋葬される。
そのまま放置されてると言うことは敵国の遺体だから。 湿潤耳垢:縄文系
乾燥耳垢:半島(ツングースク)系
この乾燥耳垢圏がまさにヤマト政圏だな。
(もちろん北海道を除く)
https://i.imgur.com/VqqGojH.png >>312>>313
おまえらアホだな。
むしろ、俺は邪馬台国や卑弥呼はザコ扱いし、
神武天皇やその近辺を探る方が、古代はわかりやすくなると思うね。
結局、邪馬台国の遺構はないし、残されたものもない、しかも中国側の資料でしかない。
その資料もあやふやな記述で一致しない。
よくこんなんで、邪馬台国論争がおきるのか不思議でしょうがない。
ようするに、ファンタジーなんだけど、それを真面目に考えちゃってる。
で、数少ない日本の記録は、神話扱いしてファンタジー扱いしちゃてる。
なんか、考える前提が違うんだろうな。
魏志倭人伝みたいに、正史として描いてるのに、間違ったり、一致しない記述なら粗末な史料だわ。
だけど、神話とかフィクションを導入するのは、なにか強調したい事実があるのであって、そのフィクションですら事実やゆかりから借りてくるもんだよ。
そこに探求の目を向けられないだから、地頭がよくないんだろう。
魏志倭人伝なんか、真面目に史料扱いしてるのが痛い。
はっきり言って適当だし、邪馬台国が中国の救援と援助のために、かつ舐められないために、
都合のいい話しを中国に話したことをまとめてるだけ。
邪馬台国の位置についても、中国に万一侵略される可能性も考えて、意図的に間違えた情報を伝えたことも否定できないと俺は思ってるね。
いろいろな可能性があるのに、可能性を探らない、記述だけで考えるアホばかり。 >>283
「支」の読み方
魏志 ki 一支國=壱岐国
万葉集、古事記 キ
本居宣長の古事記伝 キ
朝鮮語 지 チ 支局지국 チグク
釜山港 bu san hang
港は 【唐韻】【集韻】【韻會】【正韻】古項切,音講
北京語gang、広東語gong、客家方言gong3、山西、陕北、河套方言kɒ̃
上海方言kɔ̃、南昌方言kɔŋ、ベトナム語読みcảng(カン)
朝鮮読みだけhang
wwwwwwwwwwwwwwwwww >>321
うん。近畿説も結局魏志倭人伝捻じ曲げなきゃ成立せんもんな。
物証も「それっぽい」というだけで、確定できるものは何ひとつでてない。
そういう意味じゃ畿内説も微妙だわな。
ただ、このスレみてる限り、九州説訴えてる奴のキチっぷりが目立つって話。 >>328
うん、まあそうなんじゃない?
それでも粘る畿内説がいたおかげで
こちらは伊勢説にたどり着いたということ でも確かに「天孫」なんてファンタジーとしか
思ってなかったけどね
呉国の暗喩だったとは、なかなかお見事だなと
隠された暗号を解くようで奥が深い>記紀 >>327
二重まぶた、ウィンクできるヤツの出現率も出せよ
シミ・ソバカスの出現率もな >>304
>邪馬台国の南の狗奴国
後漢書には「東」と書いてるw >>335
>二重まぶた、ウィンクできるヤツの出現率も出せよ
>シミ・ソバカスの出現率もな
そんな統計見たことねえよw
お前がとってこい。
ちなみに耳垢の違いは、
免疫機構の違い=種族保存機能の違い=人種の違い。
近い将来DNAで明確に分別できるだろう。 畿内説の根拠
・城柵楼閣のない纏向建物を卑弥呼の宮殿と捏造
・冊封国女王卑弥呼の墓が魏王曹操の墓(全長60m)よりも遥かに巨大な箸墓古墳(全長280m)だと捏造
・南を東と捏造
・粗悪な三角縁神獣鏡を魏鏡と捏造 纏向遺跡消滅の後、早々に弓月君ご到着↓
〜2世紀末 唐古・鍵遺跡
3〜4世紀半ば 纏向遺跡
4世紀末〜半島・大陸文化降臨↓
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。 >>323
女王国より東に海を渡るといるのは別の倭種で拘奴国だというからには
邪馬台国に服属しない倭種が東に海を渡ったところにいたんだろうな
そういえば奈良から東に海を渡ったところにいたのは、纏向の主要勢力だったね >>311
女王国側が敗戦を迎えた事は魏志倭人伝からも読み取れる。
3年から5年程度のサイクルで挨拶をしていたのが、266年の壹與の朝貢を最後に途絶える。
魏は275年まで存続していたわけで、少なくとも後1、2回の朝貢の記録が必要。
ないという言葉、朝貢がなかったということ。
魏が親魏倭王に任命した国が滅びたとは、メンツの問題もあり書けなかったということ。 >>336
後漢書は三国志より150年くらい後の5世紀前半に書かれいてるから
三国志の方が正しいだろうね
南を東と間違えたのは、5世紀に新たに邪馬台国の東に新興勢力が出現していたのかもな。 >>341
朝貢が減っただけで女王国側が敗戦を迎えたとか
理論が飛躍しすぎだなw ゴッドハンド再発か?
畿内説は、纏向周辺の箸墓古墳、勝山古墳は3世紀の墓だ
と主張しているが、5世紀の馬具(木製輪鐙)も出土している。
https://i.imgur.com/SHylRN6.png
畿内説は正直でないので、九州説はこれを疑っている。 > >>341
> 朝貢が減っただけで女王国側が敗戦を迎えたとか
> 理論が飛躍しすぎだなw
実際、武帝紀289年の記録では東夷30国としか書かれておらず、
その後も女王に関する記事は出てこない。
このあたりが邪馬台国時代の終わりとミテ間違いなさそうだよ。 >>344
中を見て確認したわけでもないのに、あたかも3世紀で確定しているかのように発表できる学会ってw
もはや宗教でしょそれw >>345
朝貢が減った原因は日本側ではなく中国の政治が混乱したからとも考えられる。 >>343
印綬で臣下になった側は定期的に挨拶をするのが義務。
それを怠ることは不忠とされる。
汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王
遠方から挨拶に来た忠孝をいとおしく思うから親魏倭王に任命すると、実際に書かれてる。
朝貢や外臣は、挨拶に来なくてもよいような、適当なものではない。 >>348
言うと思ったが、、、
魏から晋への交代は禅譲の形で行われており、そもそも249年から司馬一族が実権を握っていた。 >>349
台与の時代に、遠いんだから毎年来なくても構わないと言われてなかったっけ? 邪馬台国なんてどこでもいいけど
日本国統一大和朝廷の中枢は奈良盆地で間違いない
九州勢の田舎コンプレックスと地元エゴで学問を願望優先で解釈しようという行動は実に良くない
コリアのそれと変わらない有害さだ >>354
>田舎コンプレックスと地元エゴで学問を願望優先で解釈しようという行動
さすがにそれは逆だと思うよw
福岡の方が圧倒的に都会なんだけど知らないんでしょ?w
畿内説の根拠は全てが言い訳染みたもので、説得力に欠ける。
弥生遺跡なんていくらでもあるんだし、多様性もある。
纏向が列島一国統治だなんて言い切るには無理がある。
ゆえに磐井、壬申の乱などが発生しているわけで。
無理なく、統一国家成立は8世紀以降でいいんだよ。 天武天皇はあちこち移動してた王
奈良時代には 天武以前の墓不明で
明治になって天皇陵こじつけて決めたのが
歴史 天孫系は当時既にあった皇統(出雲系)に
「背乗り」したのではないかと思う
それでどんどん勢いを増し、各地を服従させて
いわゆる「統一大和政権」ぽい形が出来てきたけど
この系統は結局途絶えてしまったわけだね 2世紀でも半島内は争い激しく狗耶韓国は、倭にとって大事な前線基地、後ろに狗奴国抱えて、悠長に巨大古墳造ってる状況ではないし、近畿じゃ遠すぎる、半島から北九州のラインは倭国邪馬台が押さえていただろ、地理的に出雲、近畿は別ルートは関係ない。 >>356
神武天皇以降の陵は平安時代に纏められた延喜式に纏められている。
明治時代に行われたのは、その内容を基に実際にどれが該当するのかを確認しただけ。 方角を間違えるなんてことはあり得ない、中華は方角、暦には特に厳しい、指南は正確ではないが、天文学も優れており、唐の時代には針の磁石まで使う国。方角を間違えたなぞ、バカの発想。 >>360
倭国が呉の背後にあるように見せるために東を南に変えて、わざわざ会稽東冶の東と記したと言われてるな >>341
戦では不利なはずなのに邪馬台国は負けてないんだよな。
狗奴国相手に苦戦していて魏に応援を求めてる状態で卑弥呼が死去、
トヨタが立つまでに後継王位を巡って内戦で犠牲者多数出たとなってる。
そんな時に狗奴国に総攻撃されたらイチコロで負けそうなものなのに。
だから卑弥呼は狗奴国王の卑弥弓呼と普段から仲が悪いとの記述は双方の
個人的な確執が大きい気がする。つまりどちらかが死ぬと戦う理由がないとか。 奈良を狗奴国とすれば、わからないでもない。
倭国大乱で分裂。
↓
女王国30国(北部九州) vs 狗奴国70国(南九州・四国・出雲・近畿・東海)
↓
卑弥呼の死後はまた100国で戦争となった。
↓
狗奴国から推薦された女王 台与を共立し、平和になった。
↓
纏向に住む 戦略的に呉の背後って考え過ぎだと思うよ、直接海渡るのに持衰してる連中の水軍が押し寄せるなんて呉の水軍にとって脅威にもならないよ。この時代に大海を渡り攻める能力ないだろ、それに呉も海の向こう側の話位ある程度把握してるだろし。 >>362
平和になってたら266年の朝貢で途切れてるのが説明つかないよ。 >>351
265年に晋が成立するも291年には八王の乱が起きて動乱の時代が始まるからな。 >>365
台与が自殺した。
つまり台与がモモソ姫。 >>368
いいよw
ほぼ全体が石積みらしいから掘るの大変そうだけどw >>370
あんさんが宮内庁の偉い人やったらええんやがなー >>371
詳細調査をするでもなく、一方的に市民の土地を押さえる権限を宮内庁が持っているのか?
少し疑問だな。 >>372
箸墓が造られた時代に「箸」は無かったのでご自由にw >>373
前に宮内庁が許可出して、ちびっと箸墓の周りを掘ったか調査したかしたからな
宮内庁さえその気になればなんとかはなるんじゃないの
あそこの土地の所有権とかは知らんが、、
主体部を掘って欲しい >>367
倭国のアクセスポイントだった帯方郡、楽浪郡とも高句麗に滅ぼされたからな。
帯方郡だった場所に百済が興って東晋に冊封を受けたのが5世紀。
するとまた倭国の記事が出てくる。
帯方郡が高句麗に滅ぼされて、高句麗と争う倭国が書かれてるのが広開土王碑文。
倭国が大陸とアクセスするために帯方郡、百済の場所は生命線だったということだろう。 >>375
ちびっと掘ってたねw
ちびっと映像見たけど想像以上に石が敷き詰められてた。
魏志倭人伝の「土を盛った塚」というには無理がある構造だね。 >>376
仮に邪馬台国が生き残ってたとし、その後どうなった?
記紀には日向国の高千穂から、神武さん御一行が東遷したとはあるが >>274
それ間違いだぞ。
魏志倭人伝が書かれた時点ではその会稽東冶は存在してない。 なんで邪馬台国を大和にしたいんだろう?
邪馬台国と大和は別物じゃんw >>270
それはお前も間違い。
多分、そこは陳寿が間違えたんだろうな。
東と東南を。 平城京以前は何もないのに
急に都市化したのは
江戸が都市化したのと同じ @呼子あたりからまずは東南に向かう
Aそもそも伊都国はそこじゃない
Bそもそも東南じゃない
Cその他 末盧のから伊都国が東南になってるのは陳寿が間違えたんだろうな。
東南ではどうやっても山の中になる。
伊都国は港湾都市のはずだからこれはおかしい。
東と南が沢山出てくるからつい間違えたのだろう。
天才陳寿と雖も間違いはあると。 文献が存在しないから絶対に答えが出ない話を延々と繰り返してる。 >>89
違う
大和国の最初の王であるニギハヤヒは三河県豊橋市出身の可能性が高い
ニギハヤヒの天孫降臨ルート
三河→伊勢→熊野→河内(天孫降臨)→大和(纒向)
石巻山は三輪山の奥の院であると大神神社の社伝に書いてある
神社の拝殿は三輪山の正面に向いていない、三輪山の南側にズレている
実は三輪山の奥の院、豊橋の石巻山(神山)に向いているわけだな 絶対に答えがない問題と、もはや(或いは、まだ)答えが出なさそうな問題とは別
前者は擬似問題とか言うが、後者は普通の問題 魏志倭人伝は反時計回りに二十数度方角がズレている。
恐らく夏の太陽が昇る位置を東としているのだろう。
大体、東の漢字は日の出の太陽とそれに重なる木から出来ている。
中国人の感覚では日の出の位置=東は非常に自然な考え。
渡航したのは夏だから東は夏の日の出の位置。
これで見るといい。
https://hinode.pics/lang/ja/maps/sun
赤い腕が二本出てるが、日の入りと日の出の方角を示している。
真夏の8月1日くらいで見るといい。
まあドンピシャね。
紹興市の真東が筑紫平野。
陳寿は天才。
お前らが低脳なだけ。
>>378
5世紀に久々にして強烈なインパクトで登場するのが倭の五王だな。
この時の倭国の性格は卑弥呼の時代の呪術的なのんびりした印象から100年の間に軍事国家に替わってる。
神武東征のモデルがあるとしたら征服王朝として五王が九州から畿内を征服したのか、それとも東征ではなく畿内から興って九州を制圧したのか。
原因はわからないが国の性格が大きく変わった時代。 >>342
アホちゃうかw
三国志にも色々有ってな
古田武彦が「邪馬台国はなかった」を捏造した時に読んだのは
范曄より700年ほど遅い趙宋代に刊行された紹煕本 (1190〜1194)。
(h)ttp://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu7/wakusi23.html
後漢書を書いた南朝宋の范曄が読んだのは陳寿が書いた
改竄されてない原典版魏志倭人伝。
ヤマト国の書き方が後漢書は「邪馬臺國」
古田が読んだ紹煕本魏志倭人伝は「邪馬壹(=壱)國」と改竄されてる。
紹煕本より完成が古い《太平御覧》は原典版『三国志』を引用した部分で
「邪馬臺国」。
唐代の『北史』では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」で
これも「臺≒台」だ。
原典版魏志倭人伝が「邪馬壹(=壱)國」だったと証明できる資料は無い。
これらの事を総合すれば紹煕本魏志倭人伝は信憑性が低い。 >>395
俺もそう思ってたけど、狗奴国が邪馬台国を滅ぼして東征したのだとすると、年代は違えど神武東征のモデルかもなと感じる。 >>381
邪馬台国奈良説の人も邪馬台国と大和朝廷は文化も制度も明らかな違いがあると認めてるんだよな。
だけどその間を繋ぐ根拠が怪しいという。 >>395
本当に作り話なんだろうか?
在位年は2倍説でクリアーできる。
距離を5〜6倍するのが良いなら、期間を2倍しても良かろう。 >>387
ニギハヤヒは外来系の出雲族みたいだから
その話はニギハヤヒ以前の内陸系縄文人の
古い磐座信仰の方じゃないかな
そういうポイントに「上書き」した神社は
わりとある 例)厳島神社、松尾大社、上賀茂神社
三輪大社もこの代表的な神社だし >>395
作り話だとしてもその元ネタ、または
どんな理由で東征話を入れたか考察するのが大事。
4世紀であろう景行紀の九州各地の逸話では
九州を祖先の出た地とし熊本周辺で知る限りは2,3出てくる。
他国の王権神話系で出自はメイン(始めか終わりで)として
出すところ、端っこのほうでポツンポツン出してる。
モデルかもの応神の東征にしても、九州に王権継承の下地が
ないと、記紀が書いてる畿内での戦いで決着は付かなかったろ。 大阪を九州倭国の植民地にしたのが倭王武
倭王武の息子系が作ったのが大阪古墳群で
倭王武の系統も滅ぼされた
倭王武の娘が神功皇后
九州倭王の家来系官僚がクーデター起こしたのが藤原
なので古墳の実の埋葬者は不明になった >>397>>399
神武東征はネタ。
作り話し。
考古学的に否定済み。 >>401
近畿日本が神武を招いて頭に据えたんだよ。
東征は単なる旅行譚を脚色捏造したもの。 >>385
伊都国は港湾都市ではない、港湾都市は末盧国
伊都国で治めるとあり、世有王と書かれているから倭の都
末盧国(呼子か名護屋浦)に上陸し「濱山海居」
東松浦半島内を南下「草木茂盛 行不見前人」
唐津市街地で伊都国方面の東に向きを変え二丈付近を進む「好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之」 台予はトヨって読むくせに邪馬台国はヤマタイなの意味わからん
普通にヤマトのことじゃねーの?って昔から思ってた >>349
>今以汝為親魏倭王
>親魏倭王に任命する
元の漢文に「任命する」という文言は全くない。
「以汝為〜」は「汝を〜と思う」という意味で
「親魏倭王と見なす」程度の意味合いだわなwww
戦国策とか史記本紀の原文全部を読破してから書けよ
漢文読解の参考書として薦められるのは
漢語文法論 古代編 牛島徳次著 大修館書店
この書は司馬遷の「史記」の中から
例文を拾って解説したものだ。 265年、禅譲されて西晋が成立するも内乱が続き弱体化
313年、遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると孤立した帯方郡は晋の手を離れ情報も途絶した
316年、西晋が中国北方の匈奴・鮮卑の南侵により滅亡いわゆる五胡十六国時代の到来となる
この中国の動乱により倭国と高句麗が空白の楽浪と帯方の地をめぐって激突
404年、倭国軍が帯方郡に侵入
413年、東晋に倭の五王(讃)が安帝に貢物を献ずる
421年、讃が宋に朝献し、武帝から除授の詔をうける。おそらく「安東将軍倭国王」
以下、倭の五王(略)
だいたいこんな感じ? 神武は投馬国(妻国=囎唹=隼人)の出身。
天孫降臨は、邪馬台国と繋がっているが、傍系に過ぎない神武の血を飾るための創作。
霧島連山は投馬国のシンボルだからそこに天孫が降臨して云々と言う創作をして土産話しとして神武に持たせたと言うこと。
>>406
そういうバカでかい釣パリにかかる奴もいるのは、居る。 >>399
三世紀の最先端を行くはずの邪馬台国ですら
魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
カレンダー未実装で季節の移り変わりに合わせて農作業してたレベル。 邪馬台国→山門国
投馬国→妻国
不弥国→宇美国
狗奴国→球磨国
こういうこと。
>>413
それでも天体の運行は読んでいたんだよ
伊勢の朝熊山もそういう観察ポイントだった >>1
>でも、やはり、大和の地こそ、邪馬台国に相応しいし
なんだそれは精神論かよ
客観的な証拠に基づいて思考しろよ
相応しいとかそういう問題じゃないから >>398
最大の謎は入れ墨。
魏志倭人伝には倭人は黥面文身、顔と身体に入れ墨をして部族によって違いがあるとある。
ところが日本書紀では日高見の蝦夷や九州の久米氏が入れ墨をしてて、それを不思議がる様が書かれてたり、履中天皇が気持ち悪いから止めさせたとか書いてあって、4〜5世紀のヤマトには入れ墨文化がない。 糸島半島の付け根は現在はぶっといが
三世紀はもっとずっと海が侵食している。
豆な。 >>419
ほんと邪魔だよねああいう宗教的な思考回路って
何らかの証拠があって主張するなら納得できるけど
【相応しい^q^】とかさ
多数決じゃないっての >>398
イミフwww
なにそのアクロバット擁護wwww >>423
あ、ごめん
邪馬台国=伊勢って前提で書いてます >>425
いやそこじゃなくて、天体の運行を見てたって話 面倒臭えなあ、奈良県を福岡の飛び地にすれば起源は解決だろ >>426
そこが日の出を観察するポイントだった
と現地に書いてあったのと
ほかの磐座&遺跡(系神社)が天体の運行や位置
にかなり符合してるって話をまとめて書いてます >>416
伊都国は港湾都市ではないと思う。
港湾都市を成してたのは2万余戸あった奴国で、伊都国は千余戸しかないのに一大率が置かれ、諸国から恐れられ、皆女王国に統属すると書いてるから、奴国や北部九州諸国を監視したり外交を監督する邪馬台国が出先として作った軍事都市だと思う。 >>429
伊都国にあった一大率は
王が使者を魏の都や帯方郡や諸国に遣わしたり、使者が帯方郡から来たりした時は
いつも港に出向いて調査・確認する
(王遣使詣京都帯方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露)
とあるから、(毎回わざわざ遠くに出向くとも思えないので)
港が伊都国かその近くにあった、て可能性はあるかと >>399
神武即位がBC660年の旧正月というのが
中国の辛酉革命説に合わせた捏造
出雲の国譲りは古代中国の「禅譲」の猿真似
生駒山西山麓で長脛彦の邀撃に負けて東から奈良の宇陀の方から責めて
饒速日と同じ天孫族と判って饒速日が義理の弟の長脛彦を殺したというのも可笑しな話。 >>426
ちなみにそのカテゴリが「月読」なのかなと
個人的には考えています >>428
あゴメン説明不足だった。
そっちじゃなくて、魏志倭人伝に邪馬台国や卑弥呼が天体を読んでいたなんて記述はないよね? >>406
ヤマタイは魏や普が滅亡し匈奴系鮮卑系が中原を征服した時代以降の発音。
ほぼ民族が入れ替わってるのは朝鮮半島と同じ やまたいじゃなくヤマト国だろ
中国の傘下だった国なんてどうでもいいじゃん >>418
そうであってほしい
そうでなければならない
万世一系の建前の維持のための畿内説だからw >>433
こちらこそ紛らわしくてすまそ
自分的にはすでにそれがデフォになってたので
申し訳ないです >>437
ヤマト王権は確実にあったわけだからその連続性を探るのは当然のことだと思う。
むしろ九州なら邪馬台国はどうなったのかさっぱりわからない。 >>427
奈良はウリナラマンセーのナラつまり国の意味
奈良は韓国の飛び地だよw 神武東征とは九州にあった邪馬台国が畿内を制圧したってこと
邪馬台国は九州 >>415
>不弥国→宇美国
これは横光利一の小説「日輪」で卑弥呼の出身地が
不弥国(うみ)と振り仮名したためで
全然根拠のな小説の中の作り話に過ぎない。
九州説は古田教や小説などの作り話の洗脳されやすい池沼wwwww >>292
ジンムの東移動にあるように
九州は大和朝廷の支配下なんだよ >>439
連続性を探れば邪馬台国がヤマト王権に関係してない事は火を見るより明らかだろ? >>439
>むしろ九州なら邪馬台国はどうなったのかさっぱりわからない。
大和王権の正史では東征説、日本記は東遷説。 糸島自体には、当時の畿内勢力の影響がほぼ見られないのだし
伊都国自体は畿内を繋ぐのは難しい気もする
糸島自体は記紀では13代仲哀の時に降ってて、他の地域より若干遅い
糸島の遺跡も畿内式は主に布留式からで、隣の福岡市より畿内勢力の下に入ったのは遅かったように見える >>447
神武東征があったとしてそれが魏志倭人伝の時代より前かもしれないしな。
もし卑弥呼の時代より後なら応神天皇がモデルということかな。
その場合、邪馬台国は宇佐てことになるだろうな。 >>439
空白の4世紀を解明することは至難の業
なぜならヤマト王権の権威に傷がつくから
皆さんのご想像通り、邪馬台国は九州北部にあった倭国の最大の国だった
倭国大乱で逃げてきた一族が高千穂から東征し畿内でヤマト王権を築いた
これ以後、九州北部と畿内に巨大な勢力がしのぎを削ることになった
磐井の乱(実際はヤマト王権のクーデター)によって倭国王磐井は死に
九州北部の倭国の力は急速に衰えた
それでもタリシヒコと聖徳太子による九州畿内共同統治や
九州血統の天武などによって倭国再興を願ったが叶わず
670年、唐の協力のもとヤマト王権は邪馬台国から続く九州王朝を完璧に滅ぼし
日本という統一国家が誕生したということなのだよ はっきり言おう
天皇を○して簒奪した武内宿禰が大量の朝鮮人貴族を連れてきた
これが大和という朝鮮人政権の始まり >>450
宇佐は吉備と同族
そして纏向には吉備の影響の痕跡がある >>446
奈良と九州北部の地名は似たものが多い
明らかに関係はあったよ 大和は朝鮮人貴族だらけ
そもそも天皇が武内宿禰に○されたのを平気で書いとるわけだ >>448
邪馬台国は文字による伝達を行っていた事が魏志倭人伝に記されている。
邪馬台国がその後存続し、あまつさえヤマト王権に連なっていたとしたら具体的にその伝承が残る。 >>420
縄文人は刺青やってたが弥生人はやってないってことなんだろ >>458
まあ少なくとも金印は伝わるわな
そこ完全に断絶してるもんね 大化改新以降、朝鮮人は東国に移配されたみたいやね
飛鳥時代から平安時代にかけては、朝廷の政策により、朝鮮半島から多数の渡来人・難民が東国方面に移住・入植した経緯がある。六国史を始めとする記録からは、これら半島出身者の東国への移住が、朝廷により逐一把握されていたことが分かる。
推古天皇9年(601年)、対馬に到った新羅の間諜迦摩多を捕えて貢上し、上野に流す。
斉明天皇6年(660年)、百済が唐俘100余人を献上する。今の美濃国不破郡・片縣郡の唐人等である。
天智天皇5年(666年)、百済人の男女2000人以上を東国に移住させる。凡そ緇素(出家者と非出家者)を択ばず。癸亥年より3年間、同様に官食を給賜する。
天武天皇13年(684年)、百済人の僧尼及び俗人の男女23人を武蔵国へ移す。
朱鳥元年(686年)、新羅沙門行心が謀反し、飛騨国の伽藍に徙す。
持統天皇元年(687年)、投化した高麗56人を、常陸国に居住させ、投化した新羅人14人を下野国に配する。又、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に移住させる。いずれも土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。
持統天皇2年(688年)、百済の敬須徳那利を甲斐国に移す。
持統天皇3年(689年)、投化した新羅人を、下毛野に居住させる。
持統天皇4年(690年)、帰化した新羅の韓奈末許満等12人を武蔵国に居住させる。又、帰化した新羅人等を、下毛野国に居住させる。
霊亀元年(715年)、尾張国人の席田君邇近及び新羅人74家が美濃国を本貫地とし、席田郡を建てる。 >>449
北九州な国に女王の境界があるから
百年前まで刺青文化ちょこちょこ残ってた >>458
残っていたとしても時の権力者にとって不都合だから焚書したってこともある 霊亀2年(716年)、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七カ国の高麗人1799人を武蔵國に移し、始めて高麗郡を立てる。
天平5年(733年)、武蔵国埼玉郡の新羅人徳師等の男女53人に請われ、金姓とする。
天平宝字2年(758年)、日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国の閑地に移住させ、はじめて新羅郡を置く。
天平宝字二年(758年)、美濃国席田郡の子人・吾志等、賀羅造を賜姓される。
天平宝字4年(760年)、帰化した新羅人131人を武蔵国に置く。
天平宝字五年(761年)、新羅征討に備え、美濃・武蔵各国の少年20人ずつに、新羅語を習わせる。
天平神護2年(766年)、上野国の新羅人子午足ら193人が吉井連を賜姓される。
宝亀十一年(780年)、武蔵国新羅郡人の沙良・眞熊等2人が広岡造を賜姓される。
延暦七年(788年)、美濃國厚見郡人の羿鹵濱倉が美見造を賜姓される。
延暦8年(789年)、信濃国筑摩郡人の後部牛養が田河造を賜姓される。
延暦16年(797年)、信濃国人の前部綱麻呂が安坂姓を下賜される。
延暦18年(799年)、百済姓の甲斐国人190人、高麗姓の信濃国人12人等、朝廷に願い出て日本姓を下賜される。
弘仁5年(814年)、化来した新羅人加羅布古伊等6人を美濃国に配す。
弘仁11年(820年)、遠江国・駿河国に配された新羅人700人が反逆する。(弘仁新羅の乱)
天長元年(824年)、新羅人辛良、金貴賀、良水白等54人を陸奥国に安置し、法により復を給し、乗田を口分田に充てる。
貞観12年(870年)、新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奧国に配する。 日本書紀を見る限り、ヤマト政権は四世紀前半以降の半島からしか知らないしな
中国に至っては魏も晋も(魏志の引用以外)知らない。帯方郡も楽浪郡も知らない >>430
可能性じゃ無くてモロそうだよ。
違うと言うヤツがただのバカ。
糸島半島の付け根は現在はぶっといが
三世紀はもっとずっと海が侵食している。
伊都国はモロに港湾都市。
福岡の山門って北九州じゃなくてみやま辺りの山門だよね?
大牟田なんかは当時海だったはずだから南に抜けるには山を抜けるしかなかったんだろう。
そして山の入り口を意味する「山門」と呼ばれていた。
やはり地名は地形から生まれてくるものでしょう。 >>420
百年前まで刺青お歯黒残ってた
アイヌ沖縄台湾にも あった場所すらはっきりしない、つまりその程度の国だった、てことだよ >>443
↑
この低脳低学歴はおいといて、不弥国=宇美国は本居宣長の説な。 >>455
日向、宇佐、吉備、大和
まさに神武東征の進行ルート。 随使者が奈良まで来て倭人伝のヤマトと同一であると確認してる
王手だな >>478
大和政権に完全に葬り去られたんだよ
いや、地球上の話では無くされたというか >>443
本居宣長が言った有名な説だからそれを借りたんだろがこの糞低学歴が。 >>467
ヤマト王権を含め列島に存在するすべての国は九州北部をリーダーとして従っていた
つまり日本の外交機関は大宰府であり、中国がヤマト王権の存在など気にしていなかった
ところが隋唐と北方異民族が中国を支配し九州北部の倭国は焦った
今まで朝貢してた漢民族の中国様がいなくなって野蛮人がボス面しだしたから
こうなったら俺らが中国の正統後継者なんじゃいと倭国は隋唐と対等外交を展開した
そもそも九州は中国周王朝の尊称
敵の敵は味方
でヤマト王権は倭国を裏切りひそかに唐と結託して倭国を滅ぼし日本を創った
これで列島全国の国が「ふざけんな」で大反乱
征夷大将軍坂上田村麻呂を東国に派遣してあずまえびす共を鎮圧し
以後、日本はヤマト王権を中心に動いていくって流れ
邪馬台国→山門国
投馬国→妻国
不弥国→宇美国
狗奴国→球磨国
こういうこと。
>>486
妄想してもしょうがない
テストで空想書き込んでも0点しかあげられない >>463
それは陰謀史観と言って、歴史を辿る上で1番やっではいけない事。
陰謀史観を用いれば何でも創り出せるし破壊できる。
時の権力者による改変、捏造、焚書
使ったが最後それまでの積み上げが全て無に帰す。 >>482
はい残念。
隋の時代には既に女王国は無い。
つまり魏の時代で言えば、邪馬台=祭祀場(ほぼ霊園?)だなw
という意味でした。 >>473
九州人が大量に奈良に入植して自分らの故郷の地名をつけたんだばーか
北海道の地名と同じ >>481
末盧国は、倭人伝では、草木茂盛行不見前人
な国
ここは恐らく末盧国から伊都国までの道の状況では、と思う
今でも唐津と糸島半島の間は山が海に迫る険しい地形だし
未整備だった可能性は多いにあると思う
一大率が頻繁に行くには相応しくない気がするが 女王之南又有狗奴国
この文面からすると、かなり近場だ。 >>495
そうね。台与がトヨなんだから邪馬台はヤマトだね。 >>496
うん。それもヒントだね。
狗奴国は球磨国だから邪馬台国は筑紫平野ね。 >>493
地名に関してはせいぜい奈良時代じゃない? >>498
つまり奈良のヤマトは九州の山門が移ったてこと? >>490
学者連中はヤマト王権の史実に従う犬だから真実を知らないだけ
いや知っていても認められないだけ >>493
そうならば九州は元々大和朝廷のテリトリーだ >>502
嘘じゃねーわドアホウ
藤原京を建設したのは九州北部からの入植者
無知な馬鹿ほどよく吠える >>494
なら一支国から直接伊都国に入港してただろう >>491
実際、歴史とは勝者によって書かれるもの
これを無視して正しい歴史は語れない >>503
白石さんてさあ、メディアに対しても「邪馬台国は絶対に奈良にあったんだ」と言いながら調査やってた人だからねw
学者でも研究者でも素人でも無いよこんな人w ヤマト王権の前身が邪馬台国
卑弥呼の鬼道は天皇の宮中祭祀へと引き継がれた >>507
でもどっこにも残ってない「正しい歴史」を、おまえさんだけがなぜ知っているのだね?という 神話の世界に消えたんだな
魏志倭人伝の伝える通りいまは海の中なのかも >>509
こないだ天皇は亀の甲羅を使ってたなw
糸冬w >>507
当然その通りだが、自説の証明が出来ずに使うのが最悪の下策。
様々な角度から無理のない解釈を導き出した上にこそ歴史はある。
返答に困って使うようなやつは語る資格なしとさえ。 >>503
>>507
バカなやつ
論文すら読んだことないの丸わかり >>510
想像で創造するのが歴史です(`・ω・´)キリッ
(畿内説談) >>505
それがなぜ九州から多量に入植者がいたことになるんだよこのウソつき野郎
>>505
お前は本当にウソつき野郎のクソ食いだな。
クニがたくさんあり中心にはシャーマンがいて
そんな国々がたくさんあったんじゃないかなと思います
たまたまぶち当たったクニが邪馬台でジャーマンがヒミコ >>501
違う。勝手に騙っただけ。
旧唐書にある通り。 >>441
北九州は卑弥呼の昔から朝鮮の植民地www >>506
一支から伊都ではなく末盧に行ったのは
渡海に当たって慎重を期したのかも知れないし
単に風の影響で末盧に着いたのかも知れない
もしくは倭人の記録として必要だから敢えて末盧国を経由したか 畿内でヤマトと呼べる場所があるとすれば、確かに河内側からみた大和川だね。
しかし王子に抜けるまでの間は急流で、とても船で遡れるような川じゃないよ。
邪馬台国→山門国
投馬国→妻国
不弥国→宇美国
狗奴国→球磨国
こういうこと。
時系列で見よう
天皇○される→武内宿禰が朝鮮人貴族を大量に連れてくる→朝鮮人の天下
これが大和という朝鮮人政権の始まり >>519
旧唐書は倭国か日本かの話でヤマトと語ったことは書いてないと思うが? >>520
北九州だけが中国や朝鮮由来の土器が出るからな。
明らかに他の地域とは交流交易の形跡がない。
畿内にせよ吉備や中部、関東にしても交流交易の形跡があるにも関わらずね。
つまり「世界が北九州から孤立してる」ってやつだな。 なんにせよ箸墓古墳は考古学的に誇るべき古墳にまちがいないが卑弥呼だ邪馬台国だのにまみれて存在ボケてる感あるよな 狗奴国に擬せれる可能性もある、熊本の山鹿市にある方保田東原遺跡は
庄内式や布留式が結構出てくる
そのちょいと上にある、朝倉の平塚川添遺跡とはえらく違ってる
庄内式は福岡市は比較的出るが、そっから西にはあんま広まってない
南の久留米あたりにもまず広まってない
しかし、何故か更に南の熊本の山鹿市には畿内式の影響がみられる
どういう事かよー判らんが面白い 箸墓は朝鮮由来の鐙が出る点からも朝鮮化した大和の貴族で間違いない
ちなみに年代は当然4世紀以降だよ >>523
難波より河内湖生駒山ふもとまで船つける方が合理的だね >>523
船で遡上しようとしたわけない。
川辺を歩いて遡上しようとした。
日本書紀では浪速之国の白肩之津まで船で行き、そこから歩いて生駒山を越えようとしたとある。 >>485
言語学的にありえない話だな
それじゃ不弥→宇美のように
昔ハ行、パ行始まりでだったが
現代ではア行始まりとなった例を挙げてみろよ ふさわしいからってのが理由な畿内説の人達ww
邪馬台国は九州だ >>486
物凄く説得力有るけど
池沼しか居ない九州説派には理解できない話だ。 古代日本語では、わ行音とは行音は非常にしばしば混同された。
「私は」と書いて「ワタシワ」と読むのはその名残り。
宇美は恐らくwumiで、humiと混同されていただろうと言うこと。
それが本居宣長の説。 >>543
涙拭けよリアル知的障害者の近畿パーww >>539
歩ける川岸が無い。
意外と峡谷だから。
本居宣長の説を与太扱いして得意になるのが近畿パーww
「近畿では鉄が溶けやすいんですキリ」
カタワかなんかかお前らは?
九州の最古級の前方後円墳は、繰り上がって三世紀中〜後半辺りから
宮崎なら生目一号墳とか西都原81号墳とか
宇佐なら赤塚古墳、福岡なら那珂八幡古墳
この辺りは所謂箸墓の形式の相似形のものもある
もし箸墓の年代が四世紀以降であれば、九州に残る箸墓型の古墳は
以前考えられてたような箸墓の相似形ではなく
むしろその逆で、箸墓がその完成形だったりするかも
まあ古墳の時代比定は難しいけど >>498
後漢書には狗奴国は邪馬台国の東だと書いてある。
古田武彦が読んだ宋版魏志倭人伝は方位に関して信憑性が極めて低いw 朝鮮人貴族が朝鮮から輸入した馬でこさえたのが箸墓
もちろん4世紀以降である 近畿最古の纏向は5世紀だからな
紅花花粉や鐙が出てくるのに3世紀とか言ってる基地外だから相手にしないほうがいいよ >>518
卑弥呼ゲルマン人説か
画期的な新説だな >>505
クソ食い朝鮮人の子孫はよくウソ搗く奴だ 朝鮮人DNA濃度が日本一高い近畿
もちろん朝鮮人政権大和のせいである 後漢書だと拘奴国で、倭人伝にある狗奴国とは微妙に字が違うが
これは一緒の国なのかどうか
後、魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)でも
狗奴国は邪馬台国の南になってるし
後漢書の拘奴国は狗奴国とは別なのかも知れない
まあ何とも言えない話だが、、 奈良は本州の中心だから有利
四道将軍派遣してる
伊勢湾
琵琶湖
大阪湾 >>549
そういえば奈良の東は纏向のお仲間だったね >>558
その系統(崇神系)は武内宿禰に○されてんじゃないの
そんで武内宿禰が連れてきた朝鮮人貴族が連れてきた馬と馬具で作った箸墓
どんな被葬者か想像がつくわい 奈良が邪馬台とか何寝ぼけてんのか知らんが
お得意の土器流通からして元は吉備勢力の配下なのに何が邪馬台なんだよ馬鹿馬鹿しい 邪馬台国を解明するなら、
一旦邪馬台国をお休みして、
狗奴国を主役にしてみればいい。
狗奴国を大和朝廷のルーツであると仮説を立てる。
そうすると、邪馬台国は北九州だと導かれていく。 >>561
初代出身地も吉備も出雲も
後に征伐されてる三点共通だな >>539
普通に徒歩なら暗峠とか十三峠、大和川沿いの柏原を通るルートだな 朝鮮人貴族の先進技術で強大化した朝鮮人政権が
長年世話になった吉備や尾張を蹂躙したわけだよ 天皇家のルーツは日向であると日本書記や古事記のは書かれてる。
これは事実で確定でいいんだね。
そうなると日向に関係するなにかがないと、邪馬台国は大和朝廷と関連性を示せないし、
畿内に邪馬台国があったなら、卑弥呼を頂点とする祭儀政治と畿内の古墳文化が結びつかないといけない。
だけど、それは性格の違うものだと思うよ。 >>542
糞食い朝鮮植民地池沼野郎は静かにしてようね >>554
北部九州全体が邪馬台国だよ
邪馬台国は卑弥呼を共立した北部九州の国々の連合体の名称。 近畿の3世紀以前は銅鐸土人の時代。
この時代の中心は出雲であって近畿ではない。 新唐書では神武の一族は代々筑紫城に住んでたとバラされてる
代々筑紫城に住んでたくせに日向から東征したとかホラを吹いた
倭国大乱で敗北して逃亡したことをどうにかして誤魔化そうとしたのが神武東征なろう小説 >>570
バカだなあ
青銅器サイシもガッツリ中国の文化だよ 宮崎の西都原古墳の女狭穂塚と男狭穂塚はかなり大きい古墳。
あれだけの規模の古墳は大きな権力の持ち主だし、
畿内の巨大古墳と強い関係性があると思うね。 杵築大社の天井図、八雲が一つ欠けて七つしかないだろ?
出雲地方で【オオナムチ】以前に信仰されていたのは【幸神】、【東】から来て文物をもたらした【クナトの神】、そして二神の子【サルタヒコ】
追放されたんだろうな。八雲が欠けた理由
八雲を出た一族、出雲。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が畿内各地で見つかっている
逃れたサルタヒコが見つかったのは、天の【八衢】
道が幾つにも分かれるところ、【方違】
堺に方違神社があって、方違【幸】大神が祀られている
畿内に逃れてきた幸神一族、出雲族と元々畿内にいたクナト族が一緒に国作りをしたんだろう
1世紀半ば〜2世紀後半の出来事
倭国大乱前に畿内にあったクニは、この二つの勢力が中心となってできたんだろうな
【八衢】と延喜式祝詞にある道饗祭の神々との関係が興味深い
【八衢】彦、【八衢】姫、クナト
上記の神々は、高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。 九州倭国王のルーツは
南九州 薩摩 熊本 日向
奈良大和は九州倭国の歴史のパクリ >>571
元々北九州は皇室大王の支配地域なんだよな >>544
言葉の最初の「ハ=pa、fa」と語中、語尾の「ハ=pa、fa」では
音韻の変化の仕方が違うってのを知らないのは藤四郎wwwww 俺は日向でちょっとした旅したんだけど、
蛇行剣というのがあるんだな。
これは実用品というより、身分の高いひとの装飾的な性格があるんだけど、
これは中国や朝鮮半島の由来ではなく、倭のオリジナル作品であって、
それが日向と畿内の二つに集中していることらしい、
神武天皇東遷は事実だろいう一つの証拠でもある。
少なくても日向の勢力と畿内の勢力が関係があるか、
それとも、同じ勢力なのか 藤原系皇族は明治維新で長州と組んで
大権力復活させて
特権生活できると思ったら 2次大戦で失敗した
バカチョン軍団 >>576
漢委奴国王の一族が倭国大乱の際に逃亡して、流れ着いた先が奈良だろうね
その際に吉備に相当助けられて後ろ盾になってもらったとかあるのかもしれない >>578
あと
奄美とか島含め南九州なら貝の腕輪交換かなあ >>564
それは今の地形での発送としては正しいが、河内湾の造営や大和川も付け替え前だからね。 記紀を編纂させた天武は霧島というだけだよ
天平に作られた万葉集の梅の歌序に暗喩的に書いてある >>569
それは違う。邪馬台国は首都みたいなもの。 令和の典拠、梅の歌序
5世紀辺りの歴史と壬申の乱の真相を歌にしたものなんじゃないか?
梅がどんな勢力か謎なんだよな。物部氏に恨まれていた出雲大臣の勢力かな。出雲国造家や土師氏、天穂日
令月 氣淑風和梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香 加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖 夕岫結霧鳥封□(穀の禾の部分が糸)而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈
蘭はイチイ、アララギのことかな
中部地方以北の寒い地域に多い植物
珮は殷、周の時代に流行った飾り
立派な月は風と手を組み、梅が鏡についた白い粉を払った。東国では殷の末裔の影響が残っていた。
それだけで終わらず‥
壬申の乱が起きたのかな
曙嶺移雲 松掛羅而傾盖
朝日の美濃に雲が移り、新羅の装いの松と偶然にも仲良くした
本巣市、本巣郡辺りのことかな
朝日(神社)とか加茂とかの地名が残る
霊亀元年(715年)、尾張国人の席田君邇近及び新羅人74家が美濃国を本貫地とし、席田郡を建てる。
夕岫結霧鳥封□(穀の禾の部分が糸)而迷林 庭舞新蝶 空歸故鴈
岫は岩穴、山の洞穴
霧は霧島のことかな
霧島神社、天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊が祀られている
庭は朝庭かな
朝が東なら夕は西
西の洞穴は霧島と手を結び、鳥はうすものに閉じ込められたが林の中を彷徨っている
朝廷には新しい蝶が舞い、元いた雁は巣に帰ってしまった >>578
ググってみると蛇行剣は古墳時代中期から後期(5〜6世紀)らしいから神武東征伝説は無関係じゃねえかな >>578
>蛇行剣
>倭のオリジナル作品
残念ながらインドネシアやマレーシア、ブルネイ、タイ南部、フィリピン南部で主に見られる剣が
蛇行剣と極めて類似していてポリネシア・ミクロネシア系の饒速日が
降臨した(=天下った)というのを補強する証拠だな。
(h)ttp://www5f.biglobe.ne.jp/~ssbohe/one_krisnaga.htm
ja.wikipedia.org/wiki/ クリス_(短剣)
古代日本語では、わ行音とは行音は非常にしばしば混同された。
「私は」と書いて「ワタシワ」と読むのはその名残り。
宇美は恐らくwumiで、humiと混同されていただろうと言うこと。
それが本居宣長の説。
>>555
しかし言葉のアクセント=抑揚から見れば
近畿圏は中国語的
北九州は朝鮮語的
涙拭けよ九州派www もう近畿パーは今後はカタワ呼ばわりするからね。
本居宣長をプゲラしてテメーが言うことは
「近畿では鉄が溶けやすいんです」(キリッ
なんだから。
まともな人間とはとても言いかねる。
またまた今回も畿内説のニュースか・・・
九州説ってもうマスコミから無視されているの?
ちっとも話題にならないね。
どうした? >>593
朝鮮遺伝子MAXの近畿が何を言うのかな
はっきり言えば近畿人とは朝鮮人じゃね >>592
「私は」の「は」は語尾、自立して意味を持つ単位の末尾にある。
「わたしわ」の先頭の「わ」が「はたしは」と書かれた証拠が無いと
オマエラ九州説は成立不可能。
「不可能」が「ウカノウ」と読まれた証拠を出せ。 朝鮮人貴族が作った箸墓に誰が眠るやら
日本人の可能性はゼロに近いわな >>594
近畿では鉄が溶けやすいんです」はオレが云ったことじゃないしwww
唐古鍵から褐鉄鉱容器に入った勾玉が出土してる。
褐鉄鉱(=鉄の赤錆)容器が有るってことは鉄製品の破片、
屑がたくさん有った証拠。
あるいは阿蘇の周囲、富士山の周囲と交流があった事を示す鉄板証拠。
邪馬台国の最有力候補は田原本の唐古鍵遺跡。 >>596
あたりです。
[半島系]乾燥耳垢
[縄文系]湿潤耳垢
以下、都道府県別の乾燥耳垢率
北海道:67.4%
宮城:65.6%
東京:67.6%
新潟:75.0%
長野:77.1%
愛知:81.3%
奈良:100%
大阪:94.7%
広島:74.7%
福岡:59.4% 天皇家が邪馬台国を乗っ取った時に、出雲族から鉄や武器を回収したんだよ。それを、石上神社や
出雲の荒神谷遺跡へ埋めた。 >>590
学者の一説にすぎないし、無理やり結び付けた感がある。
俺は実物の蛇行剣をみたが、ミクロネシアの曲がった刀とは違う。
それに、それが日向と畿内になぜ集中してるのか?という大切な問いかけの答えになっていない。
畿内に邪馬台国があったらとんでもないことになるよ。
奈良の南に狗奴国があることになる。
そんな、奈良の南に邪馬台国の脅かすほどの勢力ができあがる地理環境なのか?
辺境でしかない。
畿内に邪馬台国なら朝鮮と交易するために、中国地方や北九州を支配下においてなければできない。
それほどの巨大勢力が奈良の南の辺境地の狗奴国に脅かされる?
ありえないと思う。 ちゃんとした畿内説もいることを知っておいてください。
奈良県立橿原考古学研究所の関川 尚功は、魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏に頻繁に使いを送り、また魏からも
使いや軍人が渡ってくるなど半島や大陸と活発に交流していたが、纒向遺跡の搬入土器は北九州由来のものは非常に
少なく、また半島や朝鮮との交流を示す漢鏡、後漢鏡や刀剣類などが北九州で大量に出土しているのに対し、
纒向遺跡ではまったく出土していないことから、魏志倭人伝にみる活発な半島や朝鮮との交流は証明されておらず、
纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。
纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。
纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。
纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。
纒向遺跡は邪馬台国の遺跡で無いとしている。 >>605
北九州説はシンプルに理に適ってると思うよ
不思議なのは、なぜ国号に「ヤマト」なんて
邪馬台国と紛らわしい名前をつけたのか
それがなければ畿内説(大和説)がここまで
トチ狂うこともなかった 知っていたけど畿内説は隠していました。
倭国の邪馬台国と日本国の大和政権は無関係でした。
旧唐書より
■倭國条 〜631年の記事
倭國者,古倭奴國也。
(倭国はいにしえの倭奴国である)
※いわゆる漢委奴国王の金印を貰った国
で、倭国より古い時代の国名=北部九州
去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。
(新羅の東南海に在り、京から一万四千里)
※起点変更:京は郡より遠い
■日本条 701年〜の記事(大和朝廷時代)
日本國者,倭國之別種也。
(日本国は倭国の別種である)
※畿内政権は倭国とは別物だと言い切ってる
日本舊小國,併倭國之地。
(小国だった日本が倭を併合した)
其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。
(使者が嘘つきなので中国はこれを信用していない) 邪馬台国なんて、どこにあったかすらもわからない、ホントにあったかどうかもわからない国なのに
相応しいもクソもないでしょ >>609
山の都だからヤマト(山都)
古代は自然崇拝とアニミズムだからね。
高千穂もでてくるわけだし そもそも邪馬台国なんて無かったって説
田中英道氏が言ってる
卑弥呼の名前のついた神社が一つもないのは不自然 邪馬台国の場所は焚書された文献に記してありました。
燃やされた記録を引用している文献が太宰府で発見されています。
邪 馬 台 国 へ よ う こ そ
■廣志逸文の記述
廣志曰く、倭國東南陸行五百里、
到る伊都國、又南、至る邪馬嘉(臺)国。
https://i.imgur.com/bmslFbs.png
■アクセス
伊都国の南 徒歩すぐ >>612
そもそも、中国側の要人が邪馬台国を見聞したりしたものが史料なら、じっくり検討できるけど、
邪馬台国の使者が勝手に言ってることだから。
邪馬台国が舐められてもいけないし、脅威と感じられても困るわけで
使者は微妙にホラを吹いていると思うw 今やっている86レースみたいな奴やれば良いのにねー
何だか 若者の車離れわかるなー
YouTubeに揚げたりしてたのかね? アメリカはどっち?と聞かれたときにワシントンの方角を指さすかそれともハワイの方角を指さすか
https://i.imgur.com/FeOYTHe.png
隣の国(伊都国)はどっち?と聞かれたときに中心部を指さすか一番近い場所を指さすか
https://i.imgur.com/t9rghij.jpg
もしかしたらこういうことかもしらん >>620
お前が居ないだけだから大丈夫だよ近畿パーwww 倭国の東南に伊都国があったのか、それとも、
倭国っちゅうけどな、まず東南に伊都国やろ、それから南にヤマカ(ト)国やろ、なのか 「ワシが卑弥呼じゃ!」みたいな決定的な証拠が出ちまえばいいのにな
こっちでもないあっちでもないと、いい加減面倒くせえ 邪馬台国は九州にあったと思うんだけど、一応近畿説で一番可能性高そうなのって
唐子鍵遺跡じゃないの? 魏志倭人伝に記載された方角は合っています。
当時の地形や水運が発達していたことも考慮しましょう。
https://i.imgur.com/t1La2wr.png
なお昔の諫早は船越と言われていたように、船を渡す水道があったようです。 >>572
はぁ?
オンドルと下戸遺伝子で中華確定だけど
近畿人が倭の別種と唐王朝に看破されたのは
顔からして中国人だったからだろ
それくらい理解しろよ馬鹿だな 起源は叫んだもの勝ちってどこかの国みたいだよな。
マジで纏向詐欺恐るべしだなw 494の山が海に迫る地形こそ大事なんだよ。会稽東治の東。会稽白山のような地形が必要。北九州なんだよ邪馬台国わ。狗奴国の南と東は遷都したかもしれない、日向に越したのか、大分か知らんけど なんで邪馬台国っていうの?→大和の地に存在してたから
なんで大和をやまとって読むの?→邪馬台国があったから
循環論法 >>631
そういや舩越は諫早に町名としてまだ残ってるな >>622
結局、女王神籠石とかの色々な神籠石が密集してる筑後川流域でFA? 現に北九州じゃあ、ひきがえると月、うさぎがいるのか知らないけど絵の描かれた古墳があんだろ、それだけで魏史倭人伝の話は合ってる、近畿にもあれば別だけど山奥には合わんだろ、卑弥呼、女性は嫦娥だよ。因みに桃は、桃花源記でも読んだ奴だろ。 >>639
大和の元の文字は大倭
倭国の首都なので大倭だったが、元明天皇の好字二字令で倭を同音の和に変えて大和。
大和の読みの元は山門
門の文字はトと読み、狭い場所の通行可能部分を門(もん・と)と読んだことが語源。
当時の生駒山の間を流れていた川のことを山門川と呼び、これが大和川に変化した。
他にも門をトと読む例は例えば瀬戸内。
これも元々は瀬門内。瀬が連なり門に例えられた。
日本書紀だと北九州の遠賀川河口の地名に岡水門がある。
これは河口を門に例えた例。
邪馬臺国の読みはジャバイ
ヤマトとは関係ない。 >>525
王権の正当性をうたう記紀でも
仲哀天皇は神託に背いて亡くなった、と書かれてるんだよな。
で仁徳天皇は名君主とされてる。
神功、応神あの辺りも王位簒奪の新王朝の疑いありで怪しいよね。 >>420
師弁なんて倭面土国王なんて呼ばれてんだよ
卑弥呼の時代まで刺青文化圏なのは明確
アイヌも刺青文化あるし、揚子江以北の非刺青文化圏に勢力を奪われた証 カムヤマトイワレヒコ(神武)
カムは神。井沢の説で良い。王朝の始祖と言う意味。
ヤマトは邪馬台(山門)。
イワレは謂れ。
ヒコは王。
神武は近畿がヤマトと呼ばれる謂れとなった王であり、王朝の始祖である、
と言う意味。
言い換えると、神武以前は近畿はヤマトでは無かった。
>>650
と思ったが違うな。
邪馬臺はヤマトではない。無関係。 >>573
調べたらそれは5世紀前半なのに宮内庁からはニニギと木花咲耶姫の陵墓候補地扱いだったとか。
個人的に東征は邪馬台国の前の1世紀2世紀か、後の3世紀末あたりと思っているが、
西都原古墳群は4世紀以降と新しくてどうも合わないんだよな。 >>650
お前しれっとキチガイみたいなこと書いてんな上で 邪馬台も倭面土も大和だろうよ
後漢が勝手に奴国を倭の代表にしたので
大和さんがキレて本気出しちゃったんだよ >>599
ゴミクズ糞チョン
おまエラはエベンキ白丁奴隷だ
こんなところで妄想ぶちまけてないで祖国の危機だろ兵役、炭鉱で将軍様に使えてこいゴミクズ 小都会 奴国が勝手に日本の代表面して金印もらったので
大都会の大和さんキレて本気出す
後漢に使いを送る 恥という概念は無いのかねカタワは
いやそりゃ無いかカタワなんだから
ww >>580
邪馬台国前の倭国大乱で負けて北九州から畿内に逃げたのが東征のモデル、なるほどね。
ならなんで記紀に天皇家は日向国出身と書く?
