【歴史】「邪馬台国が纒向にあったとすれば東海地方とも何らかの交流があった」 弥生期の奈良知って…邪馬台国候補地、名古屋でシンポ★4
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愛知県内の遺跡から出土したS字甕(県埋蔵文化財調査センター蔵)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20180116/20180116-OYTNI50041-L.jpg
宮腰健司さん(県埋蔵文化財センター副センター長)
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20180116/20180116-OYTNI50042-L.jpg
■交流示す東海系土器…名古屋・東建ホールで
邪馬台国の有力候補地・纒向遺跡と、弥生時代の大規模集落跡の唐古・鍵遺跡がある奈良県桜井市と同県田原本町が21日、名古屋市でシンポジウム「卑弥呼のクニを探る 考古学が発信するまちづくり」(読売新聞社後援)を開く。纒向は、東海地方で作られた土器が見つかるなどこの地域とも関わりがある遺跡だ。愛知県埋蔵文化財センター副センター長の宮腰健司さんに、弥生時代の東海地方と奈良のつながりについて聞いた。
纒向遺跡は奈良盆地東南部で3世紀初めから4世紀初めの「弥生時代終末期〜古墳時代前期」を中心に営まれた大規模集落遺跡で、邪馬台国の有力候補地の一つとされている。
この時期は、縁の部分がSの字のように折れ曲がった「S字甕」や、鮮やかな彩色の「パレススタイル土器」などが東海地方で生まれており、宮腰さんは「東海地方でも考古学上の大きな変化が見られる」と話す。
東海系土器は纒向遺跡でも多数出土しており、宮腰さんは「邪馬台国が纒向にあったとすれば、東海地方とも何らかの交流があったと考えられる」と語る。
一方で、東海系土器は、東の関東地方にも影響を与えたことが判明している。弥生時代終末期から古墳時代初期にかけては、近畿で主流だった前方後円形の墳丘墓に対し、東海など東日本では前方後方形という独自の形が多く見られたこともあり、「東海地方周辺には、邪馬台国とは別に強い力を持った『クニ(国)』があったと考えられる」と宮腰さん。「魏志倭人伝」で邪馬台国と敵対したと記された「狗奴国」が東海地方にあったと考える研究者もおり、宮腰さんは「東海地方の人が纒向遺跡など奈良の弥生時代を知ることは、地元の歴史を考えるきっかけになるのでは」と話した。
◇
シンポジウムでは、桜井市、田原本町の担当者による最新の研究成果の報告や、広瀬和雄・国立歴史民俗博物館名誉教授の講演などが行われる。21日午前10時55分から、中区の東建ホール・丸の内。入場無料、先着428人。
読売新聞 2018年01月16日
http://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20180116-OYTNT50147.html
★1が立った時間 2018/01/16(火) 18:22:18.58
前スレ http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1516257454/ 能や歌舞伎と同じで自国ですら下賤の文化だったものを、西洋との対比で伝統文化ってことにした また馬鹿学者共が理屈と膏薬をどこにでもくっつけてんな。
巻向って後漢書に出てくるトウテイの国か、その眷属なんじゃないの?
邪馬台国は魏志東夷伝の韓伝・倭人条読めば九州から外には出ないだろ。
いつまでも進歩しない研究に地位も名誉も掛けてんじゃないよ。 >邪馬台国
ウソつき中国人が書いたものを、
いまだに信じてるアホ歴史学者のバカwww なんで邪馬台国で「やま」なん?
じゃばorじゃま台国でしょ 邪馬台国が九州にあったとしても最終的には畿内の政権に蹂躙されたという事実
雑魚がたまたま中国の古文書に記されてただけでイキんなや 魏志倭人伝の記述から前方後円墳を想像するのは難しい まあ四国にあったと考えれば全てが丸く収まるんだよな 奈良に都のある大和朝廷は出雲など山陰の勢力や尾張などの縄文系勢力が畿内を征伐して打ち立てた政権です。
卑弥呼は大和朝廷の初代の王。
纒向は卑弥呼がいた遺跡。
纒向の外来系土器は尾張、出雲などの山陰が中心。 邪馬台国は九州
それが東遷して奈良に入り、できたのがヤマト朝廷 >>19
>纒向の外来系土器は尾張、出雲などの山陰が中心。<
あーなるほどなー尾張と出雲なら接点は彦根やん?
大和朝廷の源流やな(ニギハヤヒ君 魏志倭人伝によれば倭国では養蚕やってると書かれているのに畿内で絹が出ないので畿内はあり得ない
畿内信者は九州が産地だっただけとか意味不明な言い訳をするけど、奈良が都ならば製品が運ばれないわけが無い
庶民さえ絹を着られた九州の勢力からは相手にもされてなかったってことだわな
弥生の庶民は絹を着た
http://inoues.net/nyumon/amagi_kuriyama.jpg >>20
何時?
それが無いんだよね、九州説論者は w ( ´ρ`)
たぶん、これが来年のセンター試験で出題される世界史・日本史・地理の問題
よく覚えておけ
スウェーデン
恐ロシア(オーク)
ビッケ ムーミン谷(トロール)
魏
ノルウェー フィンランド 蝦夷(ゴブリン)
蜀 奈良ヤマト朝廷
呉 九州邪馬台国
アトランティス(エルフ)
ムー大陸(ドワーフ) バカバカしいな
邪馬台国が奈良県にあり、魏志倭人伝通り、
邪馬台国と中国との間にある国が全て邪馬台国に従っていたと言うなら
日本が相当統一されていたことになるぞ
>>23
訳が分からないな
「奈良県人が天下統一した」とは日本書記にも書いていない
「九州人が奈良県にやってきて宮殿を作った」と日本書記にはあるのだぞ
むしろ日本書記は九州説だろ >>22
これだけでもう畿内じゃないのはハッキリしちゃってんだよなぁ
しかし庶民が絹の服を着てたって、現代人より贅沢だなオイ >>25
確かに畿内論者の時系列は紀元節は真実と言ってるように思える
大和朝廷の成立が早過ぎる 文献出土品で苦しくなってきたから、怪しげな年代法で古墳時代そのものを前倒ししてみました、て感じかな
歴博の報告書見たら九州を一切無視しててかえって不自然だろと笑ったけどw
学会がー通説がー教科書がーがどれほどの説得力を持つのか、三角縁神獣鏡の顛末が参考になるんじゃないかい 邪馬台国論争の本質は位置ではないんだよ。これはボクたちのルーツの問題だ。
つまり、邪馬台国は今の天皇家のルーツかどうかだ。
九州にあってもいい、東遷してもいい、纒向にあってもいい、万世一系に入っているかだ。
非常に注目したい魏志倭人伝の言葉がある。「共立」だ。記紀にはない。
なぞのまま300年来ている。卑弥呼は熊襲の女酋長から、天照大神の原型まで評価はバラバラ。
天皇家のルーツも曖昧模糊としてよくわからない。よくわからないもの同士が邪馬台国であり、天皇家のルーツだ。
逆の例と言えば琉球王国の始祖尚氏はルーツはある程度わかっている。第1尚氏、第2尚氏と、
王統の大きな断絶もわかっている。それに比べ、文献も比較的多い日本はわからない。
いくら、戦国時代のスペイン宣教師が紀元前660年が日本の誕生だと文献を残していても、
わからない。いうなれば、大きななぞの1つが邪馬台国論争であり、天皇家は縄文人の系譜すら持っているのではないか?
たのしくもあり、もどかしくもある。 釣り針が原因で始まった山大国と海大国の抗争は山大国の圧勝となった。
山大国の総大将である山幸彦は海大国の海幸彦を家来とし栄華を治めた。 東海地方まで邪馬台国の影響下にあったんだろ?
そうなると狗奴国はさらにその北、関東か そりゃ伊勢神宮と熱田神宮があるんだから他の地域とは違う >>37
そんな訳ねぇだろそもそも関東の三世紀の古墳はショボいのばっかり
畿内説の場合濃尾平野が狗奴国として有力視されるのは前方後方墳っていう前方後円墳とは別の古墳が3世紀に多数作られていて前方後方墳発祥の地とされていて独立勢力のようなものがあったかもしれないって理屈から来てるから
埼玉古墳群とか卑弥呼の時代より後だし ヤマタノオロチの正体はオロチョン族だと考えるとスッキリするんだよな、オロチョン族はツングースエベンキ族みたいなもんだしね、
当時大量に半島から入り込んできたわけだ、スサノオが飛騨からオロチョン退治に行ったと >>33
九州の朝倉は語源がはっきりわかってるけど近畿の朝倉は語源がわからないんだよね 同じニニギの兄を祖にもつ同族とされる尾張氏と海部氏の付近に前方後方墳が集中していたり 前方後円墳に深い繋がりがある物部、穂積と繋がりが強かったり興味深い 一説では天火明命(尾張氏の祖)=饒速日命(物部の祖)とも言われてるし >>39
何言ってんだ?
だから関東じゃないかって言ったんだぞ
狗奴国健在の間は前方後円墳はできないんだから >>43
墳丘墓は狗奴国もあったとされているからそれすら少ないのに大国と言われてる狗奴国があったとは考えづらい まぁ別の文化圏のようなものはあっただろうが狗奴国とは違うと思う 墳丘墓が狗奴国にもあったとされてるのはどういう理由? https://i.imgur.com/BNW4MTr.jpg
これ見りゃ分かるが製鉄技術が濃尾北陸から関東に伝わるまで200年もかかってるあたり狗奴国があったとは考えづらいわな 独立勢力は有ったろうが 長い間開発が進まず東国って呼ぼれてたのも8割くらい日本アルプスの所為だと思う(´・ω・`) ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれ
た後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混
乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片
付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識でき
ること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書
編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生して
いるばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を
見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が
特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都
は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められ
ず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で
創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則
性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を
提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 >>48
関東に伝わるまで200年もかかってるてのはまさにそれまで狗奴国が存在してたってことじゃないか?
縄文時代ですら新潟から北海道まで交易してたくらいで、障害さえなければ一瞬でそのくらいのもん伝わるわけだろ?
ってことはその間敵対勢力が存在していたためそこまで伝わらなかったってことだと思うが Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格
差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、
一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡
では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メク
リ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀
川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、
和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下
層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺
跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世
紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退
している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない
高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐
古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示してい
る。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒
向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を
意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染
と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 んでその後群馬に盛んに古墳が作られるのはそれまで存在していた狗奴国が滅びて大和王権の支配下に置かれたタイミングのサインだと思うが >>53
狗奴国と邪馬台国って結構衝突してたみたいだけどこの巨大山脈越えて頻繁に戦争できるか? そもそも出雲や筑紫や吉備は3世紀の時点で製鉄技術すでに確認されてるけど製鉄すらまともにできない大国に敗北しそうになるってなぁ >>537
斯馬国(しまこく)
=斯馬の関=下関
已百支国(いわしこく)
=厚狭
伊邪国()
=
都支国(くしこく)
=櫛ヶ浜
弥奴国()
=
好古都国(いこつこく)
=厳島
不呼国()
=
姐奴国()
=
対蘇国()
=蘇国の対面=江田島
蘇奴国()
=広島周辺
呼邑国(こぉこく)
=呉
華奴蘇奴国()
=
鬼国(きこく)
=鬼ヶ島=岡山
為吾国(いおこく)
=相生
鬼奴国()
=
邪馬国()
=
躬臣国(みじこく)
=姫路
巴利国(はりこく)
=播磨
支惟国(きいこく)
=紀伊
烏奴国(あなこく)
=安濃津
奴国(なこく)
=名古屋 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した
周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づ
けば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片
として研磨や穿孔を施して利用されていた。 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用す
ることも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料
としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4
