【佐賀】「よみがえる邪馬台国」展、「豊前の国」に焦点 「九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」 ★4 [樽悶★]
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北部九州と近畿地方の、弥生時代から古墳時代前期の遺跡や遺物などを紹介する企画展が、佐賀県の吉野ヶ里歴史公園で開かれています。
この企画展「よみがえる邪馬台国」は、佐賀県教育委員会などが毎年開いていて、邪馬台国があったと考えられている九州と近畿の出土品を展示しています。
ことしは、現在の北九州市から大分県北部にあった「豊前の国」に焦点をあて、大分県宇佐市のほか、吉野ヶ里遺跡や兵庫県内の複数の遺跡から出土した土器や青銅器など、およそ400点が展示されています。
このうち、大分県宇佐市の赤塚古墳から出土した「三角縁三神三獣鏡」は、直径およそ22センチの大型の銅鏡で、6体の神獣が描かれ、中国から卑弥呼に贈られたという説もあります。
また、大分県宇佐市の切寄遺跡から出土した「中広銅矛」は、祭祀に使われた大型の矛です。
佐賀県内の遺跡から同じ形の鋳型が出土していることから、佐賀をはじめとする北部九州で生産され、その後、宇佐に伝わったことがうかがえるということです。
吉野ヶ里公園管理センターの小林昭彦歴史専門員は、「企画展を通じて、吉野ヶ里遺跡と豊前の国との関係性を見直してほしい。邪馬台国があった場所として考えられている九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」と話していました。
この企画展は、吉野ヶ里歴史公園の「弥生くらし館」で、11月8日まで開かれています。
09月23日 12時34分
https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20200923/5080007088.html
★1:2020/09/23(水) 14:12:50.82
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1601044083/ 免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇地域
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる 免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となるわけだ >>1
> 大分県宇佐市の赤塚古墳から出土した「三角縁三神三獣鏡」は
> 直径およそ22センチの大型の銅鏡で、6体の神獣が描かれ
> 中国から“卑弥呼”に贈られたという説もあります。
> また、大分県宇佐市の切寄遺跡から出土した「中広銅矛」は
> 祭祀に使われた大型の矛です。
【NHK佐賀放送局『よみがえる邪馬台国』展】
https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20200923/5080007088.html
「宇佐神宮」の主神、“比売大神”こそが卑弥呼で
神宮の立つ“亀山”が卑弥呼の墓だね
.
日本史板で出された結論
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう >>1
>>5
やっぱり、「邪馬台国」は “宇佐神宮” だろう・・・
(1)卑弥呼 = 比売大神 = 天照大神
(2)宇佐神宮の亀山が卑弥呼の墓 宇佐神宮本殿
(3)謎の石棺の目撃証言
(4)奴婢百余人の徇葬と百体神社
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/yamataikoku.pdf
.
>>6
コラッせっかくの新スレをいきなり終わらせるな 魏人が「やまと」を聞き違えて「邪馬台国」って記したんでしょ? >>7
>>6の地図をみれば分かるが、金印の出た志賀島は海人族・安曇が志賀海神社に祖神を祀る聖地
漢委奴国王とは当時の伊都国王であり、海人族の優れた航海術を活かして中国に渡海して朝貢した
その後しばらくは伊都国が北部九州の宗主国だったが、倭国大乱を経てその地位を失い
筑後山門の邪馬台国に従属することになった
それでも旧宗主国として女王連合の中でも特別な地位が与えられていたのは魏志倭人伝にあるとおり 福岡では田圃から金印が出てきたり、兵庫では土砂採掘所から銅鐸が出てきたり、不思議な発見が多いよな。東日本では貝塚くらいしか出てこないのにw >>3以降
狗奴国は女王国(倭)の南
邪馬台国とは書かれていない
朝鮮半島から順番に訪れた場所を記載して倭国の領域を紹介してある
そのあと倭国の領域以外の国として狗奴国が紹介される
国の歴史は重いものだと思う
何度指摘されても過ちを正さないのは意図的だと思われるよ >>6
これを支持する。素人の俺の考えと合致。豚骨ラーメンがなぜか久留米発祥の訳、大川等の何も無いところが有数の家具職人の地域と長江あたりの文化や造船技術が入ってる。安曇は有明海から出発したと予想。水天宮本店も筑後川河口。 邪馬台国なんて架空の国
そんなの最初からなかったんだよ そろそろ九州説で納得させる証拠をバシッと出して欲しいわ 大王がいた所は地名のあたまに「御」が付いてる説を聞いたことがあるな
筑前なら太宰府のあった御笠
筑後なら御原、御井
「御」が「三」に書き換えられたなら、
三潴、三池も加わる >>14
弥生時代の西日本は縄文と弥生の共同作業で
古墳時代の東日本はジェノサイドと強制移民の歴史だから >>6
いつものコピペにいつもの単発IDで絶賛する自演 邪馬台国
九州なら地方のその他大勢の国
畿内なら後の日本の基 >>2
>>10
投馬国が狗邪韓国を中心とした朝鮮半島南部地域に在った倭人の国 >>19
前スレにもあるが、>>6の地図は免田式土器だけじゃなく、海人の宝である貝輪や弥生時代の鉄工房の分布とも完全に一致している
文献の分析と出土品が一致しているという事実は強い
308:名無しさん 2019/09/07(土) 07:29:57.35 ID:nfEZxMc70
伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif
また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>86の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
狗奴国との国境は菊池川だろう
鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの >>21
>>29を見れば当時の中心地が北部九州であったことは疑いの余地がないよ >>1
>>9
“魏志倭人伝”に残された「距離と方向」の記述から
少なくとも九州の北東部に位置する“豊国”だろう
最終的に「邪馬台国」は“別府市街”にあった
―と結論づけている研究者もいるくらいだからw
https://news.yahoo.co.jp/articles/42003c8423721800c5516b594ac80e9450fbff3a
まあ、別府温泉に入る卑弥呼って、少し違和感があるが・・・
>>30
桃の種、土木工事跡、木製器具
遺跡見れば、開拓地だな。 大川家具確認したら、やはり発祥は造船技術者とあった。あと熊本の鞠智城跡、朝鮮からの攻撃に大野城らと共に備えたとあるが、あんな所で備えるか?邪馬台国南側の奈良大和の攻撃に備えたと思う。 >>29
邪馬台国の位置を特定することが君にとってどういう意味があるのか?
筑後国山門郡は日本書紀にも触れられている
大和との関連での言及はない 福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。
長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。
さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。
ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。
つまり、最初に渡来系が展開したと考えられている北部九州や瀬戸内・近畿地方でさえ、
弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は縄文系とされる人骨より少ない。
そのことから、水田稲作の先進地帯でも縄文人が水稲耕作を行ったのであり、
絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。 投馬国、ツマ
ツマは行き止まりという意味、とどのつまりのツマ
投馬国は海に面した端っこにある国
九州南部やろね
今でも都萬やサツマなど地名に残る
宮崎、大淀川流域、生目古墳群
円形周溝墓、前方後円墳、3世紀後半 卑弥呼の時代の博多
播磨など瀬戸内海系の土器が多数
九州北部は瀬戸内海系の勢力の支配下だったんだろう
当時の奈良も同じで東海や山陰、瀬戸内海系の土器が多数
こちらも征伐されて都が置かれたんやろね
奈良が征伐されてヤマト政権が始まる >>37
日本書紀は九州倭国時代を意図的に隠蔽しているからな
書紀の目的は天皇の権威強化であり、その源泉を天照大神の下した天壌無窮の神勅に求めている
即ち王権神授説である
その天照大神の正体が卑弥呼という生身の人間であり、しかも中国に朝貢して臣下の礼を取っていたというのは
大和朝廷にとって致命的に都合が悪いんだよ
実在が確実視されている古代天皇の平均在位期間から逆算すると神武天皇は280年頃、
卑弥呼は天照大神の世代に当たる
https://ironna.jp/file/w480/h480/cover/b5088bb621886ce3234badcc2fe432fd.jpg
21代雄略天皇から50代桓武天皇までは平均在位期間約10年でほぼ一定
https://ironna.jp/file/w480/h480/cover/9acf111959dd4a0085f1d48c22dd6b8f.jpg
そこから計算すると神武天皇は280〜290年ころの人
卑弥呼は天照大神の世代 九州を思って邪馬台国九州説を推していても
いずれ歴史の実相が明らかになれば
それまでの言説はマイナスイメージにしかならないと思う
日本の歴史は日本国民全体にとっての重要なテーマ
それについて、もし意図的に改ざんしようとする意志があったなら
とても肯定されないだろう
冗談半分でふざけ話のつもりでいたとしても
あとでごめんは通用しない 大和は国号だが、山門なんて一郡でしょ。
なんで国号を一郡で称すんだよw
国号がチクゴならそれに準じた名前になるはず。
あまたある郡から山門が選ばれたなんて都合良すぎ そもそも特定しようがないんだよな
現状、伝説の邪馬台国 国つ神=スンダランド系、縄文系、インダス系、連合のトップ、大国主
天つ神=渡来系、弥生系、古ユダヤ系と呼ばれる徐福、素戔嗚、天照大神
八百万の神=土蜘蛛系、先住系、騎馬民族系、漢系の神 宮崎の生目イキメ
奈良の生駒イコマ
島根の生馬イコマ
邪馬台国の官筆頭伊支馬
何か関係あるのか?
生馬神の伝承が参考になるかもな だがどんなに隠しても痕跡は残る
大和地方の長官である倭国造が北部九州の海人族安曇と同族であることもその一つ
もし大和朝廷が在地の豪族から発展したのであれば九州のよそ者を地元の長官になど就かせないよな
倭国造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9B%BD%E9%80%A0
> 倭国造(やまとのくにのみやつこ・やまとこくぞう)は、後世の大倭国(大和国)中央部にあたる領域を支配した国造。
>
> 氏族
> 倭氏(やまとうじ、姓は直)で、国名の変遷とともに氏族名も変わった(大倭氏/おおやまとうじ・大養徳氏・大和氏など)。
> 天武天皇10年(681年)に倭竜麻呂が連姓に、12年に一族が連に、14年に忌寸姓に、さらに奈良時代には大和長岡と水守が宿禰に昇格した。
> その遠祖・椎根津彦は綿積豊玉彦命の曾孫とされ、一族は神別の地祇に類別される。また八木氏や安曇氏と同族とされる海人族の一族。 >>13
師升の国は伊都国でなく、伊奴国です。
この地域で新たに始まった、コメの新たな栽培法、これをイナ作と呼んだのでしょう。
記紀にも有るイナ城は稲を積み上げた城などではなく、この伊奴国式の堅固な城です。
伊奴国は半島からの渡来人たちによって建国された新たな勢力、伊都国によって滅ぼされました。
志賀島まで金印を持って逃げたのは伊奴国の王子だったか忠臣だったか姫君だったか。
伊奴国は滅ぼされ、後にその地域は単に奴国、那の津と呼ばれるようになります。
>>40
水行しか記されていないという事実が投馬国が島であったことを如実に示しています。
伊都国から南に水行して至る島、天草郡こそ投馬国でしょう。
海王ミミのこの国家は、おそらく狗奴国によって真っ先に潰された国家であったと思われます。
天草から大矢野島にいたる豊富な遺跡たちの変遷の模様がそれを物語っています。 >>49
魏志倭人伝に北部九州地域全体が邪馬壹国だと書かれてる。 >>48
国郡里制が出来たのは後世だろ
時系列を考えろ (其の2)邪馬台国・佐賀ルート
東南陸行500里到伊都国
伊都国の最有力候補地は、佐賀市山寄りの大和町川上大願寺地区だ、ここに古〜い大明神があって、藤原氏の祖を祀っている。
この神社の祭神の一人はタケミカズチノカミだが、其の父君の名は「伊都之尾羽張(イツノオハバリ)」といった。伊都国(イツコク)の名残りであろう。
この地点は、唐津の古港・中原遺跡から東南37.5qで丁度500里である。
この川上の大明神から東南方向100里、つまり7qほどのところに佐賀市街(佐賀城・佐賀県庁等)が見える。ここを奴国と呼んだのであろう。
倭人伝では東南至100里とだけ書かれ、移動を示す動詞がないから、「東南の方角に奴国が見えま〜す」という書き方だな。
つまり伊都国(川上大願寺)からは移動せず、そこにとどまったままの状態だ。
その次、東行100里至不彌国は、移動を意味する動詞の「行」があるから、実際に伊都国から東の不彌国へ行ったのだろう。
丁度100里ではないが、真東へ140里くらい行ったところに吉野ヶ里遺跡がある。
このあたりは、律令制では三根郷(彌根郷)と呼ばれた。これが不彌国という国名の面影なのではないか。 >>52
大和の支配者が九州人というのは東遷の決定的な証拠だろうな 生馬神
泉門塞大神ともいう。
伊邪那岐命が黄泉国から逃げ帰るときに、追って来た伊邪那美命と言い争いをした黄泉比良坂で、
伊邪那美命を黄泉の国に閉じこめた千引石のこと。伊
邪那美命を追い返した岩ということから道反大神、黄泉の入り口の道を守る者から泉守道者、黄泉の国との間を塞ぐ岩なので泉門塞大神、といわれている
また出雲風土記には、生馬神の子はもう荒ぶらないと言ったとある
イザナミを黄泉の国、泉に閉じ込め道を塞いだ神さま 吉野ケ里が邪馬台国?
寝言もほどほどにしてもらいたいものですね。
吉野ケ里は邪馬台連合の傘下に有った30ほどの国家群のひとつ、弥奴国の遺跡にすぎません。 倭国の領域を北部九州内に収めるのは無理
これを認めることから始めよう 卑弥呼は日の巫女、神子、御子
卑弥呼は徐福の子孫でありその子孫は神武天皇
出雲にも徐福の子孫がおり五十猛であり子孫が宿禰であり子孫が饒速日命
山彦、海彦は、山の日子、海の日子、つまり、天孫族の太陽信仰の王子
吾(われ)は日の御子(みこ)として日に向かひて戦ふこと良(ふさ)はずかれ賤(いや)しき奴(やっこ)が痛手(いたで)を負(お)ひつ今よりは行き廻(めぐ)りて日を背(そびら)に負ひて撃たむ」
【私は日神(ひのかみ)の御子なのに、太陽に向かって戦ったために痛手を受けてしまった。これからは迂回して、太陽を背中にして戦おう】 >>61
そんな根拠のないことを言われてもね
当時のクニは現在で言えば市町村レベルの範囲しか無いのは魏志倭人伝を見れば明らか
30国くらい北部九州に十分収まる 大和を拓いたのは徐福の出雲系混血(インダス文明を継承した出雲文化圏)の子孫
邪馬台国を拓いたのは徐福の九州系混血(スンダランド文明を継承した沖ノ島文化圏)の子孫
徐福は物部氏の祖であり新始皇帝の血縁者 >>64
邪馬台国までの記述の中に投馬国まで水行20日
さらに邪馬台国まで水行10日、陸行1か月
その邪馬台国のさらに北に21の国々があると記されている
とてもじゃないが九州北部の範囲に収まらない
これね、原典を読んでいればすぐ気づくこと
気づかないのは何かの原因で盲目になっているから >>6
地名の読みも面影があって面白いね
ところで畿内説ってまだあるの? 1世紀頃島根の神庭地方で栄華を極めた集落は軒並み営みを終焉している
その後加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が畿内各地で見つかっている
イザナミが黄泉の国に逃れた話と関係あるかもな
新しい神の宮が畿内の何処に築かれたのか?
滋賀の守山に1世紀後半〜2世紀後半の首長同盟の祭祀跡と考えられる伊勢遺跡がある
巨大な銅鐸も見つかっており銅鐸勢力の祭祀跡だろう
伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね
政治の中枢であるが墓がない、宮ではなく国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある
銅鐸、鈴
鈴の宮はどこにあったのだろうか? >>68
そんなものはとっくの昔に論破された話
お前が無知なだけのこと
104 :日本@名無史さん :2019/12/11(水) 20:23:40.04
>>98を踏まえて魏志倭人伝をよく読むと、倭人伝は行程を放射読みにする箇所はちゃんと他とは書き方を変えていることに気付く
わざわざ記述法を書き分けてあるということはそこは他とは違う読み方をしなければならないということ
連続読みの行程部分は全て動詞が至や到よりも前に書かれているが、
放射読みの箇所は動詞が至より後ろにあるか動詞そのものが無い
・從郡至倭 循海岸水【行】 歴韓国 乍南乍東 七千餘里┃到 其北岸 狗邪韓國 ・・・・・【動詞は前】
・始【度】一海 千餘里┃至 對海國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又南【渡】一海 千餘里・瀚海┃至 一大國 ・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・又【渡】一海 千餘里┃至 末盧國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南 陸【行】五百里┃到 伊都國 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・東南┃至 奴國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞なし】
・東【行】┃至 不彌國 百里 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【動詞は前】
・南┃至 投馬國 水【行】二十日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【★動詞は後ろ】
・南┃至 邪馬壹國 女王之所都 水【行】十日陸【行】一月 ・・・【★動詞は後ろ】
動詞が後ろまたは無い三箇所は距離と方位の起点が前段から移動しない
つまり並列の箇条書き文章であり、地図上では前段から放射読みとなる
上の行程文に照らすと放射読みの起点は全て伊都国である
まとめると
帯方郡 → 狗邪韓國 → 對海國 → 一大國 → 末盧國 → 伊都國
. . . . . . . . . . . . . . . . . . ┃
ルート分岐@ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 奴國 → 不彌國
ルート分岐A ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┣→ 投馬國
ルート分岐B ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ .┗→ 邪馬壹國
という構造 >>68
あとこれもな
そういうのはもう日本史板で研究され尽くしてるんだよ
73 :日本@名無史さん :2019/08/22(木) 23:45:04.55
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
74 :日本@名無史さん :2019/08/23(金) 00:13:43.71
>>73により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる >>64
邪馬台国は7万戸
邪馬台国連合は15万戸+旁国21ヶ国
これをすべて北部九州に押し込むことは不可能
町おこしのため四国説とかいろんな説があるが、戸数の観点から
最も可能性が低いのが北部九州説 >>71
伊都國からの距離としてもそれほど意味はない
その里数の違いなど検討する意味もない
意味があるのはその後の水行20日
さらに、その後の水行10日陸、行一月
さらにそれ以降とされる国々への距離
しかし、君の意見でどう説明できるのか、それを聴いてみたい 邪馬台国の長官は伊支馬であり、
コレは宮崎市の生目を示している。
また、投馬国の長官は彌彌、彌彌那利と言い、
美々津耳川周辺の豪族を示している。
もちろん、投馬国は妻、都間であり、
宮崎を示している。
狗奴国は熊襲球磨であり、
狗古智碑狗はどう見ても久々知=菊池であり、
これだけとってみても、
邪馬台国は北部九州で間違いないだろう。 >>74
当時の北部九州の耕地面積は、
畿内を大きくしのいでいる。
圧倒的である。 >>73
それなら投馬国までは水行20日で陸行できない場所?
九州の中で比定できる場所があるなら教えてほしい >>53
イネは、原産地の言葉に基づくもので、ジャワの
スンダ語「binih」、セレベス島のバレエ語「wini」
などと同源とする説 もあるそうだ。
http://gogen-allguide.com/i/ine.html >>1
> 水行十日、陸行一月―。「邪馬台国(やまたいこく)」はどこにあったのか。
伊都国(福岡県糸島市)
↓
水行二十日
↓
投馬国
↓
水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
この時点で(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるよね?
学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
もうみっともないからあきらめろよ >>81つづき
日本人は、シベリア人、スンダランド人、華北人の混血。
縄文人=シベリア人+スンダランド人
弥生人=スンダランド人+華北人
なので、イネの語源については、スンダ語かも知れんな。 亀レスだが
北松浦半島と東松浦半島のくだりはなにが問題なのかよくわからないな
南牟婁郡と東牟婁郡とか、品川駅と北品川駅とか、一見不思議なやつって世の中には稀にしばしばあるものだろう
それに比べれば全然変じゃない 天橋立の天女伝説によると、
8人のきらびやかな羽衣を着た天女が降り立って、
そして絹織物と酒を伝えたと言う。
8人の天女=八女である。
北部九州が絹織物の先進地だった事が分かり、
それが丹後に進出して行った事がわかる。
そして、酒の生産地であったこともわかる。
そしてそれらを女性が作っていたこともわかる。 東に海を渡るとまた国があってみな倭人である
そんな場所は九州しかない 畿内説
「魏志倭人伝の記述は日数はあってるが方角が間違ってる。よって邪馬台国は畿内にあった」
九州説
「魏志倭人伝の記述は方角はあってるが日数が間違ってる。よって邪馬台国は九州にあった」
どちらも都合よく解釈し過ぎである。
正解は
「魏志倭人伝の記述は日程も方角もあっている。よって邪馬台国はかつて陸地であった九州南海上に存在した」
と言ったところだろう。 >>79
宮崎の都萬
>>6の地図通り、間に巨大な九州山地があり陸路では無理 帯方郡から邪馬壹国まで万二千里
伊都国まで一万五百里
残り千五百里だから距離的には大分も十分考えられるな 山門八女にある卑弥呼の墓とされる祇園山古墳の山頂に、
筑紫の一の宮、高良大社があり、
高良大社の大祝家は丹波氏であったという。
丹波氏は出雲から丹波丹後に入り、
元伊勢籠神社で豊受大神を祀り、
そして伊勢に入って伊勢神宮を建てる。
おそらくこれが邪馬台国の生き残りであろう。 邪馬台国の風習として記録されているもの
巫術
泣き女
刺青
これ全部、ヤマト王権では残ってない。
仮に邪馬台国がヤマト王権の前身だとするなら文化が途絶えている訳で、
邪馬台国は地方政権、卑弥呼は熊襲の女酋長と考える方が妥当ではないだろうか。 自分は九州が好きで
国東半島のあたりは神秘的なイメージに包まれる
でも本当に九州が好きなら歴史の真実に向き合う姿勢が必要
九州は充分歴史のキーマンを担って来たのだから
おおらかに歴史に向き合う度量を示すべき なんかアトランティスはどこかみたいな話なんだよな
ロマンはあるが実はないという
まあ違うのは邪馬台国は絶対にあるという前提で語られてるのが違うが >>85
天橋立は志賀島に似てるよな。志賀神社では今でも八女の巫女が八人で舞う儀式あり。安曇の本拠地であり呉からの人たち。 >>94
入れ墨は倭国の南方倭地の風習に触れた部分
これは呉への牽制
しかし、よく調べていると感心する 犬、猫、猿、鹿についての記述がない
発見出来なかった?それともいない? >>97
志賀島に続く砂州は潮が満ちると一部水没し、干潮時に浮かび上がってくる
天橋立と同様に細長い砂州を橋と表現するのなら、天の浮橋とはこれのことだろう 卑弥呼には政務を担当する弟が居た。
一方で、伊支馬や彌馬升という長官副長官がいたと言う。
伊支馬、彌馬升は生目、御間城であり、
コレは垂仁天皇や崇神天皇と関連が深い。
この時代の姉と弟と言えば、
倭姫命と日本武尊であり、
実際に倭の姫命は伊勢神宮に天照大御神を祭った巫女であり、
日本武尊は熊襲征伐を行った弟である。
しかも、倭の姫命から、羽衣と酒を貰って、
熊襲を征伐しているのである。 普通に記述読んだら当時の日本列島は今と全然地形が違ったのか?と思うもんな >>94
それ倭人の風習
邪馬台国の風習とは書かれてない まさに、倭の姫命が邪馬台国の卑弥呼と言い切れる。
そして、実際、卑弥呼の弟は、
絹織物と酒という、山門八女の特産物を用いて、
熊襲征伐を行ったのであろう。 つっても帯方郡から邪馬台国まで12000里っつってそのうち九州につくまでで10000里使ってるっていう事実もあるわけだからな
そもそも日数って普通に距離で言えばいいのに日数で言ってるのは何なのッて話 >>94
ついでに言っておくけど、3世紀の九州で刺青の風習があった痕跡はない
3世紀の日本列島で刺青の痕跡があるのは本州、とくに吉備や尾張 吉備と尾張か
どちらも下戸が飛び抜けて多いエリアやな >>106
そういう嘘を平然と言うから畿内説は嘘っぱちだとバレるんだぞ
http://www.iokikai.or.jp/kodai.itokoku.html
>上鑵子(じょうかんす)遺跡
>魏志倭人伝によると、『男は、大人も子供も、皆顔に刺青をして体に文字を書いている。
>昔夏王朝の少康王の子は、会稽の領主にされたとき、髪を切って、体に刺青をして、咬龍の害を避けた。今の倭人は、魚やはまぐりを捕るために
>好んで潜ったりするが、体に刺青をするのは大魚や水鳥を追払うための呪いとしている。国によって体の刺青の模様が違う。
>身分によっても左に右に、あるいは大きく、小さくと差がある。一重の布を真ん中に穴をあけて首から通してこれを服とする』と記されている。
>上鑵子遺跡から出土した人物線刻板(右)は、この男性像に刻み込まれた入墨は、魏志の倭人伝記載文を実証している。 畿内説だと
1日の移動距離はどのくらいで計算してんの? JAVA台国はもうプロレスやってwinーwinで行こうや 日本武尊が、景行天皇から兵を与えられず、
熊襲征伐を行ったと古事記は伝えており、
コレを考察すると、生目御間城らの宮崎系の豪族は、
熊襲征伐に参加しなかった可能性がある。
この時に、東征に移っていった可能性が指摘される。 >>108
それ後期前半だろ
1世紀、あるいは2世紀前半だ >>105
それは倭国に着くまでの距離
倭国は東西に帯状に広がった領域
その領域内の移動については日数で表現している部分がある >>109
自分の説に合わすだけだよ。
国防上
意図的に日数にしたんだよ。 >>112
その頃にあった風習が3世紀に消えたとする根拠がない
伊都国の安曇が刺青していたのは書紀にも書かれているしな 宇佐の西北の丘に、
神武が逗留したと伝わる妻垣という地域がある。
宮崎は記紀では日向と呼ばれており、
妻の豪族が垣を作って逗留したという言い伝えを残す地名は、
記紀よりも古い、当時の伝承を伝える地名として、
大変注目される地域である。 >>115
幼稚な屁理屈
痕跡がないのに、あったと言い張るなら、立証義務があるのはあったと主張する側
事実として、3世紀の九州には刺青の痕跡はない タジカラ「こんにちわーヤマト国の姫巫女様の使いできましたタジカラです」
魏の官吏1「どうやって書くんだ?」
魏の官吏2「こいつら蛮族だから字なんてないですよ」
魏の官吏1「じゃあ適当に宛字でかくか、蛮族らしく侮蔑表現を加えて
邪馬台国、卑弥呼、都市牛利と」
マジで近な感じだったんだろうと思う >>115
それは狗奴国より南方の風俗について語った部分 刺青ってのは海洋民族の風習らしいね
水死体になってもだれだか解るようになんだと >>113
いやそんなこと言ったら伊都国には10500里でつくんだけど でもさ、
あっきらかに自分のとこより強いやつらに
お前んちどこ?って聞かれたら
やっぱり征服するにはちょっと遠くてかったるいなと思わせるような
ある程度フカシいれた距離を教えたりしないかね? >>117
幼稚なのはお前
弥生後期にあった風習が3世紀に突然消えたと主張するならお前に立証義務がある
もっと後の書紀の記述にさえある風習が消えたことは有り得んがな >>123
1500里違うのじゃないかという説?
そこまで厳密に探究すべきものだろうか
ま、その説を認めたとしても後の日数は変えようがない >>119
でもそうなると狗奴国も中国に使者を送ったことになるけどどうなん? >>125
それもあるし、呉に知れると大変だよ。
日数は、何か秘密がある。 >>119
間違い
刺青の記述は「自郡至女王國 萬二千餘里」に続く文章
その前には南に狗奴国があるとも書かれていて、邪馬台国に肩入れしている魏の人間はそれ以上南には行けない >>127
なかったことを証明する義務はこっちにはない
立証義務があるのは、痕跡はないが、刺青の風習があったとしつこく言い張るおまえだ
悪魔の証明を要求するな 其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歷年
乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼
魏志倭人伝中、倭、倭国、倭種、これらの違いが判然としない。
上記「倭国乱」について、倭国の意味を 女王国に属する領域 と
狭く捉えると、教科書で習った説になる。
だが、ここで倭国を、上記に続く箇所に記される「倭種」の地
(本州!)も含め広い地域と捉えると、乱の意味が違ってくる。
歴史が見えて来る。(つづく) >>129
魏がどういう方法で狗奴国以南の風俗を調べたのかそれは判らない
使者を送ったということも考えられるだろう
だが、記述の中身を見ると、魏はその知識を自慢しているように感じる
自身の調査能力を誇示しているような感じがする
実際どうだったのか、それはわからない 朝鮮半島に接する海から既に「倭」扱いはされてるよな
海を含めて島々全部「倭」って感じ 当時は朝鮮半島にも倭国があったし
倭人ってのは日本列島に住んでたり、
ルーツをもつ民族って意味は当時ない
そもそも最初に史書にでたのは
燕国に従属する部族の名前 >>126
奈良には痕跡がないが、吉備や尾張から刺青した人が来ていた可能性はあるね 魏志倭人伝が全て
とりあえず北部九州だ
機内に用はないの確か ちなみに、高良大社は鏡開きの発症の地であるという。
卑弥呼の墓とされる祇園山古墳の
山頂にある高良大社が、鏡開き発祥の地、
そう、魏から貰った鏡との関連が強く指摘されるのである。
あの鏡餅を割るという作業、
アレは実際に鏡を割っていたのである。
そして、弥生から古墳時代にかけて、
実際に破鏡が数多く見つかっている。
鏡開きが、弥生時代から続く風習であった事が驚きである。 大和じゃ刺青が珍しくてどうして刺青してんの?って聞かれるんだぜ 吉備と尾張から刺青出てきてて
畿内からは出てきてないの?
九州なし
吉備あり
畿内なし
尾張あり
ってなんかとびとびで変な感じ >>132
幼稚な言い訳はやめろ
弥生後期に北部九州に刺青をした痕跡があり、後の時代の書紀の記述にもある
3世紀にのみその風習が消えていたなどという珍妙な主張をするお前に立証義務があるのは当然だ ワンピースのフィッシャータイガーみたいに
指導者層が中華を追われた元罪人の知識人で
罪人の証として刺青を額にされていて
その事を隠すためにみんな刺青をするようになったみたいだったらロマンだな >>134
好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之
今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽
普通に末盧国の倭人が海に潜って魚とってる姿見て言ってるだけだと思うけどね いやー、しかし、実際、天女伝説が
邪馬台国関連の伝承だったとは驚きだ。
当時、文字はなくとも、
今現在において、邪馬台国の伝承が伝わっている。
日本の弥生も身近なものなのだなあと、
実感せずにはいられないな。 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽
文身は海人の風習
農耕民や山の民はしていなかった可能性もあるかと 邪馬台国から東に海を渡ってって記述でもまた四千里って距離言い出してるんよな
なんなの >>143
幼稚な屁理屈、しつこいぞ
悪魔の証明を要求する壊れたテープレコーダー >>143
自分も魏志倭人伝の入れ墨の風習については最初から違和感を感じていました
これ最初は漁業の実用的な意味合いで紹介されていて、後に装飾的な意味合いが付加されたとしていますが
個人の経験ですが、そういう風習に接したことはありません >>150
幼稚なのは3世紀にだけ九州から刺青の風習が消えたとアホなことを言ってるお前だけ
立証義務を果たせないなら失せろ まあ、いわゆる魏志倭人伝の邪馬台国の風俗は
海人系っぽい感じだけど
大和朝廷ではあんまりそれを感じないってのはあるのかな
海人系の人たちの統治をアウトソーシングしたり
天孫の印が弓矢だったりとか、大陸系と思われる八咫烏が味方だったりとか
多分古墳のアイデアも騎馬民族系な感じがするし https://ja.wikipedia.org/wiki/入れ墨
>古代の畿内地方には入れ墨の習俗が存在せず、入れ墨の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、との主張も存在する。
>これは、古事記の神武天皇紀に記された、伊波礼彦尊(後の神武天皇)から伊須気余理比売への求婚使者としてやって来た大久米命の
>“黥利目・さけるとめ”(目の周囲に施された入れ墨)を見て、伊須気余理比売が驚いた際の記述[24]を論拠とするものである。
>
>さらに、日本書紀には蝦夷が入墨をしているという記述があり、全員入墨をしていたという邪馬台国と大和朝廷とでは、入墨に関して正反対の態度が窺える。
畿内では刺青は余所者の証
畿内説死亡 >>153
正直騎馬民族が出てくると一気に胡散臭く感じてしまう 記紀がデタラメなのだ
超時空設定
記紀が作られた天武朝を反映 >>152
刺青の痕跡はないけど、刺青はあったんだーと言い続けてろ
おまえは根拠や証拠に基づいて議論してるのではない
妄想をゴリ押ししてるだけだ >>154
入れ墨は狗奴国以南の風習
畿内に無い風習でも矛盾はない >>147
アホが根拠にしている絵画土器なんかも出土地は北部九州の海人族が来ていた沿岸部に集中しているからな
物珍しいから絵の題材に好まれたのだろう
地元の九州じゃ珍しくもないからあまり絵にはならなかったと >>157
そもそも魏志倭人伝がどんだけ正確か不明なのに
イデオロギーで騙るから古代人より現代人の方が捏造するなんてことになる >>158
>>108のとおり痕跡はある
書紀にも記述がある
3世紀にだけ刺青の風習が消えたなどという戯けた寝言を言ってるお前に立証義務がある
果たせないなら消えろカス 記紀
イザナギ→アマテラス→ニニギ
蜻蛉日記ではアマテラスは河原に住む河伯
いわゆる河童
平安時代の認識と記紀の認識ですら大きく違う >>28
その当時に倭人なんて誰も意識していない
明治維新まで藩単位が限界 >>133つづき
倭国が女王国なら、倭国大乱の後、港を押さえている
「大倭」は、大乱で邪馬台(現女王国)を牛耳った
内部の国だな。だが、その所在地が書かれていない。
変だ。しかも家来が「大倭」を名乗るか??
倭国が本州を含むのなら、列島の大乱で邪馬台が負け、
本州の「大倭」に港を押さえられたことを意味する。
大倭の所在地は、漠然とした本州の記述に隠され、
魏に正体を明かさずに女王国を支配している訳だな。
大倭は、自ら朝貢して大陸の臣下に成ることはせず、
軍門に下した女王国を朝貢に出し、その利を頂いた。
このやり方、漢の時代には、邪馬台が奴国を使って
やっていた事だな。 魏志倭人伝の一文だけで妄想が逞しいな
チャングムみたいw 司馬懿の政敵の曹真が直近に大月氏国の朝貢に成功させていて
司馬懿も公孫淵討伐のとき公孫氏に朝貢していた倭人を見つけて
対抗として「俺も魏に朝貢したいという民族を連れてきた」と
都に連れてきたが
思いの外規模がしょぼかったから
距離や大きさや人口を盛った説 史書だろうが何だろうが、基本、対象をよく理解して自分の言葉で一から書き起こすなんてことはしない
いややればやった方がいいのだろうが、それができるのは司馬遷クラスの名文家であって、凡人は資料の文言を繋ぎ合わせてコピペするのが現実的
おまいらと一緒だ
それは後漢書を見ても、どっかで見たような台詞が繰り返されていたり、魏志もまた漢書地理志の似たような台詞を流用している。そういうものだ。資料にある数字を自分で換算して直したりなんてしない
今の日本だって公式的にはメートル法の国だが、坪とかインチとかも使っている。畳には団地サイズというのもあるが、気にせず使っているだろう >>156
騎馬民族系と言うと、支石墓的な印象
それで作った塚に飾り石を配していたそうな
そんな、太陽光を反射する塚が、平原の中でランドマーク代わりになったんじゃないか、という話があるんだとか
それが、四隅突出墓(出雲や日本海側の文化)の原型になったのかな
当時の日本列島では交通は海路やら水路がメインだったんで
小さいと目立たないんで、巨大化して古墳となり、ランドマーク(当時の運輸の担い手の海人系にとって)として活用されたとかなんとか 三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石
岩戸は関
伊勢のアマテラスと
麓に纒向遺跡のあった三輪の大物主櫛みかたまの命=八咫の鏡は同じ >>166
大倭はおおやまと
大和国(奈良)の美称であるとともに日本の美称 >>151
渡邉義浩氏は古代中国の世界観の反映のような説明をしてるね
どこまで正しいのかかなり疑問 魏書 国淵伝には
反乱軍を鎮圧した国淵が報告した
敵軍の規模や打ち取った首級の数が非常に少ないことに曹操が疑問をもち
国淵に確認した
(当時の報告は自身の武勇をアピールするため、
実際の数の二倍にすることが通例となっていた)
国淵は今回は反乱軍の鎮圧で
武勇を示す場所ではないから実数をかいたと述べて
大いに感心されたって話がある
そんくらい数とかは史書はいい加減 >>165
因幡の白兎(しらうさぎ=しらぎ人)の神話は、
半島〜九州の "一列に並んだワニ" (=ワニン(倭人)
交易ルート)の上で大国様(出雲)が密貿易させた
しらうさぎ(新羅人)が、時々ワニ(倭人)にバレて、
身包み剥がされた史実だw マジで。
出雲に倭人アイデンティティは無かったことが分かる。
「和を以って尊しと為す」
これは、統一して「大和」となり、邪馬台=倭人とは
異なる、新しい「和人」としてのアイデンティティを
列島全てに定着させようとするスローガンだ。 >>14
何年か前に群馬県で鎧を着た古墳時代の人骨が発見されたよね。 双方に繋がりない俺からすると
どちらでもいいんだが…
九州なら強力な地方豪族がいたし
大和なら大和朝廷に繋がる勢力がいた
みたい感じになるだけじゃないの?
メリットってなに? 時々、字音を誰の説か分からない変なの書いてる奴がいるな
呼はkʰɔだとか
普通は摩擦音のxと推定するものだろう >>165
なわけねーだろなかったら三国一なんて言葉ができるわけもない >>173
そう。
奈良(大倭)は、倭国大乱で、列島を九州北部まで
事実上ほぼ統一したことを意味する。まさに「大」倭だ。 >>170
これほんとそう
魏志の
>その南に狗奴国があり、男を王とする。その官に狗古智卑狗がある。女王に属さない
>女王国の東、海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種である
が後漢書では
>女王国より東、海を渡って千余里で拘奴国に至る。みな倭種であるけれども女王には属していない
こんな風に組み替えられてたり適当すぎる >>182
埴輪は時代が違う
卑弥呼の頃にはまだない >>178
自説が絶対正しいなんて人はおそらく僕のアトランティス大陸を否定するなんて許さないってとこかな
資料が少なく正確性も疑問な上に遺跡を特定できない
これで正確なんて見つけようがないからね
もし文字のある遺跡が出てきたりしたら別だか >>184
否定できないだろー
風習なんだからね。
吉備、尾張は何がでてきたの? そう言えば以前NHKの知恵泉で邪馬台国を特集したことがあった
狗奴国を東海地方とみなしてて、狗奴国の首長らしき人物は顔に刺青してたな
あれは倭人伝の解釈からなのか、考古資料を元にしたものか分からんけど >>185
君の説は歴史的事実は正確に特定できないというもの
そうであれば、なぜこのスレに参加するのか
なぜ発言するのか
それは歴史体事実の論争について、批判について最初から逃げている姿勢
真剣に考えている人もいる
君の価値観で簡単に批判することはできない
さらに言えば、君は九州説論者
議論の前に逃げることだけを考えている
違うのならそう言ってほしい >>187
別に否定はしていない
北部九州の安曇が各地の沿岸に進出していたのは紛れもない事実だからね
彼らの黥面文身を珍しく思い埴輪にする人もいただろう 井澤の日蝕の責任で卑弥呼を処刑したら天変地異が起きまくって奈良盆地まで逃げた説が好き
宇佐八幡神託事件も納得できる で東海、吉備は?何を基に
入れ墨があったと判断したのか? >>192
それを主張してるのは俺じゃない
まあ多分絵画土器の話だろうとは思うが >>188
魏志「狗奴国は南にあって女王に服さず、東に海を渡るとまた倭人の国がある」
後漢書「東に海を渡ると狗奴国があって女王に服さず」
これで後漢書を真に受けるとかないわー >>183
どちらにしろ邪馬台国の東に渡海すると国があるんだろ?
魏志倭人伝では「水行」と「渡海」を区別していて
前者は「沿岸航行」、後者は「沿岸を離れて海を渡ること」
つまり邪馬台国を近畿とすると
東の渡海先はハワイになってしまう
(方角を勘違いしていれば北海道もありうるが)
九州についてから邪馬台国に行くのにも
「水行」(沿岸航行)しかしてないし
記述を信用するなら九州以外あり得ない >>145
大魚水禽を避けるために刺青してるんだからどう見たって海人族の文化だよな
その海人族の本拠地が北部九州の玄界灘沿岸なのに刺青文化が無いとかどうやったら思うのか不思議でしょうがない 日本史の謎部分はぶっちゃけ天皇陵を暴けば解決するだろ >>195
末盧国までは渡海の記述がある
それ以降
特に邪馬台国から北の国々についてはその記載がない
読んでみなさい まずさあ、魏志倭人伝の信憑性の無さから
話を進めるのが論理的なんじゃない? >>194
奴国が二度出てくる。
次有奴国、比女王境界我儘。其南有狗奴国。
九州限定でなく、近畿北部まであった。
そう考えると辻褄があう。
邪馬台国は九州でいいと思うが、その範囲に
疑問。 >>196
狗奴国以南の風習を記録したもの
その記述をもとに入れ墨文化について語られていた
実際は奈良以降はその風習の存在は否定されている
ごく特殊なケースで入れ墨はあったが
日本人一般が入れ墨をしていたなどと言う事実はない むしろ出土品は畿内優勢で、九州は魏志倭人伝頼みじゃなかったっけ >>203
日本の入れ墨文化については魏志倭人伝の記述によるところが大きい
これは倭国以南の狗奴国、さらに南方の島々の風俗を映したものだがこの記述によって古代の入れ墨文化が取り上げられるようになった
実際は奈良時代以降はこの風習の存在は否定されるようになった
身の回りにそういう文化は無いことは自明だったから >>204
畿内が優勢なのは4世紀5世紀からだよ
4世紀5世紀の遺跡を必死に3世紀以前のものだと主張してるのが畿内説支持者たち >>205
で奈良以前で埴輪に入れ墨がある地域は
入れ墨文化あったと考えてもいいでは? 魏志倭人伝にある絹の出土が畿内では古墳時代に入らないと無い
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/kinu.jpg
そういう部分も含めれば、九州説は魏志倭人伝に依存してるな >>210
魏志が九州を指しているからじゃないの?
近畿は、記紀に依存していないか? >>207
wikiからのコピペだけど
・箸墓古墳の付近から出土した土器の考古学的年代決定論で、その始期や変革期が三世紀であるというデータがあること
・卑弥呼の遣使との関係を窺わせる景初三年、正始元年銘を持つものもある三角縁神獣鏡が畿内に分布していること
・弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚の年号はすべて3世紀で、うち12枚は235年-244年の間に収まって銘されたものが畿内を中心に分布していること
・ホケノ山古墳の年代について(ただし同研究所としては、遺物の検討から3世紀中頃の築造と結論づけている >>211
畿内説はまず魏志倭人伝に依存するには、記紀の条件に合う遺跡の年代を3世紀以前にする必要がある
その手法が胡散臭いものが多い
数百枚ある中の元号入りの三角縁神獣鏡とか、桃とか >>214
これもwikiのコピペ
九州説の弱点
・畿内の古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、年輪年代学等の知見から、現在の考古学では3世紀に繰り上げられていること 奴國 ぬ国
彌奴國 みぬ国
姐奴國 しゃぬ国
蘇奴國 すぬ国
華奴蘇奴國 けぬすぬ国 ・・貶すな国??www
鬼奴國 きぬ国 ・・・鬼怒川の「きぬ」と同じ??
烏奴國 うぬ国
奴國 ぬ国 ・・・なぜか奴国が再掲
狗奴國 くぬ国
この共通の「奴」ぬ(な) は、なんだろう?? >>213
それこそまさに4世紀以降のものを3世紀と言い張ってる事例だな
たとえば古墳出土の鏡は古墳ごとに最終仕上げの加工痕が揃っていて国産で間違いないと判明済み
輸入品なら古墳ごとに加工痕が揃うなんてことは起こり得ない
今どきの歴史:三角縁神獣鏡、製作地論争 画期的「国産説」の登場
http://mainichi.jp/articles/20180118/dde/018/040/020000c?inb=ra
> 一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書
> 「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。
> 鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。
>
> 着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。
> 鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。
> 加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。
>
> そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。
> 結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。
>
> 三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。
> 一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。
>
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
>
> その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が
> 各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。 >>217
三角縁神獣鏡に関しては、そもそも中国、朝鮮の遺跡から一面も出土してないんだよね >>215
それも畿内厨の言いがかり
そもそも日本の年輪年代法は基礎データが非公開なので正確性の検証がなされていない
これまでに公開された部分からは実年代と100年のズレが指摘されている
http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/keisaironbun.pdf
> 日本では、奈良文化財研究所(奈文研)の光谷拓実が 1980 年から研究を開始し、ヒノキ、スギ、コウヤマキ、ヒバの標準パターンが作成されている
> (図 2。奈良文化財研究所『埋蔵文化財ニュース』99 号 2000 年。および
> 光谷拓実「年輪年代法と文化財」―『日本の美術』421 号 2001 年に鷲ア加筆)。ただし、基礎データは非公開でブラックボックス化している。
> なお、スギの標準パターンはヒノキに連動し作成されており、ヒノキが 100 年狂えばスギも 100 年狂う。この年輪年代法により、弥生中後期および古墳開始期が
> 通説より 100 年遡上し、邪馬台国が古墳時代と重なった。そして今や、この年代遡上論は畿内説を支える最大の根拠となっている。
> しかし、この 100 年遡上論は完全な誤り。基本となる標準パターンの作成時、飛鳥時代で年輪パターンの接続に失敗し、奈良時代〜現代は正しいが、
> 640 年以前(弥生中後期〜古墳〜飛鳥時代)の測定値は全て 100 年古くズレている(表1、表 2 参照。ほとんどがヒノキで、一部はスギ)。 一番古いとされるホケノ山古墳も4世紀の古墳
3世紀というのは科学を無視した暴論
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku277.htm
> 『調査概報』の年代を見た近畿説の考古学者は、ホケノ山古墳の年代をさまざまな理屈を付けて古く持っていき、
> これが卑弥呼の年代と重なると述べるようになった。
>
> しかし、今回の2008年の研究報告書では、ホケノ山古墳についてかなり新しい年代が報告された。
> 今回の報告書は、樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
> これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。
>
> 小枝からとった試料No.1の2σ暦年代範囲は250〜400calAD(95.4%)、 試料No.2の2σ暦年代範囲は320〜420calAD(81.5%)と
> 250〜300AD(13.9%)である。
(中略)
> この結果は、ホケノ山古墳の年代が卑弥呼の時代の3世紀中頃よりも、かなり新しく4世紀後半であることを示している。
> 『調査概報』のデータを見て、ホケノ山古墳の年代を卑弥呼の時代まで遡らせる主張をしてきた考古学者たちは、はしごを外された恰好になった。 >>219,>>220
なるほどなあ
奈良県立橿原考古学研究所のものより後の研究結果なんだな
鏡についてはどう? >>221
>>217のとおり国産のコピー品ですね
踏み返し鏡といって型をとっていくらでもコピーができるので年号も当てになりません 透明性がないよ。考古学者のさじ加減。
外国機関を第三者いれた方がいいよ。 >>226
ほんとそれ
>>219の
>基礎データは非公開でブラックボックス化している。
なんてマジびっくりだよな
科学の世界で「私の持っているブラックボックスによれば3世紀です。」とか有り得んだろ
ほとんど学問の体をなしていないぞ 九州のって邪馬台国から追放されたりの盗賊のアジトがあったんだろ 中国から送られたという鏡の調査
中国側の研究者も参加しているのか? >>215
年輪年代学の手法で決定される年代はあくまで樹木自体の年代であり、必ずしも、建築物や木造品が製作されたり使用された年代(歴史年代)を決定するものではない
この意味さえ理解できない低IQなのが畿内説論者に多すぎなんだが頭の病気なのか頭の障害持ちなのかが… >>13
委奴と伊都では読み方が違う。
「委」は「倭」の略字でwoウォと読む。
「奴」は「奴婢」の「ぬ」で
「奴」をトと読んだのは隋を滅ぼした唐揚げ王朝時代
7世紀後半以降の長安方言。
時代錯誤もええ加減にせえ いまどき九州説唱えてるのはアマチュア中心てのが
ノイジーマイノリティの典型例だよね >>2
息をするように嘘を吐く朝鮮人ww
ウリナラニカエレ(^∀^)ゲラゲラ 奈良から博多まで、この当時は約2ヶ月もかかったの?
奈良に魏志倭人伝で言う邪馬台国があったと言うのは、物理的におかしくない?
鉄製品は、半島→出雲国→山陽国→奈良に全て入ってた?
半島側に、半島(新羅)→出雲国に半端じゃない交易があったと言う痕跡はあるの? >>108
>体に文字を書いている。
一体何処の莫迦が翻訳したんだ
「文身」ていうのは「紋身」の略字だぞ
文といえば縄文の文、縄文てどういう意味か解ってんのか
摩訶は死ななきゃ治らない 人は記憶型と思考型に大別できる
『晋書』
宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帯方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢
宣帝(シバイ)が公孫氏を平らげるとその女王の使いが朝見、その後も不絶
文帝(司馬昭)にも相まみえるに数度に至る
泰始(266年)まで使いを重ねる
(289年)
東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻
絶縁の三十余国がやってきたとある
これは連合国だった女王国が滅んだため各国が独自に朝貢するようになった推測できる
卑弥呼の国は滅んだ
大和朝廷は邪馬台国ではないということになる
だって大和朝廷は今も現存してるからね >>235
https://youtu.be/cLB2aGulm00?t=443
一応、畿内説の根拠になってる三角縁神獣鏡の件
国立博物館でも三角縁神獣鏡は4世紀と断定してるわけで
どちらがマイノリティーかというと畿内説論者なわけで…
奈良県立橿原考古学研究所みたいな田舎の村おこし広告屋みたいなとこの言い分は国からは無視されてるわけよ >>192
鯨面(顔に刺青のある)の土偶が出土してるだろ
瀬戸内、岐阜、愛知に多い
>その源流はインドシナ族で、苗族などの文化・習俗の伝播したものです。
>鳥居龍蔵氏 『有史以前の日本』『苗族調査報告』
でググってみろ
鯨面埴輪 では、何故倭人は自分たちの国を「ヤマト」と名付けたのかね?
知ってる者などここにはおるまいて! >>233
時代を考えれば、ほぼ樹木の年代=製作年代と考えるのが妥当
>>219で論理的に説明されてるのに、なぜわざわざ自ら恥を晒しちゃうんだろう
畿内説論者じゃないけど、レスついてたから一応w >>195
関門海峡を「渡海する」とは言わないけどねw >>244
お前の理解力が小学生以下のバカなのはわかるよ
定規の使い方がわかってても、定規自体が間違ってたり、読み取った数字の当てはめ方間違ってたら畿内説論者みたいな間抜けなレスになるってことな >>247
時代を考えれば、ほぼ樹木の年代=製作年代と考えるのが妥当
これに論理的に反論してみてよw >>219pdfの纏向のところを見ても、伐採年代=使用年代の前提なんだよな
当然だけどw
度々書くけど、なぜわざわざ自ら恥を重ねちゃうんだろうねw >>248
例えば1000年前に樹齢1000年の木を製材して棺を作ったとする
その場合、外周の柔らかい部分は使わず芯に近い強度のある部分を使う
そうなるとどうなるか?
1300年前や1500年前の年輪が一番新しい年輪と判断されるわけよ
バカでも間違ってるとわかるだろ? >>250
はい?俺恥さらしのお前みたいにIDコロコロしてないんだけど? >>250
例えば100年前に立ち枯れた古木を製材して使えば
放射性炭素年代測定でも年輪年代学でも100年以上古い年代が出るだろ
いい加減バカでも理解しろよ低能君 >>251
>>219pdfはもちろん考慮済みで書かれてるんだよw
とりあえず一点として、周辺出土の加工跡のない木材が炭素14年代法でAD320年の測定値を得てるってさw >>217
国産だろうが輸入だろうが、3世紀の記念鏡の大半が近畿周辺から出ている事実は変わらんのだよ。 >>252
いやそういう妄想も含めてなんだけど、自ら恥を晒してることに無自覚なんだなw >>254
周辺出土の加工跡のない木材?
それじゃあ建物とは関係ないじゃないかw >>257
周辺に木材としてあったもの=建材として用意され、使われなかったもの
=建材として使用されたものと同等品
こう考えるべきだと思うし、研究者もそう考えて記述したんだろうねw >>237
そもそも「水行1月」なんて書くのが可笑しいから
1日の間違いだと思ってる奴も大勢いる。
月や日で書いてる処を見ると
天文測量できるような道具を帯方郡使は持っていなかったんだろう。
瀬戸内海を移動する場合大潮の日は潮流に逆らって船を進めるのは困難。
明石大門は1日に満潮と干潮を二度繰り返し、
潮の満ち引きで西流→東流→西流→東流と潮の流れが変わる。
潮流が速く、時速 5.5 〜 9Km と潮流に乗ることで時間を節約することが出来た。
潮流が新工法と逆の場合6時間も待てば潮の流れは逆方向になる。
そういう場合は港に入ったり濱に船を引き揚げる。
昔はそういう停泊地を「泊(とまり)」と呼んだ。
摂播五泊といって東から
1)河尻泊(かわじりのとまり(尼崎の神崎川河口付近)
2)大輪田泊(おおわだのとまり大和田とも書く、兵庫港・和田岬辺り)
3)魚住伯(うおずみのとまり 万葉集には名寸隅(なきすみ)と記録されている)
4)韓泊(からのとまり=姫路市的形町)
5)檉生泊(むろおのとまり=室(むろ)とも云う、たつの市御津町室津)
があった 「檉」は【說文】河柳也。【詩·大雅】其檉其椐。
又地名にも「檉」という漢字が使われている。【春秋·僖元年】公會齊侯、宋公、鄭伯、曹伯、邾人于檉。
こうして地名をみると古代の関西人は儒教の経典なども読んでいてかなりの教養人が居たといえる。
自称「海人族」の巣窟北九州にはこういう「泊(とまり)」を含む地名が残っているか。 畿内の古墳築造時期を3世紀とするほうと、それを否定し4世紀以降とするほう
どう考えても状況的にほぼ伐採年代=使用年代と考えるのが妥当だから
当然両者ともにそこに異論を挟んでないんだな
そこに変にイキって異論を唱えて自ら恥を晒しちゃう人のことはなんて言うんだろうねえw >>259
それ本当かどうか分からないじゃないかw
研究者が勝手に決めつけてるだけじゃんw
非科学的だな。 >>255
>3世紀の記念鏡
何時作られたか分からない
4世紀か5世紀かもしれん。 >>262
木そのものとしてあったならともかく、「木材」って書かれていること
出土状況からもそう考えるのが妥当であるって判断なんだろうねえ
100%とは言わないけど、相当可能性が高ければ論理的・科学的判断だと思うよw
建物と関係がないって言っちゃう人の判断よりもw >>264
>出土状況からもそう考えるのが妥当であるって判断なんだろうねえ
好きなように判断してゴットハンドやり放題だな。 なんかさ、ここ数年で邪馬台国関係の2ch書き込みレベル高くなってない?真実に近づいてる気がするのは俺だけか。 >>242
確認したぞ。確かに吉備・東海に集中
九州では2カ所、奈良無し、関東に数カ所、朝鮮半島は資料なし。面白い 仮説検討だな >>254
はい?てんで的はずれだな?
その件は、畿内説学者が「ホトケノ山が1〜2世紀の築造」「ホトケノ山が3世紀半ば」と主張していたのが
古くても3世紀末と断定されて、しかも3世紀末の確率は1〜2割、5世紀である確率と同等
4世紀である確率が一番高い
というもの
俺のレスとの食い違いは全くないんだが、お前がバカなのは確定したなってだけだぞ? >>263
江戸時代かもしれんし明治時代かもしれん
銅鏡製作は現代でも職人いるからな
同じ成分の銅鏡を鋳つぶせば現代でも作れる >>245
信じないだろうが、弓月国には「雅馬図(ヤマト)」という地名があったし、現在でも
存在している。(新疆ウイグル自治区内)
弓月国と言えば秦氏だよ! >>216
「いぬちど宝」と沖縄でいうように
本州の「の」が沖縄の「ぬ」に対応してるから
彌奴國は「彌の國」かもな
しかし「奴國」は「の国」というのは語呂が悪いけど 奈良には卑弥呼の墓にふさわしい古墳が見つかっていない >>243
古い日本の地名は、
みと 水の入り口 水の戸口 水戸 水門
みなと
えど 川のくち 入り江の口 江戸
やまと 山の入り口 山門 >>240
記銘鏡を四世紀と断定してる論文って何。
誰が言ってるの。
あ、なんちゃって古代史家じゃなくて専門家ね。 まあ石器の分類もできない日本の考古学界は単なる好古趣味でしかない >>273
その邪馬台国の位置だと1800年前は半分くらい干潟だわ
邪馬台国はもっと広域なはず
しかも平安時代から江戸時代の参勤交代でさえ海側は通過できず、熊本の旧南関町と福岡の旧山川町大字北関の間道を通過して宿場町まで移動してた >>257
それを云うと身も蓋もない
土器でも同じことが言える 文系素人たちの年輪年代、炭素年代論議は、そもそも年輪の出来る仕組みと順序がわかっていない様だ。
また、年輪年代、炭素年代の測定の仕組みもワカラなくて、甲論乙駁になってるみたいだ。
どっちの方法にせよ、年輪の1輪1輪について年代を決めるので、
最初にできた最古の年輪は木の一番中心にあり、伐採された年にできた最新の年輪は一番外側にある。
だから、樹齢千年で伐採された樹木なら、中心の年輪を測定すれば御年1,000才、一番外側の年輪は御年1才という結果が出るわけだ。
科学的測定の具体的内容はこういうことだ。 >>275
径百余歩(直径135m)の円墳なんて九州では見つかってもないよ。周知のとおり、古墳は東に行くほど巨大化する。
円墳で日本最大のものは、奈良県の富雄丸山古墳の110m
次に埼玉県の丸墓山古墳の105m
両者も時代的に合わない
なので、結局卑弥呼の墓と呼べるものは、未だにどこからも見つかっていない。 165,167とID被ってるけど、おそらく同じ業者の賃貸物件の回線 >>1
どちらにしろヤマト政権の敵
古事記にも載ることはない >>283
お爺ちゃん、国語が苦手な人が理系なわけではないからね
お爺ちゃんの場合は、理系じゃなくてバカって言うんだよ >>283
材木は利用する時に製材し外側を切り落とすから一番外側の年輪を計測しても
伐採された年にできた最新の年輪は無くなっていて何時伐採されたか分からないって話だよ
あと材木は伐採した後に乾燥の為に何年間も置かれるから伐採して直ぐに使われる事はないんだよな。 >>140
高良大社は、九州を押さえるには絶好の立地にある。
古代史の抗争の中で、取ったり取られたりの大きな役割を演じたことは間違いないであろう。
それだけに、日本史の中に華々しく登場しないのは不思議だ。祭神も無銘の神だし、何か隠ぺいされた所があるように感じる。 >>291
祇園山古墳は径23mしかないよ?
歩に換算すると精々径二十余歩
周辺の集合墓も合わせても領域は50m
径四十余歩、若しくは見栄張っても五十余歩 >>284
卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死に大いに冢を作った。最短距離百余歩に徇葬者の男女の奴隷を百余人。
徑百餘歩は徇葬者奴婢百餘人に掛かるのではないかな。 >>291
玉垂神社は九州北部のあちこちにあるね
ほぼ神功皇后の伝承付きでね >>290
そういうことだ、
中心を計れば年輪年代ぶん古く出る。サンプル材の最外を計れば年輪年代ぶん新しく出る。
どの位置を計ったかで樹齢1000年なら1000年の差が出るわけだ。
だから、年輪年代といってもそれでピタリ建築年代が分かるわけではない。当然のことだ。 >>294
その解釈でも、やっぱり該当する墓が今の所何処にも見当たらないのよ。 弓月君、始皇帝の子孫っつうてるから無いこたあ無いよ。でも中国人、黄泉も河童も仙人思想、で生贄、100人の徇葬が燔祀、燔祀は宮中祭祀でもやっとる。黄櫨染をまとう。全部中国思想 >>297
大きな古墳だけでなく、小さな古墳にも着目すべきだろう。
魏書で径の用法を調べると直径じゃなくて近い距離、近い道の意味に使われている。 >>195
「水行」は大陸で河川を船で行くことを表わす。
シンガポールでは道路上を走るバス巴士の運行を
大昔のように「川行」という。
新加坡新40条巴士路线 主要川行新组屋区
「线」は「線」、「组」は「組」 >>295
たしかに北部九州の神社の由緒や祭神には、神功皇后がやたら多い。
西暦200年前後には倭国大乱でヒッチャカメッチャカになり、卑弥呼を共立することで手打ちしたようだ。
その繰り返しで、
西暦300年過ぎにも大乱があり、それを制した氏族がいて、それが神功皇后体制や関連の神社群を打ち立てたのではないか。
、 >>299
径百余歩を道と捉えるのは無理でない?
他の用法で、道と読めるのは径至??とか、径進??と言った用法の場合でしょ?
径の後に数値を書いてるわけだから、形状を表してると、普通に解釈していいはずだよ。 >>12
隋書だと『邪靡堆』なので、当時の発音は「やまてぃ」「やまてょ」に近かったのかもしれず >>216
鬼怒川の『ぬ』は毛の川の『の』が変化したものだし、同じパターンで『の』じゃないかな >>297
>>299
墓だからといって、そこいらの民有地の山や畑の隅にこんもりしているとは限らないよ。
古代の実力者の墓・古墳は、墓守を置いて草刈り・草むしりをしたようだ。
更に高位の貴人の場合は、墓域の周囲に玉垣()を巡らし、神社を建て、神職という名の守護者を置いて厳重に維持しようとしたのではないか。
だから卑弥呼の墓は、きっと高名な神社の神域の中にある(・・それゆえ見つかっていないのだ!!) >>302
〽箱根の山は天下の険
ていうの知らないだろ
羊腸の小径=羊の腸のように、曲がりくねっている「山の小道」
孟子にも「径」は出てくる。
オバマ大統領が引用した『孟子』の一節
尽心下
「孟子謂高子曰。山【径】之蹊間、介然用之而成路、為間不用、則茅塞之矣。今茅塞子之心矣。」
「山径」は山の小道の意
オバマでも知ってる「径」の意味
知らない奴らはチョン >>302
>径の後に数値を書いてるわけだから、形状を表してると、普通に解釈していいはずだよ。
形状を表してると解釈すると100歩の短い道だろ
直径の意味に使ってる場所ないだろ。 古墳は元々水田作り時の残土でしか無くそれを墓として利用したのが古墳で
残土の少なかった九州北部は大きな古墳無いんだろ?
それで大きな塚を作ったって事は低い丘みたいなものだったんだろう
洪水時ちょっと水が浸かり難いから今は宅地になってるんじゃね?卑弥呼の墓w 壱輿は卑弥呼の宗女、宗女とは教団の信奉者。266年に遣使を送り掖邪狗らは司馬炎即位式環丘方丘その中心に皇帝を眺める。このときには確実に天円地方は理解している。4世紀以降としても前方後円墳の最初はこいつらの教団。 個人ブログ引用で申し訳ないが興味深いので
老司古墳
https://ameblo.jp/nobuyuki1010/entry-12613568286.html
このように追葬で石室が複数ある古墳もある
最初から複数の石室が設けられていたのか、後々追加工事が行われたのかは不明だが、
一族首長の数代の間に最新式の築造方法に再葬し新しい墳墓に移動したりの可能性もある >>307,308
用法の違いは区別しよ?
孟子の場合、山径之蹊間山道の細い門
道の後に名詞が続く
径至や径進は径の後に動詞が来る
径百余歩の場合、径の後に数値が来る >>308 陳寿は同じ漢字でも
文の頭にくるかそうじゃないかで意味を使い分けてると思うんだよ
>道路如禽鹿徑 文の頭ではないのでこちらは道
>徑百余歩 文の頭なのでこちらは直径
同じようにやってるのがこれ
>丗有王
ここは文の頭に丗があるので 世の中に王あり となる
そうでない場合は 代々 となる 現在残ってる墳墓に比定しようとしてもすでに存在しない可能性も十分ある >>316
それ分かるわ
「じゃあ卑弥呼の墓はどれだよ」って言ってる奴は頭悪いんじゃないかって思うわ >>316
いやいや、証拠がなかったらそこが邪馬台国とは言えんし、信じないし、
そもそも邪馬台国とはなかった、という可能性もある。
今は近畿側に的を射た証拠がないかもしれんが、
それイコール九州説が正しいとも言えない。
やっぱり根拠の次は、証拠だよ。 >>319
それをいいことに証拠を捏造する人達が西日本の東の方にたくさんいるんだけど知ってるか? 出てきてる容疑者の中から犯人探しするって
出てきてない場合を想定しないのはあかんやろ >>320
仮説とはそんなものだ。否定もまた物的証拠に拠る。
邪馬台国のすぐ後には大和朝廷の広域覇権があるので、
畿内側とすればそれとどう紐づくかが興味のあるところ。
紐付かないならば別の考えに移行せなあかん。 >>322
マキムクが邪馬台国ならどう考えても
結び付くやろなあ >>321
「証拠だせ!」
「証拠出せないなら九州説はありえない!でたらめだ!」
これが畿内説論者の論法らしいぞ 邪馬台国が大きな国なら何度も名前が出てきただろうが、限界集落かもしれんやろ 初期の前方後円墳は上にのぼって
儀式を前方部でやったと思われる
箸墓の周濠にも通路があったのがわかってる
あぶみがでたときの調査ね
箸墓以外の纏向や天理にある纏向型も通路跡がある
ただ後世には上にのぼれなくなって造り出しで儀式をしして
通路は作らず進入禁止になる
卑弥呼の時代の前方後円墳のあり方が定まってなくて
墓となる後円部と儀式をやる前方部を別と考えていた可能性がある
つまり3世紀の箸墓の墓部分が徑百余歩との記述はおかしくない 少なくとも畿内には大和朝廷があったことは確実なんだから
その遺跡を邪馬台国じゃね?って言い出せば証拠と言えるものを出すのは簡単なんだよな
そこはフェアじゃないと思う 質問! 当時の日本は未開の地ばかりで中国どころか隣の集落にさえ交流が少なかったのに
なんで木造船に乗って中国に貢いだの? >>327
前方後円墳ってひとまとめのイメージない人からすれば
円の部分だけを墓と思うのは自然かもね >>320
ゴッドハンドとかな
それを擁護してたやつは畿内説なんだよな >>331
後ろ楯が欲しいから。その敵もあっちの一族だから、やはり代理戦争だな。 >>334
村や集落ばかりで人口も少なく、中国に行く距離を考えれば東北地方まで来れるはずなのに
当時の日本の文明は、九州と近畿の一部だけ
行く必要が無いと思うが >>302
残っているとは、限らないからね
小さくなているかも?
天皇陵、埋葬者のDNA等を含め調査すれば
わかるかも? >>130
やっぱり滝根説は正しかったと思うね
この当時の人は身長も低く中国人で160cm倭人で150cmくらいだろ
当然歩幅も短い、年齢も里程も日数も戸数も全て半分と解釈してよむ
べきだね 卑弥呼の墓の第一候補は宇佐神宮じゃね
大きさも殉葬もばっちりぽい 九州のはあらかたアレしちまったんじゃねえの?
魏の時代の銅使った日本製の銅鏡が近畿中心に300枚以上出土してんだぜ 原料どっから調達したのよ 邪馬台国が畿内だと
畿内から北九州までの範囲が女王の支配域ってことだよね?
それを伊都国にいる大率一人で管理っていうのがちょっと違和感なんだよね
大分とか熊本とかが邪馬台国で
佐賀や福岡あたりを大率が管理っていうならイメージしやすいけど (其の2)邪馬台国・佐賀ルート
倭人伝の行程から推定すると、伊都国の最有力候補地は、佐賀市山寄りの大和町川上大願寺地区だ、
ここに古〜い五社大明神があって、藤原氏の祖を祀っている。
この神社の祭神の一人はタケミカズチノカミだが、其の父君の名は「伊都之尾羽張(イツノオハバリ)」といった。伊都国(イツコク)の名残りであろう。
なお、この地点は唐津の古港・中原遺跡から東南37.5qで丁度500里である。
この川上の大明神から東南方向100里、つまり7qほどのところに佐賀市街(佐賀城・佐賀県庁等)が見える。ここを奴国と呼んだのであろう。
倭人伝では東南至100里とだけ書かれ、移動を示す動詞がないから、「東南の方角に奴国が見えま〜す」という書き方だ。
つまり伊都国(川上大願寺)からは移動せず、そこにとどまったままの状態だ。
その次、東行100里至不彌国は、移動を意味する動詞の「行」があるから、実際に「伊都国から東の不彌国へ行きました〜」という書き方だ。
丁度100里ではないが、真東へ140里くらい行ったところに吉野ヶ里遺跡がある。
このあたりは、律令制では三根郷(彌根郷)といった。これが「不彌国」という名の面影ではないか。 邪馬台国に行くのに飛行機でひとっ飛びというわけにはいかない 何日も何日もかけて行っている したがって自分が進んでいる方角が東か南かぐらいは太陽の日の出日の入りの方角を見ればすぐわかる 毎日毎日日の出日の入りの方角を確認して自分が進んでいる方角を知っているわけだ 東と南の違いは小学1年生でもわかる >>4
投馬国、邪馬台国はその雑な地理把握から、倭国にとって侵略地と思われる
免田式土器の分布の中心は熊本平野より南にある
甕棺墓は宇土半島基部地域(境目遺跡,畑中遺跡など)に分布の南限がある
武器型青銅器は熊本市南区の八ノ坪遺跡に分布の南限がある
熊本平野は弥生末頃には北部九州勢力の勢力下にあったと言える
古墳時代、熊本で最初に前方後円墳が作られたのは、特に生産力の高い地域ではない宇土半島基部にある城ノ越古墳である
南の狗奴国を威嚇するためと思われる
筑後を投馬国、熊本平野を邪馬台国
それらは伊都国、奴国の玄界灘勢力から侵略を受けた
とするのが一番無理がない 大和朝廷は江戸みたいなもん
各国から人が出てきて開拓して作り上げた
徳川家康に相当するのが神武天皇
邪馬台国の卑弥呼は鬼道、道教の教祖であり、それは先祖の徐福から代々相伝された
卑弥呼が銅鏡を欲しがった理由は道教に関係がある 伊都国の読み方だが、
イトコクでもイツコクでもなくて、その中間のイトウ国だったのではないか。
英語の to の発音似だ。
つまり、今 はやりの「 Go To 」を、ゴートーと発音するのか、ゴーツーと発音するのか口論 するようなものだが、
そりゃどちらも、完全無敵ではないだろう・・。 畿内説まとめ
・九州の埋蔵物 無視、スルー
・畿内の埋蔵物 桃ガー
・他説は無視 学会ガー
・誹謗中傷 一言レスで中身ない
・巻向ガー 公園にも出来ない
・箸墓ガー 発掘も出来ない 雑餉隈は古地名の割に難解字で、相当古いことがうかがえる。
太宰府政庁と博多湾でそれほどの役人の往来があった記録などないので、
これも邪馬台国以後九州王権の首都との往来と考えるのが最もわかりやすい。
大規模に堤や城を巡らせる必要も記録も太宰府政庁ごときにはない。
にもかかわらず重要人物の流罪の地であり、空海さえ太宰府に3年も留め置か
れた。一体何があったのか。紫宸殿という地名もあり、それが何かは中学生でも
明らかだろう。 奈良盆地は広大な池や沼、湿地が占有していて
初期の農業にはまったく不向きな土地だった
国内の鉄の量産が可能になって
はじめて大規模な排水や耕地可が可能になった
今の奈良盆地は長い間人間が変えていったのであって
当時とは違うよ
そのため卑弥呼の時代は
食料生産地としては向いていない
つまり大規模な人口は支えられない
邪馬台国畿内説と言っても大和、山城は否定的 歴史書を読み解く時、地名は重要。
地名は千年経っても変わらないから。
例えば、次に当てはまる。
末盧国→松浦
伊都国→糸島(明治時代に怡土郡と志摩郡が合併して糸島郡へ)
奴国→博多(博多の古名は那の津)
不弥国→宇美
投馬国→鞆
邪馬台国→大和
狗奴国→熊野 >>340
朝鮮半島から日本に難民で来た連中も金目の物は全部持ってくるだろ >>315
陳寿が径を直径の意味に使用してる文章ないだろ。 >>206
あれハッタリだもんな。
神功皇后が高句麗の騎馬隊に負けたことにショックを受けた大和朝廷が
大陸から馬を導入して短時間に軍備強化しただけで。 >>354
地名なら九州が有利だろ
山門
熊本
不知火
日向
のこのしま
それに天皇は、九州南地方から東進したと記録に遺している
これは決定的証拠で揺るぎようがない
天皇の出身は九州南地方 奴国は遠賀川流域
不弥国は行橋市の辺り
投馬国は九州南部だよ >>350
流罪と左遷は別物な
流罪されるのは信濃とか佐渡とか四国とか東日本とかの当時のド田舎だよ >>315
>>丗有王
>ここは文の頭に丗があるので 世の中に王あり となる
>そうでない場合は 代々 となる
魏の世に王あり
魏の世に代々 となる
魏書では世有の世とは魏の世を指している。 >>354
>不弥国→宇美
>投馬国→鞆
>邪馬台国→大和
>狗奴国→熊野
これはデタラメだねw >>177
古墳時代の北関東は未開の地のイメージだけど
群馬埼玉は古墳の多い古墳王国なんだよな。 福岡市南区三宅に太宰府政庁の出先機関があったのを知らないのかな 中国や朝鮮からの船が博多に来たら 三宅にいた役人が日佐に住んでいた漢と百済の通訳を呼び出して応対したわけだ 日佐住吉宮の案内板に書いてあった >>357
2万の秦氏族、弓月氏族はどういう扱いなんだ? >>359
奴国は福岡市周辺
不弥国は那珂川市
投馬国は朝鮮半島南部地域だよ
末盧国(呼子付近)に上陸して500里で伊都GC付近(この先が伊都国)
更に100里行って糸島峠(この先が奴国)
更に100里行って小笠木峠(この先が不弥国) 鏡の出土分布からして卑弥呼の時代の中心はすでに畿内でしょう
但し前方後円墳の同時発生や応神天皇の伝承なんかから考えても九州と大和王権は関係が深いとは推測される 畿内説を否定する人は魏志倭人伝の記述に畿内の習俗が記されてない事を挙げているけど、帯方郡の郡使が入れたのは伊都国までだったので(郡使往来常所駐)、倭人伝に記されているのは九州北部の習俗に限定されていても矛盾はない。
伊都国は邪馬台国の外交窓口、江戸幕府でいう所の長崎出島に相当する。
長崎の習俗を以て、江戸のそれと同じではない事は誰でも分かる。 >>345
狗奴国にも諸説あるけどやはり熊本かな。
北九州の邪馬台国と隣接する北九州文化圏であって
風俗の異なる鹿児島宮崎とはまたちがうと思う。 >>369
そうなると、文献を読んで畿内と判断する根拠は一切ないという事になる >>364
古事記のヤマトタケルの話なんかもあるしあん頃平定したんやろな >>354
投馬国と狗奴国は諸説あるね
個人的には投馬国は出雲、狗奴国は熊襲でもいいような気がする >>358
神武天皇の出身地は日向なのは誰でも知ってる。
畿内で大和朝廷を興したのも知ってる。
つまり、初期の大和朝廷が邪馬台国なんだよ。
時系列で言えば、神武東征→大和朝廷成立→邪馬台国の朝貢。 >>373
出雲と投馬、全然違うけど。
日本海ルートなら、但馬の方が音の響きが近い。
狗奴国は邪馬台国の南方に位置していたので、熊襲だと大和から遠すぎる。 >>373
出雲なら直接船で行けばいいじゃん
九州に上陸して何百里も歩く必要がない
なので、文献を根拠にするなら出雲はありえない >>336
可能性は4つくらいかな?
1.今後見つかる
2.もう既に取り壊されて残っていない
3.形状やサイズが変わって残ってる
4.そもそも魏志倭人伝が間違ってる
個人的には可能性は2=4>>>3>1の順のように感じてる。
感じてるだけで根拠はないけど。 >>374
祭祀の中枢が邪馬台国で九州にあり、
政治の中枢は畿内の大和王権
という時期があったのかもしれない >>377
見つかってるけど由来が間違ってる
というのもあると思う >>357
韓国が古い文献隠しちゃうから
人の流れがわからない >>371
旅程的に九州内部に収まらないでしょ。
不弥国→投馬国まで水行二十日
投馬国→邪馬台国まで水行十日陸行一月 九州も出雲も吉備も畿内も並立して国は有った訳だが
古墳自体もどこにでもあって、天皇占有の三種の神器が埋葬用でない以上
統一大王の物と比定できる証拠なんてのは無い。
天照の直系の証拠はw
倭人伝の卑弥呼に関しては、筑紫21国の
世襲ではない一代の共立女王と記されているが・・・
より有力な大王は畿内に在っただろ?
長州と薩摩はどっちが正規軍か? みたいなwww
そもそも豪族間の後宮外交から皇室が固定したのは600年以降じゃ無いのかね?
平安時代の源氏物語の現実的ロマンスファンタジーはもっと後世でも同じだろ。
万世一系ってのが後付け過ぎて話も作れなくなってないか? >>381
収まるよ
丸木舟に毛が生えたようなもので、天候の穏やかな昼間に移動し
夜は上陸する
天候不順ならそのまま足止め
そうやって移動してればたいして進まない >>381
そもそも東と南にしか進んでないのだから
文献を否定しない限り北上して畿内に到達することは不可能 >>381
結局「倭地」は5000里ほどって書いてるんだぜ
「倭地」ってのは邪馬台国どころか狗奴国や裸国、黒歯国も含めて
九州から飛び出して5000里はありえない >>378
神武天皇即位以前が日向
神武天皇即位以降が畿内
邪馬台国の記述は神武天皇から何代か後の時代に当たる。
大和朝廷は畿内から九州北部までを制圧しつつも、鈴鹿以東や九州南部はまだ未制圧。 >>388
そこらへんの順番は自分たちに都合がいいように改変してる可能性はかなりあるわな >>384
水行は天候に左右されるけど
陸行で一月は何なの?
北部九州から、一月も歩いたら指宿まで辿り着きそうだけど。 >>390
今の舗装された平坦で直線な道を想像するからそんな間違いを犯すんだよ
獣道に毛が生えた程度の未舗装路で
川を渡るにしても橋などほとんどないから遡上し、
トンネルもないから尾根などに沿って迂回する
直線距離なら短くても、実際に踏破する距離は直線の何倍にもなるなんて当たり前だと思うわ 邪馬台国時代のもんじゃねえけど
佐賀って昔の街道沿いに恵比寿様やら塚やらいっぱい有るからな >>387
その5000里って誰がどうやって測ったの? 「〜日」が距離にするとどのくらいなんだ
っていうのが結局九州説にとってネックなんよね
なぜここで急に「〜日」に変えたっていう
色々な仮説あるけど
オレはやっぱり「奴国と投馬国と邪馬台国は領域国家でそれぞれ国境を接している」
接している国同士の距離なんて表現しようがないから
あくまでも自分の体験として「至った時にかかった時間を表しただけ」ということかなと思う
そして「かかった時間」ってのは結局「滞在した日数」とかも含まれるから単純な距離ではない
長居したらした分ムダに時間はかかるわけだからね 現在の天皇家すなわち日本の始まりが大和朝廷なのははっきりしていて
その大和朝廷は前方後円墳の始まりからというのが通説でこれはほぼ万人が認めること
では前方後円墳がいつ出来始めたのかというと諸説あるが一応西暦200年代半ば頃が今の主論
一方で文字による記録に同時代に邪馬台国という連合国があり魏と国交を結んでいたことがはっきり記されてる
この邪馬台国と前方後円墳が結びつくのか否か
これが大問題だけど決定打が無くよくわかっていないのが現状
畿内説は結びつく
九州説は結びつかない もしくは東征 >>393
それぞれの道のりを計算して出した
邪馬台国の位置も計算して会稽東治の東だろうって書いてる >>375
出雲に関してはわりとメジャーな説
当時の遺構からみても瀬戸内海航路が確立するのはもうちょっと後なんだよな >>396
東が真東とは限らない
大雑把に北東から南東までの範囲だと考えると九州の南半分も含まれる >>356 文章の流れとして徑が道だとおかしい
>卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。
道はちゃんとした道の意味で
徑は粗末な道や獣道とかで使われてる
>道路如禽鹿徑
道路は鳥や鹿の道のようである
卑弥呼の墓の道だとしても徑を使うのはおかしい
王の道が粗末な獣道になってしまう >>362 丗有王の丗が 代々 ではなく 世の中には となる例
文の冒頭に丗が来る場合は 世の中には となる
? 魏書十六、杜畿(とき)伝。
「世有亂人而無亂法」
(世の中には、世を乱す人はいても世を乱す法はない)
A 魏書三、明帝紀、裴松之注釈の『魏氏春秋』。
「世有人愛假子如孤者乎?」
(世の中にわたしほど妻の連れ子をかわいがる者がおろうか?)
B 魏書六 劉表伝 裴松之注釈の『英雄記』。
「世有卓而大亂作、大亂作而卓身滅」
(世の中に董卓というものが存在したために大乱が起こり、大乱が起こったために董卓の身は滅んだのである。)
C 魏書十一、?原(へいげん)伝、裴松之注釈の『家戒』。
「世有高亮如子臺者、皆多力慕」
(世間に子台のようなけだかさをもっているものがおりはするが、皆彼の人柄を慕い努力はする。)
D 魏書十一、管寧(かんねい)伝、裴松之注釈の『傅子』。
「世有名節、九世而生寧。」
(世間に名誉・節義をもてはやされ、九代たって管寧が生れた。)
E 魏書十一、管寧(かんねい)伝、裴松之注釈の『先賢行状』。
「世有仁人、吾未之見。」
(世の中には人格者がいるものだ。わしはまだその人にお目にかかったことがない。)
F 魏書十五、梁習(りょうしゅう)伝、裴松之注釈の『魏略』。
「世有思婦病母者、豈此謂乎!」
(世間には妻が恋しくて、母親を病気にするやつがおるが、そういうことか。)
G 魏書二十九、華佗(かた)伝、裴松之注釈の『弁道論』。
「世有方士、吾王悉所招致」
(世にいる方士たちを、わが王はことごとくその宮廷に招き集められた。)
H 魏書二十九、管輅(かんろ)伝、裴松之注釈の『管輅別伝』。
「世有軍事、則感?雉先鳴」
(世の中に軍事がおころうとするとき、鶏や雉がそれに感応して、まっ先に鳴く) >>374
記紀には邪馬台国にちらっと触れてるだけで、邪馬台国が行ったとされる外交交渉の記述がないことから、
別の王国と見ていいんではないかな
神武東征でできた近畿王朝は特段外交交渉はせずに国内勢力の糾合に力を入れ、
それに対抗しようと北部九州連合が邪馬台国を担いで大陸と交渉を持った
だが結局大勢には抗し切れずに近畿王朝に飲み込まれた 不弥国は現在の宇美町付近 投馬国は朝倉市から鳥栖市にかけての広大な筑紫平野 邪馬台国は筑後川南側の久留米市から大牟田市にかけての広大な筑後平野 くなこくは熊本平野で首都は菊池市付近となる 邪馬台国の首都は初めは旧山門郡(現在のみやま市)にあったがクナ国軍に負け続け久留米市まで北上してそこを首都としていた時に卑弥呼はなくなった クナ国との戦争は日田国が
行なった側面からの攻撃によりかろうじて勝利をした >>379
130mクラスの円墳がそもそも今は見つかってないから 投馬国に行くにしろ
邪馬台国に行くにしろ
その間、新しい国には立ち寄ってないってなると思う
立ち寄った国があったらその国のことは戸数も距離もかけてるわけだから
もし北九州から畿内まで行くとしてその間に一個も新しい国に立ち寄らないってことがあるのだろうかっていう疑問もあるな >>401
遣隋使以降中国の冊封を拒否してるから
冊封体制にはいっていた邪馬台国と連続性があるとこまるからぼやかしたという説もある 宇佐神宮は伊勢神宮や香取神宮 鹿島神宮と同じで東の海に面している これは東にいる敵を制服するぞという意味で建てられている 「100歩」だからスゴイざっくりな可能性はあるかなと思ってる
これが80歩とか120歩とかだったら割とその前後かなと思うけど
100歩っていうキリがいい数字は逆に50〜150くらいの間で見ていいんじゃないかと どっちにしろ魏志倭人伝は陳寿が資料寄せ集めたものだから参考資料にしかならんよ
当時の地名なんかは律令制の地名と照らし合わせていい資料になるけど 徇葬者も百余人
争いが起きて殺された人数も千余人
ざっくりざっくりよ 大和朝廷は奈良に都を置いたのだから奈良に祖霊社を作ればいいのだがわざわざ伊勢に作ったということは宇佐神宮と同じような考え方で作ったわけだ 邪馬台国は北部九州にあったが宇佐ではなく最終的に久留米市付近にあったと考えるほうが正解 >>408
当時の身長の低さ考えると想像よりずっと小さそうな >>410
結局、魏志倭人伝をどの程度まで信用するのか?
という所で悩むんだよな
他の史料が皆無だから検証のしようがない
だから、普通の学者さんたちは邪馬台国を専門に研究することはないんだよな >>404
隋書も九州の先は大和までスッカスカだから当時はそういう認識だったんだろう だから卑弥呼の冢を端から端まで大勢の人(参拝人、見物人)が歩いて、
その足跡で出来た小径は百余里あった・・、だよ。な〜も難しく考えるこた〜なかよ。 古代史は分らんことの方が多いから思い込みで好き勝手言ってる場合が多いけど
初期大和朝廷は騎馬民族的でも海洋民族的でも中華王朝的な感じでもないと思うんだよなあ
普通の土着または土着化した渡来人のひっそりした勢力が周辺を吸収しながら
徐々に勢力の伸ばしていったという当たり前の流れが一番自然だろう 東と南を間違った可能性はオレはあると思ってる
ただそうなると狗奴国は和歌山じゃなくて滋賀とか愛知とかそこらへんになる
そして女王国から東に海を渡って1000里でまた倭人の国がある
っていうのが全く出てこなくなる 宇佐、豊後高田辺りは貴船神社やら若宮八幡宮やら粟島神社やらコンビニ唐揚げや並に神社有るし五百羅漢やらもあるし結構妄想出来るぞ 隠れ畿内説は、九州説のふりして熊本は狗奴国だったー、と叫んで回る。
九州説を福岡県内に押し込めて、乱闘に持ち込む作戦だ。
ま、其の手にゃ乗らんww >>392
肥前肥後の位置関係からして太宰府から肥後に向かうのは筑後川渡らず肥前から島原天草と渡っていた可能性は結構高い 昔の東海道も武蔵通らず相模から房総半島へ渡っていた 故に京から遠い南側に上総がある 宇佐か西都市が個人的には有力
大穴は延岡周辺
別府という話もあるみたいだけどトンデモだろう 古代は博多から太宰府まで幅7 M くらいの直線道路があり 外国からの使節が博多に来たら早馬を飛ばして太宰府に知らせた 直線距離で10数キロしかないから時間にすれば30分もあれば十分だろう 宇佐は昔の記録をみても秦氏の多いところなので渡来系が多く住んだところなのだろう
あのあたりは宇佐八幡だけでなく香春神社がわりと重要
耳垢が乾いてる人の遺伝子が東九州から瀬戸内海沿岸ー畿内のみ突出して多いのも面白い 中には古田説に成りすます隠れ畿内説もいるようだな。
此れも関心を糸島・博多平野に引き付けて、北部九州説の心理的混乱・破綻をねらうやつ。
ま、心理学者が、心理学に翻弄された好例だよな、、、 >>425
隋書では東に東にルートをとる
渡海の出発地点、到着地点すら全然違う 東南陸行 五百里 到伊都國 官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸
丗有王 皆統屬女王國 ←
郡使往來常所駐
伊都国の項目の部分だけどここは不自然な一文が間に入ってる状態で
伊都国に代々王がいたではなく
(倭国の)世の中には王がいて みな女王国に統属す
(伊都国は)(帯方)郡の使が往来し常に駐する所。
伊都国の項目に伊都国とは関係ない文が挟まれるのは
陳寿が使者の報告書をできるだけ採用しようとして
変な位置に入ったと思われる
伊都国までは最初の使者の梯儁の書いた報告書だけど
これに続けて二人目の使者の張政が書いた
奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の項目を挟んで
再び梯儁の書いた報告書の 次有○○国 が20個続く
陳寿が挟み入れちゃった
奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の項目を抜いて
魏志倭人伝を読むと梯儁の報告書に近くなる
(倭国の)世の中には王がいて みな女王国に統属す
次有○○国 こんな感じで国名の羅列だったとするとおかしくない >>399
被葬者卑弥呼とすると
人質や捕虜として九州から連れて来られたとかあり得ないのかね >>423
そりゃ、いつ頃のことだい?
卑弥呼バアサンも馬に乗ってたと云いたいのか?? >>399
卑弥呼「以って」死す
は今ドキ流行らない
いまは「すでに」死すと訓む 博多から太宰府まで作られた直線道路は石畳だったということだ >>429
おまいも隠れ畿内説か。尻尾が出てるぞ。 まあ、魏志倭人伝を読んで
素直に解釈すれば九州にあったとしか読めないわな 伊都は後に怡土城が築かれたくらい古代では大陸交易の要衝
平原遺跡や渡来系の天日槍を祀った高祖神社もある
怡土の県主イトデが神功皇后を同族として歓待した記録も残っている 東に海を渡るとまた国があってみな倭人であるってのは割と決定的だと思う 倭人が住んでて朝鮮半島から東や南にしか進まないのだから九州しかないだろ 九州説は九州九州言ってるだろ?神武は九州から来たんだよ、だから中国人。 【まとめ】
邪馬台国については魏志倭人伝、日本書紀、古事記の3つしか探るものがない。
確実な物証として漢委奴国王印が福岡の志賀島から出土し、魏志倭人伝の記載の
確かさの裏取りが出来ている。この発見についても当時の甚兵衛という百姓の
口上書、福岡藩の鑑定書、那珂郡奉行の資料など多々の古文書がありケチを付ける
のが難しい状況である。つまり、奴国が福岡市周辺であることは確証が取れている訳だ。
そうなると畿内説はあり得ず、九州の何処か、という話しか残らない。
現に北九州には古墳時代の遺跡は多くある。
では奈良県桜井市の纒向遺跡はなんぞや、という話だが、普通に日本書紀に
垂仁天皇が纒向に宮を起こすとあり、卑弥呼とは全く関係ないと読み取れる。
魏志倭人伝、日本書紀、古事記を全て並べてみれば、畿内説が歪で基地外さが
際立っている。何も物証も証拠なしにこじつけているだけだからだ。
それでもなぜ畿内説が名のある学者としても存在しているかと言えば単に
日本書紀や古事記を全否定しているとか、魏志倭人伝を否定しているとか
そういったカルト宗教の教義により見たくないものを見ずに議論しているからだ。
まぁ、基地外だな。 >>1
> 水行十日、陸行一月―。「邪馬台国(やまたいこく)」はどこにあったのか
伊都国(福岡県糸島市)
↓
水行二十日
↓
投馬国
↓
水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
この時点で(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるよね?
学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
もうみっともないからあきらめろよ 韓国から対馬
対馬から壱岐
壱岐から九州
の距離をそれぞれ1日で渡っちゃうとすると
水行20日で結構進むよね 九州説は大和王権に匹敵する勢力が九州にあってそれが邪馬台国と主張するが
それは無理
卑弥呼の時代は神功皇后の時代と重なる
神功皇后は半分神話の存在としても次の応神天皇さらに次の仁徳天皇は実在していた
神功皇后の時代にヤマト王権が成立していたことは間違いない
もし九州にそれとは違う勢力があったとしたら無干渉ではありえない
神功皇后は北部九州にも山門にも三韓征伐にも行っている 前スレ見たら
やっぱり多くの学者は畿内説だと言ってる人いる
南京虐殺、慰安婦派の歴史学者の声の大きさに普段は辟易しておるだろうに >>440
三韓征伐の神功皇后が400年ごろの人物だとすると
垂仁天皇はその半世紀ほど前350年ごろの人物なのかな >>441
記述の順番違いだよ
帯方郡から邪馬台国まで1万2000里
の次に
水行十日、陸行一月と書くべきところを
その旅の内訳の中にその文章を入れてしまっただけ >>416
>その足跡で出来た小径は百余里あった
オマエの脳内には「千余里」が媚りついて
離れないないのがよく分かったwww >>417
天皇家は総じて南方系の色が濃いと思うわ、沖縄人のように
明治天皇、桂宮、高窓宮、悠仁さま、全員良く似てるよ
女なら真子様もそう >>441
畿内学会が、畿内説で凝り固まっているのは良くわかるわ 「戦後の共産化の中で、マルクス史観の京大思想家たちは、どうしても皇国史観につながる東大派の邪馬台国山門説を潰す必要があった」
「従来の歴史学者には以下のような偏向があったことを長浜氏は浮き彫りにしている。
1.歴史学者は日本人が弥生時代に朝鮮半島からやってきた渡来人の影響で進歩・発展したことにしたがった
2.歴史学者は弥生時代に大陸や朝鮮半島からやってきた渡来人を日本人の祖先にしたがった
3.歴史学者は日本の方が古くから文明を発達させていた証拠がでると否認したがった
4.歴史学者は1・2を否定する証拠が出た後も、1・2に沿って歴史教科書を書いた」 >>449
そうだよ、行程説明の千余里と同じ流れさ。オレの説明で良くわかっただろ。 >>447
魏志「その南に狗奴国があって女王に属さない、東に海を渡るとまた国があって皆倭人」
↓
後漢書「東に海を渡ると狗奴国があって皆倭種だけど女王に属さない」
こういうことを平気でやっちゃう人たちだから
そういう適当なこともあり得ないとは言えないのがまた 歴史的事実は正確に特定できない
ということと
歴史学をやるとか歴史スレに参加する
ということは
矛盾しない
矛盾しないどころか、それ以外の歴史学への参加の仕方は胡散臭いものと思うが 魏志倭人伝の距離が概ね正確だとすると
九州上陸が博多湾辺りで大分市辺りが邪馬台国になるんだよな
東に1000里で四国の八幡浜辺りまで行けるし 邪馬台国はハワイ説こそネタ的には至高だと思っているが沖縄説とか伊豆説もなかなか捨て難い >>419
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和歌山県和歌山市和歌浦東1丁目1−6
〒510-1312 三重県三重郡菰野町大字竹成2070
24 時間営業 落合陽一「難しいのは文系です。日本の大学、とくに文系には、リサーチができる教員が限られています。理系には尊敬すべき先生が多くいるのですが、文系は数が限られます。文系が悪いと言いたいわけではなく、制度上、そういう人しか教員になれないようになっているのです」
萱野稔人「人文社会の分野における一部の学者たちは、科学的に考えることよりも、どのような理論を採用することが自分たちの政治的な主張にとって有利となるのか、というイデオロギー的な観点からものごとを考えがちです。興味深いのは、そうした学者たちが集まる学会や研究会ほど、同調圧力が強いということです」
↓
またもや捏造するか 国立歴史民俗博物館
https://daishi.at.webry.info/200910/article_34.html
最近の歴博は、もと館長の白石太一郎以降、こういうマスコミ操作に長けた学者が多くなっています。そしてそれは近畿圏の学者にほぼ共通した性行なのです。同志社の森浩一名誉教授などは、こういう傾向を「学者として全く恥ずべき姿勢だ」と非難しています。 次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。
その南、狗奴国有り。男子が王と為る。
その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。
郡より女王国に至る。万二千余里。
狗奴国部を飛ばして文章として読むと
奴国までが女王国の端で
帯方郡から奴国までが1万2千里となる
また陳寿が変な位置に狗奴国について挟みいれてる
奴国の南に狗奴国があるからここに入れちゃえってことなんだろう
複数の文章をまとめてるんだからしょうがない >>447
こういうインチキばかり言うのが九州チョンコ 邪馬台国云々はさておき、応神仁徳の系譜と九州は繋がりが強い
宇佐だけでなく諸県君の伝承と西都原の古墳群をみる限り大和王権と関係が深かったことは確かだろう >>404
その理由は水行だから。
つまり、不弥国→投馬国→邪馬台国へは水行で進むので、直行と考える良い。
途中に瀬戸内海の小島に停泊するかも知れないが、国と呼べるほどの規模がない場所ばかりだから記述に登場しない。
例えば、新幹線で東京から名古屋まで行く場合、新横浜には停車するけど、それ以外は通過するみたいなもの。 邪馬台国は畿内の大和国で学問的には決着がついてるよ (其の5)邪馬台国 佐賀ルート
吉野ヶ里は不彌国だった・・、と言ったが、この不彌国の「彌」には、あまねく広く行き渡るという意味がある。
推定だが、古代この地は、九州島の東西南北交通の十字路として機能していたのであろう。
ではなぜこの地が、北は博多、東は日田・大分、西は佐賀・長崎、南は熊本・鹿児島への十字路たり得たのか、
この問題を解くには、古代のこの地の地誌・地勢を推察し、アタマに入れておかなくてはならない。
現状、筑後平野+佐賀平野は広大で、博多+糸島平野の10倍はある。海岸線が迫っていた古代でも5倍はあったであろう。
しかし、その中央を大河の筑後川が縦断しており、河川とそれに付随する沼沢地で、古代の南北交通は困難を極めた。
日常的に諸衆が渡河往来するには、はるか上流の朝倉ー浮羽ラインまで遡らなくてはならなかった。
事実、景行天皇が南九州から凱旋するときも、八女市からは(平たん路の久留米経由でなく)、
山間の黒木近傍の山街道を通って直接浮羽市へ至っている。
則ち問題は、古代の筑後川下流域において、多大の人員物資をどのようにして渡河させ得たのかということに尽きる。 七千余里、千余里、千余里、千余里、五百里、百里で奴国に到着する
合わせると10600だが「余」が4つある もっと長いということ
帯方郡から奴国まで1万2千里でおかしいことにならない
魏志倭人伝を読んだ昔の中国人も
ここの数の不足をおかしいと思ってない >>198
女王国より以北は、その戸数道里、略載することを得べけれど、
その余の旁国は、遠く離れて詳らかにすることを得べからず。
(で、女王国より以北の国々を略載すると)次に斯馬国、…… 水行1日が1000里だから続けて行くなら投馬国が沖縄本島で邪馬台国は台湾だよ >>466
だから筑後川無理に渡らず佐賀平野抜けて島原から天草熊本と渡ったんやろ 筑後肥前肥後の位置関係みてみいや >>199
そうだな、卑弥呼が倭国を統一したみたいに書かれてるけど、嘘かもしれないね
邪馬臺という字面も何かの勘違いかもね >>460
倭国は北部九州から関東までの領域
距離は北部九州までの距離そこから倭国になる
経路順に倭国の国々が紹介され邪馬台国とそれ以北の国々が登場する
これが終わると
倭国に近接する倭国以外の倭人の地域の紹介になる
言葉は倭地と使い分けている
狗奴国からはじまる
この部分が風俗も含め詳しいのは呉に対するアピールのため 魏志倭人伝には邪馬台国は会稽東治の東にある
つまり沖縄や台湾のあたりと書いている >>444
> 卑弥呼の時代は神功皇后の時代と重なる
全然違うだろ
100年以上違う >>400
「世有亂人而無亂法」・・・これは当時言われていた言葉の引用だから例として相応しくない
注釈は後世に書かれてるから例にはならん。
魏書の本文の「世有」は魏の世を指している。 >>461
インチキではなくて
推論
それまで距離で記載されていたのに
いきなり日数で記載されるようになった意味も
これなら、すっきり解決するだろ
水行、陸行と旅にかかる総日数を書いたものなら
すんなりと理解できる
文章の順番が間違って、本来は
1万2000里、旅にかかる日数は水行十日、陸行一月かかります
そして帯方郡から狗耶韓国までが7000里
狗耶韓国から対馬まで1000里と
旅の詳細を記すところを
なぜか旅の詳細の中に
旅の総日数の文章を入れ込んでしまった
そんなところだと距離が突然日数に変わった理由がすっきりする >>447
学術論文としては確かにそのほうが良くわかる。
ただ、記述違いに見えるけど、陳寿の文章はこういうスタイルであり、それが独特のリズム感を生んでいる。
川端康成的な名文章だよ。 >>463
邪馬台国なら陸行一月あるので海から上陸した地点の話があっても良さげ >>467
対馬国の方400里と一大国の方300里を加えて12000里なんだ。 九州の出土品は邪馬台国のあった3世紀より
もっと古い紀元前とかの出土品が多いから、
先邪馬台国だと考えた方が良いよ >>460
狗奴国の説明っていうより
あくまで邪馬台国の説明として
邪馬台国の隣国は狗奴国っていう国ですよ
っていう説明だと思う 愚かなジャップは権威主義のせいで四半世紀の時間と税金を無駄にした
旧石器捏造事件っていうのがあってだな >>459
そのリンク先に名前が出ている春成は
聖嶽事件で別府大学の教授を自殺に追い込んだ文春に情報を流した極悪人
そして、ゴッドハンド事件で犯人を擁護してたのも歴博の館長
そういう奴らが支持してるのが畿内説
そして、そういう奴らがいまだに上にいるから、下っ端や無関係な学者は畿内説と言っているだけ
その方が無難だからね >>478
帯方郡の郡使は、伊都国で足止めされていたので、そこから先は伝聞に過ぎない。
つまり、旅程は聞き出せても詳しい習俗などは記録できなかったのだろう。 邪馬台国は帯方から南1万2千里と書いてある通り
中国は邪馬台国をかなり南にある国と思っていた
帯方より1万2千里は朝鮮半島からオーストラリアくらいまでの距離
また邪馬台国の位置は会稽東治の東とも書いてあって
これは現在の位置に直すと福建省福州市の東で沖縄や台湾のあたり
魏志倭人伝に邪馬台国の正確な位置は書かれていない >>476
投馬国が間に入らなかったらそれで納得できるんだけどなぁ >>485
韓国から対馬までの距離が1000里だからそれで計算しなさい >>478
7000里に水行20日掛かり
4400里に水行10日掛かり
600里に陸行1日掛かる
距離と、その距離を行くにのに掛かる時間を説明してるだけだな
陸行一月は末盧国に上陸して奴国までに掛かる時間だから陸行一日の誤記なんだ。 >>483
結局ゴッドハンド一人に責任おっ被せて後ろ楯だった連中はなんのお咎めもなく学会の中枢に居座り続けたんよな >>486
おそらく陳寿は
自分で文章をつくったのではなくて
参考文献を書き写していたんだろう?
だから間違った順番で一行の文章まるまる
書き写したことに気づかなかった >>468
>(で、女王国より以北の国々を略載すると)次に斯馬国、……
こういう具合にしか読めないのか、情けない。
其の余の傍国は遠絶にして詳細はつまびらかにできず、と書かれているだろ。
つまり、その所在地も、(女王国からの)東西南北もわからんかったので、せめて国名だけ列記しておきます・・。こういうことだ。
だから、傍国が女王国の北だけにあったとは限らぬ。 >>473
よくそういう言い方で勘違いをしている人が多いが
魏志倭人伝に書かれているのは倭人について
倭国と周辺の地域(倭地) >>488
魏の1里は430mくらいだから
それで計算したなら? >>493
魏志倭人伝が邪馬台国は沖縄や台湾あたりと勘違いしてたんだろ >>495
430×1000
簡単だろ?
430Kmになるってこと
だから一里430mなんてあり得ない >>248
現実の木の年輪をいろいろ見てみたが
どの方角の部分を使うかによって、何とでも判定できてしまうなと思った
それこそAIでも使って、全方位満遍なく計測した上で何年の確率何パーセント、といったグラフとして示されなきゃ誰も納得できないだろうと思う >>490
そう
そしてゴッドハンドの事件が明るみになる前から疑問を持っていた人たちに対しては
ゴッドハンドは正しいと、はっきりと擁護もしていた
それが、明るみに出たとたんゴッドハンドの事などかなったように振舞っている
その程度の奴らなんだよ >>499
いや、それ何で分かるの?
どこの文献? >>497
そう
魏志倭人伝にはあり得ない距離が書いてある
帯方より1万2千里はオーストラリアとかパプアニューギニアあたりになる >>489
こいつは、毎度毎度古田説を装って出没するおとこで、安の会の九州説の混乱を画策しているだけ。 >>499
でもさ
昨日の夜に
畿内説の人が
神武天皇は卑弥呼の後の時代だと
力説していたんですよwwww
天皇の始祖が卑弥呼の後の時代なのに
15代16代の天皇が卑弥呼と同時代と言い出す
畿内説論者
都合がいいように記紀に書かれている年代は信用できないといい
都合がいいように記紀に書かれている年代は正しいと力説する
これがご都合主義の畿内論者なんだよなwwww >>251
一番外側の、樹皮近くまでついてるやつを試料に使うんだよ
あくまでも、その研究者がまともであればの話だけど >>459
考古学者の大多数が畿内説=同調圧力
いやはや酷い有様だね >>502
もう里の話はうんざりよ
短里とか長里とか公孫里とか言う必要もなく
同じ文章の中で出てくる数値を使って計算すれば
明確に「ここでは1里どのくらいの距離」ってわかるのに
何でそれを利用しないんだよっていう話 >>502
だから一里430mではなくて
当時、公孫氏が使っていた公孫里で書かれていたんだよ
公孫里だと1里75mで丁度距離が合うんだよ >>502
こいつも、毎度毎度出没するおとこで、430mで九州説の混乱を画策しているだけ。 >>393
計算して推測したんだよ
末盧国から伊都国が500里
伊都国から奴国が100里
奴国から不弥国が100里
平均が700/3里
傍国21か国を巡って700/3×21里=4900里
これに奴国から不弥国までの100里を加えて5000里
奴国から奴国まで倭地を一周5000里なんだ。 >>506
なにしろ、気に入らない人物ならマスコミに嘘情報を流して自殺に追い込む奴らですから 不弥から先は魏の思惑だよ。
不弥までは訪れているけど、そこから先は倭国は大きく呉の近くにあると
魏の皇帝(曹丕かな)に報告すれば士気があがる
結局不弥(北九州)から南下して台湾の東の海上にある架空の地 >>496
実際に自分で読んでみなさい
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
倭人と書いてあるでしょう
倭人は倭国とその周辺(倭地)に住んでいる
南方の風俗に触れているのは倭国の南の倭地の部分
呉への圧力のために南方風が強調されている >>510
なるほど距離感としてはおおむねあってそうだな >>268
こんなのも見つけた
設楽博己「黥面土偶から黥面絵画へ」 12000=タイホウ郡〜クヤン韓国で7000
残り5000で倭地を巡った >>507
例えば現代で50mのところを間違って100mと書いてある地図があったとして
それで普通の半分の短メートルが使われていたとする?
そういう事だ >>444
神功皇后の事績は卑弥呼だけでなくトヨなど斎王の方が重視されていた時代をまとめてるようにも読める
とはいえ魏志倭人伝と一緒であくまで参考文献だから推測の域を出ないが >>489
狗邪韓国と伊都国にだけ至ではなく到が使われているのは
狗邪韓国が投馬国に、伊都国が邪馬壹国に対応している事の目印なんだ
到は人が到る場合にしか使われない、至は物でも時間でも何にでも使われる >>274
「奴国」は、その頭の字が原資料で読めなくて、「〓奴国」だったんじゃないかと妄想してみる >>508
帯方の公孫氏は漢の役人だったので
使ったとするなら漢里
魏里とほぼ同じで1里430mくらい >>514
陳寿は良く考えて魏志倭人伝を書いてると思うね
読みての側が馬鹿過ぎて内容を理解していない人が多い。 >>517
だから短メートルうんぬんじゃねえって言ってるだろ
韓国から対馬の距離で1000里って書いてるんだから
それ使って計算しろやっつってんだよ >>405
そんな所に130mもある円墳がなんて見つかってた?
なに古墳? >>513
魏略には呉を思わせる記述がいくつかあるが
魏志ではその記述が丁寧に削り落とされてる
参考にされた元資料には呉への圧力なんて意識はなかったかもしれない
陳寿がどういう意図で呉関連の記述を削ったのかは定かではない >>509
中国では魏の時代に使われていた正始弩尺という1尺24cmのモノサシが見つかっている
魏で使われていた尺度は1里=300歩で1歩=6尺なので
それに当てはめると魏の1里は約430mだったと判明している >>521
帯方の公孫氏は漢の役人だったが後に独立して、その為に魏に撃たれたんだよ
独立時に独自の里を創って情報を隠匿しようとしたんだろうな。 九州説の説明は投馬国五万戸が苦しいな
あとは倭国全体的な戸数問題か
まあ戸数は誇張、たくさんの人が住んでそうくらいで、
本当に五万とか七万とかに意味は無いという整理でいいかも知れない >>523
韓国から対馬
対馬から壱岐
全く距離違うのに
同じ1000里って書いてるのが重要
海上で距離を測るのは困難だったから、
単純に1日で渡れる距離を1000里としただけなんじゃないか?
渡一海千余里
で一つの言葉になってるんじゃないかと思う
とても長い距離があるという程度の認識でいいと思うわ 不弥国から先の適当で無理やり感をもっと考えるべき。
邪馬台国が畿内ならその周辺の地名がもっと出てくる 会計統治の東って書いてるだろうにw
メートル関係なくw (其の6) 邪馬台国 佐賀ルート
では、肝心の筑後川を日常的にどうやって渡れたのか、あるいは物資を渡せたのかという大きな疑問が残る。
が、意外な方法で渡れたからこそ、当時の吉野ヶ里(不彌国)が大きな政治力を発揮できていたのであろう。
有明海に注ぐ筑後川は結構な水量であり、通常、それを横切って南岸の城島へ渡るのは簡単ではない。その逆もしかりである。
しかし筑後川のこのあたりには、世界的にもまれな特殊自然現象があった。
それは有明海の大きな干満差(現在約6m)の余波・余禄である。
つまり有明海の大干満差によって、1日2回の満ち潮どきには筑後川に遡上流が生じ、
その影響は河口から16q上流まで及ぶという。
この結果、吉野ヶ里町の南の筑後川べりにある神崎市千代田町迎島〜三養基郡みやき町三根地区辺りは、
当然ながらこの大きな恩恵を受け、満ち潮に乗って対岸の城島へ渡るのはたやすい。その逆コースもしかりである。
船であれば申し分ないが、丸竹をつなぎ合わせた筏に櫓櫂を取り付けた程度でも大量輸送に十分役立ったであろう。
かくして吉野ヶ里(不彌国)は、筑前筑後、肥前肥後、豊前豊後、日向薩摩大隅への十字路に君臨できたのであろう。
(なお、鉄橋により筑後川を30秒で渡れる現在では、この十字路は東へ移り、高速道路の巨大鳥栖ジャンクションとして威容を誇っている) >>524
行ってみれば分かるよ
土饅頭だし
古墳だというのは有名な話
そして、大雑把にグーグルマップで計測すると150mくらい
1000年以上たってるから全体的に歪んでくるだろうし、妥当だと考えられる >>513
三国志のみならず
漢時代に書かれた地理書の淮南子に魏志倭人伝の謎を解く鍵がある
そこには世界の果ては漢の国境より1万2千里と書いてある
魏志倭人伝に出てくる帯方より南1万2千里はこれを援用して邪馬台国までの距離に当てはめたもの
つまり魏志倭人伝は淮南子に書かれている世界の果てまでの距離を引いて
邪馬台国は世界の果てにあるような遠い国であるという事を主張しているということ
これはもちろん現実的な距離ではない >>522
馬鹿と言うかウソつきな
まあ同じだけど >>533
なんで?
あのあたりが一番くさいよ
吉野ケ里は紀元前3世紀から栄えていた大規模集落
もっとも条件がそろっている >>518
複数の人物の逸話をまとめているかもしれませんね
神功皇后は半分神話としても
卑弥呼は歴史上実在した人物
とかくファンタジーの世界のパラレルワールドの存在のように語る人もいますが(^^; >>527
公孫氏はもと漢の役人
使っていたのなら魏の里とほぼ同じの漢里 >>533
違うね
邪馬台国は移動している
吉野ヶ里は代々の王の墓があり移動してない >>539
数学苦手だっただろ?w
なぞなら代数使って計算して答えだしただろ
その考え方をしてみろや、って意味だろ 宇佐をもっと発掘すれば渡来系氏族のことが色々とわかるからおもしろいと思うんだけどな >>526
魏王朝は魏の度量衡、
此れとは別の公孫王朝の東夷は公孫東夷の度量衡、それで何の不都合もない。
中華と東夷をごっちゃにするな、中華ラーメンと讃岐うどんは違う 邪馬台国は当時日本列島にあったいくつかの国々の総合的なイメージでしょ
その中の目立ったエピソードをまとめただけ >>529
まぁ結局2日かかるなら2000里ってなるわけだからなぁ
で水行20日ってなるともう東北くらいになっちゃうよなぁ >>544
そっちは歴史苦手だったの?
邪馬台国は畿内説が有力と教科書にも書いてあるのに >>528
七万は北部九州地域全体の戸数だな
奴国だけで二万、一大国が三千、末盧国も四千
書かれてない北部九州の国まで足せば直ぐに七万くらいにはなるな。 >>546
帯方の公孫氏はもと漢の役人だったので
使っていたなら魏とほぼ同じの漢の度量衡
そもそも魏志倭人伝に書いてある距離は現実のものではなくて架空のもの >>547
国々じゃない
中華移民だってはっきり書いてあるんだから、地元民は関係ない >>549
有力=真実ではないだろ?
お前は国語も苦手か?w >>548
渡海と水行で意味が違うという話もあるしなぁ 隋書を読むと
日本では距離を「〜日」って言ってたから
それを使者が「〜里」に直して記述したんだろう
そこで投馬と邪馬台国の距離は直すのを断念するような理由があったと考えるのが自然かな >>542
漢の役人の時までは漢の里を使用していただろうが
独立したから自分で新たに制定したんだよ。 >>552
本国がそんなところを把握しているとは思えないよ
何となく聞きかじったものを作話の才能のあるものがまとめただけ
要するに実体は何もない >>550
だれが数えたんだろ?
7万戸だと1戸4人と仮定しても28万人を把握できるもんなんか
今の盛岡市レベル >>556
そもそも魏志倭人伝に書いてある距離が架空のもの
なので公孫氏が独自の里を使っていたとしても魏志倭人伝には使われていなという事だ 魏志倭人伝は倭人について書かれている
書き出しは倭人
そこへの旅程
邪馬台国は一度しか触れられていない→女王の都するところ
狗奴国があるのは女王国(倭国)の南
倭人は倭国とその領域外の周辺(倭地)に居住している >>557
そこまでいうなら日本である必要すらなくなるw >>547
それもどこまであてになるかわからんぞ
漢書地理誌から適当に持ってきただけかもしらん 投馬あたりから先は急に情報が不確かになったって考えてもよさそうだなぁ
戸数も信用できないかもね >>544
現代に「東京から大阪まで1万km」って文章があったら短kmという単位を使って測量したと解釈するの?
普通は「間違った距離が書いてある」と解釈するけど
九州説の思考回路はよくわからない そもそも魏志倭人伝の国と国の間の距離は
百里と五百里と千里しか使われていない
これで正確な距離を表せるかな >>551
まーだゴネてるな
高貴で由緒正しき中華の魏王朝と、鮮民の集まりの東夷では天と地以上に身分が違ったのだ。
中華王朝からすれば、公孫氏も鮮民の仲間扱いなのよ。 >>550
魏志倭人伝をざっと読んでみて
邪馬臺国が七万戸だよ
北九州が七万戸なんて一言も書いてない >>534
それだったら>>377で言うところの、1の今後見つかるじゃん?
ってか掘ればいいやん >>563
都するところ
1.すべて、みな。
都合、都度
2.取り纏める、統率する。
都統、都督
動詞とすると
都するところ・・・取り纏めるところ、統率するところ >>568
その例えは馬鹿すぎるな
例えるなら
アリババでドローンを買おうとして
商品の値段を見たら
¥1000だった
こんな安いのか?とそのまんま¥が円だと思ってしまうのが
畿内説論者の馬鹿で
¥ってもしかしたら元のことじゃね?
とヤフーで元のレートを調べて計算するのが
九州論者 >>540
魏志倭人伝の書かれた頃、吉野ヶ里は既に遺跡 >>305
逆に、鬼怒川の「きぬ」の方が 「毛の」川の古い発音で、
其の内、意味が失われて音だけ地元に伝わって、
一方で、都で産まれるナウい発音が吾妻国にまで広がって、
今日の毛の川(けの川)という音になったんだろうな。
そういや、よく知らないけど、東北弁なら毛の川の発音は、
「きぬがわ」に近いかもしれんな。ちょっと母音の響きが
関東以南とは違うと思う。古い母音が残ってるはずだ。
いや、東北弁よく知らないんで妄想に過ぎぬが >< >>572
邪馬壹国は北部九州地域全体の事を指している
女王国は伊都国、奴国の事
北部九州地域の連合国が邪馬壹国だな。 >>568
現代世界でも、qで計るところもあるが、そればかりではない。
ヤードポンド法で計る国々もあるし、海になれば海里だ。
世界の度量衡は多種多様だ、まして古代となればなおさらなのだ。・・世間知らずの学者の屁理屈。 >>577
意味不明に思えるほど
お前の知能が低いってことだよ
言っているのは
見た目同じ単位だけど
実は単位が違うという意味だ >>579
なーんだ、そんなことも知らんのか。お笑い、大笑いだね。 >>581
邪馬台国には官と副の名前まで魏志倭人伝で挙げられてるんだから、個別の都市としての認識だったと思うよ >>573
おれは宇佐神宮が卑弥呼の墓とは言ってない
可能性の一つだ
今発見されてる古墳のすべてが、当時のままで改編されてないという確証もない
どこかの時代で小さくなったり、被葬者を変えたりした可能性もないわけではないしね 魏志倭人伝に書いている邪馬台国までの距離帯方より1万2千里は
淮南子という神仙思想的な地理書に出てくる世界の果てまでを示す距離
現実的な場所を示しているものではない >>569
魏志以外の三国志全般にそういう書き方が
あるから正確というより大よそだろー。 >>576
邪馬壹国は女王の全てのところ
邪馬壹国は女王の統率するところ >>584
そりゃ埋没遺跡の上に建物建ってもおかしくない >>569
1里80mくらいで
日本国内は非常に狭い範囲の話しかしてないね。 >>6
国ごとの位置関係は、たぶんこの感じなんだろうと思うが、
>>273 の言うように、邪馬台国の領域はもう少し広いと思う。
あと、伊都国の記述に疑問が残る。
伊都国が糸島半島にあって玄界灘に面しているなら、末盧国に上陸して陸路で行く必要がない。
それに、対立している奴国(福岡市?)のすぐ近くに、
邪馬台国の最重要拠点が、比較的小さな規模で孤立して存在していたとは考えにくい。
伊都国は佐賀平野の、たとえば吉野ケ里あたりにあったのではないか。
あるいは、別の国を糸島半島にあった伊都国と書き間違えたのではないだろうか。 >>583
ほんじゃあ例えるなら九州説は
100円のお菓子が1万円と書いてあるのを見て
これは100円が1円の短円が使われているに違いないというという事だな
畿内説は普通に書き間違いだろと思うとこだけど >>587
墓と祟りを鎮める施設は違うからな
宇佐八で中央に置かれてる祭神扱いされてる姫大神は得体はしれないのに出雲大社と並ぶ格だし >>592
魏の1里は約430m
魏志倭人伝には邪馬台国の位置は会稽東治の東つまり
沖縄や台湾のあたりと書いてある >>581
奴国二万戸、投馬国五万戸、邪馬臺国七万戸と書いてあるよ
女王国七万戸?北九州が七万戸?
はて? >>597
魏略には太白の後、夏后少康の子と呉越のエピソードが書かれている
呉越の会計東治の東であれば九州あたり >>589
現実の地図で当てはめると
末盧国への上陸場所は呼子付近となり
そこから500里で伊都GC付近(この先が伊都国)
更に100里で糸島峠(この先が奴国)
更に100里で小笠木峠(この先が不弥国)
となり略当てはまる。 >>598
帯方郡からの12000里の場所は伊都国と奴国の境だから
女王国は伊都国と奴国のこと
女王国以北とは伊都国と奴国より北の意味 九州南方系顔の天皇が何で奈良にいるんだと思う
神武東征しかないんだよな、勿論その前に九州平定
卑弥呼を捕虜として箸墓に葬った >>594
だから物分かりの悪い奴だな
現代の日本国内で例えても意味不明になるだろ
例えるなら
中国の元と日本の円が
同じ通貨マークである¥を使っているってことを利用しろや
無能 >>587
もちろんその通りだと思う。
つまり今現時点で、卑弥呼の墓なんて日本全国どこからも発見されてないと言う>>284で書いた通りだと思う >>599
会稽東治の東は福建省福州市の東なので沖縄や台湾のあたり
会稽東治がかなり南の国だった事は
後漢書にも会稽東治は中国最南部の朱崖タン耳郡とお互いに近いと書いてある事からもはっきりしている >>597
沖縄、台湾とは、書いていないよ。具体的な数字もない。単に東しかない。大雑把で北東でも南東でもいいんだよ。
現代並の世界観があったわけでもない。 >>607
朱崖タン耳の話はおそらく、漢書地理誌からもってきてるエピソードだと思うわ
陳寿がなぜ魏略その他にあるような呉のエピソードを削り落として南越の記述を盛り込んだのかは知らない >>561
邪馬壹国の7万戸も推計だよ
対馬国1000、一大国3000、末盧国4000、伊都国1000、不弥国1000
平均2000
戸数不明の傍国20か国を同じく2000として40000
40000に対馬国1000、一大国3000、末盧国4000、伊都国1000、不弥国1000を加え50000
奴国を入れて70000 >>604
同じ円を使っているが?
九州説のいう短里は百円のお菓子が1万円と書いてあるのを見て
これは百円が1円の短円が使われていると言い張るようなもの
ちなみにそんなものはある証拠がどこにもありません
短里と同じく >>608
会稽東治とは会稽群東治県のこと
現在の福建省福州市でその東は沖縄や台湾のあたり >>605
邪馬壹國 女王之所都
邪馬壹國は女王の取り纏める所
都
意義
1.すべて、みな。
都合、都度
2.取り纏める、統率する。
都統、都督
3.みやこ。
都会、都市
4.みやび。
洗練した。 >>604
1冊のカタログの中で1ページだけ短円使っているっていうようなもんだろ
ありえんよw 結局位置の記述なんて盛りまくりやから遺跡のブツで検証するしかないんや
ゴッドハンドみたいなんを排したオープンかつ科学的なアプローチでな お前ら、倭国=女王国 と捉えちゃいかんぞ。間違うぞ。
倭国の定義は不明確に使われてる。
あたかも倭国=女王国のように見える記述もあるが、そこは
女王国が倭に於ける唯一の朝貢国だから、倭を代表しているの
だから(あちらの論理だとそうなる。逆にそれを利用している)、
魏が女王国に遣いするのを、倭国に遣いす(使倭國)と言って
いるわけで、そういう具合。
そこを倭国=女王国と限定して読んでしまうと、列島内の状況
を読み間違う。教科書の様な間違いが起きる。 >>609
邪馬台国はかなり南にある国と思われてたんだよ
恐らくは奴国が朝貢した漢の時代から国境より南1万2千里つまり当時の世界観で
世界の果てにある国という風に位置づけられていた 漢書地理志粤地(越地)から適当に抜粋
>帝少康之庶子云封於会稽文身斷髪避?蛟龍之害
>武帝元封元年略為?耳珠轟S 民皆服布如單被穿中央為貫頭
>男子耕農種禾稻紵麻 女子桑蠶織績 亡馬與虎 民有五畜 山多麈?
>兵則矛盾刀木弓弩竹矢或骨鏃 >>571
ムツゴロウだっけか泥船に腹ばいになって捕まえてたな >>237
当時の使者は超のんびり移動してたように言われてるな
帯方郡から邪馬台国まで1万2千余里
帯方郡から不弥国まで1万7百余里
その差の1300里くらいを
水行30日+陸行1月=約60日かけてるから
1日20里くらいしか動いてない
三国志当時の1里は400mくらいとされてるから
1日8kmの移動
当時的にもゆっくりした移動 古代の航行速度 3〜5ノット(5〜9km)
沿岸航行で日がある間だけ航行する 10時間
1日に進める距離 50〜90km
これが海千里だね >>617
いやそれにしても呉がらみのエピソードをわざわざ丁寧にそぎ落とす理由にしては変じゃね?
元資料にあったのなら魏略他がそうしてるようにそのまま書けばよかったのに 位置の記述とか人数の記述なんて盛りまくりやろ 東の野蛮人の話書いとるだけなんやから ざっくりした目安にしかならん >>622
呉は邪馬台国と関係なかったからなんじゃないかな >>611
里は時代によって違う。
目測が使えない長い距離を測るには、当時 どう言う方法で何を元に計測していたの? >>615
それな
魏志倭人伝の文面だけではアテにならない。
卑弥呼の金印か、難升米と牛利の銀印か、3つのうちのどれかを探し出すしかない。 >>612
いやそれまでの文章の流れとして呉(蘇州)の話をしてるのに何故いきなりそっちに飛ぶのよw >>626
魏志倭人伝はあれはたぶん計算してないな
倭国の都は国境より南1万2千里という伝承をもとに
地図上でそれっぽく距離を当てはめて書いたんだろう >>246
それが三国志だと川を渡る場合でも
渡水、渡江、渡河など「渡」を使うんだな
関門海峡を「川」と認識していても
「渡」を使わないのはおかしいことになる
>>300
瀬戸内海を「川」と認識していれば
瀬戸内海沿いに移動するのを「水行」としたのかもしれないけど
どっちにしろ女王国の東の「渡海」した先の説明がつかないぞ >>628
呉の話をしているというのは勘違いなんじゃね 前スレの
>海東諸国皆倭に付庸す
>これも畿内節が無視する一文だよね。
>畿内説の学者ってほんとに学者なん?
何だかんだでこれが一番説得力あったわw
軍事力で狗奴国におされていた邪馬台国が
海東従属国に国譲りを迫り、天下りはしたものの
その後を追っかけてきた神武狗奴国に成敗されたんやろw >>592
当時の人は現代人より2倍近く早く歩くと思う
身長150-160cmたろ >>612
だから、書いてないよ。
現代人の地理観で考えているのが問題。
できるだけ古い世界観の地図で見るしかない >>629
悪口しか出なくなったのは負けの証拠やでえ? >>624
太伯の後と自称してるなら関係なくないじゃん
ていうか、ここ太夫と自称してると書き換えて消してるよね >>635
邪馬台国の頃にあのあたりの地図はないよ >>630
魏志以外の三国志全般では、どうだろう? >>637
たぶんあとで書き間違いだったと判明して消したんだろ >>639
都の洛陽から近い場所は当たり前だけど正確らしいな
国と国の距離も1里400mくらいで書かれててだいたい正しいらしい
都から遠くへ離れれば離れるほど距離が過大になる傾向があるらしい >>642
会稽東治の東と書いてある
これは現代に直すと沖縄や台湾のあたり >>441
それならむしろ徳島説が有力では?
東に海を超えると近畿だし
卑弥呼の娘はイヨで愛媛は伊予だし あの記述の距離と方位で大真面目に場所を論じてる方がおかしい(頭が) >>616
女王国は帯方郡からの12000里の場所
倭国はもっと広い面的な広がりを持つね >>636
お前って
自分が勝っていると思っているんだ?w
すげーな
馬鹿って油断も隙も無いな
どんな時でも勝利宣言wwww
恐ろしすぎるwwww 邪馬台国はたったの30国しかなく
その行程は戸数道里が記載できて
詳細不明国が21国あるとはっきり記載されている
つまり、南至投馬国水行二十日と至邪馬壱国 女王之所都 水行十日陸行一月
これだけ長い道程を、東行至不弥国百里の続きと読めるはずがなく
矛盾なく解釈するには、日程記載が帯方郡からとする以外にない。
これを無理やり畿内説にするには、北部九州地区支配国が7国程度しかなく
畿内までの間、支配国はなく、海を渡って支配していることになるが、そんなことができるはずもない。 邪馬台国は九州説と近畿説で争っているが
九州説にしても福岡だ佐賀だ大分だ宮崎だと争ってるんだろうか >>631
「渡」は陸地が繋がってない場合だね
「水行」は「陸行」も出来るけど海上を行きました >>644
なんで現代に直すの?
当時の世界観は、考えないんだな。 邪馬台国は、九州北部地帯にあって、狗奴国の北にあった女王一族の系統の分家の王朝が
近畿の纏向にもあった
つまり、九州と奈良の両方に存在したわけだよ。
だから、千余里で距離を記述した部分と、水行10日陸行1カ月って日月で表現の
2通りが有って当然なんだよ。
邪馬台国の本家は台与が統治してたけど、分家の纏向王朝のほうが前方後円墳を
初めて作った直後から、全国に同様な前方後円墳が拡がっていってるから
分家のほうが発展しちゃって、本家を逆に支配下に置いてヤマト朝廷になった 古代の中国の記録に、邪靡堆には阿蘇山がある、という記述があると聞いたぞ
固有名詞やんけ いやあ
人が銀座に行けば
「都会にあこがれる田舎者」とか
人が退職金が入って浮かれポンチになって欲に目がくらんだ
爺さんに対して批判をすれば
「農協いじめ」
とかわめいているゴミツハシや浜なんとかwみたいな
落ち目で自民からもマスゴミからも相手にされなくなった
貧乏人の爺さんかネトウヨ相手のご商売に縮小しているから
うざいうざい
実際爺なんぞ投資をしても効果が出るころには死んでいるのが実情だ >>653
やってるよ
福岡なんかもっとややこしくて、博多だ糸島だ、太宰府、久留米、八女だって色々カオス >>656
というか帯方郡から船出して
測量して書いたはずの
魏志倭人伝の表記すら
これほど議論になるほどなのに
直接船出したわけじゃない会稽東治から
倭国の位置なんて、そんなに正確に記述できるわけがないw >>650
里数と日数の行程を続けて読むから訳が分からなくなるんだよな
間違った読み方をして魏志倭人伝は不正確だと言ってる。 水行1日=1000里=80km程度は体力的に無理が有るだろうと思うかもしれないが
日本の戦中派の漁師なんかでも背は低いが筋肉質で驚くほど体力あったんだよね
現在の日本人の倍の体力あったと考えていい
古代も同様に体力あったと思うよ >>660
九州説でも里数と日数の行程を続けて読んでる人が未だいるからね
畿内説の誤った読み方に引きずられてる人がいる。 >>646
大事な貢ぎ、贈物を運ぶのに
大雑把すぎ。他に細かい経路
記した物があったんだろう。
細かく書くと国防上の問題があり
あの書き方になったんじゃないの? >>596
>出雲大社と並ぶ格、なら
出雲大社(大国主)
三輪山?(大物主)、とすると
宇佐神宮はアマテラス(卑弥呼)
神話じゃ同時代、三輪山にも大きな神社あるのかね知らんけど >>665
何が本当のことかなんて、誰にもわかってないからねえ
なので、さっさと金印か銀印を探し出さなきゃ埒が明かない >>668
あっても移動できるもんだから可能性はあっても
証明にはならない。 >>661
夏后少康のくだりからの伝統を受け継ぐ種族である事の強調として会稽を使っているので、地理的な正確さは二の次だと思う
彼らが呉から渡ってきた人たちだという事に説得力を持たせるために書いてる >>668
金印などの直接証拠はないけれど
帯方郡との交流でもっとも重要なのは
鉄の輸入であって、ほぼそれだけのために
朝貢しているといっても過言ではない倭国の立場を考えれば
鉄の輸入するのに不利な畿内なんてところに
立地している国が倭国を代表しているなんて考えづらい
状況証拠からは容疑者は北九州にいた!って感じだな まあ当時の大陸側の倭人の居住域が会稽から東冶の沿岸沿いにあったのではと推測
一、畿内説は消滅した。学説としてまるで成り立ってない。
二、卑弥呼の鏡が日田で出土している。
三、>>668みたいなウソつきの猿が「ここは誰?私はどこ?」やってるだけ。九州で結論出てる。
具体的に言うと御井。
こういうこと。
>>669
まぁそれはそうなんだけど、そこに印が移動した経緯を調べることはできるようになるんじゃない?
>>671
鉄は朝貢の土産ではないよ。
魏志韓伝では辰韓の許可を取って鉄鉱石を採掘し、鉄鉱石を金の代わりに使ってるとある。
恐らくそこで鉄製品と交換してたんだろう。
日本で製鉄して加工してたわけでもないよ。 >>678
いや朝貢していないと
貿易もできないでしょ?
ってこと 2世紀初めに九州北部一帯に邪馬台国があって、その南に名前だけ記載された21カ国があって
九州の邪馬台国の出土品のほうが、魏志倭人伝での記述にピッタリ合致するが
纏向王朝のほうの出土品は、年代が倭人伝での記述より遡って まったく一致しない。
ただ、水行10日陸行1月で南から来たって記述によって
近畿 纏向にも邪馬台国の分家が有ったってことだろ。
魏に朝貢するのに、本家と南部諸州の豪族連合だけで朝貢したんじゃあ
纏向の分家邪馬台国のほうは魏に認められない存在になってしまうんで
当然、一緒に魏に朝貢にいくだろ。
魏の役人に、どっから来たって質問されて
本家も分家も邪馬台国で、魏の南からきましたって解答するわなあ
だから何里で表記する本家と、水行1日陸行1月っていう2つの表記があるわけだよ >>675,676
俺は邪馬台国は畿内ではないとは思ってるけど、畿内を完全否定するだけの物証は九州説にもないことも理解してる。
日田の鏡は鉄鏡
卑弥呼がもらったのは銅鏡100枚って、しっかり魏志倭人伝に書いてる。 >>678
問題は、権力の移動があるとさらに難しい。
物も移動する。古墳自体の製作期、埋蔵物に
金印より新しい物があるとかとか、慎重に調べるしかない。 >>653
そもそも九州説というのがおかしい
それぞれ言ってることは違うんだから
こないだスレが立ってた別府説は上陸地点からまったく違う、相容れない説
八女説、宇佐説、島原説、畿内説、赤村説・・・と同列に並べるべき どっちの説も消滅したと言うから、なんなの?と感じてしまう。 >>678
貴重な資源を採掘するのに、あらゆる権利と争いが勃発するなかで
大国から、位が高い国と認定を受けることで、鉄を安定して得ることができるそんな時代です。 >>687
畿内説だけが消滅した
卑弥呼の鏡が出土した九州が消えるわけが無いだろウソつき野郎 >>651
それより古事記以前の日本の史書が失われたのが痛い >>684
そうだね
勿論慎重に調べる必要はあるだろうけど、仮に金印が出てきたとしたら、発掘のリソースも膨大に投入できるだろうから
今見えてないものが、他にも出てくることに期待かな。
そのくらいでは「国」からは予算はつかないので、金印の見つかった市区町村の教育委員会が発狂するかもね。
金印の出ている志賀島も、結局予算の出どころは福岡市教育委員会。 >>694
金印は出てこない
仮授されたものだから返却されている >>685
それすべてまとめて九州説でいいんじゃね?
畿内説も、今でこそ箸墓だけだけど
以前は三角縁神獣鏡が出るたびに、ここが卑弥呼の墓だとコロコロ場所を変えて言い張ってたんだから >>371
魏志倭人伝で邪馬台国について書かれた記述で判断するんだよ
倭人の風習や倭国の産物について書かれた部分はどこの地域を観察したかも分からない
位置論争で重視するのは、あくまで邪馬台国について書かれた部分 魏志倭人伝に邪馬台国という言葉は一度しか登場しない
新井白石以降歴史ロマンの世界で語られるが
それまでは日本人は実務的にヤマト国と読んでいた
卑弥呼は神功皇后だと思っていた
論争も何もなかった
魏志倭人伝は倭人について書かれている
倭人は倭国とその周辺の領域に居住する人々
狗奴国以南は南方の風俗が描かれている
女王国と言うこともありファンタジーのような魅力があるのかもしれないが
魏志倭人伝を語るなら邪馬台国はどこかよりも倭国がどこかを語るべき >>692
発掘で期待したい。
当時の様子を記した竹簡とか中国文献とかね 近畿パーが如何にウソつき野郎かの一つの証拠だが
実は文献でとっくの昔に九州だと言っている
『隋書』
>倭國、・・・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>倭国は、・・・・・都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
『唐会要』
>倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
>北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
>倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼(ヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の三国がある。いずれも倭に従属している。
>北は大海が限界、西北は百済と近接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相見える。
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致しやすい。 (其の1)邪馬台国 佐賀ルート
東南陸行五百里 到伊都国 伊藤雅文(邪馬台国の会、全国邪馬連事務局)
>一般的に末盧国と比定されている唐津市周辺から見て、伊都国であろうと思われる糸島市は東〜北東の方角になる。
>王墓と考えられる墳丘墓をはじめ考古資料は圧倒的に伊都国=糸島市説を示しているのであるが、
>あくまでも「東南」にこだわり、多久市、小城市(及び佐賀市)方面に伊都国を求める方々も多く、
>この辺りから国々の比定地が大きく異なってくる原因となっている。
新井白石・本居宣長以来、畿内説・九州説を問わず、「伊都国は糸島説」を信仰する学者・知識人達ばかりであったといってよいのではないか。
しかし、上の伊藤氏も述べているように、
近年は「東南陸行500里」を原文通りに読んで、多久市・佐賀市(伊都国)・吉野ケ里(不彌国)経由の邪馬台国ルートを重視する人たちが増えてい >>688
忘れてるかもしれないけど、倭は狗邪韓国を持って朝鮮半島に拠点を持ってる。
魏の外の世界での交易までは、魏が管理するわけもないしね。
まだ冊封体制が確立されてるわけでもないし、冊封体制下でも、対馬は朝鮮と牙布を使って貿易してたり
明とも私貿易はやってたしね。
ガッチガチに管理してたわけではないよ。 九州説って、魏志倭人伝を魏志邪馬台国伝だと勘違いしてるやつがほんとに多い >>702
東や南にしか進んでないのだから畿内のはずはないしな >>701
まいどまいど思う事だが
畿内説九州説どっちでもいいけど
この手の会話の出来ないキチガイだけは消えて欲しい 三輪山には
「ご祭神の大物主大神(おおものぬしのおおかみ)がお山に鎮まるために、古来本殿は
設けずに拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し三輪山を拝するという原初の神祀りの様を伝え
る我が国最古の神社です。」
だったら伊勢神宮ってなんだw どうでもいいが、吉野ヶ里遺跡にいまいる
いい天気ですなあ
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致しやすい。
伊都国が邪馬台国連合国の首都。
魏志倭人伝の水行10日陸行1月は、
邪馬台国の全版図を巡ったときに掛かる日数。
伊都国だけに、佳字が使われているのは
首都に敬意を評して。他の国は、奴とかの婢字。
漢委奴国王の印の読みは、漢の倭の奴の国王ではなく、漢の伊都国王が正しい。
糸島の平原古墳が卑弥呼の墓。
日向峠の朝日が、股間陰部に当たるように埋葬されていた。古事記に出てくる日向は、宮崎県ではなく、日向峠のこと。
平原古墳の副葬品の鏡が全部割られていたのは、
巫女の霊力が衰えていたから。
この辺は、日食惨殺の井沢元彦説と同じ。
糸島が首都であったのは、太陽信仰の宗教的な何かで神聖な場所であったから。
初期の大和政権の首都が、辺鄙な飛鳥であったのと同じ。
邪馬台国連合国の盛都は、博多湾の平野。 >>705
古事記以前は各豪族が各々記録付けてたらしいから、どこかに隠し持ってないかねえ >>656
当時でも会稽東治の東は沖縄とか台湾あたりだったよ
一、近畿説は否定済み 消滅した 学説として成り立っていない
二、九州は文献的にも出土品から言っても最有力 少なくとも九州として深刻な矛盾は一切ない
(具体的には御井)
三、ウソつきの猿が近畿だって言ってるだけ
>>671
畿内説の場合、近畿〜瀬戸内〜北九州の大陸交易路を
確保してる大きな国があったことになる
農耕社会になれば政治的統合が進むとはいえ
2世紀(卑弥呼前の男王の時代)にそこまで進んでいたかは
微妙な感じ
唐会要に邪馬台国は九州だって書いてあるんだぜ
お前ら知らなかったろ?
そのくらい日本の古代史家はウソつき揃いなんだぜ
>>315
>文の頭にくるかそうじゃないかで意味を使い分けてると思うんだよ
>>徑百余歩 文の頭なのでこちらは直径
そんなこと言う中国語の学者は居らんぞwwww
「徑百余歩」の主語は「冢」だ。
卑弥呼の喪主が命令して「大作冢」
となって「冢」が「作」の賓語=目的語にして「徑百余歩」の主語を兼ねている。
こういう場合「冢」という単語を繰り返すのを避ける。
これは漢文や中国語に特有の「兼語式」という構文。
漢文の動詞は日本語のようにゴチャゴチャした活用語尾が無いから斯くの如き構文が可能になる。
中国語会話文の場合はいろいろ制限がある。
詳しくは「兼語式」をググれ。 >>710
その文献の写し間違いもあるかもしれない。
新たな文献もあるかも?
北にある国々が山陰、京都若狭地方にもあるのではないかと?仮説。 >>718
>魏志倭人伝の水行10日陸行1月は、
>邪馬台国の全版図を巡ったときに掛かる日数。
魏志倭人伝の水行10日陸行1月は、水行10日陸行1日の誤記で
狗邪韓国から伊都国までに掛かる日数だよ。 宇佐神宮の下の亀山に埋葬されているのは卑弥呼ではなく宇佐国の領主 その山の上に東征成就祈願のために比売大神を祭神にした神社を建立した 応神天皇と神武皇后は後から祀られている したがって比売大神が卑弥呼となる >>689
可能性は薄いけどゼロと言い切れるのは、他から動きようのない物証が出た時。
九州説にもまだ物証はない。
鉄ってだけなら、それこそ奈良県以外の西日本なら、吉備でも該当するし、熊本以南も該当する。
日本最古の製鉄跡なんて吉備か淡路かって位後の話だしね。 >>723
日本食には神武天皇の東征の事が書いてある
これに史実性があるなら不思議ではないけどね 邪馬台国は、連合国名であって、30余の配下の国はそれぞれの国名を持っている。 そもそも九州にあったなら、中国製銅鏡がもっとたくさん出土しないとおかしい。 >>678
鉄鉱石なんてどこに書いてるんだ?オマエが読んだ解説本か
ソースを出せ、漢文読めない中卒w
>鉄鉱石を採掘し、鉄鉱石を金の代わりに使ってるとある。
鉄鉱石なんてどこに書いてるんだ?オマエが読んだ解説本か
ソースを出せ、漢文読めない中卒w >>728
まあ仮に祀られていたとしても
そこが邪馬台国だったとは限らないけどね
考古学的に見たら3世紀の畿内に魏と国交していた国があった事は確か >>730
東征とは、書かれていない。東に移動したと書いているだけ。軍隊の移動と拡大解釈してはいけない。
飛鳥の地に根付いたとき、我々の先祖は、九州から来たようだ、みたいな伝記。 卑弥呼の没年は246年ごろ
神功皇后は201年から269年
その子の応神天皇は270-312
その子の仁徳天皇は313−399
卑弥呼が没してから仁徳天皇が生まれるまで67年くらい
ヤマト王権と無関係なはずがない 伊勢神宮 天照大御神をお祀りする内宮 墳墓があるわけじゃないんだよな
宇佐神宮 神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。
比売大神様は八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬さ
れてきました。 墳墓があるわけじゃないんだよな >>735
まあ考古学的には
2世紀後半あたりに畿内の文化が一変するような出来事があったようだけど
魏志倭人伝や後漢書には倭国で西暦180年ごろに大乱があったとも書いている >>725
「大作冢」
大は作を修飾しているから大いに作る
「冢を大いに作る」であって「大きな冢を作る」ではない
「徑百余歩」は冢の大きさではなく
その後ろの「徇葬者奴婢百餘人」の場所と冢の位置関係を示している >>729
だから卑弥呼の鏡が出土しただろこのウソつき野郎 >>668
もっとも矛盾の無い読み方がもっとも正しい読み方なんだよ。 >>730
神武天皇が史実であっても東征の時期が問題だな
邪馬壹国の時代よりも後の可能性が高い。 >>743
だね
つか唐会要や旧唐書、新唐書のようなものを伏せて
畿内ですとか
言った時点でアウト
証拠を並べた上で吟味するんでなければダメなのに決まってる
そんなことは議論の余地がない
ただのウソつきの猿が近畿説も糞もない >>745
1里80mとして宇美町まではたどり着けないし方角も違う。 平原古墳の副葬品の鏡、直径46センチは
伊勢神宮の八咫之鏡と同クラス。
鏡を太陽信仰の祭祀としてきた。
そして、平原古墳の鏡は、全部割られていた。
日食で巫女の霊力が衰えたとして、殺されたという井沢元彦説と符合。
八咫之鏡がどういう経路で天皇家の三種の神器になったのか、探りたいところ。 >>732
当時の銅でこさえた日本製銅鏡が近畿中心に後の時代の古墳から無茶苦茶大量に出土しとるからのう
片っ端から暴かれて鋳溶かされてもうたんちゃうか >>741
鏡や金印は、持って移動出来るから、
出土=邪馬台国に決定、ではない。 >>748
それはいずれ詳しく話す
不弥国とは旧糟屋郡のあたり+能古島(淤能碁呂島)のことで、
現在の宇美町は旧糟屋郡の最南端の町
魏志倭人伝に言う不弥国とは実は能古島のこと
なぜかはいずれ話す
>>748
んで、あと短里で一里は約100m
これもなぜかはいずれ話す >>732
だからさ。貴重なもんだから、権力移動の際に
持って行かれ、コピーされ、権力誇示として使ようとか? 少なくとも
出雲、三輪山は男神
宇佐神宮と伊勢は女神 比売大神とアマテラスは同一人、両神社喧嘩しないのかね 海の中道とは宇美の中道のこと
つまりあそこら一帯は全部元々不弥国(宇美国)
そして、海は宇美が語源で、本来は博多湾のこと
既に聖徳太子の居た隋の時代に隋書倭国伝で
都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也古
邪靡堆に都す、則ち魏志のいわゆる邪馬台なる者なり。って書かれてて
魏志倭人伝の邪馬臺は邪靡堆(大和)と同じに書いてあるが
九州から畿内へ変遷したことが書かれてないんだよね 因みにワダツミとは「幡多つ宇美」で元々は四国の宿毛湾のこと >>727
誤記を言い始めたら、どこでも邪馬台国に出来るから。俺は、誤記かもしれない、は一切考えないことにしている。 >>759
その可能性はあるね。
三種の神器の八咫之鏡の入手経緯を探りたいところ。 >>739
東征だろな、で南方顔の神武が平定してきた卑弥呼もつれて
奈良入り >>759
変遷なんかして無いからね
「3世紀末に九州勢力がヤマトを支配下において大和朝廷が出来た」
こういうトンデモにはついていけない >>751
なぜ九州の外からワザワザ九州へ持ち込む?
お前はウソつき野郎だなしかし >>765
そう
別の国
旧唐書、新唐書にあるとおり 邪馬台国は30余国 倭国は100余国から成り立っていると書かれているが100とは数字の100の意味ではなく多くの国だということだろう 邪馬台国は北部九州のことを指し倭国とは九州全域のことを指している 豊予海峡の向こうにはまた倭種の国があると書いている 倭種の国とは現在の愛媛県のことを指している 平原古墳の副葬品の大鏡と、八咫之鏡を付き合わせて、同時比較したい! >>727
お前もおかしい
伊都国から邪馬台国だろアホ >>759
まあ、ハッキリと阿蘇と書いてあるから
二つの勢力がある事がわかる。
邪馬台国消滅し再就職て事かな? 「嫁がいる山田郁夫」展
似てるけど全然関係ありません(-_-) >>762
↑
バカ
じゃあ女王國は女三國なのか?www >>759
九州邪馬台国を乗っ取ったのか、
九州から遷都したのか あと、まだあんまり自信は無いが宿毛湾に龍ケ迫と言う地名がある
あそこが竜宮があった場所じゃないかと思ってるんだが だいたい陳寿にとって遥か北方のしかも海の向こうの野蛮人の国なんて
どうでも良かったんだよな。
なぜ、不弥国の土地である志賀島から金印が出土したのか?
なぜ志賀島のあの位置なのか?
オレが決定的な証拠を発見したからそのうち公表する
誰もが自分で確かめられる証拠だから有無を言わさないものだから
嬉ションするレベルの発見だからね
乞うご期待w
九州に邪馬台国連合国と思われる勢力があった。
同時期の大和巻向にも、同レベルの勢力があった。
両者の関係は、不明。
判っているのはこれぐらい。 邪馬台国って九州だけどヤマト王権とはまた別
日本人底辺を奴隷として中国へ献上してたのが邪馬台国だし >>772
阿蘇山が倭国にあると何で2つの勢力がある事が分かるの? >>762
>魏志倭人伝の水行10日陸行1月は、
>邪馬台国の全版図を巡ったときに掛かる日数。
でもこれじゃ変でしょ >>781
どちらも太陽信仰があった。
アマテラス=卑弥呼説のもと。
平原古墳の副葬品の割られていた大鏡と、八咫之鏡は同じものかどうか、調べたいね。 >>781
>同時期の大和巻向にも、同レベルの勢力があった。
これ妄想でしょ。
あと、まだ公表はしてないが
なぜ素人のオレがこんな日本史を書き換えるような発見が出来るのか
専門家のはずの連中は
一体全体今まで何をやって来たのか?
ここら辺も良く良く見とくが良いね
もの凄く重要な体験のはず
日本の「専門家(?)」が如何に信用出来ない連中か
>>781
隋書、旧唐書等からも
二つの勢力がある事がわかる。 鉄剣文化圏、銅剣文化圏と銅鐸文化圏と3つあるね。銅鐸の祭祀としての役割が不明。滅ぼされた一族の文化だからだろう。 >>501
確か宋書に出てくる「倭の五王」の一人を応神天皇だとする説がある
あと、まだ公表はしてないが
なぜ素人のオレがこんな日本史を書き換えるような発見が出来るのか
専門家のはずの連中は
一体全体今まで何をやって来たのか?
ここら辺も良く良く見とくが良いね
もの凄く重要な体験のはず
日本の「専門家(?)」が如何に信用出来ない連中か
>>787
でも四世紀以降に近畿の勢力が一気に日本を平らげるのは事実やからなぁ ヤマトタケルの伝承はその反映やろ ヤマトタケルが実在したかは別の話として まあその内話すよ
ほぼ内容は固まってる
今最後の仕上げをしてるところ
オレも忙しいんでね
まとまった話しをするのはエネルギーが要るから >>780
それ浦島太郎の両親の墓があるところらしいぞ >>789
400年後くらいの話とごっちゃになってるな しかし、稲荷山鉄剣の倭建命の文字がそうだとすると、2~3世紀に既に、大和政権は、埼玉県まで版図を伸ばしていたことになる。
関東まで、勢力を伸ばしつつ、九州は、放置していたのか?強大な勢力が居たので、手を出せなかったのか? >>796
ヤマトタケルの事績はほぼ全部捏造だな
ヤマトタケルの事績の内史実なのは恐らく兄殺しだけ >>802
エネルギーが居るんだよ
まとまった話しするのは >>796
>でも四世紀以降に近畿の勢力が一気に日本を平らげるのは事実やからなぁ
それは事実だとは確定していない、神話に近い話だよ。 >>801
ヤマトタケルが実在しないとすると、その子供の
仲哀天皇や嫁の神功皇后、孫の応仁天皇やその子供
の仁徳天皇まで実在しないことになる。 >>792
銅鐸は鉄鐸という形で諏訪などに残ってるから完全に滅んだわけでもない >>800
稲荷山鉄剣は推定5世紀の遺物でワカタケル大王(雄略天皇)のことが書いてある
ウィキペディアより >>806
ぶっちゃけた話実在しとんの継体天皇以降だけなんとちゃうんか >>811
ワカタケル大王(雄略天皇)とは確定はしていない
推測、願望だな
読みに無理がある。 みんながさんざん頭を使った難問の答えが
謎なんかなかった
という結末は
名探偵コナンのストーリーのような >>806
ヤマトタケルは実在
記紀の一般的な性質として
人物の捏造はやらない
事績その他はウソつきまくり
ヤマトタケルは実在
そんな人物創作する理由がない
事績はことごとくウソだな
他人からの借り物
兄殺しだけが史実 >>812
記紀の内容は殆ど神話と考えた方がいいぞ
歴史書風に書かれた神話だな。 >>811
記紀には、中国から官位与えられたとか、
貢いだという記録がない。
勝手に天皇の名を当てた? >>816
いや人物は実在してるな
欠史八代とか典型
あんなもの捏造する理由がない >>814
ウソつきの猿が話しを誤魔化してケムに巻こうとしてるだけ
ただ記紀が既にウソつきだから話しがやっかい >>817
荷山鉄剣は地方豪族のワカタケル
若大将くらいの意味じゃないかな
ワカタケルとは読めないとする説もあるけど。 >>819
いるだろうな。
出来事が定かではないがね。
奈良開拓時代の人物かも? 豊前・豊後は訓読みの通り、女王トヨの国。
だから、ヒミコの国もある。
日向(ヒムカ)の国こそ女王ヒムカの国なんだよ。
記紀の通りなんだよ。 >>819
神武から欠史八代は実在してた可能性は高いがそれ以外は捏造だろうな。 >>814
お前唐会要に邪馬台国が九州だって書いてあるの
多分今日まで知らなかっただろ?
それみんなが知恵絞って難問を解こうとして来た状態に見える?
>>824
いや人物は実在してるな
欠史八代とか典型
あんなもの捏造する理由がない >>821
そうかも?なんでも天皇に当てようする
風潮もあるから、疑問に思った。 >>740
「大きな冢を作る」なんて俺は書いてないぞ。
九州馬鹿はしょっちゅうそういう風に捻じ曲げ
曲解してイチャモンつけてくる奴ばかりだなwwwww
「大きな冢を作る」という意味を表わすためには「作大冢」と書くんだ。
「大作冢と「作大冢」の違いが判らないのか、アーン。
高校の漢文からやり直せ!
オマエは漢文の文法を知らないし日本語読解力もないアホやんけー、やんけー、そやんけー
ここでは「大」は副詞で「作」を修飾してるので省略しても文の構造には影響しない。
今の議論の対象ではない。
これが「オマエのイチャモン」と言う理由だわな 卑弥呼がいた女王の都と
トヨがいた女王の都は違うと思うぞ
遷都、当たり前だぞ、この時代 >>814
お前唐会要に邪馬台国が九州だって書いてあるの
多分今日まで知らなかっただろ?
それみんなが知恵絞って難問を解こうとして来た状態に見える?
卑弥呼の時代の博多は播磨など瀬戸内海系の土器だらけ、その傾向は4世紀にかけてますます強まる
奈良の纒向遺跡も東海山陰瀬戸内海系の外来系土器が多数
滋賀の斗西遺跡も瀬戸内海系の土器が多数
瀬戸内海東海連合に近畿は支配され九州北部も瀬戸内海勢力の支配下にあったということ
対狗奴国の前線基地として卑弥呼率いる兵団が纒向遺跡に駐屯、殆ど農業の痕跡がなく駐屯中の兵の労働として巨大土木工事が行われていた
殷の風習や埴輪でも確認できるが、古代は巫女が軍を率いる風習があったんだろう
こうしてヤマト邪馬台は女王がいるところ=都となった
九州北部に一大卒、地方を支配する拠点だ
一大率檢察 諸國畏憚之
伊都国も女王国に従属していたと魏志倭人伝に書いてある
かろうじて独立を保っていた属国みたいなものだろう >>829
そうだな
山門→御井→甘木・朝倉→太宰府
散々動いてるよ邪馬台国は >>814
お前唐会要に邪馬台国が九州だって書いてあるの
多分今日まで知らなかっただろ?
それみんなが知恵絞って難問を解こうとして来た状態に見える?
>>814
お前唐会要に邪馬台国が九州だって書いてあるの
多分今日まで知らなかっただろ?
それみんなが知恵絞って難問を解こうとして来た状態に見える?
>>828
径は直径の意味ではない
冢と徇葬者奴婢百餘人との距離が百余歩なんだ まだやってるのか
畿内に日本各地それぞれ造形の異なる土器や、各地の名産品が集まってたり
宮殿と思われる建物の遺構がある遺跡が存在していて、ほぼそこだと特定されているのに。 >>836
径は差し渡しの意味
百余歩は約30m
祇園山古墳のこと >>814
お前唐会要に邪馬台国が九州だって書いてあるの
多分今日まで知らなかっただろ?
それみんなが知恵絞って難問を解こうとして来た状態に見える?
>>816
記紀は歴史書風に書かれた宗教団体のプロパガンダ用
その証拠に古事記の序文に「本教」という語が出てくる
オマエラ「序文」なんか読んでないから気付かないのだwww ID:qmZluvT/0
本日の九州派役のマッチポンパー >>836
径は差し渡しの意味
百余歩は約30m
祇園山古墳のこと >>814(こっちか猿?)
お前唐会要に邪馬台国が九州だって書いてあるの
多分今日まで知らなかっただろ?
それみんなが知恵絞って難問を解こうとして来た状態に見える?
>>838
径百余歩は張政の報告だろうから魏の歩
約30mではない。 >>845
イミフ
径は差し渡しの意味
百余歩は約30m
祇園山古墳のこと >>847
手品師が突然タネぶち撒けられて
焦ってる感じ >>830
「大いに塚を作る」は「笛太鼓で盛り上げて盛大「に」冢を作る」という意味やんけー >>846
魏の1歩は約1.4m
100歩で約140m
陳寿は径を差し渡しの意味では使用していない >>837
縄文時代は1万年以上あったんだが?
すでに日本の地形カタチも特定して
水路陸路ともに交易ルートもあったんだが?
縄文時代ですら
https://i.imgur.com/C1WGKBn.png >>847
利権というか、もう詐欺だろ。研究費詐欺。
犯罪だよ犯罪! >>850
初めは巨大だったかも?
なんせ長い年月、当時のままて稀じゃないの? >>852
縄文人は、青森で栽培した栗を船で全国に運んでいた。 >>813
そうなんだよね
ワカタケルと読むにはかなりのこじつけがあるみたい
例えるなら、この文字は英語の読み方!この文字はドイツ語の読み方!この文字は…前例がないから適当!みたいな 江戸時代までみんな普通に邪馬台国は九州だと思ってた
そもそもヤマタイという変な読み方は江戸時代のアホ国学者が発端だったっけ
ヤマトと邪馬台は違う!という解釈 畿内土着のナガスネヒコは渡来人やろな
自分の妹を海人下ってきたニギハヤヒに差し出し忠誠誓ってたのに、ぶっ殺されて可哀そうなやつ >>305
きぬがわは多分「毛野川」
「毛野の国」のヌであって「毛の国」のノではない 天皇家もそうだが、普通は姓があるよな。屋号みたいなのでもいいし、所属を表すセカンドネームがあったと思う。
卑弥呼ってのはどう考えても姓名ではないから、もし姓が古代にもあるなら、卑弥呼は職名だったのかもしれない。
ヤマトタケルなんかはおそらく姓名だな。天皇家は姓がヤマトだったんじゃないか? だいたい邪馬台国って100国あった倭国の30国しか加盟してない中規模連合体でしょ
近畿から九州までおさめてる大勢力じゃ辻褄が合わないよ >>833
山門(現 柳川・みやま)は、その他の筑紫平野の地域と並びだ。
地政学で考えると、やまと(邪馬台)の起こりの地は日田盆地だ。
平野と水運で繋がる盆地が必須。日田しかない。 >>857
九州説はだいたい福岡藩が主犯で、遺物や遺跡をどれだけ捏造したのか見当もつかないレベル
南九州に関しては戦国時代の島津の仕業。おおよそ歴史と呼べるものかなかった南九州を
それっぽくするために片っ端から地名を変えてしまった
津島城→都島城→都城とか枯国岳→虚国岳→韓国岳とかね >>825ほか
もしそんなことが書かれているなら
間違った内容を記載したことになる
その誤りに日本人なら気づくべき 東海〜九州北部
中には抗う在地の勢力もまだまだたくさんいたんじゃないか
狗奴国もそうだし
日本書紀にはヤマト政権に最後まで抗った伊吹山の荒ぶる神の記述もある
因みに伊吹山にはヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている
ヤマトタケルのエピソードでも転換期になっている伊吹山 この時代に安定した政権など不可能に近い
大陸の大規模な兵力をもってしても、時とともに腐敗して勢力が入れ替わる。
邪馬台国はそんな時代に魏の後ろだけがあってこそかろうじて成り立っていた小国に過ぎない
晋にとってかわった後は、半島南部においてもその権威は失効し、大きな国力兵力を自身で構築する必要に迫られることは必至。
そうした生まれたのが後の大和政権となって日本の礎となった。 天皇家の御先祖「ここは韓の国が見える、ここに住もう」
これが九州に実在する日本百名山のひとつ、韓国岳である
霧島連山で宮崎県なので当然のように高千穂も近くにある 伊吹山の麓彦根には鉄を加工していた在地系勢力の遺跡が残っている
伊吹山の麓には鉄砲で有名な国友があった
勝手な想像だが狗奴の友かもね >>741
卑弥呼の鏡って畿内で見つかる三角縁神獣鏡じゃないの? 朝貢する場合、単純に地理的要因で西の国から始める
つまり九州からとなる
畿内は九州より遅れる 金で出来てるのに捨てられてたってどういう事?
焼け跡がある訳でもない 祖先は筑紫城にいたって証言してるんだから大和政権の基盤も元は九州にあったことは間違いないね >>454
@漢代に東にあった狗奴国が、南西に遷して、三国時代には南になった
A漢代に西方にあった邪馬臺国が、東に遷して、三国時代には狗奴国の北になった
なんてことはあるかな
一番ありうるのは、後漢書の編者が勘違いしたということだが >>870
あのタイプの鏡は中国から一枚も出土してなかったんじゃなかったかな
あまりに出来が良いので中国産だと思ってたら国産だったっていうね
でも銅の成分は中国鉱山由来というのが浪漫よね >>859
おお、それは有り得るなあ。
「毛野の国」昔の発音は「きぬぬくに」だったんかな。
そう理解すると、奴国、狗奴国 etcの 奴(ぬ)は、
「野」の意味の場合も、格助詞の「の」も場合も有りだな。
奴國は、の国(??)じゃなくて 野国(田んぼの国だね)
鬼奴國は、毛の国 か 毛野国(どちらも豊作の田んぼの国)。 隋書と旧唐書はそれなりにソースになるけど、新唐書は何百年も後に辻褄合わせに作られたリメイク作なのであんまり信用しちゃだめ >>743
もっとも矛盾のない読みは
魏志倭人伝の邪馬台国までの距離帯方より1万2千里は
漢の空想的な地理書の淮南子から取られた世界の果てまでを示す数字で
さらに邪馬台国の位置は沖縄や台湾を指す会稽東治の東と書いてあるのは倭国の都は倭の極南界にあると後漢書に書いてるとおり漢からの伝承によるもの
よって魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置は遠い南の国という伝承が元になっていて現実的なものではなくて
一方考古学的に見れば畿内からは卑弥呼の時代の頃の魏の鏡や
魏志倭人伝に卑弥呼の墓は径百歩つまり直径140mと書いてある大きさに適合する
卑弥呼の時代の3世紀にはあった前方後円墳が存在するので
邪馬台国は畿内でありそこにあった大和国というのがもっとも矛盾がない >>871 の続き
こいつらが日本に戦を持ち込んだんだ
https://youtu.be/lF37YlQfgMo
これも地理的要因で九州から戦の仕方を憶える
よって始めは畿内より九州の方が強い
遅れて畿内が戦を憶え九州に対抗できるようになる 日本国伝と倭国伝のふたつが同時に収録されてるのは旧唐書だっけ?
単純に九州が邪馬台国・倭国で、畿内の新興勢力が日本国だったんじゃないのかね >>746
後漢書には桓霊の間(AD160〜180年ごろ)に倭国大乱とある
考古学的には2世紀の後半あたりに畿内の銅鐸文化が銅鏡文化に変化が見られる
卑弥呼の時代は3世紀なのでうーむこれはいったいどう考えたらいいんだろう 延喜式祝詞には
高天原に神留り坐す皇睦神漏伎命・神漏弥命以て
皇御孫之命が祭祀を行うとある
道饗祭の祝詞には
高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らくは
久那斗クナト
出雲地方の伝承
クナトの神はサルタヒコの父
サルタヒコの母は出雲の幸神 >>875
中国からは何枚か見つかってるよ
魏の洛陽だった地域の畑から出土とか
あと当時魏の領地だった帯方に相当する地域からも
三角縁二神二獣鏡や三角縁四神二獣鏡が見つかっている >>878
大陸から見て南界は地続きの半島南部に過ぎない
海を越えてその南にあるから極南界というだけ >>877
梁史、北史、南史もあるが
コピー?
文身国、扶蓉国(誤字許せ)、他に
アメリカ大陸と思わせる記もある。 >>885
倭奴国がそこにあると書いてあるから違うね
倭奴国は今でいうと博多あたり 素直に中国の史書を時系列で読むと九州王朝とその枝分かれの近畿王朝があって
やがて九州王朝が近畿王朝に併合されたってふうにしか読めないよね >>878
もっとも矛盾のない読みは
7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里=12000里で
これで距離での説明が終わり伊都国、奴国が女王国
水行10日、水行20日、陸行1月は帯方郡から時間で再説明
到狗韓国が投馬国に、到伊都国が邪馬壹国に対応し
東夷伝の1里は80mで書かれてる。 記紀でサルタヒコが見つかったのは天の八衢とある
八衢は道が幾つにも分かれるところ、方違
堺に方違神社があって方違幸大神が祀られている
道に関する神は他に黄泉に行き黄泉の主祭神になったイザナミがある
別名道敷大神
出雲の幸神と関係あるのか興味深い 倭国大乱とかいう浪漫
当時の防御重視の集落遺跡が多数発掘されてるから、当時の倭国で何かトンデモナイことがあったのは確実よね >>856
呉音でもない漢音でのもない上古音ででもない
記紀万葉風土記の万葉仮名が基本だ
漢字の読み方に関しては安本美典の読み方がいい線逝ってると思うぞ >>887
何いってんだお前?
海を越えれば極南海なんだから倭奴国が博多でなんの矛盾もないだろ >>884
三角縁神獣鏡が魏の洛陽の骨董市で売られていたそうだな
日本から持ち込まれた可能性が高そうだ。 >>889
魏の1里は約430mと
資料や考古物によって判明している事実と矛盾 >>882
後漢書には、天皇の名は出てこない。
記紀とすり合わせが、正しいか定かではない。
その頃の奈良て桃の種とか土木工事や木製器具、
吉備・東海式土器。戦闘跡見られず。 >>894
当時は魏の領地だった帯方からも三角縁神獣鏡は見つかっているよ >>875
当時の魏は銅が枯渇しており、貨幣すら鋳造できず経済が滞る始末
代替え品として鉄鏡使ってるような状況で他国に銅鏡を贈るとか眉唾 たしか天皇という呼び方は7世紀末〜8世紀初頭の天武か持統のあたりからだから、かなり後だわな >>893
けれどそこは倭の極南界とは言えないなあ
漢も魏も倭奴国や邪馬台国など倭の都は
はるか南の倭の極南界の
沖縄や台湾くらいの位置になる会稽東治の東にあると考えていた >>895
だからそれだと半島から対馬まで400kmも
あることになるんだよ >>884
洛陽のて露店で売ってた骨董屋の言い分真に受けただけつうか畑からなら出所不明やんけ
あと帯方のは斜縁な 三角縁ちゃうど >>900
魏は銅山のある徐州を領有していた
三角縁神獣鏡も銅出徐州つまり徐州の銅で作ったと彫ってある >>882
倭国大乱の時期、性格や規模は不明ですが
その後卑弥呼を王に立てて国がまとまったことは史実だと思います
中国で様々な史書に取り上げられたのは
ひとつは倭国が再び一つのまとまりになったことと
一人の女子を王に選んだことが注目されたのだと思います >>889
帯方郡からの里数で示したクニグニと
帯方郡からを水行陸行日数で言い換えたクニグニを重ねた二重帳簿 >>906
徐州の鉱山は建業の近辺で当時呉の領地
てか実際問題として魏で銅が枯渇してる事実があるのに鉱山がどうとか関係ない >>903
ないだろ
つまり魏志倭人伝に書いてある距離はできるだけ倭国を遠く書いて
地の果ての帯方から南1万2千里の距離にあるという伝承に当てはめようとして書いてある 男の王だと内乱続きだったというのに13歳の美少女が王になったとたんに戦をやめるなんて
さすが俺たちの御先祖だな >>906
徐州の銅山は呉のテリトリーや どうやって魏が入手すんねん >>903
魏の里で換算していないだけ。
周あたりの文献参照や計測方法かもね。 >>902
あなたの目線が間違ってんだよ
古代の大陸の人か残した文章なんだから
陸続きの南界から海をこえれば極南界
この場合「界」というのは交流しえる限界地のこと
内陸を治めるのに必死な情勢中、沖縄とかそんな遠いところと交流してる場合じゃない >>881
絶対的支配層と頭数の多い奴隷の国は
発展スピードが凄まじいからな
九州の倭人が中国から学んだんだろう >>909
呉の領有していた徐州は南端のほんの1部
銅山のある箇所は魏の領有で
原罪銅山区という地名もついている
そして魏志倭人伝には卑弥呼に銅鏡百枚贈ったと書いていて
魏の年号の入った銅鏡が畿内で見つかるので
魏ではとくに銅は枯渇していなかったという事がわかる >>912
徐州の銅山のある箇所は魏の領有だよ
呉の領有していたところは南端のほんの一部 各地の大王が持ち回りで倭国王をやってたのなら万世一系ではないことになるが
それだとなろう記紀小説には都合が悪そうだな ニュー速厨の云いたいほうだい、口から出まかせスレになってきたか
そろそろ終幕のころ合いとなりました。 >>917
実在せん景初四年なんて刻まれた国産鏡な >>917
それを捏造だって話をしてるんだがね
貨幣が鋳造できず経済壊してまで銅鏡を作って他国に贈るなんてリアリティなしw >>915
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置は会稽東治の東つまり沖縄や台湾に相当する位置だよ
当時の認識ではそこが倭の極南界で
奴国や邪馬台国はそこという事になっていたのだろう
魏志倭人伝に書いてある傍国30ヵ国の最後にも奴国が書いてあるのはそういう事情
倭の極南界の奴国も邪馬台国も
架空のできるだけ遠い国として表現して書いているのが後漢書や魏志倭人伝
当時は遠い地の果ての国から朝貢に来るのはそれだけ皇帝の徳が大きいという証でもあったのだから >>918
そうやって相手がソース出さん限り何度も何度も同じ嘘を垂れ流すから信用を喪うんや >>921
それは有名だよね
もし昭和65年とか平成32年と書かれた日本製品があったらまァ産地を疑うよね(笑) >>897
獲加多支鹵 ワケタシル(呉音の場合)
だが、
卑彌呼 ピミク(呉音)→ 今の和語の音:ひめこ(日の娘)
の例の様に、その後の列島内での音変化が有るから、
今の音で考えないと意味が分からない所がある。
そこが難しい所だな。 >>921
鏡に掘ってる景初三年と正始元年は実在しますが?
そして景初という魏の年号が畿内で見つかる鏡に入っていること自体が
畿内と魏が交流のあった証拠
そして景初四年も実際は魏で使われていたらしい >>924
たぶん、それだな。
大きな国も貢ぐという誇張だな。 >>923
だって魏志倭人伝に卑弥呼に銅鏡百枚贈ったと書いてあって
畿内からは魏の年号が入った銅鏡がかなり見つかっている
魏には徐州と言う銅の産地で有名な地域があって
銅不足だったと言うのは怪しいなあ >>917
前にもそれ言ってた人いたけど
銅山区(銅山県)には銅鉱山あるの?グーグルマップで見たら平野で畑に囲まれてるが >>928
「らしい?」とは定かではない。
リンクしてくださいませ。 >>893
魏志倭人伝は倭人のテリトリーについて書かれている
朝鮮半島から北部九州についてそこから倭国がはじまる
順番に倭国内の構成国を紹介して投馬国を経て首都の邪馬台国へ
さらにそこから北の国々の国名が列記されている
続いて倭国以外の倭人の居住地について書かれている
これが倭地
狗奴国から始まり南方の倭人を紹介している
会稽東治の東に連なるテリトリーまで
この南国の風習はもちろん倭国のことではない >>926
今の中国製w
案外、当時の鏡も後世作られた偽の中国製とかwww >>925
ソースなら魏の年号が入った銅鏡に銅出徐州と彫ってあるよ
倭国でも中国でも見つかる >>932
晋書天文志という書に景初四年の出来事が書いてある >>931
魏の年号が入った銅鏡に銅出徐州と書いてるから
まああったんじゃないの? 箔を付けるために中国から貰ったという設定で年号入りの銅鏡を作らせたが、現地ではすでに改元されてたという笑い話 >>934
逆輸入もあるね。
今後 中国で発見されてほら、あってでしょ?
にならないか? 大陸から九州地方にたどり着いた戸来人が
山越え中にすれ違った人に
「ここは何と言う土地ですか?」
九州人「山たい」
そうして、やまたい国と記されました。 >>868
実は高千穂峰も高千穂峡もどちらも信用していない
高千穂峰は襲の地だし高千穂峡にいたっては下のコピペのとおり
おまけに峡とは谷だ
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷(改)
日向国風土記逸文(713、引用は釋日本紀1275-1301、萬葉集註釋1269)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。
本当に原本にあったか?というか500年以上たって元ネタはなんだ)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) >>937
そんな空想は要らない
しかも清の時代に設置されたとかwikiにあるから
古くからそういう名前だったわけでもなさそうだし >>942
なるほど、やはり天孫が元々住んでた場所は韓半島にあたるのか >>942
実は天皇家は渡来人=侵略者ってわけだな ワカタケルの時代筑紫は大和王権の傘下だが、系統の違う継体天皇とは折り合いが悪かったのかもな >>943
魏の年号が入った魏鏡に銅出徐州と書いているよ
さらに魏志倭人伝には卑弥呼に銅鏡百枚贈ったとも
これは魏の徐州には銅山があったと考えるしかないだろう >>942
それとなく二つの勢力がある事の記があるんだな。ありがとう。 >>930
いやいやいやw
オリジナルの模倣品として主張するなら兎も角、出土品がそのまま魏からの贈答品ですか?w
貴重品でもなんでもなくゴミのように扱われてる三角縁神獣鏡が?
何度も言ってるが魏の貨幣で調べてみ?銅不足は事実
それより魏の領域で銅山があったというソースが欲しい
当時の徐州で銅が産出したのは建業付近の丹陽、江都、儀徴、いずれも呉の領域
魏の領域で採れたのならそんなに深刻な銅不足に陥る可能性は低いと思うんだがなあ >>924
30国しか配下にない
そのうち少なくとも21国は行程に関係ない詳細不明の某国
道里の詳細が記載されている国はすべて九州北部
当時の国の大きさや規模から、九州北部から遠く離れて支配することは不可能
確定情を無視して推測をするは何の意味もない。 >>928
出土したんと同じ古墳からよう見つかっとる画文帯神獣鏡の銘文パクったんやないんか 製作者とか年号とか 同じ古墳で出土した三角縁神獣鏡は同じ型から造られた痕跡残っとるしな
つうか年号の知識なんて渡来人経由でどうにでもなるやろ 継体天皇は別王朝っぽい
この方はガチの渡来系だよね
半島出身と記紀に明記されてるアラコとかいう有能部下も出てくるし >>931
実際に存在している徐州の銅山は南端にしかないんよね >>950
胴出徐州と書いてある魏鏡は中国でも出ているぞ
これなら文句ないだろう
つまり徐州の銅で作った鏡で
さらに徐州には銅山区という明らかに銅山だった地名もあって
宋の時代にはそこの銅で貨幣が鋳造されていたという記録も残っている
魏は銅の産地である徐州を領有していた事はさまざまな資料で明らか >>948
こんなこと書いてるサイトがあったよ
↓
三角縁神獣鏡には「銅出徐州、師出洛陽」の銘を持つのが約10枚ある。
が、これは一種の吉祥文字で、これをもって中国製と即断するのは危険
である。中国でこの銘を持つ鏡は、遼寧省の魏晋墓から出土した方格規矩
鏡ただ1枚で銘は単に「銅出徐州」となっている。しかし、三国時代の魏晋
朝領域の徐州では銅は産出していない。
徐州が銅の産出地として知られていたのは前漢・新・後漢時代のことである。
漢時代の徐州の地域は三国時代よりも広く、 銅の産出地は三国時代では
呉王朝の領域で首都・建業(南京)付近の「丹陽」「江都」「儀徴」である。
後の東晋時代(318年〜)になると、銅の産出地の「江都」「儀徴」は再び
徐州に組み入れられた。従って、三国時代の魏晋朝の領域の徐州からは
銅は産出せず、東晋時代の徐州からは銅が産出したので、三角縁神獣鏡
の「銅出徐州、師出洛陽」は後世のにせもの=偽ブランド(具体的には東晋
時代に日本に渡来した呉の鏡職人の作品)ということになる。 >>951
九州北部は通り過ぎるだけだから
最終目的地は畿内にある大和国
この事実一つだけで
邪馬台国は九州にはなかったとわかるね >>951
旧100余国が倭国大乱の抗争出入りを経て、
30国に集約併合されたということ。
だれが勝者だったかというと、
帯方郡の支援を受けて戦った自女王国以北のクニグニさ。 >>952
渡来人由来じゃなくて
魏から年号の入った銅鏡を貰ったとも考えられるのではないかな
畿内で見つかる三角縁神獣鏡には魏の年号が入っていて
使われている銅の成分は魏の鏡と同じつまり同じ銅が使われている
魏の洛陽や帯方に相当する地域でも出土している
これらの証拠から三角縁神獣鏡は魏の鏡で卑弥呼に贈られたものであると言える 狗奴(コウド、コウドゥ)国→熊野古道?
https://ameblo.jp/razyob/entry-12626437330.html
朝鮮人たちにとって非常に都合の悪い部分
魏志倭人伝
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
(帯方)郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、その(=倭の)北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里。
狗邪韓国ってどこかって言うと
朝鮮半島の南端
つまりその時代倭が半島の南端まで支配してたわけで
おそらく末期の縄文土器もそこらで発掘されてるし
縄文末期から倭人が行ってたんだろうけど
それだから朝鮮人にとってその倭って言うのは
今の日本のルーツの畿内の大和朝廷じゃまづいわけで
九州と朝鮮の一部を又にかけた今の日本とは別の国があったことにしたいのかもね
そういう意図がなく別だと主張してる学者もいるかもしれないけど
言い出しっぺと言うか別の国を主張する根源はそういう意図があるのかなと >>963
中国の遺跡から出土しとらん時点でそれはない >>957
晋書天文志でググれば出るよ
景初元年公孫氏の反乱
二年皇帝が公孫氏を討伐
三年皇帝の死
四年月が金星と重なる
といった風に書いている >>963
洛陽のは骨董屋の露店で売られとった一枚のみ 帯方郡のは三角縁やのうて斜縁
違うていうならソース出してみい >>951
>九州北部は通り過ぎるだけだから
勝手にねつ造するなw 弥生時代すら人骨のDNAは混血を示すものばかり
縄文時代の青森の三内丸山遺跡も中国の遼河文明の影響が色濃く残る
昔から様々な渡来人を受け入れて混血なんだよな
百済高句麗新羅の渡来人は大化改新以降ごっそりと関東に移配されている
この辺も興味深いところ >>958
中国でも銅出徐州と彫ってある鏡は出てるんだけれど
これも中国製とは違うということ? 倭国大乱は、文字通り倭国だから倭の30国の内部抗争。
この場合、狗奴国は倭国大乱の外として書かれている。
だからこれとは別枠で、別途、狗奴国騒動も書かれた。 卑弥呼の後に男王が立てられたが国が乱れ
その後台与が立てられて安定した
その後に内乱とか国が乱れたという記録はないから
台与とその後継者が天皇となったのだろうと思う >>960
妄想ではなくて事実だぞ?
徐州には銅山区という明らかに銅山だった地名もあって
宋の時代にはそこの銅で貨幣が鋳造されていたという記録も残っている
魏は銅の産地である徐州を領有していた事はさまざまな資料で明らかというのは 日本書紀は朝廷に編纂の記録があるけど、古事記についてはそれがない
ソースとしては韓国の万能壁画ていどのもんだという認識でいたまえ 倭国大乱で、
帯方郡の支援を受けた自女王国以北の国々が覇権を握り、
傍国の次有り21国が冷や飯を食わされているってことさ。 宋書の倭の五王も伊勢神宮の斎王の可能性あると思いませんか?
https://ameblo.jp/razyob/entry-12627428089.html
これ書いた後に考えたのですが
安東将軍って言うくらいなので
3種の神器の剣を託されたのが将軍で
もしかしたら熱田のあたりに将軍がいたのかも 港(みなと)=水の都
邪馬台(やまと)=山の都
実は固有名詞ではなく、一般名詞だった説 つまり、狗奴国は
九州南部の辺鄙な球磨盆地に逃げ込んだので、
それ以外の、30国の間で切った張った刺したの大騒動・・、 邪馬台国論争とは関係なく、日本語は、中国語の表現を流用することによって形成されたピジン言語だ。
中国語の表現に由来する言葉を日本語から除去しても後には何も残らない。原日本語などというものは存在しない。 >>981
そこの銅ってのは銅山区のことなの?
それとも歴史的に範囲がころころ変わってる徐州のことなの? >>981
出てこない
当時魏が徐州で銅を採っていたという資料だの記録だのがあるならだしてくれ >>961
推測するのは勝手だが、魏志倭人伝に併合して大きくなった国などどこにも出てこない
確度が高い情報と、根拠ある推測と、一部を切り取っただけの妄想を区別することから始めろ。 >>977
そんな行ったルートもうる覚えな連中が
軍事的に支援なんてできねーだろうに >>974
徐州の銅山区は三国時代は呉の領土だったんだよな。 中国から来た使者が火山を見てたまげたという描写がある
しかし畿内一帯に火山はひとつも無い
休火山とかそういうレベルではなく、火山そのものが無いのよ、畿内には > 1733年(雍正11年)、清朝により銅山県が設置された。2010年9月に市轄区に改編され、銅山区と改称された。
wikiにはこう書いてあるが
10−13世紀の宋ことにはまったく言及がない >>981
そろそろええか?
オマエの『負け』だな >>966
魏明帝太和五年十二月甲辰,月犯填星
青龍二年十月乙丑 月又犯填星 占同上 戊寅 月犯太白 占曰 人君死,又為兵
景初元年七月 公孫文懿叛
二年正月 遣宣帝討之
三年正月 天子崩
四年三月己巳 太白與月?加景晝見 月犯太白 占同上
景初元年十月丁未 月犯?惑 占曰 貴人死
二年四月 司徒韓?薨
どう読めば景初四年になるんや >>982
山の国なんて魏にだってあるだろうし
特定して書いてるんだから固有名詞だろうに >>986
魏の年号の入った三角縁神獣鏡に
銅出徐州と彫ってある
三角縁神獣鏡は学術的に魏鏡と確定しているので
宋代の記録でも銅山があった事が確認されている徐州の銅で作られているのだろうと結論付けられている
これ以上のソースが必要?
それなら自分で探すべきだな
きっと見つかるよ >>990
「阿蘇」と文献にしかり記もあるからね。 18世紀に見つかった鉱山ですかな?
1000年おせーよ(呆れ) >>989
徐州は曹操と劉備の徐州の戦いで魏の領土になった事は有名 >>996
宋代の銅山とは具体的にはどこのことなの? このスレッドは1000を超えました。
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