【佐賀】「よみがえる邪馬台国」展、「豊前の国」に焦点 「九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」 ★4 [樽悶★]
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北部九州と近畿地方の、弥生時代から古墳時代前期の遺跡や遺物などを紹介する企画展が、佐賀県の吉野ヶ里歴史公園で開かれています。
この企画展「よみがえる邪馬台国」は、佐賀県教育委員会などが毎年開いていて、邪馬台国があったと考えられている九州と近畿の出土品を展示しています。
ことしは、現在の北九州市から大分県北部にあった「豊前の国」に焦点をあて、大分県宇佐市のほか、吉野ヶ里遺跡や兵庫県内の複数の遺跡から出土した土器や青銅器など、およそ400点が展示されています。
このうち、大分県宇佐市の赤塚古墳から出土した「三角縁三神三獣鏡」は、直径およそ22センチの大型の銅鏡で、6体の神獣が描かれ、中国から卑弥呼に贈られたという説もあります。
また、大分県宇佐市の切寄遺跡から出土した「中広銅矛」は、祭祀に使われた大型の矛です。
佐賀県内の遺跡から同じ形の鋳型が出土していることから、佐賀をはじめとする北部九州で生産され、その後、宇佐に伝わったことがうかがえるということです。
吉野ヶ里公園管理センターの小林昭彦歴史専門員は、「企画展を通じて、吉野ヶ里遺跡と豊前の国との関係性を見直してほしい。邪馬台国があった場所として考えられている九州と畿内との違いを、出土した遺物を見て比較してほしい」と話していました。
この企画展は、吉野ヶ里歴史公園の「弥生くらし館」で、11月8日まで開かれています。
09月23日 12時34分
https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20200923/5080007088.html
★1:2020/09/23(水) 14:12:50.82
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1601044083/ >>846
魏の1歩は約1.4m
100歩で約140m
陳寿は径を差し渡しの意味では使用していない >>837
縄文時代は1万年以上あったんだが?
すでに日本の地形カタチも特定して
水路陸路ともに交易ルートもあったんだが?
縄文時代ですら
https://i.imgur.com/C1WGKBn.png >>847
利権というか、もう詐欺だろ。研究費詐欺。
犯罪だよ犯罪! >>850
初めは巨大だったかも?
なんせ長い年月、当時のままて稀じゃないの? >>852
縄文人は、青森で栽培した栗を船で全国に運んでいた。 >>813
そうなんだよね
ワカタケルと読むにはかなりのこじつけがあるみたい
例えるなら、この文字は英語の読み方!この文字はドイツ語の読み方!この文字は…前例がないから適当!みたいな 江戸時代までみんな普通に邪馬台国は九州だと思ってた
そもそもヤマタイという変な読み方は江戸時代のアホ国学者が発端だったっけ
ヤマトと邪馬台は違う!という解釈 畿内土着のナガスネヒコは渡来人やろな
自分の妹を海人下ってきたニギハヤヒに差し出し忠誠誓ってたのに、ぶっ殺されて可哀そうなやつ >>305
きぬがわは多分「毛野川」
「毛野の国」のヌであって「毛の国」のノではない 天皇家もそうだが、普通は姓があるよな。屋号みたいなのでもいいし、所属を表すセカンドネームがあったと思う。
卑弥呼ってのはどう考えても姓名ではないから、もし姓が古代にもあるなら、卑弥呼は職名だったのかもしれない。
ヤマトタケルなんかはおそらく姓名だな。天皇家は姓がヤマトだったんじゃないか? だいたい邪馬台国って100国あった倭国の30国しか加盟してない中規模連合体でしょ
近畿から九州までおさめてる大勢力じゃ辻褄が合わないよ >>833
山門(現 柳川・みやま)は、その他の筑紫平野の地域と並びだ。
地政学で考えると、やまと(邪馬台)の起こりの地は日田盆地だ。
平野と水運で繋がる盆地が必須。日田しかない。 >>857
九州説はだいたい福岡藩が主犯で、遺物や遺跡をどれだけ捏造したのか見当もつかないレベル
南九州に関しては戦国時代の島津の仕業。おおよそ歴史と呼べるものかなかった南九州を
それっぽくするために片っ端から地名を変えてしまった
津島城→都島城→都城とか枯国岳→虚国岳→韓国岳とかね >>825ほか
もしそんなことが書かれているなら
間違った内容を記載したことになる
その誤りに日本人なら気づくべき 東海〜九州北部
中には抗う在地の勢力もまだまだたくさんいたんじゃないか
狗奴国もそうだし
日本書紀にはヤマト政権に最後まで抗った伊吹山の荒ぶる神の記述もある
因みに伊吹山にはヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている
ヤマトタケルのエピソードでも転換期になっている伊吹山 この時代に安定した政権など不可能に近い
大陸の大規模な兵力をもってしても、時とともに腐敗して勢力が入れ替わる。
邪馬台国はそんな時代に魏の後ろだけがあってこそかろうじて成り立っていた小国に過ぎない
晋にとってかわった後は、半島南部においてもその権威は失効し、大きな国力兵力を自身で構築する必要に迫られることは必至。
そうした生まれたのが後の大和政権となって日本の礎となった。 天皇家の御先祖「ここは韓の国が見える、ここに住もう」
これが九州に実在する日本百名山のひとつ、韓国岳である
霧島連山で宮崎県なので当然のように高千穂も近くにある 伊吹山の麓彦根には鉄を加工していた在地系勢力の遺跡が残っている
伊吹山の麓には鉄砲で有名な国友があった
勝手な想像だが狗奴の友かもね >>741
卑弥呼の鏡って畿内で見つかる三角縁神獣鏡じゃないの? 朝貢する場合、単純に地理的要因で西の国から始める
つまり九州からとなる
畿内は九州より遅れる 金で出来てるのに捨てられてたってどういう事?
焼け跡がある訳でもない 祖先は筑紫城にいたって証言してるんだから大和政権の基盤も元は九州にあったことは間違いないね >>454
@漢代に東にあった狗奴国が、南西に遷して、三国時代には南になった
A漢代に西方にあった邪馬臺国が、東に遷して、三国時代には狗奴国の北になった
なんてことはあるかな
一番ありうるのは、後漢書の編者が勘違いしたということだが >>870
あのタイプの鏡は中国から一枚も出土してなかったんじゃなかったかな
あまりに出来が良いので中国産だと思ってたら国産だったっていうね
でも銅の成分は中国鉱山由来というのが浪漫よね >>859
おお、それは有り得るなあ。
「毛野の国」昔の発音は「きぬぬくに」だったんかな。
そう理解すると、奴国、狗奴国 etcの 奴(ぬ)は、
「野」の意味の場合も、格助詞の「の」も場合も有りだな。
奴國は、の国(??)じゃなくて 野国(田んぼの国だね)
鬼奴國は、毛の国 か 毛野国(どちらも豊作の田んぼの国)。 隋書と旧唐書はそれなりにソースになるけど、新唐書は何百年も後に辻褄合わせに作られたリメイク作なのであんまり信用しちゃだめ >>743
もっとも矛盾のない読みは
魏志倭人伝の邪馬台国までの距離帯方より1万2千里は
漢の空想的な地理書の淮南子から取られた世界の果てまでを示す数字で
さらに邪馬台国の位置は沖縄や台湾を指す会稽東治の東と書いてあるのは倭国の都は倭の極南界にあると後漢書に書いてるとおり漢からの伝承によるもの
よって魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置は遠い南の国という伝承が元になっていて現実的なものではなくて
一方考古学的に見れば畿内からは卑弥呼の時代の頃の魏の鏡や
魏志倭人伝に卑弥呼の墓は径百歩つまり直径140mと書いてある大きさに適合する
卑弥呼の時代の3世紀にはあった前方後円墳が存在するので
邪馬台国は畿内でありそこにあった大和国というのがもっとも矛盾がない >>871 の続き
こいつらが日本に戦を持ち込んだんだ
https://youtu.be/lF37YlQfgMo
これも地理的要因で九州から戦の仕方を憶える
よって始めは畿内より九州の方が強い
遅れて畿内が戦を憶え九州に対抗できるようになる 日本国伝と倭国伝のふたつが同時に収録されてるのは旧唐書だっけ?
単純に九州が邪馬台国・倭国で、畿内の新興勢力が日本国だったんじゃないのかね >>746
後漢書には桓霊の間(AD160〜180年ごろ)に倭国大乱とある
考古学的には2世紀の後半あたりに畿内の銅鐸文化が銅鏡文化に変化が見られる
卑弥呼の時代は3世紀なのでうーむこれはいったいどう考えたらいいんだろう 延喜式祝詞には
高天原に神留り坐す皇睦神漏伎命・神漏弥命以て
皇御孫之命が祭祀を行うとある
道饗祭の祝詞には
高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らくは
久那斗クナト
出雲地方の伝承
クナトの神はサルタヒコの父
サルタヒコの母は出雲の幸神 >>875
中国からは何枚か見つかってるよ
魏の洛陽だった地域の畑から出土とか
あと当時魏の領地だった帯方に相当する地域からも
三角縁二神二獣鏡や三角縁四神二獣鏡が見つかっている >>878
大陸から見て南界は地続きの半島南部に過ぎない
海を越えてその南にあるから極南界というだけ >>877
梁史、北史、南史もあるが
コピー?
文身国、扶蓉国(誤字許せ)、他に
アメリカ大陸と思わせる記もある。 >>885
倭奴国がそこにあると書いてあるから違うね
倭奴国は今でいうと博多あたり 素直に中国の史書を時系列で読むと九州王朝とその枝分かれの近畿王朝があって
やがて九州王朝が近畿王朝に併合されたってふうにしか読めないよね >>878
もっとも矛盾のない読みは
7000里+1000里+400里×2+1000里+300里×2+1000里+500里+100里=12000里で
これで距離での説明が終わり伊都国、奴国が女王国
水行10日、水行20日、陸行1月は帯方郡から時間で再説明
到狗韓国が投馬国に、到伊都国が邪馬壹国に対応し
東夷伝の1里は80mで書かれてる。 記紀でサルタヒコが見つかったのは天の八衢とある
八衢は道が幾つにも分かれるところ、方違
堺に方違神社があって方違幸大神が祀られている
道に関する神は他に黄泉に行き黄泉の主祭神になったイザナミがある
別名道敷大神
出雲の幸神と関係あるのか興味深い 倭国大乱とかいう浪漫
当時の防御重視の集落遺跡が多数発掘されてるから、当時の倭国で何かトンデモナイことがあったのは確実よね >>856
呉音でもない漢音でのもない上古音ででもない
記紀万葉風土記の万葉仮名が基本だ
漢字の読み方に関しては安本美典の読み方がいい線逝ってると思うぞ >>887
何いってんだお前?
海を越えれば極南海なんだから倭奴国が博多でなんの矛盾もないだろ >>884
三角縁神獣鏡が魏の洛陽の骨董市で売られていたそうだな
日本から持ち込まれた可能性が高そうだ。 >>889
魏の1里は約430mと
資料や考古物によって判明している事実と矛盾 >>882
後漢書には、天皇の名は出てこない。
記紀とすり合わせが、正しいか定かではない。
その頃の奈良て桃の種とか土木工事や木製器具、
吉備・東海式土器。戦闘跡見られず。 >>894
当時は魏の領地だった帯方からも三角縁神獣鏡は見つかっているよ >>875
当時の魏は銅が枯渇しており、貨幣すら鋳造できず経済が滞る始末
代替え品として鉄鏡使ってるような状況で他国に銅鏡を贈るとか眉唾 たしか天皇という呼び方は7世紀末〜8世紀初頭の天武か持統のあたりからだから、かなり後だわな >>893
けれどそこは倭の極南界とは言えないなあ
漢も魏も倭奴国や邪馬台国など倭の都は
はるか南の倭の極南界の
沖縄や台湾くらいの位置になる会稽東治の東にあると考えていた >>895
だからそれだと半島から対馬まで400kmも
あることになるんだよ >>884
洛陽のて露店で売ってた骨董屋の言い分真に受けただけつうか畑からなら出所不明やんけ
あと帯方のは斜縁な 三角縁ちゃうど >>900
魏は銅山のある徐州を領有していた
三角縁神獣鏡も銅出徐州つまり徐州の銅で作ったと彫ってある >>882
倭国大乱の時期、性格や規模は不明ですが
その後卑弥呼を王に立てて国がまとまったことは史実だと思います
中国で様々な史書に取り上げられたのは
ひとつは倭国が再び一つのまとまりになったことと
一人の女子を王に選んだことが注目されたのだと思います >>889
帯方郡からの里数で示したクニグニと
帯方郡からを水行陸行日数で言い換えたクニグニを重ねた二重帳簿 >>906
徐州の鉱山は建業の近辺で当時呉の領地
てか実際問題として魏で銅が枯渇してる事実があるのに鉱山がどうとか関係ない >>903
ないだろ
つまり魏志倭人伝に書いてある距離はできるだけ倭国を遠く書いて
地の果ての帯方から南1万2千里の距離にあるという伝承に当てはめようとして書いてある 男の王だと内乱続きだったというのに13歳の美少女が王になったとたんに戦をやめるなんて
さすが俺たちの御先祖だな >>906
徐州の銅山は呉のテリトリーや どうやって魏が入手すんねん >>903
魏の里で換算していないだけ。
周あたりの文献参照や計測方法かもね。 >>902
あなたの目線が間違ってんだよ
古代の大陸の人か残した文章なんだから
陸続きの南界から海をこえれば極南界
この場合「界」というのは交流しえる限界地のこと
内陸を治めるのに必死な情勢中、沖縄とかそんな遠いところと交流してる場合じゃない >>881
絶対的支配層と頭数の多い奴隷の国は
発展スピードが凄まじいからな
九州の倭人が中国から学んだんだろう >>909
呉の領有していた徐州は南端のほんの1部
銅山のある箇所は魏の領有で
原罪銅山区という地名もついている
そして魏志倭人伝には卑弥呼に銅鏡百枚贈ったと書いていて
魏の年号の入った銅鏡が畿内で見つかるので
魏ではとくに銅は枯渇していなかったという事がわかる >>912
徐州の銅山のある箇所は魏の領有だよ
呉の領有していたところは南端のほんの一部 各地の大王が持ち回りで倭国王をやってたのなら万世一系ではないことになるが
それだとなろう記紀小説には都合が悪そうだな ニュー速厨の云いたいほうだい、口から出まかせスレになってきたか
そろそろ終幕のころ合いとなりました。 >>917
実在せん景初四年なんて刻まれた国産鏡な >>917
それを捏造だって話をしてるんだがね
貨幣が鋳造できず経済壊してまで銅鏡を作って他国に贈るなんてリアリティなしw >>915
魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の位置は会稽東治の東つまり沖縄や台湾に相当する位置だよ
当時の認識ではそこが倭の極南界で
奴国や邪馬台国はそこという事になっていたのだろう
魏志倭人伝に書いてある傍国30ヵ国の最後にも奴国が書いてあるのはそういう事情
倭の極南界の奴国も邪馬台国も
架空のできるだけ遠い国として表現して書いているのが後漢書や魏志倭人伝
当時は遠い地の果ての国から朝貢に来るのはそれだけ皇帝の徳が大きいという証でもあったのだから >>918
そうやって相手がソース出さん限り何度も何度も同じ嘘を垂れ流すから信用を喪うんや >>921
それは有名だよね
もし昭和65年とか平成32年と書かれた日本製品があったらまァ産地を疑うよね(笑) >>897
獲加多支鹵 ワケタシル(呉音の場合)
だが、
卑彌呼 ピミク(呉音)→ 今の和語の音:ひめこ(日の娘)
の例の様に、その後の列島内での音変化が有るから、
今の音で考えないと意味が分からない所がある。
そこが難しい所だな。 >>921
鏡に掘ってる景初三年と正始元年は実在しますが?
そして景初という魏の年号が畿内で見つかる鏡に入っていること自体が
畿内と魏が交流のあった証拠
そして景初四年も実際は魏で使われていたらしい >>924
たぶん、それだな。
大きな国も貢ぐという誇張だな。 >>923
だって魏志倭人伝に卑弥呼に銅鏡百枚贈ったと書いてあって
畿内からは魏の年号が入った銅鏡がかなり見つかっている
魏には徐州と言う銅の産地で有名な地域があって
銅不足だったと言うのは怪しいなあ >>917
前にもそれ言ってた人いたけど
銅山区(銅山県)には銅鉱山あるの?グーグルマップで見たら平野で畑に囲まれてるが >>928
「らしい?」とは定かではない。
リンクしてくださいませ。 >>893
魏志倭人伝は倭人のテリトリーについて書かれている
朝鮮半島から北部九州についてそこから倭国がはじまる
順番に倭国内の構成国を紹介して投馬国を経て首都の邪馬台国へ
さらにそこから北の国々の国名が列記されている
続いて倭国以外の倭人の居住地について書かれている
これが倭地
狗奴国から始まり南方の倭人を紹介している
会稽東治の東に連なるテリトリーまで
この南国の風習はもちろん倭国のことではない >>926
今の中国製w
案外、当時の鏡も後世作られた偽の中国製とかwww >>925
ソースなら魏の年号が入った銅鏡に銅出徐州と彫ってあるよ
倭国でも中国でも見つかる >>932
晋書天文志という書に景初四年の出来事が書いてある >>931
魏の年号が入った銅鏡に銅出徐州と書いてるから
まああったんじゃないの? 箔を付けるために中国から貰ったという設定で年号入りの銅鏡を作らせたが、現地ではすでに改元されてたという笑い話 >>934
逆輸入もあるね。
今後 中国で発見されてほら、あってでしょ?
にならないか? 大陸から九州地方にたどり着いた戸来人が
山越え中にすれ違った人に
「ここは何と言う土地ですか?」
九州人「山たい」
そうして、やまたい国と記されました。 >>868
実は高千穂峰も高千穂峡もどちらも信用していない
高千穂峰は襲の地だし高千穂峡にいたっては下のコピペのとおり
おまけに峡とは谷だ
日向国だから天孫降臨の地と言い出したのは宇佐神宮
宇佐神宮は自分の領地があった場所を高めようと色々捏造をしている
今の宮崎県民は神話の国というのを信じているが細かく調べればおかしな事ばかり
はっきり言って起源を主張するどこかの国のいうことと変わらん
これからは間違いは間違いと認めることが大事だと思う
続日本紀によれば昔の日向国は鹿児島宮崎を含む地域だった
記紀ではともに天皇家と隼人族は同族出身としている
日本書紀では特に阿多(薩摩半島南部)と特定している
ちゃんと調べれば分かることばかり
木花咲耶姫の本名である神阿多都比売
海幸彦の子孫は隼人族の阿多君
神武天皇の妃である阿比良比売は阿多小椅の妹
代々阿多(薩摩半島南部)の人間だらけ
おまけに鹿児島県南さつま市の上加世田遺跡からは久米と墨書された遺物が出土している
これは神武天皇の部下である大久米命との関連を思わせる
よって神武天皇の出身地は鹿児島県の薩摩半島
旧加世田市から旧金峰町にかけてと思われる
なお天孫降臨が現実にあったと考えるのは無理がある
それに山上に神が降り立つというのは北方系の神話
高千穂地名の変遷(改)
日向国風土記逸文(713、引用は釋日本紀1275-1301、萬葉集註釋1269)知鋪の郷(ちほと読めるから高千穂と言い出す。
本当に原本にあったか?というか500年以上たって元ネタはなんだ)
宇佐八幡宮託宣(765)高智保(たかちほと言ってるのが神主だと分かる。)
和名類聚抄(925) 智保(一般には広まっていないようで、辞書にはまだ高千穂は載らず。)
大日本史(1657〜) 日向国臼杵の郡、智保、今は高千穂の庄(虚仮の一念、岩をも通す。でも正式には智保。)
(参考)1889年(明治22年)三田井村、押方村、向山村が合併し高千穂村となる。(ようやく正式に高千穂) >>937
そんな空想は要らない
しかも清の時代に設置されたとかwikiにあるから
古くからそういう名前だったわけでもなさそうだし >>942
なるほど、やはり天孫が元々住んでた場所は韓半島にあたるのか >>942
実は天皇家は渡来人=侵略者ってわけだな ワカタケルの時代筑紫は大和王権の傘下だが、系統の違う継体天皇とは折り合いが悪かったのかもな >>943
魏の年号が入った魏鏡に銅出徐州と書いているよ
さらに魏志倭人伝には卑弥呼に銅鏡百枚贈ったとも
これは魏の徐州には銅山があったと考えるしかないだろう >>942
それとなく二つの勢力がある事の記があるんだな。ありがとう。 >>930
いやいやいやw
オリジナルの模倣品として主張するなら兎も角、出土品がそのまま魏からの贈答品ですか?w
貴重品でもなんでもなくゴミのように扱われてる三角縁神獣鏡が?
何度も言ってるが魏の貨幣で調べてみ?銅不足は事実
それより魏の領域で銅山があったというソースが欲しい
当時の徐州で銅が産出したのは建業付近の丹陽、江都、儀徴、いずれも呉の領域
魏の領域で採れたのならそんなに深刻な銅不足に陥る可能性は低いと思うんだがなあ >>924
30国しか配下にない
そのうち少なくとも21国は行程に関係ない詳細不明の某国
道里の詳細が記載されている国はすべて九州北部
当時の国の大きさや規模から、九州北部から遠く離れて支配することは不可能
確定情を無視して推測をするは何の意味もない。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。