1/19(水) 10:31配信

京都新聞

 「琵琶湖の水、止めたろか」は、下流の京都市民らにからかわれた際、滋賀県民が反撃する言葉として広く知られている。しかし、120年以上前、琵琶湖の水を実際に止めたのは、京都市の方だった。

【マップ画像】京都市が、琵琶湖の水を止めたのはこの地点

 琵琶湖第1疏水が完成した6年後の1896(明治29)年9月12日、京都新聞の前身、日出新聞は1面で「疏水第一閘門(こうもん)の防水」と報じた。琵琶湖大水害と称される豪雨で疏水に水が押し寄せ、水害を危惧した京都市は大津閘門を封鎖。山科村(現京都市山科区)村長が閘門近くに駆け付け、「閘門にて防ぎきれぬ時は全村水底に葬らるると、(市の)水利事務所員に激烈なる談判を試むる」との緊迫感も記した。第1トンネル東口にも鉄扉や土俵が設置され、封鎖は徹底的に行われた。

 滋賀県側の怒りは激しかった。7日後の紙面を見ると「大津町(現大津市)は封鎖で浸水量が増したとして京都市に対し、閘門開放を請求」したが、京都市は「閘門の開閉は市の自由で、要求には応じ難し」と拒否した、とある。府も京都市の考えを支持したことから、県は内務省に「(府の態度は)条理に背きたるもの」との抗議文を送っている。

 封鎖を検証する論文を発表した京都大文学研究科非常勤講師の白木正俊さんは「開通時、滋賀県側の懸念は取水による水不足が主で、増水時に封鎖することを想定もしていなかった」と分析する。

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 京都市上下水道局によると、戦後、治水目的で疏水を封鎖したことは「おそらくない」という。1905(明治38)年に南郷洗堰(現瀬田川洗堰)が完成し、琵琶湖の水位調整能力が向上したことも大きい。では今、記録的な豪雨があれば、封鎖できるのか。

 「機能的には可能だが、市の判断だけではできない」と市疏水事務所担当者。運河法や関係規則が整備され、封鎖には国、京都府、滋賀県の承認、許可が必要になる。封鎖時の第1疏水は主に発電や舟運に使われていたが、1912(明治45)年の第2疏水完成で、現在は99%の市民の飲料水を琵琶湖に頼る。封鎖の影響は当時の比ではないだろう。

 白木さんは「疏水封鎖の歴史は忘れ去られ、教訓として認識されていない」。疏水では2018年に遊覧船の本格運航が始まり、日本遺産にも認定された。「関心は観光資源に向いているが、近年多発する局所への集中豪雨など洗堰だけで水位を調整できなくなる事態が起こらないとは断言できない。コロナ禍で観光が下火になった今、疏水の在り方を再考する機会ではないか」と提言する。

 歴史的に見れば「止めたろか」は、京都市民が滋賀県民を脅す文言だった。完成130年を迎えた疏水。封鎖は京都、滋賀の関係を揺るがす大事件だったが、京都市が2020年に改訂した疏水の紹介冊子の年表に、その史実は記されていない。

https://news.yahoo.co.jp/articles/bd9f17dfd8ce20f018d5f14ce71546a6bd884e3a