大和朝廷にとって日向国を重視する理由あるのかな。 太陽神の末裔だから日向なんじゃねえの
というか日向の豪族を大和に呼んだんだと思うよ
北九からの東遷ではなく カタワ呼ばわりがけっこうしっくり来るこいつらってwwwwww >>663
大和王朝は邪馬台国でなく、そのライバル国が源流かもしれんよ なんか語源的に違和感なくてあんまり反論したくないな 何お前らもしかしてむしろ当ててもらって嬉しい気分なの?
w >>667
普通に南九州の勢力だよ
高千穂峰なんて宮崎県と鹿児島県の県境。 もっと大和朝廷は鳥取にあった 遺跡が見つかった〜とかのスレならもりあがるかもしれないけど
大和説はあたりまえすぎてちょっとな 大和朝廷成立後、近畿地方の文化の低さに驚いた天皇は朝鮮半島に使いを送り
近畿に移住するのを奨め、その結果大勢の移住者が奈良、滋賀を中心に住み着いた カタワ呼ばわりが当たってるとかwwwwwwwwwwwwwww
orz 学問系のスレでカタワ呼ばわりとか普通はダメに決まってるんだけど
当たってるんだもんなこれが
う〜む 国民百科事典(平凡社)
「近畿地方の人々が朝鮮人的要素を有する事は注目に値する」
マキシムレヴィン(旧ソ連の形質人類学者)
「シベリア抑留者1万人を調べた結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが
東西に行くに従って日本人になっていく」 >>634
オンドルは朝鮮系よ思ってたけど違うのか
なんで「オンドル」なんていう漢字の朝鮮読みの言葉を使うんだ >>678
遺伝学では関西人と朝鮮人で共通する部分は少ないとされる。東京歯科大学の野中育が日本各地の住民の遺伝子を調査した際には、近畿地方住民と近畿地方以外の平均的な日本人とで遺伝子に著しく異なる結果は出なかった[14]。
死んどけ馬鹿チョン 祖国を見捨てて関西に移住した訳だから気持ちは判るよ。 俺は韓国旅行には3回、大阪には数え切れんほど行ったが韓国人の三割は日本人と
見分けがつかず、大阪人の七割は朝鮮人と見分けがつかんと判ったよ。
関西は日本で1番目が細く、吊り目で一重瞼の人達が多い地域と理解した。 >>670
〽雲に聳ゆる高千穂の か
高いところが好きなのは甲骨文字を使ってた殷(夏王朝)の中国人も同じだな
万葉集には
對馬能祢波 之多具毛安良南敷 可牟能祢尓 多奈婢久君毛乎 見都追思努<波>毛
対馬の嶺は 下雲あらなふ 可牟の嶺に たなびく雲を 見つつ偲はも(巻14 3516)
という防人歌が載っている。
https://www.manyou.gr.jp/SMAN_2/show_record.cgi?record=566
>上代の国語ではカミ(上)のミは甲類、カミ(神)のミは乙類の仮名で表記され、「カミ−カム」という変化は乙類の音を持つ方にみられる。
>対馬から脊振山系を望見して作った歌とする
卑弥呼の「呼」を「オ、ヲ」と読む説があるのは「多奈婢久君毛乎」の「乎」と同音であるからと
思われるが「乎」の読み「オ、ヲ」は訓読、つまり日本語訳としての読みだと思うが
卑弥呼を「ピミオ」などと読むと主張する連中は一体中国の何処の方言音と考えているのか。 >>677
ここは学問系じゃなくて田舎の村興し系だから
田んぼの水争い並の怒号が飛び交う下品系スレw カタワとかの下品な差別用語を使いたがるのは朝鮮系の関西人だな。 >>682
お前が見たのは在日だろ
在日はたかだか戦中戦後に住み着いた棄民どもだ馬鹿チョン 近畿人は朝鮮人
これは大和(政権)が朝鮮人支配層なため 翰苑には、卑弥娥となってるから卑弥だろ、同様に卑弥弓呼も、卑弥弓だろ、意味は知らないけど 北九州からの出土物には中国や半島由来のものが大量にあり、明らかに日本の他地域とは文化圏が異なる。
また日本の他地域との交流もなく、南部の狗奴国とも戦争状態。
狗邪韓国辺りから北九州沿岸に朝鮮人の集団が住み着いていたんだよ。
そいつらが公孫氏が滅んだから帯方郡に挨拶に行った事が魏志倭人伝に記録されている。
その後の記録がないのは、南の狗奴国である熊襲に追い払われたから。
これが邪馬台国北九州説の真実。 日本から在日を一掃しなければいけない
こいつらが日本のあらゆるところに潜みスパイのように日本を破壊している
日本の歴史もこの連中によって歪められている 邪馬台国北九州説が朝鮮由来な根拠
事実に反しても邪馬台国「だけ」が開けており、他は未開の荒野としたがる。
実態は関東、中部、近畿も九州と同程度に開け人の生活が行われ、交易すら行われていた。
そもそも南九州の方が規模も大きかった。
何でも欲しがる。
日本書紀では神武の東征は日向国の高千穂から出ているが、筑紫平野から出たことにしたがる。
その後の痕跡がないのは、時の権力者による弾圧と焚書
世界の起源を主張するかのような、日本の起源主張。
な?どう見ても、北九州説やってるやつの正体は朝鮮人 無知は大変だよなw
当時は半島人も倭人も一緒だぞw
それが今の日本人の7割を占めている。
今の半島人は後期半島人と考えればいい。 ソース貼れよとw
纏向遺跡消滅の後、早々に弓月君ご到着↓
〜2世紀末 唐古・鍵遺跡
3〜4世紀半ば 纏向遺跡
4世紀末〜半島・大陸文化降臨↓
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。 朝鮮人貴族がすべて教えてくれた
連れて来たのは武内宿禰
だから近畿人の遺伝子は朝鮮人になったわけ 北部九州に住んでいたのは南朝鮮系では無くて北朝鮮系だ、卑弥呼や神武も
北朝鮮系だ、その北朝鮮系の集団が近畿に集団で移住していったのを
東征と言う言葉で表現している。平原古墳や祇園山古墳は平壌(楽浪郡)で
多く見かける様式の墓。 >>701
馬鹿チョンの妄想やめろ
逆だ
朝鮮半島に日本式の前方後円墳が多数ある なんで在日の白丁が日本の歴史に口出ししてくるのだ
おまエラは百済人とも違うエベンキの白丁奴隷だろうが
日本の歴史に口出しするな >>698
>〜2世紀末 唐古・鍵遺跡
↑これって唐古・鍵遺跡が2世紀末に消滅したっていう意味か
勉強が足りんぞwwwwwwwww
何をソースにしたんだ
古墳時代の初めに環濠集落を再形成
唐古・鍵遺跡では居住区域が古墳時代前期まで存続したのは確実。
後期に前方後円墳が造影され遺跡が衰退。 >>702
俺が書いたのは大和朝廷が成立する前の事だ、あの頃にはまだ日本にも前方後円墳は
無かった。 そもそも半島の前方後円墳は半島南部にしか存在しないが平原古墳や祇園山古墳
と同じ様式の古墳は朝鮮北部のものだぞ >>694
しかし近畿の日本語は朝鮮語と発音や語彙(単語)が全然似てない。
例え朝鮮人が帰化したとしても朝鮮人は日本人に同化した。
日本語の語順はトルコ語、スリランカの国語のひとつシンハラ語と同じだ。 興味ないけどマジレスするとさあ、実際に会話を聞いてると、朝鮮語とそっくりなのは東北弁だよ。
特にアクセントが。
基本的に日本語と韓国語は同じアルタイ語族だから当然かもしれない。
しかし日本語の方は縄文語?が大きく影響して、違いが大きくなったんじゃないかな。 >>694
>>680
邪馬台国北九州説はやってるやつが朝鮮臭い。 伊勢遺跡もだが、比較的早い時期に畿内に祭祀の中心があったらしいことはわかる
問題は、畿内勢力と九州や吉備など西日本勢力がどう関わっていたかということなんだよな
特に、北部九州勢力と同盟関係でないと魏志倭人伝のルートで大陸へは行き来できない 北部九州は瀬戸内海勢力、吉備の支配下
博多辺りは瀬戸内海系の土器だらけ
九州北部を支配下に置いた吉備が卑弥呼共立に加わったんだよ
吉備を介して奈良と九州北部が繋がる 日本で最初に水稲稲作が始まったのは唐津市の菜畑遺跡だが奈良で稲作が始まるのは
菜畑から約四百年後だ、その間に北部九州の人口は増大しているから近畿を支配するのは
容易な事だ。 中国人の研究者は
ほぼ九州から近畿に遷都説で固まってる 纏向遺跡は吉備政権と東海政権の交点に位置します。
どちらかというと、奈良の祭祀は前方後[方]墳の文化圏ですね。
https://i.imgur.com/49UBvoP.jpg
纏向遺跡は、現代で言うと「板門店」のようなものだったのでしょう。 >>717
常々もうしておりますが
近畿ヤマトは卑弥呼死後に新しく作られた列島規模で再編された連合政権なんやなって >>645
絶対に違うね。
そもそも、その読みも書きも中国式だぞ。
神武天皇も本名じゃないし、そんな名前じゃないちゃんとした本名がある。
だけど,、後世になって漢字を導入し、中国式にならって神武天皇にしたのであってね。
倭の漢字そのものが、中国側が漢字表示を含めそう呼んだのであって、ヤマト政権側が倭なんて名乗っていないし表示していない。
だから漢字は当て字にすぎないのに、漢字が先行して、あとにカナを考察するのは間違っている。 纒向遺跡は巨大な兵の駐屯地
祭祀で兵を纏めるのが卑弥呼の役割
古代において、【兵】【巫女】【櫛】【鏡】はセット
軍隊に随行する巫女の一軍の埴輪も見つかっている
また櫛を頭に刺した巫女や鏡を掲げた巫女の埴輪も見つかっている
三輪山の神も櫛だしね >>717
纏向は板門店付き古墳造営基地局だったという結論しか出ないなw 神武天皇の一族の氏にあたるものが、ヤマトなんじゃないかな。
氏や名は中国式を導入したものだから、そっくりそのまま氏といわけじゃないけど、
一族の名称がヤマトだから、ヤマト政権になった説。 >>719
日本書紀自体が漢文書かれた書物なんだが?
漢字の倭の文字の話しと、発音の話しは別だから段を分けたんだが? 例えば、唐と書いて日本人は「とう」や「から」というけど、
実際に中国人はそんな読みをしないのであって。
ヤマトの名称について、倭とかいろんな国の名前がでてくるけど、それは中国側の読みや漢字を当て字にしてるのであって、
現地ではそのような名称ではないと思う。
特に古代中国は蔑視で国の名前を勝手に作るからね。ジャイアンが子分をあだ名で呼ぶみたいに。
だから、中国側の文献でヤマトの語源を探るのは間違った解釈になると思うね。 >>724
日本書記や古事記は漢字を導入してできたものだからね。
ていうより、古代の最後だよ、その話しは。
ようするに、漢字や政治を中国から輸入する前の話しなのであってね。
輸入以前からヤマトの名称は存在していた。
つまり、漢字読みとは関係ないし、漢字からヤマトの語源は推測できない 翰苑に記された卑弥娥を考えると、卑弥が一族かもしれない卑弥弓もまたその血筋、投馬、卑弥呼の都とされる邪馬台国も同じかもしれない。 日本人がまだ漢字を使っていない時期からヤマトという名称を用いてた。
そして漢字を輸入したときに、ヤマトにあてはめる漢字がないから、中国側の倭の漢字をつかって、
倭とかいてヤマトとよむようにした、これが漢字を導入した日本書記や古事記の書き方。
倭は中国側の異民族にたいする蔑視だから、漢字を変えていった。そして最終的に大和の辿りついt。 横だけど
>倭は中国側の異民族にたいする蔑視だから
そもそもこれは間違い
春秋時代の魯の王である宣公の名が「?」もしくは「倭」とされている
多くの史記にそれらが載っているので、間違いない。
宣公の父親も魯の王であり、その息子に「蔑視の名前」をつけることはない
倭の言葉の印象が悪くなったのは倭寇以後の話 文字化けしたわ
宣公の名は倭以外ににんべんに妥という字
また、委という字も使われていることもある ヤマトは耶馬騰、椰磨等、夜摩苔、夜莽苔、揶莽等、野麼等、野麻登、野麻等、耶魔等、野麻騰など色々当て字で書かれてる
倭をヤマトと読むなんて無理だし
そもそもヤマトとワは別のものだしね
ところがその無理なことを言い張った奴らが近畿に居た
そして好字二字令で倭を和として大をつけて大和をヤマトと言い張った
非常に作為的に倭の文字を乗っ取ったとしか言いようがない >>734
倭をヤマトと読んで奈良の人に怒られたことを思い出したw
やはり倭とヤマトは違うものと見た方が無難かなw 倭をヤマトと呼んでいたのが確実なのは飛鳥時代
それ以前呼ばなかったのかどうかは不明だけど、その頃には読んでいたということ
ちょうど奈良に政治の中心があった時代だから、倭(大倭)=ヤマトと呼ぶようになった可能性もあるかも
根拠はないです、すんません。 倭の王がヤマトじゃないと都合が悪いのはどこぞの女児を連れてきて
「この子は邪馬台国の卑弥呼の親戚だから俺が次の王様な」と言い放ったどっかの国の大王サマ
それまでは倭の王が漢委奴国王でも良かったはず
おそらくその、次の親魏倭王を連れてきた時が「倭」をヤマトと言い張った最初
それまでは倭と邪馬台は別物だった ヤマトは、三輪山の所、山の処でヤマトだろう。
巻向の目の前に、三輪山を御神体とした日本最古の神社があるし、そこが政治を含んだ祭祀の中心で、おそらく大和平原で三輪山がランドマークになってて山のとこがヤマトになったんだと思う。
古代の地名てそんな感じだろ。 「卑弥呼の親戚の子だから次の王様になれる」
これが倭を統治するための唯一の理論となった
この時に「倭」はヤマトという暗黙の了解も生まれた 近畿ヤマトの支配者がアマテラスの子孫を名乗るのはそれが理由 >>728
山門の漢字は、後からあててるさ。
「やま」も「と」も訓読みだろ?
日本語の意味に合わせて当てたことくらいは否定せんだろ?
漢字伝来よりも前から、地面の盛り上がった地形は「やま」と呼んでいたし
通行可能な狭所を「と」と呼んでいた。
当時生駒山の間を流れていた川をやまとの川と呼んだ事から「やまとがわ」になり、その先の盆地の名称が「やまと」になった。
倭という文字は、中国由来の漢字で日本を指す漢字。
倭国の中心である「やまと」に大倭をあてたのが次のステップ。
元明天皇が713年に好字二字令を出し、国郡郷の名前には良い意味の文字二文字を使うように漢字の切り替えが行われた。
この際に日本人の蔑称である倭の字も改められたのが第3ステップ。
何もおかしくはない。 大倭をヤマトと読むのは、中国が倭の漢字を当ててきたから、国号という概念がなく、倭を倭人の言葉で政治の中心地であるヤマトと読むことにした。
国号という概念が生まれて名付けた「日本」も最初はヤマトと読んでた。 秀吉が平氏を、徳川源氏を名乗るようなもん
アマテラスの子孫じゃないと王様になれなかったからそう名乗っただけ
それはどっかから2代目親魏倭王を連れてきた時に決まった >>742
え?
大倭は中国語でダーワと読むんだけど。
当て字や訓読みが出来たのもかなり後。
やがて漢字も大和となり、それをヤマトと読んだのは相当後世の
魏志倭人伝を読んだのは誰かだろうよ。
畿内説と同じように大倭を中央政権の意味だと勘違いしたと思われ。 倭(わ)の字が悪いから和(わ)にするのはわかる。
前政権の和(わ)を越えようと
新政権が大和(ダイワ、オオワ)とするのもわかる。
この大和(ダイワ、オオワ)を
ヤマトと言わせる理由がわからない。 >>746
大和をヤマトと読むようになったのはわりと最近の事なんだろう。
天皇なら知ってるかも。 >>745
訓読みってどういうものかわかる?
日本固有の読み方の事なのよ。
漢字が当てられる前に由来を持つ言葉もある。
特に地名なんかは、難読地名漢字を上げるまでもなく、漢字伝来前からの呼称が残ってることはわかるだろ? ちなみに魏志倭人伝では、「大倭を使って之を管理させる」と書いてある。
決して中央政権の意味ではなく、企業でいうところの「管理部門」の事だろう。 大倭って表現は倭人伝にもある
国々の市場の監督をする官だった模様 >>746
先にヤマトがあって、このヤマトを名乗ることこそが至上命題なので
倭もヤマトだし大和もヤマトだし日本もヤマトと読む
「卑弥呼の子孫」=「アマテラスの子孫」=「ヤマトの王」
二代目親魏倭王をつれてきたときにこれが日本列島を支配する唯一のルールとなった 大和は九州倭国を滅ぼした後の地名
天皇も九州倭国滅ぼした後の名称
魏志倭人伝のヤマトのフリするペテンが狙い 倭は張恵さんによると日本人と同じような部族によるとアカ?と読むらしい、日本語のもとを話ていたかもしれない、アカをそのまま赤い人でも意味は通じる。 言いたい放題かよw
海女or天照の都→アマト→ヤマトだろw >>738
自称、日本最古の神社な。
古代神道の祭祀場跡は九州や中国山陰にワンサカある。 そもそも半島にも倭人がいるのに、倭がやまとはあり得ない話。近畿は少し屁理屈がすぎる 邪馬台国はヤマト國の当て字。
神武は最初に宇佐に向かっている。
そこにあったヤマト國を乗っ取り、
背乗りして瀬戸内海を東征して行った。 邪馬台国を最初にヤマタイコクと読んだのは本居宣長。
江戸時代以降のトンデモ説。 畿内説は他所の歴史に疎いのが目立つが、近畿から出たことの無い奈良県民なのか? しかし「大倭=ダ・ウェィ」と漢人も意味が通ずる
漢字に当てたのは不思議だな。
他の官名は漢字じゃない音の漢字当てだろ。 >>751
魏志倭人伝に従うなら当時の日本に文字はないからな
倭人が「ヤマト」と呼んでる場所を中国人が漢字で「倭」と書いてるから倭人は「これがヤマトという字なんだな」と認識したという話だ。 >>748
何言ってんの?
文字が無い時代の言葉を、中国人が漢字で表現し、やがてそれを倭人も教えられ読めるようになった。
文字が伝わった時点で当然ながら読み方は決まっていたんだよ。
当初は中国に習って漢字を当てていたわけ。
つまり「音読み」だけの時代。
火を吐く山の意味を持つアイヌ語「アソ」には「阿蘇」という漢字が当てられた。 >>763
それはもっと後の話だ。
仏教が入ってきてからだろうな。
万葉仮名の成り立ちだな。 大人になればなるほど
日本史、しかも古代まで遡れる国で面白いよね
奈良ラブ 当時ヤマトと呼ぶ地名があったのなら史書には「邪馬都」と書かれていただろう。
例)「伊都国」イトコク >>765
そもそも弥生時代も文字を使っていたわけだがw
福岡で出土した硯↓
年代:1〜2世紀
サイズ:長さ15・3センチ、幅6・3センチ、厚さ0・9センチ
https://i.imgur.com/k2XPkk7.jpg >>769
卑弥呼や台与だって国書を出してるわけだから書ける人はいたよ
中国語だけどねw 邪馬台国は国名であって地名ではない。
あえてこじつけて想像するなら
ヤマト国=山と国
山国川は宇佐に流れる川である。 大分にはいくつか古代に岩に彫られた神代文字が残っているけどな。 葦原中国=葦原ナカツコク
中津国=中津は宇佐の隣
中津は現代では唐揚げで全国制覇
天孫降臨と唐揚げは似て非なるものではある >>774
>中津は現代では唐揚げで全国制覇
畿内説だと
「唐」由来の唐揚げを勢力圏の判断基準とし、
中津が政権の中心だったと言える
とか言い出しそうだなw ちなみに宇佐の近くに耶馬渓があるが、
山国がなまって耶馬渓となった。
やはり山ト國、ヤマト國は宇佐である。 宇佐で7万戸は有り得ないというのが畿内派。
しかし記紀のネタ元になっている豊後風土記によると大きな田が広がっているから、大きい田、それがなまって大分になったと書いてある。
つまり全国トップレベルの田が広がっていたのが豊前や豊後地方だったということだ。 >>601
長野が意外だな
なんか御柱祭で縄文ってイメージがある
岡本太郎の影響かな 宇佐には、約120基もある古墳群(川部・高森古墳群)がある
最古級の前方後円墳(赤塚古墳)もあるし
古代から結構栄えてた感じ >>776
なまったつうか、山国に耶馬溪っていう中国風の名付けをしたのは
江戸時代の頼山陽 >>780
もちろん知っているが、語源は山国ということだ。 >>781
あの辺りの地名は山国やしね。流れてる川も山国川だし
もしかしたら倭人伝に出てくる邪馬国が、あの辺りなのかも 奈良にヤマト朝廷成立以降も天皇が即位の度に宇佐に神託。そんな場所は他に無い。ヤマトのルーツが宇佐ということだ。 幅20mの運河、幅6mの直線道路、全国の三割の
青銅器鋳型、超豪華な副葬品、今でも掘ればどこでも出てくる甕棺墓、平地が埋め尽くされて丘の上にまで住居を作らざる得なかった人口密度。当時福岡市が日本一の都会だったのは間違いない。 >>751
じゃあ日本人は何を話してたんだ?
訓読みと言うのは日本固有の仕組み。
元々の日本固有の発音を、後から入ってきた漢字にあてはめたもの。
漢字、音読み、訓読みの区別と考えるから混乱してるんだ。
逆で日本固有の発音を、意味の合う漢字にあてはめたもの。 朱丹で真っ赤に染まる宇佐神宮。
ダイヤモンド御殿とも言うべき富の象徴だった。
今はペンキだが。 >>784
今でも河内、奈良に比べりゃ福岡の方がはるかに都会だよw
>幅20mの運河
水行できる運河で有明海につながるものは見つかってないのかなあ? 濃尾平野(尾張)にある大神神社の三輪氏も同族だよな。 >>789
まあ2000年大都会やってるのは福岡くらいだよね。 >>783
ヤマトのルーツではないと思う。
あるとしたら応神天皇が奈良のヤマトを制圧した可能性はあるな。 時給0円で畿内説の宣伝係を請け負う奥山氏がクビになってしまったので、畿内説を装った自演書き込みが0件になってしまったなw >>796
もう起きたのか?w
そんな生活をしているから、脳がポールシフトを起こすんだぞw 九州説ってまともな証拠が何ひとつないから
「論」で言い張るしかないんだよな
でも、そのためには魏志倭人伝を全部飲み込むと九州説が否定されてしまう
だから、「この部分は採用」「でもこれは都合悪いから不採用」と「都合の良い部分だけ切り張り」して
「都合よく解釈」してできあがったのが九州説
それそのものは悪くないんだけど、何せ、その「何を採用して何を不採用にするのか」が人それぞれだ
最初にストーリーありき(九州説ありき)で話をつくるものだから、突っ込みどころまんさいで
そして、「九州説」と一口でいっても、色んな主張があってそれぞれバラバラというのが現状
だから、理屈こねくり回すのなら九州説のほうが面白いんだけど
結局、頭のどこかで「都合の悪い部分に目を瞑ってる」という自覚があるから
その後ろめたさから必死で畿内説を否定してしまう側面もある
そういう意味でやたらと九州説信者の畿内説に対する攻撃っぷりはかkなりキチっててヤバイよな
実際、ここまで一通り目を通したけど、まともな論一つもないもんな
どっかで聞きかじった話を切り張りして、さも「自分の主張です」って言い張ってるだけの奴とかばっかりだし 畿内説ってまともな証拠が何ひとつないから
「論」で言い張るしかないんだよな
でも、そのためには魏志倭人伝を全部飲み込むと畿内説が否定されてしまう
だから、「この部分は採用」「でもこれは都合悪いから不採用」と「都合の良い部分だけ切り張り」して
「都合よく解釈」してできあがったのが畿内説
それそのものは悪くないんだけど、何せ、その「何を採用して何を不採用にするのか」が人それぞれだ
最初にストーリーありき(九州説ありき)で話をつくるものだから、突っ込みどころまんさいで
そして、「畿内説」と一口でいっても、色んな主張があってそれぞれバラバラというのが現状
だから、理屈こねくり回すのなら畿内説のほうが面白いんだけど
結局、頭のどこかで「都合の悪い部分に目を瞑ってる」という自覚があるから
その後ろめたさから必死で九州説を否定してしまう側面もある
そういう意味でやたらと畿内説信者の九州説に対する攻撃っぷりはかkなりキチっててヤバイよな
実際、ここまで一通り目を通したけど、まともな論一つもないもんな
どっかで聞きかじった話を切り張りして、さも「自分の主張です」って言い張ってるだけの奴とかばっかりだし 鸚鵡返しするなら、せめて現実に即した内容にせにゃ、ただの頭の悪さの露呈でしかないぞ 一箇所ミスってたなw
畿内説ってまともな証拠が何ひとつないから
「論」で言い張るしかないんだよな
でも、そのためには魏志倭人伝を全部飲み込むと畿内説が否定されてしまう
だから、「この部分は採用」「でもこれは都合悪いから不採用」と「都合の良い部分だけ切り張り」して
「都合よく解釈」してできあがったのが畿内説
それそのものは悪くないんだけど、何せ、その「何を採用して何を不採用にするのか」が人それぞれだ
最初にストーリーありき(畿内説ありき)で話をつくるものだから、突っ込みどころまんさいで
そして、「畿内説」と一口でいっても、色んな主張があってそれぞれバラバラというのが現状
だから、理屈こねくり回すのなら畿内説のほうが面白いんだけど
結局、頭のどこかで「都合の悪い部分に目を瞑ってる」という自覚があるから
その後ろめたさから必死で九州説を否定してしまう側面もある
そういう意味でやたらと畿内説信者の九州説に対する攻撃っぷりはかkなりキチっててヤバイよな
実際、ここまで一通り目を通したけど、まともな論一つもないもんな
どっかで聞きかじった話を切り張りして、さも「自分の主張です」って言い張ってるだけの奴とかばっかりだし 畿内説宣伝係による、方角違いに対する言い訳w
14 1 ◆UiepmfCeDJqf [sage] 2019/07/04(木) 11:50:53.10 ID:
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。
史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※
)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。
加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「??陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。
この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。
また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) >>805
頭おかしい説やね
このスレの九州説と同じくらいだけどw >>804
1 ◆UiepmfCeDJqf =奥山w
テンプレ修正しろと再三言われてんのに全くその気無しw
自覚症状の無い自閉症の重症例だなw 九州説は声が大きいだけで根拠が乏しいからラノベと変わらんのだよ >>735
見え透いた嘘つくのが九州野郎
九州野郎に罹るとヤマイチ至上主義
古田武彦病の後遺症は救いようがない。万事休す 北部九州なんかほぼチョンと同じだからな
あいつらの妄想歴史と同じ嘘ばっかり
日本を常に貶めたい連中 >>761
無教養な現代中国人には通じるだろうなwwwww
教養有る中国人には「ターウォー」と云わないと通じない。
「倭」は破音字ポーインツー=多音字だ。
>漢字じゃない音の漢字当てだろ
イミフwww ロマン派改編。邪馬台を體、若しくは豊にかえる。邪馬豊国、首都は伊都、水行20日薩摩、投馬。水行10日日向、卑弥呼の都、邪馬豊国。伊都から徒歩一月。卑弥呼は、日南呼ひなか狗奴国王、日南弓呼、分家、日南一族。ひなかは占星術師、暦を支配する。 卑弥呼(ひなか)が死んだ後男王が立つ、武力では九州全土支配は出来ない、暦を語れないから、暦は古代の人々を支配する。 よって台与は豊与。卑弥呼は北九州に最初埋められたかもしれんが豊与によって掘り返されてる、墓は、日向。甲骨文字が進歩し豊国文字が生まれ、かなになる。ゆえに仮名文化の我が日本が夏の継承者。集金ペイに貸してやるから地代を納めろと。 >>818
魏略曰 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀
邪馬台国、暦未実装のお知らせ。 九州の分家のど僻地でチマチマやってたら
あるとき朝鮮人貴族がわんさか来て
あれよあれよと先進国に
それが奈良の真実やろ
だから遺伝子が近畿は朝鮮人になっている しかし、なんで倭国を九州だけと考えるんかね?
南九州なんかより山陰の方がはるかにアクセスがいい
そもそも3世紀は列島規模で広域ネットワークが出来あがってるんだから、
倭国を九州だけに限定するのは不合理な話 隋書倭国伝「倭国の都は邪靡堆、則ち魏志にいう邪馬臺である」
遣隋使は飛鳥まで一緒に帰ってきた裴世清に、うちらの都ヤマトは魏志の邪馬臺のことですって言ってる
ちなみに隋書は記紀より100年前、旧唐書より300年前に書かれたもの 中国と交流があった30ヶ国とはどこか?
もちろん、特定するのは不可能であるが、北部九州から出土する土器である程度推測できる
列島各地から交易などのために北部九州に人が来ていたことを意味している
東海、畿内、吉備、出雲などの土器が出るから、それらの地域は30ヶ国に含まれると考えていいだろう >>823
これは決定的だよな
九州背のりチョンコいい加減にしろよ >>823
瀬戸内海沿岸一帯、所謂倭国を指して「ヤマト」と呼んでたんじゃないのかなあ。
魏志の頃の中心地は九州北部だったが、諸事情により300年以上が経った遣隋使の時代には奈良飛鳥に政治の中心が移動していたんじゃないの。
東遷と言うと語弊があるかも知れない、奈良飛鳥に勃興した後発勢力が九州北部の王権(卑弥呼の系譜な)に取って替わっていた、と。
但し奈良飛鳥の王権は古文書を焼き払って記紀をまとめたから、残念ながら歴史は割と不正確に伝えられている。 日本中を掘りまくればなんか出る
それに期待したいけど、掘れない場所ばかりやな 継体天皇の時に大和朝廷に反抗した筑紫の磐井は邪馬台国と関係あるんだろうか? 継体は朝鮮人だろ。
ヲホドとか日本人が付ける名前じゃねえし
九州の倭国史と近畿史を無理矢理合わせたんだろうな >>696
(紀元前)
108年 前漢(中国)が衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島北部・中部を占領。楽浪郡、帯方郡など漢四郡を設置
(紀元後)
391年 倭(日本)が朝鮮半島南部を占領し、新羅、百済を臣民化。新羅王、百済王の王子が人質として倭に差し出される
451年 任那、新羅等の軍事支配権が倭(日本)にあることを、中国・南北朝時代の歴代3王朝(宋、斉、梁)が認める
660年 唐(中国)が百済を滅ぼし、朝鮮半島中部を占領。668年には高句麗も滅ぼして朝鮮半島北部も占領
1011年 遼(契丹、キタイ族)が朝鮮半島北部・中部を占領。高麗の首都開京が陥落。約30年間で5度にわたって軍事侵攻を受ける
1259年 元(モンゴル族)が朝鮮半島全域を占領。約40年間で6度にわたって軍事侵攻を受け、高麗王の王子が人質として元に差し出される
1592年 日本が占領(秀吉の朝鮮出兵)。李氏朝鮮の首都漢城が陥落。李氏朝鮮王子を捕縛。1598年には2度目の軍事侵攻を受ける
1636年 清(女真族・満州族)が占領。三跪九叩頭の礼で謝罪の上、大清皇帝功徳碑を設置。李氏朝鮮王の王子が人質として清に差し出される
1894年 大日本帝国(日本)が朝鮮半島全域から清を駆逐して占領(日清戦争)。清は朝鮮半島を放棄し、李氏朝鮮の独立を認める
1910年 大日本帝国が併合
1945年 南部をアメリカ、北部をソ連(ロシア)が占領
1950年 朝鮮戦争。中国・北朝鮮が南部に軍事侵攻し一時、釜山手前までの朝鮮半島全域を占領
1951年 南部をアメリカ・韓国が、北部は中国・北朝鮮が占領。現在に至る >>707
新羅は元々倭人が作った国で、南部では稲作も行われていたようだが、
中国と組んで白村江で百済人を追い出し、遺民をジェノサイドした頃には、
北方民族が流れ込んで言葉も通じにくい場所になっていた。
10世紀の白頭山の噴火では、壊滅的な被害を受けたと思われる。
何しろ、朝鮮民族には白頭山噴火の記憶がないのだから。
12世紀、大陸のツングースが樺太のアイヌと揉めて、モンゴルに泣きついた。
モンゴルは樺太からアイヌを追い出したが、そこから北海道に逃げていくアイヌを攻めきれず、
ツングースと共に大陸を南下して、朝鮮を配下におさめ、元寇を起こした。
その時のツングース(北方狩猟民)が朝鮮人の祖先。
モンゴルの威を借りて朝鮮女に種付け。
南方系の男は奴隷化されて遺伝子を残しにくい状況になっていたと思われる。
日韓併合の時には、水田稲作のの技術も、魚の塩蔵技術も失われていた。
復活させたのは明治の日本政府。
朝鮮には身内の女に身体を売らせる文化がある。
朝鮮戦争の頃には米軍相手の基地売春でGNPの25%を稼ぎ出し、
その後もキーセン外交で稼ぎまくっていたから、もうY遺伝子なんて調べても無駄。
朝鮮人の本当の父親が誰かは、誰も知らない。
なのに、日本人発祥のD1bは殆どいないんだよね。 >>751
訓読み=翻訳読み。
訓読みしないと日本人には理解できないwww
中国にも訓詁学というのが有る。
中国福建省の厦門方言、台湾のメジャーな方言のHokkien福建=ホーロー語にhujin-langというのが有る
漢字で書くと婦人-人。
hujinはホーロー語における「婦人」の漢音読み。
langは「人」をホーロー語に翻訳した言葉、つまり南部福建Hokkien人langの固有語だ。 >>823
またそれか
隋書の
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與担耳相近
というのは後漢書の
其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里 其西北界狗邪韓國七千餘里
其地大較在會稽東冶之東 與朱崖担耳相近故其法俗多同
を編集しただけだろう
どういうことかというと
日本語の発音が変わってきて
邪馬台が邪摩堆になってきた(後漢書ではそれを訛りだといってる)
文字が違うんで魏志の邪馬台のことだと書いてるだけだ
違うか?
北史を見ればわかるように距離は魏志の丸写しだし、
どこに都があるかなんてわかってないんだよ 朝鮮人貴族の大量移住が奈良の真実
遺伝子まで変えちゃった 日本書紀は魏志倭人伝の 邪馬台国と同じと書いた
魏志倭人伝をパクったのを認めてる 九州説は物証を無視しまくって、文献を歪曲しないと成り立たない
そんな珍説どうでもいいよ >>838
日本、金印
朝鮮、銀印(笑)
南韓、銅印(失笑) >>837
>日本語の発音が変わってきて
それは読み間違い。
中原の支配者の民族、人種が変わったので
人種ごとに得意、不得意の発音があって
支配者の人種が変わる都度中国側の漢字の発音が変わった。 発音が微妙に違うが邪馬臺と邪靡堆とヤマトは同じ場所だということだな >>709
語順で言えば日本語は朝鮮語にもトルコ語にもよく似てるし、語彙語形はみんなあんまり似ていないな
片方は語彙発音で比べて、片方は語順で比べる、これを詭弁とか印象操作とかいう
でもさ、ねらー史観では、今の朝鮮語・朝鮮人はエベンキからそっくり入れ替わったんじゃなかったのか? ヤマト朝廷でいいじゃん
邪馬台国は実証できる材料が厳しすぎる >>828
飛鳥まで行ったと書いてあるだろ
なぜそういう嘘を平気で言うんだ とにかくチョンコは背のりしないと気がすまないキチガイ >>746
飛ぶ鳥のアスカとか、日の下のクサカとか、わからない読み方はあるっちゃある
>>772
いつ彫られたのかって、放射能でもわからないしお手上げだな 大和説の人が狗奴国をなぜ紀の国と言わないのかが分からん >>848
日の下のクサカにはもしかすると縄文語が隠されてる鴨
カ=「下」の漢音読みと考えられるが
「クサ」が「日」とどう結びつくのか今のところ不明。 畿内説は、どの国も決まっていない最終地の邪馬台国だけ奈良という皇国史観の連中なだけだよ、だから奈良の証拠が出るまで奈良の遺跡だけ掘ってるふりしてる連中。永遠に曖昧なんだよ、それがベストなんだよね。 >>804
原典版魏志倭人伝を見て書いた後漢書には拘奴国=狗奴国は邪馬台国の東と書いてる。 後漢書が正したのか、後漢書が勘違いしたのかはどうもんからん 朝鮮読みだから奈良は変な地名が多いのやろ
遺伝子は嘘つかないね よく考えたら日向でも問題ないな、日向呼ひむか、ひむ一族でもいいな >>832
継体天皇が乗っ取って、
神武天皇朝は終わったんだけどね。
本当のヤマトは終わって、偽のヤマトがつくられた。
その偽ヤマトを正当性をもたようと、日本書記や古事記が作られた。
その時に過去の本当のヤマトの天皇の功績が記録された史料や、偽ヤマトに都合悪い史料は焚書坑儒された。
古代日本も焚書坑儒がおきていたことは、政治はやはり恐ろしいね。
で、堅物はこのレスをキチガイ扱いするんだろうなwww 筑紫の岩井が反乱を起こしたのも、ヤマト朝廷の乗っ取りがおきたから。 邪馬台国や卑弥呼の史料も焚書坑儒に巻き込まれた可能性があるね。 奈良だけでも銅鐸勢力から古墳勢力に入れ替わり、
ヤマト朝廷を名乗ってからも物部神道派から蘇我仏教派が乗っ取り、さらに藤原がクーデターで乗っ取った。奈良にしてもヤマトにしても同じ王権ではなく、背乗りグループが入れ替わり立ち替わり朝貢に行って、ワイがヤマトや!と名乗って箔付けしてもらってたわけだ。 天皇は本当に便利な権力ツール。
神武天皇朝が終わって、継体天皇から天皇制は
ペットショップで売られる飼い主に好まれ都合のいいもブランド犬の配合みたいなもん。
古事記日本書記の元になった史料は消されたからね。 邪馬台国なんてどうでもいいじゃん
大神神社の太古の神である蛇神様を崇めよう >>864
蛇は海人族の神
三輪の大物主は蛇
ヤマタノオロチはスサノオに敗れる
国譲りで出雲に流される代わりに杵築大社を建ててもらい大国主を名乗った。 日本中に広まった神社の殆どは北部九州発祥のものばかり。天皇家が九州出身だったから
支配を広げる毎に九州系の神社も広まったと言う事になる。 女をトップにしなきゃ荒れちゃう国なんて政権基盤が貧弱だろ。
そして、中国への連絡が途絶えたなんて、どういう思考でそんな国が大和朝廷に結び付くのかね。 スサノオの姉のアマテラスは奈良のド田舎を嫌い
宇佐にソックリな伊勢に辿り着く 古代神道の磐座や岩が配置されている祭祀場跡は九州から山陰中国地方にワンサカある。
宇佐神宮の元宮にあたる大元神社がある身許山の山頂にも太陽による祈祷祭祀場跡がある。 何人かレスしてるけど、
日本最古の史料は日本書記や古事記になっているけど
日本書記や古事記の元になった史料は消されている。
元の史料から権力者から都合のいいように編纂、改ざんして生まれたのが日本書記と古事記。
つまり、闇に葬られた消された古代史が存在するということだわ。
前半の天皇がよくわからんのもそのため。
つまり焚書が行われた。
その焚書にもしかしたら、邪馬台国の手がかりになるものはあったかもしれない。
。 日本書記は武烈天皇を貶し、どこの馬の骨ともわからん継体天皇を持ち上げる。
ヤマト朝廷と天皇の正当性を喧伝しようとした正史なのに、武烈天皇を貶す。
これは裏がある。
武烈天皇を貶すことによって、継体天皇の正当性を与えようとしている。
武烈天皇の死(暗殺?)でもって、本当のヤマトは終わり。
継体天皇は神武天皇とはなんら血縁関係のない影武者。 あーやっとわかった
神話と既に明らかになってる歴史リンクしてるじゃん >>874
初期の天皇の年齢が明らかにおかしいんだがw ID:mzyIZ4Ym0
ID:m55t5ChF0
こいつら妄想でくだらないラノベ書いてるだけ >>875
パズルと同じでおおよそ確定できる部分を繋げていけば他のピースもわかってくるw 印は正当な王権の証だから
次の王が引き継ぐはず 埋葬しないよね >>790
三輪姓自体が濃尾平野に集中してる
清洲山王宮日吉神社宮司の三輪家は現在56代目
古代豪族系の社家はスケールが違う
岐阜県大垣市(旧上石津町)は三輪姓最多地域
この地にも延喜式神名帳に記載された大神神社がある
上石津では法事法要の際に素麺を食べる習慣がある
かつては旧家の葬儀は神道式で行われていたらしい 天皇家北朝鮮から北部九州に渡来した民族の子孫であるのは間違いない
だから宮内庁管轄の古墳調査をさせんだろう。中から朝鮮出身をうかがわせる
副葬品が出てきたら大変な事になるからな。 九州説は遊びで言ってるだけ
左遷の地で話題にされないから悔しがって
ありもしない九州説をほざいて喜んでるだけ
漢書とかの距離を根拠にするって無理ありすぎ >>871
大神氏ら十八氏に墓記を提出させてるからな
大神神社と石上神宮の記録も取り上げられてる
やはり大神氏と物部氏の神道派が大和の始まりに大きく係わってる >>862
持統と藤原不比等が三輪高市麻呂を追い落として旧勢力の排除は完了 >>880
食文化(三輪素麺)まで継承しているところが興味深いね >>858
三輪山の山頂に祀られた日向御子とは何者だろうか? それは難しいなあ、ちょっと考えさせてくれ、奈良に遷都した時に卑弥呼を持ってったかもしれんしなあ。 卑弥呼も呪術者、シャーマニズムは朝鮮半島が元祖、それも北朝鮮の方だな
要するに卑弥呼はツングース系民族で北朝鮮が出自、卑弥呼に繋がる壹與や
神武天皇もツングース、現天皇も北方系の顔立ちでどう見ても南方系では無い。 >>892
日本古来のアミニズムな古代神道は北朝鮮やらツングースとは全くスタイルが異なる。
昭和後期まで奄美に残っていたアミニズムやシャーマンのスタイルに近い。
つまり南方系の海人族の宗教スタイルだった。 >>890
三輪山の麓にある大神神社の摂社の檜原神社は元伊勢の起点でアマテラスを祀る。
山頂でも磐座で祭祀を行っていたアマテラスが順当。 蛙の骨、桃の種、木製の鞘
これだけの物的証拠が出たので、邪馬台国は奈良だと断言できる
考古学は物的証拠が全てなのだよ
勝負あり(´・ω・`)
悔しいなら、九州説の学者たちよ、柿の種を探すんだ! (`・ω・´) >>893
事故レスだけどアミニズムじゃなくてアニミズムな なぜ藤原は奈良にこだわったのかは
奈良を管轄してたのが藤原だから藤原こそ元祖 王家と
ペテンにかけれると思ったのが動機 >>894
アマテラスの原型の太陽神(男)だと思うね。三輪山は奈良盆地南部の東側で一番近い山で、
昇る太陽が姿を見せる場所だからな。アマテラスは持統(元明)をイメージして女神に変えられ
たんだ。 >>894
元伊勢の始まりは福岡県糟屋郡久山町猪野にある天照皇大神宮。 大阪を九州倭王武が植民地にしたが
滅ぼされて
植民地の役人系が藤原のにおい >>901
三輪山から逃げ出して伊勢まで探して周るのに福岡は無い。 >>896
恐れ入りやした、九州からは桃の種などかけらも見つかりませぬwww
その代わり硯のかけらや翡翠の勾玉、金銀製の冠などは多数出土しやしたwww ふさわしいとか
2019年代の地球の遺跡を見て
人口が最大級だから中国とインドが政治の中心に違いない
とか断定しちゃうような話だろ 古墳時代に金冠、銀冠が出土した古墳
宮地嶽古墳・・・福岡県福津市
沖ノ島・・・・・宗像大社
銀冠塚古墳・・・福岡県鞍手郡鞍手町
セスドノ古墳・・福岡県田川市
関行丸古墳・・・佐賀県佐賀市
島田塚古墳・・・佐賀県唐津市
江田舟山古墳・・熊本県玉名郡和水町
産島古墳群2号墳・・熊本県八代市
古墳時代に金環・銀環(耳飾り)などが出土した九州の地域
福岡県・・43箇所 佐賀県・・4箇所 長崎県・・4箇所 熊本県・・22箇所
大分県・・9箇所 宮崎県・・2箇所 鹿児島県・・2箇所
関西地方からは金銀製品は全く出土してはいないwww >>903
三輪山の輪山とは外輪山に囲まれた阿蘇山のことで、これに敬称の御を付けて御輪山。 そもそもどうして皇室の祖先神を祀る神社が流浪しなければならなかったのかを考えよう >>907
せめて福岡の大三輪山なんだ、とでもいえばいいのに
こじつけにしても酷い >>907
奈良時代だったか、御の字が誰かの指示で一斉に三に変えられたと聞いた事がある。
大三島とか三井野原とか三池とか。 >>909
万葉集には大津京に遷都した際に詠まれたの下記の歌がある。
作者(額田王)は道中に三輪山を眺めようとしながらこの歌を詠っているが、奈良県の三輪山は標高467mしかなく飛鳥から大津市に向かうと直ぐに見えなくなる。
一方、熊本県の大津町付近から熊本県の阿蘇山は遠望できる。
また額田王が振り返っている様子もなく、牛車や輿等は正面を向いて乗る乗り物である。
この歌は、三輪山との別れを惜しんで詠われたものではなく、憧れの聖山を初めて観るのに、天気が悪くて全く見えない事を嘆いた歌である。
味酒三輪乃山青丹吉奈良能山乃山際伊隠萬代道隈伊積流萬代尓委曲毛見管行武雄數々毛見放武八萬雄情無雲乃隠障倍之也
うまさけ みわのやま あをによし ならのやまの やまぎわいかくるまで みちくまいつもるまでに つばらにも みつつゆかむを しばしばも みさけむやまを こころなく くもの かくさふべしや
馬放け 御輪の山 緑によし 楢の山の 山際 い隠くるまで 道の隈 い積るまでに 詳にも 見つつ行かむを 屡々も 見放けむ山を 心無く 雲の 隠さふべしや
馬を放牧する阿蘇山、(緑豊かな)里山の山影が完全に隠れるまで 道が曲がり幾重にも折り重なるまでに じっくり見て行こうと思っているのに 幾度も遠く目を向けただろう山を 雲が無情に 隠すのだろうか隠さないでおくれ >>908
アマテラスはカエルしかいない奈良のド田舎が嫌で故郷の宇佐のような場所を探して周り、そっくりな伊勢を永住の地に選んだ。
アマテラスも海人族で食事も海産物が好きだった。
アワビにタイに伊勢海老を神事で御供えするのはアマテラスの好物だったから。 大阪が九州倭国の植民地になってから
沼地だった奈良が干拓されて田んぼになった
場所をヤマトと名付けたのが藤原 倭をヤマトと読むなんて無理だしそもそもヤマトとワは別のもの
ヤマトは耶馬騰、椰磨等、夜摩苔、夜莽苔など色々当て字で書かれて
「倭」とはキッチリ区別もされていた
ところがその無理なことを言い張った奴らが近畿に居た
そして好字二字令で倭を和として大をつけて大和をヤマトと言い張った
非常に作為的に倭の文字を乗っ取ったとしか言いようがない
倭の王がヤマトじゃないと都合が悪いのはどこぞの女児を連れてきて
「この子は邪馬台国の卑弥呼の親戚だから俺が次の王様な」と言い放ったどっかの国の大王サマ
それまでは倭の王が漢委奴国王でも良かったはず
おそらくその、次の親魏倭王を連れてきた時が「倭」をヤマトと言い張った最初
「卑弥呼の親戚の子だから次の王様になれる」これが倭を統治するための唯一の理論となった
この時に「倭」はヤマトという暗黙の了解も生まれた
近畿ヤマトの支配者がアマテラスの子孫を名乗るのはそれが理由
本当に血縁関係があるかないかは関係ない名目上の話
秀吉が平氏を、徳川が源氏を名乗るようなもん
アマテラスの子孫じゃないと王様になれなかったからそう名乗っただけ
それはどっかから2代目親魏倭王を連れてきた時にできたルール
先にヤマトがあって、このヤマトを名乗ることこそが至上命題なので
倭もヤマトだし大和もヤマトだし日本もヤマトと読む
「卑弥呼の子孫」=「アマテラスの子孫」=「ヤマトの王」
二代目親魏倭王をつれてきたときにこれが日本列島を支配する唯一のルールとなった ID:GSuD6qcD0=ID:kyl7uYyT0か
壊れたレコードみたいだね 弥生時代に翡翠の勾玉、丸玉などが出土したのは20箇所
福岡県9箇所 長崎県2箇所 佐賀県3箇所 熊本3箇所 大分3箇所
古墳時代に翡翠の勾玉、丸玉などが出土したのは47箇所
福岡26 長崎2 佐賀6 熊本7 大分2 宮崎3 鹿児島1
※弥生時代の奈良からは翡翠製品の出土は全く無い、古墳時代に数個出土しただけ
九州と近畿の文化レベルは大違いwww www >>915
「やまとたける」で変換してみ?
やまとの候補に「日本」も「倭」もでてくるで? >>917
『 中国が倭のことを倭と書いていたから
ヤマトの国の人間が自分たちの国のことを「倭」と書いてヤマトと読むようになった 』
↑
これと同じくらいには根拠ないので
これと同レベルの説であることは認める >>914
ナラとはナラの木のナラで里の意味
ナラ山とは里の山 >>922
根拠ゼロの妄想を連日長文で投下し続けるキチガイってこと? 奈良とは,おならのならの事 へーそうだったのかwww ぶっちゃけ朝廷でさえ奈良からすぐに京都に逃げ出したくらいにド田舎で最低な場所 どうしてもヤマトの語源を邪馬台国に持って行きたい。
尚且それは北九州伊都国に有ったことにしたい。
山門に噛み付いてるのも糸クズ 三種の神器とは剣、鏡、勾玉の事を指し
.弥生時代後期に副葬品として三種の神器が全部揃って出土した古墳は総て福岡都市圏で
吉武高木遺跡(福岡市西区)三雲南小路遺跡(糸島市)井原遺跡(糸島市)
須玖岡本遺跡(春日市)平原遺跡(糸島市)の五カ所のみ。
古墳時代になったら奈良の遺跡でもようやく三種の神器が出土するようになった。 ああ。失礼。
>>924は>>921あて
>>922
奈良って書いてあるけど、奈良の山じゃなく里山のことで
三輪山って書いてるけど三輪山のことじゃなく阿蘇山のこと?
こじつけ酷いw
もう一文字も合ってないw >>918
奈良は歴史の連続性がない、あるとき急に出現した作為的な都市なんだなあって >>929
あおによしを奈良と結び付けたのがこじ付けだったんだ。 >>929
輪は外輪山のことね
聖なる輪のある山
御輪山→三輪山 >>931
「あをによし」が「里山」にかかるのはこじつけじゃないの? >>932
聖なる輪のある山=阿蘇山ってどこに書いてあるの? ピラミッドとかは盗掘されてるのに、こんな派手な墓手つかずはないよ
墓室や遺品でとっくに特定されてるけど、晒せないんだよ >>911
まわりに高い建物もないし、ゆっくり進むだろうから
名残惜しむのに十分なくらい見えるはずだ
うまさけは三輪山の、あおによしは奈良の枕詞だしな ID:+ylVgIWi0は逃げたんか
基本この手の奴って「結論ありき」で話すすめると
こういう穴に落ちるんだよな >>892
イマドキ在日受けする騎馬民族征服説は流行らないw 三輪山、大神神社は国津神である大物主を祀った土地
勝手に天津神の祭場にすんな
そもそも日本書紀では三輪山は三諸山と呼ばれてた訳で、ID:+ylVgIWi0の説は的外れ。 >>942
奈良からはたった1箇所か、しかも大和朝廷が成立後の古墳時代に九州よりも遙かに
少ない出土数とはどう言う事なんだ説明してみろwww >>918
唐古・鍵から出土した褐鉄鉱容器に入った翡翠の勾玉も無視かい >>944
恥ずかしいヤツだな
これだから文系脳はアホと云われるんだ
>全く無い
これを否定するには「有る」という証拠をひとつだけ挙げれば
必要にして充分だというのは論理学や集合論
ブール代数の教科書に書いてるw
命題1:「すべての金冠、金環・銀環は九州から出土した」
命題2:「一つの金冠が藤の木古墳から出土した」
命題3:「藤ノ木古墳は九州にある」
この三つの命題を論理的に分析すれば
命題2は真実である
命題3は偽である
故に命題1はウソであることが論理的に導かれる。 古墳時代の出土品の比較
宮地嶽古墳(福岡県)>>・・・・>>>藤ノ木古墳(奈良県)
全くレベルが違いすぎる。天皇墓を調査しても朝鮮半島製の土器しか出らんだろうwww 纒向の最新のビッグニュースと言えばオンドル跡。
早くても4世紀だし魏志倭人伝には全く記述がない。邪馬台国に渡来人の暖房施設があったら、わざわざ苦労してやって来た魏の役人はどんだけびっくりすることやら。 古墳時代になっても奈良からの出土品が少ない理由は権力が天皇だけに集中して
豪族がいなかったからだ、奈良に行ったのは天皇と付き添いの兵士だけで豪族達は
九州にいた方が支那や朝鮮との貿易で儲かるから行かなかったと言う事だ。
このくらいの答えも出せんようなボンクラは古代史を勉強する資格は無いwww 関西人に言わせたらオンドルは中国南部発祥と言い張るぞ 宮地嶽古墳と藤ノ木古墳を諺で例えたら「月とスッポン」がピッタリだな
藤ノ木古墳の被葬者は佐賀県鳥栖市出身だろうな、鳥栖に藤ノ木町が
あるからあの辺りの豪族が奈良に行った訳だよ。 お前らさぁ
そのレスにニュース要素はどこにあるんだ? >>950
この場合の「豪族」というのは「小国のリーダー(支配する側)」のことなんだが
そいつらが九州に集合してるわけねーだろw 外国人が日本の歴史に首を突っ込む必要ない
掲示板での工作活動は、日本の歴史を改竄するのが目的かもしれんが >>863
継体の前から極めて怪しい
武内宿禰は○してるよ >>940
流行るとかの問題ではない
騎馬民族は歴史の真実である、その証拠におまえのケツは青い >>955
>>956みたいなやつだな。
元朝鮮人炭鉱労働者や遊女と一緒で、放置していると
怪しい、そうに違いないを言い続けて、その内通説だ、真実だになる。
今朝は三輪山を阿蘇だという輩もいたり
九州説にそういうタチの悪い輩が混ざってたりする。
※九州説論者の100%がそうとは言わないが。 >>958
蒙古斑の発生率はモンゴル人以外の東アジアの50%程度
ネグロイドも発生率が高い。
オマエの屁理屈が正しければアフリカの黒人のケツも青いはずだw >>963
アジアで蒙古班の比率が一番高いのは日本だそうだ」
大阪なんかほぼ100%だろうw なぜ学校の運動会で騎馬戦をやるのか?
それは騎馬民族の誇りを忘れないためである 中央アジアにキルギス共和国という国がございます
言い伝えによると肉の好きな騎馬民族はキルギス人になり
魚の好きな騎馬民族は日本人になったというこです
つまり大阪のおっちゃん、おばちゃんになったということですね >>964
モンゴル人は95%位だそうだが、国別の比率や
日本の地域別の比率まで細かく調べてるなんてすごいな。
出典元は? >>942
金銅金具は銅製品に金箔を貼ったものだろ
金銀製品じゃないよ。 >>967
モンゴルはまあねw
蒙古班でいろいろ調べていたら分布図があった >>961
どう見ても怪しいだろ
あれで怪しくないと言う方が異常
武内宿禰は極めて怪しい 騎馬民族説なんて、とっくの昔に否定されてるのに何をしたいんだか
馬具の故地を調べたら、あちこちバラバラで、特定の地域からの渡来を想定することは不可能という結論
倭人が自発的にいろんなルートで馬具を集めた結果と言える
そもそも騎馬民族説なんてものは、古墳文化の一部の要素に過ぎないのに、その一部を誇張しただけ
しかも現在は遺伝子分析もできる時代になってるし、
Y染色体ハプロでは、日本とモンゴルとは関係が薄いことを示している
ちなみに、バイカル湖起源説とかブリヤート人に似てるとかは、数万年前まで遡った起源の話 >>544, >>577
横からすまんが、語頭の「ハ=pa、fa」がワ「wa」に変化した例では、
古朝鮮語で海を表す「ハタ」 → 日本語の「ワタがあるね。
「ワタ」は海神の「ワタツミ」や海原の「ワタノハラ」などに残っている。 >>969
その分布図のソース貼れよ
有ればの話
作り話なら貼らなくていいw >>970
記紀に出てくる登場人物なんて、多かれ少なかれ怪しい。
武内宿禰も人としては怪しいが、それを取り立てて騒ぐ必要もない。
もっと怪しい人や出来事なんてごまんと書いてあるでしょ? 4世紀初めごろに半島で強力な武器を持った騎馬民族が暴れていました
ところが突然いなくなった、どこにいったのかわからないとか、、、
その騎馬民族は九州に上陸した、のちの応神東征となる >>971
騎馬民族の話によると日本はバイカル湖を掘った土でできたそうな 埴輪は騎馬民族
箸墓を作ったのも騎馬民族
しかし記紀の大和朝廷は騎馬民族ではない勢力 >>974
その武内さんと琴を弾いてて死んじゃった仲哀天皇とか身長3mだぞ。
人としてというより生物として怪しい。 巻向の大和政権は崇神天皇である
応神天皇は河内政権 鬼道の鬼の字も痕跡無いだろ? 馬鹿としか言いようがない >>980
まさに人外だな。
記紀には多くの怪しい話がある。
そのうちの一部を取り立てて騒ぐのは
そもそも結論ありきで、そちらに誘導するのが目的。 もはやキチガイのたわごと
そもそも卑弥呼は独身の老婆だww >>972
議論の出発点の
>>540
>それじゃ不弥→宇美のように
>昔ハ行、パ行始まりだったが
>現代ではア行始まりとなった例を挙げてみろよ
を読んでから書き込め、バカ
pumi(ハ行音mパ行音バ行始まりの不弥)を
umi(頭子音pが無くなったア行始まりの宇美)にコジツケてるから
ぱたし>あたし、パタツミ>アタツミという例を出せ
てことだ。 >>988
なるほど、すまん。
でも、ワ行の「ウ」とア行の「ウ」は、どっちも「u」でいいんじゃなかろうかと。 >>976
バカ?
奈良の古墳はほとんど盗掘されて何も残ってない
藤ノ木古墳が評価されてるのは、小さい古墳でありながら副葬品が豪華だからだ
もし大王の古墳が盗掘されなかったら、相当豪華な副葬品があったことは誰でも推測できること 三角縁神獣鏡が出土したと伝わる九州の古墳を卑弥呼の墓と言い張るって
頭おかしいと言うしかない >>997
もう畿内で決定してるのに、一部のやつらが九州だといまだに文句つけてるだけだよ このスレッドは1000を超えました。
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