【考古】縄文人は農耕をしたか 大学×地域、歴史の謎挑む 植物大型化、解明目指し
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毎日新聞 2017年12月4日 地方版
https://mainichi.jp/articles/20171204/ddl/k17/040/115000c
縄文人は農耕をしたのか−−。首都大学東京の山田昌久教授(考古学)らが今年、全国5カ所の研究施設と協力し、縄文人が食べた可能性がある植物の本格調査を始めた。北陸からは能登町の町真脇遺跡縄文館が参加。野生種の豆を植え、肥料の有無による収穫量の違いなどを調べて、遺跡から出土した植物の種などと比較する。研究の最先端を走る大学と、遺跡を熟知する地域がタッグを組み、歴史の謎に挑む。【久木田照子】
■遺跡周辺で栽培実験
昨年の事前調査を経て、2019年までの3年間、調査を行う。研究代表者は岡山理科大の那須浩郎准教授(考古植物学)。岩手県一戸町▽山形県天童市▽静岡市▽能登町▽福岡市−−の縄文〜古墳時代の集落遺跡(国史跡)周辺で、植物の栽培実験をする。いずれも、遺跡に隣接する博物館などが協力。施設の敷地は開けているため、縄文集落のような日照環境を再現しやすいという利点もある。
調査では、縄文時代に植物が大型化したメカニズムの解明を目指す。研究チームによると、近年、各地の縄文遺跡の発掘調査で、クリやツルマメ(大豆の祖先)などが野生の状態より大きく育っていたことが分かった。遺伝子の突然変異のほか日当たり、栄養などの環境が影響するとみて、調査を計画した。食べられる植物を縄文人が大量に得ていた状況が明らかになれば、農耕が行われていた可能性も浮かぶ。
■骨粉や貝粉、肥料に
縄文館敷地の調査畑は12平方メートル。ツルマメとヤブツルアズキ(小豆の祖先)を、肥料を与えるものと与えないものに分けて育てた。肥料は縄文時代に存在した物を想定し、動物骨粉や貝粉などを選んだ。今年6月に植え、11月に収穫。目視では肥料を与えた方が豊作だった。今後は種の大きさや収量を計測する。また、館周辺のクリや、事前調査での収穫後に自然に芽吹いたイヌビエなどの観察も続ける。復元した石器で畑を耕す実験も検討するという。
■協力、双方に利点
山田教授は、地域の担当者と協力する利点について「研究テーマに意義を感じ、関心を持つ人が畑をこまめに観察しなければ研究は成立しない」と話す。縄文館では高田秀樹館長が、肥料の与えすぎやイノシシの足跡などに気付くと、すぐに対応した。山田教授と高田館長らは、石器で木を伐採し先史時代の丸木舟を再現する研究にも一緒に取り組んでおり、協力しやすい下地が培われていたという。
地域にとっても、大学の研究者と組む意味は大きい。研究成果によって、ここで生きた縄文人の生活や思考がひもとかれていく。高田館長は「研究は多くの人の歴史への関心を深め、地元で遺跡を守り活用する応援団を増やすはず」と期待する。 >>378
確かに日本人の殆どが大陸から来たもんな〜 小学校で四谷大塚で習うだろw
テンノーより古いだろ?
