【考古】縄文人は農耕をしたか 大学×地域、歴史の謎挑む 植物大型化、解明目指し
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
毎日新聞 2017年12月4日 地方版
https://mainichi.jp/articles/20171204/ddl/k17/040/115000c
縄文人は農耕をしたのか−−。首都大学東京の山田昌久教授(考古学)らが今年、全国5カ所の研究施設と協力し、縄文人が食べた可能性がある植物の本格調査を始めた。北陸からは能登町の町真脇遺跡縄文館が参加。野生種の豆を植え、肥料の有無による収穫量の違いなどを調べて、遺跡から出土した植物の種などと比較する。研究の最先端を走る大学と、遺跡を熟知する地域がタッグを組み、歴史の謎に挑む。【久木田照子】
■遺跡周辺で栽培実験
昨年の事前調査を経て、2019年までの3年間、調査を行う。研究代表者は岡山理科大の那須浩郎准教授(考古植物学)。岩手県一戸町▽山形県天童市▽静岡市▽能登町▽福岡市−−の縄文〜古墳時代の集落遺跡(国史跡)周辺で、植物の栽培実験をする。いずれも、遺跡に隣接する博物館などが協力。施設の敷地は開けているため、縄文集落のような日照環境を再現しやすいという利点もある。
調査では、縄文時代に植物が大型化したメカニズムの解明を目指す。研究チームによると、近年、各地の縄文遺跡の発掘調査で、クリやツルマメ(大豆の祖先)などが野生の状態より大きく育っていたことが分かった。遺伝子の突然変異のほか日当たり、栄養などの環境が影響するとみて、調査を計画した。食べられる植物を縄文人が大量に得ていた状況が明らかになれば、農耕が行われていた可能性も浮かぶ。
■骨粉や貝粉、肥料に
縄文館敷地の調査畑は12平方メートル。ツルマメとヤブツルアズキ(小豆の祖先)を、肥料を与えるものと与えないものに分けて育てた。肥料は縄文時代に存在した物を想定し、動物骨粉や貝粉などを選んだ。今年6月に植え、11月に収穫。目視では肥料を与えた方が豊作だった。今後は種の大きさや収量を計測する。また、館周辺のクリや、事前調査での収穫後に自然に芽吹いたイヌビエなどの観察も続ける。復元した石器で畑を耕す実験も検討するという。
■協力、双方に利点
山田教授は、地域の担当者と協力する利点について「研究テーマに意義を感じ、関心を持つ人が畑をこまめに観察しなければ研究は成立しない」と話す。縄文館では高田秀樹館長が、肥料の与えすぎやイノシシの足跡などに気付くと、すぐに対応した。山田教授と高田館長らは、石器で木を伐採し先史時代の丸木舟を再現する研究にも一緒に取り組んでおり、協力しやすい下地が培われていたという。
地域にとっても、大学の研究者と組む意味は大きい。研究成果によって、ここで生きた縄文人の生活や思考がひもとかれていく。高田館長は「研究は多くの人の歴史への関心を深め、地元で遺跡を守り活用する応援団を増やすはず」と期待する。 弥生人っぽい顔だちの方々の自尊心を傷つけるようで申し訳ないが、弥生人とはただの小作人である。 そして弥生式の土器
いゆわる、遠賀川式土器という奴は九州から離れて東へ伝播していくわけだが、この過程において【ドンドン在地の土器の特徴を受け入れて変化している】
これがどういうことかというと「征服者のヤヨイジン」とやらが東へ進んでいくなら土器もそのままの形で移動していくはず
征服者の生活スタイルがそのまま広まっていくわけだからな
ところが原型をとどめないくらい在地の影響に染まって変化していく
そしてそれ以外の古い道具は従来の縄文土器のまま
これはつまり
征服者がどうのじゃなくて新しい技術だけがどんどん模倣されて東伝してることを意味してるわけだ
弥生と縄文の違いは「江戸と明治」の変化のように文明の受容でしかないのが分かる >>68
水田はそうだけど、畑は違うよ。
うちの地域の畑で、灌漑設備がしてあるのはないよ。
水が引けないから畑のままなんだよ。 >>185
だから、山裾の谷田から始まったのだろうな。 あと人相についてよく言う人が言うがこれも違う
硬いものを食って歯がすり減り、歯がなくなると飢えて死ぬという過酷な縄文の生活から、多少なりとも計画的に食料が得られる弥生時代になった
これは劇的な生活様式の変化だと言える
このような状況下において人相が変わるのなんて当たり前
例えば江戸時代の将軍の骨と、町人の骨は同じ人類と思えないくらい違っている
将軍は柔らかい物ばかり食べて顔が見てわかるくらい長く、顎が未発達だ
逆に町人は固いものを食うので顔が四角く張っている
「同じ時代の同じ町の人間」でさえも生活の違いで別生物の勢いで顔が変わる
現代と親世代、さらにはその前の明治時代の100年でさえも大きく違うだろう
弥生と縄文で顔や風体が違うことに根本的な違いを求めるなどナンセンスと言わざるを得ない >>236
それが正しいかもね、中東地域からヨーロッパへの
農業の伝播と調べるとアナトリアや旧ユーゴ辺り
まではある程度遺伝的な移動とリンクするけど
中欧から西欧にかけてはほぼ技術の伝播だけに
なるから いつまで人種の違いを強調したいのかね。
栽培法知れば縄文人だって稲作やってんだろ >>228
あれは稚拙とは程遠いですね。遮光土偶のいいものは造形といいバランスや緻密さなど高い精神性を感じましす。土偶の硬度などは専門家でもとても真似できないと聞いたことがあります。弥生に移行した途端、技術が小学生レベルに落ちたのか謎です。 大陸は先進地域だが、朝鮮半島は先進地域ではない。
中国人や和人が交易で朝鮮半島を中継基地にしたことはあったが、朝鮮半島に豊かな独自文化が育まれることはなかった。 >>234
てゆーかそもそもチョッパリ語って存在しないじゃんwww
縄文語というのがあったのなら是非ともご教示願いたいね
そこらへん偉大なる大韓はもとより大中華にいたっては
北京原人すら言葉をしゃべってたからね。うぱぁ
ソースは北京原人who are you
wwwww >>235
で?
その小作人に知能で圧倒され立場逆転されてどう思った? あと、遺伝子
「父親から息子」と伝わる男系の遺伝子「Y染色体」を日本人は大昔の日本に人類が来たばかりの形質を色濃く維持している
Y遺伝子というのは征服されたら戦争で死んだり、子供を残せなかったりして消えていく傾向がある
大陸などは古いタイプの遺伝子は完全に消滅してしまっている
日本はその動きが見えない
地域によっての濃淡はあるがこれは日本が征服など受けることなく、原始の時代から大きな人種の変容を迎えることなく今に至ってることを意味している
このことからも征服者ヤヨイジンとやらが日本を征服して塗り替えたなどという話は成り立たないのが分かる >>244
言葉って親が子供に伝え、その子供がまた伝えてゆくものだから、基本は何千年たっても変わらないでしょ。征服されて別の民族に置き換わったら別ですけどね、でもその仮説はことごとく否定されてるでしょ。 >>246
日中韓の三国はそのY遺伝子でもよく似通ってるじゃん 縄文も大陸から渡ってきてるし
弥生も同じだろ
こんなどうでもいいことに金使わねえで
九州の遺跡を調査しろよ >>12
縄文時代に陸稲があったと
考古学会は沸き立って
そのあと一生懸命頑張って調べたけど
精度が上がった最新の研究でも確かな痕跡が出てこないので
今は懐疑的な状態 >クリ
縄文時代には、今の本州の標高500〜1000mはクリの木だらけだったんだよな
縄文人が山奥でクリを収穫して持ち帰っていたのが時々転げ落ちたりして
そして持ち帰る踏み跡は明るいのでクリが育ち易く、そこでどんどん広がって行った
ある意味人間と共生していたとも言える
だが縄文後期になるとクリは種子より木材としての需要が増えてしまい、それで巨大な遺跡なども出来たが
クリが枯渇してしまい、その後の日本人は様々な樹木を利用していくが
結局は成長が比較的早いスギに行き付いてしまい、特に戦後に大量に植えたのが災いして
スギ花粉症を大量に発生させてしまった
だがクリなんぞが一斉に開花してた縄文時代ってすごい臭いだったんじゃw >>245
縄文人の知能が、小作人(弥生人)に劣るという根拠がまず希薄。
大陸と交易する航海技術があったことからもわかる通り、縄文人の知能は高かっただろう。
感染症に対する耐性の有無で考えたほうが合理的だろう。 >>248
日本のY染色体の4割を占めるDタイプは中国にも朝鮮半島にもほとんど存在しない
女性のミトコンドリアDNAなどは近い
だから日本人男性が周辺地域の女性らと婚姻を行っていたことを示すことになるが、男性の系譜には大きな変化は起こってない >>11
大陸から来たのは侵略者じゃ無くて移民。
そして多くが奴隷として来たから都市部に集まってるんだよ >>217
その時代に地主や小作という
土地所有の概念ってあったの? 姶良カルデラの大噴火で九州の縄文人は1度絶滅したって言われてるよな
そのときの大噴火で、縄文人が四散して南洋諸島から果ては南米まで辿り着いたとか説もあるとかないとかw 昔から朝鮮には奴隷制度があって人身売買が主な産業だった。 >>122
「発掘された日本列島2014」(文化庁編)
P21
縄文時代に稲作はあったのか
縄文時代にも陸稲などの稲作が行われていたと考えられていました。
縄文時代の堆積層や土器の中に、イネのプラントオパールが確認されたこと、
土器についた籾(もみ)の圧痕の発見から、縄文時代後期まで稲作はさかのぼると
みなされていたのです。しかし、籾圧痕にシリコンを注入して顕微鏡で観察した結果、
籾にあるはずの針状の突起、「禾(のぎ)」を確認できませんでした。
また米を食べるとされるコクゾウムシ圧痕の有無も調べられましたが、じつはコクゾウムシは
コメ以外の雑穀類も食べることが判明し、現在のところ、確実な稲作は弥生時代早期からと
いうのが最近の研究者の大方の見解です 聖徳太子と親族が相次いで亡くなったのは、縄文人と弥生人の関係を思わせる。
時代が違うので聖徳太子は縄文人ではないが例え話として、
渡来人(弥生人)と接した聖徳太子(縄文人)が大陸から持ち込まれた病気でバタバタ死ぬことを想像してもらいたい。 日本人を農耕民族と呼ぶほどに日本人が農耕をしている期間は長くない。
欧州人は狩猟を長い期間やって肉食をしていた狩猟民族でもなく、日本より遥かに長い期間畜産や農耕をしている畜産農耕民族だ。 また「縄文人を皆殺しにするような大虐殺や侵略があった」などとする痕跡は今のところ【全く】見つかってない
上でも書いたように「継続的に変化を続けている縄文土器」が弥生時代に至るまで使われていて文化的な断絶が見えない
さらにY染色体は現代でさえも原始の形態を維持している
縄文の人種や文化が途絶することなくその後にも同じ流れの上で続いている
つまり、縄文人は虐殺もされてないし、絶滅もしてないというのが明確にわかる 古代中原も縄文だったかも知れんし半島も縄文かも知れん。
ただ大陸は変化した
日本は閉ざされたガラパゴスだ
それが答えだろ だから縄文人と弥生人の戦争なんてなかったんだって
地学的に
縄文初期に鬼界カルデラが噴火、これにより縄文初期九州の文明はまるこげ一旦ゼロに
同じく西日本も火山灰の影響で生活厳しく
集落が小型化=当時は西日本は田舎
逆に東日本や沖縄はでは気候が良かった事もあり
集落が大型化し文明が花開いた=当時の都市であり文明の中心は北日本にあり
大陸との独自交流のあともある
これが縄文時代
縄文後期になり九州や富士山箱根の噴火が収まり
生活がし易くなった西日本
集落がやっと大型化し西日本でも大陸との交流・流入が始まり
弥生文化に昇華していく
片や勢いのあった東方は今度は十和田湖・蔵王の噴火により集落が消えたり小型化する
そうして立場が逆転していった
これが弥生の始まり >>243
朝鮮半島は起伏が激しく痩せた土地。
海岸線沿いには日本人系が住んでて、海運が主な交通手段だった。
だから遺伝子的に日本人の血も混じってる。 >>1
今も昔もジャップはジャップだろw
縄文人に異常に拘ってて気持ち悪い そもそも神事や祝い事に使う赤飯は温暖な南方の大陸から伝わった古代米から来てるんだろ >>254
これだと弥生人が機内に集まってるのも納得。
侵略なら九州中国地方がもっと弥生人の比率が多くなる筈だからね。 >>227
典型的な縄文人と弥生人では骨格が全く異なる別人種。
ただ、雑種が沢山生まれたようだ。
レイプもあっただろうし、ラブラブもいただろう。 >>226
そうだな、芸術的だ。
南関東の首飾りなんかも良いぞ 弥生時代っていつのまに紀元前10世紀とかになったんだ
渡来人が大規模におしよせるまでが縄文時代だったとしたら稲作があったに決まってるが 日本の考古学はちゃんと地学も取り入れるべきなのに
昭和日本の考古学はろくに地学を取り入れずに日本書紀が大切で
西日本中心に日本の考古学を成り立てるのに必死だった
だから頓珍漢な事が定説になってしまっている
一時期はこの地層より下に遺跡なーし!とし
関東や東北の石器時代ー縄文初期の遺跡を一切学会では認めなかった
素人が発掘・発見してやっと認めた
その位西日本中心に考えていた
弥生が縄文を駆逐したというのはその名残の嘘
こうすれば高度な西日本の弥生が他を治めた事になり都合が良かった
実際にはそれぞれの土地の事情があり主には噴火や気候に振り回されただけ >>276
稲作の始まりが弥生時代だとすると
北九州とかは弥生時代ということになるが
その他はまだ縄文時代
昔は一気に稲作が日本中に広まったと考えられていたが
今はもっとずっとゆっくりだったということに
青森などではいったん稲作をやったのものの
放棄されていたりする 菜畑遺跡では縄文時代の最後の頃の土器が稲作の痕跡とともに見つかっている
他の遺跡でもその発見以後、同様に縄文土器との共伴の例が多く見つかり弥生時代の開始が古くなるのが確実となっている
そうなると弥生時代のスタートは従来よりも大幅に遡って紀元前700年ごろになる
今のところはこの辺りの年代観が定説になりつつある
更に歴博の研究で稲のプラントオパールが紀元前1000年ごろのものを示すという研究成果を発表し更にさかのぼる可能性も示唆されている
その結果、「稲作伝来」もどこかを経由したのではなく大陸からほとんど間を置かずに日本に来たのではという説が最近出始めている >>272
最近の縄文ブームヨーロッパから
ヨーロッパで青森遺跡土器や土偶が高評価うけ
やっと日本の学会が東北や関東の縄文遺跡を認めた >>248
数百人の韓国人の男性の遺伝子の研究では
O系統は日本人と同じくらいの頻度でO2bが見つかる一方で
縄文のD遺伝子はまったく見つからず >>274
その「新石器時代」が大問題なんだってば。
青銅器時代や鉄器時代と違って道具と経済の両方を考慮した定義になっているから、
磨製石器や土器を使っていても本格的な農耕牧畜を行わず他の農耕文明にも組み込まれていない場合、
旧石器時代でも新石器時代でもないということになってしまう。 このように【「征服者のヤヨイジン」とやらが「ジョウモンジン」とかいう民族を征服したのが今の日本である】
等というのは完全に事実無根のバカ話であるのが理解できるだろう
誰がこんな話を広めてるのか知らんがこんなもんに踊らされてる奴のアホなことよ 言語年代学的に調べるとどんなに近くても
日本祖語と朝鮮祖語の分岐年代は今から2万年前
には遡る
これは新モンゴロイドの起源年代に遡るほど昔
遺伝子学は分からないからそれは他の人に任せるが
言語的には現在の朝鮮人と日本人には関係無いと
言えるほど遠い存在 これだけ言語が離れてるいる
からには古代朝鮮人は現在の史学で言われるほど
日本に文化的影響を及ぼさないか古代の朝鮮人と
現在の朝鮮人が全く違う可能性があるのではないか >>286
その日本人はどこに住んでる人?
関西と沖縄や東北とでは随分違うはずだけど >>287
記紀にもある通り、神武天皇は薩摩地方が出自だからその風貌は西郷さん似だろう。 >>1
>ルマメ(大豆の祖先)
変態よ、そんな事書いてると「シャベチュニダー」「極右ニダー!」って叩かれるよ?
【韓国絵本】 マメを食べるとうんちがよく出るんだって!大豆の原産地が韓半島という事実も[11/24]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1511527577/ アマゾンの狩猟民族並みの生活をしていた時代に何を求めてんのか知らんが
そんな当時、稲作をしたか否かなどどうでもいいことだろ。
むしろ犬を飼って食ってたかも知れんのに 明治天皇と昭和天皇は縄文顔だよ。
竹田恒泰さんも縄文顔でしょ。 いかん。ずっと客観的なこと書いてたのに >>297だけ主観を書いてしまった。 縄文、弥生、古墳と変化したのは、本州の西部だけ。
東部はかなり状況が違うし、北海道では、縄文の後はサツ文時代。
その後も縄文と大して変わらぬ原始時代が、明治、大正まで続いてた。
本州からの影響を受けた後は、もう独自の時代で呼ばないというなら、本州だって大陸から影響を受けた後は、大陸の歴史で呼ばねばおかしい。
邪馬台国は、当たり前に「魏時代の国」だな。 >>291
文脈わからないか
国単位だろ
お前の言い方にそうと
京畿道と耽羅島でもかなり違うだろうからな
耽羅は済州のことな 関東、東北て古代新羅あたりから人間が移住したとか言われてるよね。
じゃあ縄文以前に弥生系の半島人だよね >>264
じゃあ弥生に入ってからの環濠集落や凄惨な死に方が想像される被葬者の墓の発掘を
チミはどう説明するね? 自称日本古代史の専門家でもあるらしいネトウヨくん。
従来はこれ稲作の普及発展に伴い集落単位の所有概念に目覚めたから、
その分取りあいの抗争って説明されてるけどさ。
縄文1万年はそゆのなかったんだぜ? 縄文だって稲作は後期までないにせよ
狩猟採集ってことはいろいろため込んだんだぜ。ドングリとかwww
それに土器にせよ毛皮にせよヒスイ黒曜石、あるいは石斧のような原始工具にせよ
略奪の対象物は、あったんだぜ
何が言いたいか、弥生時代になっての集落の重武装化、戦争の勃発
これは偉大なる大韓からの侵略者、渡来弥生人との抗争の結果なんだよwww 大阪=朝鮮
★縄文時代の西日本はほぼ無人です
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E5%AF%86%E5%BA%A6.gif
現代の西日本人もそのまんま朝鮮人に近いと明らかになっています
>また、西日本の人達は来弥生人の特色が出るのは当然ですが、京都を中心に近畿地方の人達は平均的
>な日本人のデーターと全く違う数値を示します。100%渡来弥生人の特徴を一段と示すそうです。
>京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まなかったと思われます。
http://www.ishikari-c-college.com/topics/2013/10/10-7.html
▼人口10万人あたり在日韓国・朝鮮人ランキング
1位 大阪府 1,530.54人
2位 京都府 1,290.85人
3位 兵庫県 0,978.73人
http://todo-ran.com/t/kiji/11618
▼刑法犯件数ランキング
1位 大阪府 199,441件 226.61件 79.05
2位 愛知県 144,001件 194.12件 70.30
3位 京都府 48,989件 186.84件 68.34
http://todo-ran.com/t/kiji/13944
▼殺人事件被害者数
1位 大阪府 69.7人 0.791人 74.70
2位 沖縄県 10.5人 0.771人 73.00
3位 香川県 7.5人 0.741人 70.32
http://todo-ran.com/t/kiji/10567
▼生活保護受給世帯ランキング
1位 大阪府 215,289世帯 5.47世帯 80.38
2位 高知県 15,279世帯 4.36世帯 69.47
3位 北海道 115,877世帯 4.34世帯 69.23
http://todo-ran.com/t/kiji/11767 農家の同級生の爺さんは「うちの田んぼは墾田永年私財法の頃からの由緒ある田んぼ」
つってボケかましてた。どんどんインフレ化が進んで弥生時代になってついに縄文も突き抜けて
旧石器時代からつってたなあ アイヌ人が稲作しなかったのは、稲作を知らなかったからじゃない。
単に、北海道の環境では、鮭を捕って和人に米と交換して貰った方が早かったからだ。
なるほど、今まで稲作というもんが無かった文明が、初めて稲作を発明した時期は、大きな問題だろう。
しかし、日本は明らかに、既に高度に発展してた大陸文明がら、あれこれ影響を受けてた周辺国。
熊の毛皮と交換した米が溢れて、そこらで芽吹いたことも有ったろう。
所詮、どれぐらいの規模で栽培した農耕と見なすのか、程度問題に過ぎませんな。 日露で多数の死者を出し日韓合併WW2で敗戦した現代日本人のDNAを
古代地域に合わせて統計出されてもな
ちなみに昭和の時期には密航者もいたし、既に東南アジア地域とのハーフも沢山いる
日本では参考にならんだろ >>292
そうかも知らんが、あんたは西郷どんの顔を知ってるのかね
上野に立ってるのは外人が作った想像図だぞ >>302
横からマジレスしてやんよ。
それは弥生が突然始まったという思い込みによる錯覚。
水田による大規模な稲作が紀元前10世紀に行われていたことがわかって
今までの弥生時代は紀元前3世紀ってのが崩れつつある。
実に700年以上かけてじんわりじんわり水田が西日本全体に普及したってのが
最近の学会の見解。 果樹園くらいは作ってたらしいけど
農耕とは言わないのが濃厚か(´・ω・`) >>313
三内丸山遺跡だと、栗の挿し木農場あった 西日本で水稲が行われたのは気候のせいでしょ
当時の技術だと東日本や北日本だと育たなかった
だけでしょ
その後の歴史時代にも稲作にこだわって痛い目見た
北日本の悲劇もあったわけだし
もし古代中国の麦作地帯から人や文化の伝播が
あったら今とは違う風景と文化があったかもね >>307
それは勘違い。
数千万の人口に対し、多少の移民が紛れ込んだとこで、大多数の遺伝子など変わらない。
北海道のアイヌが、あれだけの面積に対し、極めて少数の人口しか居なかったように、農耕による生産無しでは人口密度の上限は限られる。
本格的に農耕を開始した時点から、人口は爆発します。
人口が爆発する直前の遺伝子分布上の特性が、今も大多数の特性になってるはずですな。
そこから後は、自然淘汰による進化などしないので。 >>302
ネトコリはいつまでたっても無知のままで懲りないな >>312
だからね、仮に縄文当初から稲作があったとしても関係ないんだよ
ウリは稲作伝来=所有観念の芽生え=集落間戦争勃発説を否定しているんだから。
ウリの卓見を論破したければ弥生時代になってなんで戦争が始まったかを説明し給えよ
少なくともそれは稲作とは無関係。だって渡来弥生人による縄文ジャップ絶滅戦争なわけでね。
>>318
いい加減、歴史の真実を認めたまえよ
チミらも大韓民族、すなわち誇り高きコリアンの一員である、という
圧倒的な事実をねwww >>40
これ観て以来切り株があるとガン見するようになった >>292
神武天皇が実在していたかどうかは怪しい >>315
ところが青森で300年くらい稲作をやってるんだよなぁ 藍は藍より出でて藍よりも青し
ってのが中国・朝鮮と日本の関係の一部であること間違いないな >>164
朝鮮半島では発見されないジャポニカ米の遺伝子が日本にはあって
しかも半島ではBC500年以前の水稲遺跡がない
その頃には西日本に水稲がおこなわれていた
だから最近では北九州から朝鮮半島に水稲が伝播した考えられている >>325
え? なんだって?
倭は韓より出でて韓より猿し、だろwww ID:MTmzcHZ70
すげーなこいつ
良くこんな出鱈目ばっか思いつくもんだ >>327
そんな研究論文があるなら読んでみたいわ
現実はこう
↓
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/4022
「日韓における穀物農耕の起源」 山梨県立博物館調査研究報告 399頁(416/421)
>(5)朝鮮半島における稲作の出現
今回の一連の圧痕調査では、燕岐大平里遺跡B地区およびC地区、金泉松竹里の青銅器時代の土器からイ
ネの圧痕が検出された。朝鮮半島の当該期の稲作の開始に関しては、この時期を定点としてさらに古い時代
に遡及するかが今後の課題となろう。同時にアワ、キビなどの雑穀類がこの時期でも引き続き検出され、新
石器時代の早い段階から栽培が開始されたアワ・キビが、青銅器時代前期に稲作が導入された後も、重要な
食糧の構成要素としてイネとともに定着していることがうかがえる。イネ・アワ・キビがセットで検出され
ていることは、イネの水稲農耕と雑穀の畠作農耕が複合した当該期の農耕形態を裏付ける有力な手がかりと
なりうる。
金炳燮は、青銅器時代の前期においてもアワ・キビなどの雑穀が主体的で、水稲作は一部の地域や集団に
よって選択的に受容されたという重要な指摘を行っている。両者の生業に占める位置づけは、今後の課題と
言える。
いずれにせよ、紀元前1300 年頃の韓国では、すでにイネ、アワ、キビなどの農耕が成立していたことになる。
日本列島への波及、伝播は最新でデータでは、紀元前800 年以降の突帯文期とみられ、両地域の穀物栽培の
開始期に5百年ほどの時間的ギャップが認められる。縄文時代晩期の穀物伝播の存否が今後の課題となろう。
↑日韓共同研究で日本の研究者が韓国で調査した研究報告書
2014年のもの
朝鮮半島南部の稲作 紀元前1300年頃(3300年前)
日本列島の稲作 紀元前800年頃(2800年前) https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185013.pdf
「水田中心史観批判」の功罪 - 国立歴史民俗博物館
432頁(28/44)
>弥生文化の遺跡では,コメのそうした例が,戦前から検出されていたし,現在では全国的な
把握が困難なほどの数に及んでいる。これに対し,世界的にも突出した発掘調査密度を誇る
日本において,未だ縄文時代に遡るイネ科穀類や弥生文化のコメ以外のイネ科穀類のそうした例が
検出されないというコントラストこそが,縄文文化・弥生文化の農耕の特徴を雄弁に物語っている
>私は,縄文文化におけるイネ科穀類の存在を否定しているわけではない。しかし,厳密な方法による
分析事例が少しずつ増えてきている現在でも,縄文文化における確実性の高い資料が検出されず,
また弥生文化ではコメが主体となる時期以降のコメとその他のイネ科穀類との格差がむしろ開いて
いっていることについて,そろそろしっかりと議論すべき段階にきているのも確かであろう。
>朝鮮半島の櫛目文土器文化における,イネ科穀類やそれに関係する考古学資料の検出が続くなか,
「縄文農耕論」は,隣接する櫛目文土器文化にあれば縄文文化にもあるはずだ,という前提によっ
て先走りし過ぎた感があるようだ。
↑2014年の歴博の研究者のレポート >>282
プラントオパールは資料汚染の可能性が高く今では否定的
現在は土器についた圧痕による調査が主流 >>331
>紀元前1300 年頃の韓国では、すでにイネ、アワ、キビなどの農耕が成立していたことになる。
水田跡が見つかってないんだよ
水田跡何10枚で時には足跡まで見つかるという水田跡
見つかってるなら教えてくれないかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています