【歴史】邪馬台国の卑弥呼がもらった?曹操墓出土と同型の鏡 「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に?
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曹操高陵と大分県日田市
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20190905001744_comm.jpg
“華麗さでは随一”と多くの考古学者が太鼓判をおす古(いにしえ)の鏡がある。「金銀錯嵌珠龍文(さくがんしゅりゅうもん)鉄鏡」。大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、装飾の巧みさから1964年に重要文化財に指定された。由来を含め多くの謎が残るこの鏡が、三国志の英雄・曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式である可能性が高まっている。「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が学界に紹介されたのは63年。青銅器研究に大きな足跡を残した考古学者・梅原末治(1893〜1983)が美術研究誌「国華」で取り上げた。
国華によると、直径21・3センチ、厚み2・5ミリ。表面には金で龍文が、銀で爪などが象嵌され、所々に赤や緑の貴石をはめ込む。中央に子孫の繁栄を祈る「長宜子孫」の4字(子は欠落)が金象嵌で刻まれている。
古美術商から購入し、表面を覆うさびを削ったところ、これらの装飾が確認されたと報告。「中国本土でも(略)稀(まれ)なこの鏡」と評した。
日田での出土品だと古美術商から聞いた梅原は、出土地とおぼしき場所を調査。出土時に立ち会った人の話も聞き、33年の鉄道工事の際に出土したものと推定した。
梅原は出土地の地名から、この遺跡を「ダンワラ古墳」と名づけたものの、埋葬施設の詳細は不明。さらに、一緒に出土したとされる馬具は6世紀以降のごく一般的なもので、超一級の鉄鏡の持ち主にはそぐわない。「本当にダンワラ古墳と呼ばれる場所から出土した鏡か」と疑問を呈する研究者も少なくなかった。
それから半世紀余。新たな知見が明らかになったのは先月初めだ。東京国立博物館で開催中の「三国志」展(16日まで)に関連して開かれた学術交流団座談会でのことだった。
「X線で調べたところ、象嵌の…
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朝日新聞デジタル 2019年9月8日08時00分
https://www.asahi.com/articles/ASM9443XDM94UCLV009.html 卑弥呼は孝安天皇の兄の嫁とわかっている。
何が九州。 >>2
曹操の墓は早い時期に盗掘にあっているから、盗まれた可能生もあるかも
4-5世紀になって東漢氏が持ち込んだかも >>73
欠史八代の天皇なのに確定出来るとかゴイスーw どう見ても邪馬台国は九州でしょう
韓国は考古学じゃなくて願望をクリエイトするなんてよく言われてるけど
日本も韓国を笑えないぞ 魏志に書かれてるのは邪馬臺(たい)国じゃなくて
邪馬壹(いち)国である >>62
金印も曹操の鏡も九州から出土してるんだよなあ 九州出身の奴が近畿で成功して邪馬台国になったんだろ
もうこれで終わりよ >>77
九州説の面倒な点は、邪馬台国の時期にもう機内にはけっこう大きな国ができてるっぽいことなんだよな
なんでそっちを無視して九州の地方政権王朝を相手にしてたのかがよくわからなくなる 邪馬台国の難升米が明帝からいただいたのかも知れん。
邪馬台国は九州のどこかにある 倭国って実は大国扱いされてた説あるよな
金印にしても皇帝に次ぐような高い地位じゃないと貰えないものだし倭国に対する悪口も少なくて周辺国ほどは見下されてない
徐福の伝説とか関係あんのかもしれんが >>73
夫の弟が天皇なのに自分は他の国の女王であったと?