品川区w
歴史?考古学?オマエラ日本にそんなものがあったとは考えにくいwww
外国人さんが明治時代に発見したんだけどwww
大森貝塚
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E8%B2%9D%E5%A1%9A
東京都品川区から大田区にまたがる縄文時代後期 - 末期の貝塚。モース貝塚とも。
概要[編集]
1877年(明治10年)6月17日に横浜に上陸したアメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、
6月19日に横浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてから直ぐの崖に貝殻が積み重なっているのを列車の窓から発見し、
政府の許可を得た上9月16日に発掘調査を行った
縄文時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
縄文時代 前14000年頃 – 前4世紀 現在、中国から移民を入れようとしてるけどこれも渡来人。
自滅衰退していってる現在の日本人と混血して数千年後は8-9割が中国人の遺伝子になるのだろう。
歴史は繰り返すのだな。 >>378
これだけ半島から連日難民ボートが来ているから近いような感じもするんだけど
半島と眼と鼻の先の出雲地方のDNAは遺伝的に半島から遠くて関東とか東北の方が
ずっと近いというから驚くわ 現在の韓国人は、日本の鎌倉時代にシベリアから朝鮮半島に来たんだよな。
火山灰で真っ白になった朝鮮半島に。
だから、日本と中国の間にありながら、今の韓国人には変な習慣(茶碗を持ち上げない)がある。 >>378
核ゲノムの12%というのを誤解してるのかな?
あれは縄文時代人のサンプルは東北と長野に限定されていて、現代人は東京だけだった。
ミトコンドリア遺伝子においては、縄文時代は複数の集団が存在していたことが判明しており、本州以南は
東山道地域とそれ以外で構成が違う。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/sundaymorning10/16acindex.files/image053.gif
つまり、12%というのは東北系の遺伝子がどれだけ関東以西の現代人に存在しているのかというものでしか
ないし、更に言うと、今回の現代人のサンプルがそういうものだというだけだ。 >>387
難民が住み着くのは都市部なんだよね。
弥生人もさ。 つまり、関東縄文人と現代日本人の核ゲノムを比較すると、この前の12%より高い数値が出る可能性があるわけだ。 >>386
どうせ都市部に集中するだろうから地震で壊滅するか母国へ逃げ帰るだろうよ >>353
みみっちいと言うかそもそも熱帯の植物である稲を日本で育てようってのが割と無茶
気候も考えず近畿や東海の連中が権力者になって米中心経済押し付けるもんだからちょっと小氷河期入った江戸時代なんか東北は慢性的な飢饉状態 「農耕」という言葉だと意味が広くなる。
集落に栗などの木を植えて実が成るまで放っておくのは初歩的な栽培だが、これも農耕に含めるの? >>395
三内丸山の場合は同一遺伝子の栗の林を形成しているので農耕と呼ぶ人がいる。
ただ、厳密にしたい人は園耕と呼ぶ。
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%92%E8%80%95-821454
>園耕【えんこう】
>小規模な農地で行われるきわめて集約的な農業。鍬(くわ)などの小道具と人力を主体に作物の特性に応じた施肥,
>灌漑(かんがい),栽培,移植,間引,中耕,除草,剪定(せんてい)など綿密な作業がなされ,畜力・機械の利用は
>少ない。 朝鮮半島の青銅器時代の水稲稲作:
水稲作を通じた食量生産の増大は証明されておらず、三国時代でも食糧供給地としての水田の役割は微弱である
野生動物の捕獲が儀礼に活用されたものと推定されている(註 18)。
青銅器時代の農耕において稲作を中心にとらえ、水稲作を通じた社会変化を議論することには多少無理が
あるように見える。
耕作遺構を通じてみた青銅器時代の農耕は畠作が中心となる農耕であり、水稲農耕は水稲作が可能なごく
一部の地域や、イネを特殊作物として選好した集団によって、選択的になされたものと考えられる。 >>349
>日本も半島の水田の時代に大差ない
でも日本列島でジャポニカ米が改良されて寒い北陸地方でも米が作れるようになって
やっと朝鮮半島でも稲作が可能になったのでは?
南北朝時代まで日本の日本海側では麦や蕎麦や粟しか生産出来なくて
豊な国はもっぱら太平洋側に限られてたし
そもそも農耕文化に疎い騎馬民族は水田を必要としない粟粥が主食だったでしょ
まあ北陸でも米が作れる様になって日本海側の国が軍糧で強くなったら
日本は一挙に戦国時代へ突入しちゃったけど 日本は、鉄器時代と青銅器時代がほぼ同時期に始まってる。また石器による青銅祭器
の模擬品や木工品・土器による模倣品も同時期にあった。島根県や鳥取県一帯の砂鉄
による製鉄はたたらのクズが辺り一帯に有る事から、相当長年続いたと考えられる。
古代における貿易は軽く見られがちだが、中国大陸と鉄を通じた商売は可成り行って
いたのではないか。その過程で、縄文人の中には影響されて大陸産の農作物も取り入
れていったように思う。米は水と縁が深いが、焼き畑でも稲作は行う事が出来る。既
に日本では絶滅状態(収穫量や機械化が困難など)だが、品種としては残っており灌
漑設備を有しないアフリカの一部の国に技術援助で陸稲を提案している。かなり成功
しているようだ。その場合も日本人がアフリカ植民した訳では無く、
技術援助な訳で穀物と民族移動を過度に絡めても無意味ではないか・・・・・w 縄文文化と弥生文化のはっきりした区分けは無いんだよ
縄文時代から稲作しているのは当たり前 大和朝廷征服論
『日本書紀』以来、彼らは古くから蝦夷(えみし)と呼ばれ、本来原住民族であった縄文人は、
稲作文明を持って来た倭人の到来によって東北地方に追われ、またこの渡来人の国家建設と共に、
倭人が北上し日本列島を征服した結果、蝦夷の住処はだんだんと少なくなり、ついに北海道の一角に追いやられました。
その蝦夷の領域を、中国大陸や朝鮮半島から南下した武力に勝る倭族や加羅族または南西諸島を北上してきた隼人族や呉族系により、
日本列島の西側から東側に次々と小国家を造り、支配者になりました。それが邪馬台国や伊都国、狗奴国などの「倭の国々」だったのです。
そして誓約(うけい)の儀から始まる古事記や日本書紀の壮大な物語は、
天皇家の自己の存在の正当化のために大和朝廷が土蜘蛛退治と称し先住民族を武力で征服した歴史を
都合良く「天孫降臨伝説」として神格化して創造したフィクションなのです。
天皇家の先祖は、外から大和の地に入り、それ以前から気候や風土を自然信仰して来た元々の住民を打ち倒して、それに取って変わったと考えるほかありません。
大和朝廷すなわち天皇家とそれに仕える貴族が、始祖王の出生と日本を統治するようになった由縁を、
あたかも悠久の昔から日本の統治者であったと言うことを強調するために過去の歴史に遡らせて実在しない天皇を創造し
初代神武天皇の橿原宮での即位、神武東征以降から9代目の開化天皇の春日率川宮での即位まで崇神天皇以前の歴史を記紀として編纂させたと言われています。 放送日 2017年5月29日 ニュースZAP
https://twitter.com/newszap_bs/status/869115538617716736
今日のゲストは初登場!漫画『日本の歴史』シリーズの監修も務める東京大学史料編纂所教授 山本博文さん!曜日ザッパー モーリー・ロバートソンさんと緊迫する世界のニュース、天皇家について語り合います!
日本書紀 天皇側が作った
資料すら信頼できない
神武天皇 伝説的な天皇(天皇側が作った)
おそらく仁徳天皇以降が実在した天皇
今の天皇家の祖先 だいたい遡れるのは継体天皇
ニュースZAP 山本博文 >>395
ヒエ、アワ、ダイズ、アズキを野生種から栽培化しているのを農耕と呼ばずになんというのかな?
麦以外は農耕と認めないのか?
とうもろこしを作ったアメリカ先住民、じゃがいも、さつまいも、トマトを作った人々は
農耕をしていなかった?
すべての文明は地中海から? >>383
これ言ってるの佐藤洋一郎だけ
しかもこれは半島から水稲が伝わったということを否定するものとはなり得ない >>397
だからこれも半島から水稲が来なかったという証明にはならない
水稲栽培にはそのほかにも松菊里文化が流れ込んでいるから
水稲は半島から来たと考えるのが妥当 >>398
水田は半島南部よりさらに北の中国山東半島でも見つかっている(p118)
http://user.dankook.ac.kr/~oriental/Journal/pdf_new/49/8.pdf
日本でも弥生期にはすでに青森まで水田が広まっていた
http://www.aptinet.jp/Detail_display_00006704.html 俺が縄文人だった頃は稲作、大麦、粟、稗、黍、栗を栽培していたなぁ。
あとは山で猪、鹿、熊、雉を狩り、川や沼、海で鮎、鮭、鯰、鱸、鯛、アサリ、蛤
蜆、帆立、栄螺、鮑、蟹、海老、蛸、烏賊を捕まえていた。
たまに翡翠を年単位の時間をかけて穴を開けたり、火焔土器を拵えたり
木の実や野草、山菜を採っていたな。懐かしい・・・。 現実と歴史区分にはギャップがあるのさ
現実はすっぱりと世界が変わったりしない
虹のように少しづつ変わるもの >>394
>南北朝時代まで日本の日本海側では麦や蕎麦や粟しか生産出来なくて
>豊な国はもっぱら太平洋側に限られてたし
君の認識はおかしいね。 >>405
松菊里文化ってどこにあるか知ってるか?
任那の地域なんだよ。
6世紀に大伴金村が政権に無断で百済に割譲してしまって処分された土地だw ウンコしたとこから何かしら芽生えてきて?と思ったのがハジマリ 百済は、韓国の地図なんかでは南端まで書いてある。
しかし、これは六世紀になってからのものだ。
百済の発祥はもっと北で、最初の都は平壤あたりで、その後ソウル近辺に移した。
しかし、高句麗に押されて475年の漢城(ソウル)を失う。
広州に遷都し、武寧王の時代の512年、大伴金村が任那4県を割譲する。
高句麗がさらに南下し、538年聖王は都を扶余に移す。
日本では任那の割譲などまともに取り上げることはないけどな。
しかし、朝鮮側の資料から見て、高句麗に押されて領土を失い、南に遷都しながら
王子を日本に人質に出している百済、割譲後、責任を取らされ失脚した大伴氏。 >>413
あ、すまん。
6世紀にはすでに任那ではなかったな。 縄文人の平均寿命30歳説が最近見直されてて、
人骨の調査で65歳以上が全体の3割以上を占めていたことが判ったそうだ
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201011130129.html
平均寿命が30歳前後とされ、「過酷な生活環境のため、早死にする人が多かった」と考えられてきた縄文時代の人たち。
しかし、出土人骨の年齢推定に関する最新の研究で、実は65歳以上とみられる個体が全体の3割以上を占める――という結論がこのほど提示された。 405は松菊里文化とかすごい文明だと思っていそうだな。
文化ってつけるの初めてみたわ
普通は「松菊里型住居跡」くらいだからな
九州や奈良で見つかるらしいが、全部がそれの遺跡なんて聞いたことが無いな。 >>417
あり得ない。乳幼児の骨が残らなかっただけ。 縄文文化はやっぱり東日本中心なのか?
その時代九州沖縄は何人が居たのか熊襲や隼人は何者?
農業とは関係のない話だけど >>205
青森の僻地になんであんなデカイ柱建てたの?
俺青森人なんだけど中に入ったことない >>420
西日本は7300年前の鬼界火山の大噴火で、縄文文化は壊滅したんじゃなかったかな。 >>418
別にすごい云々ではなく文化的連続性がある一つの証拠
水稲栽培とともに文化も流入した可能性が高いということ
それだけのこと >>422
>>422
西日本が絶滅したというのは最近では様々な発見から見直され始めている
「つまり,轟A式土器群が製作・使用されていた地域,同土器型式が分布する土器圏全体が
噴火によって壊滅し,土器の製作情報が断絶したということはなく,
九州レベルでみたときに,土器型式を製作し継承していく人間の営みは途切れることはなかったと評価できる。」
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/1440989/scs0220.pdf
このソースのp92 縄文人は国を作るっていう文化が全く無かった
朝鮮から渡来してきた弥生人が国(ナラ)を作った >>425
朝鮮じゃないよ
秦から徐福が来たんだよ >>425
古代の国というのは文字文化のある他国から認識され、記録に遺されて初めて存在を確認できる
縄文時代には中国との交渉がなかったというだけのこと
弥生文化を持つ人がどこから来たかはともかく、その弥生文化を持つ人の国が確認されたのは奴国(博多)で一世紀、倭国全体でもで三世紀に入ってからだし >>420
縄文中期は東日本だね。
ただ、西日本は難しいよ。
台地が少ないこと、稲作が早くに始まり人口の増加も早く、手っ取り早く早く言えば
田畑を作るのが早くてかき回されて遺跡が残りにくい。
そんで、台風が多くて土砂の堆積が多くて、縄文遺跡はかなり地下深くなってるとか。
残りにくく見つかりにくい。
富山の遺跡だって、田んぼの下だったしな。 「日本人」はどこから来たのか
「歴史」は権力者に都合よく創られる
http://www.jinken.ne.jp/be/meet/okiura/
縄文時代の終わり頃から続々と侵入してきた稲作民たちの中には、
自分たちを天照大神以来の皇統を受け継いでいる天孫、すなわち天津神
(あまつかみ)の子孫であると主張した人たちがいました。しかし
実際は先住民を次々と征服し、自分たちの王朝を打ち立てた侵入者
(インベーダー)でした。
そして、律令制によって天皇制国家を法制化し、公地公民制と
身分制度を確立したのです。東北地方の「蝦夷」と南九州の「熊襲」
(ヤマトに降伏後、「隼人」と呼ばれる)は反乱を起こしましたが、
圧倒的な力の差によって押さえつけられました。このようにして、
律令制にもとづく天皇制とは民族差別の制度化のなかで構築された
ものなのです。
私が大きな問題だと思うのは、研究がどんどん進んでいるにもかかわらず、
未だに天皇家を「神」とつながる特別な血筋であると考える人たちが少な
くないことです。また、日本という国や日本民族が多様なルーツをもつ人々
によって成り立っていることも驚くほど知られていません。 >>429
>縄文時代の終わり頃から続々と侵入してきた稲作民たち
具体的に、どんな船で何人位来たんだろうね? >>71
縄文人独創の漆はJAPANと称され欧州では別格の存在とされる。
神聖ローマ帝國マリアテレジア國母陛下にはこのJAPANを厚く評価され
ダイヤよりはるかに素晴らしいと評された。
この気風は御子女の仏蘭西王国マリーアントワネットに完全に引き継がれている。 ソクラテスは文字が人間を退化させたという。
つまり、文字をつくることで、ググってしまい
自分で考えることをやめて、ついには退化してしまったということ。
これはソクラテスの独創でなく当時の聖人君子の常識だったのだろう >>406
お前は気候変動を知らんのかw
紀元前に山東半島まで水稲が北上した時代は今よりも海面温度が高い。
http://suido-ishizue.jp/nihon/images/kamedagou/01/ph02.jpg
だから気温も高かったが、日本列島に水稲が伝播した頃は寒冷化している。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/sundaymorning10/16abindex.files/image015.gif
その後弥生時代前期をピークとする温暖化があり水稲が青森まで伝播し半島で倭人が勢力拡大する時期と重なる。
しかし古墳時代に縄文期の寒冷化よりも下がる寒冷期が訪れ、そのピークは半島の倭人勢力の後退と重なる。 >>419
平均寿命が30年と計算した時はいつだということだが。
その時よりも人骨の出土が増えて数を見直した話だろ。
お前のその話も言われていたが、それだけではない結果も出ているから上がる可能性の話も出ているんだよ。
https://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/qa/detail.php?seq=48
> 形質人類学の研究者が、発掘調査による出土人骨を用いて縄文時代の人たちの平均寿命を算出してみたところ、
>およそ15歳という数値が導きだされました。ただし、発掘調査では乳幼児の骨があまり出土していないことから、この
>世代の生存率をどう捉(とら)えるかによってこの数値よりも小さくなる可能性も考えられるようです。
>また、最近のデータでは60歳位の人骨も確認されており、以前に行なった人骨の同定データに見誤りがあり、実際
>より若い年齢にしてしまった可能もあり、逆にもう少し大きくなるのではと考えている人もいるようです。 >>425
日本語に国をナラと呼称する語がないのはどうしてだ?
平城京は「ならのみやこ」とも読み、平城山は「ならやま」と読む。
平らな場所=均(なら)した場所であり、造成した場所=成(な)らした場所でもある。 >>429
その人は社会学者がメインで共産党員。部落解放同盟に近い人で内容が政治的なんだよ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E6%B5%A6%E5%92%8C%E5%85%89
研究者としてのピークは20世紀後半で、そこで語られているモデルは古い階級闘争史観だよ。 >>402
>山本博文
この人、近世が研究対象の人なんだけどね。 ほんとに今の日本は何から何まで左翼左翼左翼だ!!
まったく馬鹿げてる。ひどすぎる!いい加減にしろ!
歴史を共産左翼の公式とやらでひねくりまわすなんて無礼にもほどがあるぞ
縄文時代の遺跡出土品は
御神典たる古事記ならびに日本書紀の御記述を
証明している。 >>434
ならばその気候変動時に朝鮮半島でも水稲栽培ができたと認めるわけだな
だとすれば日本から半島に水稲が伝わったという説は成り立たなくなるが? 朝鮮半島が先かどうか議論はさておき、そもそも稲作が
アプリオリに素晴らしいものなのか、狩猟採取よりも優れて
いるものなのか、という話をしたい。
結論から言うと、狩猟採取社会は養える人口は少ないが、
多種多様な食物を採取しているから飢饉に対して強い。
農耕社会はその逆で、通常年は多くの人口を養えるが、
いったん天候不順になると一気に人口が減る。その過程で
大きな戦争が起こる。
明治政府が北海道のアイヌに対し土地を与えて農業指導を行ったけど、
受け入れたのはわずかだった。それは彼らが無知だったわけでも
怠け者だったわけでもなく、違う文化に属していただけのことなのだ。
てなわけで、農業の開始時期をむりやり縄文時代にまで引き上げるのは、
ある種の人たちにとって心地良いのかも知れんけど、あんまり
意味のある議論には見えないよなあ。 >>441
これが理解できなかったのかな?
>日本列島に水稲が伝播した頃は寒冷化している それと、日本列島と半島への伝播の同時性が否定されるわけでもない。 弥生時代も縄文時代も良いが、更に前の旧石器時代の石槍が日本中からゴロゴロ出てくるってのにロマンを感じるな。
当時の人がひとつひとつ手作業で丁寧に石槍を作る姿を想像すると感慨深いものがある。 >>442
>農業の開始時期をむりやり縄文時代にまで引き上げるのは
出土物に痕跡があるのは古代人が偽装したのか?w >>442
そもそも、奈良時代の記録には東北に「田夷」がいるとあるだろ。
田は元は耕作地一般を指す言葉で、奈良時代もその用法だ。
畑作をしている蝦夷という意味だな。これはどう説明をするんだ?
お前はいつも自説のために都合の良い部分だけ取り上げるな。 韓半島で農業革命が起きなかったら縄文人は農耕を知らずに絶滅したとおもいます。
未開だった縄文人は洗練された渡来人に農業を習い、餓えから救われ、文化を教わり、
仲良くなった二人が手に手を取り合って日本人が生まれたのです。 >>449
>韓半島で農業革命
革命ならば画期的なことがあったわけだが、どんなことがあったのですか? >>450
>>442は読んだのか?
そちらは近代の話を例にしてるぞw 農耕しようがするまいが、したところで大したものは作っていないはず
どうでも良いショーも無い事を問題化する方が大間違い。 >>448
一般論として、奈良時代の蝦夷が耕作していることを、縄文人が農業を受容したことの
根拠にするのは無理がある気がする。この点は>>450と同じ。
>>452
時代区分の問題じゃじゃなくて、自分たちの文化と異なる価値観に基づいた文化を
受容するのは難しいという話なのよ。
たぶんそういう部分には気づいた上で、あえて反論しているんだとは思うけど。 >>454
おいおい、それではアイヌを出すのも同じだろw
自分の主張には当てはまりませんか?w 農業革命とは大規模な水田稲作農業の発明です。
田んぼを作るには測量などの土木技術が要りますし、
川から水を引き込むためにクリークを引き込むなどの治水技術も要ります。
韓半島の弥生人には常識でしたが、未開な縄文人に教えるのに骨が折れました。
あと、金属製の農具の発明ですね。
縄文人は石とか木しか思い浮かばなかったので仰天したみたいです。 >>457
>農業革命とは大規模な水田稲作農業の発明です
揚子江地域で既に行われたものだろ。 >>445
だからその考古資料をちゃんと提示しろ
それを主張している研究者、そしてその所属を明らかにしろ
日本会議ユナイトさんよ >>444
日本列島に水稲が伝播した時が寒冷化しているということと
気候変動時に朝鮮半島で水稲が栽培可能であったことと何の関係が? >>459
>日本会議ユナイトさんよ
誰のことだ?
俺がそうだと?それを証明するものをちゃんと提示しろよ、エスパーさん。 >>460
まさか、朝鮮半島への伝播時期は温暖期だと思っているの?w ID:ugFBSQSo0=ID:npwc53ur0かな?
朝鮮半島の灌漑が長らく未熟だったこと(水車も作れなかった)や日本では弥生時代にはやっていた田植えも
長らくやっておらず直播だったったこと(李氏朝鮮後期の18世紀に輸入した農書を見て田植えを行わせた)を
指摘したら、言っていることを理解できず指摘の内容の確認もせずに>>337のpdfを指して灌漑施設があるだろ
>と頓珍漢な事を言った人かな? >>461
認めたかw
ホモ未成年買春の武藤に日本から半島伝播説を言わせてたわけだよなを >>464
誰も認めていないが?
お前、アホだろ。 >>462
では半島に水稲が伝播したときは寒冷期で水稲栽培は寒冷期でもできるということですね >>465
ではちゃんと考古資料を提示してください
ちゃんとソース付きで論文とその研究者名、所属を明らかにしてください >>463
うむ。
やっぱこういうスレでは、みんなコテを付けた方が互いに幸せだよな。 半島南部の韓国で白いご飯が食べれるようになったのは最近の話
1980年代でも雑穀ごはん >>466
伝播の同時性を損なうものではないね、と言っているのだが、どうしてこれが「日本→朝鮮半島」になるんだ?
お前は自分を批判するものは全て同一人物に見えるのか? 世界四大文明に縄文文明を加えるべきだと
いま世界の歴史学者と考古学者が議論している >>470
ですから伝播の同時性を説いている研究者名、所属を明らかにしてください
そしてそれが研究者の間で受け入れられているという根拠をお示しください >>472
お前は権威を利用して相手にマウントしたいだけなのか? >>468
日本会議が江戸しぐさとかやらなければこんなスレは個々人の妄想スレで幸せだった
ロマンに溢れてて考古学専攻の俺でも見過ごせたが日本会議が擬似愛国思想でそれをめちゃくちゃにした >>473
ですからちゃんとソースを提示してください
考古学は科学の一部です
ちゃんとしたソースの提示が必要な学問です 伊の一番にやって来たオセアニアンの主食である里芋
(タロやキャッサバの類で琉球や台湾乃至海南では田芋(最初に水田に植えられていたのは芋だった!)と呼ばれて居る)
を朝鮮学者が必死にガン無視してるのが笑える >>474
お前は歪みすぎだな。
>考古学専攻の俺
権威主義的な言い方とか「発掘したことあるか?」とか言うと思ったら、学部生かw
論文コピペ程度の話しかできなんだな。
それと、発掘はバイトやパートのおばちゃんもいるだろ。考古学専攻以外の学生もバイトで参加することだってある。 >>474
まあ、このスレだって俺も含めて8割がた「個々人の妄想」な感じなので、
日本会議云々はあんまり関係ない気もする。そのうえでの専門家の役割は、
間違った意見とがっぷり組んで戦うことじゃなくて、うまくあしらって
「その他大勢」の興味を削がないように気を遣うことだと思う。
というのは、考えてみれば無茶苦茶ハードルが高いよな。
すまんと言いつつあんまりすまんとも思っていないが、頑張っておくれw >>479
だからちゃんとした研究者名を出してくれと言ってるんだ
お前みたいのがいるから、このスレはロマンの溢れたスレにならないんだよw
まあ俺もこのスレを荒らした気がするので罪滅ぼしに言ってみるが
もし畑とか掘っていてなんか出てきて、それほど重要そうな土器の小片とかだったら
自分で取っていてもいいよw そんなの眺めてるの楽しいもんなw
本当は法律違反だけどなw 現生人類、「出アフリカ」は一度だけではなかった
http://www.afpbb.com/articles/-/3154637
【12月8日 AFP】人類がアフリカを出て移住したのは約6万年前の一度だけという説は
もはや正確な人類史とは考えられないとする研究報告が7日、米科学誌サイエンス(Science)に発表された。
研究によると、現生人類の拡大をもたらしたのは、約12万年前から始まった複数回にわたる移住だ。
DNA分析や化石同定技術の発達、とりわけアジア地域における発見が、
人類の起源についてのこれまでの認識を見直す一助となっている。
研究によると、現生人類ホモ・サピエンス (Homo sapiens)がアジアに到着したのは
これまで考えていたよりずっと前であることが、過去10年間の「大量の新発見」で明らかになったという。
中国の南部と中央部の複数の場所で、約7万〜12万年前のホモ・サピエンスの化石が見つかっている。
また発見された他の化石は、現生人類が東南アジアとオーストラリアに到着したのは6万年前よりもっと前であることを示している。
独マックス・プランク人類史学研究所(Max Planck Institute for the Science of Human History)の
研究員、ミヒャエル・ペトラグリア(Michael Petraglia)氏は
「約6万年前よりも前にアフリカを出た人類の最初の拡散は採食者の小さな集団によるもので、
現生人類に少なくとも低レベルの遺伝的痕跡しか残していない」と指摘する。
同氏によると、その後の大規模な「出アフリカ」が約6万年前かその後に起きた可能性がある。
今回の研究報告によると、この約6万年前の大移動が
「非アフリカ系現代人の遺伝的構成の大部分に寄与している」ことが最近の研究で確認されている。
この初期の移住でネアンデルタール人(Neanderthals)やデニソワ人(Denisovans)を含めた他の人類種などとの交配が、
ユーラシア大陸の多くの場所で起きた。
科学者らの推定によると、非アフリカ系現代人は、DNAの1〜4%がネアンデルタール人に、5%がデニソワ人に由来するものだ。
研究は、現生人類、ネアンデルタール人、デニソワ人とおそらく他の人類種集団がアジアで時間的および空間的に重なり合い、
数多くの交流があったことは明らかだとしている。
(c)AFP >>481
>本当は法律違反だけどなw
マニアにとって当たり前の知識の話を青臭くドヤ顔するなよ。
自分が気に入らないものはなんでも日本会議だと思うのは病的だぞ。
それでは科学的なことはできんぞw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています