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<明智光秀>反信長派への密書の原本発見 本能寺の変直後、室町幕府再興を目指していた★6 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001右大臣・大ちゃん之弼 ★
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2017/09/13(水) 21:41:28.14ID:CAP_USER9
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170912-00000004-mai-soci

9/12(火) 3:00配信
<明智光秀>密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ

 本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはし・しげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。【松本宣良】

 藤田教授によると、書状は岐阜県の美濃加茂市民ミュージアムの所蔵。和歌山県内で伝えられ京都府の古書店に渡ったものを美濃加茂市の篤志家が入手して寄贈したという。

 鳥居和之・名古屋市蓬左(ほうさ)文庫長らとの共同調査で、形状や紙質などから手紙の原本と断定し、筆致や署名、花押から光秀自筆の可能性が高いと結論づけた。本能寺の変に関する光秀自筆の書状は極めて珍しい。

 書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられる。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」とあった。

 京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下にある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいた。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。

 書状の手書きの写しは東京大史料編纂(へんさん)所に残っていたが、原本は縦11.4センチ、横56.8センチで、細かな折り目がついていた。畳んで書状を入れる包み紙も一緒にあったことから、使者が極秘に運んだ密書とみられる。

 本能寺の変の動機では、2014年に岡山県で見つかった石谷(いしがい)家文書などから、光秀と懇意で信長と敵対関係になった四国の戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の窮地を救うために起こした「四国説」も浮上している。

 光秀は京に上る前の信長と義昭を取り持ち当初は双方の家臣だったとされる。藤田教授は「義昭との関係を復活させた光秀が、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたのでは」と話す。

 光秀は書状の日付の翌日、備中高松城(岡山市)から引き返した羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで敗れ、逃げる際に命を落とした。

 ◇発見された書状の現代語訳

 ◆本文

 仰せのように今まで音信がありませんでしたが<初信であることの慣用表現>、上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています。そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要です。

 一、雑賀衆が当方に味方されることについては、ありがたく存じます。ますますそのように心得られて、相談するべきこと。

 一、高野衆・根来衆・雑賀衆が相談され、和泉・河内(ともに大阪府)方面まで出陣されることはもっともなことです。恩賞については当家の家老とそちらが話し合い、後々まで互いに良好な関係が続くように、相談するべきこと。

 一、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県南部)までことごとく平定することを命じ、それがかないました。ご心配されることはありません。なお使者が口上で申すでしょう。

 ◆追伸=書状では冒頭にあり

 なお、必ず(将軍の)ご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です。詳細は上意(将軍)からご命じになられるということです。委細につきましては(私からは)申し上げられません。

 訳・藤田教授

 【ことば】本能寺の変

 天正10(1582)年6月2日、京都の本能寺に宿泊中の織田信長が謀反した明智光秀に襲われ自害した。信長は羽柴秀吉の毛利攻め救援で出陣する途中だった。秀吉は急きょ引き返し、京都・大阪府境で起きた山崎の戦いで光秀を破った。光秀の動機は信長の隙(すき)に乗じ天下を狙った「単独謀反説」や「怨恨(えんこん)説」など諸説ある。


1が建った
時刻:2017/09/12(火) 03:23:37.93
前スレ
http://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505229291/
0214名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 10:27:46.06ID:HFyQMvNA0


最終的に光秀が公家の誰かにそそのかされて行ったとしても、
黒幕が 足利義昭 なのは特に変わらない。

原因がだれかっていえば同じ意味だからな。
その中の誰かって中心人物は足利義昭ってだけだしな。
0215南朝復興阻止説
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2017/09/14(木) 10:28:11.58ID:PcMVpo8a0
>>213
多くの歴史学者や歴史ヲタはトンデモなんだぞ
0216名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 10:29:23.83ID:fkrRXb9K0
そもそも謀叛動機不明説は戦後に急激に盛んになった
江戸時代だと信長イコール暴虐主君の代名詞だから誰も不思議に思わない
0217南朝復興阻止説
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2017/09/14(木) 10:30:22.89ID:PcMVpo8a0
>>214
視野が狭い
0218名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 10:31:00.76ID:unXoQzH60
鹿之助「勝久殿、勝久殿は尼子家を最高する石はお持ちでござるか」
勝久「えっ」
鹿之助「尼子家最高の石でござる」
勝久「いえもってません」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
鹿之助「勝久殿はまだお若いですからな。
    …それに勝久殿の境遇を考えれば仕方のない事か」
勝久「いくつになったらもらえるんですか」
鹿之助「えっ」
勝久「としをとればもらえるということなんでしょうか」
鹿之助「何がでござるか」
勝久「最高の石が」
鹿之助「いえ、最高の石とは人から譲り受けるものではなく自らが生むものでござる」
勝久「なにそれこわい」
鹿之助「えっ」
勝久「うむのはいたくないんですか」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
鹿之助「ああ…確かに我々には七難八苦があるでしょうが
    その先にあるのは尼子家最高でござる」
勝久「そうなんだすごい」
鹿之助「……勝久殿、どうか我々に力を貸してくださらぬか」
勝久「なんだかおもしろそうだからいいですよ」
鹿之助「おお勝久殿、ついに尼子家を最高する石を持ってくださったか!」
勝久「いえもってません」
鹿之助「えっ」
勝久「えっ」
0219名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 10:32:20.06ID:FEAhW/YE0
光秀が信長の命で家康暗殺に動いていたってのがどうなのかなー
0220名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 10:34:26.25ID:van/vPkd0
>>219
光秀側の武士だった奴が 家康を討伐するために
京都に入ってると思ったってのがあるね
0221南朝復興阻止説
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2017/09/14(木) 10:35:37.26ID:PcMVpo8a0
>>218
賢者の石か
0222名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 10:36:45.21ID:Nf9MEIT20
明智光秀の思いは、三河政権たる室町幕府のラスボスである家康が叶え、光秀は源氏の日光の坊さんになったのであった
めでたしめでたし



頼朝は、三河にあった自身の母方の菩提寺の僧を日光に送り込んだ


■日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた


源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝


母方の従兄弟
寛伝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝
0223名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 10:38:47.38ID:g9Ub84eD0
>>207
その「信長軍が帰ってきたら」の部分が問題。みんな簡単に帰ってこれないんだから。
彼らが帰ってくる前に、畿内を完全に掌握し、大軍で持って有利な地形で、遠征で疲労も消耗もしている相手と戦う。
これなら、十分勝機がある。
そもそも、明智の考えでは、滝川一益も秀吉もまともに動けないはずというのがあった。
丹羽長秀は自前の軍隊を持たない文官よりの武将。

明智軍が有利な状況で柴田勝家軍と戦い、これに勝ちさえすれば、十分行けるという判断はあったろう。
0224南朝復興阻止説
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2017/09/14(木) 10:44:44.59ID:PcMVpo8a0
>>222
関東は源氏、関西は平氏ということか
0225名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 10:50:10.81ID:X8yu5MNj0
>>207
あの戦国の世で公家にそんな力があるなら信長も苦労せんよ。公家に夢見すぎ。

光秀の心の内はわからんけど、本能寺の変は信長を殺せる最高のタイミングでは有ったのは間違いないから
その誘惑に負けて反乱を始めたことは間違いない。ただその後に秀吉だけでなく柴田勝家や家康とも対決する
為の備えをしてたとは到底思えない>>197みたいな手紙の数々が、光秀の底の浅さを露呈してる。今回の手紙も真筆だとしてもその一つに過ぎない。
0226名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 10:50:25.01ID:Nf9MEIT20
関西も源氏だけど
三河の源氏な


■元弘の変(1331〜1333年) 室町幕府の支配層 三河武士■

【岡崎市】
・足利氏:大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷

【幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城

【豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城

【西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官

【豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆

【豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)

【新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆

【浜松市】
・今川氏(足利一族):将軍御一家、九州探題、守護職(遠江、駿河、丹後、但馬、因幡)
0227名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 10:50:53.84ID:fkrRXb9K0
431年目の子孫の方は中国からたったの10日(未満)で引き返した行路を検討して物理的に不可能な日が2日あるとして
逆に言えば通説より早く密告した上層部の内通者がいるとした
これは、なかなか説得力が
ある気もする

これを前提とすれば、まだ信長の年忌も済まない4ヶ月後、自己宣伝の書である惟任退治記を急遽側近に書かせたのも
中国大返しを部分捏造するのが最大の目的とみられても仕方ないし

同書における信長が女に目がない馬鹿と言わんばかりの間抜け武将になってるのも
もはや遠慮なく積年の本音を言えるトップ経営者になったとの自己アピールでもあろう
0228南朝復興阻止説
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2017/09/14(木) 11:01:00.62ID:PcMVpo8a0
>>226
平氏は?
0229名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 11:09:49.21ID:N8O8E9HD0
>>220
当時畿内では家康粛清の噂が
あったってことだな。

堺を見物していけとわざわざ
指示出したんだから中国出陣に
合わせて始末するつもりだっ
たのかもな信長は
0230南朝復興阻止説
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2017/09/14(木) 11:17:20.03ID:PcMVpo8a0
家康は光秀が信長を討ったことを聞いて安心して伊賀越えしたんだな
0231名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 11:18:21.94ID:TpUW8gUl0
>>21
さすがにあり得ない
誤解なされているようだが、信長の野望のようなゲームの影響もあるのだろうが、いわゆる当時の信長の掲げた天下統一事業と言うのは日本全国を木瓜の家紋で埋め尽くすことではなかった
要はある程度の軍事力を示して京の帝から役職を賜れば天下統一なのである
義昭が執拗に信長に差し出した自分に次ぐ手持ちの肩書きを信長が固辞し続けたのは、義昭は所詮は足利幕府の為政者に過ぎず、義昭の頭越しに万世一系の帝から拝命される役職の方が当時としては全国の反目大名に対して破格の効き目があり、
ましてや帝に矢を向けるなど収まる戦乱も収まらなくなる
時の斜陽の将軍・義輝が四国の田舎大名に暗殺されても天下は仇討ちに動かなかったが、まかり間違って帝を討ったら最後、その大名は全国の寺社仏門から民衆から犬猫からあらかた目の付く生き物全てからただの賊として目され、何をやるにも立ち行かなくなる 
0232名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 11:18:27.43ID:K2Hq9kaU0
当時の信長に勝てる見込みあったのは
上杉謙信しかいないからな、農民兵士は出稼ぎ限定なので長期戦になれば勝ち目薄いが
0233名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 11:20:16.28ID:ovO6qUeH0
>>192
>偶然にもサラゴサ条約でこの世界分割線が日本の上にのっかる形
>となったからポルトガルは必死で日本に布教したとも言える

いやいや正確な地図も描けない当時はそんなことわからなかったから。
あくまで今だからわかること。
0234南朝復興阻止説
垢版 |
2017/09/14(木) 11:21:42.96ID:PcMVpo8a0
>>231
信長にとって南朝は正統なんだから問題はないであろう
0235名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 11:23:00.90ID:g9Ub84eD0
>>229
あの時点で、家康暗殺して三河とことを構える気が信長にあったかねえ。
丹羽長秀を実質的な司令官にして、四国征伐に行かせる直前だった。
丹羽長秀が行ってしまえば、織田家の重臣で残っているのは、畿内を守る明智軍だけ。
三河に派遣する司令官がいない。

北条氏と完全に同盟して滝川一益を戻せる状態にするか、上杉を完全に滅ぼした柴田勝家が戻ってくるかしないと、
三河を攻めに行くのは無理だろう。
0237名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 11:37:34.70ID:fkrRXb9K0
フロイスの日本史によれば当時信長は近畿中部を身内で固め、有力家臣は遠国に行かせて支配体制を確立し、
その後明朝征伐をするとの話が出てくる

いくら高位のバテレンでもそんな機密情報を知ってるとはおもえないから京都の風聞かと思われるが、
勝頼が数ヶ月前に死してから既に無敵状態になりつつあり、
誰に遠慮もなく権勢を誇示し出した信長を視てそう感じるのは誰でもごく自然であろう
0238名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 11:41:22.70ID:TpUW8gUl0
>>235
それに信長には天下統一後の夢があったよね
世界ですよ世界進出の稀有壮大な大仕事
秀吉のような大陸へゴリゴリと兵を押し出すどんくさい話じゃあなく、要は宣教師たちが辿ってきた海のルート、つまり航海の基点となる
港を抑えて回れば効率的な世界征服が出来ると夢想していたフシがあったよね
だから関東東北まで力でねじ伏せて回っていられなかった
もの凄く急いでいたと思う
0239南朝復興阻止説
垢版 |
2017/09/14(木) 11:43:32.98ID:PcMVpo8a0
>>238
忌部氏の世界征服か
0240名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 11:46:27.84ID:/p8Uq07T0
これが本当だとしても単純に信長を討った正当性を他の武将に示すだけのためだろ。
ある意味錦の御旗が欲しいだけの話。 方便だろ。
0241名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 11:49:28.12ID:/HOXp4m50
光秀はアホだな

信長とともに毛利に攻め込んで、そこで裏切ればいいものを。

最低でも1年は生き延びれるはず。
0243名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 11:55:00.49ID:FEAhW/YE0
義昭は毛利に行く前は紀伊にいたんだよな
0244名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 11:55:04.52ID:FyIQyjnl0
岩下尚史
春風亭小朝
市村正親
鶴見辰吾
坂東三津五郎
萩原健一
村上弘明
マイケル富岡
五木ひろし
寺田農
石濱朗
0245名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 11:56:23.75ID:FyIQyjnl0
吹雪満
和泉元彌
三谷幸喜
モロ師岡
玉置浩二
青山裕一
市川團蔵
篠原大作
津村隆
0247名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 11:59:54.26ID:z4WJujDX0
>>229
本城惣右衛門覚書ってのに書いてあるんだけど
まあ 当時家康が上洛してて、兵を京都に向かわせるのは家康しか思いつかなかったってのも
あるんじゃない
0248名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 12:01:39.75ID:E1XEn1/iO
羽柴秀吉「瀬兵衛、骨折り」
中川清秀「猿め、はや天下を取った気でおるか」
0249南朝復興阻止説
垢版 |
2017/09/14(木) 12:03:06.08ID:PcMVpo8a0
>>240
ばかもーーーーん!!!
0250南朝復興阻止説
垢版 |
2017/09/14(木) 12:03:46.08ID:PcMVpo8a0
>>241
おまえもじゃ、ぼけ
0251名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 12:05:01.51ID:kMktoqGJ0
学生時代に授業脱線するタイプの先生の授業で、先生の私的考察と朝廷の陰謀論や怨恨説、秀吉による計画説とかいっぱいあって面白かったな。
0252南朝復興阻止説
垢版 |
2017/09/14(木) 12:05:31.67ID:PcMVpo8a0
>>246
おまえになにがわかるんだよ
0253名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 12:06:14.16ID:k2HAPWN10
>>38>>45
どうせなら機長黒幕のほうが・・・
イトコで相思相愛だったという説もw
0254南朝復興阻止説
垢版 |
2017/09/14(木) 12:06:29.67ID:PcMVpo8a0
>>251
トンデモ説はある意味面白い
0255名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 12:07:12.58ID:fkrRXb9K0
フィリピンにはスペインがいるしもうすぐオランダイギリス来るから
信長存命でもやはり朝鮮明朝と泥沼の戦争したと思う
てかそもそも秀吉の政治は信長の拡大コピーの面がある
0256南朝復興阻止説
垢版 |
2017/09/14(木) 12:07:36.66ID:PcMVpo8a0
>>253
源氏繋がりということか
0258名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 12:10:35.22ID:k2HAPWN10
>>32
最近一番ワロタのが「信長黒幕説」だったwww
光秀に家康を殺させるつもりが自分が殺されたという・・・
0259南朝復興阻止説
垢版 |
2017/09/14(木) 12:11:26.14ID:PcMVpo8a0
>>257
死に物狂いで越えたというのは捏造だろ
0260名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 12:13:38.39ID:k2HAPWN10
>>90
信長は炎に運命を聞いた♪
0261名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 12:15:34.79ID:FEAhW/YE0
>>255
アルマダの海戦もまだ起きてない時代だよ?
オランダが外洋に出始めたのは17世紀に入る直前
まだまだ先の話だよ
0262名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 12:20:04.52ID:muVBjUQB0
まああの戦乱の時代に、室町に戻って落ち着こうという勢力がいるのはむしろ当たり前だよな
信長は歴史的には面白いけど、リアルタイムでいたら日本人の大半が忌み嫌うタイプだと思うよ
家康は日本人らしいというか、家康が現代日本人の基準になったからそう思うのかもわからんが
0263名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 12:21:12.39ID:k2HAPWN10
>>127
当時すでに離縁したとも死去したともいわれている機長が
ポンポポポンと鼓を打ち信長が敦盛を踊り
その後一緒に死ぬシーンは感動した!
0264名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 12:25:50.75ID:K3Y/LqM50
>>263
楽しい〜仲間が ポポポポ〜ン♪
ってかw
0265名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 12:26:15.67ID:fkrRXb9K0
秀吉の惟任退治記では信長は女なしではいられないバカとなってるので
当夜は乱痴気さわぎの末爆睡してたのが真相かと思う
0266名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 12:27:30.02ID:k2HAPWN10
>>105>>117
家康を誘殺すべく警戒されないように
わざと兵をあまり持ってこなかったという説が

>>258
0268名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 12:30:41.43ID:k2HAPWN10
>>251
忠臣蔵でも脱線したな
0269名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 12:44:31.45ID:OA3H6VMv0
本能寺の変後の光秀の動きがおかしいので
いろんな説がでてくるがおそらく光秀は知らなかったとすれば全て筋が通る
最早完璧に立場が危険になってた家康が明智の家老の斎藤内蔵助(春日局の父)と
明智秀満(後の天海?)を味方に引き入れて一発逆転したのが本能寺の変
光秀は知らなかったしまた信長の忠臣だったから信長の死体を捜し続けた
光秀が忠臣であり謀反人でないとすると徳川家康が光秀遺愛の槍を家臣の
水野勝成に与える時に『光秀にあやかれよ』と明言したエピソードの筋が通る
0270名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 12:55:25.37ID:g9Ub84eD0
>>269
家康黒幕説は、あまりにも無理があるだろ。
堺で家康と行動を共にしていた穴山梅雪は、畿内脱出の際に家康と別ルートを取ったが、その途中で地元民に殺されている。
家康の伊賀越えによる畿内脱出は、薄氷の脱出だった。
一つ間違えば、穴山梅雪と同じ運命だったろう。
0271名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 12:58:04.30ID:FEAhW/YE0
>>270
穴山は地元民に殺されていないって資料があったよな
伊賀越えがあると家康を安全圏におけるというできた話だな
0272名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 13:01:47.99ID:SLTYalfl0
穴山は自業自得としか山梨県
の人には見られてない。小山田
と並んで裏切り者としていまで
も評判悪い
0273名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 13:06:41.07ID:32DFBkHx0
>>99
世界を救った救世主だからさ
0275名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 13:10:16.11ID:yl5ZX4EM0
信玄萌えの家康としては、信玄を裏切った穴山は信用出来ない。
今度も光秀に自分を売るかもしれない。

さっさと殺してしまえば
0276名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 13:10:18.16ID:r6AsoSwD0
>>272
結果として家名を残せず横死したのだからその評価もやむを得ないよな
しぶとく生き延びて武田氏として江戸期の大名として存続してれば評価も違ったものだったろう
0278名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 13:11:36.62ID:v6uSkysS0
>>254
明智光秀の子孫が書いた本とかわりと楽しめるね
トンデモ説と言えばトンデモ説だけど、当時の人の日記に書いてある天気まで調べまくって緻密に調べて考察してる
0279名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 13:11:43.87ID:5qCUqBpF0
2017年7月20日 12時24分
【材料】 VOYAGE---大幅続伸、グーグルとの事業拡大評価で国内証券が新規買い推奨
https://s.kabutan.jp/news/n201707200331/

14年から15年にかけて発表されたグーグルとの事業が、グーグルの研修やシステムのチューニング、試用運転期間などを経過した16年7-9月期に入って、貢献が本格化してきたと評価している。


なお株価は、ここから半値に
0280名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 13:14:14.65ID:OA3H6VMv0
>>270
どうみたってどさくさまぎれに穴山梅雪殺したのは家康でしょ
金山持ってたはずだからね
家族を後で優遇してるっていうのは殺したあるいは殺してない証拠にはならない
0283名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 13:16:33.13ID:r6AsoSwD0
>>277
それなりの大名として生き残ってればここまで悪し様には言われないよ
死んだから穴山呼ばわりだけど生きてれば武田宗家だったわけだから
穴山本人も勝頼より自分の方が武田宗家に血縁が近いという意識もあった
まあ裏切
0284南朝復興阻止説
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2017/09/14(木) 13:18:05.39ID:PcMVpo8a0
おまえらの話は退屈だな、薩長史観スレで爆弾連発したから覗きにいってこい
0285南朝復興阻止説
垢版 |
2017/09/14(木) 13:20:53.12ID:PcMVpo8a0
穴山梅雪殺したのは家康で問題ないだろ
0286名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 13:40:48.56ID:FEAhW/YE0
穴山生きてると
甲斐を落とした後、家康は穴山にあげなければいけなくなるんだったかな
0287名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 13:55:26.31ID:OIo5051T0
入洛を既に承知しています、ってのは
事後にOKしたって意味だよな。
黒幕に対する言い方じゃ無い。

変後の諸侯の対応からしても事前に話の通っていた相手がいなかったと思うけどね。

本能寺のガードの甘さが千載一遇のチャンスだったんだろ。
こんなヨタ話より、どれだけ恨んでいたのか、織田家家臣の人間関係、光秀が斎藤家に仕えていた時代の人物像とかの方がはるかに価値があるね。
0288名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 14:15:52.61ID:UKjohsj00
義昭が謀反を察知していたら、毛利は秀吉と和睦しないのでは?
まあ黒幕が誰であれ、予想以上に味方が集まらず光秀は梯子を外された。
0289名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 14:22:50.94ID:E1XEn1/iO
明智光秀としては、いつまでも手柄を挙げられ続ける自信はなかったし、林道勝、佐久間信盛、正勝父子、丹羽右近、安藤尚就父子、荒木村重みたいにいつ追放されるか不安だった
そこへ、丸腰同然の状態で、信長父子が京都に入った話を聞き付けた。羽柴、滝川、柴田は遠国で、それぞれに厄介な敵を抱えている。
徳川家康は僅かな供を従えて堺を遊覧中で、惟住長秀、三七信孝は摂津住吉にいるが、兵団の集結が済んでいない
あつらえたような状態だが、殺るなら今しかないと決断したに違いない
0290名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 14:24:10.72ID:FEAhW/YE0
変後の動きだと徳川と長宗我部は十分に怪しい
この土橋って人も怪しいしな
0291名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 14:25:32.85ID:NVKKGzU80
>>237
右近とかキリシタン大名とも近しいから
わざわざ京の風聞まで利かなくても、2次ソースくらいは得られるだろうがw

諸大名クラスには、唐入り構想はもう漏らしてたんだろう
0294南朝復興阻止説
垢版 |
2017/09/14(木) 14:59:55.68ID:PcMVpo8a0
>>287
何がいいたいんだ?
0295南朝復興阻止説
垢版 |
2017/09/14(木) 15:01:01.08ID:PcMVpo8a0
>>289
妄想乙
0296名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 15:14:17.90ID:LomV0CDH0
その日、光秀は思い出した
奴に支配されていた恐怖を
鳥籠に囚われていた屈辱を
0297南朝復興阻止説
垢版 |
2017/09/14(木) 15:26:37.40ID:PcMVpo8a0
>>296
鳥籠・・・・かごめ紋、六茫星、忌部氏、織田信長
0298名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 15:47:39.75ID:r6AsoSwD0
ほとんどの人間にNGにされてるのに必死でレスしてる奴がいるな
0299南朝復興阻止説
垢版 |
2017/09/14(木) 15:53:26.51ID:PcMVpo8a0
>>298
ほとんど工作員ということか、おまえも工作員だろ、ぼけ

でも、たまにはまともな一般人も少しはいるだろ
0300名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 16:14:36.19ID:rUbHaLP00
>>231
第六天魔王名乗ってる人にそれ言っても説得力ないわ・・・
0301名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 16:57:59.64ID:4n8uSljB0
>>285
あれ穴山が家康と一緒にいたら
ヤバイと勝手に自分から別れて
街道いってたとこを一揆に襲われ
死んだのでは?
0302名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 17:09:26.98ID:xbCBZscrO
危ない時に一人離れるとか推理ドラマなら次に死ぬフラグでしかない
つかあり得ん
0303名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 17:31:54.63ID:Pffll/4Q0
>>301
と、徳川史観ではそうなってるね

家康の気持ちになってみ。
別れた足で光秀のところに駆け込むかも。
捕まって、家康は伊賀越えするらしいとしゃべるかも。
一緒に連れて行っても、こっそり連絡とるかも。

絶体絶命の状況で、こんな信用できない不安定要素を
そのままにするかね
0304名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 17:41:19.54ID:fkrRXb9K0
穴山のせいで勝頼が死んでる点からも全く信用できないと思われていただろうなあ
0305名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 17:46:48.86ID:0yNyaa2QO
>>297
ここはムーじゃないぞ
0306名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 17:51:13.06ID:FEAhW/YE0
穴山に甲斐一国あげるからという条件で内通させた家康だったが
信長に反故にされてたんだよな

長宗我部に四国はあげるという条件で信長とつなげた光秀と同じパターン
0307名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 17:57:22.70ID:mmFxcGGg0
武士の世界は、繋がりが古ければ古いほど尊重される
上杉だろうが後北条だろうが、結局は三河側につく
尾張の成り上がり田舎猿の限界だわな



おそらく足利尊氏直義は、足利氏の屋敷、大門屋敷(三河県岡崎市)の南方すぐ近くにあった上杉氏の屋敷で生まれた


■上杉氏

太田亮
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。
丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。
『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、足利家家人の上椙三郎入道(上杉頼重)より前は不明。
その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か


足利尊氏、直義が生まれただろう日名屋敷


■日名屋敷(事実上の始祖である上椙三郎入道(上杉頼重)の 屋敷)

鎌倉末期に三河国額田郡日名(三河県岡崎市)にあった上杉氏の屋敷。
足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。
日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。
0308名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 17:58:45.22ID:4BI4Aq+B0
>>303
仮に穴山ゲロっても伊賀は光秀の
勢力圏外だから捕捉できんだろ?
仮にわかったとしても光秀から
したら家康始末するのは優先度
が低い。

光秀からしたら高山や中川どうす
るか、信孝のとこどうするかが
急。津田信澄が暗殺されたのは
痛手だろうし
0309名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 18:02:49.18ID:/4JWLcqn0
じつは天海が信長だろ
0310名無しさん@1周年
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2017/09/14(木) 18:03:32.03ID:FEAhW/YE0
>>308
織田信澄殺されたのは織田家にとって最悪に不運だよ
0311名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 18:06:45.30ID:lkNy6RuM0
>>308
なるほど。あの状況で、そんな全体の動きがわかって
冷静な分析ができるなんてまさに神君だね。
0312名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 18:08:15.43ID:mmFxcGGg0
後北条氏(伊勢氏)の先祖、伊勢氏の初代の三河縁故だ
三河に勝つのは難しいよ


伊勢氏(藤原俊経→伊勢俊継(初代伊勢氏)→伊勢盛継→伊勢貞継)

■藤原俊経(****〜1238):初代伊勢氏・伊勢俊継の父
・肥前前司
・法名願仏
・弟の相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は三河国滝山寺僧侶
・三河国滝山寺に持仏堂を造営する(後に持仏堂は、甥の大進法眼増恵に譲られる)
・三河国滝山寺に古市場御油畠を寄進する
・歴仁元年(1238)5月13日、京都東山一切経の谷で死去

■伊勢俊継(1217〜1274):初代伊勢氏
・伊勢前司
・建長7年(1255)、三河国滝山寺に、足利義氏追善の法華堂(宝幢寺)を造営、この堂に田畠3町8段を寄進、足利家氏に働きかけ、家氏の三河国碧海荘青野、宇祢部の料田畠を寄進させる
・天照大神のお告げで姓を伊勢に変える
・文永11年(1274)6月23日、鎌倉で死去

■円辰(****〜****):初代伊勢氏・伊勢俊継の叔父
・藤原俊経の弟
・相模法橋

■増恵(1209〜1283):初代伊勢氏・伊勢俊継の従兄弟
・円辰の息
・聖蓮坊大進法眼
・叔父藤原俊経の持仏堂を譲られ、自身の持仏堂とする
・吉良荘の奉行として、吉良氏の所領経営をする
・建長6年(1254)、本堂屋根瓦替工事の大勧進を勤め、同年、温室を改造する
・正嘉元年(1257)、一切経蔵を造営する
・文応2年(1261)、山王社の宝殿を改築する
・弘安6年(1283)2月13日、鎌倉滞在中に死去
0313名無しさん@1周年
垢版 |
2017/09/14(木) 18:14:02.29ID:mmFxcGGg0
三河と言うか、三河の足利ネットワークたわな
これをぶっ壊して、日本のトップになるのは無理
事実、三河の王である足利将軍家の後釜として三、河の王である徳川将軍家が頭になって、日本は急速に平穏になった



大崎氏、最上氏の祖、足利家兼(斯波家兼)


http://www.inn-suzuki.com/info.html
>中新田城
>斯波家兼が奥州探題に任ぜられ、三河の国からこの地方に赴任


足利家兼(斯波家兼)
父:足利宗氏
母:長井時秀(大江広元の曾孫、室は安達義景の娘(安達泰盛の姉妹)の娘)


空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京之地也」

「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした


永源寺

中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に三河国碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。
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