【考古】縄文人は農耕をしたか 大学×地域、歴史の謎挑む 植物大型化、解明目指し
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
毎日新聞 2017年12月4日 地方版
https://mainichi.jp/articles/20171204/ddl/k17/040/115000c
縄文人は農耕をしたのか−−。首都大学東京の山田昌久教授(考古学)らが今年、全国5カ所の研究施設と協力し、縄文人が食べた可能性がある植物の本格調査を始めた。北陸からは能登町の町真脇遺跡縄文館が参加。野生種の豆を植え、肥料の有無による収穫量の違いなどを調べて、遺跡から出土した植物の種などと比較する。研究の最先端を走る大学と、遺跡を熟知する地域がタッグを組み、歴史の謎に挑む。【久木田照子】
■遺跡周辺で栽培実験
昨年の事前調査を経て、2019年までの3年間、調査を行う。研究代表者は岡山理科大の那須浩郎准教授(考古植物学)。岩手県一戸町▽山形県天童市▽静岡市▽能登町▽福岡市−−の縄文〜古墳時代の集落遺跡(国史跡)周辺で、植物の栽培実験をする。いずれも、遺跡に隣接する博物館などが協力。施設の敷地は開けているため、縄文集落のような日照環境を再現しやすいという利点もある。
調査では、縄文時代に植物が大型化したメカニズムの解明を目指す。研究チームによると、近年、各地の縄文遺跡の発掘調査で、クリやツルマメ(大豆の祖先)などが野生の状態より大きく育っていたことが分かった。遺伝子の突然変異のほか日当たり、栄養などの環境が影響するとみて、調査を計画した。食べられる植物を縄文人が大量に得ていた状況が明らかになれば、農耕が行われていた可能性も浮かぶ。
■骨粉や貝粉、肥料に
縄文館敷地の調査畑は12平方メートル。ツルマメとヤブツルアズキ(小豆の祖先)を、肥料を与えるものと与えないものに分けて育てた。肥料は縄文時代に存在した物を想定し、動物骨粉や貝粉などを選んだ。今年6月に植え、11月に収穫。目視では肥料を与えた方が豊作だった。今後は種の大きさや収量を計測する。また、館周辺のクリや、事前調査での収穫後に自然に芽吹いたイヌビエなどの観察も続ける。復元した石器で畑を耕す実験も検討するという。
■協力、双方に利点
山田教授は、地域の担当者と協力する利点について「研究テーマに意義を感じ、関心を持つ人が畑をこまめに観察しなければ研究は成立しない」と話す。縄文館では高田秀樹館長が、肥料の与えすぎやイノシシの足跡などに気付くと、すぐに対応した。山田教授と高田館長らは、石器で木を伐採し先史時代の丸木舟を再現する研究にも一緒に取り組んでおり、協力しやすい下地が培われていたという。
地域にとっても、大学の研究者と組む意味は大きい。研究成果によって、ここで生きた縄文人の生活や思考がひもとかれていく。高田館長は「研究は多くの人の歴史への関心を深め、地元で遺跡を守り活用する応援団を増やすはず」と期待する。 >>147
本土もそうだけど
ただ江南辺りの人間が稲を持ってやって来て、相対的に数が増えたんだよ 左翼が縄文時代を否定する。
だから縄文時代の事実は発表されないんだよ。
左翼は、弥生人がくるまでは日本は未開だった、ということにしておきたがるからね。 >>146
狩猟が主体なんてありえないんだよ
そんなに動物はいない
採集、狩猟、農作だよ
栗やドングリなんかを組織的に作っていた
そもそも、狩猟民族という規定が可笑しい
インディアンだって農作をやってた
トウモロコシはその産物
ケルマンとか完全な農作民族
純粋な狩猟民族なんて、エスキモーとかアフリカの一部族とか、農業ができない、あるいは知らない民族 森ぐらいに栗の木が広がってるから栽培してたって話だったんじゃないの >>154
いや、DNAが同じだから、農作してたんだよ
ドングリもやったず
ちなみにうちの田舎は、栗の畑を持っていた
20本ぐらい生えてたかな 縄文人に直接インタビューしてみたら
あなたがたは農耕をしていたのですか?
ノーコメントだ。 >>15
あと、赤飯の由来は、弥生初期に来た赤米らしいね
餅を正月に食うのは、ドングリとか栗で作ってたパン状のものらしい
ほんとかどうかは知らんがあり得る >>158
してたのは間違いないよ
証拠が出てるし
陸稲とか、稗とか粟とか
稗田阿礼なんて、その辺りの地域から来た奴だろう
昔は稗とか粟とかを入れた餅も作ってた 稲も水張らずに畑みたいな場所で半自生栽培やってる農家あるよ。雑草と稲が一緒に育ってる。収穫は少ないが無農薬で世話もほとんどしない >>36
対日コンプレックスで歪んだハートをこじらせた朝鮮人が何か言っているようだねww >>71
「世界樹」という概念が世界中にありまして 現代日本の感覚からは、農耕は水稲の稲作とイコールに近いのだが、
世界的なレベルでは決してそうでもないよね。
縄文時代に水稲の稲作はまだ本格的に始まっては居ないけど、
陸稲やサトイモなんかの栽培は既に開始されていたとみるのが大勢。 >>160
米作ばかり話題になるが、古代はヒエとかアワだよな。 愛知の遺跡とか縄文の上に弥生の上書きじゃなくて段々弥生系になってるんよね
単に大陸から技術運ばれてきて練度上がって進歩しただけでないのけ 本もカレンダーも模倣する手本もなく丸暗記で農耕やオリジナルの道具を作ってた時代の人類のほうが科学的証明によると現代人より脳容量が小さく劣ってるらしい 貝塚の多さからも、海岸線沿いに集落集中してただろうから、大半は海のに没してるんじゃなかろうか
縄文人は予想されてる人口より多かったと思うんだが >>148
縄文編布があった。編物とも織物とも違う独自の布。 「日本人」はどこから来たのか
http://www.jinken.ne.jp/be/meet/okiura/
まとめると、現在の日本民族には6つの源流が考えられます。まず、
アイヌ系と南島人で、古モンゴロイド系の縄文人の末裔です。2つめ
は倭人で、彼らの多くは稲作農耕民と海の近くで舟運に従事し、漁を
して暮らす海民です。3つめは南方系海洋民で、その主力は黒潮に乗っ
て北上したマレー系海民とみられています。今日のフィリピン人、イン
ドネシア人の源流に連なる人びとです。4つめは、朝鮮三国からの渡来人
ですが、その主力は倭人系です。5つめは、中国の江北地方から朝鮮半島
を経て北九州に渡ってきた新モンゴロイド系で、大陸の北方に住む漢人系
の人びとです。6つめが北方系騎馬民族(新モンゴロイド系・ツングース族)
で、ヤマト王朝を建国した天孫族にもこの流れが入っています。 すなわち天津神(あまつかみ)の子孫であると主張した人たちがいました。
しかし実際は先住民を次々と征服し、自分たちの王朝を打ち立てた侵入者
(インベーダー)でした。
ヤマト王朝を建国後、万世一系と称する天皇制の皇統譜(こうとうふ)を
作成し、それを『日本書紀』、すなわちヤマト王朝の自分たちに都合のいい
歴史をつくり上げて、「正史」としたのです。歴史とは必ずしも「本当に
あったこと」の記述ではなく、その時々の権力が自分たちに都合よく創り上
げるものなのです。
ヤマト王朝すなわち天皇制国家が生まれたことにより、先住民族に対する
抑圧と差別が始まりました。天孫族は、自分たちとは異なるルーツをもつ
人々を「化外(けがい)の民」とし、国家の支配体制から差別し排除しまし
た。
そうした先住民は「土蜘蛛(つちぐも)」と呼ばれ、各地の山中で自給自
足の生活を送りました。さらに、最後まで抵抗したアイヌの人々を住んでい
た土地から追い出し、賤民としてあちこちに分散させました。
「日本人」はどこから来たのか
http://www.jinken.ne.jp/be/meet/okiura/ 「歴史」は権力者に都合よく創られる
そして、律令制によって天皇制国家を法制化し、公地公民制と
身分制度を確立したのです。東北地方の「蝦夷」と南九州の「熊襲」
(ヤマトに降伏後、「隼人」と呼ばれる)は反乱を起こしましたが、
圧倒的な力の差によって押さえつけられました。このようにして、
律令制にもとづく天皇制とは民族差別の制度化のなかで構築された
ものなのです。
私が大きな問題だと思うのは、研究がどんどん進んでいるにもかかわらず、
未だに天皇家を「神」とつながる特別な血筋であると考える人たちが少な
くないことです。また、日本という国や日本民族が多様なルーツをもつ人々
によって成り立っていることも驚くほど知られていません。 まぁ、稲科の植物なら運んでる最中に種が落ちて集落周辺に勝手に生えるだろうし
捨てた種から芽が出たりもするわけだから
種蒔きくらいなら自然と気付くわな
遠くまで探さないと見つからない物の種を近所にまいとこうくらいは絶対やるだろ >>138,149
別に狩猟社会の格差を否定はしない
だが、より極端な格差を農耕が生み出したって言ってるだけなんだが? 熊襲は独立した民族ではなく、もともと大和に従う一豪族でしかない。
豊臣秀吉が中央に従わない島津氏を制圧するようなものだ。 石器時代から土器文明になった縄文に移行した縄文前期に
九州の鬼界カルデラの噴火で九州まるこげ西日本でも噴火の影響で長く文明が開かなかった
その間に北日本や北陸を中心に文明が花開きそれが縄文文明となっていった
そのうちに鬼界カルデラや富士山などの噴火が収まり
縄文後期に西日本にも文明がひらき大きく成長
この移行の段階で西日本の文明は大きく成長しこれが弥生文明に移行しただけ
縄文と弥生の対立構造ではなく西日本の状態が落ち着き新しく成長した文明が弥生
この当たり前の地学的な事実を認めると
西日本主体でシナリオを切ってきた古来の日本の考古学崩れるので
イヤイヤしてるだけ
一時なんてな、西日本の文明より古い地層に遺跡があるワケがない!
関東に遺跡はない無人だったんだとし
関東や東北の発掘調査を拒否したりしてたんだぜ日本の考古学学会
そのため関東の石器時代から縄文前期の遺跡を発見したのは学者でなく素人だったりする
今は東北北陸関東に縄文の遺跡が見つかりそれを認定したため
縄文時代がやたら長くなった >>152
むしろ西日本日本の考古学の中心にしたい人らが
東北・関東の縄文や石器時代の遺跡の認定を遅らせたんだけどなw
日本の文明は西日本より北日本で先に花開いたのだから 考古学的に考察する対象となれば一発でこんなのわかる
ただ、まあ地面を深く掘り返すんですけどね 日本は灌漑しないと本格的水田は手に入らない
灌漑と言っても水を引くのではなく排水ね
低地は湿地だらけだったので水田作るのも不向き 現物が地層から出てきちゃうから
議論の余地さえない
見たまんまw >>185
低湿地も田んぼとして利用されてるよ、「ふけ田」「深田」「ふき田」なんて地名の所はだいたいそんな場所。 縄文人と現在の日本人は無関係、ということが明らかになると色々と困るからね。
明治、大正、昭和の初期は特にそれが顕著で、あらゆる時代の歴史が、特定の方向に向けて
捏造、創作された。
その一つの柱が皇紀であり、そこに不随する所謂「日本の神話」だ。
神話を裏付ける為に歴史が捏造されるということは殆どの国で行われて珍しいことではない。
むしろ、「神話」が何故に必要とされ、各国、民族で生み出されてきたのかを考えるべきであろう。
権力構造を肯定するために先住を主張することは統治の基本であり、支配者が自らの支配と搾取を
正当化する為に、神話が生み出され歴史が捏造されてきた。
日本人が縄文人と民族的には無関係ということになれば、じゃ日本人は何処から来たのかという
ことになり、周辺民族に対する日本人の優越性や自尊心を支えるもう一つの柱を失うことになる。
いずれにせよ、統治の都合で「歴史」が編纂されてきたわけで、その背景を失って単なる事実としては
存立し得ない。
多くの日本人が古代史に関心を寄せるのも、編纂された歴史の完成度が低く、真実を知りたいという
探求心が芽生えるからであろう。
日本人が古代中国と古代韓半島からの移民の混血であったとしても、失うものなど何もないのだが、
そんなことはないと強く否定するする人々が多いのも事実で、そこに「歴史」の有用性が証明されている。 縄文文化など縄文土器くらいしか残ってないから弥生人から見たら完全な知恵遅れの
劣等民族にしか思えんかっただろう。だから縄文人の少ない西日本で人口を増やした
弥生人は東日本にも勢力を伸ばして最終的には列島を支配した訳だ、縄文人の男は
みなごろしにされて女はレイプが本能になっている朝鮮系弥生人から犯されまくったんだろう。 >>189
暴力で云々ではなく平和的に混じったって感じっぽいけどな
東北はそうではないがw >>190
東北だけが特別な訳ないじゃん。渡来人は西から東へ、原住民を征服しながら侵攻したのだろう。原住民達は、あるものは北へ東へ移動し、あるものは取り残され部落を形成した。 南関東と畿内の日本国内人口シェア
縄文早期8100年前 南関東35.8% 畿内 0.5%
縄文前期5200年前 南関東28.6% 畿内 0.4%
縄文中期4300年前 南関東27.4% 畿内 0.2%
縄文後期3300年前 南関東21.7% 畿内 0.7%
縄文晩期2900年前 南関東 5.0% 畿内 1.1%
弥生時代 200年 南関東10.0% 畿内 5.1%
奈良時代 725年 南関東 9.4% 畿内10.1%
平安遷都 800年 南関東 9.4% 畿内10.4%
平安前期 900年 南関東11.3% 畿内 8.1%
平安末期 1150年 南関東13.0% 畿内 7.3%
関ヶ原合戦1600年 南関東10.6% 畿内18.6%
享保改革 1721年 南関東12.6% 畿内 8.6%
寛政改革 1792年 南関東11.6% 畿内 8.1%
明治維新 1873年 南関東10.7% 畿内 6.1%
明治23年1890年 南関東11.7% 畿内 6.7%
大正 9年1920年 南関東13.7% 畿内 7.9%
昭和25年1950年 南関東15.6% 畿内 7.7%
昭和50年1975年 南関東24.2% 畿内10.5%
平成 7年1995年 南関東25.9% 畿内10.2%
平成17年2015年 南関東31.9% 畿内 9.9% >>147
沖縄県人は本土人とほぼ同じということが分かっている
アイヌはいくつか系統があるが、
一部は純粋な縄文人の子孫であると見られている
沖縄人が日本人ではないという主張は大陸系
昔からシナが欲しがっているから
遺伝的には、ほぼ日本人と言っていい
むしろ朝鮮に進出して大陸に近づく前の純日本人だよ >>188
いや、遺伝的には同じでしょ
すでに出ている
それどころか、弥生人と縄文人が同じである可能性すら出てきている >>189>>190
おそらく違うと思う
最近の研究で、縄文時代の遺跡から弥生人の遺伝子を持った人骨が発見された
骨は縄文時代なので縄文人
っていうことは・・・w
おそらく縄文時代〜弥生時代は小規模な戦闘が繰り返されていた
その間に渡来人との交配も進んだと思われる
遺伝子がほぼ同じになって、大和朝廷が最初の統一を完成させた
そこから「日本」が始まる
いきなり日本を「平和」にしてしまうと、
魏志倭人伝の倭や大和時代までの豪族の勢力争いなどと連続しなくなるのではないだろうか? 日本が昔から大陸よりさらに端の方にある田舎だということだけは認める
実際、現代もそうだしw 韓半島からの渡来人に文化を学んだ縄文人は種まきを覚えたかも知れないし、
混血すればするほど優秀な頭脳になるから
農耕と呼べるレベルまで発達したかもしれない。
いずれにしてもその鍵は、渡来系弥生人との距離如何だよ。
けっして縄文人の自発的な発明ではない。 >>198
wwww
縄文人は馬鹿だということにしたいニカ? 縄文人は石とか木の道具を使うだけでしたが、
渡来人はなんと石が含有する金属を鋳溶かして
金属製の農具を考案するという農業革命を起こしたのです。 >>200
それ中東からの輸入品www
本当に知能が低いんだね日本以外のアジア人ってw
農業、輸送、貨幣を独自に発明した縄文人
非常に生産、経済などに優れていたが、
なにせ人口が小さいのと端の田舎だったため、
ガラパゴスな状態で発展しなかった
一方、シルクロードを通じて、世界最先端の文明を中東、インドから輸入していた中国
中国固有の文化と融合し、日本へ到来
一部、朝鮮半島を経由したと思われるものもあるが、
なぜか日本より有利な位置の朝鮮半島では文明は根付かなかった
一方、独自文化と渡来人による最先端の文明を融合させ発展し続けた日本民族
そして室町時代、南蛮人(西洋人)の到来と共に発展の速度をどんどん加速させた
その後伴天連追放後の鎖国時代になっても発展の速度は緩まず、
世界最大の農業大国へと変貌した
一方で幕藩体制が限界に達した日本は、東側から来た西洋人、
黒船ペリーによって開国を促されることになった
これより日本は新しい近代という時代へと大きく動いていくことになる
現代日本はノーベル賞、フィールズ賞などアカデミックな分野で世界的な賞を量産、
文字通り文明の頂点の一角を担っている
これが交配した縄文人の姿
一方、ピュアアジア系()の方々は・・・w ゴマだのヒョウタンだのの栽培植物が出土してるんだから議論するまでもなく
農耕してたのは明白なんよ
ただ日本人はずっと水田稲作を特別視してて農耕=稲作だったから
縄文は農耕なしということになってたの >>202
>ずっと水田稲作を特別視してて農耕=稲作だったから
確かに とうほぐの縄文時代が終わったのって1900年代に入ってかららしいな
おしんの幼少期の時代 三内丸山の六本柱は現在も各地神社で行われてる柱祭祀が縄文起源と推定できる証拠なのよ
あーゆーでかいシンボル造りたがるのはヤマト民族 三内丸山遺跡も江戸時代の村の後かも知れないしな
とうほぐは発展が遅れているから江戸時代でも土器や石器が生活必需品だった可能性が高い 米や麦のように環境を大きく壊す農業はしなかっただけ
栗や豆類
労せず育つ作物は当然縄文人は育ててた
弥生人やその後の渡来人達が水田を持ってきて
日本の食性を米中心に強制した >>44
で、紀元前3300年から2900年までの間に関東に何が起きたのか
イカレポンチの関東人は納得の行く説明ができるわけ? 東南アジアとの交流はあっただろうな
南米のアルゼンチンあたりで日本の土壌で作られたらしい
縄文式土器が見つかったとか聞いたことがある 弥生人というのは古代中国の春秋戦国時代に戦乱を避けて大陸から日本へ渡来してきた人たちらしい。
彼らは現在の九州へ上陸して稲作をしながら当時の原住民の縄文人を駆逐しながら次第に居住地域を広げていった。
これが神武東征のモデルとなった。 >>211
戦争難民が日本列島で征服者になれるわけがない。
ヨーロッパで起きていることと同じで大陸から受け入れた難民(弥生人)の人口が自然増したのが実態。
弥生人が大陸から疫病を持ち込んだことで、縄文人が減少した可能性はある。 >>211
>春秋戦国時代に戦乱を避けて大陸から日本へ渡来してきた
どんな船で何人ぐらい来たんだろうね? 奴隷民が国をのっとってしまう例はジャマイカがあげられる。
アフリカ黒人は征服者としてジャマイカ島にやってきたわけではない。 >>211
戦乱で移住した人もいたろうが、日本語と中国語は言語体系が違うから中国人が制覇して大和になったのではない 弥生人が征服者として日本に来たならば、敵となる南九州や山陰・土佐を制圧した形跡がないのは不自然である。
弥生人は有力な縄文人地主に稲作の労働力として導入された小作人とすればすべて説明できる。
数多くの小作人(弥生人)を使役できた縄文人の中から各地で王が台頭してきて、ヤマトが形成された。 この古代史となるとすぐに渡来人渡来人とかいう奴のアホさときたら >>217
いいなその説
縄文系のプライドも満たせるし 実際渡来人のもたらした物は大きいよ
先住民が独自に進歩するよりはるかに大きく早い これいつまで縄文人と弥生人を分けているのだろういい加減定義廃止した方がいいよ
現にDNA解析で同じ人と分かってきてるからな 単純だけど縄文系の方が人間として世界基準だわ
弥生系は寒冷地対応が変な方に進んだ欧米人から
見たら典型的なダウン症顔なんでしょ
俺は一重直毛の典型的な弥生顔だけど友人の縄文ぽい
顔は素直に羨ましい 弥生人が征服者だったとすれば、縄文人の反乱を抑えるために多くの軍事力が必要になる。
まるで北九州からつまみ食いするように分布する弥生人の痕跡は、弥生人が征服者ではなく小作人だったことを示している。
後世の人間がドイツやフランスにムスリムが多いことを考古学的に説明した場合、
ムスリムがフランスやドイツを征服した結果である、などという馬鹿げた結論は出さないだろう。 縄文土器とかの呼称はなんか失礼な感じがする、諏訪湖近辺や新潟近辺で見つかる土器は、縄文というより素晴らしい「装飾文」土器。 つかなんか知らんけど「縄文人」「弥生人」とか言う別人種の入れ替わりが起こったかのような珍妙な事言ってる奴が多いよな
挙句なんの根拠か知らんけど「耳垢が湿ってる」だの訳の分からんことを上げて違うとか言い張ってるし
誰がこの馬鹿話を広めてるんだかね >>226
青森や宮城の遮光土器もかなりの物じゃない?
俺はあれ見て縄文のイメージ変わった 糞をしたところの植物がよく育つことを発見したご先祖1号が関与している。 未開の縄文人が住んでいる土地に、ある日突然「進んだ文化を持った弥生人」がやって来た、
という、これまで教え込まれていたのが違うんだろうな。
こういうことを言うのは、考古学者にはあんまりいない。
なんでかというと、そんなくっきりした区別がつく遺跡なんてないから。
どこも、「縄文の流れを引いたものにプラスして少し新しいものが交じる」
縄文と弥生の区別なんてどこにあるのかわからない。
縄文遺跡から、たくさんの栽培植物の種が出てくる。
文化はすべて高い方から低い方へ一方的に流れるのであり、世界の文明の中心・発祥は地中海!
という欧米の価値観に洗脳された学者には真実は見えない。
そこに栽培植物があっても、見なかったことにしている。
大豆は、東アジア原産だが、もしかすると日本で改良された植物かもしれんらしい。
洗脳された学者は、そんなことは考えもしない。全く科学的ではない。
土器も世界最古で、もしかすると大豆も栽培してたかも知れんが、日本が最古とか
日本で始めた農耕があってはならないのだろう。
うるしもどっかから「伝わった」w
日本には、「すべてどこかから伝わった」ww
世界には「黒土地帯」ってのがあって、そこは古くから農耕をやってた土地だ。
日本だけは、やっていないことにされてるけどな。 >>189
縄文遺跡の展示を見たことがないのかな。 縄文人が稲作技術を導入した時期と小作人(弥生人)を導入した時期が比較的近いせいで、
まるで弥生人が稲作技術を持ち込んだかのような錯覚が生じているに過ぎない。 まず、最初の弥生遺跡と言われる菜畑遺跡では
「弥生土器や新しい農工具とともに【従来の縄文土器が使われている】」
外国人が来たというなら【全部外国の物になる】のが当たり前
なぜなら土器は買う物ではなくて自分で作って使う物だから
なんで敢えて外国の使い慣れないものに一部変更する必要があるのか
そしてこれは弥生の遺跡全般に言えることで他遺跡でも縄文の従来道具と新式の道具を併用してる
極稀に外国の道具オンリーの場所などがあるが、これが逆に「外国人がそのまま住み着いたらこうなる」というケースとなり他との違いがはっきり分かる
つまり、今までなかった道具を縄文人が受け入れて使ってるだけの事なのが分かる
弥生と縄文の違いは「縄文人が新式の道具を受け入れた」という技術的な変化ということなのが明確 >>191
その渡来人って何?騎馬民族?
じゃあさ、その人らがやって来たところと言葉や遺伝子が同じじゃないとおかしいよね。
どこなの?
英語とドイツ語でさえすぐに関係が分かるんだよ?
おんなじくらい近い言葉がないとおなしいよね。 弥生人っぽい顔だちの方々の自尊心を傷つけるようで申し訳ないが、弥生人とはただの小作人である。 そして弥生式の土器
いゆわる、遠賀川式土器という奴は九州から離れて東へ伝播していくわけだが、この過程において【ドンドン在地の土器の特徴を受け入れて変化している】
これがどういうことかというと「征服者のヤヨイジン」とやらが東へ進んでいくなら土器もそのままの形で移動していくはず
征服者の生活スタイルがそのまま広まっていくわけだからな
ところが原型をとどめないくらい在地の影響に染まって変化していく
そしてそれ以外の古い道具は従来の縄文土器のまま
これはつまり
征服者がどうのじゃなくて新しい技術だけがどんどん模倣されて東伝してることを意味してるわけだ
弥生と縄文の違いは「江戸と明治」の変化のように文明の受容でしかないのが分かる >>68
水田はそうだけど、畑は違うよ。
うちの地域の畑で、灌漑設備がしてあるのはないよ。
水が引けないから畑のままなんだよ。 >>185
だから、山裾の谷田から始まったのだろうな。 あと人相についてよく言う人が言うがこれも違う
硬いものを食って歯がすり減り、歯がなくなると飢えて死ぬという過酷な縄文の生活から、多少なりとも計画的に食料が得られる弥生時代になった
これは劇的な生活様式の変化だと言える
このような状況下において人相が変わるのなんて当たり前
例えば江戸時代の将軍の骨と、町人の骨は同じ人類と思えないくらい違っている
将軍は柔らかい物ばかり食べて顔が見てわかるくらい長く、顎が未発達だ
逆に町人は固いものを食うので顔が四角く張っている
「同じ時代の同じ町の人間」でさえも生活の違いで別生物の勢いで顔が変わる
現代と親世代、さらにはその前の明治時代の100年でさえも大きく違うだろう
弥生と縄文で顔や風体が違うことに根本的な違いを求めるなどナンセンスと言わざるを得ない >>236
それが正しいかもね、中東地域からヨーロッパへの
農業の伝播と調べるとアナトリアや旧ユーゴ辺り
まではある程度遺伝的な移動とリンクするけど
中欧から西欧にかけてはほぼ技術の伝播だけに
なるから いつまで人種の違いを強調したいのかね。
栽培法知れば縄文人だって稲作やってんだろ >>228
あれは稚拙とは程遠いですね。遮光土偶のいいものは造形といいバランスや緻密さなど高い精神性を感じましす。土偶の硬度などは専門家でもとても真似できないと聞いたことがあります。弥生に移行した途端、技術が小学生レベルに落ちたのか謎です。 大陸は先進地域だが、朝鮮半島は先進地域ではない。
中国人や和人が交易で朝鮮半島を中継基地にしたことはあったが、朝鮮半島に豊かな独自文化が育まれることはなかった。 >>234
てゆーかそもそもチョッパリ語って存在しないじゃんwww
縄文語というのがあったのなら是非ともご教示願いたいね
そこらへん偉大なる大韓はもとより大中華にいたっては
北京原人すら言葉をしゃべってたからね。うぱぁ
ソースは北京原人who are you
wwwww >>235
で?
その小作人に知能で圧倒され立場逆転されてどう思った? あと、遺伝子
「父親から息子」と伝わる男系の遺伝子「Y染色体」を日本人は大昔の日本に人類が来たばかりの形質を色濃く維持している
Y遺伝子というのは征服されたら戦争で死んだり、子供を残せなかったりして消えていく傾向がある
大陸などは古いタイプの遺伝子は完全に消滅してしまっている
日本はその動きが見えない
地域によっての濃淡はあるがこれは日本が征服など受けることなく、原始の時代から大きな人種の変容を迎えることなく今に至ってることを意味している
このことからも征服者ヤヨイジンとやらが日本を征服して塗り替えたなどという話は成り立たないのが分かる >>244
言葉って親が子供に伝え、その子供がまた伝えてゆくものだから、基本は何千年たっても変わらないでしょ。征服されて別の民族に置き換わったら別ですけどね、でもその仮説はことごとく否定されてるでしょ。 >>246
日中韓の三国はそのY遺伝子でもよく似通ってるじゃん 縄文も大陸から渡ってきてるし
弥生も同じだろ
こんなどうでもいいことに金使わねえで
九州の遺跡を調査しろよ >>12
縄文時代に陸稲があったと
考古学会は沸き立って
そのあと一生懸命頑張って調べたけど
精度が上がった最新の研究でも確かな痕跡が出てこないので
今は懐疑的な状態 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています