大阪の町と戦後に再建された現在の大阪城。豊臣時代の大坂城はこの下に埋まっている=大阪市(本社ヘリから)
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 大阪のシンボルといえば、今も昔も大阪城。太閤さんの城というイメージが強いが、実は徳川の再建で、元の「豊臣大坂城」はその下に埋まっていた−。そんな事実が徐々に明らかになっている。上方文化を学ぶにはまず大阪のまちづくりから…となればやはり、大阪(坂)城を学ばずして大阪は語れない。

■「ブラタモリ」で取り上げてほしかった絵図

 「ブラタモリ」というテレビ番組が人気を呼んでいる。古地図を手に、まちを散策し、現代に残る歴史の痕跡を探る番組である。

 ブラタモリの大阪編は終わったが、ぜひ取り上げてほしかった絵図がある。江戸時代に幕府の大工頭を務めた中井家伝来の建築絵図である。昭和35(1960)年、中井家で「大坂御城小指図(さしず)か」と上書きのある袋から和紙に透き写した絵図が発見された。これが豊臣時代の大坂城の本丸図であった。

 それまで、現在の大阪城は豊臣秀吉が築城し、大坂の陣の後、徳川氏が修復したものと考えられていた。しかし、34(1959)年に行われた大坂城総合学術調査で、現存の石垣や櫓(やぐら)はすべて徳川時代の新造であることが確認された。しかも地下7メートルの所から謎の石垣が現れ、その位置が中井家の本丸図と一致した。豊臣大坂城は現在の大阪城(徳川大坂城)の地下に埋まっていたのである。

 中井家の絵図の出現で、秀吉時代の大坂城本丸の姿が現実になった。馬蹄(ばてい)形の堀と石垣は現在の大阪城と相似形で、南は空堀(からほり)、東から北は水堀という構成も同じである。しかし建物配置は異なり、現在の天守は本丸の中央にあるが、豊臣の天守は東北隅にそびえていた。

 豊臣大坂城本丸図の発見から半世紀。膨大な中井家資料は大阪くらしの今昔館(大阪市)に寄託され、平成23(2011)年に重要文化財の指定を受けた。

 豊臣大坂城の城下町については大学の後輩の宮本雅明氏の研究がある。氏は江戸時代に東横堀川の高麗橋(こうらいばし)西詰に建っていた櫓屋敷に注目した。これは高麗橋通を挟んで南と北にあった2棟の町家で、屋根の上に城郭風の櫓が載っていた。

 宮本氏は江戸時代の地図に豊臣大坂城本丸図を重ね、2つの櫓屋敷の間から豊臣天守が見通せたことを実証した。当時、ヨーロッパはバロックの時代で、遠近法や眺望を用いた都市計画が行われていたが、櫓屋敷はそれに匹敵するものである。昭和に架け替えられた高麗橋には櫓をかたどった擬宝珠(ぎぼし)がある。これは櫓屋敷にちなんだ歴史の痕跡である。

 ブラタモリは自然地形や土木事業から歴史の痕跡を探る企画が多い。私は建築学科の出身なので、建造物のまち歩きにこだわりたい。

(谷直樹・大阪くらしの今昔館館長)

■水路と大坂の産業戦略 圧倒的輸送力と「ワイガヤ」の土壌

 地名には記憶がある。古墳時代、大和朝廷の職人集団が住む「玉造部」は勾玉(まがたま)の製造拠点だった。やがて大坂城下に入り、明治維新後に大阪砲兵工廠の関連商店や工場が広がって「大大阪」を支える。今、そこはJRの駅名や地名に「玉造」という名を残す。

 「天下の台所」となった上方では、北海道の海草を見て昆布をつくり、出汁(だし)にして上方料理を生んだ。綿花を見て着物にし、ファッションを育てる。菜種を見て菜種油にし、夜を明るくした。海路によって全国から物資を集め、いろいろな人が集まり「それ、いいな」「これ、いけるのとちゃうの?」といったワイガヤから独創的なビジネスを次々と生みだしていった。

 このワイガヤの土壌が、明治になって近代の上方を生む。大阪に設けられた舎密局(せいみきょく=明治政府が開講した理化学研究機関)、造幣寮、砲兵工廠といった近代産業基盤が整備され、大阪紡績がトリガーとなって、東洋のマンチェスターと呼ばれる「商業・産業」都市が生まれた。この地が長年培ってきた港湾・水路による圧倒的輸送力▽商工農が連携した付加価値創出力▽問屋・商社による交易力−などが、紡績、繊維、機械、家電という産業を上方に生みだしたのである。

(池永寛明・大阪ガスエネルギー・文化研究所所長)

産経ニュース 2018.1.9 09:00
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