真田昌幸、九度山からの書状原本見つかる

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真田昌幸が配流先の九度山から家臣宛てに出した書状の原本

 1600(慶長5)年の関ケ原合戦後、信州上田から九度山(和歌山県)に配流された戦国武将真田信繁(幸村)の父昌幸が、嫡男信之の家老木村綱茂宛てに出した書状の原本が、約100年ぶりに見つかった。
手紙などを送ってくれた国元の家族にお礼を伝えるよう求めている。慶応大非常勤講師の丸島和洋さん(39)=日本中世史=が11日、名古屋市内で鑑定し、原本と確認した。墨の濃淡などから「昌幸自筆の書状の可能性がある」としている。

 書状は今年7月、三重県内の収集家男性が古書店で購入し、NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当した丸島さんに鑑定を依頼した。

 戦国武将の書状は「右筆(ゆうひつ)」と呼ばれる秘書役が代筆し、本人は最後に花押を記すのが一般的。丸島さんは、この書状の墨の濃淡や筆勢などから「本文から花押まで同一人物が一気に書いたように見える」という。筆に墨を補充するタイミングが悪く、「右筆が書いたにしては(文字が)頼りない」と指摘する。

 内容は「御料人よりたびたびお手紙をいただき、うれしく思っています」「こちらでは珍しい鮭の子を送っていただきました。おいしくいただきました」などとつづられている。書かれたのは配流翌年の1601年。丸島さんは「かなりの頻度で九度山に手紙が送られていた。家族のつながりの強さが伝わる」と話す。書状の「御料人」は、信之の妻小松殿とするのが定説だったが、昌幸の孫娘とする説もあるという。

 丸島さんによると、今回見つかった原本は、明治時代の実業家、岡本貞烋(1853〜1914年)が所蔵し、1904(明治37)年に帝国大学文科大学史料編纂掛(現・東京大史料編纂所)が書写を作った。岡本の没後は行方不明だった。書状の内容は、県内の歴史文書をまとめた「信濃史料」に収められている。

 丸島さんと共に「真田丸」の時代考証を担当した歴史学者の平山優さん(53)も11日、この書状を確認。昌幸自筆の可能性が高い―とし、「筆遣いが弱く、昌幸の老いが感じられる」と話した。

信濃毎日新聞 8月12日

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