どういう状況なのか教えてほしい 邪馬台国は曹叡の頃なので、曹操だとちょっと古すぎるんだよね。
九州にあったのは倭(奴)国。その首都は伊(委)都国。
それを邪馬台国が滅ぼし魏との交易権を握ったのが倭人伝の頃。 もしかしたら正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵が派遣した建中校尉の梯雋が卑弥呼に献上した鏡がそれかな。 >>84
金印は中華内部の諸侯とか周辺大国の王はけっこうもらってる
金印をもらう国は強豪国と認識されてたのは間違いないけど、皇帝に次ぐというほどレアなものではない
半島の朝鮮王とか中央アジアの匈奴王や大月氏王なんかももらってる 邪馬台国の現代読みを大和にこじつけしたのがバレバレ >>63
「X線で調べたところ、象嵌の…
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ここに書いてあるかも? 筑紫の磐井が大分を目指して山の中に逃げたよな
こいつが持ってたのでは 倭国の王とか遠い蛮国相手に魏が適当に言ってるだけかと思ったら魏王の墓に入れるような高貴な鏡を本当に贈ってたとか胸アツだわ
魏が倭国を呉や北平の裏にある味方にしておきたい大勢力として認知してたって意味にもなるよな
そもそも何回も海渡って使者行き来させてる時点で俺らが思ってるよりずっと進んでたんだろうな倭国
卑弥呼様かっけーあと壱与様かわいい やまと=山+戸
戸とは、集落入り口の木戸のこと。きど(木戸)→かど(門)
戸で集落・クニを差すようになった。
やまと(山戸)の反対が、みなと(水+戸)=水辺、つまり港のクニ。 >一緒に出土したとされる馬具は6世紀以降のごく一般的なもので、超一級の鉄鏡の持ち主にはそぐわない。
磐井の乱も6世紀だ
すまんな大分県民。余計なことに気づいてしまって 大陸との往来は命がけの船しか移動手段がない時代
地の利がある九州が表玄関である事は容易に想像がつく
1つは伊都国、1つは狗奴国(肥後)、その中間に邪馬台国
勢力争い激しい邪馬台国末期に九州や出雲、尾張などの勢力が畿内に移動し
ヤマト政権樹立したと考えるのが自分的に1番納得感がある 曹操と並び皇帝となってたのは劉備やろ?
劉備の末裔が日本に逃れてきてたんか? >>88
書き方あれだからあれだけど弱小国だと貰えないのは事実なわけで
でも倭国の場合はその中の一国でしかない邪馬台国や委奴国か奴国か知らんが貰えるほどの大国だった
古代史について書いたものを読んでるとちょくちょく倭国がクソ雑魚扱いなことがあって違和感ある 大分の土地勘ないけど、
磐井が戦った場所(どこか知らん)から大分の山の中に入ったら日田がある? >>94
ただ、正史の記述量から考えるとそこまで重要視されてたわけでもないようで、
それが日本の古代に関する記録が少ない原因にもなってるんだよな
邪馬台国くらいの時期に白村江レベルで中華王朝に殴りこみかけていれば
「ないこれあいつヤバい。しっかり記録取らないと」となって、もっと古代の姿が明らかになっていただろうに 地図を見ると日田って福岡・熊本・長崎・大分・佐賀・小倉・下関・久留米・日向・宇佐
などなど九州の名だたる都市のちょうど中心にあるんだな。
ここを抑えたら九州を支配できるって感じはするね。 >>93
日田が邪馬台国起こりの地。そこから筑紫平野を支配し富を蓄え、
博多・奴国の港を手に入れ、漢への朝貢(奴国に朝貢させた)と
鉄輸入独占で列島の覇権国に。
女王国の時代は、倭国大乱に負け、覇権を奈良に譲った姿。
覇権禁止=男王(=剣を持つ王)禁止=女王「共立」だ。
最盛期は、邪馬台の政治軍事経済の中心は、大宰府だった筈。
卑弥呼が大宰府に居たか、古都日田に戻ってたかは、知らん。 卑弥呼 壱与 邪馬台国
いずれも日本の史蹟には一切言及がない。中国の魏志と後世のまとめにしか存在しない名前 司馬炎の泰始の初め、幽州太守張華の求めに対しトヨは遣使し訳を重ねて入貢した。
その時、張華の邪馬台国への手土産が金銀錯嵌珠龍文鉄鏡だった思い出 >>88
他の王の金印は四文字だけど、志賀島は五文字だし、書体がなんか違う。 卑弥呼の年代に筑紫で活躍してたのは神功皇后で孫が仁徳天皇
卑弥呼の墓は巨大だったそうだから、実在するなら見つかり易いでしょうに
巫女が子供産むのか解らないけど、引退したりするよね? >>84 遠方の国ほど金員をもらっている
逆に近所の挑戦は貰ってない
遠方の国が長江に来ることは権威を示すことになるので
丁重な扱いをしたそうだ 諸葛亮ほどの知恵者なら
倭国の存在は知ってただろう
漢中と倭国で魏を挟み撃ちに出来たのに
天下四分の計という発想は無かったのか 九州は通り道なんだから見つかっても不思議じゃない。 地図見たら福岡と日田は隣接してるのか
>>102
元々は山国だったからヤマという部分はそう 金印もゴッドハンドなんだろ
いまさら認められないだろうが >>113
倭に興味あったのは司馬懿に滅ぼされた燕王 公孫淵だと思う。
公孫淵は孫権と通じていたみたいだけれど >>103
陳寿ってたぶん差別主義者だろ
皇帝様が超高貴な鏡贈った相手に墨彫った野蛮人扱いとか完全に冷静さ失ってるだろw
こいつのせいで日本の太古が過小評価されてるわ
あと張政って帰った後とか倭国に対してなんか言ってないのかね?普通なんか言うだろ?