期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)
が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これら
には山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入
されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢
鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの
金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の
威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模
とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈して
いると見ることができるであろう。 邪馬台国と狗奴国は別と言ってもそこまで強力な対立をしてる勢力じゃない
そもそも弥生時代を通じて畿内と東海は関係が深い
実際、邪馬台国の時代を経て急速に両者が融合し均一化していく
前方後円墳と前方後方墳の同時期同一の場所での建造などの融和の流れが見える
大規模な戦争などではなく政治的な決着と考えられる >>58
狗奴国の戦力をどう見るかだけど俺は正直、のちの時代の蝦夷程度だとみてるんだよね
つまり度々討伐軍を東海から出しては時折返り討ちにあってるみたいな
局地戦で負けることはあっても邪馬台国本国には何の影響もない程度とか コピペがうっとおしいなあ。
まあ、最近の俺は神功皇后萌えだから、邪馬台国はわりとどうでもいいw 狗奴国と毛野国と毛人ってイメージ重なると思ってたんだが
ま、言葉遊びだけど 奈良の地が外部勢力に征伐され、大和朝廷が始まると記紀にもあるからね。
実際、尾張や出雲など山陰の勢力の侵入を支持する考古学的結果が出ている。
物部氏も九州から来たとあるし、物部氏も九州からヤマト征伐に加担したんだろうな。
石上神宮。
遠賀川などで縄文時代から石器を作っていた大勢力が起源かもしれない。
奈良に都のある大和朝廷は渡来人の政権と勘違いしている人々が多いが、渡来人勢力を討伐した縄文系の政権だろうね。出雲地方も縄文系の遺伝子が濃いエリアだからね。
邪馬台国も文字や暦がないとあるし、縄文系の国、大和朝廷の始まりだろうね。 あのテンプレとFAQのおかげで日本史板にいた九州説論者が絶滅してしまったんだよ
どうやっても九州説は無理だという現実を突きつけられたわけだから
今は荒らしが数名残ってるだけ 纏向に多くの東海土器が現れることも両者の関係が近しい事を意味している
両勢力に大きな抗争を想定することは出来ない
むしろ近縁的な関係を見出すことができる ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮
している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖
的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があ
ろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、そ
の淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもの
で、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に
入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止して
おり(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者とし
て影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的
である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 藤井恒次と服部直史と森伸介は豊中市岡町駅一帯でテロ事件を起こした!
原田神社放火や岡町駅車大破などをやった!
徳川ゆかりの寺放火も藤井恒次関係者の犯行だ.
JR放火火災事件(実行犯逮捕)の藤井恒次による教唆疑惑がある。
神社放火のはやりはこいつらのせいだ!
ISローンウルフと名乗り凶行をやった!
藤井恒次は顔をペイントで隠して偽りだまし続けて25年逃亡者生活している!
大垣南高校時代から偽り松井秀喜風のペイントで素顔を隠して通い続ける詐欺師で卒業アルバムに写っている!
不破中時代はネプチューンのホリケンのような
素顔で現在と変わらないで卒業アルバムに写っている!
2005年4月傷害通り魔事件で逮捕され留置場1
5日間のあと略式起訴された!退学処分のはずだが卒業証明書持ってたのは偽造ではないのか
?森伸介が2000年当時女装して女職員になりすまし学務課に侵入して卒業証明書偽造
の手助け をやった。運転免許証の顔写真も偽りの松井秀喜風のペイントで写ってい
るが偽造ではないのか?警察の方々が変装は犯罪ではないと擁護するようだ。二人と
も顔を隠し巧妙に変装しているので気づきにくい!座間事件の白石に顔が藤井は似ている! 姉美千子はアジ 化ナトリウム事件やった。不特定多数のジジイと援交してる。母房子はトリカブト事件やった。父見真はグリコ森永事件の真犯人だ!
森伸介は楊貴妃のような美女に変装したりボディコンのハードゲイのようなコスチュームで凶 行をやった!昏睡強盗の神に似ている!
服部直史は大勢の歯に盗聴器を取り付け盗聴してあら探しして肉体関係を迫る。しぶとく粘 る姿勢が林真須美に顔も そ っ く り!
服部直史 大阪府池田市井口堂3−4−30−401 0668446480 大
阪府豊中市永楽荘1−3−10−103 歯にチップ(思考盗聴器)を埋め込み盗聴してテロに幇助!
藤井恒次 岐阜県不破郡垂井町垂井2112−1 0582751590 09044348128 大阪駅置き石事件や飛び込ませて3人殺しをやった
森伸介 福井県大野市生まれ札幌獣医 大阪府池田市城山町3−51−113
0727526945 神戸バイオ教育センターで女装して女講師になりすまし病院で看護婦にもなりすました
藤井恒次って署名で「名誉棄損で訴えますよ」って前3年前書き込みあったよね!!
つまりこいつ藤井恒次自身が書き込んだわけで、書き込み見てる証拠になるよね!!
お前ら三人テロ起こしときながら テロの事実の適示されたら名誉棄損だのと開き
直って被害者ぶって警察頼ったりして狂ってるのか?畠山鈴香並の傲慢三人組だ
な!!何が「名 誉 棄 損 で訴えますよ」だぁ?お前らテロ起こしてる分際で名
誉棄損どころじゃねえよ!訴えれるものなら訴えてみやがれ!! とにかくどっちがと
いうレベルではない!
三人組は思考盗聴器という近未来機器で自分だけにしか聞こえない声(ピンポイント
音声伝達:立命館大教授が立証)で脅したり煽ったりマインドコントロールや
うるさい声を浴びせ続けて拘束状態に仕向ける悪党三人であり証拠が出ないのをいい
ことにやりたい放題で捜査中の今日今でもやり続けるのです!!こいつらが調子に
乗って証拠が出にくいのをいいことに
名誉棄損だと開き直るのです!!こいつらも思考盗聴器を取り付けているようで仲間
内の連絡手段に用いているようです。警察関係者に聞こえていないのが残念です!!
服部直史がおそらく藤井恒次や森伸介に共謀して紹介した思考盗聴器を悪用して人体
実験という拷問をし続ける歯医者は医療関係者どころか極悪人であり、脅しの内容は
「岡町の資産をよこせ!!」と藤井恒次と森伸介と服部直史が脅してくるのです。
服部直史や藤井恒次や森伸介は拉致する計画も立てており北朝鮮への亡命もほのめか
している。この三人組は「 人 道 に 対 す る 罪 」で国際刑事裁判に処す
るべきじゃないか!! 藤井恒次は何か 正 当 性 を主張しても虚妄だらけで、
でっちあげ ねつ造のでたらめ被害で言いがかりをつけてくる「当たり屋」で「ぶつ
かったで?どう責任取るでえ?」とまるでチンピラのよう。お岩さんの顔も メ イ
ク であることが発覚して被害者ぶっていた詐欺師であることが判明!!素顔はご
く普通のネプチューンのホリケンに似てる!!
早く 死 刑 に な っ て 消えてなくなりやがれ!! >>66
どうでもいいが、日本史板の争いをN速+に持ち込むなっつの。 また九州説が荒らしだしたかw
日本史板の畿内スレ荒らしてるの同じやり方で笑った ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡
である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側
が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎して
いた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続
的に存在していたことに、疑問の余地はない。 宮崎に西都原古墳群とかあるけどあれもとは何ていう国だったの? クナはクニなんじゃないかな。
邪馬台国の南だし、河内と和泉だろうね。
どうせ邪馬台国大和朝廷に潰される国だろう。
日見彦と河内彦。
神武東征の時も、紀伊半島に迂回するし、そこそこ邪魔な勢力が河内と和泉にいたんだろう。
かつて大坂城の地にあった生國魂神社。
神武東征の際に生島神と足島神を鎮魂したとある。宮中式内社にも祀られているな。
難波にいた勢力は、出雲や尾張を中心とした大和朝廷、邪馬台国側の勢力に滅ぼされたんだろう。 >>39
訳が分からないな
「魏志倭人伝」では人口が1000戸程度の対馬国ですら「国」と扱っている。つまり狗奴国も部族程度のまとまりでも国と呼ばれていたかもしれない
また「史記」によると「匈奴の人口は漢の1郡にも満たない」とあるが匈奴は漢を苦しめるほどの軍事力があった
つまり人口が少ないからといって軍事的脅威にならないとは言えない
これらをあわせれば狗奴国が人口の少ない国なこともありえるし、人口が少なくても邪馬台国の脅威になることはありうるだろう >>74
あれ投馬国。
山幸彦宮崎の石神など山の民が海幸彦海人の隼人を奴隷として、働かせてたんだろう。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進む
には未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与し
ていないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。
(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されてい
る。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政
治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分
布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に
繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的
設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡
と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大
型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが
同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 副官は卑奴母離(ひなもり)。
この"ひな"を今の"ひな=鄙"としたら、対馬、壱岐はわかるんだが、
伊都国の隣の奴国も、その隣の不彌国も"ひな"なんだよね。
九州説はどういう解釈してるんだろ? >>33
当時から風水みたいなのがあったんだろかね ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさ
え容易に開墾可能であっ
た。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)
を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極
めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は
近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれる
ことで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せ
ずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)
し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結
ぶ海路の
重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北
部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照) 百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
この部分の解釈からしてもう滅茶苦茶なのが、学問界の落ちこぼれ、歴史学者たち。
漢時とは、つまりは倭国大乱前。元は100ヵ国を統治してた那国(シナ的には奴国)が倭国大乱で分裂して、帯方にやってきたのはその片割れで30国を従えてた。
倭国大乱でどんな風に分裂してたかというと、高地性集落の分布で解るように、瀬戸内海を挟んで南北に分裂してた。
魏志倭人伝では、北側勢力を奴国、南側勢力を狗奴国と記述してる。
で、帯方郡にやってきたのはどちらの勢力なのかというと、じつは南側勢力なんだな。
北側勢力・呉・公孫氏連合に冷飯食わされてた南側勢力は、草深き獣道を通って寂れた漁村で船を調達して帯方郡に繋ぎを付けることに成功し、形勢は逆転した。
陳寿は呉、もしくは公孫氏が残した記述を引用して奴国・狗奴国のことを記述してるから、南側勢力は敵で、狗という蔑称を用いている。
当然"卑"弥呼も南側勢力なんだな。 ◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くこと
は困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと
合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強
権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住
民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享
受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差の
ある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者
の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機
関を主導することには、これといった困難が認められない。 邪馬台国は奴国で日本だと中国の史書に書いてある。
奴国が博多湾岸だけではなく内陸の筑後平野一帯まで広がっていたと考えるべきだ。
卑弥呼は伊都国の女王であっても問題ない。
奈良県だと考える合理的な説明はつかない。それは三種の神器からもわかる。 >>58
http://www.sankei.com/west/news/170420/wst1704200004-n4.html
> 鉄器 弥生時代初め(紀元前4世紀ごろ)、中国大陸から朝鮮半島を経て日本に伝わったとされ、
>九州北部から日本列島に広まった。当時は鉄板などから加工した鍛冶作業にとどまり、
>鉄鉱石や砂鉄から鉄を作る製鉄は6世紀(古墳時代後期)とされる。
通説では上のように6世紀頃製鉄が始まったとされてるけど、
出雲、筑紫、吉備で3世紀で製鉄が確立されているとか初耳なんだが
なにが根拠なんだぜ?
http://www.sankei.com/west/news/170420/wst1704200004-n2.html
>「鉄を制するものは国を制す」ともいわれた鉄は、九州北部を中心に大量に出土することから、
>邪馬台国九州説の大きな根拠となっている。一方で、畿内では出土量が少なく、邪馬台国論争では“弱み”となっていた。
しかも「鉄がたくさんある所がリードする論」でいえば
「鉄が豊富な九州勢力が邪馬台国ないし大古墳を作った」とするしかないと思うし
日本書記でも「九州人が奈良人を征服して宮殿作った」とかあるしな 倭国大乱で住吉三神は亡くなるからね。
九州北部も、西瀬戸内海の海賊や遠賀川の大規模な石器作り集団、縄文系勢力に征伐されたんだな。博多の地も奪われ一大卒、大兵団が置かれたんだね。
漢に冊封されていた伊都国だけが、各国使者の目もあり、実権を奪われながらも存続できたんだろう。 >>1
日本書紀には、古墳を造った記録が殆どないんだよな。あんな大事業なのに。
これって明らかに、古墳を作った勢力と、後の大和朝廷は別勢力ってことでしょ。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とす
る萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明ら
かに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワー
クを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には
各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不
安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造
から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の
所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する
外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 邪馬台国の官、大和朝廷の面子と同じだな。
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲、阿波の神。
奴佳鞮は中臣。 >>88
それどころか大抵の国に奴って名前が付いてる
奴が日本の特徴と見てもいい
対して韓国は卑がつく名前がやたら多い
卑が韓国の特徴と見ていい
これは卑弥呼が韓国系な証 >>90
住吉三神はよくわかんないよな。
宗像三女神は宗像族、綿津見三神は安曇族だが、
住吉三神を斎いた集団がよくわからない。
そのくせ、仲哀帝を殺すだけの力があるし。 >>93
あるだろう。
例えば仁徳天皇の時。
ヤマトタケルの白鳥陵は空っぽだ。
墓守は無駄だから、別の仕事を与えようとしたら、墓守が鹿になり怯えて逃げていったと書いてある。 というかね、ラピュタみたいな空に浮かぶ島だと考えれば
邪馬台国問題の殆どは解決すると思うんだよね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています