【考古】縄文人は農耕をしたか 大学×地域、歴史の謎挑む 植物大型化、解明目指し
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毎日新聞 2017年12月4日 地方版
https://mainichi.jp/articles/20171204/ddl/k17/040/115000c
縄文人は農耕をしたのか−−。首都大学東京の山田昌久教授(考古学)らが今年、全国5カ所の研究施設と協力し、縄文人が食べた可能性がある植物の本格調査を始めた。北陸からは能登町の町真脇遺跡縄文館が参加。野生種の豆を植え、肥料の有無による収穫量の違いなどを調べて、遺跡から出土した植物の種などと比較する。研究の最先端を走る大学と、遺跡を熟知する地域がタッグを組み、歴史の謎に挑む。【久木田照子】
■遺跡周辺で栽培実験
昨年の事前調査を経て、2019年までの3年間、調査を行う。研究代表者は岡山理科大の那須浩郎准教授(考古植物学)。岩手県一戸町▽山形県天童市▽静岡市▽能登町▽福岡市−−の縄文〜古墳時代の集落遺跡(国史跡)周辺で、植物の栽培実験をする。いずれも、遺跡に隣接する博物館などが協力。施設の敷地は開けているため、縄文集落のような日照環境を再現しやすいという利点もある。
調査では、縄文時代に植物が大型化したメカニズムの解明を目指す。研究チームによると、近年、各地の縄文遺跡の発掘調査で、クリやツルマメ(大豆の祖先)などが野生の状態より大きく育っていたことが分かった。遺伝子の突然変異のほか日当たり、栄養などの環境が影響するとみて、調査を計画した。食べられる植物を縄文人が大量に得ていた状況が明らかになれば、農耕が行われていた可能性も浮かぶ。
■骨粉や貝粉、肥料に
縄文館敷地の調査畑は12平方メートル。ツルマメとヤブツルアズキ(小豆の祖先)を、肥料を与えるものと与えないものに分けて育てた。肥料は縄文時代に存在した物を想定し、動物骨粉や貝粉などを選んだ。今年6月に植え、11月に収穫。目視では肥料を与えた方が豊作だった。今後は種の大きさや収量を計測する。また、館周辺のクリや、事前調査での収穫後に自然に芽吹いたイヌビエなどの観察も続ける。復元した石器で畑を耕す実験も検討するという。
■協力、双方に利点
山田教授は、地域の担当者と協力する利点について「研究テーマに意義を感じ、関心を持つ人が畑をこまめに観察しなければ研究は成立しない」と話す。縄文館では高田秀樹館長が、肥料の与えすぎやイノシシの足跡などに気付くと、すぐに対応した。山田教授と高田館長らは、石器で木を伐採し先史時代の丸木舟を再現する研究にも一緒に取り組んでおり、協力しやすい下地が培われていたという。
地域にとっても、大学の研究者と組む意味は大きい。研究成果によって、ここで生きた縄文人の生活や思考がひもとかれていく。高田館長は「研究は多くの人の歴史への関心を深め、地元で遺跡を守り活用する応援団を増やすはず」と期待する。 前1000〜前800というとちょうど春秋戦国時代の始まるころ
周の衰退と混乱の始まりと重なる
日本、半島ともに周王朝に関わる人物の伝説が広まっている辺りも興味深いところがある 稲作してたグループが一回壊滅したとかはありそうだけどな
縄文時代の気候変動は結構でかいし火山も活発だし 縄文人は農耕していたから保管するための器が必要になったんだろ
栗とか、近くに植えたら楽だし。 >>357
どっちかというと煮炊き用の比率が高い気がする。
熱を通すことを覚えて、狩猟採取の食材の幅が
グンと増えたのだ。 ID:ugFBSQSo0
朝鮮半島の灌漑が長らく未熟だったこと(水車も作れなかった)や日本では弥生時代にはやっていた田植えも
長らくやっておらず直播だったったこと(李氏朝鮮後期の18世紀に輸入した農書を見て行わせた)を指摘したら、
言っていることを理解できず指摘の内容の確認もせずに>>337のpdfを指して灌漑施設があるだろと頓珍漢な事
を言った人かな? >>279
今も関西人が優越感情持つ基になってる糞本なw→日本書紀w
>>297
竹田恒泰は、エラ張り一重のほぼ典型的な朝鮮顔。 >>352
弥生人はその中国にすらも居ない。
追われた難民だからなあ >>360
竹田恒泰さんは東南アジアにいそうな顔でしょ。
まぶたばかりが気になる人多いみたいだけど、今上陛下や皇太子殿下は鼻が大きくて縄文ぽいぞ。 そもそも半島の農業と言っても原始的な小規模なものでしかなかった
これが特に段階を踏むでもなく飛躍的な形で水田稲作が始まることになる
つまり水田稲作は半島を経由して発展したものではなく外からの強い影響を受けて急激に出来たものであるのが明確
その時期がほぼ日本と同時
つまり先も後もなく双方ともに大陸の影響を同時期に受けたということなのが分かる
その主体は半島ではなくやはりこの時期の大陸にあると考えるのが自然 つか、日本列島の方が半島より遅いと我慢ならんという感覚がわからんw 真脇の縄文人といえばイルカ漁で有名だな
海岸線が丘陵地になっていて日当たりもよく栽培にも適していただろう
温泉も出てるので、さぞかし豪奢な生活を送っていたと思われる。 >>365
春窮で苦しんできた朝鮮半島が日本より優れた農業技術を持っていたとは到底思えないからでしょう。 農耕が本格的に始まっていたら、
人口はもっと増えてる >>365
そういう前提も逆から見たらどうかな?とは思うけど >>369
その「農耕が本格的に始まっていたら」とはどんな条件なんだ? 日本人の性質上、みんなが採集狩猟やってる時に畑を耕すとか家畜とか考えてる先進的な者が
いたら悪魔のレッテルを貼られて袋たたきにされて自殺に追い込まれてるよw 当時の半島の農業のレベルからして原始的で小規模のものでしかなかったところにいきなり水稲稲作が始まっている
この時期がほぼ日本と同時
この事から半島の水稲も日本の水稲もほぼ同時期に大陸の影響で始まったものと考えるのが自然
先の後のという話ではなく稲作の伝播の発信源と流れを読み解いている
感情論などではなく単なる事実
むしろこれを感情論と判断する方偏向があると言うほかない >>341
821 :名無しさん@1周年:2016/09/10(土) 20:20:05.35 ID:TQeRAHk+0
>>777
>朝鮮半島最古の水田跡が東南部に出来た3200年前くらいの物
半島の最古は青銅器時代前期後半ということなんだが、
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/pdfdata/kenkyu/hokoku09_2014_4.pdf
>朝鮮半島新石器・青銅器時代の農耕関連遺跡
>銅器時代前期後半に水田が出現
無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
>かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及
>したのは末期であるから正確ではない。
>前期は紀元前1500年から850年頃とされる。
日本列島と大差ないということになりそうなんだが。 むしろこの水稲の動きを見るに半島を主体と考えると話が見えなくなる
従来の「半島を経由して」という考えだとむしろ像が歪む
中国から同時期に一斉に沿岸沿いに広まっているとみるのが自然
そう考えると中国の春秋戦国時代とのかかわりなどダイナミックなアジア史の動きが見えてくる 日本人の遺伝子は8-9割が渡来人のもので、土着してて数が多かったはずの縄文人の遺伝子の方が少ない。
革新を拒んで淘汰されたのだろう。 朝鮮半島で確認された炭化米といっても畑作米だろ
確か最古のものは紀元前2000年ほどで日本より遅かった
岡山県彦崎貝塚の約6000年前の縄文時代の地層から
出た稲のプラントオパールが縄文中期に稲作をしていた
ことを証明したんだよな 朝鮮半島が先でもいいんだよ。
稲作適地である半島南部(南端近くというべきか)は倭人が住んでいた。
縄文土器も出ているし、釣り針の類似性からも、九州と文化は一体だったと思われる、
いわば、縄文文化とは日本列島と半島南部の海沿いの地域にあったと言うべきか。
そこへ、満州地域からいくつかの栽培植物が伝わり、日本からも伝えた。
おそらく、小豆と大豆は日本で品種改良と栽培化されたのであろう。
半島は通り道だし、南端には倭人がいるからな。
そして、「水稲稲作」が伝わる。
「もの」が来たからと行って、大量の人間が来る必要はない。
けつ状耳飾があちこちで見つかるが、人間が大量に来たわけではない。
環壕集落と環濠集落が弥生時代には存在する。
北からと南から人が来たのだろうな。
半島から来たからといって、「朝鮮人」が伝えたり来たわけではない。
韓国は「教えてやった」と言っているが、そもそも朝鮮半島にはいろんな民族が住んでいた。
中国の史書が書くのは、「倭人」が日本列島と半島南部にいること。
そして、半島には「言葉が通じ合わない」民族がいくつかいたということ。
水稲稲作は朝鮮半島から伝わった。そこには倭人(縄文人というべきか)が住んでいた。
彼らは速やかに日本列島の親戚に伝えた。
もちろん倭人以外も住んでただろうけどな。
周の成王の時にすでに中国が「倭人」と認識する人々がいた。
半島は、668年になるまで統一国家はない。言葉も民族もそれぞれ違う人々がいた。
韓国は田舎とか方言とかが蔑視されるのか、方言を調査したりしないらしいから不明だけどな。
日本のように、飛鳥時代の言葉が残っているわけじゃないからな。
まあ、李氏朝鮮の始祖はモンゴル人だしな。
「朝鮮人はどこから来たか?」ってのは、「日本人はどこから来たか?」よりももっと定義しにくい。 稲のたどってきた道 佐藤洋一郎(農学者 京大農学部卒 総合地球環境学研究所名誉教授、人間文化研究機構理事)
https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
>縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが続々と検出されるようになりました。
>プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05−o程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののことで、
>このプラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができます。
>最も古いプラントオパールというと、岡山の朝寝鼻貝塚の土の中から、6000年前のものが検出されています。
>大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、
>朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
>これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。 >>378
確かに日本人の殆どが大陸から来たもんな〜 小学校で四谷大塚で習うだろw
テンノーより古いだろ?
品川区w
歴史?考古学?オマエラ日本にそんなものがあったとは考えにくいwww
外国人さんが明治時代に発見したんだけどwww
大森貝塚
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E8%B2%9D%E5%A1%9A
東京都品川区から大田区にまたがる縄文時代後期 - 末期の貝塚。モース貝塚とも。
概要[編集]
1877年(明治10年)6月17日に横浜に上陸したアメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、
6月19日に横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見し、
政府の許可を得た上9月16日に発掘調査を行った
縄文時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
縄文時代 前14000年頃 – 前4世紀 現在、中国から移民を入れようとしてるけどこれも渡来人。
自滅衰退していってる現在の日本人と混血して数千年後は8-9割が中国人の遺伝子になるのだろう。
歴史は繰り返すのだな。 >>378
これだけ半島から連日難民ボートが来ているから近いような感じもするんだけど
半島と眼と鼻の先の出雲地方のDNAは遺伝的に半島から遠くて関東とか東北の方が
ずっと近いというから驚くわ 現在の韓国人は、日本の鎌倉時代にシベリアから朝鮮半島に来たんだよな。
火山灰で真っ白になった朝鮮半島に。
だから、日本と中国の間にありながら、今の韓国人には変な習慣(茶碗を持ち上げない)がある。 >>378
核ゲノムの12%というのを誤解してるのかな?
あれは縄文時代人のサンプルは東北と長野に限定されていて、現代人は東京だけだった。
ミトコンドリア遺伝子においては、縄文時代は複数の集団が存在していたことが判明しており、本州以南は
東山道地域とそれ以外で構成が違う。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/sundaymorning10/16acindex.files/image053.gif
つまり、12%というのは東北系の遺伝子がどれだけ関東以西の現代人に存在しているのかというものでしか
ないし、更に言うと、今回の現代人のサンプルがそういうものだというだけだ。 >>387
難民が住み着くのは都市部なんだよね。
弥生人もさ。 つまり、関東縄文人と現代日本人の核ゲノムを比較すると、この前の12%より高い数値が出る可能性があるわけだ。 >>386
どうせ都市部に集中するだろうから地震で壊滅するか母国へ逃げ帰るだろうよ >>353
みみっちいと言うかそもそも熱帯の植物である稲を日本で育てようってのが割と無茶
気候も考えず近畿や東海の連中が権力者になって米中心経済押し付けるもんだからちょっと小氷河期入った江戸時代なんか東北は慢性的な飢饉状態 「農耕」という言葉だと意味が広くなる。
集落に栗などの木を植えて実が成るまで放っておくのは初歩的な栽培だが、これも農耕に含めるの? >>395
三内丸山の場合は同一遺伝子の栗の林を形成しているので農耕と呼ぶ人がいる。
ただ、厳密にしたい人は園耕と呼ぶ。
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%92%E8%80%95-821454
>園耕【えんこう】
>小規模な農地で行われるきわめて集約的な農業。鍬(くわ)などの小道具と人力を主体に作物の特性に応じた施肥,
>灌漑(かんがい),栽培,移植,間引,中耕,除草,剪定(せんてい)など綿密な作業がなされ,畜力・機械の利用は
>少ない。 朝鮮半島の青銅器時代の水稲稲作:
水稲作を通じた食量生産の増大は証明されておらず、三国時代でも食糧供給地としての水田の役割は微弱である
野生動物の捕獲が儀礼に活用されたものと推定されている(註 18)。
青銅器時代の農耕において稲作を中心にとらえ、水稲作を通じた社会変化を議論することには多少無理が
あるように見える。
耕作遺構を通じてみた青銅器時代の農耕は畠作が中心となる農耕であり、水稲農耕は水稲作が可能なごく
一部の地域や、イネを特殊作物として選好した集団によって、選択的になされたものと考えられる。 >>349
>日本も半島の水田の時代に大差ない
でも日本列島でジャポニカ米が改良されて寒い北陸地方でも米が作れるようになって
やっと朝鮮半島でも稲作が可能になったのでは?
南北朝時代まで日本の日本海側では麦や蕎麦や粟しか生産出来なくて
豊な国はもっぱら太平洋側に限られてたし
そもそも農耕文化に疎い騎馬民族は水田を必要としない粟粥が主食だったでしょ
まあ北陸でも米が作れる様になって日本海側の国が軍糧で強くなったら
日本は一挙に戦国時代へ突入しちゃったけど 日本は、鉄器時代と青銅器時代がほぼ同時期に始まってる。また石器による青銅祭器
の模擬品や木工品・土器による模倣品も同時期にあった。島根県や鳥取県一帯の砂鉄
による製鉄はたたらのクズが辺り一帯に有る事から、相当長年続いたと考えられる。
古代における貿易は軽く見られがちだが、中国大陸と鉄を通じた商売は可成り行って
いたのではないか。その過程で、縄文人の中には影響されて大陸産の農作物も取り入
れていったように思う。米は水と縁が深いが、焼き畑でも稲作は行う事が出来る。既
に日本では絶滅状態(収穫量や機械化が困難など)だが、品種としては残っており灌
漑設備を有しないアフリカの一部の国に技術援助で陸稲を提案している。かなり成功
しているようだ。その場合も日本人がアフリカ植民した訳では無く、
技術援助な訳で穀物と民族移動を過度に絡めても無意味ではないか・・・・・w 縄文文化と弥生文化のはっきりした区分けは無いんだよ
縄文時代から稲作しているのは当たり前 大和朝廷征服論
『日本書紀』以来、彼らは古くから蝦夷(えみし)と呼ばれ、本来原住民族であった縄文人は、
稲作文明を持って来た倭人の到来によって東北地方に追われ、またこの渡来人の国家建設と共に、
倭人が北上し日本列島を征服した結果、蝦夷の住処はだんだんと少なくなり、ついに北海道の一角に追いやられました。
その蝦夷の領域を、中国大陸や朝鮮半島から南下した武力に勝る倭族や加羅族または南西諸島を北上してきた隼人族や呉族系により、
日本列島の西側から東側に次々と小国家を造り、支配者になりました。それが邪馬台国や伊都国、狗奴国などの「倭の国々」だったのです。
そして誓約(うけい)の儀から始まる古事記や日本書紀の壮大な物語は、
天皇家の自己の存在の正当化のために大和朝廷が土蜘蛛退治と称し先住民族を武力で征服した歴史を
都合良く「天孫降臨伝説」として神格化して創造したフィクションなのです。
天皇家の先祖は、外から大和の地に入り、それ以前から気候や風土を自然信仰して来た元々の住民を打ち倒して、それに取って変わったと考えるほかありません。
大和朝廷すなわち天皇家とそれに仕える貴族が、始祖王の出生と日本を統治するようになった由縁を、
あたかも悠久の昔から日本の統治者であったと言うことを強調するために過去の歴史に遡らせて実在しない天皇を創造し
初代神武天皇の橿原宮での即位、神武東征以降から9代目の開化天皇の春日率川宮での即位まで崇神天皇以前の歴史を記紀として編纂させたと言われています。 放送日 2017年5月29日 ニュースZAP
https://twitter.com/newszap_bs/status/869115538617716736
今日のゲストは初登場!漫画『日本の歴史』シリーズの監修も務める東京大学史料編纂所教授 山本博文さん!曜日ザッパー モーリー・ロバートソンさんと緊迫する世界のニュース、天皇家について語り合います!
日本書紀 天皇側が作った
資料すら信頼できない
神武天皇 伝説的な天皇(天皇側が作った)
おそらく仁徳天皇以降が実在した天皇
今の天皇家の祖先 だいたい遡れるのは継体天皇
ニュースZAP 山本博文 >>395
ヒエ、アワ、ダイズ、アズキを野生種から栽培化しているのを農耕と呼ばずになんというのかな?
麦以外は農耕と認めないのか?
とうもろこしを作ったアメリカ先住民、じゃがいも、さつまいも、トマトを作った人々は
農耕をしていなかった?
すべての文明は地中海から? >>383
これ言ってるの佐藤洋一郎だけ
しかもこれは半島から水稲が伝わったということを否定するものとはなり得ない >>397
だからこれも半島から水稲が来なかったという証明にはならない
水稲栽培にはそのほかにも松菊里文化が流れ込んでいるから
水稲は半島から来たと考えるのが妥当 >>398
水田は半島南部よりさらに北の中国山東半島でも見つかっている(p118)
http://user.dankook.ac.kr/~oriental/Journal/pdf_new/49/8.pdf
日本でも弥生期にはすでに青森まで水田が広まっていた
http://www.aptinet.jp/Detail_display_00006704.html 俺が縄文人だった頃は稲作、大麦、粟、稗、黍、栗を栽培していたなぁ。
あとは山で猪、鹿、熊、雉を狩り、川や沼、海で鮎、鮭、鯰、鱸、鯛、アサリ、蛤
蜆、帆立、栄螺、鮑、蟹、海老、蛸、烏賊を捕まえていた。
たまに翡翠を年単位の時間をかけて穴を開けたり、火焔土器を拵えたり
木の実や野草、山菜を採っていたな。懐かしい・・・。 現実と歴史区分にはギャップがあるのさ
現実はすっぱりと世界が変わったりしない
虹のように少しづつ変わるもの >>394
>南北朝時代まで日本の日本海側では麦や蕎麦や粟しか生産出来なくて
>豊な国はもっぱら太平洋側に限られてたし
君の認識はおかしいね。 >>405
松菊里文化ってどこにあるか知ってるか?
任那の地域なんだよ。
6世紀に大伴金村が政権に無断で百済に割譲してしまって処分された土地だw ウンコしたとこから何かしら芽生えてきて?と思ったのがハジマリ 百済は、韓国の地図なんかでは南端まで書いてある。
しかし、これは六世紀になってからのものだ。
百済の発祥はもっと北で、最初の都は平壤あたりで、その後ソウル近辺に移した。
しかし、高句麗に押されて475年の漢城(ソウル)を失う。
広州に遷都し、武寧王の時代の512年、大伴金村が任那4県を割譲する。
高句麗がさらに南下し、538年聖王は都を扶余に移す。
日本では任那の割譲などまともに取り上げることはないけどな。
しかし、朝鮮側の資料から見て、高句麗に押されて領土を失い、南に遷都しながら
王子を日本に人質に出している百済、割譲後、責任を取らされ失脚した大伴氏。 >>413
あ、すまん。
6世紀にはすでに任那ではなかったな。 縄文人の平均寿命30歳説が最近見直されてて、
人骨の調査で65歳以上が全体の3割以上を占めていたことが判ったそうだ
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201011130129.html
平均寿命が30歳前後とされ、「過酷な生活環境のため、早死にする人が多かった」と考えられてきた縄文時代の人たち。
しかし、出土人骨の年齢推定に関する最新の研究で、実は65歳以上とみられる個体が全体の3割以上を占める――という結論がこのほど提示された。 405は松菊里文化とかすごい文明だと思っていそうだな。
文化ってつけるの初めてみたわ
普通は「松菊里型住居跡」くらいだからな
九州や奈良で見つかるらしいが、全部がそれの遺跡なんて聞いたことが無いな。 >>417
あり得ない。乳幼児の骨が残らなかっただけ。 縄文文化はやっぱり東日本中心なのか?
その時代九州沖縄は何人が居たのか熊襲や隼人は何者?
農業とは関係のない話だけど >>205
青森の僻地になんであんなデカイ柱建てたの?
俺青森人なんだけど中に入ったことない >>420
西日本は7300年前の鬼界火山の大噴火で、縄文文化は壊滅したんじゃなかったかな。 >>418
別にすごい云々ではなく文化的連続性がある一つの証拠
水稲栽培とともに文化も流入した可能性が高いということ
それだけのこと >>422
>>422
西日本が絶滅したというのは最近では様々な発見から見直され始めている
「つまり,轟A式土器群が製作・使用されていた地域,同土器型式が分布する土器圏全体が
噴火によって壊滅し,土器の製作情報が断絶したということはなく,
九州レベルでみたときに,土器型式を製作し継承していく人間の営みは途切れることはなかったと評価できる。」
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/1440989/scs0220.pdf
このソースのp92 縄文人は国を作るっていう文化が全く無かった
朝鮮から渡来してきた弥生人が国(ナラ)を作った >>425
朝鮮じゃないよ
秦から徐福が来たんだよ >>425
古代の国というのは文字文化のある他国から認識され、記録に遺されて初めて存在を確認できる
縄文時代には中国との交渉がなかったというだけのこと
弥生文化を持つ人がどこから来たかはともかく、その弥生文化を持つ人の国が確認されたのは奴国(博多)で一世紀、倭国全体でもで三世紀に入ってからだし >>420
縄文中期は東日本だね。
ただ、西日本は難しいよ。
台地が少ないこと、稲作が早くに始まり人口の増加も早く、手っ取り早く早く言えば
田畑を作るのが早くてかき回されて遺跡が残りにくい。
そんで、台風が多くて土砂の堆積が多くて、縄文遺跡はかなり地下深くなってるとか。
残りにくく見つかりにくい。
富山の遺跡だって、田んぼの下だったしな。 「日本人」はどこから来たのか
「歴史」は権力者に都合よく創られる
http://www.jinken.ne.jp/be/meet/okiura/
縄文時代の終わり頃から続々と侵入してきた稲作民たちの中には、
自分たちを天照大神以来の皇統を受け継いでいる天孫、すなわち天津神
(あまつかみ)の子孫であると主張した人たちがいました。しかし
実際は先住民を次々と征服し、自分たちの王朝を打ち立てた侵入者
(インベーダー)でした。
そして、律令制によって天皇制国家を法制化し、公地公民制と
身分制度を確立したのです。東北地方の「蝦夷」と南九州の「熊襲」
(ヤマトに降伏後、「隼人」と呼ばれる)は反乱を起こしましたが、
圧倒的な力の差によって押さえつけられました。このようにして、
律令制にもとづく天皇制とは民族差別の制度化のなかで構築された
ものなのです。
私が大きな問題だと思うのは、研究がどんどん進んでいるにもかかわらず、
未だに天皇家を「神」とつながる特別な血筋であると考える人たちが少な
くないことです。また、日本という国や日本民族が多様なルーツをもつ人々
によって成り立っていることも驚くほど知られていません。 >>429
>縄文時代の終わり頃から続々と侵入してきた稲作民たち
具体的に、どんな船で何人位来たんだろうね? >>71
縄文人独創の漆はJAPANと称され欧州では別格の存在とされる。
神聖ローマ帝國マリアテレジア國母陛下にはこのJAPANを厚く評価され
ダイヤよりはるかに素晴らしいと評された。
この気風は御子女の仏蘭西王国マリーアントワネットに完全に引き継がれている。 ソクラテスは文字が人間を退化させたという。
つまり、文字をつくることで、ググってしまい
自分で考えることをやめて、ついには退化してしまったということ。
これはソクラテスの独創でなく当時の聖人君子の常識だったのだろう >>406
お前は気候変動を知らんのかw
紀元前に山東半島まで水稲が北上した時代は今よりも海面温度が高い。
http://suido-ishizue.jp/nihon/images/kamedagou/01/ph02.jpg
だから気温も高かったが、日本列島に水稲が伝播した頃は寒冷化している。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/sundaymorning10/16abindex.files/image015.gif
その後弥生時代前期をピークとする温暖化があり水稲が青森まで伝播し半島で倭人が勢力拡大する時期と重なる。
しかし古墳時代に縄文期の寒冷化よりも下がる寒冷期が訪れ、そのピークは半島の倭人勢力の後退と重なる。 >>419
平均寿命が30年と計算した時はいつだということだが。
その時よりも人骨の出土が増えて数を見直した話だろ。
お前のその話も言われていたが、それだけではない結果も出ているから上がる可能性の話も出ているんだよ。
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/qa/detail.php?seq=48
> 形質人類学の研究者が、発掘調査による出土人骨を用いて縄文時代の人たちの平均寿命を算出してみたところ、
>およそ15歳という数値が導きだされました。ただし、発掘調査では乳幼児の骨があまり出土していないことから、この
>世代の生存率をどう捉(とら)えるかによってこの数値よりも小さくなる可能性も考えられるようです。
>また、最近のデータでは60歳位の人骨も確認されており、以前に行なった人骨の同定データに見誤りがあり、実際
>より若い年齢にしてしまった可能もあり、逆にもう少し大きくなるのではと考えている人もいるようです。 >>425
日本語に国をナラと呼称する語がないのはどうしてだ?
平城京は「ならのみやこ」とも読み、平城山は「ならやま」と読む。
平らな場所=均(なら)した場所であり、造成した場所=成(な)らした場所でもある。 >>429
その人は社会学者がメインで共産党員。部落解放同盟に近い人で内容が政治的なんだよ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E6%B5%A6%E5%92%8C%E5%85%89
研究者としてのピークは20世紀後半で、そこで語られているモデルは古い階級闘争史観だよ。 >>402
>山本博文
この人、近世が研究対象の人なんだけどね。 ほんとに今の日本は何から何まで左翼左翼左翼だ!!
まったく馬鹿げてる。ひどすぎる!いい加減にしろ!
歴史を共産左翼の公式とやらでひねくりまわすなんて無礼にもほどがあるぞ
縄文時代の遺跡出土品は
御神典たる古事記ならびに日本書紀の御記述を
証明している。 >>434
ならばその気候変動時に朝鮮半島でも水稲栽培ができたと認めるわけだな
だとすれば日本から半島に水稲が伝わったという説は成り立たなくなるが? 朝鮮半島が先かどうか議論はさておき、そもそも稲作が
アプリオリに素晴らしいものなのか、狩猟採取よりも優れて
いるものなのか、という話をしたい。
結論から言うと、狩猟採取社会は養える人口は少ないが、
多種多様な食物を採取しているから飢饉に対して強い。
農耕社会はその逆で、通常年は多くの人口を養えるが、
いったん天候不順になると一気に人口が減る。その過程で
大きな戦争が起こる。
明治政府が北海道のアイヌに対し土地を与えて農業指導を行ったけど、
受け入れたのはわずかだった。それは彼らが無知だったわけでも
怠け者だったわけでもなく、違う文化に属していただけのことなのだ。
てなわけで、農業の開始時期をむりやり縄文時代にまで引き上げるのは、
ある種の人たちにとって心地良いのかも知れんけど、あんまり
意味のある議論には見えないよなあ。 >>441
これが理解できなかったのかな?
>日本列島に水稲が伝播した頃は寒冷化している それと、日本列島と半島への伝播の同時性が否定されるわけでもない。 弥生時代も縄文時代も良いが、更に前の旧石器時代の石槍が日本中からゴロゴロ出てくるってのにロマンを感じるな。
当時の人がひとつひとつ手作業で丁寧に石槍を作る姿を想像すると感慨深いものがある。 >>442
>農業の開始時期をむりやり縄文時代にまで引き上げるのは
出土物に痕跡があるのは古代人が偽装したのか?w >>442
そもそも、奈良時代の記録には東北に「田夷」がいるとあるだろ。
田は元は耕作地一般を指す言葉で、奈良時代もその用法だ。
畑作をしている蝦夷という意味だな。これはどう説明をするんだ?
お前はいつも自説のために都合の良い部分だけ取り上げるな。 韓半島で農業革命が起きなかったら縄文人は農耕を知らずに絶滅したとおもいます。
未開だった縄文人は洗練された渡来人に農業を習い、餓えから救われ、文化を教わり、
仲良くなった二人が手に手を取り合って日本人が生まれたのです。 >>449
>韓半島で農業革命
革命ならば画期的なことがあったわけだが、どんなことがあったのですか? >>450
>>442は読んだのか?
そちらは近代の話を例にしてるぞw 農耕しようがするまいが、したところで大したものは作っていないはず
どうでも良いショーも無い事を問題化する方が大間違い。 >>448
一般論として、奈良時代の蝦夷が耕作していることを、縄文人が農業を受容したことの
根拠にするのは無理がある気がする。この点は>>450と同じ。
>>452
時代区分の問題じゃじゃなくて、自分たちの文化と異なる価値観に基づいた文化を
受容するのは難しいという話なのよ。
たぶんそういう部分には気づいた上で、あえて反論しているんだとは思うけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています