【考古】縄文人は農耕をしたか 大学×地域、歴史の謎挑む 植物大型化、解明目指し
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毎日新聞 2017年12月4日 地方版
https://mainichi.jp/articles/20171204/ddl/k17/040/115000c
縄文人は農耕をしたのか−−。首都大学東京の山田昌久教授(考古学)らが今年、全国5カ所の研究施設と協力し、縄文人が食べた可能性がある植物の本格調査を始めた。北陸からは能登町の町真脇遺跡縄文館が参加。野生種の豆を植え、肥料の有無による収穫量の違いなどを調べて、遺跡から出土した植物の種などと比較する。研究の最先端を走る大学と、遺跡を熟知する地域がタッグを組み、歴史の謎に挑む。【久木田照子】
■遺跡周辺で栽培実験
昨年の事前調査を経て、2019年までの3年間、調査を行う。研究代表者は岡山理科大の那須浩郎准教授(考古植物学)。岩手県一戸町▽山形県天童市▽静岡市▽能登町▽福岡市−−の縄文〜古墳時代の集落遺跡(国史跡)周辺で、植物の栽培実験をする。いずれも、遺跡に隣接する博物館などが協力。施設の敷地は開けているため、縄文集落のような日照環境を再現しやすいという利点もある。
調査では、縄文時代に植物が大型化したメカニズムの解明を目指す。研究チームによると、近年、各地の縄文遺跡の発掘調査で、クリやツルマメ(大豆の祖先)などが野生の状態より大きく育っていたことが分かった。遺伝子の突然変異のほか日当たり、栄養などの環境が影響するとみて、調査を計画した。食べられる植物を縄文人が大量に得ていた状況が明らかになれば、農耕が行われていた可能性も浮かぶ。
■骨粉や貝粉、肥料に
縄文館敷地の調査畑は12平方メートル。ツルマメとヤブツルアズキ(小豆の祖先)を、肥料を与えるものと与えないものに分けて育てた。肥料は縄文時代に存在した物を想定し、動物骨粉や貝粉などを選んだ。今年6月に植え、11月に収穫。目視では肥料を与えた方が豊作だった。今後は種の大きさや収量を計測する。また、館周辺のクリや、事前調査での収穫後に自然に芽吹いたイヌビエなどの観察も続ける。復元した石器で畑を耕す実験も検討するという。
■協力、双方に利点
山田教授は、地域の担当者と協力する利点について「研究テーマに意義を感じ、関心を持つ人が畑をこまめに観察しなければ研究は成立しない」と話す。縄文館では高田秀樹館長が、肥料の与えすぎやイノシシの足跡などに気付くと、すぐに対応した。山田教授と高田館長らは、石器で木を伐採し先史時代の丸木舟を再現する研究にも一緒に取り組んでおり、協力しやすい下地が培われていたという。
地域にとっても、大学の研究者と組む意味は大きい。研究成果によって、ここで生きた縄文人の生活や思考がひもとかれていく。高田館長は「研究は多くの人の歴史への関心を深め、地元で遺跡を守り活用する応援団を増やすはず」と期待する。 そもそも神事や祝い事に使う赤飯は温暖な南方の大陸から伝わった古代米から来てるんだろ >>254
これだと弥生人が機内に集まってるのも納得。
侵略なら九州中国地方がもっと弥生人の比率が多くなる筈だからね。 >>227
典型的な縄文人と弥生人では骨格が全く異なる別人種。
ただ、雑種が沢山生まれたようだ。
レイプもあっただろうし、ラブラブもいただろう。 >>226
そうだな、芸術的だ。
南関東の首飾りなんかも良いぞ 弥生時代っていつのまに紀元前10世紀とかになったんだ
渡来人が大規模におしよせるまでが縄文時代だったとしたら稲作があったに決まってるが 日本の考古学はちゃんと地学も取り入れるべきなのに
昭和日本の考古学はろくに地学を取り入れずに日本書紀が大切で
西日本中心に日本の考古学を成り立てるのに必死だった
だから頓珍漢な事が定説になってしまっている
一時期はこの地層より下に遺跡なーし!とし
関東や東北の石器時代ー縄文初期の遺跡を一切学会では認めなかった
素人が発掘・発見してやっと認めた
その位西日本中心に考えていた
弥生が縄文を駆逐したというのはその名残の嘘
こうすれば高度な西日本の弥生が他を治めた事になり都合が良かった
実際にはそれぞれの土地の事情があり主には噴火や気候に振り回されただけ >>276
稲作の始まりが弥生時代だとすると
北九州とかは弥生時代ということになるが
その他はまだ縄文時代
昔は一気に稲作が日本中に広まったと考えられていたが
今はもっとずっとゆっくりだったということに
青森などではいったん稲作をやったのものの
放棄されていたりする 菜畑遺跡では縄文時代の最後の頃の土器が稲作の痕跡とともに見つかっている
他の遺跡でもその発見以後、同様に縄文土器との共伴の例が多く見つかり弥生時代の開始が古くなるのが確実となっている
そうなると弥生時代のスタートは従来よりも大幅に遡って紀元前700年ごろになる
今のところはこの辺りの年代観が定説になりつつある
更に歴博の研究で稲のプラントオパールが紀元前1000年ごろのものを示すという研究成果を発表し更にさかのぼる可能性も示唆されている
その結果、「稲作伝来」もどこかを経由したのではなく大陸からほとんど間を置かずに日本に来たのではという説が最近出始めている >>272
最近の縄文ブームヨーロッパから
ヨーロッパで青森遺跡土器や土偶が高評価うけ
やっと日本の学会が東北や関東の縄文遺跡を認めた >>248
数百人の韓国人の男性の遺伝子の研究では
O系統は日本人と同じくらいの頻度でO2bが見つかる一方で
縄文のD遺伝子はまったく見つからず >>274
その「新石器時代」が大問題なんだってば。
青銅器時代や鉄器時代と違って道具と経済の両方を考慮した定義になっているから、
磨製石器や土器を使っていても本格的な農耕牧畜を行わず他の農耕文明にも組み込まれていない場合、
旧石器時代でも新石器時代でもないということになってしまう。 このように【「征服者のヤヨイジン」とやらが「ジョウモンジン」とかいう民族を征服したのが今の日本である】
等というのは完全に事実無根のバカ話であるのが理解できるだろう
誰がこんな話を広めてるのか知らんがこんなもんに踊らされてる奴のアホなことよ 言語年代学的に調べるとどんなに近くても
日本祖語と朝鮮祖語の分岐年代は今から2万年前
には遡る
これは新モンゴロイドの起源年代に遡るほど昔
遺伝子学は分からないからそれは他の人に任せるが
言語的には現在の朝鮮人と日本人には関係無いと
言えるほど遠い存在 これだけ言語が離れてるいる
からには古代朝鮮人は現在の史学で言われるほど
日本に文化的影響を及ぼさないか古代の朝鮮人と
現在の朝鮮人が全く違う可能性があるのではないか >>286
その日本人はどこに住んでる人?
関西と沖縄や東北とでは随分違うはずだけど >>287
記紀にもある通り、神武天皇は薩摩地方が出自だからその風貌は西郷さん似だろう。 >>1
>ルマメ(大豆の祖先)
変態よ、そんな事書いてると「シャベチュニダー」「極右ニダー!」って叩かれるよ?
【韓国絵本】 マメを食べるとうんちがよく出るんだって!大豆の原産地が韓半島という事実も[11/24]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1511527577/ アマゾンの狩猟民族並みの生活をしていた時代に何を求めてんのか知らんが
そんな当時、稲作をしたか否かなどどうでもいいことだろ。
むしろ犬を飼って食ってたかも知れんのに 明治天皇と昭和天皇は縄文顔だよ。
竹田恒泰さんも縄文顔でしょ。 いかん。ずっと客観的なこと書いてたのに >>297だけ主観を書いてしまった。 縄文、弥生、古墳と変化したのは、本州の西部だけ。
東部はかなり状況が違うし、北海道では、縄文の後はサツ文時代。
その後も縄文と大して変わらぬ原始時代が、明治、大正まで続いてた。
本州からの影響を受けた後は、もう独自の時代で呼ばないというなら、本州だって大陸から影響を受けた後は、大陸の歴史で呼ばねばおかしい。
邪馬台国は、当たり前に「魏時代の国」だな。 >>291
文脈わからないか
国単位だろ
お前の言い方にそうと
京畿道と耽羅島でもかなり違うだろうからな
耽羅は済州のことな 関東、東北て古代新羅あたりから人間が移住したとか言われてるよね。
じゃあ縄文以前に弥生系の半島人だよね >>264
じゃあ弥生に入ってからの環濠集落や凄惨な死に方が想像される被葬者の墓の発掘を
チミはどう説明するね? 自称日本古代史の専門家でもあるらしいネトウヨくん。
従来はこれ稲作の普及発展に伴い集落単位の所有概念に目覚めたから、
その分取りあいの抗争って説明されてるけどさ。
縄文1万年はそゆのなかったんだぜ? 縄文だって稲作は後期までないにせよ
狩猟採集ってことはいろいろため込んだんだぜ。ドングリとかwww
それに土器にせよ毛皮にせよヒスイ黒曜石、あるいは石斧のような原始工具にせよ
略奪の対象物は、あったんだぜ
何が言いたいか、弥生時代になっての集落の重武装化、戦争の勃発
これは偉大なる大韓からの侵略者、渡来弥生人との抗争の結果なんだよwww 大阪=朝鮮
★縄文時代の西日本はほぼ無人です
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E5%AF%86%E5%BA%A6.gif
現代の西日本人もそのまんま朝鮮人に近いと明らかになっています
>また、西日本の人達は来弥生人の特色が出るのは当然ですが、京都を中心に近畿地方の人達は平均的
>な日本人のデーターと全く違う数値を示します。100%渡来弥生人の特徴を一段と示すそうです。
>京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まなかったと思われます。
http://www.ishikari-c-college.com/topics/2013/10/10-7.html
▼人口10万人あたり在日韓国・朝鮮人ランキング
1位 大阪府 1,530.54人
2位 京都府 1,290.85人
3位 兵庫県 0,978.73人
http://todo-ran.com/t/kiji/11618
▼刑法犯件数ランキング
1位 大阪府 199,441件 226.61件 79.05
2位 愛知県 144,001件 194.12件 70.30
3位 京都府 48,989件 186.84件 68.34
http://todo-ran.com/t/kiji/13944
▼殺人事件被害者数
1位 大阪府 69.7人 0.791人 74.70
2位 沖縄県 10.5人 0.771人 73.00
3位 香川県 7.5人 0.741人 70.32
http://todo-ran.com/t/kiji/10567
▼生活保護受給世帯ランキング
1位 大阪府 215,289世帯 5.47世帯 80.38
2位 高知県 15,279世帯 4.36世帯 69.47
3位 北海道 115,877世帯 4.34世帯 69.23
http://todo-ran.com/t/kiji/11767 農家の同級生の爺さんは「うちの田んぼは墾田永年私財法の頃からの由緒ある田んぼ」
つってボケかましてた。どんどんインフレ化が進んで弥生時代になってついに縄文も突き抜けて
旧石器時代からつってたなあ アイヌ人が稲作しなかったのは、稲作を知らなかったからじゃない。
単に、北海道の環境では、鮭を捕って和人に米と交換して貰った方が早かったからだ。
なるほど、今まで稲作というもんが無かった文明が、初めて稲作を発明した時期は、大きな問題だろう。
しかし、日本は明らかに、既に高度に発展してた大陸文明がら、あれこれ影響を受けてた周辺国。
熊の毛皮と交換した米が溢れて、そこらで芽吹いたことも有ったろう。
所詮、どれぐらいの規模で栽培した農耕と見なすのか、程度問題に過ぎませんな。 日露で多数の死者を出し日韓合併WW2で敗戦した現代日本人のDNAを
古代地域に合わせて統計出されてもな
ちなみに昭和の時期には密航者もいたし、既に東南アジア地域とのハーフも沢山いる
日本では参考にならんだろ >>292
そうかも知らんが、あんたは西郷どんの顔を知ってるのかね
上野に立ってるのは外人が作った想像図だぞ >>302
横からマジレスしてやんよ。
それは弥生が突然始まったという思い込みによる錯覚。
水田による大規模な稲作が紀元前10世紀に行われていたことがわかって
今までの弥生時代は紀元前3世紀ってのが崩れつつある。
実に700年以上かけてじんわりじんわり水田が西日本全体に普及したってのが
最近の学会の見解。 果樹園くらいは作ってたらしいけど
農耕とは言わないのが濃厚か(´・ω・`) >>313
三内丸山遺跡だと、栗の挿し木農場あった 西日本で水稲が行われたのは気候のせいでしょ
当時の技術だと東日本や北日本だと育たなかった
だけでしょ
その後の歴史時代にも稲作にこだわって痛い目見た
北日本の悲劇もあったわけだし
もし古代中国の麦作地帯から人や文化の伝播が
あったら今とは違う風景と文化があったかもね >>307
それは勘違い。
数千万の人口に対し、多少の移民が紛れ込んだとこで、大多数の遺伝子など変わらない。
北海道のアイヌが、あれだけの面積に対し、極めて少数の人口しか居なかったように、農耕による生産無しでは人口密度の上限は限られる。
本格的に農耕を開始した時点から、人口は爆発します。
人口が爆発する直前の遺伝子分布上の特性が、今も大多数の特性になってるはずですな。
そこから後は、自然淘汰による進化などしないので。 >>302
ネトコリはいつまでたっても無知のままで懲りないな >>312
だからね、仮に縄文当初から稲作があったとしても関係ないんだよ
ウリは稲作伝来=所有観念の芽生え=集落間戦争勃発説を否定しているんだから。
ウリの卓見を論破したければ弥生時代になってなんで戦争が始まったかを説明し給えよ
少なくともそれは稲作とは無関係。だって渡来弥生人による縄文ジャップ絶滅戦争なわけでね。
>>318
いい加減、歴史の真実を認めたまえよ
チミらも大韓民族、すなわち誇り高きコリアンの一員である、という
圧倒的な事実をねwww >>40
これ観て以来切り株があるとガン見するようになった >>292
神武天皇が実在していたかどうかは怪しい >>315
ところが青森で300年くらい稲作をやってるんだよなぁ 藍は藍より出でて藍よりも青し
ってのが中国・朝鮮と日本の関係の一部であること間違いないな >>164
朝鮮半島では発見されないジャポニカ米の遺伝子が日本にはあって
しかも半島ではBC500年以前の水稲遺跡がない
その頃には西日本に水稲がおこなわれていた
だから最近では北九州から朝鮮半島に水稲が伝播した考えられている >>325
え? なんだって?
倭は韓より出でて韓より猿し、だろwww ID:MTmzcHZ70
すげーなこいつ
良くこんな出鱈目ばっか思いつくもんだ >>327
そんな研究論文があるなら読んでみたいわ
現実はこう
↓
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/4022
「日韓における穀物農耕の起源」 山梨県立博物館調査研究報告 399頁(416/421)
>(5)朝鮮半島における稲作の出現
今回の一連の圧痕調査では、燕岐大平里遺跡B地区およびC地区、金泉松竹里の青銅器時代の土器からイ
ネの圧痕が検出された。朝鮮半島の当該期の稲作の開始に関しては、この時期を定点としてさらに古い時代
に遡及するかが今後の課題となろう。同時にアワ、キビなどの雑穀類がこの時期でも引き続き検出され、新
石器時代の早い段階から栽培が開始されたアワ・キビが、青銅器時代前期に稲作が導入された後も、重要な
食糧の構成要素としてイネとともに定着していることがうかがえる。イネ・アワ・キビがセットで検出され
ていることは、イネの水稲農耕と雑穀の畠作農耕が複合した当該期の農耕形態を裏付ける有力な手がかりと
なりうる。
金炳燮は、青銅器時代の前期においてもアワ・キビなどの雑穀が主体的で、水稲作は一部の地域や集団に
よって選択的に受容されたという重要な指摘を行っている。両者の生業に占める位置づけは、今後の課題と
言える。
いずれにせよ、紀元前1300 年頃の韓国では、すでにイネ、アワ、キビなどの農耕が成立していたことになる。
日本列島への波及、伝播は最新でデータでは、紀元前800 年以降の突帯文期とみられ、両地域の穀物栽培の
開始期に5百年ほどの時間的ギャップが認められる。縄文時代晩期の穀物伝播の存否が今後の課題となろう。
↑日韓共同研究で日本の研究者が韓国で調査した研究報告書
2014年のもの
朝鮮半島南部の稲作 紀元前1300年頃(3300年前)
日本列島の稲作 紀元前800年頃(2800年前) https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185013.pdf
「水田中心史観批判」の功罪 - 国立歴史民俗博物館
432頁(28/44)
>弥生文化の遺跡では,コメのそうした例が,戦前から検出されていたし,現在では全国的な
把握が困難なほどの数に及んでいる。これに対し,世界的にも突出した発掘調査密度を誇る
日本において,未だ縄文時代に遡るイネ科穀類や弥生文化のコメ以外のイネ科穀類のそうした例が
検出されないというコントラストこそが,縄文文化・弥生文化の農耕の特徴を雄弁に物語っている
>私は,縄文文化におけるイネ科穀類の存在を否定しているわけではない。しかし,厳密な方法による
分析事例が少しずつ増えてきている現在でも,縄文文化における確実性の高い資料が検出されず,
また弥生文化ではコメが主体となる時期以降のコメとその他のイネ科穀類との格差がむしろ開いて
いっていることについて,そろそろしっかりと議論すべき段階にきているのも確かであろう。
>朝鮮半島の櫛目文土器文化における,イネ科穀類やそれに関係する考古学資料の検出が続くなか,
「縄文農耕論」は,隣接する櫛目文土器文化にあれば縄文文化にもあるはずだ,という前提によっ
て先走りし過ぎた感があるようだ。
↑2014年の歴博の研究者のレポート >>282
プラントオパールは資料汚染の可能性が高く今では否定的
現在は土器についた圧痕による調査が主流 >>331
>紀元前1300 年頃の韓国では、すでにイネ、アワ、キビなどの農耕が成立していたことになる。
水田跡が見つかってないんだよ
水田跡何10枚で時には足跡まで見つかるという水田跡
見つかってるなら教えてくれないかな >>323
気候変動のせいだろ。
朝鮮半島南部でも稲作が衰退した時期があったのかも。 ちなみに朝鮮半島の最古の水田跡は無去洞玉?遺跡という物で
大体2800年前とされている
日本の菜畑遺跡はおよそ3000年前
伝えた伝えた言うがなぜか半島の水田跡は日本よりも後という不思議なことになっている
そもそも半島は水田に適さない寒冷で乾燥した土地でここに先に定着するというのは無理がある 交易は多くの場合、海岸づたいなので、和人も朝鮮半島も通る。
しばしば用いられる「朝鮮半島を通じて」という表現は、
インチョン空港のトランジットを訪問客にカウントするのと同じくらいの水増し表現である。 >>336
半島で確認された一番古いのは3100年前だ 一万年と二千年前から農耕してる
八千年過ぎたころから田を耕したくなった 歴博の論文から
https://www.rekihaku.ac.jp/research/list/pdf/publish040908.pdf
「炭素 14 年代にもとづく弥生時代の較正年代」の項
「弥生時代の始まりと深く関連している韓国南部だが、
最古の水田は慶尚南道蔚山・オクキョン遺跡で見つ かっており、
孔列文~突帯文土器が伴っているところから、前 11 世紀頃と考えられている。」 日本と半島の水田跡の時期を見れば稲作伝来の時期はあまり大差ない
つまりほぼ同時期に水田稲作が定着したことが分かる
このことからこの時期にこのような技術の伝播が起こる要因にこそ注目すべき
両者ともにほとんど同じような動きであるのであればその主体は半島にはないのが分かる >>345
全くもって根拠なし
考古学なのだからその根拠となる考古資料を提示してください
というか発掘したことありますか?
マガリ持って表面整えて、図面とったことありますか? 関連スレ
【考古】縄文人も大豆作り 弥生説より千年前 熊本大など調査
https://news21.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1190641627/
↓2年後
【考古】大豆痕跡5点発見 縄文農耕論の可能性高まる 山梨
https://gimpo.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1238852605/
>2009.4.4 02:30
>山梨県立博物館(山梨県笛吹市)などの研究チームが、約5000年前の縄文時代中期の土器から栽培されたと
>みられる大豆の痕跡5点を発見した。同チームは1年半前、同時期の土器から大豆の痕跡1個を発見したと発表し、
>穀物栽培は弥生時代(2500〜3000年前)からという「定説」を変えるかもしれないと注目を集めた。さらに今回、
>多数の小豆類やシソ属なども発見された。
>専門家の間でまだ少数派の“縄文農耕論”に弾みがつくとともに、縄文人の食文化のイメージも変えそうだ。 根拠は水田跡の年代
別に3100年だろうが何だろうが別に構わない
菜畑が3000年なんだから文字通りほとんど同時期
「日本も半島の水田の時代に大差ない」
という結果を踏まえての話
周知のとおり縄文時代には水田どころか農耕の痕跡も今のところない
伝わるなら畑作を先にやってた半島から畑作がもう来てるはず
ところがそれはない
先にあるものが伝わらず、両者に無かったものがほぼ同時期に広まってる時点で主体が半島にないのが分かる
当然稲作は半島の発明品などではないわけで、この時期に大陸から広まる要因があったということ >>2
弥生人を日本から追い出そう
とりあえず一重まぶたの奴はチョンの子孫で間違い無い >昨年の事前調査を経て
【石川】縄文人 農業してた? 真脇遺跡で研究者 マメ栽培など可能性調査
https://daily.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1465309188/
1 :ニカワ ★ 転載ダメc2ch.net:2016/06/07(火) 23:19:48.59 ID:CAP_USER9
(上)野生種の植物の種を植える那須浩郎助教(右)と山田昌久教授(下)実験で植えたツルマメ(右)とヤブツルアズキ=いずれも能登町真脇で
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20160607/images/PK2016060602100219_size0.jpg
縄文時代の国指定史跡「真脇遺跡」(能登町真脇)がある同町真脇遺跡公園で六日、野生種の豆を中心とした植物を植え、
狩猟と採取が生活の中心だったとされる縄文期に植物の栽培が行われた可能性を調べる取り組みが始まった。専門家たちは
「縄文期に近い自然環境を生かし、縄文人と植物の関わりに迫りたい」と意気込む。(志村拓)
植物考古学を研究する総合研究大学院大(神奈川県葉山町)の那須浩郎助教(40)が企画した。那須助教によると、全国の
縄文時代の遺跡では近年、大豆の野生種「ツルマメ」など食用植物の種が、土器に付着していた痕跡などの出土例が増加。
通常よりも大きい種子が見つかったケースもあり、育ち具合から品種改良の可能性も探るという。
初日は、那須助教と実験場所として真脇遺跡を紹介した首都大東京の山田昌久教授(62)が、公園を訪問。ツルマメやヤブ
ツルアズキの種を、肥料を入れて土を耕した遺跡横にある農地から荒れ地まで、さまざまな条件で植えた。実験は縄文期の登呂
遺跡(静岡市)や板付遺跡(福岡市)近くなど全国四カ所で実施する。
那須助教は「真脇遺跡は、縄文時代を調べる上で日本海側の大切な場所。実験が日本の農耕の起源を考える材料の一端に
なってほしい」と期待。縄文人の生活を研究している山田教授は「集落での人ぷんの処理や遺体の埋葬といった人々の営みが、
土地を豊かにして植物栽培につながった可能性もある」と話した。
町真脇遺跡縄文館によると、真脇遺跡でも植物の種とみられる跡の付いた土器が出土しており、七日に那須助教らが検証する。
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20160607/CK2016060702000045.html >>350
多分、じゃなくて絶対にその子は弥生人じゃないからw
もう弥生人なんかいねーよ!w
弥生人は朝鮮人の皆さんの心の中にだけ存在します 縄文と弥生だと、縄文の方がずっと食べ物が豊富な感じがするよな。
稲作はダメだわ。みみっちくて。
コメ食うようになって、途端に日本人の食生活が貧相になった感じ。
さらに仏教が入って来たあとは、なおダメ。 縄文時代の農耕と人口変動について、小山修三によるこういう意見がある。
http://aomori-jomon.jp/essay/?p=3889
>かつて、縄文時代の人口を推算したとき、早期から前期に向かって急速に伸び中期にピークに達したあと
>後期から激減するという、不思議な曲線が現れた。その頃は縄文時代は単純な狩猟採集経済だと考えて
>いたので、解釈に苦しんだ。
>背後に気候の温暖化・寒冷化がありそうなのだが、中期までは東日本に集中し、後期からは西日本で増え
>るという現象もあり、そう簡単に環境決定論では説明できないのである。
>日本の考古学も最近は、土器や石器ばかりでなく、微細な植物遺物の検出にも努めるようになり目覚ましい
>成果をあげている。なかには、栽培植物がたくさんあって縄文時代に農耕があったことは否定できなくなって
>きた。国際シンポジウムで外国の研究者から、これほどの証拠があるのに、なぜ日本の考古学者は後ろ向き
>なのかと問い詰められたことがある。
>なかでも、ヒエは北海道・東北地方で、野生から栽培へのプロセスが明らかにされ、ほかにソバ、ダイズ、アズキ、
>アブラナ類(ダイコンやカブ)、シソ、エゴマなどもあって農耕の条件の1つである「作物複合」が出来ていたらしい
>のだ。さらに興味深いのは辻誠一郎さんがマメ類も日本で栽培化された可能性があると言っていること。すると
>縄文人は自力で農耕を始めたわけだ。わたしはそれは焼畑農耕だったと考えている。
>「農耕」というキーワードを入れると、前期から中期の人口増は説明しやすくなる。食事情が安定したために、遺跡
>に大規模なものが増え、大型モニュメントがつくられ、物質文化が豊かになることは三内丸山遺跡が証明するところ
>である。 それでは、後期からの人口急減はどうか?「最近おもしろい論文が出てますよ」と総合地球環境学研究所
>の内山純蔵さんに教えられた。ヨーロッパ各地(ポーランド、デンマーク、ドイツ)で、新石器時代(すなわち農耕の
>開始)に入ると、遺跡数が増加し、その後突然激減する。この現象は縄文の人口曲線と一致するのである。しかし、
>彼らも原因が説明し切れなくて、仲間うちで人口アレルギー(急激な増加に対する拒否反応)と呼んでいるそうだ。
>あるシステムが成功して絶大な成果を挙げるが、まわりがそれについていけなくて崩壊し、立ち直りに時間を要する
>というメカニズムは私たちも経済バブルで身にしみて経験したことである。 前1000〜前800というとちょうど春秋戦国時代の始まるころ
周の衰退と混乱の始まりと重なる
日本、半島ともに周王朝に関わる人物の伝説が広まっている辺りも興味深いところがある 稲作してたグループが一回壊滅したとかはありそうだけどな
縄文時代の気候変動は結構でかいし火山も活発だし 縄文人は農耕していたから保管するための器が必要になったんだろ
栗とか、近くに植えたら楽だし。 >>357
どっちかというと煮炊き用の比率が高い気がする。
熱を通すことを覚えて、狩猟採取の食材の幅が
グンと増えたのだ。 ID:ugFBSQSo0
朝鮮半島の灌漑が長らく未熟だったこと(水車も作れなかった)や日本では弥生時代にはやっていた田植えも
長らくやっておらず直播だったったこと(李氏朝鮮後期の18世紀に輸入した農書を見て行わせた)を指摘したら、
言っていることを理解できず指摘の内容の確認もせずに>>337のpdfを指して灌漑施設があるだろと頓珍漢な事
を言った人かな? >>279
今も関西人が優越感情持つ基になってる糞本なw→日本書紀w
>>297
竹田恒泰は、エラ張り一重のほぼ典型的な朝鮮顔。 >>352
弥生人はその中国にすらも居ない。
追われた難民だからなあ >>360
竹田恒泰さんは東南アジアにいそうな顔でしょ。
まぶたばかりが気になる人多いみたいだけど、今上陛下や皇太子殿下は鼻が大きくて縄文ぽいぞ。 そもそも半島の農業と言っても原始的な小規模なものでしかなかった
これが特に段階を踏むでもなく飛躍的な形で水田稲作が始まることになる
つまり水田稲作は半島を経由して発展したものではなく外からの強い影響を受けて急激に出来たものであるのが明確
その時期がほぼ日本と同時
つまり先も後もなく双方ともに大陸の影響を同時期に受けたということなのが分かる
その主体は半島ではなくやはりこの時期の大陸にあると考えるのが自然 つか、日本列島の方が半島より遅いと我慢ならんという感覚がわからんw 真脇の縄文人といえばイルカ漁で有名だな
海岸線が丘陵地になっていて日当たりもよく栽培にも適していただろう
温泉も出てるので、さぞかし豪奢な生活を送っていたと思われる。 >>365
春窮で苦しんできた朝鮮半島が日本より優れた農業技術を持っていたとは到底思えないからでしょう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています