【大政奉還150周年】克明に記録−「慶喜は大広間で各藩重臣に表明した」に非ず、自筆の記録を初確認 お馴染みの絵の構図は嘘だった…
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「大政奉還」克明に記録−「慶喜は大広間で各藩重臣に表明した」に非ず、参加者自筆の記録を初確認 二条城伝達から150年
江戸時代最後の将軍、徳川慶喜が京都・二条城で大政奉還の意向を各藩の重臣に伝えた際、越後新発田藩の家臣が経緯を克明に記録していたことが仏教大の青山忠正教授(明治維新政治史)の調査で判明した。各藩への伝達は150年前の慶応3(1867)年10月13日。当日の参加者による自筆の記録が確認されたのは初めてという。
■おなじみの絵の構図は「嘘」だった…
文書を残したのは新発田藩の京都留守居役だった寺田喜三郎。慶喜が朝廷へ提出する上表文の草案を書き写すなどしていた。青山教授は昨年、仏教大図書館所蔵の「寺田家文書」から大政奉還時の記述を発見。今年3月に論文を発表した。
文書によると、当日に二条城へ集められたのは約40藩の重臣50人ほど。一同が二の丸大広間に詰めていると老中・板倉勝静が出座し「書付3通を渡すので考えを腹蔵なく申し上げよ。将軍が直々にお聞き遊ばされる」などと説明した。
江戸時代最後の将軍、徳川慶喜が京都・二条城で大政奉還の意向を各藩の重臣に伝えた際、越後新発田藩の家臣が経緯を克明に記録していたことが仏教大の青山忠正教授(明治維新政治史)の調査で判明した。各藩への伝達は150年前の慶応3(1867)年10月13日。当日の参加者による自筆の記録が確認されたのは初めてという。
■おなじみの絵の構図は「嘘」だった…
教科書でおなじみの邨田丹陵の「大政奉還」(明治神宮外苑、聖徳記念絵画館蔵)
http://www.sankei.com/images/news/171013/wst1710130017-p1.jpg
文書を残したのは新発田藩の京都留守居役だった寺田喜三郎。慶喜が朝廷へ提出する上表文の草案を書き写すなどしていた。青山教授は昨年、仏教大図書館所蔵の「寺田家文書」から大政奉還時の記述を発見。今年3月に論文を発表した。
文書によると、当日に二条城へ集められたのは約40藩の重臣50人ほど。一同が二の丸大広間に詰めていると老中・板倉勝静が出座し「書付3通を渡すので考えを腹蔵なく申し上げよ。将軍が直々にお聞き遊ばされる」などと説明した。
大広間では薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎ら6人が残り、慶喜と面会することになったが、寺田家文書にも「居残之分」として6人の名前があった。
青山教授は「3通の書付が渡されたことが新たに分かった。多くの各藩重臣がそろった大広間に慶喜が現れ大政奉還を表明したと誤解している人もいるかもしれないが、慶喜が大勢の前には出座していないことも明確になった」と話す。
配信2017.10.13 09:55更新
産経WEST
http://www.sankei.com/west/news/171013/wst1710130017-n1.html これは50人が大勢と呼べるのかどうか?の争いになるのか? お前ら
め ん ど く さ い の
変な宗教押し付けるのやめて >>9
くだらねー田舎の歴史なんか学ぶ必要ねーよ時間の無駄だ糞洗脳教育だ ミンスが政権を騙し取った時
明治維新以来の出来事と
持ち上げまくるアホメディアが沢山いたことは
無かったことに 馬鹿は過去を振り返る
前向きに生きるなら未来を目を向けろ 上様なんて恐れ多い存在だからおかしいと思ってました あーわかる
こんな絵にかいたような構図絶対にないと思ったわ ●オーストラリア居住民とその祖先に起因する、放棄・放浪猫の200万匹ホロコースト政策に強い決意で言論により厳重に抗議する
●その内容がナチスのガス室と質的に差異がない、日本の動物窒息または薬殺焼却処刑施設の保護施設への転用を言論により強く求める
●熊本県動物管理センターでの委託管理会社による秘密裏の3件の殺処分に、決して暴力に訴えず厳重に抗議する
●非人道的な犬猫ガス室ホロコースト・白骨量産施設【日本の公営犬猫ナチス・アウシュヴィッツ施設】は即時全廃
●【奄美大島猫ナチス政策】に断固として反対する立場を貫く!
急に、かねてより、大政奉還が、少数精鋭の関係者が躙口から出入りする、(地味ではあるが趣味の良い)草庵の茶室で執り行われたような気がして仕方がないタイプの俺も気になるニュースだぜ
●【奄美大島猫ナチス政策】に断固として反対する立場を貫く!
●非人道的な犬猫ガス室ホロコースト・白骨量産施設【日本の公営犬猫ナチス・アウシュヴィッツ施設】は即時全廃
【ネコは言っている】
【ここで死ぬ】
【定めではないと】 150年前に西日本は東日本に併合されたんだよ朝鮮併合と同じこと たまたま韓国は日本じゃなかっただけで九州が韓国でもおかしくないんじゃないの? 中国や韓国は北から下ってきた民族に
支配されて併合された所 >>13
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
初代ドイツ帝国宰相の「オットー・フォン・ビスマルク(1815年 - 1898年)」
の言葉を知らんのか? >>25
歴史に学んだ結果日本人は馬鹿だとわかった いちいち陪臣に会ってられるかよって感じですか
薩摩の小松さんらには会ったようだけど 日本が滅亡した時だな、今の日本は白人が経営する豚小屋みたいなもん 青山と言うとデカンショ節の方か盆踊り方かどっちやろ。この先生 結局
> 二条城へ集められたのは約40藩の重臣50人ほど。
> 一同が二の丸大広間に詰めていると・・・
> 大広間では薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎ら6人が残り、慶喜と面会
50人が来ていて大広間に居たけど、慶喜が来る前に人払いさせられ6人が面会し大政奉還したんだろ?
大勢いると不測の事態や不規則発言の可能性もあるから避けたんでは? >>15
そして「勉強しなさい」って、言う大人達がバカばっかりの国とは皮肉だよね 文系の戯れは本当よくわからんわ
自分の大学の図書館の書物からちょうどよく大政奉還に関する記述が見つかった
この発見こそが反証の余地がない真実であり
辻褄の合わないこれまでの様々な資料はすべて嘘である
っていうことを繰り返すのが史学であり
これをたくさんやった人ほどその世界のなかで偉くなる意味不明な世界
古墳だったりなんなりでねつ造までする人も後を絶たない
もう大学の文系学部学科とか全部やめちまえよって思うわ
司法関係だけロースクールで独立させればいい 帯刀や後藤象二郎は藩の重役で藩主にも口利きができるくらいの身分だお >新発田藩の京都留守居役だった寺田喜三郎。
居留守役とか俺もやりたいわ . ニダちゃん シナちゃん
* 〜 ∧∧
ノJJJし ノJ支Jし 南京虐殺的真実アル!
<丶`∀´∩ (∩`ハ´)
,ノ゙゙゙゙゙ハヽ ,ノ゙゙゙゙゙ハヽ
( ヽノ ヽ/ )
し(_) (_)J
#731部隊は本当ニダ
チャイナボカン! 中国とアジアの話題
http://asiamatome999.ken-shin.net/index.html
■ そうか がっかり 白昼の暴力乱入から買収まで
■改憲派大勝利目前 日本の改憲 待ったなし!
■比例トップ当選だった公明,長沢議員 限りなくゲス色に近い辞任
■激増する中国系犯罪 トレンドは詐欺やなりすまし! >>25
うそつけ。
どこの馬の骨とも知らんやつが言ったことなどどうでもいいと思うのが普通。
馬の骨の言ったのをどこかの馬の骨が翻訳しただけ。
無教養はおまえ。 記録された歴史なんて時の権力者の都合がいい記述ばっかでしょ
バカは歴史を学ぶ
賢者は歴史から学ぶ
意味の違いが分かるかな? 一地方の一藩士がその場に立ち会えたの?
寺田某の記録は伝聞じゃないの?
寺田某の記録が正しい記録と判断していいの? まぁ、慶喜が直々に出てきてたなら各藩の記録に残ってそうな
もんだからなぁ。 >>1
この絵好きなんだけどな。
2列目のふたりが顔見合わせてヒソヒソ話。
はさまれた人は当惑気味か。 しかし案外歴史的に証明されていると言われているものでも
フィクションだったという事があるもんだよねぇ。伝統と言われて
いるものが実は10年前ぐらいから始まった行事だった、みたいなさ。
一度いろいろ調べて、これほんとに伝統なの?というのを調べて
みてテレビか何かで放送してほしいな。NHKさんとかやってよ。
「ほんとにあったの?この歴史」とかいう番組名でさ。
偏向報道をするTBSとかはお断りだけど。 各藩重臣 慶喜から見たら家来の家来
お出ましになるわけ無いわな >>55
事実はやはり地味なり
と最近思うよ
二日酔いで休みますね的な
ピラミッドの労働状況しかり 漫画のイメージが強いのかな
薩長同盟が結ばれた場に坂本龍馬がいたりするのも当然だと思ってたわ あの盛大な絵は何で残ってたんだろう?
廃れ行く幕府の権威を誇張した絵なんて新政府が認めないでしょ
当時は本物の記録扱いやったのか >>52
留守居役も普通というか江戸留守居役なんかは家老格が兼任してるんだけど京都の場合はそこまでの重役が詰めてない
けど留守居役は役目上それなりの重役じゃないとなれないのであんたがいうただの藩士じゃない >将軍が直々にお聞き遊ばされる
ならその場にいるんじゃね 何てかな理解はしたが
絵画の技法として
場面1と2を同じ場面として描くのはありじゃないか
マンガのコマ割りじゃないし 南米のチリ政権の転覆みたいなもんだろ。
明治維新は英国とロスチャイルドが戦力の
不足を日本に補わさせたんだよ。
インドと中国で反英戦争が多発したからな
その後は、薩長のねつ造歴史で、帰化チョン
天国になったという悲劇だけどな。 >>56
朱子学のてっぺんが徳川宗家だからねぇ
慶喜が望んでも朱子学に染まりに染まった普代重臣が許さんわな
残った新発田藩はどっち付かずの外様で石高も10万、しかも同士の藩主は幼君…発言力はなかったし、佐幕にしろ倒幕にしろそこまでの意見なんか持ってるようなやる気のある藩じゃなかったうになんで残ったんだかな
そこが不思議 >>56
だよね
あの絵はずっと殿様たちが並んでいるものだと勘違いさせられてたわけか
明治時代にはかなり歴史が捏造されてたんだね 今75歳ぐらいの人が生まれた頃に戦争の前後で
更にその75年位前に生まれた人の頃が大政奉還 >>59
浮世絵扱いだろう。別に新政府が書かせたわけじゃないし
てか新政府だってそこまで中国みたいな事実隠蔽やらんと思うよ。小松と後藤他数名だけ謁見してるより見た目がいいわな
もし新政府の意図があるならこれだけの藩の前で大政治を奉還させた新政府凄いってとこだろう。小松(薩摩)が大勢の前で慶喜を説き伏せたってイメージ持ってるやつ多いしな >>3
違う。
>大広間では薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎ら6人が残り、慶喜と面会することになったが、寺田家文書にも「居残之分」として6人の名前があった。
広間に集まった各藩の重臣50人には老中から大政奉還の意向を伝える文書が3通渡されただけで慶喜は姿を現さなかった。
「何か言いたいことがあったら将軍様直々に聞くから残れ」といわれて6人が残って将軍と面会した。 各藩の重臣は将軍にしてみれば陪臣で
御目見得以下だから回覧文書を読まされた
と司馬竜馬でも書かれてなかったか。 >>66
お前が勘違いしてただけだろw
誰も殿様が集合したなんて言ってないし絵にも現れてない
なんせ一家臣でしかない小松帯刀や後藤象二郎が発言力持って参加したってどの教科書にもちゃんと書かれてるのに >>55
伝統が創られたものである、なんてのは
はるか昔から人類学上の常識だし
今更能天気に掘り返す意味はない もっと早く、日本人の手で民主化してれば
良かったと思うな。
帰化チョンの傀儡で民主化なんて、アホの極致だろ、
その民主化も帰化チョンの天皇カルトなんだけどな。
百済王朝が滅んで、日本に逃げ込んできて、軒先盗って
母屋乗っ盗る、という歴史に背乗りした、朝鮮人のねつ造
歴史で、明治以降が出来上がってるよな。 >>59
あの絵は明治になって描かれたもの
明治政府が大政奉還を絵で世間に周知したかったんでしょう
結局、この絵も想像図に過ぎないことが今回の文書で証明されてしまった >>74
>帰化チョンの天皇カルトなんだけどな。
それは言ってはいけないことだよ暗黙の掟 >>76
少し前までれは、タブーだったかも知れないけど
ネットで情報開示されてるから、検索したらいくらでも
出てくる。
時代の寵児になってると思うよ。
全世界に、この情報は拡散している。 >>1
ていうか、明治維新って重要なシーンが謎なままだろ、伊藤博文らが長州藩の下級氏族とかw長州藩とか無いから当時w 大阪府堺市内の仁徳天皇陵を宮内庁が発掘禁止にしているのは
天皇の出自が国民にバレバレになるのを恐れているんだけれど
みんな知っているだけであえて今更口にしないだけなんだよね >>3
50人の前じゃなくて6人の前に出てきた。
寿司でも焼肉でも、50人前は食えないが6人前ならなんとか・・・ ということだろう。 >大広間では薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎ら6人が残り、慶喜と面会することになったが、
ここで後藤が説得したのか
小松も一緒に居たとは・・・ >>81
薩摩と土佐は、長州と話がついてたからかな? 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の8巻にも
首席老中板倉が筆書された数枚の書類を回覧させ
のちに薩摩土佐安芸の三藩代表が面会したと記述されてる
昭和40年代にすでに明らかになってたことの裏付けに過ぎない
陪臣を前に、将軍が話しかけるとか、あるわけないだろ >>79
あれは仁徳天皇陵ではないってのはもう定説だろ >>1
40人に各3通ずつプリント配ったの?
3通書いて回し読みしたの? >>78
え?ないのか、なんで長州藩なんていうんだ? >>91
長州藩37万石の実高は100万石以上といわれてるね。
領民を虐げて、せっせと金と軍備を増強して政権を取ったわけだ。
当時は長州藩の圧政に対抗した一揆が頻発していたが、現代は従順そのものだねw >>91
一部の儒学者がそう言うてたのを、維新後に公式に採用したんよ ぶらぶら美術・博物館でやってた
そもそも部屋が違う なんでこんな話がいまごろあーだこーだ
なるの?
当時出席した人に聞けば一発じゃん
なんで明治期に正確な記録が残されないんだ? >>91
当時は藩なんて呼称を誰も使わなかった、荻・山口と呼ばれた時期があるってのを曲解して陰謀論に繋げたがる馬鹿にかまう必要なし
そのうちフルベッキ写真ガー明治天皇ガーって言い出すから >>1
記事とは全く関係ないけど、
当時の大工さんはよくこんな建物を造れたよなぁ。CADや建機なんてなかっただろうに。 >>98
毛利家家中、長州の〜 だね
桜田門外で斬り込んだ薩摩の有村なんかは看取ってくれた藩の藩士に松平修理太夫家中有村次佐右衛門と幕府から拝領した松平姓を名乗ってる 小松帯刀、後藤象二郎、あとの4人は誰なんだろ。 興味を惹かれる 長州に限らないけど、長州だったら、萩領とか周防山口領とか毛利領とか?
そこの家中なら役職名かな? >>106
領なんてのは一切使わない
基本は主君の名前+家中+自分の名字+官位があれば官位、なければ名前
諱は名乗らない そりゃ現代でも半年前の記録や記憶が無いんだからなw >>97
それ、名前だけの問題だからw
萩や周防山口を権力中枢にして、領内に圧政を敷いていたことに変わりはないよ。
領民から搾取した金で、武器を買いそろえたことも間違いない。 何かを諫言して自刃した元外国奉行の堀について言及ないか気になる >>108
○○領というのは幕府で記載していた正式名称だと思うよ?
本人の名乗りかたとは別。 >>105
二人だけはわかった
福岡孝弟(土佐藩)、辻将曹(芸州藩) >>110
突然、しかもお前だけ圧政だの一揆だの何を言ってるんだ???
あまりに意味不明過ぎて話がまるで通じない 明治維新とか、最近でさえ、これだけフェイクがあったわけだから
もっと昔はなおさらである
信長・秀吉・家康の写真がもし実在したら、影武者が当然何人も作れなくなるから
日本史は大きく変わっていたのは確実である >>111
諫言というか条約締結は一国対一国と言うのが大前提なのに、連邦国家だったプロイセンの中身30数ヵ国と条約の文面かわしたことを安藤から叱責されての自刃だろ
自刃に意図があるなら文面は30数ヵ国だけど中身は一国なのになぜ、そんなくだらん建前を気にすんなという抗議だろう 明治維新の本物のキーパーソンは徳川慶勝だからね
近年新資料が見つかっていて彼が明治維新を裏からかなり操作していたのがわかってきてる
まぁ最終的には官軍が暴走したけど 小松、後藤以外の「ら」の4人が不憫ww 封建制の時代に居残るってけっこうな根性だと思うんだ
名前出してあげて >>113
ありがとう。芸州の辻さんは知らない人だ。 なんと大きな大政奉還。
白紙に返す大政奉還。
いよ!国発見、大政奉還。 >>121
薩長土肥が薩長芸になるかもしれんかったぐらいやで。
長州征伐が失敗したのも芸州が協力を拒否したせいやし。 鳴くようぐいす大政奉還
人世むなしく大政奉還
以後ナミダの大政奉還
人群れサワグ大政奉還
いち早くできた大政奉還 なんか、あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々と同じ説明を二度聞かされたような気がした。 >>79
宮内庁にとっては、盗掘など問題ではない。
なぜなら、多くの天皇陵が既に盗掘の憂き目にあっているからだ。
ならば早く保全しないと、と思うのが素人。
あんなに「天皇陵です」とアピールすれば、プロの盗掘師を防げる
わけはない。巨大な大仙古墳の場合などは、アメリカ軍や近所の
餓鬼にも掘りつくされてしまう始末。半島ルーツなどというのは現
天皇も言ってる話で、別に空っぽの墓開けたってわかるわけない。
ならばなぜ宮内庁は発掘禁止にするのか?
そこに、大量の人骨が埋まっているからなのである。
宗主国中国では既に曹操が薄葬令と殉葬を禁じているが、当時
まだ大陸との交流など僅少な田舎者大和王権は、そんな事どう
でもよくて、一杯殉死させたんである。
大仙古墳などは、巨大すぎることから、降伏した敵の本拠地ごと
埋めてしまったとも言われている。人夫も当然その人たち。 〇〇藩って言わなかったのか
時代劇のかなりが間違ってるんじゃね? 高松塚の古墳の壁画見ても一目瞭然だよな
あんな朝鮮衣装着た人物は大陸由来の面々 日本人って嘘ばかりつくな
日産といい神戸製鋼といい
恥ずかしくないのか 慶喜の命乞いの結果大政奉還したのだ。
昭和天皇の命乞いの結果無条件降伏したのだ >>93
幕末はどこの藩も財政が無茶苦茶やったのよ
薩摩、長州は財政改革に成功して金を持ってたので軍備に金を回せたはずだよ
薩摩は琉球使って密貿易で儲け
長州は塩の密売で儲けたとかそんな流れだったはず >>123
田布施システムはチョンが広めているデマだよ。
あの説明の肝心の部分の写真は長州藩でなく佐賀藩の学生だったことが物証で証明できるから、田布施が関係する証拠が1つもないんだもの。
http://blog.goo.ne.jp/sagastudents 偽勅で政権奪取した薩長テロリストの情報操作が明らかになったな。 世界の美意識はこん/なに違/った。女性の"完璧なプロポーション"は?(比較画像)
http://www.girtzsw.shop/zpkzf/88.html
>>85
だよな。じぶんも、「竜馬がゆく」に書いてあるのとほぼ同じだと思ったが。 教科書もマスコミもたまに嘘はあるけど、ネトウヨは本当のことをたまに言う。 >>148
「島津は徳川家ば滅ぼした 何十年何百年かかったかは知らん じゃっどん必ず島津兵子が滅ぼした 」 >>113
あとの二人は、宇和島藩士の都築荘蔵(末広鉄腸の兄)、岡山藩士の牧野権六郎(成憲)。 あー、京都へ旅行したい。
けど忙しいし、宿取れない。 >>154
この4人は一般人は知らないだろうから
ら、って新聞に書かれるのもしかたないか 薩長ってすげえ力持ってたはずなのに何で今は雑魚の辺境県に落ちぶれたんだ? >>59
「大政奉還図」(※昭和10年の作)の作者の邨田丹陵(1872年〜1940年)は、田安徳川藩士・村田直景の息子。 かって大帝国だったのに落ちぶれてる国が世界にどれほどあるか >>158
田中角栄的な故郷への我田引水型の政治家ばかりではないからね
明治維新後の明治新政府の諸政策を見れば分かる通りで政治家が
薩摩や長州の地域を富ませるための我田引水を全くしなかったから
鹿児島県も山口県も栄えるどころか中央集権で吸い取られただけ
長州閥の桂内閣なんか1903年に「府県廃置法律案」を閣議決定して
山口県を東西二分割して広島県と福岡県に編入しようとしたくらいw
(1904年4月施行予定だったが日露戦争の勃発で法律が成立せず) >>117
明治維新は坂本竜馬が全部やったわけだし、慶喜を説得して大政奉還させたのも竜馬 本当なんだろうな
これって歴史修正主義者と考古学者と研究機関が組めば何でもありになってくる
まあプロの専門家としてそんな汚名を自ら被るような事はないか
あの国(南)とあの国(アメ公)関係は別として 幕末で悲劇に感じる人物は多すぎるけど、その中でも個人的に相楽のオッサンには同情する
昔、務めていた会社で上司が重大ミスを誘発し、その責任を被らされて賊軍となった俺には気持ちが分かる >>74
田布施論については既に台湾人の歴史家が論破している
古い >>164
逆だよ逆。今の日本史で明治維新が薩長土肥4藩、坂本龍馬、西郷、勝海舟等だけの功績とされていて、
福井藩、尾張藩、広島藩、宇和島藩、岡山藩等の功績が日本史から抹消されてる方が、歴史修正の結果。 >>4
西から昇ったお日様が、東へ沈む〜♪
的な!(笑) ってことは、>>1の絵の上座に座っているのは板倉勝静か? こういうの京都は羨ましいわ。
こっちは浅草寺くらいしかないから w
毎日メトロで旅行案内サイトの宣伝やってるけど。 >>171
えっ150年しか経ってないの?って感じだよね >>173
今のは江戸時代からあるやつ
火事も空襲もなかったので現存 >>91
長州藩は通称
江戸幕府から見た公式名称は「松平大膳大夫領」
毛利家は「松平」の苗字を将軍からたまわっていたので公の場では毛利は使わない
ただ幕末には××藩の通称は広く流布して志士たちも会話では使っていたから小説やドラマの描写は間違ってない。 >>184
大膳大夫ではない領主もいたのに?
封土は藩主個人に封じられたものではなく、家に対して封じられたわけだから、
個人の官職が藩の公式名になるのはおかしい。 絵の説明が違っているのだろ。
広間正面の人物は将軍ではなく将軍似の老中というだけで。 >>186
老中が公方様の上意を伝えるのに、羽織姿なんてくつろいだ格好をしてるわけがない。
裃ではなく、諸侯やその代理の前で公の発表をするときに羽織姿である時点で、
公方様だということになる。 実際の歴史って
思ったものよりショボいよね、きっと
大袈裟にしてると思う
西郷と勝の無血開城だって
実際は、喫煙場みたいな所でアイコス吸いながら
立ち話程度かもしれない それより、なぜ室町時代には世界有数の人口を擁し文化的にも栄え明治維新をなしとげた山口県がみすぼらしい姿になったのか気になる。
あと、あのダサイ県名もw >>184
領主より先に藩がある。
藩というのは、江戸の上屋敷とともに幕府から諸侯に託されたもの。
まず藩という箱があって、その箱に諸侯が藩主として据えられる建て付け。
戦国時代なら大名や国衆が個人の裁量で切り取った領土だから「毛利領」でいいけど、
幕府が統治した時代なら、封土はあくまで将軍から預かっている仮の居場所。
例えば、赤穂浅野家がお取り潰しになっても、赤穂藩は赤穂藩として存在する。 >>189
明治になっても、宇部などが炭鉱で栄え、下関という大きな港を有していたのにな。
多分、下関、山口、宇部/徳山、岩国、萩など、それなりに栄えた都市が散在して中心都市が形成できなかったことが原因だと思う。 いつの時代もお抱え絵師が時の権力者の意向に沿って描くわけなんだよな >>186
そもそも言ってしまえばただの錦絵みたいなもんを歴史的資料としてしまったやつが悪い
他の明治期の時代絵画と同じく何の意図もなくわかりやすいからって理由なんだろうけど >>193
別にこの絵によって都合がよくなったり悪くなったりする勢力はない
陰謀論に懲り固まるとそういうようにしか見えなくなる典型例だな 1の錦絵だけじゃなく、二条城の二の丸御殿の人形も将軍になってるな。
https://www.okeihan.net/navi/kyoto_tsu/tsuwalk/img/08/pic_17-1.jpg
http://hisashige.net/wp-content/uploads/17af7501c039b7f92c8b71d74e9ab2ef.jpg
再現人形の画像が二種類あるんだが、どちらが今展示してある風景なんだ?
一つは、下座の面々が裃姿。もう一つは大紋姿。
大紋を着ていると大名ということになるけど、実際は在京の大名家の年寄だってことだから、大紋は間違いっぽい。 >>1
> 大広間では薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎ら6人が残り、慶喜と面会することになったが、寺田家文書にも「居残之分」として6人の名前があった。
寺田家文書に「も」記載があったってってことは、6人居残り自体は他の文献とかでわかってたことじゃないかい?
ほんとに新事実なの?これ。 >>193
明治政府にとっては、将軍がああして政権を朝廷に返上して来たよ、だから新政府偉いんだよ、というプロバガンダ画像ってこと?
そう考えると面白いかも
絵としては教科書の挿絵?くらいの芸術性とかは感じられないものなんだけど >>197
発見だの新事実だの言わないと仕事したことにならないから学者とか因果な商売だ。
おかげで珍説奇説がでっち上げられて歴史通が得意げに
「まだ、そんなこと言ってんのw」とか鼻を膨らます。 >>81
徳川慶喜が事前に決断したから、大政奉還になった。
後藤象二郎(土佐)「それはとっても良いと思います」
小松帯刀(薩摩)「で、ほんとに幕府と将軍は無くなるの? 朝廷に一本化だよね、朝廷だけが政府だよね」
小松帯刀は徳川慶喜に何度も確認して退出した。
そして間を置かず、薩摩藩ら雄藩五藩による朝廷占拠、つまり王政復古が発生した。 >>158
そりゃ内戦起こして負けたところなんて
落ちぶれて当然じゃね? >>203
薩摩は内戦(西南戦争)起こしたけど、長州は内戦なんて起こしてない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています