<明智光秀>反信長派への密書の原本発見 本能寺の変直後、室町幕府再興を目指していた★6 [無断転載禁止]©2ch.net
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9/12(火) 3:00配信
<明智光秀>密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ
本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはし・しげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。【松本宣良】
藤田教授によると、書状は岐阜県の美濃加茂市民ミュージアムの所蔵。和歌山県内で伝えられ京都府の古書店に渡ったものを美濃加茂市の篤志家が入手して寄贈したという。
鳥居和之・名古屋市蓬左(ほうさ)文庫長らとの共同調査で、形状や紙質などから手紙の原本と断定し、筆致や署名、花押から光秀自筆の可能性が高いと結論づけた。本能寺の変に関する光秀自筆の書状は極めて珍しい。
書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられる。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」とあった。
京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下にある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいた。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。
書状の手書きの写しは東京大史料編纂(へんさん)所に残っていたが、原本は縦11.4センチ、横56.8センチで、細かな折り目がついていた。畳んで書状を入れる包み紙も一緒にあったことから、使者が極秘に運んだ密書とみられる。
本能寺の変の動機では、2014年に岡山県で見つかった石谷(いしがい)家文書などから、光秀と懇意で信長と敵対関係になった四国の戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の窮地を救うために起こした「四国説」も浮上している。
光秀は京に上る前の信長と義昭を取り持ち当初は双方の家臣だったとされる。藤田教授は「義昭との関係を復活させた光秀が、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたのでは」と話す。
光秀は書状の日付の翌日、備中高松城(岡山市)から引き返した羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで敗れ、逃げる際に命を落とした。
◇発見された書状の現代語訳
◆本文
仰せのように今まで音信がありませんでしたが<初信であることの慣用表現>、上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています。そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要です。
一、雑賀衆が当方に味方されることについては、ありがたく存じます。ますますそのように心得られて、相談するべきこと。
一、高野衆・根来衆・雑賀衆が相談され、和泉・河内(ともに大阪府)方面まで出陣されることはもっともなことです。恩賞については当家の家老とそちらが話し合い、後々まで互いに良好な関係が続くように、相談するべきこと。
一、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県南部)までことごとく平定することを命じ、それがかないました。ご心配されることはありません。なお使者が口上で申すでしょう。
◆追伸=書状では冒頭にあり
なお、必ず(将軍の)ご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です。詳細は上意(将軍)からご命じになられるということです。委細につきましては(私からは)申し上げられません。
訳・藤田教授
【ことば】本能寺の変
天正10(1582)年6月2日、京都の本能寺に宿泊中の織田信長が謀反した明智光秀に襲われ自害した。信長は羽柴秀吉の毛利攻め救援で出陣する途中だった。秀吉は急きょ引き返し、京都・大阪府境で起きた山崎の戦いで光秀を破った。光秀の動機は信長の隙(すき)に乗じ天下を狙った「単独謀反説」や「怨恨(えんこん)説」など諸説ある。
1が建った
時刻:2017/09/12(火) 03:23:37.93
前スレ
http://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1505229291/ おおーーーーーーーー闇の彼方 聞けよ星の歩み 月のうた見知らぬ海に 辿り着かんーーーーー 55歳くらいだろ?
更年期障害だと思うわ
怒りを抑えることができない切れる高齢者といっしょ 織田信澄は秀吉が裏で殺させたのではと勘ぐってしまうな
子孫は幕末まで残って、織田と明智の血を残したのかな >>316
55歳であんだけこき使われて休む間もないあのハードワーク。そらノイローゼになるよ。
信長だって、45歳前後あたりから、自分では一切戦にいかない。
秀吉も55歳の時分なんて同様。 信澄は本能寺の変の時明智方についてたから信長の息子に殺されただろ大阪城で 厳密に言うと津田信澄は光秀の女婿で、信澄も一枚噛んでいると疑った信孝が裏も取らずに殺してしまった 信澄が殺されたおかげで
織田一門衆はまともな奴がいなくなったんだな
信澄は能力を信長に買われて
境遇の割に待遇が破格に良かったのに
性格には難ありだったらしいけど 足利将軍にも、正親町天皇にも、光秀はそそのかされてた。
まあ、光秀、藤方は足利将軍のスパイ
しかしながら、藤方は裏切った 明智が細川に送った書状だとそんな理由じゃなかったような…?
味方してくれる人を増やすためにいろいろてきとーに調子のいいこと言ってただけやろーw 明智が細川藤孝に送った書状だと、畿内平定が済めば息子与一郎、婿の細川忠興に任せ、自分は隠居する、但馬や摂津がご入り用なら進呈しますと、なりふり構わぬ内容になっていた 一夫一婦の光秀がキリスト教に共感したのは理解出来る
また、俗物と化した仏教徒どもをどう思ったか?しかしながら、権威に憧れ心頭する光秀に、足利将軍、天皇家からの依頼はまさしく光秀自身を満足させたものであった。
神仏、天皇家すらも否定する虚無主義信長を見たとき、俗物猿秀吉なんて軽蔑してれば良いだけだが、第六天魔王信長だけはどうにか為ねばならない対象だったろう
光秀は日本を守ったつもりで居ただろう >>289
時は来た
その通り。義昭をまた担ぎ出す作戦だった。だから毛利に飛脚を立てた 皇室が信長討つとかw
泥の中みたいな生活から拾い上げてもらって身分にふさわしい生活できるようにしてくれた信長を討ってどうすんだよwww
信長討ったらまた畿内が戦乱に逆戻りすることくらいは馬鹿でも想定できる。そうなったら死んだ信長のかわりに誰が朝廷の生活保証するんだ?
少し頭があったらあり得ないことくらいわかるだろ >>332
正親町天皇の子供を信長の養子に策略したからだろうな。
朝廷への献金は信長以外でも沢山いるし >>332
天皇とダチの家、松平
徳川家康だろ
松平3代目、松平信光創建
・信明光寺(1451年創建) 1479年、後土御門天皇勅願所綸旨発給
・妙心寺(1461年創建) 1481年、後土御門天皇勅願所綸旨発給 >>332
俺は結局光秀単独犯と思ってる
謀反後の光秀が話にならんしw 皇室の権限であった元号の決定も信長が獲得しちゃったからな。
天正、信長が皇室、宗教やら既存の権威より上に就く瞬間だった。
光秀は第六天魔王信長のニヒリズムにビビったろう。 >>335
何の根回しも出来てねーからな
根回ししてたらクーデターなんて成功しないから当然だが 松平郷は、最大の皇室御領内にあるんだからよ
そりゃ、皇室ともダチだよ
徳川家康が面倒みるんじゃないっすか
■三河国高橋荘・高橋新荘
豊田市ほぼ全域とみよし市は源頼朝の曽祖父が開発し、後に皇室に寄進された最大の皇室領荘園
高橋新荘から松平家が、高橋荘からはトヨタ自動車が発祥した
・開発者は源頼朝の曽祖父、藤原季兼か?
・寄進者は藤原季兼の妹の子供、高橋惟康(藤原伊周の孫)か?
・平安末期〜戦国期に見える荘園名
・矢作川中流域の低地と山間部、豊田市(旧上郷町・高岡町を除く)・三好町・藤岡町・小原村にまたがる大荘園
・八条院領目録に院分御荘として「参河国高橋荘」「参河国高橋新荘」とあり、鳥羽院政期の院領寄進系荘園の一例とみられる
・寄進者は藤原(高橋)惟康か←藤原伊周の孫、源頼朝曽祖父の妹の息子
・八条院没後、春華門院昇子ー順徳天皇ー後高倉院→安嘉門院邦子ー亀山天皇ー後宇多天皇ー昭慶門院憙子と相伝される
・昭慶門院目録に、高橋荘は亀山院の時石清水八幡宮に寄進、新荘は冨小路前大納言(小倉実教)とあるのは領家職とみられる まー皇室まで蔑ろにしだしたら暗殺は時間の問題だったかもな 信長は正親町天皇に子供を家の養子にしろ、と迫る。
すなわち、信長は義理の上皇になるんだよ。
まあ、皇室も焦るわな 田舎の古民家なんかに開かずの蔵があったりするやろ
日本史がひっくり返るような古文書や手紙が眠ってるで 右大臣、中納言やら官位を上げる方に成りたかった信長・・・・
将軍家、朝廷、宗教やらの権威を尊いと考える光秀には信長が信玄以上に悪魔に見えたろう。 信長「では、イエスは人間を救えたのか?」
フロイス「いえ、イエスは人間を救えませんでした」
信長「だったら、今生で民を救ってる私こそ神だな」
フロイス「・・・・・」
光秀は信長こそ、得体の知れない悪魔と思ってたはず 昔の資料で早くから公開されてたのは
プロパカンダとか偽書の類が多そうだしな 信長が家康を打とう
は、無い
文書では、長篠から家康は信長の家臣扱い 信長は有能だったら多少の裏切りも失敗もいいよ、来いよ胸にかけて胸にだったからな。
その甘さが本能寺だからな。 義昭が本当に黒幕なら
義昭を保護してた毛利が介入してこなかったのが不思議だな。
明智と毛利で義昭を担いで政権交代ってなら分かるけど
結局、動いたのは明智単体で毛利は動かなかった。
また、こんな大構想なら細川等も動きそうなもんだけどな。 >>349
明智はだから、真っ先に毛利に飛脚を出した。秀吉に飛脚は捕まっちゃったが >>319
秀吉は55の時朝鮮征伐初めて名護屋に詰めているぞ。
元々秀吉も渡海する予定だったが、天皇を始め大勢が止めて流れた。
その結果総大将不在で現地軍が統率とれず、小西は勝手に進軍やめて明と講和しだす、
加藤はそんなの関係ねーよと、唐入りをあくまで目指して満州まで到達し。
毛利は朝鮮を占領するために南下をしだした。 >>346
プロパカンダは重要なんだから当たり前のことやん >>303
そもそも別れたというのはフィクション、家康に普通に殺されただけ。
穴山は武田家の家督をもっており、武田氏として甲斐信濃に号令をかけられる立場。
甲斐信濃を奪おうと考えている家康としてはここで殺しておいたほうがいい。
実際帰国したら穴山領に徳川家の軍勢が大挙してやってきて、
穴山のまだ幼い子供を傀儡にして乗っ取った、
その後家康の子供が養子として入って武田氏を乗っ取るという流。 >>351
この手の天下の重要事項だと
飛脚って複数筋出しそうなもんだがなぁ。
一人が秀吉に捕まって計画、終わりじゃあまりにもお粗末な気が。
そもそも、共謀なら毛利方の間者も大量に京都に入ってるべきだし。 >>352
家康には遠慮して渡航させなかったな
小牧長久手でやはり、勝利したのは家康だったな 足利家のバイタリティこそ現代人の参考になるね。
東は古河、小弓、北は越中、西は鞆、南は平島まで御所とかやってたんだぜ。 漢の韓信と同じく光秀も自分が
王さまになりたかったから信長を討ったんだと思うよ >>355
まず、足利将軍ゆかりの毛利。これは第二選択レベル。第一は畿内
足利を匿う毛利と明智には通じるものがあっただろうが、毛利家退治に出向いた秀吉のひとたらしにも毛利はやられただろう。
まあ、毛利は東への野心は無く堅守防衛。吉川は秀吉追撃だったが、小早川は止めた
毛利は消極的足利将軍介護 変の黒幕とは思わないけど、棚ぼた簒奪者の秀吉は
自分を正当化するために信長や織田家に関しては歪めてる
自分に都合のいいよう史料を書かせてるんだよな >>355
一番最初の奴が秀吉に捕まったんだろ
以後は当然秀吉方の監視はきつくなるから毛利にたどり着けなかったんだろ 摂津の取り込みは秀吉の勝ちだしな。プロパカンダのおかげ >>362
情報操作したい奴はそりゃいつだっているが、
周りはそいつの都合なんて知ったことじゃないからな。受け入れられることはない。
畢竟、大きな嘘を吐くことはできなくなる。 >>350
その任務は河尻に任されたじゃんw森とかいろいろ補佐つけて
それを本能寺の変後に武田遺領の民煽動して河尻討たせたのが家康じゃねーの?
って噂があるし煽動自体は本当のようだし家康は臭い、くせものよw 助けてくれーって手紙だから、その大名が求めてるものを書いてる
だから大名ごとに書いてる内容違うだろ 毛利方がリークした説を押したいね。そして秀吉は勝負かけたわけよ。
ここ一番で勝負かけられるのが大成功する。無論大失敗もするので
お勧めはできんが。 >>369
穴山はやってると思う。が、信長からしてみれば、家康は関東軍団長、滝川クリステルには悪いが。
家康が信長をヤル実力、動機も無いし、兄弟分みたいなもん。堺見学は信長だったら、真心 秀吉、家康がなぜ天下を獲れたか?
その答えは簡単な話しだ。
信長の下で働かされまくって必死で働いて、
信長がいなくなった後、周りを見渡したら自分よりすげえ奴がいなくなった。
それだけのことよ。 >>369
河尻は信忠の与力大名に過ぎないからそんなにえらくないぞ 本能寺の変後、秀吉も光秀も、自分が勝つにはこれしかないという行動はしてるのよ。
光秀は、毛利、上杉に頑張ってもらって秀吉、柴田を縛り付けてもらい、その間に機内を固める。
この書状はそのための行動だ。
逆に秀吉は、時間が経つに連れて不利になるので早期に光秀を叩き潰す。
その両者の行動が成功したかどうかの違いだ。 しかし穴山って人も勝頼を死なせた数ヶ月後に堺見物って呑気すぎやしないか
山梨という要衝の地がどの武将にも重要であるなら勝頼滅亡後の内政を固めるべきであったのではと。 河尻なんてただの代官に過ぎないからね。領国大名とはとてもいえないし、その力量も無い。
本能寺の変後は、逃げるしかないんだが、家康の忠告も断り、甲斐に留まり自滅。 >>365
いや、一の飛脚、二の飛脚とかじゃなくて
同時出発で複数ルートを使うんでないかな。
共謀なら明智の使者だけじゃなくて
毛利自体の間者も機内に入るだろうし
全て潰すのは難しいと思う。
案外、安国寺が秀吉と通じて毛利が明智を裏切ったのかもな。
ただ、この場合、賤ヶ岳で中立だったのが解せない気もするが まぁ、義昭が皆に色んな手紙書きまくってたの同様、
明智も仲間集める為に必死に相手に響く事をなりふり構わず書いた可能性があるから
これ以外の手紙も見つからないと判断できないな。
他の人にも同様の内容で書いてたのか。
それとも相手によって内容が全然違うのか。
その判断をする為にも他の手紙の発見に期待。 FNS27時間TVで、1586年に秀吉が家康を潰すために
軍を準備してたという話は初耳だった
地震で準備した兵糧も武器も瓦礫に埋まり
家康のほうはたいした被害もなし。
それで討伐をあきらめて、妹を嫁にやる調略に転換 >>380
もしかしたら何人かは出したかもしれんけど、
秀吉軍の張った警戒線に全部引っかかったんだろ。
実際問題、密書を送る相手は相当大量にいたはずで、毛利にだけそんなに人員は割けなかったんじゃないかと思うが。 >>376
家康は信長に駿河当てがいの御礼
穴山は信長に本領安堵の御礼
呑気に観光のために上洛したんじゃねーよw 情報の取捨選択で結局は勝負決まるって面もあると思うけどね。
毛利は怪しんだ。秀吉はあえて鵜呑みにして勝負かけた。
曹操が官渡の戦いで、烏巣の守りが薄いって情報を信じた。
そして強襲して逆転のきっかけを得たわけだが、そういう事もある。 >>380
だからたまたま一番早い使者を秀吉が捕捉したから以後警戒は厳重になったんだよ
海も含めて秀吉の勢力圏通らないと毛利にはたどり着かない 昔の書状をスラスラ読める奴居る?
同じ日本語なのに何で読めないんだろうな。
英語みたいにいつの時代でもフォントを揃えて欲しい。 >>387
それを読むために、史学科では、くずし字や和漢混合文の読解練習という地味な訓練を積むのです。 そもそも毛利への密使をつかまえて
謀反を知ったというのは確定してるのかな
秀吉だって、信長様のご機嫌具合や動向を逐次
知らせてくれる情報網は作っていたろうし
信忠が知った時点で、各方面軍に謀反を知らせる早馬を走らせたろう。
秀吉はそれで知ったんじゃないの。
光秀は、信長の死を確認してからでないと密書は
出しにくから、しばらく時間がかかったはず。
秀吉が知って、毛利に知られないように警戒網を引いたあとになったんじゃないか。 >>387
いや昔の英語の書物も結構読みにくいと思うが >>389
秀吉独自の情報網で察知していたという説もある。
懇意にしていた商人からいち早く使者が送られた可能性がある。 光秀=南光坊天海って結構信ぴょう性のある説なんだな
・「明智平」は天海が名づけた
・東照宮に明智家の桔梗紋がある
たぶん南光坊の「光」とキンカン頭=禿=坊主とかけた「秀」で
明智光秀が完成 信長信忠の遺体が発見できなかったのは地味に勝敗を決する重大なポイントになったよな
高山、中川らが秀吉についたのが実に大きかった
あれで最前線が山崎になったわけだ 光秀が家康接待時にグチをしたのは事実
飯が臭いとかの話は江戸時代の作り話
家康は確かに気持ち悪い様な最良の接待を信長から受けたが、信長の真心。今川人質時代に、信長は家康と会っている しかし堺見物ってのはやはり呑気だろう
拝謁してすぐに帰れば巻き込まれていない
それとも何か理由あって堺にいたのかい >>339
日本ってそうなると消されるオカルトw
蘇我に義満に信長に大日本帝国 >>382
去年真田丸でやってましたけどねえ・・・ >>396
信長的には大感謝祭だったんだろう。
武田が居なくなって安堵。まあ、北条やら毛利は秀吉、家康でなんとかなる。
まあ、油断だろうが、光秀ごときが歯向かうとは信長も思ってた無かったろう。それ以上に光秀は信長から良い給料貰ってるんだから。
つまり、思想が、相容れなかった >>396
武田攻めの帰りに信長は家康から接待受けたからその信長からの返礼のひとつが堺観光
穴山は家康とセットだから同行したんだよ こんなの目指すんなら殺す前の根回しに数ヶ月はかかるよな 家康の大阪修学旅行は、家康が道を通る度に地主から歓迎の嵐
まるで、桶狭間みたいだが、違う。長篠以降、以降を家臣扱いした見返りに家康を歓迎した。
尾張と三河の友情 >>340
三河の先輩が抜けているだろう
頼朝は、信頼を寄せた三河の母方に繋がる人材を重用した
その三河の母方には足利氏も繋がっているんだよ
鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) 東は武田、西は毛利が最大の敵だからな。
既に北条も東北の大名も信長に従う意思示していたし上杉は滅亡確実な情勢だったから信長が大感謝祭をするのもわかる >>231
あのさー戦国時代一部に勤王の武士がいたんだろうがさ
当時は小氷河期で作物が取れず餓死しまくってた
だから隣国に攻め込んで自分達の食料確保それが戦国時代だよ
誰も飯食うだけでいっぱいだったんだわ
だから天皇家の女官が売春婦をやってその日の糧を稼いでたんだぜ
そんなに勤王だらけの世の中なら天皇家が食うに困ったりするかね? >>406
三河の先輩が抜けているだろう
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図:藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→女→源頼朝
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎大夫)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着する
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(三河県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、源義兼(初代源姓足利氏)を生む >>400
北条の抑えは滝川一益だろ
関東管領が滝川一益だったんだから
上杉景勝には柴田勝家
毛利輝元には羽柴秀吉
長曾我部には丹羽長秀
徳川家康はだから信長の勧めもあって堺見物に行った >>397
大日本帝国も昭和天皇をハンコ押す道具ぐらいの扱いだから滅亡したんだわな
宮城クーデターなんて天皇拉致監禁するのが目的ね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています