【歴史】「大和朝廷は中華思想」「周辺は夷荻」「未服従の遅れた人々だと位置づけ」 蝦夷と坂上田村麻呂の足跡 ヤマトの外に独自文化★2
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清水寺に建つ「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)之碑」=京都市東山区で、戸田栄撮影
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本州の北方や東方にあって、ヤマト側とは異なる世界を築いていた人々は「蝦夷(えみし)」という蔑称でしか今に伝わっていない。奈良や京都を中心とした初期の日本が勢力範囲を拡張していく中で、蝦夷は征服されるべき野蛮人というイメージを持たされているが、本当にそうだったのか? 歴史家の故・上田正昭氏は「日本人の多くの人がもっている蝦夷観は間違っている」(世界人権問題研究センター編・人権問題研究叢書15「講座・人権ゆかりの地をたずねて」)と指摘する。今はよく知るすべもないが、やはりどんな人々であったのかが気になる。
「大和朝廷から見た史料しか残っていませんから、そうなってきました。大和朝廷は中華思想で、自らの周辺は夷荻(いてき)であり、未服従の遅れた人々だと位置づけました」と、井上満郎・京都市歴史資料館長は語る。奈良時代初めに成立した日本書紀に描かれる蝦夷は、怪物のようでもある。冬は穴に寝て夏は木の上に巣を作って住み、毛皮の上で血を飲んでいるという。山に登れば鳥が飛ぶように、草の中を駆ければ獣のように素早いとも。同じ人間であるから、こうした描き方は現代ではリアリティーを欠くが、昔は未知の世界への恐れが強く、こんな調子で通用したのかもしれない。
井上館長によると、近年、蝦夷がいた東北地方が古くから相当に文明化の進んだ地であったとわかり、蝦夷を考えるのに重要な手がかりとなっている。縄文時代の大規模な集落跡である三内丸山、大陸と交易をしていた平安時代にさかのぼる十三湊の遺跡発掘などが、かつての東北のイメージを覆した。加えて、上田氏は東大寺の大仏の完成は陸奥守(現在の宮城県などを管轄)からの黄金献上があってのこととし、そこに地域の大きな経済力をみる。
経済力は文化を招き入れ、奥州藤原氏による平泉の文化が花開く。京都市出身の井上館長は初めて平泉を訪れた時、「京の仏像とは違う文化のもとにある仏像と一目でわかり、驚きました」と語った。そして、それは蝦夷の社会や文化の流れをくむ、大和朝廷側とは異なる豊かな社会があったことを示しているという。
それにしても、蝦夷とはどういう人たちだったのか? アイヌとの関連をつい考える人が多いようだが、文献資料でそう示すものはなく、本州の北方や東方に住み、大和朝廷側の支配の外にあって、独自の暮らしを営んでいた人々とまずは把握すべきらしい。奈良時代後期からは大和朝廷と、集団的に戦っており、部族的なまとまりを持っていたとも考えられている。
さて、蝦夷についての想像をふくらませながら歩ける京のマナび場を紹介しよう。まずは、京都市東山区の清水寺にある「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母〓(モレ)之碑」。同寺の観光順路では音羽の滝を見終えての帰路にある。1994年、岩手県奥州市の有志が同寺の協力を得て建立したものだ。
アテルイは蝦夷の指導者で、789年に胆沢(現・奥州市)での戦いで、大和朝廷の軍を大敗させている。その以前から朝廷側は蝦夷に苦戦を続けていた様子があり、上田氏は「蝦夷は強いのです」と書いている。アテルイは強い蝦夷のヒーローとして、地元では人気があるようだ。
これを破ったのが、征夷大将軍として後世に名を残す坂上田村麻呂だ。その後に続く二つの戦いで勝利を収め、802年にはもう一人の敵将、モレとともにアテルイを平安京へ連れてくる。助命嘆願をしたものの、朝廷内の反対で2人は処刑されてしまう。清水寺は、賢心上人の教えに感銘を受けた田村麻呂が建立した寺だ。その縁から、アテルイらの碑が建った。
田村麻呂ゆかりの他の場所も歩いてみよう。田村麻呂は、武具などとともに平安京の東に向けてひつぎを立てるようにして埋葬されたという。死後も平安京の守護をたくらされてのことで、国家危急時には塚が鳴動するという伝説もある。だが、その所在地はずっとわからなかった。
近年の研究で、山科区の西野山古墓がその場所として有力となっているが、山の中で訪ねにくい。気軽に行けるのは、1895(明治28)年の平安遷都1100年祭にあたり、山科区勧修寺東栗栖野町の坂上田村麻呂公園にある墳墓だ。正しい場所かはさておき、明治時代になってもこれほどの墓が整備された田村麻呂の人気をうかがい知ることができる。
続きはソース
http://mainichi.jp/articles/20180111/ddl/k26/040/474000c?inb=ra
★1が立った時間 2018/01/13(土) 23:52:48.50
前スレ http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1515855168/ 凡邊遠國。有夷人雑類謂。夷者夷狄也。雑類者夷之種類也。釋云。夷。東夷也。挙東而示餘。推可知雑類。謂夷人之雑類耳。
古記云。夷人雑類謂毛人。肥人。阿麻彌人等類。問。夷人雑類一歟二歟。仮令。隼人。毛人。本土謂之夷人也。此等雑居華夏。謂之雑類也。
一云。一種無別。 之所。應輸調役者。随時斟量。不必同之華夏。謂。中國也。
大宝律令の賦役令の中でも
土人と規定されてるからな
しょうがない >>267
邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、
朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」
と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。
なぜ、天孫降臨の折にわざわざ『韓国』に言及したのか? >>265
日本政府は清朝と中共を同じ国と認めた事は無いぞ。
単に現在の中華人民共和国を国家として認めただけなんだが、
序でに言えば中華民国も台湾を領有する国家ね。
因みに清朝の後継は満州国ね(^o^) 弥生人(大和人)の末裔の現日本人は、縄文人の末裔の琉球人(ウチナンチュ)やアイヌ人にごめんなさいしないといけないよね(´・ω・`) 大和朝廷は
なんどもチョンコしばきにいってるからな
チョンコしばいて権益も獲得してるし
朝貢まで要求して受けてる >>274
記紀にそんなものは記載されてはいないし、そもそも上古日本語と漢文で編纂されているものだが、その記紀にも中国側の文献にも
日本語と新羅語は互いに通じない別の言語であると記録されており、これによって初めて新羅語なるものの存在が確認されているだけである。 >>254
wikiは自分の思惑に都合の良いソースを選び出し
意図的に自分の意に沿える編集が多々見られるから信用度はもう一つだよ
江戸時代の農民の割合は人口全体の約9割
農民の年貢は五公五民
極少数派の地主が小作人に転農しても数は知れてるし
出稼ぎも出来ない江戸時代より明治時代の方が小作人が増えるとは疑問だ
東北は現在でも大地主的というか地域の一族が
業種によって独占する傾向が強く見られる >>287
そもそも琉球王朝は源為朝の子孫ということになってるのだが
少なくともトンキンや東日本よりはずっとむかしから大和人だよアホ >>284
つまり日本語で書いてあるわけで新羅語で書かれてはないという事だろう。
新羅語なる言語は記録文献すらない死語なのでどのような言語だったのか不明。 「いわゆる中華思想」くらいの意味だろ
フランス文化を指して言ったりもする
古代ギリシャも中華思想的(無論中国と無関係に) 半島に攻めにいった大和朝廷のヤツが♀チョンコにかどわかされて
攻めに行く予定じゃない国を理不尽にせめて滅ぼしてる
滅ぼされた国のヤツラは大和朝廷に
むちゃくちゃなことするヤツがいるから助けてくれと
懇願してきた
で、大和朝廷は、しっかり滅ぼされた国を元にもどしてる
大和朝廷は半島で、いうほどそんなに酷いことはしてない >>285
中国との共同声明で国交回復するときに中華人民共和国政府が唯一の合法政府と認めてるからちゃうで 中国共産党は覇権主義
唐やら大和朝廷は中華思想
昔の人の国家観や世界観なんだから
現在に置き換える意味がない 琉球王朝は源為朝の子孫ということで数百年に渡り琉球人を支配してきた
その琉球王朝に反抗したトンキン蝦夷みたいなのはいなかった
琉球人はむしろ大和人と同じく
大日本帝国に由来する現代のトンキン蝦夷土人支配に
反抗していると思われる >>291
「ということになってる」なんて言ってる時点で、んなもん確固たる保証はなにもないことをおまえ自身暗にゲロっちゃってるし、
仮に琉球”王朝”が、つまり支配層がそうだったとして、琉球人一般は、今の沖縄人がそうであるように、
いまだにその多くはいわゆる弥生系日本人と違い顔が濃くてエキゾチックな顔立ちをしていて、ルーツが違うことは明白だろドアホ(´・ω・`) >>1から千年以上経った1920年
日本・イギリス・フランス・イタリアの4国は、「国際連盟」初代の常任理事国となっていた。アメリカは自国の都合で不参加。
当時の近衛文麿の論文「英米本位の平和主義を排す」
藤原鎌足や藤原道長の嫡流の子孫である華族トップ近衛文麿が
東京の荻窪(おぎくぼ)にある荻外荘(てきがいそう)で幕を閉じることになるとは・・・
近衛文麿は戦前に首相を三度つとめ、太平洋戦争の敗戦により自宅「荻外荘」で服毒自殺。
【荻外荘会議】
開戦直前の1941年10月12日
対米戦争の是非とその対応について
首相、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣、企画院総裁による、荻外荘(近衛の自宅)で開かれた会議
「荻外荘」と名付けたのは西園寺公望。
2016年に荻外荘は国の指定史跡に。2012年まで文麿の息子(通隆さん・東大教授)が普通に暮らしていた。
他界後に杉並区が30億円以上で買い取り保全した経緯。 >>280
上毛野なのか上野毛なのか
そういや東京ニコタマ近くにに上野毛って地名あるな >>289>>292
文字を持たなかったという意味では一緒>>70
日本書紀:日本武尊(やまとたけるのみこと)
古事記 :倭建命(やまとたけるのみこと)
ちなみに、日本は日下(ひのもと)から。 >>293
有力な国・民族が周辺の民族・国に対してマウンティングするのは人類の基本的な習性だからね。
「いわゆる中華思想」がないのは歴史上一度も繁栄したことのない民族・国だけ。 >>270
あの家は明治以降の方が凄いよ
大富豪って意外と由緒が曖昧だったりする
あの地域でも本間より古い家もあったらしいけど、江戸時代に没落したりして、競争を勝ち残ったのは本間様
武家は基本家禄が決まってるけど、豪農が江戸・明治の数百年を子々孫々生き抜くのは至難の業だった >>299
琉球人をオマエラみたいな蝦夷トンキンと一緒にするのは
あまりにも失礼やぞ モンゴルとかツングースはその武断性や直情性で一時的な略奪破壊行為や
長期的に中国社会の上に寄生することが近代までたびたびあったんだが
労農でも問題なく銃火器など扱うようになってからは全く意義を失ったな
アイヌ的な少数民族と化して絶滅危惧種で要保護対象化
ロシアにおけるコサックも似たような運命
コサックもモンゴル騎兵もソ連に遊びのように使われて戦況に影響を与えることなく全滅したりした >>301
毛野氏が上下に分かれて上毛野氏と下毛野氏だ
後には毛は抜いた表記で上野国、下野国になる領域支配していた豪族だろうな >>306
反論になってねーよドアホ(´・ω・`) >>302
もう一度書くが新羅語で書かれた漢字文献すら皆無で高麗時代にはすでに死語になっている可能性のある言語である。
日本語は万葉仮名などを使い上古時代のままの音が再現記録され当時の坂東方言すら万葉集にそのまま記載されている >>304
いや、微妙に違う気がする。
中華思想の場合は、属州や植民地と違って税金をとらないし、
野蛮人が上下関係を認めて朝貢してきたら、何倍もの返礼を返して、
旦那の器量を見せる。
けっこう見栄っ張りなシステムなのだw >>313
万葉仮名は万葉集で使われているから万葉仮名と呼ぶ。
同時代に朝鮮半島で話されていた言語は全く記録文献のない死語なので新羅語なる言語は不明
何度でも書くが新羅語なる言語は現代朝鮮語韓国語からでも解読不能 >>312
そりゃ冊封体制でしょ。
中華思想とはまた別だよ。
ID:R+lkAGgl0 が言ってるのは古代ギリシャや中世フランスのことだから。 刀鍛冶の技術が高かったとか、日本刀のカーブは東北攻めの中で敵の武器に影響受けたとか。
どこかで見かけた記憶がある >>70
古代朝鮮語って文法が解るほど語彙が残っていましたか? >>311
それって、これに対する反論には、全くなってないよね
(1)記紀を書いた渡来人の特徴として確定しているのは以下の事項
・寒冷地適応済みの民族だった >>70
・文字(漢字)を持たない民族だった
・中国語とは違う(朝鮮語と同じ)文法の言葉をしゃべる民族だった
朝鮮語は現代でもいいよ。話し言葉ね。 そもそも新羅の初代王が日本人だからな
だから、日本書紀でも新羅王子の記述が結構ある >>315
うみょ、中華思想が具現化したのが冊封で、冊封体制の裏付けこそが
中華思想だと思ってた。 >>319
なってるよ
古代朝鮮半島の言語が不明なので上古日本語と文法が同じかどうか全く不明
それが現代朝鮮語韓国語と文法が同じだったかも不明 >>321
冊封体制を生み出したのは中華思想というより統治能力と輸送能力の限界。
連絡手段も軍隊の移動手段も馬と徒歩しかない時代には
国土が広くなればなるほど統治は困難だし、税をとっても運ぶのが大変すぎる。 >>284
それは「からくに」だ
つまり唐国と一緒
天孫降臨は北方系の神話だからどうでもいいが
日向の中の阿多(薩摩半島南部)は唐に面しているということ
ちなみに当時の朝鮮半島の三韓は国ではなく地名
中身は小国分立で韓国という国はない ヤマト騎馬民族支配説wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 「太子様!大変ですじゃ!」
「布都よ何を慌てている」 >>326
韓国岳(からくにだけ)も大陸(中国)のことだな >>325
なるほど。
それはそれとして、単なる領土拡張欲や征服欲なんかと中華思想とは、
やっぱり峻別されるべきだと思うんだよな…。 >>318
古代朝鮮半島で話されていた言語ってだけで古代朝鮮語なるものはないよ。
日本中国側の文献と好太王碑つまり日本側呼称の広開土王碑から読み取れるのは
高句麗語は百済語新羅語とは全く通じず中国吉林省に残る好太王碑文に残るように記録は漢文を使っていた。
新羅語は百済語とも上古日本語とも通じない。
百済語のみは上古日本語とちょっとした通訳を交えればコミュニケーション可能
この3言語が存在しているわけであって、後々の高麗語すら解読不能言語なんで文法なんてさっぱり不明だよ。 聖徳太子から壬申の乱あたりの日本史がけっこう怪しいんだよな
隋に送った使者の名前が中国側の記録と日本の記録(小野妹子)で違っているという
蘇我氏が大王だった時代があったのかと 冊封体制は
御恩奉公の関係を国レベルやってることになる
ヤクザが契りを結んだ関係と同じ 教科書の偏りは異常だからな
百済文化が日本に影響を及ぼしているのはわかったが
何回も何回もそのことが繰り返し書かれていて焦った>バスの隣のJKが
使っていたやつw まあアテルイの頃までは蝦夷とは通訳が
必要だったのだから異文化だったことは
間違いない。
アテルイやウクパウみたいな名前は明らかに
大和的ではないしな。
DNA的には北東北にはアイヌと和人がモザイク的に
混在していたのだろう。 https://i.imgur.com/1NOTRxx.png
聖徳太子は超インブリードで偶然できたスーパー能力者だからな
聖徳太子は蘇我氏の血もこいく入ってるのに
それはない 全ては過ぎたこと日本人なら水に流して生きろ…恨むのは日本人のやることではない! >>307
従来(アイヌ以前)、蝦夷地には、さまざまな先住民がいた。
…擦文人の他、ニブフ、モヨロ人、ウィルタ、移住してきた和人、などだが
そこに
13世紀ごろ新成立したアイヌ(文化・遺伝でオホーツク系混じり)が、好戦的に急拡大した。
まず、アイヌは樺太・大陸の諸民族(元朝の支配下)をたびたび侵略。
アイヌに侵略された被害者の訴えで、元朝が何度もアイヌ懲罰し、結局アイヌは服従。
それが、アイヌの歴代中国への朝貢のはじまり。琉球王国が明に朝貢するより先。
・知床の「オロンコ岩」とは…アイヌが先住民オロッコ族(ウィルタ)を侵略・虐殺した話。
・地名「十勝」の由来…アイヌに迫害された先住民の、去り際の呪いの言葉。
『トカップチ(水は枯れろ、魚は腐れの意)』 蘇我隼人とか居たら、だいたいわかったんだろうけどw >>312
米ソ冷戦時時代に中ソ国境紛争が起こり
キッシンジャーはその漢民族の古代から続くメンタリティに目を付け
中国とピンポン外交で極秘にサインを交換し合い
アメリカは当時前代未聞の共産国家中国と親密な国交を結んだ訳 >>330
中華思想は単なるマウンティング思想だからね。
統治できない土地に住む民族にもマウンティングはしたい、という。
まあ、ぶっちゃけて言えば村レベル、集落レベルの「うちの村は隣村より格上」みたいのの延長戦上にあるんじゃなかろうか。 >>332
旧唐書じゃ倭国伝と日本伝で併記されてるしね。 古代は東北の騎兵が日本で一番強かった
東北が弱くなったのは平和ボケした奥州平泉藤原氏のせい
関東vs東北
神奈川の相模武士・和田義盛「東北一の勇将と呼ばれた国衡を騎射で倒したけどアイツ弱かったな(笑)」
埼玉の武蔵武士・畠山重忠「いやアイツを組み伏せて首を取ったのは俺の部下だから(笑)」 >>337
恨まず悔やまず殺しましょう!
水に流すってのはユダヤの行った事で神話的大洪水の事だったりwww >>338
そら琉球人だって八重山を侵略してるしな
日本の先住民が平和的ってのは高橋克彦の捏造に過ぎない >>341
なんちゃって中央中華思想にに寄生し毒されてるのは
歴史的に近江滋賀と越前福井 >>323
現代日本語と現代朝鮮語を比べて文法が同じだって言ってるんだけど。
中国語とは別系統の言語だということ。 >>341, >>348
ううむ、やっぱりスッキリとは納得できない。
それではなぜ、中華思想に相当するモノを「征服主義」や
「拡張思想」や「マウンティング思想」などなどの言葉で指すのではなく、
「中華思想」という言葉で指しているんだろう?
他の言葉では置き換えられないから、その言葉が存在するんだよね? >>326
何で、唐をカラと発音するんだ? 日本人にとって加羅が外国の代表名詞だったからだろ。カラ物=外国産。 聖徳太子は父系が応神系(倭人系)。
母は蘇我氏の娘だが、鶯姫と同じだな。母→母と遡ると鳥だな。
竹取物語が発動したから、蘇我氏に母含め一族諸共殺されたんだよ。 馬鹿な文化侵略はやめろ
用語ぐらいまともに使え
笑われるのがおちだぞ >>347
中国語と漠然というが実際に共通語を使わないとまるきり通じない言語で溢れていて、古代中国大陸はまさに他集団の坩堝で有り有名な呉越も言語は全く違った別系統と集団だったそうだし
楚に至っては多民族集団であった説が有力で現代の共通語同士を比べて別系統とするのは軽率だよ。 >>284
付近に古くから住んでいる人の家系を辿ればわかるんじゃね >>352
そりゃ日本列島に突然日本民族が現れたわけでもないんだし
今の人類の祖先がアフリカからだと言われているんだから遠くの地から段階的に移住してきたんだろね
熊襲、隼人、土蜘蛛、蝦夷、アイヌとかいたんだべ >>356
渡来人が中国から来た人々であったなら、漢字と中国語(の方言)をそのままつかっていた。
すなわち、渡来人は中国からではなかった。これは理解できるよね。 外来の勢力が土蜘蛛や蝦夷を殺戮しまくって日本列島を征服した。 >>349
地球が丸い事も知らない時代の宇宙論だと思えばいいわけよ 中華思想いわゆる華夷思想は
漢文化(当然、儒教含む)を受け入れてる国を
文化の程度がある国として華
漢文化(当然、儒教含む)を受け入れてない国を
文化の程度がない野蛮な国として夷
それが中華思想になる
つまり漢文化以外は野蛮 >>361
ますますわからんw
真偽の話が入っているのか? >>347
追記なんだけど中国側文献では北部は楽浪郡帯方郡。
南部の三韓は秦の時代に労務から逃げ出した集団が住み着いた場所が後々の新羅
百済は起源を山東半島から遼東半島を経由して半島南部に辿りついたとしてて、もしかしたら言語的ルーツは辿れるかもしれない。
簡単に考えたら新羅は秦の時代に中国大陸の何処かで話されていた言語が訛っていったものだったろうし
百済語は山東半島から遼東半島で話されていた中国語が訛ったものが話されていたと考えるのが早いかも知れない。
ただ百済に関しては新唐書東夷伝にて滅亡の折に百済集団は唐に連行そして尽く種尽きるとあるから、滅亡の折に長安にみんな連れてかれて半島に居残った人間はいないよ。
あっ滅亡後に日本が逃れた王族を立てて白村江の戦いをやったのか。
あれは百済が滅亡した後に起きた戦い >>364
今の日本人が、現代朝鮮人と同じ文法の言葉をしゃべっているのは認めるよね >>359
自国の言語表記に合わせて文字だけ取り入れた。
これは日本だけがしたことだよね。
14世紀に至っても朝鮮半島は中国語の原文そのままの漢語で記録文献を残した。
それが朝鮮半島初の記録文献である三国史記なんだから >>349
「中華思想」という言葉が「マウンティング」よりも遥かに古い言葉だからでは?
ただ東アジアの特徴は漢人のマウンティング思想のことじゃなく
冊封国家の二番手三番手争いなんかじゃないかと考えたことはある。
朝鮮人 中国>朝鮮>日本>その他 我々は中国の隣だから日本より格上
日本人 中国>日本>朝鮮>その他 うちは朝鮮より強いし、朝鮮なんか単なる通り道
ベトナム 中国>ベトナム>その他 真の二番手は俺らのはず
みたいな。 >>365
現代の言語でSOVの順番が同じだからとなぜ古代で結びつけようとするんだ?
ラテン語だって時代の変遷でSOVからSVOに文法が変わり古代中国大陸で話されていた言語もそういう変遷を、辿ってるわけで
古代という時代にSOVの語順の言語なんてざらにあるわけで、なんで日本語と現代朝鮮語の語順がSVOに、変化しなかったのかが気になってるわけ? どこの国も自分らは中華に次ぐ小中華で周りより偉いと思ってたんだわな >>369
だから、これに対する反論には、全くなってないよね
(1)記紀を書いた渡来人の特徴として確定しているのは以下の事項
・寒冷地適応済みの民族だった >>70
・文字(漢字)を持たない民族だった
・中国語とは違う(朝鮮語と同じ)文法の言葉をしゃべる民族だった ちなみに漢字使えなくても夷になる
中華思想では漢字使えないとこは
すべて夷になる >>371
反論も何もまず記紀は渡来人なるものが編纂したものでもない。
君の方が反論できないでいるのを、こっちに返すんだから南朝鮮ではそういうのが流行りなのかい? >>367
同じものを指しているなら、どちらが古いにせよ可換なはずだよね。
「マウンティング」という言葉を使う場面で、それを「中華思想」と
言い換えられるとも思えん。
後半部分は同意。たとえば琉球はそのはざまで両面外交を
強いられたが、自身は自身で南西諸島の中の「華」であろうとした。 >>373
これならOK?
(1)天孫族の特徴として確定しているのは以下の事項
・寒冷地適応済みの民族だった >>70
・文字(漢字)を持たない民族だった
・中国語とは違う(朝鮮語と同じ)文法の言葉をしゃべる民族だった そんな見栄っ張りも
誰からも相手されなくなると意味がないので
周囲への承認欲求が存在してしまう
面白い >>340
追記するとキッシンジャーは国際外交上
歴史事象を最重要要素と考える人で
マルコ・ポーロの東方見聞録を隅から隅まで熟読し
漢民族の肌理細かな感性をアメリカ国務省の高官には理解出来ず
周恩来と国交樹立際のピンポン外交は誰にもわからぬように
サインを用心深く送り合ったそうな
まぁマルコ・ポーロの東方見聞録なんてそこまでアジアについて正確な書物じゃないけど ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています