SUBARU(スバル)の前身・中島飛行機が戦時中、米国本土へ攻め入ろうと構想した大型軍用機「富嶽」に、
4種類目となる「掃射機」の設計図が残っていたことがわかった。

掃射機の設計図は2枚あり、いずれも1943年に作製された。
当時のエンジンでは飛行が難しいことも書き込まれており、課題に立ち向かう技術者の挑戦心がうかがえる。

設計図は、無線操縦(RC)模型機の愛好家らでつくる
「富嶽を飛ばそう会」会長の正田雅造さん(69)(群馬県太田市)が保管していた。
正田さんの父が、親交のあった中島家から預かった富嶽の計画書類に含まれていた。

同会は99年の結成以降、
同じ書類の中にあった「爆撃機」「旅客機」「輸送機」の設計図を基に、それぞれの富嶽のRC模型機を製作。
イベントで飛ばしたり、展示したりしてきた。

太田市で生まれ、中島飛行機を創業した中島知久平が航空機の将来性をいち早く見抜き、戦前に旅客機を製造するなど
「軍用機一辺倒の人物ではなかった」(正田さん)ということをアピールする目的もあった。

中島飛行機の創業から今年で100年を迎えたことや、同会の活動を通じて
「知久平の空への思い」が広まったことを踏まえて、正田さんは掃射機の設計図の存在を明かすことにした。

掃射機は多くの機銃を備えて、爆撃機を護衛する役目を担う。
富嶽の2枚の設計図でも、胴体に機銃400丁を下向きに装備することが記されている。
爆撃機を狙う敵の迎撃機を、上空から機銃で撃ち落とすことを想定していたとみられる。

設計図のうち1枚は、主に陸軍機を生産していた同社太田製作所で43年1月に作製された。
エンジン4発で垂直尾翼は1枚あり、全長32メートル、全幅(主翼の両端までの長さ)45メートルとなっている。

「軍用機の誕生」(吉川弘文館)などの著書がある東洋大学講師の水沢光ひかりさん(43)は
「この設計図には、当時のエンジン性能では飛ばすのが難しいなど、
 技術上の難点が書き込まれていることが興味深い」と話す。

もう1枚の設計図は、主に海軍機の工場だった同社小泉製作所によるもので、作製時期は43年4月。
エンジン6発で垂直尾翼2枚、全長44メートル、全幅69メートルと、より大型の構造だ。

水沢さんは2枚の設計図について、
「最初の設計で困難としながら、3か月後、さらに大型の掃射機を描いている。
 難題と承知の上で、簡単には諦めない中島飛行機の技術者精神が見て取れる」としている。
(丸山雅樹)

写真:垂直尾翼が2枚になっている富嶽の掃射機(6発エンジン)の設計図
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20170810/20170810-OYT1I50054-L.jpg

以下ソース:YOMIURI ONLINE 2017年08月12日 07時06分
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20170810-OYT1T50117.html