絶対話端折ってんじゃん陳寿w >>12 39 50
「漢の委の奴の国王」
わ な
↑3段細切れ読み 根本的にまちがい!! イトまたはイドと読みます
金印は当然、政庁におかれた
皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない
印文のルールとは、二段国名が取られていたこと
現代中国人は漢委奴国王をどう読むか?
仏教大学の黄當時教授は、2014年の10月に開催された
「第8回金印シンポジウム志賀島」において、
「金印の韻文は『漢の委奴の国王』と2段に読むしかない」
『3段読みは』致命的ともいえる欠陥を抱えている。固執は不毛である」
と述べ、また委奴国という漢字を見せられて、「ヤマト」「ワノナ」
と読む中国人はいないと断定している。
↑畿内厨!!! 失笑 >>113
蜀の使者が到着した5秒後にはチクりの使者が魏に向かう展開しか見えない
魏に朝貢してた邪馬台国を寝返らせるとなると相当の見返りを提示する必要があるが、そこまでして参戦させたとしても
半島で暴れるくらいしかできないと思うぞ 卑弥呼も邪馬台国も現時点では架空だしな、もっと見つかるといいね
小学校の頃、先生が金印とかが畑で出るとか嘘くさーって言ってたしさ >>84
1文字国名な
文化的なものなんだろうが、正統な国として使われる基準 >>120
何でそれで畿内が負けになるの?
九州説には、ときどきこういう突拍子もない考え方するやつが出てくる 当時朝鮮半島の中部ぐらいにいた朝鮮人の祖先の一つである穢族が反乱ばかり起こして楽浪郡や帯方郡は苦労してた
魏や燕は邪馬台国を大事にしてたのはよくわかるな 曹操も死後武帝を諡号されてるから皇帝とも言えるよね。 >>100
倭国の一部に過ぎない委奴国か奴国が金印を貰うくらいだからな
朝鮮の首長は銅印なのに
後の琉球王は銀印 >>124
魏志倭人伝によれば、女王国の南には狗奴国があり、女王と敵対していたという
つまり女王国の所在地は邪馬臺国連合の南端付近であると分かる
卑弥呼は魏から親魏倭王と認められたのだから、その敵対国である狗奴国は
魏との交流を持っていないと考えられる
ゆえに、邪馬臺国がどこであったかは出土品の分布を見れば一目瞭然
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
金銀細工や硬玉やガラス製の勾玉など、大陸産のものが
佐賀、福岡、熊本にかけて大量に出土していることが分かる
そしてそれは熊本県八代市あたりでぷっつりと途切れている
ここが邪馬臺国と狗奴国の勢力境界線である@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ 陳寿の三国志は真実をついて素晴らしい史書だな
魏志高句麗伝を読めばよくわかる。
其人性凶急喜寇鈔(人々の性格は凶悪、短気で、略奪を好む)
うーむ見事だ 倭人伝はこう
不盜竊、少諍訟 (窃盗をせず、訴訟は少ない)
古代から綿々戸つづく日本人のは民族性を見事に表しているな >>129
2000年前から、共通している そこがすごい魏志倭人伝
地名の7割が一致している そこがすごい魏志倭人伝 普通に考えれば、魏が卑弥呼に贈った「汝好物」の「銅鏡百枚」の候補だよな
いくら皇帝用の最高級品とは言ってもしょせん鏡、戦略物資でもなんでもないから
鏡好きの忠実な家来にくれてやる、ってのはむしろありそうな話 <<<<1
封印された邪馬台国 沈黙する女王の鏡―いま大分・日田に蘇る卑弥呼の悲劇 (プレイブックス) 新書 ? 2000/11
関 裕二 (著)
千数百年の時空を越えて、一枚の鏡が目を覚ます。
しかも、これまでみたことも聞いたこともない金・銀・石英・瑪瑙で装飾された、
みごとな鉄鏡だ。それが大分県日田市出土の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡で、
卑弥呼の時代に日本にもたらされた後漢王家の至宝であった疑いが強い。
それにしても、なぜ「邪馬台国論争」はこの鏡を避けてきたのだろう。
だれも口を閉ざして語ろうとしないのは腑に落ちない。
そして国立博物館に封印されてしまったのはなぜか。
こうして、迷宮入り事件の最終章がはじまったのだ。
↑おれは、久留米の祇園山が卑弥呼の墓だと思ってるが、宇佐説もバカにできない >>128
論点ずらしは、漢委奴国王の金印の読み方どうたらは、無意味だってことでいいか? >>131
卑弥呼や難升米は漢字による表音文字だから魏志倭人伝に書かれている国名もそうかもしれないね。 >>135
「《古事記の巻頭についている太安万侶の序文にあるように、古事記は稗田阿礼の誦す
とねりる先紀旧辞を安万侶が編集したことは周知の通りである。時ニ舎人アリ、姓ハ稗田、名ハ阿礼、
な年コレ二十八、人ト為リ聡明とあるが、当時の姓は地名からきているのが多いから稗田は阿礼
あまのかかぐやまの出身地名である。現在、奈良県の天香久山に近い稗田がそうだとされて、
その指標も建てられているが、これも豊前の稗田の地名が東に移されたもので、部族の移動を語る。
仲津郡になかとみじんぎおみは倭名抄中臣郷がある。中臣氏は、古代に神祇をつかさどった。
中臣は仲津臣で、仲津とナカツヒメ(仲媛)とは、関連があるかもしれない。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、
弥馬獲支(みまかくき)、奴佳?(なかてい)があり、推計7万余戸。
奴佳鞮
ぬかて
なかとみ
中臣郷
中臣鎌足
中臣郷 奴佳?(なかてい)
中臣郷 奴佳?(なかてい) >>134
箸墓は積石塚
箸墓の構造が一部明らかになった。
40年以上前に宮内庁が後円部の頂上付近を調査していた。それが今年の九月に発表されたのだ。
それによると頂部には分厚く石が轢かれ、積石塚のようであったらしい。
箸墓が倭人伝に記された倭国の墓ではなく、卑弥呼の墓でもなく、とうぜん畿内が邪馬台国の所在地ではない証拠である。
倭人伝には「土を盛りて冢となす」とあり、「石を積て封となす」と書かれた高句麗の墓によく似ている。
積石塚は、紀元前から高句麗の支配地域に有り、高句麗の墓制であると考えられている。
その高句麗式墓制が日本列島に5世紀になって急に全国に作られるようになった。
箸墓も五世紀に築造されたと考えるのが正しいだろう。 >>136
なるほど奴佳鞮が中臣になるのか
倭人伝にはないけど那珂が中臣の中かなと思っていた 出土品の一覧はペルシャ製じゃんね
正倉院にもいっぱいあるし、普通に輸入されてたしさ 狗奴国スレでは畿内説の人はこれに手も足も出なかったけど、こちらではどうかな?
> 86 :名無しさん@1周年 :2019/09/06(金) 23:46:57.90 ID:953HWZUu0
> >>1
> 最近日本史板で見た内容とおおむね一致してるな
>
> 309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
> >>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
> 総合的に考えた結果こうなった
> https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
> https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg >>141の続き
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ >>129
ただ高句麗人と今の中国人や朝鮮人はあまり関係ないんだけどな
むしろ高句麗語は当時の日本語に近かった説あるし
古代史について考えるときによくやる間違いが、今と同じ場所に同じ民族の祖先がいたと無意識に思い込んじゃうこと
日本は歴史時代以降は渡来人と現在の在日朝鮮人が来たぐらいしか移動がないけど古代の大陸の民族は入れ替わりまくりだよ
日本列島は人口が少なかった当時は略奪するほど飢えることが少なく、むしろ協力しないと生き残れない自然環境だから古代から穏和だったんだと思う >>141,142の続き
> 308 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 07:29:57.35 ID:nfEZxMc70
> 伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
> 海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
> http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif
>
> また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
> http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
>
> 有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
> 製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>86の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
> 狗奴国との国境は菊池川だろう
>
> 鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの 畿内が狗奴国ってのもありだな
なにせあの邪馬台国を追い詰めたのだから >>139
ほんまや、失礼w
当時、鉄鏡と銅鏡ってどういう使い分けしてたんやろ。日常用と儀礼用、とかはありそうだけど >>143
扶余族が南下して朝鮮半島南部にいた倭人を畿内に追いやったのだろう >>144関連
https://special.sankei.com/a/life/article/20190902/0001.html
免田式土器の分布イメージ図。作成した松田度氏は、邪馬台国と抗争した狗奴国の勢力を反映していると推察する(松田氏提供)
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
畿内説が優勢とされる邪馬台国の所在地論争で、九州説の立場を取る大和(奈良県)ゆかりの考古学者ら3人が8月、
謎の王国「狗奴国(くなこく)」の実態に迫る学会発表を行った。
魏志倭人伝によると、狗奴国は女王・卑弥呼が君臨した国々の南に位置し、卑弥呼とは抗争状態にあったとされる。
考古学者らはその勢力圏の中心が熊本県内にあったとし、狗奴国の位置から卑弥呼の邪馬台国は福岡県域にあったと主張している。 >>141
南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった
↑明快じゃん 薩摩か熊本だよ
男王卑弥弓呼 ←菊池につながるから熊本かな?
狗奴国 ← 犬の遠吠えしてたり、犬の子孫だというバンコ神話が残ってたり犬との親和性高いから薩摩隼人?
↑いずれにせよ、この2国の北部、(女王国は)九州北部しかありえない
狗奴国が邪馬台国に勝利してヤマトに合流したのかもしれない
魏志倭人伝にも、邪馬台国との戦いの結果がかかれていない
隼人が大量に京都周辺に移住してる(させられた)
大隈隼人とか >>141関連
重要と思われるポイント
> 806 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:37:57.84 ID:PRbsOSjX0
> >>793
> >畿内説ってのは中国語読めない人たちが漢文を曲解してるだけのつまらないお話
> それな
> 畿内のアホどもが散々縋りついていた水行十日、陸行一月の記述も暴かれちゃったしw
> もう畿内説は詰んでる
>
> > 73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
> > 邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
> > 水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
> > これを押さえておかないと正解には辿り着かない
> >
> > 【用例】
> > 通鑑釋文辯誤卷六
> > https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
> > >沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
> > 江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
> > 江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
> >
> > 【嘉興府志】
> > https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
> > >{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
> > 嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
> > やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
> > また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし 後漢書では狗奴国女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至るとある。
狗奴国は岡山から畿内ぐらいまで >>151
広域説ってやつ?? ないない あり得ん 畿内説の学者ら みんな馬鹿ばかり 根拠が薄い
森岡秀人氏は私の尊敬する考古学者でした。弥生後期の土器年代は佐原真氏と共に編年された優れた業績として今でも有効です。
しかし芦屋市の教育委員会の職員の立場もあり邪馬台国畿内説であることは当然予測されるので積極的に氏の論文を検索しようとは思いませんでした。
たまたま小学館発行の「古代史の論点4」を開いたら氏の「年代論と邪馬台国論争」と言う論考があり一読いたしましたがその杜撰と
言うか厚かましいと言うか呆れてしまいました。
氏ほどの考古学者が知らない訳はありません。知ってて言うなら嘘ツキと言われても仕方ないでしょう。
氏に限らず邪馬台国畿内説の方は狗奴国東海説とセットで論を立てます。特定の方しか認めていない事実を互いに持たれあって
邪馬台国は畿内なのだから狗奴国は東海だ、狗奴国が東海なのだから邪馬台国畿内しかないと言った論理です。
驚いたことに氏はこれ以外の事実については全く触れていないのです。
邪馬台国問題を土器だけで結論付けた方は氏ただ一人です。森岡さん少しまともに邪馬台国に取り組んでください。
貴方氏本当はよく知っているのです。優れた考古学者なのだから纏向に邪馬台国がないことは一番よく知っている筈です。 >>137
>それが今年の九月に発表されたのだ。
今月? >>137
>積石塚は、紀元前から高句麗の支配地域に有り、高句麗の墓制であると考えられている。
>その高句麗式墓制が日本列島に5世紀になって急に全国に作られるようになった。
箸墓が高句麗の影響だとしたら、
>>143
>むしろ高句麗語は当時の日本語に近かった説あるし
これも含めて、あれだ、神武東征神話が高句麗の神話に似てるんだよね… とにかく卑弥呼の墓は巨大で、その頃を境にして急に巨大な古墳が大和に現れたから
普通に大和朝廷の前身を、邪馬台国と考えるのが自然だけど
天孫族は海から熊野を通って畿内に入ってるし、前身が九州でも変じゃないだろうけども
卑弥呼の墓は邪馬台国にあるはずなんだよね 三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富
この頃の本州の鉄鍛冶工房は北部九州の海人族の進出地のみ
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
そして四世紀になると奈良盆地内にも鉄器が増えてくる
このことは三世紀までは北部九州の勢力と畿内勢力が別勢力であったことを意味している
そして地理的条件により、畿内の勢力が北部九州を経由せずに魏とやりとりすることは不可能
ゆえに三世紀の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州以外にあり得ない
証明終わり >>152
免田式土器を狗奴国にしちゃったのが畿内説の小林行雄とは如何なものか 司馬維がクーデター失敗したときに、自分が逃げる場所として、意図的に方角を違えて魏志倭人伝に記述式した説
これを前提とすると、司馬の乗っ取りは計画的に曹叡在任中から暖めていたもの、ということになる しかし、漢委奴国王の金印が日本に残ってたってことは、印をもらった国は滅びちゃったのかね?
国が残っていれば、漢が滅びたあとは後継国に朝貢したくなるわけで、古い印を返却して現行王朝の印をもらおうとするだろうし >>155
自分は巨大な古墳がある場所は、他所者がトップに立った地域と感じる
デカい古墳を作らせて地元民の経済力を削ぐ
倭国大乱のトヨ以降に中国への朝貢が途絶えているのは、各地でトップ層が入れ替わり、
朝貢どころではないが、地元民を抑え込むためには巨大古墳を作らせる
どうかなこれ >>144,148
そういう複数の考古学資料がだいたい同じ分布になってるのを見ると>>141は大凡あってるんだろうな >>160
卑弥呼の墓が大きいそうですが、余所者なの? >>82
逆なんじゃね?
当時は九州のほうが発展してて、畿内こそ地方政権だったんじゃないの? >>159
後漢に使者を送った伊都国もしくは奴国ほぼ滅びちゃってるように思う。
倭人伝で伊都国奴国の王は存在感がない。
一大卒ばかりが目立つ >>160 地元民の経済力を削ぐ
いい線いってるよ
あれだけ畿内一帯から出てくる銅鐸が全く魏志倭人伝の邪馬台国や倭国の国々に関しての記述に出て来ない
それどころか記紀にさえ出て来ない
断言するけど、人間狩りが得意な九州勢力(のちの大和朝廷)が
先住民(銅鐸族?)を使役してつくったのが あの壮大な古墳群だよ
だから銅鐸発掘地と巨大古墳は微妙に近い場所にある
彼らは濠の中に住まわされてた
古墳の外周の濠を掘り返すと
かわらけ、生活雑器がでてくる
たしか箸墓の濠からも出てきてたはず
↑九州勢力=邪馬台国ではない >>162
別に巨大なんて記述はないよ
魏書東夷伝は韓伝と倭人伝だけは短里で書かれているから径百歩は大したことない(1里=300歩) >>160
あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
考古学者・森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27 臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 >>156
東遷が起きたのは四世紀か
空白の四世紀とか呼ばれてる時代だね 邪馬台国は日田だったのか
そういえば箸墓は5世紀だから邪馬台国の訳がない >>150
向こうのスレでは>>141ばかり話題になってたけど、本当に大事なのはこっちだよね
そこを押さえているかどうかで全く経路が変わってしまう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています