【邪馬台国】前方後円墳は卑弥呼の都「纒向」で誕生した [樽悶★]
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古墳文化の象徴的な存在が前方後円墳。国内最大の仁徳天皇陵古墳(堺市、墳丘長486メートル)は世界文化遺産となり、海外でも「KOFUN」として知られる。前方後円墳はいつ、どこで生まれたのか。
「纒向(まきむく)=奈良県桜井市=以外に考えられない」というのが、寺沢薫・纒向学研究センター所長。纒向遺跡は奈良盆地東南部に位置し、邪馬台国(やまたいこく)の有力候補地。女王・卑弥呼の墓ともいわれる箸墓(はしはか)古墳(3世紀後半、同約280メートル)をはじめ、3世紀の最古級の前方後円墳が集中する。
なかでも箸墓古墳は、国内最初の巨大前方後円墳とされながら、なぜ突然出現したのかが謎だった。奈良では2世紀まで、5〜10メートル規模の方形周溝墓しかほぼなかったからだ。
寺沢さんが着目したのが、纒向遺跡にある墳丘長100メートル近い前方後円墳。纒向石塚古墳(同99メートル)、ホケノ山古墳(同80メートル)などは発掘調査で、箸墓古墳より古い3世紀前半の可能性が高まった。
2022/1/20 07:00
https://www.sankei.com/article/20220120-DNUINY4TPBJFNIHXRPRGUVSOQA/
https://i.imgur.com/mu8TPup.jpg 文化先進大国だった古代大韓は 東海を超えて 小倭列島を平定し 倭猿に文明を与えました と、自分の頭の中の帳面に書いてもらいました。
岸辺露伴先生に。 曹操の鏡が九州で発見されてるじゃん。九州なのは決定的なわけよ。 >>1
古墳は、田んぼを整地した残土を山にしたものだよ
のちに整地作業の功労者が亡くなった際に、感謝の意を込めてその残土の山に埋葬した
最初から墓として作られたわけではない 「ひみこ」って書いてあるパンティとか出てくればいいのにな。 なんでこれがヤマタイコクなん?
ジャバダイコクだろ完全に 卑弥呼なんてのは九州の一部落の女酋長が勝手に日本全体の女王だと名乗ったに過ぎないよ。
大和ではありえない。 >>6
まず邪馬台国があったのか
から始まってしまうな 民間の議論の盛り上がりを消さない為に、
変わり者の5%の学者が九州説に無理やり付いて論争が続けられてる >>13
現代の日本での読みと当時の中国の読みが同じだと思ってるの? >>19
どういう定義で言ってるのかは知らんが
日本最大の政権は当然あったろ
邪馬台国がその最大の政権でなく、地方政権だというなら、それもあっただろ。 また古代史マニアがイキって
朝鮮人が起源捏造のコピペ連投するスレか。 で、邪馬台国からヤマト政権に移行してるのしてないの? だから、🇭🇺ハンガリー語となんとなく似てるのかー
🇯🇵日本語は >>16
たしか、劉備玄徳が卑弥呼に仕えてたとかいう話を読んだことある。 つか、渡来秦人が、
🇭🇺ハンガリー語らしき言葉喋ってるって
どういう事w 大和盆地の佐保川のほとりを歩くと、矢田丘陵が
まるで引き戸のように動いているかのように見える
もちろん間の方が移動しているわけだが
「山戸」だなぁと、実感できる場所 実際は、ドラえもんが一枚絡んでて、
卑弥呼も本当はしずかちゃんなんだよね 全然話違うが
前方後円噴はナマの壺を模したものだと以前聞いたからネットで調べると学術的にもガチだった
なんで古代イスラエルや皇室の三種の神器マナの壺を表しているのか。纒向よりこちらの方が知的好奇心ある 卑弥呼が亡くなった時、生贄が100人以上埋められた >>13
新説だな、ジャバ、ジャバ、ジャパ、ジャパン
で不思議は無い。論文、書いて下さい。 吉備の国には古墳時代より前に、前方後円墳の原型となる墳丘墓がある 魏志倭人伝を知ってて記紀でスルーしたのは黒歴史だから? 雑学だが
奈良県と堺より南の泉州は同じ自治体だった
関東が大阪の富を分断するために境界線を変更した >>1
邪馬台国スレって時々立つけど色々な知識がある人がレスするからいつも面白い 高い文明で協調性を大切にする=北部九州 低い文明なのに無駄に偉そうな人=本州
こういう関係性かな もう高度成長期の工事で古墳とか遺構全部無くなったんじゃねーの ジャップのいつもの妄想が始まった
前方後円墳は大韓で始まったに決まってるだろたわけが >>52
大小合わせて16万くらい残ってる
個人の敷地にあるのはぶっ壊すのも可能だし、もちろんその他のも工事とかで失われつつある >>56
> ジャップのいつもの妄想が始まった
>
> 前方後円墳は大韓で始まったに決まってるだろたわけが
古代の 半島南部は
大和の植民地www 卑弥呼とは人の名前じゃないんだよ。
沖縄のユタや青森のイタコみたいに口よせとか占いとかお告げとかしとった者なのよ。職業の名前。
集落にそう言う人が1人おって、その人の占いとかを参考にして皆で決めていたんじゃな。
卑弥呼=日の巫女みたいな感じでいいだろう。太陽神につかえとった人と神の仲介者 >>41
魏の役人 「お前らどっから来たの?」
身元不明人 「ヤ マ ト」
魏の役人 えっ「ヤ マ ト?」
「邪馬台国」と書いておくか。
当時のヤマトには「文字」が無かったので、魏志の記録ですよ。 1世紀後半ぐらいから瀬戸内で大規模な戦乱を経て
3世紀後半には畿内に大規模な連合政権が出来たことは変わらないので
その期間に包含される邪馬台国がどこにあろうと大した問題ではない >>59
半島の南部
百済は日本領だったとしか
考えられんわな >>65
> >>59
> 半島の南部
> 百済は日本領だったとしか
> 考えられんわな
日本という 国名 は
大化の改新 以降
当時は ヤマト >>67
朝鮮人のアイデンティティに触るからやめてやれ 大倭国と日本は別の国だよ。九州の大倭国が朝鮮半島で唐と戦争して撤退した後、倭国大乱があって奈良の日本が列島を統一。 銅鐸がなくなり墓制が変わったのを見ると支配者が変わったのかもな
東海勢がヤマト政権を作ったのかもしれない
同じ時期神奈川でも銅鐸が消える
神奈川の昔話、背中の赤い蟹は実際にあった話かもしれないね
神奈川には鐘を大切にしていた蟹が住んでいたが火が起こり蟹たちは必死に戦ったが多くがなくなった話
炎立つ、西へ東へ、戦国時代と同じことが起きたのかも 邪馬台国とかヤマトより秋津国の方が好きだな。何かカッコいいし >>71
それは無いだろ
出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)は
朝鮮半島出身だったかも知れんが、日本の天皇家が滅ぼしてる
祟りを恐れて作られたのが、出雲大社 当時の朝鮮半島は倭人の生活圏だしな。今の朝鮮人とは違うぞ 古代ローマ人の末裔が今のイタリア人ではないのと一緒か 肝心の理由が書いてない
そもそも邪馬台国は奈良ではない 前方後円墳がどこで成立したのかはよくわからんよ
最古級の前方後円墳は九州から中国、四国、近畿までの西日本にしかなく
東海以東にはないので、西日本のどこかが発祥だとは思うが、発祥を結論付けるような根拠はなかなか難しい
少なくとも卑弥呼の墓は円墳のはずなので関係ない
それよりもなぜあんな形にしたのか?の方が気になるね
円墳も方墳も以前からあった
円部が石室で、方部が祭祀場とは解説されるが、元々そういう意図であの形にしたのかなぁ?
円墳2つがくっついた双墳墓というのもあり、夫婦もしくは親子が埋葬されてると考えられてる
何がしたくてあんな形にしたんだろ? KOFUNって古墳じゃなくて興奮だろ
HENTAIみたいなもん 断定的なことを書いてる奴は最後に「知らんけど」が抜けてるで >>80
古墳という名称は現代人から見て古い墓って意味
現代人がつけた名称だよ >>84
あー、あの形はな。女なんだよ。
女の股から生まれたから死んだら女の股に帰るのさ。
沖縄の亀甲墓と同じ感覚。
だから円が子宮、方が産道(膣)と言うわけだ。
知らんけど >>3
先週そんなスレたってたよ
ttps://www.mdpi.com/2072-4292/14/2/377# 宮内庁ないし皇室を滅ぼさない限り一生古代史の解明は無理だな 行程が南ってなってるのに東の誤りと苦しい訂正をしなきゃ行けないところがトンデモすぎ。 奈良の東大寺を中心に
出雲大社、伊勢神宮、住吉大社
で護られてる
それが都 しれっと卑弥呼の都とか付けるなよw
まだ確定してねーしw >>1
卑弥呼の名前見たら解るやろ、卑しい巫女なんだからな、朝鮮半島から来たんだよ 邪馬台国は、小田急線の大和駅あたりにあったのでは?www あと、纏向はデカすぎる。
纏向が前方後円墳の発祥ってなってるけど、だいたい小さいの作って試すのが摂理 4世紀の馬具が出た
大きさから言って築造に馬を使用した
ホケノと同じく槨埋葬は確実
100人の殉葬は想定できない 邪馬台国
当時の「台」はどう頑張っても「タイ」とは読めないと聞いたが >>92
方角を誤りって言うのは、あまり筋のいい反論じゃないんだぜ?
狗奴国の方角なんか、魏志倭人伝では南だけど、後漢書では東になる
実は中国の史書の記述は方角にしても当てにならない 海外でkofunなんて言わんだろ。
海外でってつければ騙せると思ってる近畿説支持者のレベルがわかるわww そもそも、九州、山陰、畿内、北関東、東北の5箇所に文明地がある
卑弥呼はたぶん持ち回り制
山陰から畿内に首長譲りの際に畿内勢力から一方的な武力蹂躙が起きている
東日本エリアは我関せずの方向に走ったらしい >>102
アレは福岡?九州北部の○○たいって語尾につけるやつだとにらんでる。
魏(´・ω・)ここどこ?
倭(^ワ^)山たい!
つまり、言葉が通じないから国名じゃなくて、ここは山ですって説明しただけなんだよ。 >>103
距離も方角も信頼できないものって
何なら信用できるのかね 日の巫女=ヒミコ だからな
巫女だから、当然 御神体 があるはずなんだよ
日本最古の神社が 奈良桜井市の大神神社
御神体は 三輪山
三輪山のふもとには 纏向遺跡 と 箸墓古墳
三輪山 から
日の出の方向の最果ての土地 に 伊勢神宮
日の沈む方向の最果ての土地 に 出雲大社
コレに匹敵する場所が、九州にあるか? >>91
古墳掘ったらわかりましたってそんな簡単なわけないだろう
文字資料がほとんどないんだから
結局そこから何か遺物がでても他との比較でしか語れないし >>103
そもそも、中華が一つの国ではなく多数の国の集まり
曹操の本拠地を考えた場合
漢が秦の延長線上にあることを考えるに満州ないし半島付近に防人国家があったと考えるのが妥当
つまり今の日本国上にない可能性が高い
当時の船が沿岸航法以外取れない状況や朝見した使者を見るにあたっても百済、新羅あたりに本拠をもっていたかもしれん
魏ならギョウが都、漢なら洛陽が都だからな
方角的には何も問題ないと思われる
つまりチョン半島の半分ほども日本だったということだ 邪馬台国は土人の月信仰
野蛮な月信仰土人が滅ぼした古の倭奴国王族の血を引く卑弥呼を、邪馬台国新王朝の妃に迎えることで血を繋いだ 前方後円墳は司馬炎が造った円丘方丘の祭壇が元である。
266年以降に作られたモノである。
初期の前方後円墳は冬至と夏至の祀りを行う祭壇として創られた為、墓穴は後で作られた。
邪馬台国の超重要拠点の伊都国の
卑弥呼の死亡時期と同時期に造られた
平原遺跡の古墳がただの方墳である事で、
卑弥呼の時代の邪馬台国は
前方後円墳の築造を象徴とする
勢力で無い事は確実。
平原遺跡のカメカン墓と時代編年を同じくするカメカン墓が祇園山古墳から出土している。
平原遺跡からは16人の殉死が確認されており、
卑弥呼の死亡時期に邪馬台国で殉死が行われた事は確定。
祇園山古墳においては66人の殉死が想定できる。 大阪人はしついなぁ
歴史を捏造する韓国朝鮮人みたいだよ 卑弥呼は分からんが
卑弥呼を滅ぼした天皇家の事は
少しだけ残ってるだろ 中国から伝わったもんだと思ってたが。
チョンの起源主張は置いといて。 1世紀 奴国王が後漢より金印を授かる
2世紀 倭国王師升が後漢に朝貢、倭国大乱
3世紀 倭国王卑弥呼が魏より金印を授かる、邪馬台国と狗奴国が対立
4世紀 空白の世紀
5世紀 奈良の大和王権が北九州〜南東北を平定 雄略天皇「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」
6世紀 継体天皇即位、大伴氏が半島にあった領土を割譲、筑紫磐井が大和王権に反乱
7世紀 聖徳太子が軍隊を半島に派遣、乙巳の変、歴史書を新たに編纂
8世紀 隼人の乱、藤原広嗣が大和朝廷に反乱
9世紀 最後の朝貢を持って隼人の名が消える、北海道と南西諸島を除く日本統一 産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
(証拠隠滅) 『日本人の起源』(講談社学術文庫/中橋九州大学教授)
■67頁
人間とチンパンジーの分岐は600万年ほど前。DNAの塩基配列などから推定。
なぜ二本足歩行をすることになった理由は、「サバンナ説」では気温低下で
森林が減り平地を移動するため。視界が広くなる、両手が使える、直射日光に当たる面積が
小さくなる等有利だった。
■75頁
チンパンジーの雌の体格は雄の80%位。人間も同じ位。ヒヒやゴリラは一匹の雄が複数の雌と
交尾するハーレム型だが、チンパンジーや人は一夫一妻制。両手は雌や子供に餌を持っていく
ために発達した、という説もある。その場合自分の子供であることが大事。ヒヒなどは
他人の子供は殺して自分の子供だけを育てる。
■113頁
アフリカで生まれた人類が世界に散っていったとする人類単一起源説が主流だが、
各地で発見される化石をみると現在までの連続性が見られるので、反対説もある。
■125頁
日本人と朝鮮人は全くことなる。
数万年前の氷河期では海抜が今より130m下がり
間宮海峡や樺太北海道は陸続きだったが、
対馬海峡は深いため当時から海で隔てられていた。
民族的に近いなんてあり得ない
■191頁
先住民族が居て後の現日本人の祖先が来て征服した、という図式がなぜできたのか?
西洋ではそういう事例が多いし神話にも征服伝説があるためだが、疑問がないではない。
■203頁
「東京大学の鈴木尚は、関東一円から集めた豊富な資料をもとに時代変化の様相を描き出した。
それによると明治維新の前と後ですら頭蓋長などに大きな形態変化が起きていることが分かった。
弥生時代における大きな形態変化も外国による混血ではなくそれによるものだと思われる」 お前ら映画の「卑弥呼」観てみろ!
色々な意味で面白いから! 円墳に祭壇を付けただけのことだろ、相撲取りのちょんまげと同じようなもんだ。 関東も畿内と同じでかいヒスイの勾玉が弥生時代の遺跡から出土している
畿内でも弥生時代末期を最後に勾玉は消えるが考古学的に仁徳天皇時代再び勾玉のブームが来る
勾玉銅鐸方形周溝墓から卑弥呼のヤマト政権の時代そして再び勾玉の時代へ >>115
日本の古墳の多くは円墳
シナの古墳の多くは方墳
開けた土地の少なかった日本の地で直線という概念が生まれなかったのかもしれんな
物事を筋道立てて論理的に解釈するという文明がなかったかもしれん
文字も筋道だった論理の延長にあるもので、当時の日本には文字がなかったと考えてもおかしくない
まあその融合体として前方後円墳が生まれたであろうことは想像に固くない
朝貢したヤツが卑弥呼と名乗っただけで、そんな大きな意味はなかったんじゃないだろうか?
邪馬台国も集合国家だったと言う説が有力になってきている >>123
空白は無い
野蛮な国だから金印ナイナイされていた倭の五王時代が四世紀 >>128
その時代は韓国なんて無かったと何度言えば解るのか
日本は1000年前も2000年前も日本 >>126
調べると篠田正浩監督、音楽は武満徹で主演は岩下志麻ですか。
なかなかの名作みたいすですね。 フクオカンコクからパクったパクり国家か(笑)
ざまあねぇな >>109
卑弥呼がいたって事は信用してもいいんじゃないかな?
魏志倭人伝の文章の中に、制詔からはじまる明らかに他と文体の違う下りがある
ここは少なくとも洛陽にあった公文書を書き写したであろう部分
他の部分は出典元が曖昧で、間違いも含まれると考えたほうが良いよ 107年に朝貢した倭面土国はヤマト国の当て字で、
既にこの時代に奴国から政権交代して、
邪馬台国が覇権を握っていた。 >>137
任那に有る前方後円墳は、年代的には新しいぞ。
朝鮮半島が日本の領土だった証拠でしか無いw 邪馬台国の本持ってるけど、九州と奈良の
箸墓古墳が有力視されているね( ・∀・)
決定打がなく論争が続いているみたいだけど >>110
その頃に伊勢神宮は無かっただろ
もっと後の時代に造った >>128
邪馬台国の起源とか意味が分からないが、
万能壁画に書いて有るなら朝鮮人にとっては、そうなんだろなw >>38
まあ可能性で言うならゼロではないからね
現状九州99%畿内1%だとしても可能性は可能性だから候補地として名乗るのもありっちゃあり 記録くらい残し溶けよ
朝貢してたんだから文字かけるやついただろうに >>110
お前恥ずかしいぞww
九州のこと何も知らんやん >>110
火の巫女=ヒミコ
御神体は火の山阿蘇
火の国熊本 倭面土王は彦坐王であり
倭国大乱は狭穂彦王の乱である。
邪馬台国の卑弥呼は倭姫命である。 >>55
纏向遺跡を邪馬台国とする根拠は「時代が近くて立派な遺跡」だからだろ
言ってしまえば思い込みよね
その話聞いた時は「ああ、日本の学者って馬鹿なんだな」って思ったよ この手のスレって根拠の無い妄想を連呼する奴らばかり湧いてくるんだよな 半島からの攻撃に備え
最前線 出雲大社 長い大階段を作り遠くを見渡せるようにした
指揮官 、指令所 東大寺、春日大社
天皇の逃げ場所(避難先) 伊勢神宮 卑弥呼なんか調べてもお前らの起源じゃないのに
さすが起源が不明の日本人 >>154
お伊勢参らばお多賀へまいれ、お伊勢お多賀の子でござる >>148
当時の文字が残ってないんだから仕方ないだろ
誰が消したのか知らんが 信長が本能寺の変で実は生きていて
モンゴルでチンギスハーンになって
死んだと思われたが実は生きていて卑弥呼になった 中国にとって邪魔な台湾国
これが邪馬台国由来なら
邪馬台国は台湾になる
新説キターヾ(°∀° )/ー! 纒向は特殊器台埴輪や
桃の種、犬の骨等の出土により、
桃太郎伝説の元になった
吉備津彦を家臣とする吉備出身の
豪族の御間城崇神の王都である事は確実で、
出土する外来土器の出土状況から、
四道将軍を派遣した範囲を
実際に治めていた事は確実である。 韓国の前円後方墳をパクったつもりが無能だから前後逆にしてしまったニダ >>140
ヤマト国は倭国の事でもっとデカいでしょ
それに奴国ではなく倭奴国でこれも倭国の事 >>155
縄文時代1万年が羨ましくて仕方ないんだろうな 邪馬台国は宮崎だと思うけどなぁ
西都原古墳群に前方後円墳の原型みたいなのが多くあるみたいだしさ >>152
遺跡が広大だから纏向
女性が葬られてるから箸墓
その程度の感覚論だよ
ベースとなる史料が正確じゃないので、どうにもならないんで
物証を見つけ出すしかない 古墳時代では中国大陸から台湾―沖縄―九州は陸続きだった
邪馬台国は台湾で大陸と日本をつなぐ橋渡しで文明が流れてきた
新説キターヾ(°∀° )/ー! >>1
最古の前方後円墳って神門古墳群の5号墳だろーに、アホだな 日本の最前線基地 出雲大社
日本の港基地 住吉大社
指令所、首都 春日大社
天皇家避難所 伊勢神宮
伊勢神宮だけ特別なんよね
不思議やな 教科書の初めの方に必ず卑弥呼の事書くのやめたら?
卑弥呼ルートは今の日本に繋がらないのに
日本の歴史の教科書なのに天皇関連が少なすぎて勘違いを誘発しすぎ >>164[
邪馬台国は当て字だからヤマトの事で
卑弥呼は日の巫女で単なる神官長にすぎなかったって説もあるし 魏から卑弥呼に贈られた鏡は、
卑弥呼の死亡時期に築造された、
邪馬台国の外交上の重要拠点の
平原遺跡から多数出土する
舶載鏡の方規格矩四神鏡と内行花文鏡である。
コレらが日本でおよそ100枚出土する事で、
卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡が確定した。 >>161
九州邪馬台国の王族の傍流(日向)を王と祭り上げて大和入り
諸国連合となり次第に九州邪馬台国より
分家邪馬台国が大きくなった
それが纒向なんだろうと思う >>150
当時阿蘇が活発に活動してたみたいだからこの説はアリと思ってる
邪馬台国の民は阿蘇の噴火を恐れて祈祷してたとも中国記録にあるし >>176
倭国大乱中には親呉倭王も居たんだろうね 天孫降臨は宮崎だし出雲は島根で伊勢は三重
和国(倭の字は中国が馬鹿にして付けたもの)の一部を国と勘違いしたんだろ
馬鹿にしてたから広大な土地を持ってる事に気づかなかったんじゃ? 韓国で円墳が日本のほうが
古いと分かって埋めたとかあったな(笑)
あの国の歴史学者は大変だ >>177
その考えは根拠の無い妄想であり、
考古学上の発掘事例から
纒向は吉備出身の豪族の
御間城崇神の王都である事が確定している。 朝鮮半島に存在する前方後円墳は日本列島から伝わったもんだよー。 >>1
そう信じて見るからそう見える・の典型
この点に関しては九州説の信者も共通してる >>176
そもそも当時 国や王と言った言葉の意思疎通が出来てたのかも怪しいんだよな
今だって中国人といきなり会話しても何言ってるかわからんだろ
国=土地 王=代表者 と勘違いした可能性は十分にある >>185
伝わったんじゃなくて日本人が支配してたんだけどな >>115
【11月】
晋の司馬炎が円丘と方丘の祀を併せる。
『正史 三国志8』
【11月】「倭国の使者」
この年、倭の女王が晋に使者を遣わし、献上品を捧げた。
『日本書紀』(神功皇后紀)の注
私は同じ11月の先後関係を倭の使者が先とみる。
倭の使者(中国人)が前方後円墳の説明を中国風にして、司馬炎が真似たと思っている。 >>116
たしかに鍵穴っぽい
どうして四角いほうが前だって分かったのかがまず分からんし間違ってるかもしれんし
日本も鍵穴古墳で良くね >>175
魏からもらったのは同種同型の銅鏡がきっかり100枚だよ
卑弥呼の鏡は魏志倭人伝の制詔の中に出てくる
読めばわかるが、贈った物が事細かに書いてあり
種類の異なるものはちゃんと分けて書いてある。
その中で銅鏡百枚とだけ書いてあるので、同種同型100枚だろうよ >>181
英語圏の人は、古墳のことを興奮って発音するよね >>193
西洋人から見ても鍵穴に見えるから
前方後円墳の英語表記はKeyhole Tomb
古墳全般になると、KOFUN Tombになる >>4
まだそんなこと言ってんのか
宋書倭国伝100回読め >>197
鍵穴でキン肉マンの腕に鍵が出来て解錠すると言う気理論www 箸墓古墳は最古の前方後円墳で古代最大のカリスマ女王である卑弥呼の墓なのに、
箸がマンコに刺さって死んだ姫の墓って捏造した日本書紀
完全に途中で歴史が断絶してる証拠 当時は日本語で意思疎通が出来ない
そして邪馬台国、卑弥呼、倭国は当て字
中国が馬鹿にしてるから邪・婢・倭等の悪い意味を持つ言葉をわざと使われている
大国を小国(部落)と誤認しか多能性は十分にある >>191
「圓丘」は天神(天帝)を祭り、「方丘」は地神(皇地祗)祭る祭壇。
『後漢書』祭祀志 劉昭注
「天を南に祭って陽の位に就き、地を北に祀って陰の義を主ります。
天を祭る圓丘は天の形を象り、地を祭る方澤は地の形に則ります。
圓方は天地の形状により、南北は天地の位置に従ります。
柴を焼いて気を昇らせて天を祭り、犠牲を埋めて類祭を行い地を祭ります。」
<圓丘>天神を祭るための祭壇なので天壇といいます。
天は円形と考えられていたので天神を祭る祭壇も円形です。
圓丘は皇帝の居城から見て南に築くので南郊壇(天壇)といい、どの時代の王朝でも天神に対する祭りは全てこの南郊壇で行います。
『後漢書』祭祀志 北郊壇
「北郊は洛陽城の北四里にあり、方形の壇で四層重ねである。
建武三十三(57)年に北郊の祭祀を行い、別に地祗を祀った。
地祗は南面して方壇の西の上位に置き、高皇后の木主を配侑し、西面して北の上位に置き、みな方壇の上に置いた。
山川などの土地の群神を従食させ、これらをみな壇の下に置いた。」
<方丘>地神(皇地祗)を祀るための祭壇。
大地は方形と考えられていたので地の神を祭る祭壇も正方形。
方丘は皇帝の居城から見て北に築くので北郊壇(地壇)といい、地神に関する祀りをする場所です。
司馬炎は居城を挟んで南北に位置させるべき伝統をなぜ無視したのだろうか? 普通に宮崎にあると思うけどなぁ
じゃないと神武東征はどこからでてきたって話になるしさ >>103
日本でも琉球語で北をニシと言うせいで地名等に混乱のあとが見られるな >>194
その考えは時代考証の観点から間違っており、
卑弥呼が魏に使者を派遣した時期には、
魏は徐州の銅山を支配しておらず、
銅銭の流通に困難しており、
その状況で魏から卑弥呼に100枚も贈られた銅鏡は、
漢の時代に作られた漢鏡をかき集めて贈った事が確実である。
魏で鏡と言えば鉄鏡であるのである。
この鉄鏡が魏から貴人公司に贈られた9寸のサイズのモノが、
日田のダンワラから出土している。 女子トイレのマ―クが由来だろこれ
察するに
我々が古墳と錯覚していたものは
古糞であり古代において共用トイレだった可能性が高い。匂いを消すために土を乗せて今の形になった
https://i.imgur.com/XLQuTLV.jpg >>207
ニシっていうのは先祖が来た方角だっけ?
朝鮮半島南部から日本人が来たのは確定してると思うんだがどうなんだろ 円墳はわかるんだが、方墳つくろうっていったやつ変わってるよな >>206
神武天皇の東征自体が妄想なのでどこからもクソもなかろ >>209
制詔に銅鏡百枚と書いたら、銅鏡が100枚以外はあり得んよ
鉄鏡も贈ったのなら、はっきりと区別して書いてる
公文書でわざわざ省略するようなことはしない 弥生時代から、円形と方形の墓があった。
中国の墓の形式の影響はほぼない。
積石塚も、かなりの初期段階で、そこそこの規模の墓が高松などに作られている。
朝鮮半島の墓の影響もほぼない。
岡山の楯築や宮山など、双方中円や前方後円の形の弥生墓もあった。
前方後円の平面の形は、観念的な論理で設計図を作ったようなものではない。
前方後円墳の立地は、ほとんどが後円部のほうが地山の標高が高い。
著名な例外は桜井茶臼山くらい。
前方後円が壺を模したというのは、現地を知らない座学学者の妄言。 >>212
そう?如何にも意図的に作りましたって感じでよくね?
円だと適当に土盛ったみたいに見えるし >>213
だったら直接奈良県に天孫降臨したって話にならないか?
でも宮崎から来たって話になっているんだから東征が事実かどうかは置いておくとしても宮崎が先祖の地だと考えていたのは当然という帰結になるだろ
神話は全てがフィクションじゃないからな >>205
原文
「泰始二年十一月己卯、倭人来献宝物。
并円丘・方丘於南・北郊、二至之祀合於二郊」
倭の使者が訪れた後を受けてのことになっている。 >>218
要はおっしゃるとおりで、デザイナー的なセンスがあるという意味 考古学的にはもう奈良の勝ちで確定か
史書なんてデマが多いからな、発掘こそ大正義 >>212
それをくっ付けて前方後円墳にしたやつの心境はさっぱりわからんw >>26
大日本帝国と日本国ぐらいには別の国なんだろ >>219
妄想に妄想を重ねてさらにその上に妄想を重ねてる話だからそのこと自体検証するだけ無駄 >>179
卑弥呼の「卑」はヒ甲類で、「火」はヒ乙類という問題がある
ヒ甲類とヒ乙類が違っていた時代より500年ぐらい前だから単純ではないけど まぁ諸説あるけど前方後円墳はどうやってできたか不明だよな
前段階無しにいきなり登場してる
円形周溝墓からとか、他のそれっぽいものとか進化の直線上にあるとは思えない 前方後円墳は有名だけど
上円下方墳はマイナー
昭和天皇の古墳もコレ 前方後円墳の原型のひとつ
峰山のしゃもじ型古墳もお忘れなく 宮崎の古墳に前方後円墳の原型的なものが多くあるらしいし宮崎だと思うんだけど >>222
出土品から見た奈良、というか畿内側のアドバンテージて何?
鏡に関しては九州に分があるし前方後円墳は邪馬台国と関係ないから存在自体意味ないし
纏向遺跡は邪馬台国と結びつける為の証拠は基本ない
何か九州と比べて◯◯があるから畿内の方が有利とする証拠があるかね? >>229
調べたけどだからそれが何?って感じだな
神武天皇の東征があったっていう物理的証拠が見つかってからものを言おう 纏向には巨大な古代都市の遺跡があり、やまと政権の発祥の地だと分かった
纏向ではシャーマンの集団が高い地位を持っていることも分かった
纏向から前方後円墳が発生したのも分かった
でも何が何でも卑弥呼に結びつけるのはおかしい >>219
宮崎は瓊瓊杵尊の天孫降臨の地であって
瓊瓊杵尊が住んだのは鹿児島(吾田の笠沙宮)だよ
瓊瓊杵尊の妻コノハナサクヤヒメの本名も
古事記:神阿多都比売、日本書紀:神吾田津姫
吾田というのは、今の鹿児島県南さつま市の辺りの地名
ttps://goo.gl/maps/bwodSnP88jZZdtwF6
なので、もし神武東征があったとすると、宮崎ではなく鹿児島が出発点になる >>233
近畿は古墳群や後の大和朝廷だな
それ以前になにも無かった訳がない でも箸墓古墳の埋葬者=倭迹迹日百襲姫命はただの「天皇の娘」であって
女帝ですらないただの巫女さん
中国で「王」と呼ばれていた卑弥呼とは全然違うよな?
この大きすぎる矛盾を説明してる人みたことないが 前方後方墳
ジグラットじゃねぇぇぇぇかぁあああ
つまり古墳の由来はシュメール人
https://i.imgur.com/eGmFWPZ.jpg 中国の皇帝「東の国の支配者という称号を日本に上げよう
でも日本ってどこにあるんだろう ちょっと行って調べてきて」
使者「うーん 地元の人に聞きながら探してみようか
あ、そこの人 東の国を支配している王を知ってますか?」
??「それはウリナラのことニダ それはウリが貰うニダ」
使者「すぐに見つかってよかった これで帰れるわwww」 >>237
あー鹿児島なんだ
生目古墳群があったのは宮崎南部だから鹿児島も含めて勢力圏だったのかも >>235
神武東征の証拠なんて、河内湾の紀元前の地形と
即位したとされる橿原の橿原遺跡で充分じゃね?
紀元前の河内湾の形状
橿原遺跡の起源が紀元前7世紀
現代の地質調査、土器サンプルを駆使しないと時代判定できない
これらを7世紀の人間が解明できるはずがない >>241
箸墓古墳掘り起こさないとわからなくない? 日本の古代史は本当に不毛だよ
天皇家が倒れない限りはまともな学問にならない 考えれば考えるほど九州南部説が濃厚になる気が…
いや、邪馬台国が後のヤマト王権の原型という説が前提だけどね? >>9
曹操は後漢時代の人です。邪馬台国はその後の魏の時代です。
魏の鏡は全国から出土します。つまり、魏の時代にエポックメイキングな事が日本に起こったんですね。 高天原から日向高千穂(当時の鹿児島宮崎)に降臨したニニギとコノハナサクヤヒメ(阿多隼人族)との間にホデリ(海幸彦)とホオリ(山幸彦)が産まれ
ホオリと豊玉姫(海神族=安曇族)の間にウガヤフキアエズが産まれ
ウガヤフキアエズとタマヨリヒメ(海神族=安曇族)の間にイワレビコ(神武天皇)が産まれ
イワレビコは日向でアヒラツヒメ(阿多隼人族)を妃とし、間に産まれたタギシミミと共に東征を開始
道中でヒメタタライスズヒメ(出雲族)を正妃とし、大和橿原宮で即位した。 前方後円墳は前段階が無く「突然」出てきたってのがミソだよな
そしてその突然現れた前方後円墳が関東から九州まで突然出現してる
段階的に発展したとかじゃないのが重要 大体、日本書紀の編集者ですら
魏書の二人の女王が自分の歴史に見当たらないから
神功皇后を格上げして無理やりそこにねじ込んだくらいなのに
箸墓の埋葬者なんてかすりもせんわ 文字がないから誰の墓か特定するのは難しい
ただ倭の五王は巨大前方後円墳の何処かに埋まってるでしょう >>4
逆だ馬鹿朝鮮人
古代から日本が朝鮮半島南部を支配してた >>244
日向で立身したニニギが嫁取りで鹿児島県南部の
海洋民の一族の娘を貰ったんかもね
古事記:神阿多都比売、日本書紀:神吾田津姫
どちらも津(つ)というワードがある
これは湊だったりの海の近くの民を示すワード
日本書紀にも海に近い描写がある
そこで3代ほど過ごして同化し海洋民族となった神武が
九州南部をぐるり周り、速吸之門を抜け
東征していったというストーリー >>1
ネトウヨ的には日本の歴史の大事な部分が
「中国」の文献がないと何もわからないのはどう感じてるんだろうな
やっぱ屈辱? >>253
>>254
なんで当時最大級の、いかにも大王的存在が埋葬されてそうな墓なのに
「巫女さんが埋葬者」ってのが昔っからの定説・設定になってるんだろうな
箸墓はいつから「巫女さんの墓」扱いになったのか >>241
天皇の娘、巫女
卑弥呼だろが
天皇より高い墓で女性であの年代なら卑弥呼しかないだろ >>257
やっぱり日本書紀や古事記って良いよねぇ
また読み直すかな >>246
箸墓は意外と立ち入り調査をしてたり
今はミューオンで非破壊検査やってる
因みに仁徳天皇陵(大山古墳)にしても
過去に大雨で石室がむき出しになった時に調査済みだったりする
意外と古墳の調査ってやれてたりするけど
宮内庁が邪魔して調査できないってイメージで語られる >>35
お前みたいな奴が陰謀論にはまるんだろな。何が知的好奇心だよ。 纏向遺跡の外来系土器で1番多いのが東海、次いで山陰次いで吉備
卑弥呼の時代の博多周辺からは吉備など瀬戸内海の土器が多数出土し東海の土器も見つかっているが畿内の土器はない
東海山陰吉備の連合政権が女王国、ヤマト政権で九州北部も奈良もその支配下にあったと考えられる >>237
>>257
\(^o^)/おもろい説。説得力あるなぁ。これで進めよう なんで邪馬台国をヤマタイコクって読むんだろう
ヤマトノクニじゃないの >>261
中国の史書に出て来るってだけで日本での評価はわからん
卑弥呼のやった事は国賊だからな >>241
ただの天皇の娘って
まあ最初は何でもないただの天皇の娘だったかも知れんけど
段々と >>268
しってるか?これも全部乾巧じゃなくて本居宣長って奴のせいなんだ 卑弥呼の描写からして姉が占いを行って弟が統治するという体制からアマテラスとスサノヲのように感じるんだよなぁ
神話に残るくらいだから古代だとそういうのが一般的な統治方法だったのかな? >>271
邪馬台をヤマタイって読むよりヤマトと読む方が自然だと思うけどな >>268
「邪馬臺国」の「臺」という文字は「台」と同じとして「邪馬台国」という文句が一般化した。そして、「邪馬台国」の読み方であるが「ヤマダイ」などと呼ばれてもいたが、江戸時代の国学者、新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき「ヤマタイコク」と音読したという事が流布され、この読み方が定着し現在に至る。流布した経緯は不詳。 マナの壺だべ。
しかし形態史的にいうとタマタマな感じ。 >>272
記紀を見ると男女ペアの部族の長が沢山出てくるからな
古代の典型的なスタイルらしい
ヒコヒメ制とか呼ばれてるな >>267
全部記紀に書いてあるんだけどね
なぜかみんなニニギの天孫降臨から続きを読まない >>276
あー聞いたことあるわ
神話は現実の暗喩だというのがよく分かるね イザナギ-イザナミあたりから男女二神になっている。
天皇(すめらみこと)というのはスメラ=崇高な詔(ミコトノリ)持ちという意味で、
神がかりして妹の信託を聞き取る、という役目。 全裸監督で村西に3000万借りパクされたり、スタッフを振って銀行員と結婚した女優って卑弥呼がモデルなんだってな >>274
卑弥呼の時代には日本には漢字はなかったから日本語の発音に中国人が当て字して、
その表記を後の日本人が読んでヤマタイコクって読むことにしたと思ってるんだけどどうなのかな >>279
日本はまだ統一されてないだろ…
さすがに当時の日本は朝鮮半島南部から近畿に至るまでの連合政権だったと思うよ >>272
スサノオだとマザコンで姉ちゃんのいう事聞かずに追い出されて成立してないけどなw >>275
円と方形の接続部にある取っ手様なものがそれ以外に考えられない。マナの壺かもな。火星にあるのも同じだろう >>24
旧唐書かなんかに倭国の使者と日本国の使者が正統性をめぐって口論になったとかいう記事があった 纏向ちゅうのが吉備や尾張を中心とした連合政権で誕生、というストーリー。 >>285
近畿説の立場で言うけど伊都国の王は代々女王国に統属してたんだから
卑弥呼を共立した国のひとつであり勢力圏はここまで及んでたことになる 瀬田遺跡で検出された2世紀後半のプロトタイプ前方後円墳みたいなのは
後円部をぐるっと周濠で囲って前方部が陸橋の役割だったみたいね 前方後円墳つっといて円の部分を上側に見るのモヤっとする >>287
ま、まあ最終的には和解?したわけだし(草薙剣献上だけで和解なのかは置いとくとして…)い、いいじゃないか… >造出(つくりだし)
前方後円墳の主にクビレの部分にある突出部=造出(つくりだし)は、基本的には埋葬後の古墳祭祀をやるための場所とされている。
(儀式につかったとみられる呪術系の祭器のカケラが出るから)
しかしこの造出というのは最古級の古墳には存在しないし、古墳によってもあったりなかったり。
そもそも前方後円墳自体にしてからが、纏向式はバチ型だけど、主流は鍵穴型だし。
壺型というのがえらい人の仮説ではあるけれど、当然、学会でも異論が出ている。 >>6
空想の人物の可能性が濃厚でしょ
誰も姿見ていないもん 邪馬台国が日本に有った確証も無いし
想像する以外方法が無い
その程度の話しだよな 邪馬台国と奈良の大和はべつだろ
冷静に考えてまだわちゃわちゃしてる時に奈良が大陸と直に連絡もてるとは思えん
卑弥呼の家は普通に中部九州当たりかと 倭国大乱ってあったけど纏向の周りじゃいくさの痕跡が無いって話だぞ
卑弥呼は無関係じゃ無いの? 津と都は助詞の「の」の当て字のケースが多い。
奴も「の」の当て字。
吉備津彦=吉備のオトコ とかな。 邪馬台国の場所に関する倭人伝の記述が信用できない以上、邪馬台国を探すという試み自体が無価値じゃない?
邪馬台国にこだわること自体資料偏重、考古学軽視の歴史観て感じがする。 >>6
魏の皇帝が卑弥呼に鏡を送ったと記録にあって
その通りの魏の鏡が畿内で出土してるから居たね >>299
奈良と断定は出来ない
ただ山陰から北陸辺りの日本海側は交易してたでしょう 卑弥呼=天照だったら邪馬台国は九州でないとつじつまが合わない。
邪馬台国が大和にあったと主張するのなら、辻褄が合わない理由まで説明しないとダメ。
古事記が書かれたせいぜい数百年前のことなら、あちこちに伝承が残ってるはずなので、辻褄の合わない記録を国書としたってのにはかなり無理があると思う。 >>6
魏志倭人伝に出て来る卑弥呼は当て字という説も〜。
陽(ひ)を見る巫女(みこ)さんという説。
実際には魏志の役人が日本に来たのではなく伝聞説。
伝聞なので距離感がまったく違ってたりで後世混乱することに・・
で、その者は何じゃとなって太陽を見て吉凶を占う巫女さん
ですと土地の者の言葉をそのまま書き記したとも! 前方後円墳の前方部分て昔は小さかったんだな
てことは後円部分に棺があったんだろうかな
丸い古墳にあわせた丸い棺とかあっても良さそうだな 同時期に九州やら他地方でも増えてるから「豪族同士の連合の証」だと昔は習ったな うちの近所で古い宮跡の発掘調査定期的にやってるけど。
興味持って柵の外から見てたら作業員のおじさんが「これ、持って行き」と割れた瓦と木簡の破片をくれた。
嬉しかったけど、案外テキトーなんだと思った。 >>305
卑弥呼が居た時代と天照大神の神話で語られてる時代は何百年も開きがあるよ >>292
円形周溝墓→前方後円墳の発展モデルは難しい
そもそも前方部は通路の役割をしてない
むしろ歩けないように作られてる
その途中段階が無いので連続性があるとは考えにくい >>297
「発音が近い何らかの人物の存在を魏使が現地で聞いた」ことは事実だろ
それが果たして誰だったかが問題な訳で
ヒミコ(当時の発音ならピミカかな?)は日本語だし、わざわざ架空の人物を創造して正史に記録する動機も無い >>305
邪馬台国とは何を指してるかは重要でしょ
集落なのか国家なのか 狗奴国は後のクマソだと思うんだけど九州説も機内説もそこがちょっと痛い気がする
なんかうまい説明ってある? >瀬田遺跡
これの議論は、形態学的に考えた場合で、周濠をば馬蹄形に掘った古墳が出現、
で、未掘削の土地がのちに「前方部」として発展していく、といったもの。 >>313
「天照大神の神話で語られてる時代」って、推古帝のときに推古即位から1260年前が神武即位だって決めたところからさかのぼってるだけだから、開きがあるとも言えないと思うんだ。 卑弥呼って呼び名は魏が勝手に作っただけ
正確には日の巫女
日の巫女の日とは神を表す
当時神である日がいたのは奈良
その日の巫女である卑弥呼が奈良にいたと考えるのが当然でしょ
ちなみに今人気の鬼滅の刃のヒノカミカグラのヒノカミとはまさにこの時代から始まったもの
神楽とは舞を踊る男、巫女は舞を踊る女
それを束ねる存在だったのが卑弥呼
日の巫女とは唯一神(日)と対話を許された存在
福岡なんて入り込む余地は一切ない 卑弥呼がいた時代、天皇って何してたの?
別の国なら同時期に存在してたことになるよね >>317
個人的には卑弥呼と卑弥弓呼の王位継承権を持つ二人の権力争いだと思ってるんだけど
だから同じ政権内の揉め事で狗奴国は関係ない >>319
そういや神武天皇とかの古い天皇ってなぜか新しい暦が使われてたんだっけ?
これって歳だけが伝わっていてあとから当てはめたってことなのかな?
よく二倍年歴とか聞くしそこらへん吟味したら卑弥呼の年代との矛盾点も解消されるかなぁ >>317
普通に免田式土器圏でしょ
球磨郡免田町がクマソの地を売りにしてる >>320
なんで奈良じゃないといけないの?
九州がだめって根拠全く無いけど
平原でも太陽信仰はあり
出土物も奈良とは桁違い
奈良に神がいた根拠は? 今の日本だって世界ではジャパンって呼ばれてるくらいだし
昔の日本をどっかの国がヤマタイコクって呼んでも普通でしょ 邪馬台国という名称も魏が勝手にそう当て字を作っただけ
これはヤマト国の事、ヤマタイコクではない
ヤマトがあったのは勿論奈良
また距離の話がよく出るが、これも正確な位置を当時の他の勢力に知られないために
嘘を記したと言われている
当時の邪馬台国は魏でもなかなか製造が難しかった銅の鏡や勾玉などの技術をもっていた
いずれ占領してそれを独占しようとしていたのでは?と推察される >>325
日の神がいた場所、ヤマトがあったのは奈良でしょ 箸墓古墳が3世紀後半の築造だと言う説にも反論があるみたいだね
4世紀中期まで時代が下るという見解もあるしどうなんだろうな まともに考えて、魏皇帝から金印を下賜された人物が首長を務めるクニが九州北部を統べるだけの地方政権だったというのは無理があると思う
もしそうなら、巨大前方後円墳築造に邁進してた大和地域の勢力は一体何してたんだという話にもなるし 沖縄の古い神事とか方言とかを研究したらヒントがあるかも。
日本本土はやっぱり他の文明とか入ってきてるしな。
例えば女は穢れた存在で神聖な場所には入ってはいけないってのが多いが、沖縄は逆で女が神事をとりおこなう。
男は聖地には本来入れない。
漁に出る兄を妹が霊的に守護するって話しもある。
方言も聞いてたらやっぱり日本の古い言葉が入ってる様に思う。 >>215
だから魏が卑弥呼に贈った銅鏡は、
漢の時代に作られた漢鏡をかき集めたものと
書いてあるが??
ちゃんと文章を読んで書き込んでください。 >>323
>これって歳だけが伝わっていてあとから当てはめたってことなのかな?
21元(60年x21=1260年)ごとに革命が起こるっていう中国の思想が入ってきて、最近の革命ってなんじゃろ、そりゃあ偉大なる今上の即位じゃろってなって、じゃあその前は、そりゃあ初代の神武帝の即位じゃろってなって、神武帝の即位年が決まった。
その間の各天皇の歳のほうが後づけ。 >>324
いや、九州説でかつ記紀との整合性取るには宮崎から鹿児島までになるんよ
だとするとクマソの勢力圏と被ってくるし位置の問題もでてくる
北九州説もあるけどそっちだと距離の問題が解決できない
また、機内説に立つと女王国の南って和歌山に当たるけど狗奴国とにた地名があるのかという問題がでてくるしね >>334
気違いが教えちゃったから気違いが量産されちゃう、日本の教育問題 >>333
今の沖縄の方言はグスク平安時代に本土から伝わったもので琉球祖語ではない >>332
卑弥呼の時代に前方後円墳を作っていなかった事は、
邪馬台国の超重要拠点であると明記されている
伊都国の卑弥呼の死亡時期と同時期に作られ、
様々な宝物が埋葬され殉死も確認できる
平原遺跡が方墳である事で、
歴史の事実として確定している。 >>335
どんな文献に出てくるのさ?
少なくとも魏志倭人伝には出てこないけどね
ウィキソースに原文くらい載ってるけど >>241 だけどレスくれた人ありがとう
箸墓古墳埋葬者、そうか考えてみれば
>倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
名前に「ヤマト」が入ってるのは結構大きな意味がありそうではあるな… そもそも邪馬台国とか卑弥呼とか古代中国人が報告をもとに作り上げた架空の国&架空の人だから >>274
まぁ普通に考えて「やまと」と読みゃいいんだろうけど何故か未だにヤマタイと言われてるな 2,3世紀頃纏向を中心とした近畿地方は魏(古代中国)にとってその存在は
まったく認められていない。邪馬台国なんて近畿にはまったく無関係。
地方大豪族の墓が作られただけの話。
魏と交流の証拠が何処にもないのに。 現日本に繋がる最古の王朝が近畿の大和朝廷なのは異論がない部分。
この大和朝廷が邪馬台国だったのか、あるいは別の国だったのかが異論が出る部分。
もし、邪馬台国別の国で北九州にあったとすれば、中国の記録から推察するにかなりの大国であったはずだが、
日本書紀には北九州にそのような勢力があったなどという記述が全くない。
日本の覇権をめぐって大戦が起きてもよさそうなものなのに。
とすると邪馬台国は大和朝廷と同一で、最初から近畿にあったか、北九州から近畿へ後に遷都したか。
もしくは邪馬台国は大和朝廷とは別の国で北九州にあったが、実は大和朝廷が歯牙にもかけないような弱小勢力で、
その使者が魏の役人相手にほらを吹きまくっていたか。 卑弥呼と卑弥弓呼は素不和と書いてあるから個人的に大嫌いなんだろう >>344
言語学に詳しくないから分からんけどモモソがモモセの原型ならヒメヒコ制の共同統治者の片割れになる可能性が一瞬頭に浮かんだ
まぁ無いとは思うけどね >>319
大まかに言うと神武天皇が即位したのが紀元後2世紀か3世紀ごろ
天照大神など神代の時代は紀元前 >>112
何を言ってるんだお前は?掘らなかったら一生わからないって話だろアホ >>338
クマソ踊りは宮崎県都城市で隼人3兄弟を奉るのは日南市、都城市、曽於市だな
4つに別れていた時代の熊曽国は現在の宮崎と鹿児島 海外でも「KOFUN」として知られるとか、本当なのか
外国の歴史ドキュメンタリーで日本の古墳が取り上げられたのを
観たこと無いけどな(日本特集以外で) >>351
> >>335
> だから魏が卑弥呼に贈った銅鏡は、
> 漢の時代に作られた漢鏡をかき集めたものと
> 書いてあるが??
そのソースはなんなんだ? ヤマタイ国って無理矢理呼んでるけど
どう考えてもヤマト国だよね? >>335
全唐文という中国の書には
魏はむかし倭国に今までにない形式の鏡を作って送ってあげたと書いてる
畿内でよく見つかる三角縁神獣鏡は
彫られてる銘文がかなり自由な形式である事が知られている >>356
>>90
The Orientation of the Kofun Tombs >>357
どこまでが神話伝説でどこからが史実なのかっていうのは厳しいとは思うけどなぁ
トロヤ戦争や夏王朝の例もあるし神話や伝説が単なる作り話とは断定できないのがね >>345
日本書紀など日本側の記録と照らし合わせると
邪馬台国は畿内の大和国という事になる
隋書にも魏志の邪馬台とは大和のことであると書いてある >>10
穴を掘るわけでもないのに
整地したら何で山になるほど土が溜まるんだよ >>344
そいつが卑弥呼だと言われてるのは有名だけど
そもそもそいつは天皇直径の血筋だと言う学者もいる 3世紀の終わりごろに集落遺跡がほとんど無い奈良県を中心として、なんの助走・前触れもなしに突然、
大型の古墳がつくられるようになるという、実に不可解な現象が起こりました。
なんでかな〜 @阿波 皇室という入れ物があって中身は何度も入れ替わってる >>365
考古学の発達や証拠の蓄積で
ちゃんとした学説ではすでに畿内説一強 >>371
3世紀の終わりごろに集落遺跡がほとんど無い奈良県を中心として、なんの助走・前触れもなしに突然、
大型の古墳がつくられるようになるという、実に不可解な現象が起こりました。
なんでかな〜 @阿波 >>368
全国遺跡報告総覧(旧全国遺跡地図)を見ておいで 魏の時代に徐州の銅山を支配していなかったので、
銅銭の流通すら困難だった。←考古学上の常識
魏で鏡と言えば鉄鏡であり、
貴人公司には9寸の鉄鏡を贈った。
曹操の墓には鉄鏡が埋葬されていた。←考古学上の常識
238年に、呉が銅銭を鋳造したという記録があり、
卑弥呼の時代に銅山を支配していたのは呉である事は歴史の事実として確定している。
ちゃんと人の書き込みを読もうや。
歴史を勉強しようや。 >>365
畿内説の1番の弱点は神武が居ないことが確定
しかも万世一系バカが畿内説にこだわる >>364
九州にも山門(ヤマト)という地名があるよ
あと近畿と九州には似たような地名がかなりある
むしろ九州の地名を近畿征服時に持っていったというか説も成り立つのでは? >>3.76
日本全国の各時代の遺跡発掘の報告書が読める
3世紀終わりに集落遺跡があったかなかったかは簡単にわかるよ >>363
具体的年代を出すなら根拠も明示しないとね
ちなみに橿原神宮造営に当たってあの辺りは徹底的に発掘調査されたけど、弥生時代の僅かな土器片しか出て来なかったそうだw >>377
ヤマトな
ややこしいからその場合漢字入れるな >>1
最初期ではあるけど、最初であることは確定してないぞ
建造は日本書紀から四世紀だとみられてるし、
出てくる出土品がどうやっても吉備津彦が岡山取ってからなんで。
箸墓が「最古」なんて言い切ったら確実に落第 邪馬台国の官筆頭の伊支馬
同じ音の神さま生馬神が出雲風土記に出てくる
生馬神の子がもう荒ぶらないと言ったというような内容だった
奈良の生駒にもかつて生馬寺があった
何か関係があるかもしれない >>378
>3世紀終わりに集落遺跡があったかなかったかは
奈良盆地にはほとんど無い。 @阿波 >>377
成り立つ
同じ倭人である、朝鮮南部の人間が
「カラクニダケ=韓国岳」と山を名づけてるから、
そういう習慣がある >>381
他の最初の古墳候補ってどんなのがあるの? >>379
じゃあ地形の整合性はどうなるの?
飛鳥時代にはもはや当時の地形は残ってないと思うんだが >>379
橿原遺跡はどこへ行った?
こういう嘘ばっかりつくから、バレると余計に信憑性が落ちるんだぜ?
橿原遺跡
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%BF%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1
橿原遺跡(かしはらいせき)は、奈良県橿原市の橿原神宮外苑にあり
縄文時代から奈良時代までにわたる各時代の遺跡群であり
中でも縄文時代晩期の遺物は特筆されるものである。
橿原式紋様は滋賀里T?U式(後期末から晩期初頭)の土器に施されている。
縄文時代晩期の遺物は土偶をはじめ豊富に発掘され
弥生時代の遺物や土師器や須恵器などを伴う遺構などが発掘され
近畿地方晩期の標識的な遺跡として
また西日本の縄文時代晩期の文化を表わす遺跡として広く知られている。 >>383
あのUIで検索の仕方をミスるのは、中々のツワモノ 文字がなかったころの言い伝え(が正確)をもとに議論するのもなぁ
だいたい自分のとこの先祖様が偉いって言い伝える
結局それを編集した日本書記を編集した人の都合のいいように作った物語 九州とかいう何も無いイナカモンが邪馬台国に固執する惨めさ >>385
例えばこれ
www.sankei.com/article/20190917-W3ACFK4QVRJ6RKKDQ7AYJILMZQ/?outputType=amp
> 最古級の前方後円墳に石室 京都・向日で出土
2019/9/17 07:50学術・アート
石室の北壁部。川原石積みの特徴をよく表わしている(向日市埋蔵文化財センター提供)
墳丘から出土した土器片。祭祀用とみられるが、築造期を決める証拠になった
最古級の前方後円墳とみられている五塚原(いつかはら)古墳(3世紀中ごろ)=国史跡、京都府向日市寺戸町芝山=の後円部から石室が出土したと、同市埋蔵文化財センターが発表した。
墳頂を掘り下げた竪穴式(たてあなしき)石室で、壁面に川原石のみを積む工法が採用されていたことが判明。
時代最初期の大型前方後円墳の石室が出土すること自体珍しく、
同市文化資料館(同市寺戸町南垣内)で開催中の展覧会で出土した遺物などとともに調査成果を紹介している。 >>391
奈良とかいう、東大寺と法隆寺以外には観光客が行かない僻地
あるのは墓だけ 近畿には縄文時代から人は住んでたし交易の痕跡もある
銅鐸もたくさんでてるだろ >>388
俺は橿原神宮造営地の話をしたのだが
神武天皇は縄文晩期に即位したのかいw 倭国と日本は 別種なりだから
倭国が九州で日本が奈良では 奈良にはオオモノヌシという
比類なき大王がいたんだよ 古いのは吉備だと思ってた
その後大和の豪族に権力が移行したと 出雲大社、住吉大社、春日大社、伊勢神宮
これが全て 日本書記の編纂者たちは、卑弥呼をアマテラスや神功皇后のイメージで捉えていたのは間違いないそうだよ。 >>396
ここは縄文末期と書かれてるけど、実は紀元前7世紀頃から
(縄文がどんどんズレる(弥生がズレる)現象でこう書かれてる)
最終的に奈良時代まで使われ続けてる >>390
ギルガメシュ自叙伝とか、司馬遷の史記も口伝を書き写したモノだけど、
現実にウルとか殷墟どころか夏墟らしいものも伝わってるからなぁ
とりあえず歴史関係に触んない方がいいんじゃない?
きみんちの先祖の話って住んでる周辺に残ってないでしょ?
部落地域でも >>404
ううん
日本書紀には「卑弥呼」の名前は出てこない
ちゃんと読もうね >>393
サンキュー
箸墓のポイントは古いよりも「古くてでかい」なのかな? >>402
吉備国は製鉄とかもしてる、超科学文明だったみたいだから注目はしてる。
岡山の奴に聞いたら、吉備はヤマトに侵略されて取り込まれてしまったから、ヤマトの事はあまり良く思ってはいないと言っていた。 神武の東征云々の議論があるけど、
磐余で即位して人物はいたはずで、それがイワレヒコ。
これは否定できないだろ。 >>403
大社格なら諏訪が抜けてるし、
神宮格なら鹿島と香取が抜けてる
全然ダメ 誰が何を言ったかではなく、
何が歴史の事実かを真摯に受け止めて、
それを整合性を持って正しく理論的に組み立てて行く事を誠実に遂行していかなければいけない。
そうすると、238年に銅山を支配していたのは呉である事を受け入れざるを得ず、
ソレは魏が銅山を支配していなかったという歴史の事実を補完し、
魏が銅銭の流通を困難にしていたという歴史の事実と一致する事が分かり、
それ故に魏で鏡といえば鉄鏡の事であり、
皇帝や太子貴人公司に公的に贈られた鏡と言えば鉄鏡である事も理解しており、
その上で銅鏡100枚と言えば、
最早漢の時代に作られた漢鏡をかき集めるしかなく、
実際に卑弥呼の死亡時期に埋葬された事が分かっている、
邪馬台国の外交上の超重要拠点の
平原遺跡から出土した舶載鏡の数々が、
後漢鏡の方規格矩四神鏡と内行花文鏡であり、
それらが日本で総数およそ100枚近く見つかる事で、
魏から卑弥呼に贈られた100枚の銅鏡は、
方格規矩四神鏡と内行花文鏡である事が、
理論上確定するのである。 >>398
辺りを徹底的に調査したのに、橿原遺跡は見逃したと思う?
せっかくリンク貼ったんだから中まで読めばいいのに
発掘までの経緯
畝傍山の南東側の沖積地に広がる橿原遺跡は
「紀元2600年(神武天皇即位紀元)」記念祝典の一つとして行われた
橿原神宮とその周辺の地域整備工事が原因となって発掘調査が実施された。
君の主張と真逆の結果で発見されたんだよ? いまだに纒向が邪馬台国だなどとわけのわからないことを繰り返し発言して・・・ 3世紀の終わりごろに集落遺跡がほとんど無い奈良県を中心として、なんの助走・前触れもなしに突然、
大型の古墳がつくられるようになるという、実に不可解な現象が起こりました。
なんでかな〜 @阿波 >>409
箸墓はその後に現れる全国的な古墳の規格の規準になってる
これを「定型化」と呼んでる
だから最古級とされる
他の古墳は箸墓に追随する形
それに加えて言う通り圧倒的な大きさなのでこれが起点となっていると考えられてる
で、このスレの1の纏向型と言うのはいわゆる定型化されるまえの物
形とかにそこまで明確な基準のない段階 >>417
3世紀の終わりごろに集落遺跡がほとんど無い奈良県を中心として、なんの助走・前触れもなしに突然、
大型の古墳がつくられるようになるという、実に不可解な現象が起こりました。
なんでかな〜 @阿波 (^-^)卑弥呼さんの使ってた鏡と三種の神器の鏡は同一のものなのですか? >>409
てか、ヤマトモモソソノヒメの墓として古墳が認知されてて、
吉備神社もあるのね
この人は吉備津彦のお母さん
で、出土物も岡山付近、吉備国の産物の率が異常だから
考古学的には長らくヤマトモモソソノヒメで祀ってきてた
で、皇室からこの古墳の発掘許可は出なくて周辺の発掘許可をもとに掘っていったら多数の産物が見つかったもんで、
近年急に「ヤマトモモソソノヒメ=卑弥呼」っていう文献上なんの根拠もない理論から、
邪馬台国=畿内にあった!説の根拠にされたんだけど、
考古学詳しい人からは「調べれば調べるほど違うという感覚を覚える」と発掘リーダーの東大教授が言うほど。
普通に考えると4世紀後半から5世紀の築造で、
それより前に建物跡はあるが、生活痕がない
まあはずれだろ >>413
問題は魏志倭人伝が書かれたのは晋の時代ってことだね >>377
奈良時代には大和の「ト」(ト甲類)と山門県の「ト」(ト乙類)はぜんぜん違う音だったと考えられている
邪馬台国の「ト」はト甲類で、山門を邪馬台国の遺存地名とみるのはかなり苦しい
邪馬台国の時代は奈良時代より500年も前の話だから、音韻が変化してねじれてしまっている可能性もあるっちゃあるけど >>399
羽子田、唐古・鍵、佐味、宮滝、多、鴨都波、纏向、芦原中之坊、名柄、沢
稗田・若槻、中名畑・一水口、小阪里中
もっと大量に出てくるけど、流石に面倒くさい >>422
魏や晋の時代の後、倭国は一貫して後継の南朝と交流してるのよな
何かしら連続性はあるんだろう >>241
建造された年代が理解出来ない奈良時代の馬鹿が
前方後円墳の大きさから適当な話を作っただけ >>412
諏訪とか鹿島とか香取とか格は別にして
新しくないか? >>404
遣隋使か遣唐使の時に、
中国の役人から「お前たち倭は魏に朝貢していた女王国の末裔か?」と突っ込まれて創作したのが神功皇后なんだろうな たとえば、2022年の街づくりの遺構が2000年後発見されるとしたらどこのエリアでしょう?
トウキョウ?オオサカ?
いいえ、そこには再開発されて次の都市へとそっくりそのまま移行します
おそらくフクシマだろう
マキムクも似たようなもので、忌があったから残ったとかそれぐらいの位置づけでしょうね 伝聞を記したとするなら邪馬台国の根拠は九州説を採らざるを得ないと違う?
顔に入れ墨(隈取り?)をした男らが海に潜って漁をしていたと記されている。
南方系に見られるあの隈取りか?
しかも海岸線からわずか進むと藪の中に続く道。その先は未開とも!
奈良にはそんな場所はないよな。
のちの世に九州から畿内(奈良)に向かったのではないのか?
当時の大阪湾沿いは人の住めるような場所ではなかったとも。 >>433
神功皇后は作り話っぽいよね
あと日本武尊も
神武東征(というよりも東侵?)史実説に立ってるけどあれらはたぶんヤマト王権による地方征服の伝承の集合体が一人の人物にまとめられた結果なんだろうなと思うわ 百襲姫は塗りや神話で三輪山信仰と関係している人物。 >>394
橿原神宮の神武天皇陵、橿原遺跡は別物だよ
橿原神宮が明治に整備されたという話と、神武天皇陵や橿原遺跡は別物 >>418
日本書紀は時の天皇が命令して作らせたものらしいし
古事記はお貴族様が天皇に献上するために作ったものらしいし
どっちにしろ天皇に都合のいい物語に編集されてるはずだしね 大和沿岸は河内湖とかあって、めちゃめちゃ人が住んでいたw もともとは吉備にある楯築墳丘墓が有名じゃねえの
双方円墳で前方後円墳ではないけど
埴輪の元になった特殊器台や弧帯紋石など明らかに繋がってるし 神武東征のありやなしやは別として、磐余の彦時代は十分に想定できるわけで。 >>421
生活痕がないからこそ逆に変でしょ
何に使ったんだ? >>418
マユツバってか、すでに考古学的に否定済み。
>>444
まあ神武に相当する伝説になるような大和の英雄はいたかもね 古墳時代の祭祀の原型は吉備の特殊器台だから、楯築とあわせて、
吉備が纏向の建設に重要な役割を果たしてのは明らか。
のちに葛城大王家?が没落するに及んで、吉備勢力も大和に対抗できなくなった。 https://mainichi.jp/articles/20220108/ddm/015/070/012000c
数理歴史学者の著者は、データサイエンスによる機械的(メカニカル)な問題解決を図る。邪馬台国の所在地は時間と場所(空間)の物理的問題だから、と。
そこで「魏志倭人伝」が明記する時間の3世紀前半ごろ、同書が記載するモノの出土データを全国で比較する。例えば、鏡と鉄のやじり。すると、どちらの数も
福岡県が圧倒的に多く、奈良県はそれぞれ10分の1、100分の1だけ。二つを掛ければ、統計的には邪馬台国が奈良県に存在した確率は福岡県の1000分の
1にすぎない――。こうした数値を重ね、九州説を証明していく。 先史ってラノベと変わらんよね、筆者のご都合主義的に いやいや神武東征は鏃の発掘分布をみれば成立しないのはほぼ常識w
それとは別に、現実に奈良盆地に磐余ということろがあってだな、そこにいた人物。
かりに磐余彦と呼ばれて伝承されていることは事実なわけよ。
わからないかなw >>449
神武は無能で志村のバカ殿のような存在
英雄では無い
仲哀暗殺も、結局は神武の血を絶つのが目的だし >>403
日本最古級の大神神社が抜けているからダメ >>454
記紀は神武東征の捏造をやるために書かれたもの
だから焚書が行われているわけだし >>6
本物は、やまたのおろちに食い殺されてたけどね。 >>448
神武東征は農業国家が地盤の地元捨てて補給線もないのに何百キロも東の別の農業国家攻めるのが意味不明なだけで
大和建国の英雄としての神武が当時から伝説になってた可能性は極めて高い >>456
神武東征は脚色だらけだが神武東侵はあったんじゃないか?
事実欠史八代は全て大和の有力豪族と結婚している
神武天皇で卑弥呼の邪馬台国から派生した一派が大和に根付き、崇神天皇が日本を平定したとは考えられない? >>211
琉球民族はもっと南から来てる集団だってのは遺伝子解析で判明してる
テキトーぶっこいてんなよ >>452
そうなんだけど
畿内説はもう否定証明済み
九州説しか残ってない
>>450
おそらく政権簒奪といったものが
卑弥呼から崇神の時期にあって記紀から吉備勢力の抹消があったのだろうと思ってるけどね 円をどうやって作ってたんやろ
中点から紐でぐるーって引っ張ってたんか? >>451
幕末期には神武陵は三か所。『聖蹟図志』に示されていて、
1「今日神武陵、一説には綏靖天皇陵(第二代)たり」と四条村の塚。
2「山本村神武田」(じぶでん)。旧塚と新塚の二つの「塚」がみえる。神武天皇陵と書かれず、「廟社の地」とされていた。
3「三番目は畝傍山手前の山である」。「この一丘は御陵また丸山、神武天皇畝傍山東北陵」とある。日本書紀にある神武天皇陵についての記述のままの文言である。
時は幕末、文久の修陵というさなかである。
2の神武田を主張したのは谷森義臣である。天皇陵の研究家して文久の終陵では大きな影響力を発揮していた。
3の丸山を推したのは北浦定正で、尾上という古事記の記述をもとに主張した
この論争の結論はつけたのは孝明天皇。「御沙汰書」が出された。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にするな」という沙汰だった >>465
適当じゃないぞ
琉球人はアイヌと本州人の中間に当たり、むしろ台湾原住民よりも遠いんだわ そもそも朝鮮半島は倭人の勢力圏だしね。新羅も百済も加羅も王族は倭人。 >神武東侵
これは当然、可能性あるよ。富雄の長髄彦なんかも自在勢力でいたわけだから、
ニギハヤヒからイワレヒコへ、って外来統治者の流れは想定できるものね。 また畿内派のねつ造か
前方後円墳が奈良から始まったと嘘でミスリード
そもそも卑弥呼の墓が前方後円墳である証拠も無いのに
邪馬壹国ミスリードもいい加減にしろよ >>471
いまちょうど馬登にいるんや、神武天皇が馬に乗ったとこや。 異常者がコピペ始めたか
邪馬台国スレはまいどの基地外病院だな
NGしとくか >>472
平安時代の延喜式で大凡の場所は畝傍山の北東にあるとハッキリしてた
それが後の戦乱ではっきりしなくなっていたので、捜索が行われた >>238
お前はアホか
あったかどうかも分からん、むしろなかったことの方が遥かに可能性の高い神武東征を根拠に邪馬台国は宮崎と主張したのはお前だろ
神武天東征を根拠に邪馬台国が宮崎だったと主張するならまず神武東征が本当であったかどうかを示せよ >>486
その可能性より陳寿がどんな資料を引っ張ってきたかわからんからな >>428
消滅遺跡ばっかりやんけ! わははははは @阿波 神武東征神話は記紀を作った、壬申の乱に勝利した天武朝の正統性を示すために作られたんじゃないかな?
万葉集梅の歌序に霧が云々のくだりがあるだろ?
天武朝は九州南部霧島が故地なんだろう
天武天皇の時代隼人の乱が起きた意味はそこにある
海幸彦の末裔隼人と山幸彦の天武朝は元々対立していたんだろうね
平安朝における隼人の信頼は厚く武器を帯刀して御所の警備を任されているのとは対照的
延喜式には皇御孫之命は高天原で事を始めた八衢彦八衢姫クナトと書かれている
記紀で天の八衢にいたのはサルタヒコで、出雲の伝承によればクナトはサルタヒコの父神
アマテラスー東征神話とは全く違う >>487
神武東征に関しては歴史上はあったよ
正史に残っているんだから
実際にあったかどうかが別なだけでむしろ史料すらない無かった説が歴史に対する難癖ではある 邪馬台国は奈良あたりだろ
九州にゃなんも遺跡ないし >>487
例えば白肩津の草香邑は東大阪市日下町で発掘されてる
橿原遺跡も見つかってる
神武東征の痕跡は物証が出てきてはいる
ないことの証明は難しいけど、見つかってる物証を否定するなら、物証が無いとね? >>493
吉備から大和への侵攻はあったんじゃね
それ以前の事は説話も少なく期間も曖昧で付け足しの可能性が高いと思うけど 津田左右吉は当時の学風で
伝説的な部分を否定したけど
根幹の天皇家がずっと日本の支配者って部分は信じていたから
未だに古代史が変なことになってんだよね
それなら日本書紀の執筆意図から疑えっての
まあ大日本帝国臣民の限界か >>494
日本の昔の話だ、関係ないから参加するな >>10
土山にしてから石室入れるのとか無理あるんだけど >>498
歴史と言うのは文字に記された物の事
基本的にそれを覆すのは相当困難で個人的には神武東征を支持する訳ではないが意味もなくそれをアホ呼ばわりするのは流石になー 邪馬台国ってジパングって読むんだ
そもそもヤマトじゃないんだよ >>496
め組の人とかの纏or纒か
まとい理解した 日本の考古学者なんか素人以下の嘘吐きしかいねえから保健所で駆除しろ! 日本の史書はなぁ何か書かなきゃしようがねえじゃん
何処からか湧いて出たって訳にもいかんし 大体、隋書と魏志を照らし合わせれば
魏に使いを送った女王が筑紫にいたのは明々白々なんだよ
もちろん、日本書紀派がいてもいいけど
中国史書を丸ごと教えて
両論併記にしなきゃダメだよ >>504
ほら話のために、日本全国に遺跡を作ったり土器や剣を埋めたりしまくる方が大変
昔こういう話がありましたと、逸話寓話も教え込まなきゃいけないし
そっちの方が大事業だよ 地球の鍵穴だって、キン肉マンで言ってた
から、鍵穴に決まってる >>487
神武東征の根拠はこのスレでさんざんでてきただろ
で、魏史倭人伝を読む限り距離的には宮崎か奈良になる
あと方角的には宮崎の方が優勢だな
しかも奈良植民を成功させる後ろ楯を考えるなら記紀の記述も相まって宮崎一択でしょ サルタヒコのサルはアイヌ語で芦原の意
芦原醜男は大国主の名前
サルタヒコ、八衢彦八衢姫、クナトは大国主スクナヒコナの系譜だろう
倭国大乱の前に男王の治世が約80年、倭国の建国は1世紀後半
国作り神話は建国神話
国作りの後三輪山に大物主が現れる
建国の後倭国大乱を経て三輪山の麓纏向遺跡からヤマト政権が始まる >>510
不要
畿内説は否定証明済み
はい、論破w >>514
ttps://goo.gl/maps/uHo3hYn7nLGBwxF27
これを北というのはちょっと眼科受診をおススメする >>513
神武東征は考古学的に否定済み
はい、論破w 神武東征は作り話なら、むしろ不自然な話
普通に考えれば、地元出身か近場の神聖な
場所が出身で、ヤマトを開拓して豊かにした人
とか、勇ましく近隣国に勝ったとかの話なら
作り話らしくなる
しかし、見たこともない外国のような九州の
日向から奈良に攻めて来て、征服する話
大阪に着くまで時間がかかり、戦はなく、
大阪では負けている
つまり、史実をベースにしてるから、そういう
話になったのであろう >>15
本居宣長はそう言ってるね
間違いだけどね
はい、論破w >>523
神武東征は作り話しだと考えるととても自然
はい、論破w 倭国大乱がきがかりなんだよなぁ
そんなに大きな乱があったんなら記紀神話にも書かれてるはずだし…
もしかして神武東征が倭国大乱の一部? 日本書紀作った連中は魏志倭人伝とかそれ系等の中国史書物を読んで作ってるわけだろ
いきなりまっさらな状態で中国語で書き始めたわけじゃないよな? >>523
正しい
わざわざ他所からやってきて、その後日本統一に東奔西走しましたなんて書く必要がない
遺物という物証もでているので、尚の事なかったというだけの根拠が必要
でも、脳死して無かったとしかいえないのが実情 >>526
福岡平野の奴国(ツクヨミ)勢力と筑紫平野の邪馬台国(アマテラス)勢力との争いだよ
はい、論破w もうちょっとマシな根拠を出さないとスレの無駄遣いだよ
具体的に何がどうだったと言いたいんだ?
神武東征はなかったとして、大和王権はどうやってできた? >>526
倭国大乱は狭穂彦王の乱として記紀に大きく記録されている。
彦坐王の跡継ぎとして、
生目氏と対立し、
生目氏が勝って、
生目氏が邪馬台国に進出して
長官に収まったのである。 現代じゃそういう事になってるの?
実際は卑弥呼様は地底都市に眠っておられるんだけどね。
地底都市を荒らされたっていう報告も入ってないし。 >>421
> 考古学詳しい人からは「調べれば調べるほど違うという感覚を覚える」と発掘リーダーの東大教授が言うほど。
最近は考古学会側から纒向遺跡を邪馬台国とする事に疑問の声が挙がっているな
関川尚功氏の著作を読んだけど纒向遺跡は思った以上に北九州、中国との関連が薄い遺跡なんだな 魏志倭人伝でも隋書でも記紀でもベースは九州じゃね? >>523 追記
北朝鮮の金日成の建国は、まさに作り話の体裁
として、わかり易い例だ
作り話なら、ああいう話になるのが普通だ >>523
物理的にも不自然だから天武の故郷日向説とか出て来るんだよ
書いた者勝ちはよおくある話だからな >>531
スレ無駄使いすんな近畿パー
はい、論破w >>531
立地の良い所開拓していって自然発生だろ
都市国家なんてそんなもんだ >>535
そもそも邪馬台国なら何があるのか?とか、はっきりしてないんよね
楼閣があるらしい?千人くらいの奴婢が世話してた?
一番簡単なのは絶対に邪馬台国だと断定できる物証を見つける事
完璧なのは親魏倭王の金印が見つかる事
銀印も10個くらい貰ってるから、それが見つかってもほぼ確 >>353
天照が古事記どおりなら神武の5代前。
一世代30年でぎり紀元後か紀元前なんだけど、若くして子を産むってのが続く、継いだのが兄弟なんてことがあると、アマテラスと神武は同時代ってのもあり得ると思う。 倭奴国王が金印を貰う
↑
奴国とは博多湾周辺の安積族の国の事で、
金印が志賀島から発見されたのは
志賀島の志賀の海神社が安積族の神社だからである。 >>538
そもそも、後漢は何処へ消えた
って感じじゃねw >>548
は?
なんもない原野開拓して東征?
大和に農耕する弥生人が住んでたなんて紀元前の話だろうぜ >>542
つまり大和王権は畿内で自然発生した土着集団が大きくなったもの?
わざわざ九州から引っ越してきましたなんて書く必要性がないじゃん? >>552
無いしそもそもそんな事は交通インフラが整っていた戦国時代でも無理だろ 卑弥呼と纏向のつながりは何も証明されていないのにすっ飛びすぎw そもそもの話だけど九州と奈良って出雲とかよりもかなり近いからな?
瀬戸内海航路でなんでも運べるでしょ 107年に倭面土国王師升が奴隷160人を献上したと記述されている。
ここで、57年に倭奴国王が朝貢したのが、
倭面土国王に変化している事が明記されているのである。
この倭面土国はヤマト国に当て字したものと考えられ、
107年に既にヤマト国がナ国に代わって、
倭国の覇権を握っていたと考えられるのである。 >>554
日本人は邪馬台国の時代よりもっと昔からあちこちでかけてるけど?
倭人がはじめて中国史に登場するのは三国時代や後漢の時代ではない
周の成王の時代(紀元前1042年〜前1021年)だよ(ソースは論衡) >>560
何万人も住んでいる一国を武力で落とすのが無理だと言っている
外交でなら可能だけどね
交易等はそれこそ縄文期からいくらでもやっている ヤマトとは山門であり、
山門には筑後の一宮高良大社があり、
高良大社の開祖は丹波氏である。
丹波氏で勢力を拡大させた始祖は
彦坐王である事から、
ヤマト国師升は彦坐王の可能性が極めて高い。 >>66
本当に2600年以上とか思ってる学者は居ないっしょ >>305
天岩戸に御隠れになったのが卑弥呼で天岩戸から出てきたのが壱与でしょ >>79
出雲の大国主命は朝鮮半島の秦人が建てた国の秦韓(後の辰韓、新羅)から来たようだ
秦の労役から逃げた秦人で半島の秦韓へ、そして出雲へ
彼にとっては秦人の国、秦韓も故郷であった そもそも天武が見栄を張ったのが始まり
そこは正直に記して欲しかったね 彦坐王の跡継ぎ狭穂彦王が
日向投馬国西都原辺りに進出したところ、
日向生目の生目氏と衝突したのが
狭穂彦王の乱になる。
コレが倭国大乱であり、
ここで狭穂彦が破れてしまった為に、
丹波氏は娘達を差し出して和睦したのが事の顛末である。
そして生目と彦坐王との娘との間に生まれたのが倭姫命であり、
コレをヤマト国の女王にしたのが
女王共立の所以となる。 日本書紀では垂仁天皇という人が纒向の宮を作ったことになってるんだな いつ始まったかわかんないけど卑弥呼の時代には既にヤマトとして纏まってた
それが連合国家としても >>561
つまり大和王権は機内の土着豪族が発展したということ? 大物主の娘がなぜ蹈鞴をいう名を持つのか考えてみるといい 倭国大乱が起きたり治まったりするのは纏まりがあるから >>1
纏向学…?考古学じゃないっていうことかな? >>552
天皇の歴史を探ると中央アジア説が出て来る。
天皇家の先祖はそこを起点として内陸部を半島まで進みさらに九州に渡った。
そして九州から畿内へと進んだことになっている。
天皇と呼ばれるようになるのはその時代からずーと後世になってからだ。
おそらく魏の役人が言っている邪馬台国とは異質な存在と思うわね。
いまは「やまたい」と読まれているが必ずしも「大和」を意味しているは思えない。
むしろ天皇ご一行様が奈良盆地にたどり着いたとき、この地を「大いなる和の国」に
しようと画策したかもしれない。のちの聖徳太子でさえ「和をもって〜」のくだりが
一番最初に掲げれているところからも小さないざこざは続いていたのかもしれないわな。 当時の文献が何も残っていないという文明後進国の悲劇だな
同時代の三国志の事は詳しい記録が残っているのに 生目氏と彦坐王の娘の間には男子も居た。
この男子が景行天皇であり、
こちらは吉備津彦の娘と婚姻して、
大和纒向へ進出して行ったのである。
ここで崇神朝を乗っ取ったのが
日向系天皇家生目垂仁朝の始まりである。 >>572
それはわからんが住民の大半は移民ではなくて土着民だろう >>6
太陽を祀る巫女がいて日巫女と呼ばれていた
巫女ってあとから日本で誕生した当て字なわけで、
日本文化のバックボーンも何もない中国人は
音のままに当て字をした 当時、孫権が日本侵攻を計画したけれど、陸遜が反対したんだっけ。 景行と吉備津彦の娘との間に生まれたのが
日本武尊であり、
景行が後に吉備津彦の娘と疎遠になってしまって、
美濃の豪族の姫と婚姻した際に、
倭姫巫女が養子として貰い受けたのが
卑弥呼の歳の離れた弟としての日本武尊になる。 出雲族は基本的に東に逃げたと考えられてます
最後に行き着いたのが奥州平泉
出雲のなまりと東北のズーズー弁は、ほぼ同じです
西日本では出雲だけがズーズー弁
また西日本はうどん文化圏ですが、出雲だけは蕎麦(そば)の文化圏です
長野の蕎麦や東北の蕎麦は出雲族が持ち込んだと考えられてます
国譲り神話の際、大国主の息子が逃亡して最後まで天孫族に抵抗したのが長野です
出雲族の一部が住まわされたのが三輪(大和国)
畿内最古の神社、大神神社(三輪)神社周辺
出雲の龍蛇神信仰が影響したと見えてここの神様は、蛇神です 古代の日本と中国はどうやって交流してたの?
卑弥呼が鏡とか金ぴかの印鑑とか中国から貰ってたけど
日本には文字が無いから筆談出来ないし(仮にあっても異国の文字は読めない)
通訳がいるにしてもその通訳はどうやって語学を学んだの? 纏向はまあ人工としだよ。
現代でいえばブラジリアみたいなところ。 >>170
関東圏の古墳は今の学者さんたちには都合が悪いからスルーされる
あと20年くらいして今の学者さんたちが去らないと無理だと思う
だいたい日本はちょっと前まで北には遺跡なしとか言って発掘しなかったからな
だからこの国の石器時代の遺跡を発見したのが素人学者という
東北の縄文遺跡もつい20年くらい前までは必死に見ないことにされてたんや
海外で人気がでてどうにもならんくなったけど 中国から貰って金ぴかの四角いハンコ、ゴージャス過ぎて朱肉付けるの勇気いったろうな 奈良盆地の在地勢力は唐古鍵というところに大集落を作っていた。
纏向は吉備や尾張が中心になってつくった新しい鄙。 >>589
朝鮮南部には倭人がいたから
何人か通訳介せば行けるだろ >>546
天照大神は実在の人物ではないからそこらは年代的な事を言っても仕方ないと思うけど >>572
何かが起きて土着豪族が隆盛を極めることになった
それが奈良(ナラ=土で埋まり出来た平地)盆地の誕生なのだろう
それまで湖と山しかなかった一体に広大な土地ができ
田畑が生まれて食料供給が軌道に乗りだした
九州中心だった日本地図は奈良を筆頭とする畿内中心になった 邪馬台国と狗奴国との戦いは
景行や日本武尊の熊襲征伐の事であり、
日本武尊が倭姫巫女の助言を得て熊襲征伐を果たした件が、
卑弥呼の年の離れた弟が政務を担当し、
熊襲と対峙したであろうことと一致するのである。 >>593
関東と畿内の繋がりはスルーされがちよね
記紀にあまり記述ないから 邪馬台国は徳島にあった説もあるぞ。
裏付けとしてはデカイ川が流れていて肥沃な農地に向いた平野とタンパク質豊富な河口、山からの豊富な真水。鏡が見つかったこととか丹の採掘跡地まであるんだからな。 >>448
「東征のようなもの」はあったと思うよ
婿入り説ってのがあるけど、それぐらいの規模だったらありえるかなと思う。 またこれだ
アーサー王の物語と史実をごっちゃにする戦術 また、狗奴国との戦いに際して、
魏から派遣された張政が、
黄幢を渡して激を飛ばし士気を鼓舞したと言う。
この魏志倭人伝の記述が、
博多祇園山笠に伝承として残る、
倭姫命が夷狄との戦いで活躍した家臣に、
旗を与えて大旗主となった逸話と一致しており、
魏志倭人伝に書かれたことが、
伝承として残っている事が確定した。 >>10
>古墳は、田んぼを整地した残土を山にしたものだよ
>のちに整地作業の功労者が亡くなった際に
>感謝の意を込めてその残土の山に埋葬した
>最初から墓として作られたわけではない
そうね、前方後円墳が千葉と茨城にやたら多いしね
https://i.imgur.com/zozg6Z5.jpg
まあ過去の この地形を見れば一目瞭然だわね
https://i.imgur.com/J7ZFIYT.jpg それまで古墳がなかったのに突然、箸墓みたいな巨大な前方後円墳ができる方が不自然。
だいたい卑弥呼は弥生時代の人で古墳時代ですらないし。
それでも大きさだけは土をかき集めて、もれば大きいのはできるけど、
箸墓は形がきれいな前方後円墳だし中の構造とかも
後の時代の前方後円墳と同じだったりしたらおかしすぎるよね >>604
忌部氏の土地だからね
古い祭儀と関わりが深い >>74
俺もその説に賛成だ。
倭と日本は別の国で、日本が下。
しかし白村江で倭が唐新羅連合軍に敗北し衰退。
そして日本に吸収された。
倭国の歴史は7世紀まで、日本の歴史は8世紀から。
七支刀なんかは倭からかっぱらったんだろうw ほら話というのは
天皇が神の子孫であるとか
天皇家が万世一系の統治者であるという部分を指す >>248
邪馬台国が七万戸という時点で、南九州なんて全く対象にならないよ >>604
剣山の林道走ってたら、「ここが邪馬台国」見たいな電波丸出しの個人の手書き垂れ幕がある場所が出てきて面食らった >>613
なにかかっこいい事書かなきゃしようがねえじゃん >>613
勉強してくれ。地祇であっても海神という神の子孫だよ >>604
阿波説も七万戸の説明が全くつかないから無理だよ。 魏志倭人伝の記述を読めば明らかに九州 大和に海はない >>589
通訳ぐらいは当然いたでしょ
漢字が書かれた木簡とかは出てきてるみたいだし >>607
大陸訓読みある?
呉音漢音は仏教用だから。
でも、切韻上古音と現代音とも食い違ってる所あるんだよなw
よく、会話成立するな。
🇭🇺ハンガリー語に上古漢音のヒント隠れてそうだけど 神武即位の干支と言われる辛酉の年の革命の原典は
中国文献に見出せず900年頃になってから三善清行が作り上げた俗説である可能性が高いです
邪馬台国最後(邪馬台後身)の王が磐井 その後、山門丹波氏や吉備御馬城氏を後ろ盾して、
日本武尊が東日本進出を果たす訳だが、
景行の居る大和纒向に帰還しようとした所、
景行に警戒され足止めを食らってしまい、
ソレが結果として大和纒向の封鎖となって、
纒向は衰退し、生目朝本家が断絶して、
傍系の日本武尊の系列に
王朝が切り替わって、
ソレが現代まで続く天皇家の元になった。
これが日本の歴史な。 >>619
魏志倭人伝であって邪馬台国伝ではないんだよw
また倭人伝には火山や温泉の記述が皆無だからな、九州を南に進む説はこの時点で終わってるよ。
奈良に海はなくても大阪に海があるなら畿内説では何の問題もないからな。 いや、卑弥呼=公孫氏なのは決定でしょw
じぶんで言ってるのに😂ww
大秦がローマだって事も。 >>622
魏志倭人伝を都合よく解釈してもダメだな、九州説はそうしなきゃ成立しないんだろ? >>618
何を根拠に7万戸と言ってるかは知らんが魏志倭人伝の話ならチャイナらしく話10倍盛ってると考えた方が自然だぞ >>629
ヤマトが日本を意味すると何故九州説になるんだ? >>630
根拠もなにも七万戸は魏志倭人伝の記述だろw
話を盛ってる可能性もあるが、それを言い出したら少なく見てる可能性もあるんだからな。
どちらにしても魏志倭人伝の記述によれば、九州に邪馬台国がある可能性なんてゼロだよ。
邪馬台国とは単にヤマト、それで何の問題もない。 筑紫倭国を歴史から抹殺したから謎の4世紀になる
畿内日本国の成立が7世紀末
その直前に何があったかというと白村江における倭国の大敗 日本で三国っていったら
日本、中国、天竺なのに
なんでなんでもかんでも
朝鮮半島経由っていうやつがいるの?
朝鮮半島なんて日本でも眼中にないやん >>602
日本の考古学は事実よりロマンつーか机上の空論が好きだから
纒向遺跡もそこまで酷くはならないだろうけど登呂遺跡の二の舞になる気がする
一生懸命ここを起点にしたがっいるけど
実際のとこ前方後円墳の最高ではなく最高級でほかに古い前方後円墳がある
つまり前方後円墳の発祥はここではなく他に何かがまた出てきてひっくり返る可能性もある
今は誰も凄いと言わなくなった登呂遺跡のように 近畿とかねえから
3世紀とか近畿周辺に存在したのは銅鐸人だけで都市と呼べる住居は存在しない。
近畿は寧ろ大倭を派遣し開拓途上の僻地と認識する方が全てにおいて合致する。
倭国の中心は北九州だよ >>604
四国説は背後に大きな市場規模があったかどうかが疑問だね
やはり機内のほうが大きいしい、中部や関東平野も広いけど古代は寒かった
稲作が南から徐々に始まったから最初は四国も優位だったかもしれない >>632
対馬 千余戸
壱岐 三千余家
別に大和説を否定するつもりはないが魏志倭人伝の千こえる数なんてこの時点でお察しだろ
適当過ぎる数を根拠に否定するのはおかしいと言っている 近畿は何か出る度に3世紀後半と結び付けたがるゴッドハンド詐欺師ばかりだからな。
学術の恥を晒してるようなものだ つうか、漢の武将
匈奴に拉致されまくってるだろ
支配できてるの? 3世紀の終わりごろに集落遺跡がほとんど無い奈良県を中心として、なんの助走・前触れもなしに突然、
大型の古墳がつくられるようになるという、実に不可解な現象が起こりました。
なんでかな〜 @阿波 長野とか山梨の古墳は5世紀くらいだしな
やっぱ内陸のほうが海沿いより新しいよな
つまり
日本に人類がまず最初に進出してきただろう場所のほうが
もっとも古いと考えるのもわかる >>635
巻向というか奈良盆地にはヤマト朝廷の歴史、つまり日本の歴史の記録があるから登呂遺跡とは違うよ。
巻向の近所には三輪山があり大神神社、また箸墓もありそこには百襲媛の伝承も残っている。
登呂遺跡とは全く違う。 >>644
山だらけの土地に小さい山建ててもあんまり意味無いからだろ >>644
その通りだね
大和国から各地域に船で移動して行く形だから自然と海岸線にその地域の最古級の古墳が出来る
で、その傾向は令制国の名前からも読み取れる
近い方が上や前、遠い方が下、後になる
大和国を中心に上陸する順番になってる >>642
遊牧民はデンプン欲しさに農業国襲うから・・・
支配と言うのは懐柔しておとなしくさせる事だろうね 奈良の誕生は弟であるスサノオの誕生であった
スサノオは奈良盆地にあった水害を鎮め、
ヤマタノオロチ退治の神話が生まれた
そしてスサノオは強大な軍事力を有するようになり
アマテラス(=卑弥呼)が治める九州へと進出した
ちょうどその頃に卑弥呼が死んでしまい、
王位継承の戦争が発生したと思われる
アマテラスはスサノオに狼藉を働かれたということで
スサノオ(=畿内豪族)を遠ざけたのだろう
しかしこの辺りからどうやら混交は進んだのか、
不仲についてあまり音沙汰は無くなる >>639
見るのは魏志倭人伝ではなく三国志だろう。
国レベルの比較でみないとダメで、高句麗でさ三万戸、さすがにこれは少なすぎるが
半島諸国との比較をしないと。
そもそも倭人伝は三国志の中の一文でしかない事を忘れてるだろ、九州説の連中は。
何度でもいうが邪馬台国伝ではないんだからな。 7300年前に鹿児島沖の硫黄島で大規模な海底火山の大噴火が起きた
鬼界カルデラの大噴火
縄文集落が壊滅多くの住民は被害の少ない北部九州に疎開した >>646
3世紀の終わりごろに集落遺跡がほとんど無い奈良県を中心として、なんの助走・前触れもなしに突然、
大型の古墳がつくられるようになるという、実に不可解な現象が起こりました。
なんでかな〜 @阿波 おそらく中国から認められたという意味で正統なのは
早くから交流のあった九州側だったのだと思う
ただ、畿内勢力が大きく躍進したあとで、
アマテラス神族は畿内豪族に吸収されていった 畿内説にこだわるのはそうしないと日本人に刷り込まれた皇国史観には不都合な真実だからな
多くの学者は、畿内の天王家の祖先が3世紀に九州を滅ぼしてたとか支配してたとか、記紀の何処にも書かれてない珍説を主張してる
箸墓古墳と倭迹迹日百襲姫とか、記紀の都合の良い部分だけ主張する癖に、神武東征は無かったとか、不都合な真実は全否定 >>644
遡ると山梨や長野みたいな東日本の内陸の方が
古くから人が集まってたね
https://i.imgur.com/0tlsVMH.jpg >>649
なるほど。纏向遺跡は東海ともっとも繋がりが深かった
大蛇の尾から出た草薙の剣が、熱田で奉斎されるわけだ 孫権が種子島だか沖縄辺りに軍派遣したけど疫病か風土病に罹って全滅しかけてたよな 物証がいろいろ出てる九州
根拠が「大きいからたぶんここ」な機内
関西人ってさぁ >>653
奈良盆地に縄文遺跡なんて普通にあるぞw
橿原周辺からは遮光式土偶の破片まであるが、
阿波にはないんだからな。
つまり橿原周辺には縄文末期、東から西に来る流れがあった。 その後、丹波氏は天皇家の外戚として力をふるい、
仲哀天皇戦死の際には神功皇后が力を発揮して、
応神天皇へ血筋を繋いだ。 葛城氏族はもとは微高地の山間に住んでいたが、
稲作の発展に伴って低地へ降りていったという
奇妙に思えたものだ。葛城氏族こそ稲作の担い手のはずなのにと
なるほど、素戔嗚尊が洪水を治め、耕地面積が拡大したいわれを言っていたか >>660
邪馬台国の物証ってなんだ?
親魏倭王の金印か部下がもらった銀印でもなきゃ、他の地域でも該当してしまうよ?
特に九州南部なんて、ほぼ北部と一緒だし、気候なんかはより適任だよ? >>593
少なくとも5世紀には岩手県辺りまで和人化が進んでるしな
古墳時代前期から中期に該当する4〜6世紀には、前方後円墳・箱式石棺や横穴式石室・横穴墓が東北南部にも数多く造営され、北限は岩手県奥州市にまで分布域を広げるようになる。
しかしこれとは別に、東北北部では、土坑墓と考えられる独自の遺構群の存在が確認されている。さらに7〜10世紀には高塚古墳に似て非なる「終末期古墳」が築かれ、北上川流域を主たる分布域とするようになる。
https://i.imgur.com/sjW2kHM.jpg
しかし東北北部の土坑墓や終末期古墳では、断片的な骨格の部位が確認されればまだましな方で、土壌中における腐食や盗掘による撹乱あるいは風化によって、人骨が完全に消失しているケースがほとんどである。
実際に保存状態の良好な古人骨が出土するのは、もっぱら東北南部における横穴墓、洞窟遺跡に限られているのが実態である。
顔面平坦度に関する項目を含めた頭蓋計測値18項目に基づいて集団間でペンローズの形態距離を求めると、
宮城県塩竈市清水洞窟や仙台平野熊野堂横穴墓集団などは西日本弥生人・東日本古墳人に類似するが、東日本縄文・北海道アイヌとはまるで正反対の領域に位置づけられる。
東北南部には開拓を期して特に関東を中心とした各地から数多くの移民が入ってきたことが、この墓制が彼らによって導入されたとみてよい。
ミトコンドリアDNA分析の結果
https://blog-imgs-144-origin.fc2.com/g/e/n/genomuseum/emishi.jpg
核ゲノム分析の結果
https://blog-imgs-144-origin.fc2.com/g/e/n/genomuseum/emishi2.jpg
参考文献
JSPS 科研費 26440257 基盤研究 (C)エミシとは誰だったのか―学際的研究で探る東北古代人の人類学的・考古学的実像―(代表:安達登)
JSPS 科研費 16K18631 若手研究 (B)古代ゲノム分析による関東古墳時代人の親族関係と遺伝的構造の解明(代表:神澤秀明) >>614
七万戸って話を信じる方がアホだろ
魏志倭人伝に書いてある戸数をまともに信じると下手すると現代より人口が多いとこすらある >>656
いやむしろ欠史八代は記紀にはスルーされてるぞw
神武東征なら元々紀元前の話なのに、都合よく解釈してるのは九州説の連中だw
百襲媛の活躍舞台はそもそもヤマトではなく瀬戸内海だし。記紀にはその部分が描かれていない。
でもそれは箸墓が瀬戸内海の讃岐の祭祀様式を用いている点で証明されてるからな。 >>602
榛名山から出てきた豪族の遺体が大陸系だったり色々と面白いな
関東は渡来系が入植した記録が色々残っているし >>651
高句麗の3万戸は少ないかね?
黄海沿い以外は山間部だろ?
多すぎる気もするが・・・ 「この国にはちょっと前までは色んな王が各地を治めて、統一国家はありませんでした。それをなんとか形にしたのが天皇家で。言うなりゃラッキーなイチ地方豪族なんですがこれから頑張って行きますんでヨロシクって俺なら言うけどね」
って大津皇子が言ってたね >>658
式内社 阿波國阿波郡 「建布都神社」
御祭神 建布都神(武甕槌神) 経津主神 大山祇神 事代主神
神紋は、『全国神社名鑑』によると剣菱。
祭神の「建布都神」は、奈良の石上神宮祭神と同じく、武甕槌神の帯びていた霊剣で、当社は物部氏ゆかりの神社。
吉野川南岸には忌部氏の勢力があり、川を挟んで対峙している形は、興味深い。 @阿波
https://genbu.net/data/awa2/takefutu_title.htm >>666
じゃ魏志倭人伝を参照しなけりいいよ。
その代わり邪馬台国も卑弥呼の話もするなよw >>661
>奈良盆地に縄文遺跡なんて普通にあるぞw
縄文遺跡??
3世紀の終わりごろに集落遺跡がほとんど無い奈良県を中心として、なんの助走・前触れもなしに突然、
大型の古墳がつくられるようになるという、実に不可解な現象が起こりました。
なんでかな〜 @阿波 奴国の2万戸は信じてないけど邪馬台国の7万戸は信じてるよ >>667
皇国史観に都合が悪いと書いた
『日本書紀』によると庚午年1月1日(庚辰の日) に筑紫の日向で誕生
『日本書紀』に基づく明治時代の計算によると、即位日は西暦紀元前660年2月11日
皇国史観て明治時代からだろ 因みに前方後円墳とは、
266年11月に、
トヨの使者が洛陽に派遣された際に、
司馬炎が洛陽の郊外に造って
冬至と夏至の祭りごとを合わせて行ったとされる、
円丘方丘を合わせた祭壇であり、
最初期の円丘方丘祭壇は、
当初は墓としての機能は無く、
墓穴は後から掘ったと考えられる。 >>672
わいも「卑弥呼」は人名じゃないと思う
称号か職名か >>671
武御雷の得物はふつのみたまのつるぎ
素戔嗚尊が大蛇を退治した得物はふつしみたまのつるぎ
いずれも石上神宮で奉斎されている
両氏族は特に、対峙する関係にあるとは思えんが
記紀では武御雷の父が高天原のどこかの河の水をひたすら堰き止めていたな
このオッサンは何をしているのかと思っていたが、治水と剣が密接に関わるようだ >>665
平安初期に北海道から撤退してるのは興味深いな >>15
おいおい、魏志倭人伝を自分で読めw
卑弥呼の邪馬台国が九州、というのは合ってる。
だが、邪馬台は、漢の時代の列島の覇権国だわ。
漢への朝貢(実際は配下の奴国の名で朝貢)を握り、
これで列島の覇権を握ったようだ。
(これに加えて鉄輸入の独占が覇権の源泉だな。)
だがこの秩序の中で奈良や出雲が伸長し、最終的に
漢末(2世紀末?)の"倭国大乱"で邪馬台から列島覇権と
博多港の管理権を奪ったのが奈良の「大倭(ダイワ)」だ。
(つづく) >>666
7万戸*4名 = 28万人と仮に計算すると
現代の久留米市の人口に匹敵する(福岡県第三位の人口)
八女市なんて6万人しかいない
鵜呑みにする人は、日本の人口を知らなさすぎ >>669
倭人の国で七万戸なんて相当な広さが必要なのに変わりはないだろう。
そもそも海人で普段朱丹を使う人々が住む集落なんて、
弥生時代後期の日本で考古学的に証明出来るのは、四国東南部から河内平野周辺、紀伊半島沿岸部しかない。
朱丹を使う痕跡や、丹山がある場所、これは紛れもない事実なんだからな。
九州でもこの条件に当てはまる場所はない。 東大 vs 京大
学術的な争いではなく、メンツの争いw マキムクみたいなド田舎の山奥に邪馬台国があるわけねえだろw
鮫よけtatoo入れた海洋民族だぞ
アホ畿内説はもう違法にしろ、国の恥だ 近畿関東の本格的開拓が始まったのは5世紀だよ。
東夷冊封国として半島覇権も手中に収めた倭国は
高句麗の南下に備え軍備増強に未だ未開だった近畿関東の開拓地を兵站利用したんだよ。
当時北方馬族の機動戦力は戦況を左右する最新武装でもあり、その戦況に遅れを取った倭国は列島での馬の育成と剣の大量生産、徴兵のための人口増強を図ったんだよ。
倭国の中心は九州でありその視点は常に半島支配に向いており大陸王朝に比肩しうる国家形成を目指してたのが白村江敗北前までの倭国なんだよ >>675
お前はまず全国遺跡発掘総覧の検索の仕方を覚えろw 去年母系遺伝子の面白い研究が発表されてたね
その研究によれば日本人はかなり地域性のある8つのグループに大別できるようだ
九州沖縄、高知、徳島、新潟福井香川、島根鳥取、奈良滋賀、三重〜静岡、東北富山石川和歌山
畿内の大阪京都は混血の傾向が強いが一番近いのは東北グループだった
地理的に近い北関東や東北からの移住が多い東京より、母系から見れば大阪京都の方が東北に近い
現代の大阪は半数が府外からの移住者なので元々は東北グループそのものだったと推測できる
縄文時代の三内丸山遺跡の人々は東北から日本海、畿内そして和歌山まで広がったのかもねえ >>672
彦(ヒコ)で実は男だった説まであるからなあ・・・ 日本の歴史ってやっぱ古いんだな
アメリカなら資料残ってて疑問点なんて無いけど、日本の歴史はわからん事多すぎ 7万戸なんてどんだけの平地がいるか
そんだけの人口を食わせる耕地もいる
考えたらわかる 絶対にない >>685
7万戸を包含できるのは、大河「吉野川」流域以外には無いから! @阿波 >>15 (>>684つづき)
邪馬台に女王(=剣を持たぬ王)が覇権放棄の証として即位。
大倭は、港の横の伊都国(糸島)に「(一)大率」(=代官だ)
を置いて港を実効支配。で、かつて邪馬台がやったように、
自らの名で朝貢せず、軍門に下した邪馬台の名で魏に朝貢してる。
この状況、もはや列島覇権というより事実上の倭国統一だわ。
しかも、かつて邪馬台が送った奴国が、「漢ノ倭ノ奴国王」に
任じられたのと違って、「親魏倭王」!に任じられてる。倭王!
奈良は邪馬台の支配者だから、奈良は倭の皇帝(今日の天皇だ)に。
その後、名実ともに倭國統一されるのは、4世紀の華北崩壊の折。
これで、奈良の大倭(ダイワ)は、邪馬台の権威を継いで
自ら「やまと(邪馬台)」と名乗る。大倭(やまと)だ。後の大和。 >>686
水田で稲作してる地域と小麦や蕎麦しか育たない地域を一緒にしちゃいけないと思うんだ常考
邪馬台国の7万戸は過剰申告だろうが邪馬台国1国で高句麗1国よりは人口が2〜3倍多いというのは可能性ある >>685
邪馬台国とは、狭穂彦王の乱で明らかな様に、
日向北部を含む広大な地域であり、
西は有明海、北は筑後川、東は宇佐大分、そして南は熊襲し接する広大な範囲である。 墓の大きさは、臣下豪族の勢力次第。
だから、奈良盆地も河内も大きさも墓の向きも墳型もてんでんばらばら、好き放題。
これらがもし、歴代続く大王陵・天皇陵ならば、陵墓の大きさ・向き・墳型など一定の規則性があるはず。
「大きいから天皇陵」 単細胞の思考回路。 わははははは @阿波 >>688
まあ百襲媛の別名が神大市媛、またの名が日女命(ヒミコ)と明記された文献資料まであるからな。
箸墓の規模や瀬戸内海での逸話といい、卑弥呼かトヨなのは確定事項だよ。
たんに記紀には卑弥呼と扱いたくないだけの話だ。 >>698
今の徳島県全域でも70万人くらいしかいないじゃん?
7万戸の表記を鵜呑みにするなw >>695
この時代の日本は未開すぎてまだ文字すら無く何の記録もないと言うのが問題の本質。
他国に残る簡単な記録だけが頼りで情報少なすぎ。 >>704
>7万戸の表記を鵜呑みにするなw
7万に興味はない。 もっとも多くの人が暮らせるところが、大河「吉野川」流域以外には無いといっているだけ! @阿波 古墳が天皇墳墓なら大きさや方角に規則性があるという
説はありえるな 例えば、宇佐大分は弥生中期後期は
考古学的に見て既に北部九州でも
十分に発展した地域であったが、
魏志倭人伝には、宇美から、妻国までの
間の国としての記載がない。
しかし卑弥呼の次の女王は、
豊の国の姫のトヨが就任した事がわかる。
そして、邪馬台国を東に海を1000里渡ると
倭種の国があるという記述が魏志倭人伝にある。
以上の事から、邪馬台国は豊の国を含んで瀬戸内海に接する、
広い範囲の国であった事が分かるのである。 ネットで色んな漢字が表記できなくてムカついてるのに「纏向」「纒向」は表記できてしまうという謎 >>694
銅鐸人は紀元前九州から瀬戸内海ルートで近畿へ流れた前倭人開拓人
邪馬臺の時代は大倭の監視で市を開いていたが、任那形成後は半島方面への軍事移行が中心になり消滅したんだよ
その後日本海ルートから天日矛伝承の様に倭王朝の探索団が派遣され山陰北陸から内陸へかけての本格的開拓が始まる。
その根拠に街道の整備と須恵器の様な陶器の変遷が5世紀前後を境に近畿銅鐸人の痕跡を塗り替えていく。
近畿においても銅鐸の用途すら知らなかったのはそんな変遷があったからなんだよ >>660
北九州は通り路だったからいろいろ出てくるという可能性はない?
浦島太郎のころ日本人は近畿あたりから最終的に山東半島に行ってたんだろ
北九州や朝鮮半島の海沿いは中継点だから物が出てくる、物こそ出てくるが大都市の形跡がない
物が出てきたから文明があったと考えるのは間違いで、中継点だったから残ってて出土する
そんな可能性はないだろうか 宋書倭国伝・・・東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國
邪馬台国7万戸が日本で投馬国5万戸が任那だよ まあ阿波というか四国は邪馬台国とは別問題、古代ユダヤの問題があるからな。
少なくとも邪馬台国ではない、100%違うだろう。 >>12
「ひみこ」って書いてあるパンティはすでに発掘されているけど、
極秘扱いになっているんで誰も知らないんだよ。 「弥生人にとって、阿波はまさにパラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、
一方、希少価値の高い鉱物にも恵まれている。
また、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。 @阿波 考古学者「銅鐸の用途がわからない」
どっからどう見ても「鐘」やろが >>718
舌が見つかったのは最近だからな
近畿の古文書には銅鐸が何か不思議なオーパーツとして記されてんだよ >>35
とりあえず、ナマの壺なのかマナの壺なのかどっちかハッキリしろよ。 >>703
孝霊天皇の系統は明らかに報道しない自由が働いてるよね
吉備平定や桃太郎伝説まで残ってるのに >>718
釣るしてたものもあるが据え置き型もあったみたいよ
まあ鳴らす以外に本来の用途ないわな >>720
矢野銅鐸の正式名称は鰭と呼ばれる縁の部分を太い線で飾る「突線袈裟襷文(とっせんけさだすきもん)銅鐸」で、
銅鐸の中でも最新型式。国内でも最大級。弥生時代後期に作られたとみられている。
なんで、国宝にならんのや! @阿波 出雲展を見に行って、銅鐸も昔は金ピカだったこと知りました >>84
>>89
円は女性器を、方は男性器を表している。
それがくっつけられた、すなわち、セックスを表している。 >>720
銅鐸発見当時はアショーカ王のお宝か?という扱いではあった。
でも中臣氏系の文献では岩戸開きには鐸が登場したりするからな。
実は何か知っていて隠匿した一族はいたんだよ。 >>726
っても銅鐸は鋳型で作る鋳造品だし複製されてたのも分かってるからな。
由来が家畜に使う鈴とも言われてるからそこまで価値が見出せないんじゃね >>718
貨幣だったかもしれない
元々は祭具として鐘としてだったかもしれないが、
いつしかそれが貨幣として流通するようになり、
大量に銅鐸を用意できた豪族は経済力がある、
と見なされるようになったとしよう
とすると九州側よりも畿内が発展した際に、
鋳型を用意して経済を握っていた九州に依存しない、
新しい勢力である畿内豪族が影響力を強めたから、
とも考えられる
実際、鋳型は北部九州から出土していたようで、
そうだとすると辻褄は合うかもしれない >>703
残念だが、記紀には、
倭姫命=ヤマトノヒメミコと
明記されており、
倭姫命=ヤマトノヒメミコ=邪馬台国の卑弥呼で
間違いないだろう。 >>1
だから卑弥呼がいた邪馬台国が近畿にあるという奴は次の質問への明確な答えを出せよ!
・何故大陸から海を渡ってきた使節団が渡ってきた船を使って海沿いに海路を進むのではなく、九州に上陸して徒歩で邪馬台国まで行ったんだよ
当時は100余りの国に別れていたんだろ?
当然陸路では他の国や山賊に襲われる可能性が高い
古代人は知識はないが馬鹿じゃねーぞ
海路で行けるなら可能な限り海路で進む
危険をおかしてまで陸路で進むということは、その直線上の先に邪馬台国があるという事 しかしまぁこんだけ何一つ知らないのによくべらべら喋るなこいつら
銅鐸についても古墳についてもアホな妄想ばっかりだ >>730
よく似た銅鐸が国宝になってるんだが。 @阿波 >>717
日本に稲作が伝わった初期のころは九州や四国の優位性があったと思うけど
本州まで伝わったらあっさり抜かれたと思う >>47
名前じゃなくて 地位や役職だと思う
日巫女あたりを中国が変な当て字にしたんだろう 巨大なな銅鐸
実際には軒に吊るさないんだろうけど
我々にはこんな大きな銅鐸を吊るす建造物があるとぞという誇示か
これを作る鋳造技術の誇示もあるかな
それと鋳つぶして銅剣や銅矛も余裕で作れるんやでという
どっちにしても元々は鐘に間違いない >>733
そういう折衷案要らない
近畿が総獲りする >>734
そもそも魏志倭人伝読む限り伊都国までしかいっとらんじゃろ常考
そこからは伊都国滞在中に旅人に話聞いただけで
まずは短い原文読んでこい定期 ヒミコが役職なら時代毎に複数のヒミコが
いたはずなので文献で見ると色々ややこしそう >>737
>本州まで伝わったらあっさり抜かれたと思う
違う。7世紀末まで奈良盆地は墓場。
畿内の発展は、「阿波」から避難疎開遷都した8世紀から。 @阿波 >>707
それでも現在日本がある以上は、何処かのタイミングで建国して今に続いてるって凄いな 一気に胡散臭くなるから卑弥呼の都とか言わなきゃいいのに >>743
少なくとも近畿じゃ無いことはわかるな?
海路で行ったらその旨の記載があるはず
徒歩で行くのは疲れるし貢ぎ物があるから警備も増やさなければならない
当然食糧もかかる 文化遺産は恥ずかしいだけだから全部返せ
ラインナップと国名を眺めていると
穴に入りたくなる 九州から近畿に移転したんじゃね
古代に九州で噴火あったらしいし >>746
瀬戸内は渦があるとしても、日本海伝いだと大丈夫やろ >>734
当時の国というのは都市とか村や里的な意味合いが強い
女王国の版図は敵ではないので陸路も安全
畿内だとすると四道将軍の街道整備と重なるのかも知れない >>742
邪馬台国が近畿は厳しいと思う
近畿はもっと巨大な王国があったんだろ 銅鐸に最も描かれている動物は鹿
毎春に生え代わる角は、再生の力と豊穣をもたらすものとして
農耕民族によって篤く祀られたのだろう
銅鐸が祭祀の道具だということに異論はないだろう
唐古鍵の時代から作られ続けていた
鹿といえば春日神・鹿島神の使いだ
この神族は奈良の耕地化と発展によほど功があったとみえる 銅鐸が何かは分からないが、
銅剣銅鉾は博多湾周辺の
安曇族が祭祀の道具として
盛んに作っていた事が分かっており、
銅剣銅鉾の広がりは、
安曇族の日本各地への進出という
考古学的事象を示している事が分かるのである。
中でも大阪湾型銅戈は、
物部氏の祖先ニギハヤヒの、
住吉神社周辺を拠点にした天孫降臨を示しており、
一部は長野県の安積野への安曇族の進出も、
大阪湾型銅戈の安積野での出土で証明されている。 >>750
(旅人に聞いた話だと伊都国から)水行十日・陸行一月
陸行一カ月が長すぎる気もするが魏志倭人伝の記述では水行十日の時点で畿内説の方が優勢だろう 魏志倭人伝に阿蘇の記述が無いから使者は
そんなに南下してないわな どの地も予算や観光等の利権が絡んでるから譲らない
この手の学問は真実より利益だね >>753
それは言える
でも瀬戸内海ルートは無いな >>734
邪馬台国、大和はヤマトの当て字だよ、北九州も近畿も、同じことを言ってる
日本という意味でヤマトと名乗ってたんだろ >>754
女王国の近くには敵国があったんだろ?
そんな中で整備できるかね
途中海を渡るけど(有明海と思っている)、これも敵対国を避けてだろ
仮に街道が整備されていたとしても海路を使わず徒歩で進むというのが理解できない
大陸から九州まで来られる航海技術があるんだぜ? 西日本は馬もあまり普及してなかったらしいから
内陸部まで行くのも大変だろうね 水行10日 陸行1月
↑
そもそもこれが多分書き間違いだと思う。
陸行1日なんじゃね? >>765
だから何故海路を使わず、わざわざ陸路で徒歩で進んだのかと聞いているんだが
ヤマトという知名なんて後から何とでもなるだろ 水行より早く着く陸行1月の場所なんて日本に無いと考えていい
であれば敢えて歩いたと考えるしかない >>766
宇佐の沖で、饒速日は自らの軍勢を息子と二分した
天香久山命は、それで一旦四国へ入り、父は瀬戸内を進んで大和へ向かった
一部は宇佐にも向かったろう
この宇佐から息長が出て、河内王権を確立、継体で何とかつないで現代まで続いている >>766
宇佐神宮の祭神比売大神が卑弥呼、宇佐神宮は出雲大社と同じく参拝方法が
二礼四拍手一礼で不吉な四を使っている、これは大国主命も卑弥呼も非業の死
を遂げたからと言う説がある >>761
古代でも日本海ルートがあったらしいじゃん >>771
実際に歩いたら魏志倭人伝通りに舟出したり歩いたりした猛者はおらんのかな? 少なくとも投馬国と邪馬台国は魏志倭人伝の書きぶりからすると異質で九州から遠く離れたところだよな
聞き書きなのかどうかはともかく
投馬国=出雲
邪馬台国=大和
これが妥当だと思う >>769
領土を広大に思わせるためトロトロ移動
陸上や川の距離はいくらでもごまかせるが方角はごまかせない >>774
あったね
でも陸行1月の場所はじゃあ何処よって話し >>758
水行は準備をして有明海を渡ったくらいだろ
陸行はおそらく1日の間違い >>771
水行10日 伊都国→出雲国
陸行1月 出雲国→畿内
説はあるな。邪馬台国の話は本人が行ったのではなく伊都国で旅人(恐らく交易商人)に聞いた話に過ぎないからな 箸墓の年代が見えてきた辺りで
機内説サイドの統一見解になった感じだね
世代的に伊勢神宮も恐らく女王絡みの施設だろう 箸墓古墳が卑弥呼の墓って…………
何十年前の説だよ。
出土品見れば邪馬台国が九州なのは明らかだろうに。 >>779
なるほど、舟だから準備期間も含めてって事か。
単純に距離じゃなく、準備含めて実際にかかった日数って事か。 >>776
阿呆。
なんで九州から機内まで行くのに途中の国を一切書いてないんだよw
途中に国が何も無いのか?
卑弥呼の直轄領じゃない敵対国でも必ず書くはずなんだわ >>757
銅鐸も最初は九州だ
銅戈と銅鐸の違いで、九州と、近畿遠州を分ける区分はもう過去のもの
出土数の違いは、人口の増加が近畿で圧倒的だったためだろう
だけど、この出雲族の祭具を崇神は理解しなかったらしく
彼が全国を統一すると、この祭具は国家祭儀から排除された
分からんがね。理解していながら、前王権のものだからとして廃したのかもしれん >>758
水行20日は日本書紀の神武の東征記に、
日向から岡田宮まで およそ34日で行ったと明記されており、
ここで言う日向は高千穂で、
岡田宮は魏志倭人伝で言う宇美の近辺であるので、
宇美から水行20日は日向高千穂のおよそ2/3の位置になり、
投馬国の長官副長官が彌彌、彌彌那利であり、
美々津耳川周辺の豪族であるので、
丁度宇美から日向宮崎の2/3の位置の水行20日の位置が美々津になって、
宇美から水行20日はドンピシャで美々津になる。 >>780
陳寿が知らないだけで実際行って卑弥呼にも会ってるでしょう >>769
宇佐は大いにありうる。
なんと言っても宇佐神宮があるからな。
由緒正しい上に、主神は謎の神だからな >>765
ヤマトという名前は邪馬台国から機内の朝廷(のちの大和朝廷)が奪ったんだよ。
邪馬台国が大和朝廷になったわけではない。 >>767
畿内説だと敵の狗奴国は畿内の南の熊野か東の関東勢力だからねえ
水行十日陸行一月は投馬国から放射状じゃないかと思ってる
投馬国=ヅマ=出雲から水路で若狭から琵琶湖つたって木津川から大和に入り十日
陸路なら出雲から吉備に出て街道を使い一月 今、知ったことではあるが、出雲大社と宇佐神宮の拝礼が同じだとて、驚かないな
結局、国を譲った側の傍系が、王権を取り戻したのだから >>778
判明の地名のほぼ直線上
途中水行が必要(有明海)
上陸して1日
これを考えると、邪馬台国はおそらく熊本県北部のトンカラリン遺跡があるところ
当時は埋め立てされていなく有明海に近かった
ここには不思議なトンネルがあり呪術を行っていた事が確認されている
何より近くに江田船山古墳があり、ここは国宝にもなっている日本で最初の漢字が記された刀剣が発掘されている
では何故ここが有名ではないかというと、おそらく卑弥呼の後で早々に邪馬台国が衰退して無くなってしまったのと、その後の墓荒らしとかで装飾品が全て持ち去られていたため
漢字が記された刀剣はボロボロだったため盗難にあわなかったくらいか また陸行1月とは、
唐書や隋書で、倭国は東西五月行、南北三月行と明記されているので、
長崎から群馬福島辺りまでの、
1/5の距離が一月行になり、
大体百キロ前後になるのである。 >>787
さあどうだろうね?
20世紀になっても鉄鋼の生産量誤魔化す国だからなあ
そもそも邪馬台国からの貢物も当時の交易所だった伊都国経由してのもんでしょ
会った事にしてるだけかもよ >>781
伊勢神宮はのちの勢力に邪馬台国が乗っ取られて追い出された結果あそこに落ち着いた >>723
弥生時代後期、一番激動の場所だったはずの瀬戸内海での争い記述が抜け落ちてるからね。
孝霊天皇なんて出雲地方でも戦った記録があり、中国、瀬戸内海から東海に至るまで神社には何らかの伝承が残っている。
その娘が百襲媛で箸墓の被葬者なんだしな。
倭大乱の時の倭人王が孝霊天皇で、娘が卑弥呼で確定だろう。 箸墓古墳が卑弥呼の墓なら「お〇こに箸が刺さって死んだ」
そんな恥ずかしい伝承が伝わるわけないやろ
一応、卑弥呼=天照大神 日本の現人皇統の始まりやろ? >>788
比売大神かな?八幡様のけて真ん中に座ってるのはなぜ?と言われとる神様 >>783
おそらく敵国の様子を確認しながら出発の時期を選んでいたんだろ >>769
> 水行10日 陸行1月
> ↑
> そもそもこれが多分書き間違いだと思う。
> 陸行1日なんじゃね?
ソレで問題ない
「魏志倭人伝」は「魏」が書いた書物
「魏」と敵対する「呉」の背後の海に
強力な同盟国「大和大国」があることになるから
脅しにちょうどいい >>786
それ古事記の記述だね
日本書紀と古事記がごっちゃになってると思う
ただ日数は書いてないと思うよ?
岡田宮は今の福岡県の遠賀川河口付近
故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人
作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於竺紫之岡田宮一年坐。
先に豐國宇沙(豊国の宇佐)に行って、次に竺紫之岡田宮(筑紫国の岡田宮) 魏使は末廬国で下船して歩き出している、邪馬台国が宇佐なら宇佐まで水行した
はずなので宇佐が邪馬台国では無いのは明らか。同様の理由で日向説や奈良説も
ありえない。邪馬台国は末廬国から目と鼻の先の船では行けない所
吉野ヶ里と言う事になる。 元伊勢神社は日本各地に様々な伝承がある訳だが、
コレは恐らく仲哀時代の熊襲の侵攻で、
山門丹波氏本家が日本各地に散り散りに避難した場所であろう。
ソレラが神功皇后の熊襲征伐の後に、
伊勢に集まって天照大御神を祀る位置を定めたのが伊勢になるだろうな。 >>791
常識で考えると畿内説の場合は、狗奴国は七万戸の邪馬台国や投馬国五万、奴国二万の国々と対立する国なんだからな。
これは相当な国力を持つ国でないと無理。
つまり北部九州から瀬戸内海、畿内連合対九州南部、一部四国が狗奴国の争いだと思えば遺跡の出土傾向からみても間違いない。
倭人伝の記述でも狗奴国は奴国の南側という記述もある、つまり九州南部側が狗奴国。
畿内説でも女王国でもある北部九州と男王を持つ南部九州が対立する図式だよ。 ひめのみこと
これを漢字に充てると卑弥呼
日本で当時王と同格のひめみこはただ一人
神功皇后のみである 言語学の方面から倭人伝の解読してた人の結果が
近年の機内説まんまな結論なっていたのが面白かったわ
地名とか人名を当時の方言で分類してく技術が謎 >>803
日本書紀に年冬十月五日に出征し、十一月九日、筑紫国の岡水門に着かれたと明記されている。 >>802
政治的軍事的な駆け引きもあるのか。。。
こりゃ邪馬台国論争終わるわけがねぇwwwwww
決定的証拠が出てくるまではwww >>797
面白いね
確かに天皇空位の間に姫が外交を担ったというのは考えられる
すると箸墓か三輪山の禁足地に親魏倭王の金印が眠ってるかもね >>798
アマテラスの妹もそういう話なの知らないのか?
ホトはつまり元々はハートの意味、心臓を刺して死ぬ話をバカにしてああいう話にすり替えしたんだよ。
それは仏教普及為に旧来の三輪山の主をバカにする為に権威下げした逸話をわざと載せたんだよ。 >>809
日本書紀を使うと、出発地点は高千穂宮ではなく笠沙宮になる 百襲姫の百襲が魏志倭人伝にある卑弥呼の死と共に百人殉死させたことに由来するのではないか?
との説が面白い
日本書紀作成時点で魏志倭人伝の記述をなんらかの形で日本人が見た前提 >>813
先ず日程は日本書紀に明記されていましたごめんなさいすみませんだろ?? >ホトはつまり元々はハートの意味
古代になんで英語のダジャレがでてくんねんw >>817
日程は日本書紀に書かれていましたごめんなさいすいません。
高千穂と岡田宮は古事記でしたごめんなさいは?
古事記と日本書紀がごっちゃになってるんだよ
日本書紀だと出発点も違うし岡田宮もでてこない。
日向、高千穂、岡田宮の時点で古事記の話しと
逆転してんじゃねーのって思ったわけさ (´・ω・)わしゃ、よく出てくる女のあそこに何か刺さって死ぬみたいな話し
ありゃレイプされたうえで殺されたみたいな悪いイメージをもってるんだよなぁ。かわいそうなことじゃがのぅ 卑弥呼って魏志倭人伝くらいしか記録ないんだろ?
国内の記録に何もないのがおかしい
別の勢力に記録を消されたとか書き換えられたとか言われるけど何かしら残るだろ >>1
だからぁ卑弥呼なんて居ねぇんだよ
居たとしたら日巫女で歴代で何人も居た そう卑弥呼は役職。神の言葉を人に伝え、人の願いを神に伝える仲介者。 >>821
それなりの大豪族だったんだろうが文字もない時代だからなあ
消された以前に直接のご先祖様以外は伝説も残らんだろ ちゃんとした名前を聞いとけよ 使えねえ使者だな
と国に帰って叱られたらしい 前方後円墳はおっさん王の墓
前方後円墳のクビレのところに丸いのがくっついているのが女帝の墓 >>827
卑弥呼の時代に使われた硯は九州でぽつぽつ出てきてるよ 工人を長年 差別してきた いつもの大陸系が居るでしょ
卑弥呼と名付けたのはソイツらさ >>821
国内で当時の事を記録してるとしたら古事記と日本書紀くらい
他所の勢力の事だから書いてない(書く必要がない)わな
一応神功皇后の段に魏志倭人伝の転載の形では書いてはあるけど
明らかに神功皇后の仕事のような書き方にはなってない
それよりも仲哀天皇が熊襲討伐に向かう前
筑紫の国で討ち取った土蜘蛛が卑弥呼に近い表現をされてる
丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛。
時、田油津媛之兄夏羽、興軍而迎來、然聞其妹被誅而逃之。
25日 山門県へ到着しました。
そこで土蜘蛛の田油津媛を誅殺しました。
田油津媛の兄の夏羽が軍を起こして迎えに来ました。
しかし、妹が誅殺されたことを聞き、逃げました。
*土蜘蛛とは、大和王権に従わない勢力全般を指す言葉 >>831
そいや領収書とか証文はあったかもしれんね
まだ木簡は出てこないけど
文字じゃなく歴史を文字に残す発想だな無かったのは >>815
ざっくり言うとそうなんだよ、
みこ(巫女)さんはどの集団にも居たし、自分らの国がヤマトであることは共通してた
大陸から華人がやって来て、「国は何というの?」と聞かれれば、「ヤマト」と答えるし
王は誰だと聞かれたら、「みこ」と答える。
それを記しただけ。
深く考えすぎなんだよ、当時のヤマト人は日本列島全体を統治してるかどうかなんて考えてないわけだから
海を隔てた向こう側に対して、こっちはヤマトというしか認識がない 神功皇后は男系女子ではあるが男系男子Y遺伝子真理教や水戸学派にとって消してしまいたい存在、なおかつオールドアカデミーやオールドメディアなど朝鮮に忠誠を誓う輩にとって秀吉と同等の敵である。真実は現在葬られています。 >>813
また、吾田の笠狭は一時的に滞在した場所にしか過ぎず、
日向高千穂に宮を定め帰還したと明記されている。
どうしてすぐわかるその場しのぎの嘘をつくのか?? >>836
九州では紀元前の漢の時代から交流があり
使者が中国の書簡の意味を理解できなければ、名誉な金印も得ることなど不可能だろうし
半島で鉄を取って、中国で売るなど商業的な事もやっているので
むしろ、その時代の日本の書簡が全くでないことに特別な意味があるんじゃないかな。 ホトは女陰の古語。
百襲姫は箸で女陰を突いて死んだ。
ゆえに箸墓という。 前方後円墳は「首長継承」の葬送儀礼の装置らしく、首長の霊は現世の留まり続ける、っていう死生観。 >>835
田油津媛か。。。この人が何か卑弥呼関係者っぽいなぁ。
邪馬台国と大和はやっぱり別国で邪馬台国は滅ぼされたのかも知れんな >>834
神話時代の話を嘘がホントか議論するのが無意味な気がするな
神話は神話、そういう歴史的な価値観を持ってるってのが大事だと思う ”卑”とか”邪”という文字を使っている時点で
歴史を記し残した民族とは別の民族 金印が名誉と思ってるのは今の人達だけで
当時はたいした事思ってないのかもよ
1つは田んぼに捨てられてて
1つは未だに発見出来てない >>842
今度はどっちの記述?
日本書紀だと、ニニギは亡くなってから日向の可愛之山に埋葬されてるので
直ぐに戻ったとはなってないと思うけどなぁ
可愛之山の場所も現在の土地で宮崎なのか、鹿児島なのか
はっきりしてないけど >>850
卑弥呼は国内での争いに外国勢力を頼ったんだしどう思われてたかわかんないのよね >>837
ウラル語族で考えたほうが何故か辻褄あうw
ミッコ 前方後円墳なら韓国にもあるでしょ
韓国から日本に伝わった可能性も高い >>850
さすがにそれはない、金は古代も価値が高かった
ちなみに日本と同じ蛇の印は雲南省からも出たんだよ
蛇は稲作の民という意味らしいな 徳島の卑弥呼の墓だと云われている神社の周辺は手付かずの古墳だらけで地元では掘ったらなんか出てくるんで嫌がられてる。 >>850
むしろ銅印をもらった高句麗の方が偉いのかもね >>736
銅鐸は祭りが終わると埋めるものだからな
ベトナム辺りにも同じ風習が残ってて当初近畿周辺に住み着いた第一次渡来集団の銅鐸人が大陸南方様式文化の影響を持つ倭人族に分類された理由が分かるだろ。
近畿に住み着いたこの銅鐸人は方形周溝墓を基調とする邪馬臺とは別種 >>807
巫女は仕事で忙しいから 誰かにやらせてたんだろうな >>847
俺の中の本命は田油津媛=卑弥呼(の後継者)説
住んでいたのが山門県(やまとのあがた)
兄が軍事を取り仕切っていた
田油津(たぶらつ)は誑かす(たぶらかす)
物証があるわけじゃないけど、記紀で卑弥呼が活躍しない事と合わせると
一番無理がなく受け入れやすかった >>856
属国扱いがどうなんだ?
最終的には日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きやに行き着く訳で 古事記編纂が700年頃で
300年頃の文字も文書もろくにない時代の話なんて早々分からんよ
今で言えば関が原の話しみたいなもんだ
文書が無かったら調べようがないよ 吉野ヶ里は有明海に面しているが、有明海は干潟なので大型船は接岸出来ない
から魏使も吉野ヶ里に行くには玄界灘の末廬国に上陸せざるを得なかった 門外漢からすると、
もう50年前から議論が堂々巡りしているように
見えるのだけど、
結論を出すには予算をいくら付けたら済むの? 高天原で饒速日と一緒だったと明記してあり、
饒速日の天孫降臨は考古学的に見て、
安曇族の畿内進出である事から、
高天原とは博多湾周辺の奴国である事が
考古学的に確定する。 >>865
吉野ヶ里ブームの頃の年寄りが死に絶えたら決着になる
もうそんなに先ではない
研究者の間では既に決着付いてるし
今はどうやって大和朝廷になったかに研究課題は移ってる 歴史ミステリーマニアには悪いが、
どこにあったか、どうでもいいがな。
何かあんのか? >>867
トンデモ同士が比較しても意味ないぞ。 @阿波 >>870
九州にあった方が左翼にはガッカリする人が多い。右翼にも一部ガッカリする人がいる >>868
そのうち、「阿波」に取って代わるよ。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 わははははは @阿波 >>862
隋は終始一貫して倭を対等の同盟国ではなく属国の朝貢国扱いにしてるけどね >>865
予算ではなく完全な物証が見つかるかどうかだよ
卑弥呼が貰った親魏倭王の金印
難升米が貰った率善中郎将の銀印
牛利が貰った率善校尉の銀印
掖邪狗等8人が貰った率善中郎将の銀印
金印1個、銀印10個がどこかに埋まってるはず
これが出てきたら、ほぼ確定できる
出てくるまではずっとグダグダ邪馬台国遊びが続く >>870
別に何も問題ないよ
鎌倉時代が始まった年代すら変わるのに
邪馬台国が何処にあろうが何も変わらない
自己顕示欲が強い年寄りが騒いでるだけ >>862
中華は日本に攻めてきてもないし、日本は滅ぼされてもない。
日本は当たり前に独立国だし、属国かどうかなんて考える理由もない
日本からすれば外交をして金印のプレゼントを貰ったという認識だけだろう また、高天原から高千穂に天孫降臨する際に、
猿田彦が道案内を行い、伊勢に帰って行ったと明記してある。
当時、日本全国に物流網を形成していたのは、
貝の道を形成していた沖縄出身の部族であり、
港川人と言われるY染色体ハプロタイプC1a1の部族である。
また、C1a1系の部族で有名な人物は
豊臣秀吉であり、風貌から猿と呼ばれていた事も有名で、
猿田彦がC1a1系で特徴的な猿の風貌をしていた事も分かるのである。 >>878
金印の意味を知らないってか
そんなわけあるか >>850
古代においてゴールドはたいしたものではない
ことはないと思いますけど。 >>866
太古の日本には
奴と鬼しか居なかったのさ 歴史学者は左翼が多いので
初代天皇の東征神話を否定するために九州説を潰すミッションを数十年やってきた。糸島の遺跡が無視されてきたのもこれが理由
非学者の右翼は中国に朝貢していたのが癪なので卑弥呼は九州にいて大和朝廷とは何も関係ないことにしたい。しかし卑弥呼の後も男性天皇が朝貢しているので、卑弥呼だけ九州に押し付けても意味がない
上と下を比較すれば
畿内説そのものが従軍慰安婦や南京大虐殺と同じ仕組みなのが分かる >>868
へえ、そういう背景があったんだ。
参考になった。ありがとう。 >>882
金印ってめちゃ小さいよ
所詮印鑑程度だし 南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。
女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
道程だけじゃなく、倭国の概観や統治システムの文脈でも女王国は博多湾岸より南にあると書かれている
おまけに、
女王国の東、海を渡ること千余里。また国有りて、皆、倭種。
とある
地理条件はまったく大和と一致しない
ここまで書かれてなお畿内にあると思えるって、宗教に近いだろうね >>887
ボクの素直読み以外だと何処にも辿りつかないんだから意味ないだろ
わざわざ改行するほど自己顕示欲が強いみたいだけどw >>887
だから陳寿が知らないだけなのよ
倭人伝は行程も継ぎはぎだらけだろう
倭は東南の大海の中にあるんであって南じゃない >>885
門脇貞二の『邪馬台国と地域王国』を読むとその辺の背景が描かれているよ
イデオロギーから畿内説をやれという圧力があって
門脇さん自身もやっと学者引退後に九州説を出版できた。この本が遺作 >>876
金印とは何の意味があるの?
魏の使節団がやって来て魏の印鑑をもらう事で属国扱いになり攻め滅ぼされる心配がなくなるってこと?
その代わり裏切るなよって事? >>876
なるほどー。
それらが中国の文献に記録されているんだ。
面白いわ。 >>887
伊都国でそこに来た交易商人から全部聞いた話だからな
また一海をわたること千余里で末廬国(まつろこく)に着く。
四千余戸ある。山と海の間の海岸に居住する。
草木が盛んに茂り、歩いてゆくと前の人が見えない。
好んで魚やアワビを捕え、水は深くても浅くても、皆が潜って取る。
実際に行った所はこれくらい生活感あふれ具体的に書いている 発見出来た金印は出所が怪しい
もう1つの金印は発見出来ず
これが現実 >>881
一級のものを頂いたという認識はあっても、傘下に入ったという認識はなかったはず
そもそも大陸から遠すぎて軍事的に連携できないし >>868
流石に引退間近の畿内学者も続々と邪馬台国東遷説に傾いているよね >>886
印綬(印を授ける)ってのは、中国皇帝が支配下だったり
挨拶しに来たやつをうちのグループねって証に渡すもの
中国で一番偉いのは王ではなく皇帝
シンプルに言えば王は皇帝とは同列ではない臣下
王位を印綬されるのは外臣(外国の代表者)か
皇帝の一族の者に限られていたので、結構位的には高い
魏志倭人伝の頃、魏は燕(公孫淵)の討伐中に
帯方郡を奪った後、周囲の国邑が挨拶に来るとバンバン印綬を行った
これを印綬外交といい、ここらおれんところのグループな!って示威行動だった
とは言え金印紫綬を受けたのは卑弥呼の邪馬台国と
遥か西の大月氏国の2か所だけ
めちゃくちゃ遠いところから挨拶に来たと騙されて、金印をやった説 >>893
実際に行ったかどうかじゃなく別の資料を継ぎ足してるのよ >>896
そのうち、「阿波」に取って代わるよ。
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
記紀神話を物語る、記紀登場の神名古神社群。
旧説(畿内説や九州説)の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 わははははは @阿波 >>890
購入リストにチェックさせていただきました。 地方における前方後円墳は、特別な褒賞を結びついていた
中央の許可なくプランを設計し、建造することは不可能だったはず
だから纏向と那珂八幡が似ているのなら、それは大きな問題となる
纏向の被葬者と特別な関係にあるはずだから >>899
一回戦で畿内説が消えた後なら、二回戦で阿波が九州を下してもいいよ 金印は送ってから1600年くらい志賀島の田んぼ近くの地中に埋まってたらしい
そして当時の藩は2つの学校が対立状態にあった(発見は江戸時代)
そして、劣勢の方の学長が金印確認者
更に都合が悪い事にその学校は今の時代でも学校として存在してる
国宝にもしてしまったし、もうどうにもできんよ >>898
実際に行ったのは陳寿が聞いた人だろ
その人が伊都国までしか行かなかったのに見栄か金貰う為かどうか知らないが適当な事言ってる >>891
朝貢とは今でいう通商条約だろう、冊封が今の軍事同盟にあたる
日本やインドネシアは朝貢には行ったが、冊封には入ってない、つまり交易関係だけ
朝鮮半島の歴代国なんかは、朝貢&冊封で、守ってもらう属国状態だな あの金印は実物を見ても何の感動もないだろうな
端っから疑ってるからな >>904
何故か嘘も捏造もありえないと思ってる人がいるんだよね
今の時代でも論文に嘘や捏造があるのに 道祖神祭が最近各地で行われていた
結びの神である醜い八衢彦と八衢姫が結ばれて男の子が生まれた
新しい宮が建てられたが宮を守る人々は竹でしばかれて宮は燃やされるというのがこの祭のストーリー
同じプロットの話が日本書紀に出てくる
芦原中津国平定の件で櫛八玉神が料理をする話
スズキは竹でしばかれ、カミムスビの新宮は火で燃やされる
これが倭国大乱の真相じゃないか?
カミムスビの新宮がどこにあったのか?
立地のいい巨大古墳の下で静かに鎮魂されているのかもしれないね 金印の意味
親魏倭王 字の通りそのままやろ
あなたを魏に親しい倭の王と認める
魏の属国なら「親」とは別の字を充てるだろ
魏は「親の国」とも読めなくもないけど それはないやろ >>897
へー。なるほど。
何かヤクザのバッジみたいだなw
○○組傘下○○組みたいなw >>557
ちょっとだけ違う。
「倭面土国」が出てくるのは、後漢書ではなく、唐の時代に
書かれた翰苑で、後漢書の引用。後漢書には倭国としかない。
漢の時代は倭の代表として奴国王の名で朝貢していて、
実際にはその裏にいた邪馬台がその時点から列島の覇権を握っていた。
が、唐の時代には、大陸でも倭国=やまと(大和)が常識になってて、
それで倭國の意味で「やまと(倭面土)」と書いてるだけ。
魏志倭人伝と後漢書みれば、漢に朝貢した奴国の裏に邪馬台が居たのは自明。
で、魏に朝貢した邪馬台の裏には、倭国大乱で新覇権国となった(というか
事実上、倭全域を支配下に置いたと分る)「大倭」(奈良?)が居るのは自明。 >>904
明らかに記述内容が変わってるし別の資料の引用でしょう
投馬国邪馬台国は日数に変わってるから別資料でしょ >>891
金印そのものに価値があるのではなく、そこに刻まれてる文字に価値がある
『親魏倭王』
この中にある『王』というのは、魏から見ると皇帝の臣下
王侯貴族って言葉があるじゃん?
あれの語源は古代中国の爵位にある
古代の中国には王、公、侯、伯、子、男の爵位があった
(他にもいろいろあったけど全部は覚えてない)
公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵っていうやん?
中国で一番偉いのは王ではなく皇帝なので
その臣下の王爵って意味だね >>910
すげー極端だけどあってるw
金バッチ、銀バッチみたいなもんww >>905
魏と邪馬台国はゆるい関係だったんだねw >>911
奴国じゃなくて倭奴国で倭国の事でしょ
漢委奴国王=漢倭国王 >>916
魏って45年くらしか時代がないんだよね
そして朝鮮半島北部に公孫淵が割拠した時代もあったし
一応、司馬一族は後継政権という事にはなってるけど
曹一族は粛清してる 魏志倭人伝を何処をどう読んでも邪馬台国は奈良ではない
これだけは間違いない 倭国乱は前の時代だよ、古墳が造営されるのはその後。
倭国乱を経て、古墳時代の幕が開く、といえばいいのかな。 >>919
それは九州までしか行ってないからだろ
馬鹿か死ねよ 逆に九州だけは絶対にあり得ない
九州だったら卑弥呼に会ってないとおかしいだろ >>897
いや雲南省からも金印が出てる。
ちなみに雲南省は古代は中華の支配の外で、元の時代に併合した。 >>912
どうだろうね
ただ継ぎはぎにしても国の位置に関しては奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国の4カ国は
記述からしてもいずれも伊都国からの距離だと思うよ
そう考えると同一人物の可能性が高いんだよな >>924
九州か畿内かはおいといて会ってるだろもちろん
中国の使者が行ったけど倭王に会いませんでしたなんて報告できるわけないだろ >>920
いつも思うのだが、倭国大乱の終結が卑弥呼の擁立なのだから、
卑弥呼は古墳時代の人ではないかということだな >>926
国名を列挙するのは陳寿の文章を書く手法で韓伝でも同じ事やってる
だからそれだけの資料をどうしても用意する必要があった >>918
曹操の時代は魏の皇帝ではなく、後漢の臣下という立ち位置だったからねぇ
因みに公孫氏も基本的にはずっと魏の臣下という立ち位置
公孫淵が呉から贈られた燕王を名乗り、文武百官を集めて独立したのは
公孫氏滅亡のたった一年前の出来事。。。
諸行無常だねぇ 使者は糸島で遊興三昧接待漬け
卑弥呼の住む都には行ってないだろ 過去のさまざまな墓制が、古墳、前方後円墳祭祀へと統一されていくからなあ。
あきらかに統一王朝の誕生なんだよね。 >>925
それは魏(の皇帝)から贈られたものではなく
漢の武帝が授けた金印でしょ まあ金印ももらうってのはたいへんなことなんだよ。
ベトナムも半島ももらえなかったんだし。 >>932
まあよくわからないので適当に書いた事には違いないわな ちゅうても倭は大国、って書いてあるから。
人はいっぱいいるし、硫黄は無尽蔵だし。
という面も少しはみたいなw 仁徳の前の応神から「実在する天皇」というのが歴史学の主流。 >>926
邪馬台国への行程のすぐ下に
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
このような記述があるのが、いかにも不自然
その後にも以下のような記述が来る
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國
投馬国・邪馬台国についてだけ、日程で併記していると解釈する以外
説明と整合性が取れない >>938
金印はよほどじゃないと、皇帝の一族以外だと貰えない
じゃあなんで邪馬台国の卑弥呼は貰えたのは?
ずばりめっちゃ遠くから挨拶しに来たとウソついたから
中国人は短里なんて知らんから、何千里、万里離れた国からわざわざ
遥か海を越えてやってきたって聞いたら感激しちゃったんじゃないかな?
だから魏志倭人伝にも
汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝
今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬
なんてわざわざ書かれてる >>944
出土品からその存在が裏付けられてるのは雄略天皇が最古。 >>944
700年頃に編纂されてて、当然人の平均寿命とか知ってるにもかかわらず
100歳以上とかがいるのだから、初代から実在した気がするんだけどね でも印鑑で外交するって、すげー頭の良いやり方だな。
いちいち軍を出して侵略するよりずっと良い。
戦費で国力も衰えないし、レイプされたり強盗したりとか陰惨なこともおこらないし、人も死なずにすむし。
なんとなく平和的に友好を結べるならそうしたいな。 >>947
遠過ぎて軍事的にも攻めに行けないし相手も来ない、遠いお客さんだから金なんだろう
朝鮮半島は攻めるか攻められるかという距離なので、上から押さえつける必要がある、だから銅なんだよ >>953
さすがに当時の国力じゃ無理と分かってるでしょ
朝鮮半島すら放棄するようなのに 邪馬台国が九州なら魏志倭人伝にそのまま里数で書いて終わりだろ
議論になんかならない
奴国二万戸が博多で確定なのに、投馬国五万戸邪馬台国七万戸がどうやって北部九州にあると思えるのか
投馬国邪馬台国は奴国から遠く離れた大きな国
あとは日本史勉強すれば邪馬台国の位置はもう分かる >>890
門脇先生は本音は九州説だったのか
逆に誰もやらないと九州説が途絶えるからお前やれって言われて吉野ヶ里研究し続けた先生もいるらしいね あとは王という身位だな
これは普通皇族に与える称号だから
なぜ倭国王や卑弥呼が得られたかという問題?がある
もちろん後代で明清に対する朝鮮王が現実に居たのだから、大きな問題はないのだろうが >>956
>投馬国邪馬台国は奴国から遠く離れた大きな国
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」
「弥生人にとって、阿波はまさに常世の国・パラダイス」
南四国は、温暖な黒潮流れる太平洋に面し、漁労・航海術が発達、内陸は高温多雨による森林資源に恵まれ、
一方、「辰砂」「青玉」など希少価値の高い鉱物にも恵まれている。
また、吉野川を始めとする、いくつもの大河が流れ、大河流域には、広範に肥沃な土壌の恵みを与えている。
南四国に大国「邪馬臺国」・「狗奴国」・「投馬国」が興るのも当然と言えば当然。 @阿波 >>956
7万戸って人口どれくらいかな?
15万人くらいかな >>954
匈奴「わしら金印もろてるで」
月氏「わしらも金印や」 >>954
魏から金印を貰ったもう一つの大月氏国も、インドの北側に位置するイラン系のクシャーナ朝
漢書地理志だったと思うけど、一万理以上離れてる
めっちゃ遠くから挨拶に来たら、金印をくれるシステムだったのかもw 応神天皇陵は北北西に20度傾いているんだよな
この方位はゾロアスター教のシリウス信仰なんだわ
冬至の日の零時、真正面にシリウスが見える設計
アケメネス朝ペルシャのペルセポリスなどと同じ傾き
日本は太陽信仰だと思っていたが違ったのか!? >951
食糧生産量の話もあったけど
当時は二期作は普通だったんだよな
(温暖化してた)
それが一年で2歳年をとるといわれる理由らしい
あと、千年杉、大木が大量にあったから
大型の建築物や船の可能だった 冬至の日というのは太陽が死ぬ日なので、太陽信仰で良いのでは? >>577
時代区分で魏の初代皇帝は曹操の息子。その戴冠までは後漢。曹操は後漢時代に死んだ。 >>961
漢書地理志を参考にすると、一戸は4〜5人位で一家族だったみたいよ
漢書地理志には戸数と人口の書いてある都市が載ってる
まぁ当時の日本の家族構成がどうだったかはわからんけど、一夫多妻制もあったみたいだし
そんなに少なく見繕わなくても良さそう >>963
大月氏国は元々は今でいうウイグルあたりの遊牧民で匈奴と激しくやりあってたとこでんがな
魏の喉元の国 戸数は適当だよ
大月氏が10万だから金印与える国の釣り合い取るため邪馬台国7万とか倭国全体15万とか書いてるだけ >>964
日本に妙見信仰は割りにある
日本神話に星神はほとんどいないが、唯一の例外が天津甕星だ
彼は武御雷と経津主を退けているのに、織物の神に敗れて
その星を服に縫い付けられて封印されている
それを成した倭文神がまた、自らも妙見信仰と関係が深い >>969
月氏国はね
当時はインド北西部で大月氏国を建国してた 卑弥呼の鬼道ってのはいわゆるセックスのことだよ。
セックスで衆を惑わした。
その卑弥呼を補佐したのが、ムラニシノミコトで、
ナイスですねと言って卑弥呼を煽るのが仕事だった。 >>972
魏からすればすぐ隣にいる野蛮な遊牧民である事は変わらん 箸墓の百襲姫を女王と認識すると
崇神が一々お伺いを立て
指示のままに動いてる感が浮き彫りに >>961
朝鮮半島の馬韓が10万戸、辰韓、弁韓で4〜5万戸、高句麗が3万戸
7万戸は北部九州くらいだろうな。 朝鮮人に都合の悪い邪馬台国(ヤマト国)機内纏向説か
これが正しそうだよなw 奈良が起源ニダーとか言ってる学者はレッドチームのバカばかり
日本の考古学は歴史歪曲犯の温床になってんだよ
半島人と同種だ >>976
>7万戸は北部九州くらいだろうな。
大河「四国三郎吉野川」流域じゃないと無理。 @阿波 >>977
遊牧民からすれば1000kmなんて庭みたいなもんだ
脅してぶんどるくらい朝飯前
あいつらローマ交易まで盛んにしてっからな >>979
朝鮮半島から文化が来た事にする為に九州に卑弥呼(ヒミコ)→台予(トヨ)と王権が移った邪馬台国(ヤマタイコク)が無いと困るのがレッドチームだぞw >>982
そんなもんか?
と思ってGoogleMapで直線距離はかったら2800kmあったがな
魏に益州が残ってたとしてね >>985
ん?青海から長安まで1000kmくらいだろ? >>984
どうかんがえても、左翼の総本山の京大が推す近畿説の方がレッドチームでしょw 卑弥呼は出雲族だったという説があるね
大神神社の辺りを散歩すると出雲との深いえにしを感じるよ >>43
楯築墳丘墓やな 前方法円墳のプロトタイプではと言われてるね
卑弥呼の前の世代の王の可能性があるのでは説もあるね >>987
冷静に考えろ
九州説は明らかにおかしいぞ >>989
半島から筏に乗って海流に流されると出雲あたりにたどり着くからな。 箸墓の名前の由来、調べたら複雑な感じや
少なくとも偉人を埋葬する土地の名前じゃなさそう ネトウヨは女性蔑視主義者だからな。女性の言うことなど聞けない。 もう、終わりか。
色々勉強になったスレだった。
ありがとうございました。 >>993
だから天皇家は邪馬台国の王権を後からやってきて奪った簒奪者 >>989
>卑弥呼は出雲族だったという説があるね
そりゃ、出雲 >>917
違う! 漢倭奴國王は漢倭國王と同じではない。限定が入る。
@倭は漢のもの
Aその倭で奴国王のみ王に任じた。つまり倭における奴国の
覇権(優越的地位)を認めるということ。
だが、そもそも倭は漢のもの。奴国と言えども漢の同意なしに
倭を統一するなど勝手な真似は許さんぞ、ということ。
一方、親魏倭王は、@魏と独立して倭が有って、Aその倭の
全体の王 ということ。全然格が違う。 このスレッドは1000を超えました。
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