【歴史】卑弥呼の邪馬台国と争った国「狗奴国」が熊本に? 九州説に新解釈 ★2
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免田式土器の分布イメージ図。作成した松田度氏は、邪馬台国と抗争した狗奴国の勢力を反映していると推察する(松田氏提供)
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
畿内説が優勢とされる邪馬台国の所在地論争で、九州説の立場を取る大和(奈良県)ゆかりの考古学者ら3人が8月、謎の王国「狗奴国(くなこく)」の実態に迫る学会発表を行った。魏志倭人伝によると、狗奴国は女王・卑弥呼が君臨した国々の南に位置し、卑弥呼とは抗争状態にあったとされる。考古学者らはその勢力圏の中心が熊本県内にあったとし、狗奴国の位置から卑弥呼の邪馬台国は福岡県域にあったと主張している。(川西健士郎)
■最有力の纒向遺跡
九州説と畿内説との間で江戸時代から続く邪馬台国論争は、今も決着していない。だが、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で平成21年秋、宮殿を思わせる3世紀前半の大型建物群の跡が見つかるなど、近年は畿内説が勢いづいている。
産経ニュース 2019.9.2
https://special.sankei.com/a/life/article/20190902/0001.html
★1:2019/09/06(金) 22:38:16.51
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1567777096/ 九州説論者にかかればすべて安曇になるし、阿波説論者にかかればすべて忌部になってしまう。 >>273
僕は現時点では筑紫平野の統一国家だったと考えてるかな。
筑紫平野のほんの一部だった邪馬台国が男王の下筑紫平野を統一したが、
7、80年で倭国大乱って感じかな。 >>278
安曇ももちろん、「忌部一族」だよ。 わははははは @阿波 >>279
碌な集落遺跡の無い筑紫平野に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>8
やっぱりこの鏡が決め手だったろ
どう見ても皇帝クラスの鏡だったからな
芸術性が高いのも曹操とイメージが合致する いい加減AI活用できないのか?
各分野の情報をぶん投げて解析させろよ
説得力ある国の成り立ちが見えてくるんじゃねーか いや、神武も筑紫出発だよ。音戸ノ瀬戸を越えてるし、父は天孫。
神武当時宮崎にはめぼしい遺構は無く、そもそも「ひゅうが」「ひむか」「ひなた」
地名はない。国名にだけそれがある。それらの地名も圧倒的に北部九州。
神武記はやたらリアルで、地名も当時でないと書けないところがあったりする。
記紀の当時にはすでに変わってしまっていて、伝承が正確だと言うことの証明にも
なっている。
その神武記で、実際に戦いになったのは、河内の王長脛彦とだけで、それ以前は
数ヶ月から数年単位であちこちに寄宿している。つまり瀬戸内は全て九州の植民地
か友好国だったということ。河内でも先に天下った物部一族のニギハヤヒがいて、
そちらの方が十種の神器を有する大族だった。「美し国」=奈良盆地に勝手に侵入
しようとして、兄二人(三人?)はじめ大半を討たれてほうほうの体で難路の熊野
路から再侵入し、ようやくだまし討ちで奈良盆地南端に居を定めた。
奈良は、飛鳥時代でもまだ大湿地帯で、琵琶湖にも匹敵する規模の大和湖が広がっ
ていた。藤原京がその南岸だから、神武の時代は更に南の、高松塚や石舞台の辺り
までが南岸だったらしい。だから、長脛彦=ニギハヤヒから雌雄決する決戦が無か
ったのだろう。意外と距離があり、移動が困難だからである。
崇神から大和川治水開発が本格化し、その上流から陸地化していった、それが唐古
鍵や巻向である。「美し国」へ、物部や神武、或いは九州その他からの侵入が相次
ぎ、環濠が埋められ、征服されていったのだろう。ようやく漢式鏡5期が出るのも
それ以降である。
つまり、神武伝承の時期に奈良→九州の逆侵略ルートは、国力的にもあり得ないと
言うこと。当時既に沃野千里の筑紫・豊・肥と、弥生末期でも洪水を受けた唐古の
ように大和川に怯えながらの湿地帯の干拓地とでは、人口が違いすぎる。勿論鉄器
の数も、大陸や半島情勢へのコミットもできるはずはない。遠すぎて三国志など
関係ないから、呉の奴隷狩りに怯える必要もないし、熊曽との戦争もない。 九州の戦乱跡を見たら九州北部と熊本の間くらいにたくさん出てくるんだっけ
倭国大乱の跡かもしれないな そもそも魏志倭人伝じゃなくて、魏書第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条だろ?
晋の時代のボンクラ役人が、これまた過去のボンクラ役人がテキトーに書いた報告書を
都合よく切り貼りして、原稿用紙5枚くらいにまとめただけだし
そんなのを有難がって日本の歴史を語るのやめてくれよ >>274 大阪を拠点に奈良平野や滋賀や摂津を支配していったけど
福井、丹後、兵庫北部には支配を広げてない
もしかしたら当時すでに出雲が日本海側を抑えてたかも
出雲は九州北部に匹敵する勢力だったと考えるけど
スサノオが荒々しかったのにヤマタノオロチのあとで
クシナダ姫と結婚してものすごい妻想いでおとなしくなったり
アマテラスとスサノオの間に子供がいたり
倭国と出雲は争ってたけど最終的には緩やかに同盟があったのかも >>267
それのどこが「邪馬台国は奈良盆地南部にあった」の証明なんだい?
魏志倭人伝やその他倭伝との整合性、大陸や半島へのコミットメントの
必然性、鉄器、三種の神器、卑弥呼の比定、人口問題など、やることは
いくらでもあって、畿内説の方がそれらハードルが非常に高いんだが?
その文章で証明できるのは、「奈良盆地南部に大規模な集落がありました」
って事だけだよ。
学者が、無責任に解明もされていない最先端の論説の教科書への掲載を
認めてどうする。
勝手な推論で屋上屋を架すだけ、そんなんだからゴッドハンドを許したり
するんだよ。頭が悪い。
だから日本の古代史学者はアホばっかって言われるんだよ。科学じゃ無い。 >>285
筑紫に立ち寄ったろうが、弥生後期後半の畿内ー日向の交易は
神武の出身地が日向だったことの証だと思うけどな。
本家に立ち寄り出雲と話をつけてもらい、畿内に向かったんじゃないかと考えるかな。 >狗奴国の位置から卑弥呼の邪馬台国は福岡県域にあったと主張している。
狗奴国を熊本県と推定するのであれば、邪馬台国は宮崎県だろう。
なんでこいつら北九州にもっていきたいんだろうな。 >>290
>神武の出身地が日向だったことの証だと思うけどな。
君が勝手に思っているだけだよ。 わははははは @阿波 >>291
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國
次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國
次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國
次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國
次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡 其南有狗奴國
からじゃねえか? 畿内説は、狗奴国はどこにあったと言ってるの
邪馬台国の南にあったのなら奈良県の南部の山の中か >>294
その国々、東西に貫く大吉野川流域に広がる弥生後期集落遺跡群だよ。 @阿波 >>2
金印が出たのが福岡県の志賀島。狗奴国は南方に位置する。すなわち邪馬台国=韓国 なんで邪馬台国だけ妙に持ち上げられるんだろうね
残ってるものが多いから? >>294
その文章のとおり、たくさんの国が「遠」距離が離れていて「絶」陸続きじゃない。
全部島だよ。南西諸島。
狗奴国も島。沖縄だよ。
女王国の北には一大卒があるんだから、
女王国は北九州勢力より南だよ。
神話の通り旧日向国。 >>297
半島説は、朝鮮半島忌部が残した痕跡を根拠としているようだ。 @阿波 >>296
君も邪馬台国が、親魏倭王の爵位を授かることで中国一王朝から倭国王の承認を受け、
それと魏から下賜された銅鏡等を諸国にばらまくことで支持・支援を集め、
紀伊山地に熊や猿を狩りに出かけたと思ってるくちなんだね。 >>299
金印貰ってるからじゃね
漢委奴国王印が出てきたから親魏倭王印も出ねえかなあていう >>302
>それと魏から下賜された銅鏡等を諸国にばらまくことで支持・支援を集め、
すくなくとも、卑弥呼時代の倭国は、阿波・讃岐・南淡ていどだよ。 @阿波 >>300
自女王國以北って最初の一節読み飛ばしてんじゃね? 部分日食で
247年3月24日に福岡で太陽の93%が隠れて
248年9月5日に奈良で90%が隠れたという計算がある
http://feynmanino.watson.jp/6293_total-eclipse.jpg
248年の出雲では隠れた割合が奈良より少し広かったと思われる
そしてアマテラスが天岩戸に隠れたきっかけ
古事記
天照大御神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、
建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、
皮を剥いだ馬を落とし入れたため、
驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。
日本書紀
素戔嗚尊が皮を剥いだ天斑駒を投げ込んだ。
すると、天照大神は驚いて梭で自分を傷つけた。
日食をきっかけに出雲が女王の交代を求めたのかもしれない
そして男王が立ったけど争いになって台与で落ち着く >>304
對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴國、不彌國はその倭国内のどこっすか?
其餘旁國は倭国内にないんっすか? >>262
ホアカリの孫の天村雲命は安曇磯良と異名同神なのでどっちにしろ尾張氏は安曇系で間違いない
また記紀は同一人物を異名を使って神代と人代に重複させて登場させている
神武が歴史学の観点からはあり得ないほど古いことにされているのもそのせいだろう
> 292 :日本@名無史さん :2019/09/01(日) 23:33:53.40
> 安曇の祖とされる安曇磯良(あずみのいそら)には磯武良(いそたけら)という別名があり、五十猛(いそたける)と同一の可能性がある
> 恐らくイソタケルとは個人名というよりはイソの王という意味だろう
> イソとは伊都、つまり魏志倭人伝にいう伊都国は後の安曇族の国だった可能性が高い
>
> 筑前国風土記逸文に、
> 「五十迹手(いとで)奏ししく、高麗の国の意呂山に、天より降り来し日桙の苗裔、五十迹手是なり。」
> 「天皇、即ち五十迹手を美めたまいて伊蘇志(いそし)と曰う。故れ、時の人五十迹手が本土を号けて伊蘇(いそ)国と曰う。伊覩(いと)と謂うは訛れるなり」
> とあり、怡土郡が元々はイソという地名であったことが記されている
> 日本書紀によれば五十迹手は筑紫の伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖
> 294 :日本@名無史さん :2019/09/02(月) 00:05:44.15
> >>292
> 天叢雲命の別名に天五多底(あめのいたて)がある
> 五十迹手(いとて)と同一人物の可能性がある
> また射立神(いだてのかみ)という呼称もあり、伊達神こと五十猛と同一視する向きもある
> そうすると天叢雲命=五十迹手=五十猛=安曇磯武良
>
> 草薙剣の元の名が天叢雲剣なのは有名だが、ヤマタノオロチからこれを手に入れたのは素戔嗚命であり、その息子が五十猛とされる
> スサノオが息子の五十猛=安曇磯武良=天叢雲命に譲り、その佩剣となったから天叢雲剣なのではないか
> 天叢雲剣は皇室の神器となった後に熱田神宮に祀られているが、熱田神宮の大宮司は当初は尾張氏だった
> 尾張氏は安曇氏と同祖氏族
> http://img-cdn.jg.jugem.jp/472/1262880/20190718_2587894.png >>308続き
> 495 :日本@名無史さん :2019/09/06(金) 23:22:16.52
> >>292,294について更に調べたが、どうやら間違いなさそうだ
>
> >>292で書いたように筑前国風土記逸文に五十迹手が伊蘇志(イソシ=勤)と褒められたので地名をイソにしたとある
> 一方の五十猛はイサオシの神と称えられている
> 安曇磯武良=五十猛=五十迹手は確実のようだ
>
> 伊太祁曽神社の御由緒について
> http://itakiso-jinja.net/yuisho.php
> > そして五十猛神は高天原から樹種を持ってきますが韓国には植えず日本に持ってきて、九州より播き始めて日本中を青山にしました。
> > このことから有功神(いさおしのかみ=大変に功績のあった神様)と呼ばれています。
>
> また、先代旧事本紀によれば天村雲命の別名は天五多底(あめのいたて)とされているが
> 兵庫県の射楯兵主神社に祀られている射楯大神(いたてのおおかみ)はそのものずばり五十猛だとされている
> http://sohsha.jp/under02.php
> > 御祭神 射楯大神 いたてのおおかみ
> > 五十猛命(いたけるのみこと)と称し、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子神であられ、檜や楠等の木々を植樹して、日本の国土を緑豊かな国にされた
> > 植樹の神様と崇められています。
> > また、神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅遠征の折に、御船の先導をしたという播磨国風土記の故事から、勝利や幸福へ導く道開きの神様としても崇敬されています
>
> 事績に神功皇后の新羅遠征で水先案内をしたとあるが、太平記や磯良神社の社伝によれば、神功の水先案内を務めたのは安曇磯良とされる
> 安曇磯武良=五十猛=五十迹手=天村雲命はもう間違いないと断定していいだろう >>307
>對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴國、不彌國はその倭国内のどこっすか?
それらは、倭国(阿波)内じゃないよ。 倭国(阿波)への通過・友好国。
>其餘旁國は倭国内にないんっすか?
有る。 倭国(阿波)内の、讃岐や南淡。 @阿波 春秋時代の呉は滅亡の際熊本の菊池に移住し菊池一族となり後の狗奴国となる
邪馬台国と狗奴国の境界は矢部川である。 >>284
そのAIにどういう設定を加えるかで結論変わるだろうしな。
僕と同じような思考回路に設定すれば僕と同じような結論導き出す可能性高いだろうし。 >>304
阿波なんて人の住むところじゃない。
お前の読んでるのは魏志猿人伝だろ?w >>310
友好国は使譯所通三十國じゃないんっすか? >>267
一般の人なら畿内説が正しいと思うんだろうけど、
5ちゃんの九州説のやつらは、学問を真っ向から否定してるから納得しないだろう
学者が捏造やってると決めつけてるやつも多い
オレ様が作った与太話こそ、真実の古代史だと思い込んでる
その根拠はと聞いてみると、別の妄想を作って根拠だということにする
あるいは考古データの一部を切り取ったり改竄したりで、自分のストーリーに都合のいいものを作る
5ちゃんの九州説は、カルト信者みたいなやつか、日本の歴史を改竄しようとするやつか、のどっちかだよ >>317
そりゃ、銅鐸を作る技術を銅鏡に応用する話をすりゃ九州説妄想扱いだもんな。
常識が通じない、すべて妄想として片づけようとするのが畿内説。 正統王権側が、わざわざ畿内に攻め込んだなんて神話作るか?もともと畿内にいたならさ
ふつーに考えろや >>318
近畿パーの十八番は必殺自己紹介ビーム光線。 >>314
一応銅鐸文化圏だったはずだよ。
古い出雲族が住み着いてた可能性は十分考えられる。 >>257
まあ、卑弥呼の時代の邪馬台国は確かに見つかって無い。
卑弥呼の墓が祇園山古墳だから御井なのは間違い無いが。 >>257
因みに、卑弥呼の後は安本美典の言う甘木・朝倉でよい。
邪馬台国は移動している。 畿内説の人も阿波の人も、>>84みたいな地図書いてほしいです。
魏志倭人伝に書かれてる国をMAP上で線で囲うだけでいいんで 畿内説はもう考古学的にも文献的にも否定され尽くしたから
近畿パーはただ妄想を根拠にして勝ち誇るだけ。
小保方擁護と同じ。 歴史モチーフとして四道将軍とかいもしないのを発したとか書いてんのが、ちょうど畿内政権が西日本に進展したころやろ
そんときに衰退気味だった邪馬台国も飲み込んどんねん
そう考えるのが普通 中央貴族はお歯黒するだろ。古墳時代の兵士の埴輪もお歯黒しているし。
近畿地方は遠絶にして不詳の地域。黒歯国だよ。倭国大乱の範疇にはない。
倭国大乱で伝説的な争いは北九州と出雲の争い。奴国と狗奴国。アマテラスと
素戔嗚は兄弟。時代は180年頃。証拠は出そろっているんだがねえ。 現在の皇統が自分たちの集団を「ヤマト」と名乗った初出はいつなんでしょう
後の人(記紀)が魏志倭人伝見て、「邪馬台」ってかいてあるから「ヤマト」って名乗った可能性は否定されてるんでしょうか >>318
>そりゃ、銅鐸を作る技術を銅鏡に応用する話をすりゃ九州説妄想扱いだもんな。
そう思うなら根拠を提示して論破すればいいだろが
考古資料をたった一行の文で否定しようとするんだから、それは妄想以外の何物でもない
これおまえだよな?
実際、妄想の上に妄想を重ねてただろ
http://hissi.org/read.php/newsplus/20190904/M1NlQmpYcGww.html > 邪馬台国
> 狗奴国
> 卑弥呼
中国人の当て字のセンス >>327
僕なら現時点の考えでは不彌國を北にずらして奴国の領域を少し広げるかな。
邪馬台国は筑紫平野全域に広げて、熊本平野全域は狗奴国の領域にするかな。
魏に使いを送った頃にはみやま市と書かれてる南側辺りまで
狗奴国が進出してきてた可能性も考えるかな。 一大国に至る。官は卑狗(ひこ)といい、副 は卑奴母離(ひなもり)という。
東南に行くと奴国に至る。100里である。官は兕馬觚(しまこ)という。副は卑奴母離(ひなも り)という。
東へ行くと、不弥国に至る。100里である。官は多模(たも)という。副は卑奴母離(ひなも り) という。
北九州に比定されている奴国や不弥国の副官の名前はすべて卑奴母離(ひなも り)、すなわり地方の役人と
言う名称になっている。
それに対して、「南すると投馬国に至る。水行20日。官は彌彌(みみ)という。副は彌彌那利(みみなり)とい う」
ように投馬国では、卑奴母離(ひなも り)という名称が消えている。これは投馬国が倭国の中心である邪馬台国に
より近いということを示している。
つまり、邪馬台国は北九州にあったのではないという証拠になる。 >>2
見つかったのは江戸時代で、根付とか小物品ブームの時だからな、しかも金印しか発見されてないし、見つかったのは田んぼの中、嘘臭くて仕方がない >>323
よく尾張氏も安曇が行ったんだって言ってる奴いるよ ニニギノミコトが日向に降臨しているし古代日本の中心が九州→出雲→畿内へと移って行ったのは間違いないと思うんだけどなあ
邪馬台国がどの時代に当たるのかの問題だけでしょこれ >>309
そんな推測に推測を重ねまくって何がしたいのか分からん。 九州ローカルの歴史なら教科書から削除していいと思う。 >>339
規格が当時判明してなかった他国の金印と同じだったから本物認定されたんやで >>312
>阿波厨はソロモンの財宝でも探したらどうなんだ
ここ掘れわんわん状態の遺跡発掘で、おなかいっぱい。 わははははは @阿波 >>320
教科書が改訂されたのは、2、3年前
今の高校生は改訂された教科書で学んでいる
世の中に浸透してくるのも時間も問題だろう >>332
なんか、僕が書いたんじゃないレスも相当数含まれてるけど、
銅鏡をコピーするより難しそうな銅鐸を作る技術を持ってた地域なんだから、
中国産である根拠が示されてないと全部オリジナルかどうかは疑わしいと思うのは常識でしょ? 邪馬台国や卑弥呼なんて存在も所在も印象的な遺物も出来事も曖昧なモノは大したことない話なんじゃないの? >>344
やっぱり山中に動物狩りに行く考えだったか。 >>347
またすぐに改定されるわ
纏向が肩透かしだったからな >>316
>友好国は使譯所通三十國じゃないんっすか?
違う!
使譯所通三十國は、「自女王國以北」の国々(東西に貫く大吉野川流域に広がる弥生後期集落遺跡群)。 通過・友好国じゃない。 @阿波 ここまでのまとめ
1. 畿内説はただのネタ。それは九州倭国じゃ無くて、近畿日w
2. ほかのパーはめんどくさいから省略。
3. 邪馬台国は移動しているが、卑弥呼の時代は筑紫平野の軍事的要衝である御井。
なぜなら卑弥呼の墓が御井の祇園山古墳だから。
4. 邪馬台国論争は九州御井説が最終的勝利を収めつつある。
ただし、御井周辺にあるはずの卑弥呼の時代の邪馬台国はまだ見つかっていない。これが唯一の深刻な欠点。
他の問題はほぼ全部解決済み。少なくとも深刻な矛盾点は全く何も無い。
こんな感じ。 ここまでのまとめ
1. 畿内説はただのネタ。それは九州倭国じゃ無くて、近畿日本w
2. ほかのパーはめんどくさいから省略。
3. 邪馬台国は移動しているが、卑弥呼の時代は筑紫平野の軍事的要衝である御井。
なぜなら卑弥呼の墓が御井の祇園山古墳だから。
4. 邪馬台国論争は九州御井説が最終的勝利を収めつつある。
ただし、御井周辺にあるはずの卑弥呼の時代の邪馬台国はまだ見つかっていない。これが唯一の深刻な欠点。
他の問題はほぼ全部解決済み。少なくとも深刻な矛盾点は全く何も無い。
こんな感じ。 >>352
次の改定にはゴッドハンドの話をコラムにして載せるべきだな >>348
専門家が中国鏡になるか国産鏡になるかを区別して、中国鏡と判定したものだけを分布図に載せたんだが、
それを否定するなら、自分で根拠を提示して論破すればいいだけのことだ >>349
郷土の歴史として副教材にでも載せればいいと思う。 ここまでのまとめ(付録1)
不弥国は宇美だが、現在の宇美の位置ではなく福岡市東区+能古島のあたり。海の中道は由来の良く分からない言葉だが、宇美の中道の意味だった。
能古島は淤能碁呂島のこと。
金印が志賀島のあの位置から見つかったのは当然のことで、
宇美国が奴国の代わりに真南に淤能碁呂島と奴国の祖先が祀ってある吉武高木遺跡とを望みながら
金印を使って祭祀を行っていたから。
>>14
不思議なことに、この時代に鏡の出土が北部九州から畿内に遷移してるんだよね
中央があちらに引っ越した感じ >>342
いや推測じゃなく事実だろ
同じ名前なんだから 今までの定説では邪馬台国最大の強敵と言われた狗奴国は鹿児島の隼人の国
だったはず >>349
そんなに急ぐ必要はないさ。
どうせ君や俺が生きている間に邪馬台国論争は決着しない。 >>341
たぶん
出雲→九州→(出雲→)→畿内
やろな。まあ、新しい情報入ったらまた変わるかもしれんけど。
2回目の出雲は金属技術の伝来で腹の足しにならんかったから
九州を上回ることはできんかったってとこかな。
畿内が優勢になり始めたのは4〜5世紀で6世紀には完全に上回ってたと推測するかな。 ここまでのまとめ(付録2)
侏儒国とは高知県西部の幡多(はた)のことで、
侏儒とはスクナビコナのこと。スクナビコナは恐らく足摺岬に漂着したポリネシア人。
足摺岬の唐人駄馬遺跡は、スクナビコナ漂着を記念したのと、またスクナビコナのような唐人が漂着してくれたらいいなと言うことで目印として作られた。
ワダツミも由来の良く分からない言葉だが、幡多つ宇美のこと。
宇美は海の語源で、海は元々は博多湾のこと。
幡多つ宇美とは宿毛湾のこと。
だからここに小筑紫と言う地名がある。
女王国(御井)から距離もピッタリ。 大分で出土してた鏡が曹操の墓?からも出土したらしいぞ
邪馬台国は九州かね >>367
それはよかった。
じゃあ、思い残すことはないね。
さようなら。 魏が記述した時代の邪馬台国は九州の一勢力に過ぎず
その後九州から出雲、畿内に移って日本を統一した
そういう理解でいいんじゃねーの? 近畿パーがまた妄想願望をほざいているが、
邪馬台国論争は九州御井説がほぼ最終的な結論。
まだ100%では無いが、99%間違い無い。 >>341
>>86や>>88の資料を見れば邪馬台国時代は九州が中心地だとはっきり分かるね
>>1とも一致してるし タイムマシン作って見に行け妄想してんじゃねえよボケ >>308
> イソとは伊都、つまり魏志倭人伝にいう伊都国は後の安曇族の国だった可能性が高い
伊都国(倭奴国)の漢委奴国王一族が奈良に移動して大和王権の祖になったのは間違いなさそうだな
んで弥生人と言われるのは対馬海峡を勢力圏に収めてた海洋民の安曇族が異民族と混血した結果として
安曇族の勢力範囲に混血が広まったと考えて良さそう
※列島に渡来してきた民族と混血したのではなく、半島南部をも勢力圏としていた一族が勢力圏内の民族同士で混血しただけの可能性 >>357
だから、銅鐸を作る技術を銅鏡に応用する話しただけで妄想扱いされるようじゃ、
専門家がちゃんと区別した報告書や資料見るまでは疑わしいと思うのは当然でしょ。
形状の一致から判断したとかじゃコピーの可能性は否定できないんだから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています