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※写真はソースで

日本人は、稲作より古い1万年以上前から大麻という「農作物」を衣食住に利用してきた。
※略

■日本初の「大麻取扱事件の摘発者」とは?
同年10月12日、GHQは「日本に於ける麻薬製品および記録の管理に関する件」という覚書(メモランダム)を発行しました。
※略
しかし、日本人はこの時点でもまだ戦前と同様、「マリファナとはインド大麻(※1930年に制定された麻薬取締規則において、日本の大麻(繊維型)と区別するために、
海外の大麻(薬用型)が「インド大麻」として規制された)のことであり、農作物としての大麻は無関係である」と考えていました。
そのため1946年春から夏にかけて、例年どおりに大麻の栽培は行われていました。

ところが、1946年にある事件が起こります。
GHQの京都軍政部により、京都府で栽培されていた大麻が発見され、農家2名を含む4名の民間人がGHQの命令違反で検挙されたのです。
不運にも、彼らが日本の大麻取扱事件の初の摘発者となりました。
京都府は麻薬採取の目的ではなかったことを訴え、京都大学薬学科、刈米・木村両博士の鑑定書を添付し、インド大麻ではないことを証明しようとしました。
しかし、関係者の努力は実らず、「その栽培の目的如何にかかわらず、また麻薬含有の多少を問はず、その栽培を禁止し、種子を含めて本植物を絶滅せよ」との命令が下されたのです。

占領期とはいえ、「植物を絶滅せよ」という命令は常軌を逸しているとしか思えません。
この状況を放置しておけば、衣料や漁網などの生活用品を生産できなくなります。専業の大麻農家も少なくなかったため、数万人規模で農家の困窮が起きます。
さらに、大麻の種子はお盆を越すと発芽率が著しく悪くなるため、一年以上この状況が続いて発芽する種子が激減すれば、大麻農業は壊滅的な打撃を受ける危険がありました。

こうした報告を受け、占領下にあった政府はGHQへの事情説明と折衝を続けました。
農林省は1946年11月に農政局長名で、終戦連絡事務局(GHQとの折衝を担当する機関)に大麻の栽培許可を要望しています。
全面的な禁止を回避し、「農作物としての大麻」を守ろうとしたのです。
国を挙げての再三にわたる折衝の結果、1947年2月、連合軍総司令官より「繊維の採取を目的とする大麻の栽培に関する件」という覚書が出され、
一定の制約条件の下、大麻栽培が許可されました。
※略
このときに初めて、日本の大麻を規制する厚生・農林省令第一号「大麻取締規則」が制定されたのです。法制定に関わった元内閣法制局長官の林修三氏はのちの1965年「時の法令530号」で、
「先方は、黒人の兵隊などが大麻から作った麻薬を好むので、ということであったが、私どもは、なにかのまちがいではないかとすら思ったものである」と語っているほどです。

■昭和天皇と大麻
同年9月、昭和天皇が栃木県国府村(現・栃木市国府町)を訪問されています。
「国府村農協組合にて大麻製造御高覧」という説明文がついた写真が残っていますが、ご訪問の真意はわかっていません。
国府町で伺った話によると、大麻農業の存続を危惧して動揺する農民たちを、「これからも大麻はつくれるから、安心してください」と励ますためだったとされています。

生物学者であり、植物にも造詣が深かった昭和天皇の有名な言葉に
「雑草という草はない。どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方でこれを雑草と決めつけてしまうのはいけない」というものがあります。
占領下におけるGHQの命令に、心を痛めておられたのではないでしょうか。

その後、大麻の取り締まりを強化するため、前年までの取締規則を法制化するようGHQから要請があり、1948年7月10日に「大麻取締法」が制定されました。
同時に「麻薬取締法」が制定されましたが、これは農家が取り扱う従来の農作物としての大麻と、医師などが取り扱う麻薬類を分けるための措置でした。

この法律の最も大きな問題と考えられる点を紹介します。
それは、通常の法律は「総則」の冒頭に制定の「目的」が書かれるのですが、なぜか大麻取締法にはこの目的が書かれていないまま70年以上が経過しているという点です。
このため、そもそも農家を保護するための苦肉の策だったものが、いつの間にか大麻事犯を取り締まる法律へと変化しているのです。

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