【日本史】「鎌倉」でなく「北条時代」が区切り 時代区分に新提案 明治以前を「古墳→大和→山城→北条→足利→織豊→徳川」★2
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時代区分(古墳から明治以前)
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■時代区分を見直す中世史家 保立道久・東京大学名誉教授
歴史には時代区分がある。だが、日本史で一般的に使われる「平安」も「鎌倉」も「室町」も問題だと指摘し、新たな区分を提案する歴史家が現れた。名付けを見直し、区切る事件を変える。歴史の大きな流れが理解しやすくなるというのだ。明治以前を「古墳→大和(やまと)→山城(やましろ)→北条→足利→織豊(しょくほう)→徳川」にすべきだ、というそのわけは。
――時代区分を変える必要などあるのでしょうか。
「時代区分は、歴史を少しでも分かりやすくするための印です。学界も習慣的に使っていますが、社会への影響が大きく、もっと深く考えるべきだと思いました」
「ヨーロッパや中国などの外国は、王朝交代で時代を区切ります。日本の天皇は『万世一系』ですから難しいのですが、前近代の政治の中心は王権です。王権の変化で区切るほかありません」
――では、最初の王権はいつできたのでしょうか。
「3世紀初頭、邪馬台国の卑弥呼の時代と考えます。その頃、前方後円墳の原型といえる古墳が纒向(まきむく)(奈良県桜井市)に営まれ始めた。そこで従来3世紀末か4世紀初めとされる古墳時代の開始を、邪馬台国の成立時とします」
「前方後円墳は、つぼを横倒しにして半分埋めた形なんです。後円部に埋葬された人の魂が、つぼのくびである前方部を抜けて天に飛翔(ひしょう)します。こういう神話を信じた人たちが邪馬台国をつくった。古墳時代は神話時代です。ただ、その神話は天皇家のものとは限りません」
――古墳時代の次は大和時代となっていますが、どこで区切るのでしょうか。
「大王の血筋が確定して後の天… 残り:2408文字/全文:3097文字
配信2017年11月9日03時17分
朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASKB05T40KB0ULZU015.html
★1が立った時間 2017/11/09(木) 10:39:36.22
前スレ
http://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1510191576/ >>291
建築とデザインは普通に世界トップクラスだぞw 滅茶苦茶だよな
なんで、最初は地名で藤原や平家や源を無視して北条から家になっているのか? >>263
明治以降の近現代史を日本と世界の関係で教えると,
どうしても,日本は悪者とは言えなくなる。
「戦争の罪」を作り上げたいという西欧法関係者の情熱が
日本を悪にした,そうやって裁いたという事情があるからね。 >>4
ほんとこれ
造語症のお遊びに付き合う必要はない >>289
朝廷における官位として貴族の序列でお墨付きをもらって執政してたのが前者で、征夷大将軍は朝廷の外でのことに対する全委任
本社の常務か、チクの統括部長か
みたいな >>298
実質的な権力重視してるんじゃないの
承久の乱以降北条が実質的な権力者 そもそも北条が覇権握ったのは3代将軍実朝の時なので
北条時代にすると頼朝と2代目の時はなに時代よってな話
鎌倉時代の前半は有力御家人による覇権争い
比企、和田、三浦といった有力対抗馬を殺しつくしてようやく北条の天下
頼朝が生きてる頃一番強かったのは比企 >>297
諏訪と出雲は同じ縄文民族
隼人や宗像なんかは海洋民族だね
宗像は最初のころに大和に従属した
隼人は戦って、最後は京に連れてこられて傭兵になってる >>321
いまでも埼玉県北部の事を比企郡って言うもんな 三河の源頼朝が構築した三河システム(三河縁故の武士が武家社会を牛耳るシステム)こそ一番重要で
三河の足利や三河の徳川も、この三河システムを踏襲したに過ぎない
三河の源頼朝を省くなんつーのはありえんぞ
鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>260
卑弥呼や蘇我氏など三輪山から葛城山辺りの豪族は
出雲族らしいな。大和は元々出雲族の国。
地名とか神社とか出雲と深いつながりがあるという。 由来が地名だったり、人名だったりちょっと恣意的だな
曖昧でもある 源氏を無視するとか馬鹿なのかこいつ
北条氏(執権)が実権握ったのなんて後期だけなんだから
源北時代というか場所はずっと鎌倉なんだから鎌倉時代で良いだろ >>294
現代の会社組織で言うと
源氏=会長
北条=社長
創業一族の社長が会長職に退き他所から社長を招聘みたみたいなもんだよ
でもやっぱり創業一族の会長は権威がある >>323
源平の合戦の本質は
平家と平氏の争いでしかなかった ちなみに将棋で有名な陣屋旅館は和田氏の邸宅跡だよ。 >>312
そうだよな。
建築やデザインは欧米系と異なるモチーフ,センスがあるからね。
伝統文化をしっかり習得・研究しているわけでなくても,やはり,
引き出しの奥に潜んでいるモノがあるから,世界と渡り合える。
同じことが中東系のデザイナや建築家にも言えると思うけど. >>326
なんで西日本をそんなに憎んでんだ?理解できんのだが
それよか、朝鮮戦争で帰れなくなった在日が集結してふえた関西の在日濃度と、東京神奈川に集まってる朝鮮籍どうにかしろ アウシュビッツは教えるけどポグロムは全然教えないねw >>195
或る正直な東京人のホームページの記述より
武蔵の国
http://www.kt.rim.or.jp/~tro/tt/togarasi.htm
東京や多摩の別名として古来からの国名の武蔵がある。若者の街で人気の吉祥寺も武蔵野市にある。
“武蔵”というのは“モサシ”という朝鮮語から生まれた言葉だという。
モサシは河原にはえる草の呼び名らしく、多摩川の河原や東京を二分するようなその広大な河岸段丘の草原からつけられたようだ。
また、武蔵の国の国司は百済人と決まっていて亡命してきた百済王家の人間がなっていたという。
今でも東京(武蔵野)には狛江とか高麗とか朝鮮に関係ある地名や名称が多く残っている。
武蔵の国の政府があった府中の大国魂神社(オオクニタマジンジャ)のあたりからは、百済人や東夷が暮らした武蔵野の大地が遠望できる。
江戸がなぜ栄えたか、というと「田舎者で栄えた」というのが一つの答えらしい。
江戸八百八町は当時も世界最大の都市。大名の参勤交替だけではなく、ありとあらゆる田舎から人々が集まって来ていたのだ。
そもそも江戸の背景となった武蔵の国そのものが海外からの亡命者や入植者、あるいは都落ちしたもの、東国へ派遣されたもの、
古来地元で群雄割拠する豪族など、ありとあらゆる人間が生活を営んでいた場所である。
しかも知事は外国人、国際的といえる地域でもあるのだ。
これが、ボクにとっての東京のバックボーンであり、歴史であり、生い立ちであり、成り立ちであり、現実であり、その一部分だ。 やっぱり、今まで通り政府のあった場所で時代区分した方が分かりやすいわ。 >>266
紀元200年あたりにも朝鮮国、朝鮮民族、もしくはそれに近い存在は無い
馬韓辰韓弁韓はそれぞれ別の民族で、それぞれ百済、新羅、任那になったが、新羅が半島を統一した頃にようやく朝鮮民族、が出来た
そのずっと前に大化の改新、大和朝廷があるわけで
だから韓国の学者とNHK朝日新聞絡学者は大和朝廷の歴史を新しいものだ、とねつ造して、朝鮮民族が日本に対して支配的、先進的であった事にしたいわけ
そこでねつ造のターゲットが古墳時代と弥生時代だ
まず弥生時代を潰したがる朝日新聞NHK >>321
承久の乱のあった1221から建武の新政までの1331までが北条時代になってる
三代将軍時代はまだ山城時代 >>176
考古学者にとっては、卑弥呼も邪馬台国もどうでも良くなっている。
新しく発見される出来事の方が大切だから、九州だろうと奈良だろうと
それ以外にも大規模なクニがあったことの方が大事になる。
歴史学者は、自分の推理が当たれば自慢できるので、邪馬台国の場所を
自論で語りたがる。 北条と鎌倉の時代範囲に違いは無いだろ
国名と氏名が混じってたりであんまり良い案とは思えんな >>73
アメリカ人にとってアメリカが
フランス人にとってフランスが
バングラデシュ人にとってバングラデシュが
インド人にとってインドが
そうであるように、特別なものを持った国だと思いますよ
遺伝子レベルで厳密にテストしてる訳じゃないが
今の皇室を辿っていくと記録に有るだけでも軽く千年以上の伝統がある、とか
1000年前の宝物が未だにきっちり保管されてる宝物倉があるとか
なかなか世界でもないっしょw
勿論それぞれの国に、そうしたサムシングスペシャルはあると思うけど
俺が言ったような「特別じゃありませんよ」って連呼する種類の連中は、それぞれを尊重するんじゃなくて単に日本を卑下したいニュアンスだけなんだよね >>328
そのとおり
三輪山は蛇を信仰している
出雲大社と同じ
大和王朝時代になると
この信仰が否定される
ヤマタノオロチ
ツチグモ 権力のあった人を時代区分に使うとおかしい事になる。
江戸時代だって将軍が親政したのは1、2、3、5、8、15代くらいでしょ
ほとんどは大老や老中や側用人が代わりに政治してたし。 >>333
大正時代に朝鮮に首都をうつす案があったよ 国際的には、日本史の時代区分は
1、先史時代(縄文〜弥生、邪馬台国)
2、天皇親政・蘇我時代
3、摂関政治・武家時代(藤原、平氏、源氏、北条、足利、織田、豊臣、徳川)
4、大日本帝国時代
5、日本国時代
って感じだよ 日本で初めて法律(民法)を制定化して文明の段階1つあげた北条泰時(3代執権)の評価が低すぎる
山賊の首領と変わらん信長やら家康なんかよりはるかに重要なことしてるんだが 日本人が「平安時代」という言葉で国風文化を連想する事を消し去る気か? >>340
そんなん捏造やっても日本と中国の文献で大雑把な事は全て証明されてる事なんだけどな >>26
大阪城はしょせん秀吉のプライベートな城
伏見城が公的な城で政治は全部そっちでやっていた
(大名たちも伏見城下に屋敷を構え、今でも屋敷跡が町名に残ってる) >>343
実質的な権力重視、というなら
山城時代じゃなくて藤原時代だろ 初期鎌倉幕府って今でいうと防衛省を鎌倉に移しただけかもしれないな
本拠はあくまでも京都 >>307
普通に勉強してたら欧米列強の侵略だらけだよ
日本なんて最後にちょろっと出てきただけ
世界の大半を欧米が植民地にしてからだよ
フランシスコザビエルのイエスズ会なんて世界を植民地にするために出かけた過激派だぜ
でも日本史だけだとそんなこと誰も知らない 幕府を開いた時代で分けておく方が合理的に思うけどな。各為政者の住み分けも出来るし
もしその分け方でいいなら、藤原と平氏に戦国時代が必要だろう。室町幕府から織田豊臣時代に100年分ほどのブランクあるし 土地の支配 古墳→大和→山城
人の支配 北条→足利→織豊→徳川
法の支配 明治大正昭和
金の支配 平成
ここまでやれば意図も分かり易いのに 鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も、天皇から征夷大将軍の職を与えられたときからで、いいんだよ
なにがいいはこだよ >>351
徳川二代目はほとんどお飾りだろ、家康が仕切っていたんだから 六波羅探題できるまでは鎌倉幕府って東国ローカル政権にすぎないからね
室町時代の関東公方とかその辺程度の規模 >>360
まあそうだよな。
というより東日本政府が鎌倉で西日本政府がいまだ京都という二元体制だった。 >>338
平地気気候が温暖
上総地域、毛地域、武蔵地域は
それ以前から栄えていた >>347
いや大名古屋時代だよ?1600年以降は 北条が乗り越えられなかったのは、頼朝が構築した三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)
男系、女系共に源頼朝に近い足利氏が使命感をもって、武家社会を源頼朝の三河システム(三河縁者が武家社会を牛耳るシステム)に戻したのさ
その三河システムの存在は政子ちゃんは周知の事
頼朝やその息子孫がいなくなって、政子が頼りにしたのは三河で繋がる人々だったのは明白だろう、政子の葬儀奉行は三河守護の足利義氏だった
金剛三昧院(本尊、愛染明王は北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏として作成)
・建暦元年(1211年)、北条政子の発願により源頼朝菩提のために禅定院として創建する
・承久元年(1219年)、源実朝菩提のために禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺として信仰する
・貞応2年(1223年)、北条政子が禅定如実として入道し、建立奉行を葛山景倫(願性)・安達景盛が務め、源頼朝と源実朝の菩提を弔うための多宝塔(国宝)を建立する
・嘉禎4年(1238年)、足利義氏は政子の十三回忌にあたり、当院に大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して、政子と実朝公の遺骨を納める
・源実朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→由良御前→源頼朝→源実朝
・葛山景倫(願性)
藤原実範(三河守)→女(藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)の妹)→高橋惟康(三河国高橋荘領主)→鮎沢惟兼→葛山惟忠→景忠→景倫(願性)
・安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)
・足利義氏
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡))→女(養女)→足利義兼→足利義氏(三河守護) >>366
秀忠はかなりのやり手だぞ
大名の改易数が一番多いのは秀忠時代
自分の対抗馬になりそうな弟や甥も粛清
親父の腹心だった本多正純は改易 >>360
全国の守護地頭を鎌倉から統率してた
この時代の天皇は国を治める実権が無い
防衛省だけじゃなくて全ての省庁が鎌倉にある状態 足利尊氏の呆れちゃうのは自分の出生地である栃木県や
勢力を拡大した九州には特に便宜をはからずに
当たり前のように京都に幕府を置いちゃった事。 >>297
教えるも何も先史時代なんて教えようが無えだろうが
(自称)古代研究家の妄想を子供に叩きこめ、とでも言うの?w >>363
英語版、Wikipwdiaだと
天皇家以外の日本のデファクトな支配者として
「蘇我家、藤原家、平家、源家、北条家、足利家、徳川家」
の有力氏族がいたということは普通に書かれてる >>362
世界史からみると信長自体も悪の手先になるしな 時の政権つっても、どの程度まで力持ってたのかわからんよね
徳川はかなり力持ってたんだろうけど 弥生時代を無きものにしたい朝日新聞NHK学者
朝鮮民族が成り立つまでは日本は国でなく植民地の未開民族でなければならないからな
実際には大和朝廷が出来てても朝鮮半島は3つの別々の民族にわかれてたから致命的に無理だけど
慰安婦20万とかメチャクチャ言う学者ばかりだからなあ >>360
>初期鎌倉幕府って今でいうと防衛省を鎌倉に移しただけかもしれないな
全然違います(笑) 鎌倉に幕府があったから鎌倉時代で良いじゃないか
一応源氏ではなくとも将軍はいたし 源頼朝の扱いは難しいな。
北条時政の傀儡でも旗頭ではあったから。 日本の都
沼島/淡路洲 国産み(イザナギ/イザナミ)兵庫県南あわじ市
須 我 ヤマタノオロチ(スサノオ)島根県雲南市
出 雲 因幡の白兎(オオクニヌシ)島根県
高千穂 天孫降臨(ニニギ)宮崎県高千穂町
橿原宮 B.C.660年(神武天皇)奈良県橿原市
庵戸宮 B.C.291年(孝霊天皇)奈良県田原本町
纒向宮 1世紀(垂仁天皇)奈良県桜井市
難波高津宮 4世紀(仁徳天皇)大阪府大阪市
近飛鳥八釣宮 5世紀(顕宗天皇)奈良県明日香村
石上広高宮 5世紀(仁賢天皇)奈良県天理市
近江宮 667年(天智天皇)滋賀県大津市
平城京 710年(元明天皇)奈良県奈良市/大和郡山市
恭仁京 740年(聖武天皇)京都府木津川市
紫香楽京740年(聖武天皇)滋賀県甲賀市
長岡京 784年(桓武天皇)京都府向日市/長岡京市
平安京 794年(桓武天皇)京都府京都市
福原京 1180年(安徳天皇)兵庫県神戸市
南 朝 1336年(後醍醐天皇)奈良県吉野町/五條市
東 京 1868年(明治天皇)東京都千代田区
※ 天皇が(一時滞在を前提とせずに)移住・居住した地
※ 近場は古い方のみ記載 日本の「番地」はわかりにくいから欧米にならって「道+番号」にしろって言ってるやつらと同じ臭がするわ
世界的にグローバリズムが嫌われだしてるのに何言ってんだか >>378
源氏はいらないかな
天皇家を簒奪できた勢力はそれぐらいかな 北条が権力を握った後も幕府は鎌倉だが、元は源がトップでややこしい
足利の前の南北朝はともかく、足利の統制が利かなくなった時代も長いのに
戦国時代を省く理由もよく分からない
豊臣はほぼ全国統一と言っても良いだろうが、信長はそこまでいってない
よくある、お前が思い付く程度の事は先人が既に考えてる
実行しないのは何かの大きなデメリットがあるからだ状態 天皇って
初期は仏教を守る正義の象徴だったけど
あとの年代になるほど
無意味になって
最後はエタヒニン薩長の神輿に使われて
軍国主義時代は
天皇カルトに成り下がったよね。
初期の徳の高かった時代はいずこへ。 >>379
自分で第六天魔王と言ってるんだから日本史でも同じだろう 足利尊氏がちょっと決意してれば栃木が日本一の大都会になって首都になってたべ >>366
あれは律儀&お飾りアピ
裏はかなりやり手だったそうな >>386
時政の傀儡なんていつの時代の頼朝像だよ 法治が正解っちゅうあと智慧だと3大偉人は
聖徳太子(十七条憲法)
北条泰時(御成敗式目)
徳川吉宗(公事方御定書)
聖徳太子は官位十二階っちゅうあえて科挙ではなく九品官人法ベースの身分制度導入したのがかなり大きい
九品は生まれで役職完全固定だったがスタート地点が違うだけで出世できる極冠制度に改良した(近現代軍制の二等兵スターとか軍曹スタートか少尉スタートのようなもん) 中世の始まりは、これが一番大事なんだよ
三河の藤姓熱田大宮司家と三河の源頼朝、三河の足利氏
そして、三河の徳川だ
三河の藤姓熱田大宮司家(藤原南家貞嗣流)
系図
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→源頼朝(初代鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))→女→足利義兼(初代足利氏)
■藤姓熱田大宮司家(本貫地:三河国額田郡乙見、三河県岡崎市)
・頼朝の母方の曾祖父藤原季兼(三河四郎)は、三河国司を多数輩出した一族(祖父の兄、父、弟)に生まれる
・季兼は、伊勢神宮領荘園の荘官として都を下り三河国加茂郡(三河県豊田市)に土着する
・季兼は、三河国加茂郡(三河県豊田市)の未開拓の土地を開発し、高橋荘・高橋新荘(後世 八条院領大覚寺統)を立券する
・季兼は、三河国額田郡(三河県岡崎市)に移り住み、青木川菅生川流域(菅生郷)を開発、荘園化せず自らの本拠とする(後に、権益は血縁である足利氏に)
・季兼は、三河国設楽郡稲木(三河県新城市)の稲木長者を滅ぼし、東三河を支配下におく
・季兼室の松御前(尾張員職の娘)は、晩年新城市稲木で過し没した(城ヶ峰の山頂(味方県新城市)に墓あり)
・季兼は、藤原資良(父の従兄弟)が尾張守になり、息子(藤原季範、額田冠者)と共に三河に住みながら尾張目代を務める
・季兼の息子である藤原季範(額田冠者)は、藤原南家として初めて熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪) ←乗っ取られる(笑)
・藤原季範(額田冠者)の娘(由良御前)は源義朝の正室となり、源頼朝を生む
・藤原季範(額田冠者)の娘(養女(実父は藤原範忠))は源義康の正室となり、足利義兼(初代足利氏)を生む >>386
頼朝時代は北条はそんなに強くない
頼朝とその嫡男の頼家の乳母だった比企氏一族が強かった
この時代は次代の当主を幼少から教育できる乳母一族が一番権力握ってる
北条は頼朝生存時はそこまでの力がなかったから次男の実朝にしか乳母を送り込めなかった >>364
古墳時代以前 朝鮮国の支配
NHKや朝日新聞がよくやるねつ造 >>379
つか、悪とか悪じゃないとかの区別が無意味ではないの?
ハンニバルとスキピオのどっちが善でどっちが悪なのか
劉備と曹操のどっちが悪でどっちが悪なのか >>340
とりあえず新羅は唐と組んで最後まで残っただけで新羅が朝鮮統一したとは思えないが
高句麗百済を滅ぼした主力は唐だしな
で唐は朝鮮統治を始めたが朝鮮での抑えが手薄になったところで新羅が反乱しただけ そういえば、よく忘れられるけど日本もヨーロッパのように宗教勢力が武装して、
武士ー朝廷ー僧兵の3つ巴の争いだものな
宗教が、でしゃばるのは危険であることを教えた方がいい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています