【歴史】「邪馬台国が纒向にあったとすれば東海地方とも何らかの交流があった」 弥生期の奈良知って…邪馬台国候補地、名古屋でシンポ★4
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
愛知県内の遺跡から出土したS字甕(県埋蔵文化財調査センター蔵)
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宮腰健司さん(県埋蔵文化財センター副センター長)
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■交流示す東海系土器…名古屋・東建ホールで
邪馬台国の有力候補地・纒向遺跡と、弥生時代の大規模集落跡の唐古・鍵遺跡がある奈良県桜井市と同県田原本町が21日、名古屋市でシンポジウム「卑弥呼のクニを探る 考古学が発信するまちづくり」(読売新聞社後援)を開く。纒向は、東海地方で作られた土器が見つかるなどこの地域とも関わりがある遺跡だ。愛知県埋蔵文化財センター副センター長の宮腰健司さんに、弥生時代の東海地方と奈良のつながりについて聞いた。
纒向遺跡は奈良盆地東南部で3世紀初めから4世紀初めの「弥生時代終末期〜古墳時代前期」を中心に営まれた大規模集落遺跡で、邪馬台国の有力候補地の一つとされている。
この時期は、縁の部分がSの字のように折れ曲がった「S字甕」や、鮮やかな彩色の「パレススタイル土器」などが東海地方で生まれており、宮腰さんは「東海地方でも考古学上の大きな変化が見られる」と話す。
東海系土器は纒向遺跡でも多数出土しており、宮腰さんは「邪馬台国が纒向にあったとすれば、東海地方とも何らかの交流があったと考えられる」と語る。
一方で、東海系土器は、東の関東地方にも影響を与えたことが判明している。弥生時代終末期から古墳時代初期にかけては、近畿で主流だった前方後円形の墳丘墓に対し、東海など東日本では前方後方形という独自の形が多く見られたこともあり、「東海地方周辺には、邪馬台国とは別に強い力を持った『クニ(国)』があったと考えられる」と宮腰さん。「魏志倭人伝」で邪馬台国と敵対したと記された「狗奴国」が東海地方にあったと考える研究者もおり、宮腰さんは「東海地方の人が纒向遺跡など奈良の弥生時代を知ることは、地元の歴史を考えるきっかけになるのでは」と話した。
◇
シンポジウムでは、桜井市、田原本町の担当者による最新の研究成果の報告や、広瀬和雄・国立歴史民俗博物館名誉教授の講演などが行われる。21日午前10時55分から、中区の東建ホール・丸の内。入場無料、先着428人。
読売新聞 2018年01月16日
http://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20180116-OYTNT50147.html
★1が立った時間 2018/01/16(火) 18:22:18.58
前スレ http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1516257454/ 古代日本史は新羅系と百済系で争ってる形跡があるんだよな
九州は磐井の乱でもわかるとおり新羅とのつながりが深いようだが >>820
ウソつけ。
弥生時代のヤマト地方にはめぼしい遺跡はない。
唐古や池上曽根遺跡があるが、2−3世紀に衰退を始めている。
纏向だけなんだよ。だが、ここに鉄製武器が出てこない不思議な遺跡だ。
それも弥生終末期に突如現れ、古墳時代初期に突然消える。 >>853
無知にも程がある。
巻向以降は葛奈良盆地に矢田丘陵、河内南部に馬見丘陵いくらでもある。
鍵唐古も古墳時代も存続しとるわ。 まずは「倭国大乱」を考えてみよう。シナの文献だ。
後漢王朝は楽浪郡を通じて周辺の情報を知っていた。つまり倭と韓を区別していた。
当然、後継王朝の魏もその直前の地方政権公孫氏も知っていただろう。
では倭国大乱の構成員の国々はどうだろう?知っていたのだろうか?
つまり北九州諸国、吉備、出雲、讃岐、播磨、大和、但馬、若狭を知っていたか?
魏志倭人伝を見る限り北九州諸国ぐらいだろ?
だが、倭国大乱は現代日本で言う西日本(上記北九州〜若狭まで)の乱としたら、
魏志倭人伝から飛び出さなくてはならない。吉備がどうも強力そうだ。前方後円墳のルーツも
ここにありそうだ。で、主導(主唱)者は吉備で、卑弥呼を共立。卑弥呼はどうも北九州出身それも伊都国。
で、新都をヤマトに建設(公孫氏の指導の下)。これが纏向で当時として傑出した理由。
伊都国出身の卑弥呼の系統が原初期ヤマト王権の王統につながり、神武東征のかすかな記憶となる。
これがヤマト王権が西日本の地域文化をごちゃ混ぜにしたチャンポン文化である理由でもある。
どう?九州もヤマトも吉備も出雲も包摂したぜ。・・・昨晩の悪夢でもある。 >>853
鉄製品を出すなら、崇神の丹後・丹波(高志)のオオヒコの件や山陽道の件も合わせて考えて欲しいね。
高志のヤマタのオロチから出た剣も w 奈良盆地は水はけが悪くて水害が多いから都市の連続性はあまりないんだよ
山沿いの棚田やその周辺の都市は長く続くんだけどそれだと規模は小さい
平野部は規模は大きく水路も整備はするけど結局別の場所に移る
肥沃だけど使い勝手の悪い土地だった 投馬国は5万戸
邪馬台国は7万戸
3世紀の九州にこんな大都市は存在しない
古墳の大きさも畿内より全然小さい 水稲耕作が最初に広まったのは九州であることは確か
畿内は遅れて開拓された新興都市
卑弥呼の時代の3世紀には日本の中心は畿内
都市の規模が全然違う
古墳の大きさも他の地域とは比較にならない
今は九州説を唱える学者はほとんどいない
田舎の奴が村おこしにやってるだけ 鉄製品というのは当時最新鋭の武器と言う意味で、
ヤマト王権は文献的に見ると、神武東征、崇神の4道将軍、トヨキイリヒコ派遣
倭王武等で見られる軍事志向が強いと思えるんだ。(時代は異なるが)
北九州は出土物で鉄製武器が多くでており(弥生末)強大さを示していると感じる。
出ないと、逆に弱さを感じるんだな。
邪馬台国は狗奴国と戦うんだから、強大でないとな。そんな感じ(笑)だ。 >>826
ニギハヤヒは、ニニギの子のホアカリの子だよ。
つまりニニギの孫 人から聞いた話で東夷伝なんて結構適当だと思うが、それをネタに
延々と飽きないね 纒向遺跡が邪馬台国で出雲族だったと、そこに九州の勢力の日向族が手前の大阪人にボコられたので和歌山から迂回して国譲りかな 倭国大乱って一回だけじゃないんじゃないの?
源平合戦と応仁の乱を一つにするくらい乱暴なんだよなぁ >>859
771日本@名無史さん2018/01/16(火) 21:22:05.33
北部九州にあったとされる邪馬壹國は
南にあった邪馬台国の属国扱いされてたんでしょ
魏志倭人伝に記録されてある記述よると
「邪馬台国より以北には,特に一大率を置き,諸国を検察せしむ。」
邪馬台国より北方の国々を検察する為に
北方の国々に派遣され部署も存在し官人も駐留してたぐらいだから
卑弥呼を中心に倭人の邪馬台国はある程度の官僚制度が整っていたのがわかる 九州説のやつらって学者は間違ってて知識の乏しい自分が正しいと思ってるんかね?
その自信がどこから来るのか理解できんわ >>835
日本へ来る外人の中で東京へ行かない人もいるが、来日した事にならないのか 一人二人の学者が主張してるだけなら自分の方が正しい可能性もあるが、
ほとんど全員が畿内説を支持してるのにどうして学者は全員間違ってると決めつけるんだろうか? 畿内説はNHK並みにコンセンサスが得られないことを愚痴ってるなw
だいたい似た空気になるなw まさにNHK村と畿内説村でやってるだけだもんなぁ
この狗奴国の東海だってさ
いきなり当事者意識が足りない!ってアホな論法だもんなw 一般人は今でも邪馬台国論争が学者間でも続いてると思ってるのだから
九州説も学問的に成り立つものだと思ってるでしょ
だからアンケートでは自分の先入観に従い九州と答えるだけ いやいやこの狗奴国の比定すらその時々の思い付きじゃない
結構、見抜かれてる 一番イタイのは九州説が学問的に否定されてるのを知ってていまだに九州だと言い張ってるこのスレのやつら >>865
はっきり言ってよくわかんないんだよ。シナの文献で、伝聞を記録したみたいだけだし。
日本の考古学の知見では、らしいものがあるぐらいだし。
だが、国(クニ?ムラ?)が統合されていく過程で起こってもおかしくない、むしろ当然の出来事。
だから、誰も疑わない。こんなところだろうな。 >>875
オマエのことだろ。一番イタイのは。「学問的に否定」ってなんだよ? 実際関西でも九州説は普通に増えてるからな
でも一昔前は皆畿内説に熱狂してたのは本当
結局纏向一つですべてが決まった感じ
何か決定的なものが出ないかしないと廃れてく
古墳が見れないのでしょうがないけど >>876
応神朝が畿内入りしたのと九州で大乱があったのがゴッチャになってるというか
記紀を編集した連中の都合で意図的にそうしただけじゃないかなぁ 九州vs畿内なんかないんだけどな。
畿内を征伐した勢力になりたくない奴らがいて、プロレスを演じているだけだからな。
江戸時代までは、当たり前のように、尾張や出雲などが畿内を征伐したと庶民でも知っていたからな。尾張一宮や天香久山の国常立神らだな。
能の三輪とか見れば分かる。
三輪の神も伊勢の神も岩倉だろうと言っている。石神だな。
畿内を征伐した初期の大和朝廷のメンバーは順次倒されていくんだな。
最後に残ったのが、最初に征伐された畿内の勢力の生き残り・狗奴国の生き残り、桓武天皇藤原氏だな。
これが不味いんだよ。平安時代以降の朝廷の勢力に刃を向けた過去になってしまった。
だから必死で誤魔化すんだな。
NHKの知恵の泉の邪馬台国編を作った奴らもグルだな。
狗奴国が東海とか言っている奴らも同じ。
明治時代に神社の祭神が書き換えられて、神武が持ち上げられるようになり、現代人はそういう歴史を知らない人が増えただけだな。 もう教科書も変わったと上の方にあったし今後は一般人でも若年層は畿内説、ジジババは九州説ってなるんだろう >>875
日本の歴史学・考古学は学問じゃないからな。
学閥で主義主張が決まるなんて学問じゃない。 纒向遺跡周辺を200回近く掘ったけど
掘れば掘るほど畿内説に否定的な
出土物ばかりで畿内説の考古学者は心が折れた。
普通に地元の考古学を地道に
やりましょうということで、
かつての畿内説派は纒向学に転向済み。
奈良周辺の考古学関係のHPを見れば
随分と主張が後退したのがわかる。
畿内説に全く触れていないところさえあり、
畿内説などなかったことになっている。 教科書の話が出てたけど
新しい教科書を作る会とか江戸しぐさとか
あの手の産経統一系が何か企んでるだけじゃねえの?
やたら日ユ同祖論みたいのも沸くしさ 右=畿内説
左=九州説
みたいな構図になってるのが嫌なんだけどなw
神話だって九州発なのに 国の科研費や、奈良県、桜井市などから
予算をいただいている以上、
何らかの結果を出さなければならないが、
最後の方では出るものも同じようなもので
新発見などほとんどない。
桃の種や魚の骨が畿内説に
どう関係するのか不明だが
そういうものまでこじつけて
畿内説の根拠にする始末。
花粉に至っては、土壌採取で発掘とも
関係がなくなってきたが
それでも「成果」はひねりださなきゃならん。
200回近く出ない結果を追い求めたが
ついに撤退。
今では畿内説など無かったことに
なっている。
研究機関はテーマを纒向学に名前を変えて、
存続している。 纒向の発掘を進めていくにつれて、これは不味いという雰囲気になったんだろうな。
外来系土器の中心が尾張や出雲など山陰だと分かってきたからな。
明治以降消えかけていた事実が甦ってしまう、邪馬台国どころじゃないぞとなったんだろうな。
過去に畿内をボコボコにして征服した民に重労働を課していたことの証になる。
卑弥呼死後の殉葬100人、埴輪ができるまで人間の生贄を捧げる習慣。
過去の罪が暴かれることになるからな。 邪馬台国はヤマト王権の前身
卑弥呼一族の台与が天皇家の始祖
宮中祭祀が鬼神道、シャーマニズムを継承している 3世紀の九州なんか辺鄙な糞田舎だろ
いつまで何やってんだ
アホか 邪馬台国伝説ってアトランティス伝説と変わらんのと違うか?
後付で色々候補地を当てはめてるだけにしか見えん。 邪馬台は宮崎一大卒は宇佐。
近畿は倭国大乱五王4世紀以降開拓され樹海だよ オレが言うのもなんだが、位置論争って意味あるか?
むしろ弥生最末期の邪馬台国と古墳時代のヤマト王権との連続性の可否じゃないか?
想像だが、プロ(文献史学者や考古学者や学際つながりの学者)は位置論に興味を失ってるんじゃないか?
いいかえると、問題点出尽くしで、決め手がない。もう、「親魏倭王」印の出土を待つだけ状態じゃないか?
大事なことは260年ごろ(台与の最後の朝貢)から410年ごろ(倭王讃の最初の朝貢)までの
空白の150年で何があったか?ではないか。邪馬台国はプッツンしたか?ヤマト王権につながったのか?
好太王碑文もあるし、記紀、三国史記もあるし、発掘の知見も増えている。こっちのほうが大事じゃないか?
オレはそう思うから、位置は2の次だな。定説ができてくる過程でおのずとわかると思うぞ。
このスレもその延長で(オレは)考えている。古代は謎が多すぎる。すべて仮説なんだよ。
出土物でひっくり返る。荒神谷・加茂岩倉の銅剣銅鐸の大量出土で、銅剣文化圏銅鐸文化圏の概念が
大きく揺らいだのがその証左だ。 そもそも古事記を「神話」として
魏志倭人伝を「史実」とする根拠がわからん。
邪馬台国が実在したかどうかなんて
神武天皇がウン百歳生きたってのと同じ位胡散臭い。 位置論争以上に話を進めたくないだけですよ。
九州説はそのコマとして利用されているだけ。
卑弥呼を共立した勢力(奈良に都のある大和朝廷の中心勢力)による畿内征伐をなかったことにしようとすればするほど、
征伐された側からふざけるなと反発を生むことになる。
事実を再び明らかにして、倭国大乱以降犠牲になったお互いの神々をちゃんと鎮魂する。
その上で現代は仲良くしたらいいじゃないかな。 >>894
そもそも論争ってないよな
ネットの中だけ九州説が唱えられるけど現実の研究者の中では畿内説しかないじゃないか 邪馬台国は3世紀
魏志倭人伝も3世紀
古事記は8世紀
今だって500年前のことなんか分かるわけない
記述の信ぴょう性が全く違う 東大寺山古墳で出土した180年頃の中国製の鉄拳があるので、その頃には大和に移ってきてた可能性はある。
鉄拳をもってもっと後で移動したかもしれんが 聖徳太子を蔑ろにしようとしている人々も同じ。
聖徳太子は、それまでの倭国、倭国王を改めて、
日本、天皇を作り、初代の天皇だった可能性もあるからね。
四天王寺は創建当初から木造の鳥居があり、元々の名前は天皇寺だったという話もある。
隋書の記録も意味深だしね。 >>902
聖徳太子から壬申の乱あたりの歴史はかなり色々ありそうなんだよな。少なくとも近江朝からの王朝交代があったようだし >>871
フジのアンケートでキムチ鍋が上位を占めたのと同じだよ。
大体九州説はなんでも起源にしたがる点も
よく似てるだろ。 >>904
畿内説としては淡々と纒向などの調査を進めるだけなんだが
このスレを見ても解るが20年以上成果無しの九州説が調査の妨害をしたくて絡んでくるから已む無く相手をしている >>903
聖徳太子の母→母→母と遡れなくなるからね。
竹取物語が発動していた可能性もある。
天武天皇や蘇我氏とは対立する関係で、天智天皇とは近い関係なんじゃないかな。
中臣が珍しく動いたからね。 >>816
地質学的証拠を示したのに
恣意的な考えで揺れ動く考古学的証拠より確実だろ >>827
>それと朝倉市を中心とした地名が奈良の地名と一致する所が多いと言う事
白村江の戦いの時に斉明天皇が宮を置いたのが朝倉だね。
そしてここで崩御している。
崩御の地として大和の地名を朝倉周辺に付けたのでは? 200年代の勢力
西日本、邪馬台国はEUのような西側諸国の軍事同盟
東側に強大な軍事国家の狗奴国があったため
東北は蝦夷 >>909
普通の人はそう考えるんだけどね。
福岡だって他から付けた名前なのに。 地名はムチャクチャ奥が深いぞ。
さて、纏向の件、ドシロートが単純にいろいろな知見を元に邪馬台国を想像するんだが、
魏志倭人伝の記述では、倭人は半漁半農の南洋的習俗を持つ人々に思える。海洋民だ。
魏(楽浪?)から倭に漢人が派遣されている記述があるぐらいだから、伝聞ではないだろう。
逆に、纏向出土の土器は由来がわかっていて吉備、出雲等、大和周辺国の土器だそうだが、
唯一出土しないのが北九州の土器だそうだ。おかしいよな。邪馬台国なら九州土器(詳細知らん)が
ガバガバ出るべきだろ。魏志倭人伝記述の邪馬台国と北九州諸国の緊密度を考えると。
出雲や吉備や讃岐や播磨を魏志倭人伝は知らなかったんではないかとさえ思える。
むしろ、纏向は邪馬台国以遠の狗奴国に比定できないか?尾張の土器が雄弁に物語る。
古墳時代初期に忽然と消えるのも、ヤマト王権=邪馬台国=神武東征と一致する。
神武は簡単にヤマトに入れなかったのは纏向があったからと考えられる。
もちろん、ドシロートの単純な憶測だ。だが、邪馬台国は北九州と密接に結びついていなくてはならない。
これは魏志倭人伝からだ。 纏向は謎の都市だな。 >>909
それならそう記録に残るだろ
斉明天皇の事績は記録されているんだから
文字記録以前からある地名だから由来の記録が無いんだよ >>855
公孫氏は気になるよね
司馬懿にジェノサイドされ記録も何も残ってなさそうだが 神武東征が史実だと主張する人は倭王武の上表文をなぜ無視するんだ?
新唐書まで持ち出す輩までいるのに恣意的すぎる
倭国側で書いたものなんだし、中国側の独自情報で書かれた他の文献より信頼度は高いはず
倭王武とは雄略天皇のこと
天皇家の先祖は奈良を拠点に東日本、西日本を平定したと読める
5世紀後半の時点では先祖が九州から東征して来たという認識などなかったことになる 倭人伝の邪馬台国は九州確定で
同時に銅鐸地域の出雲や能登、北陸、吉備や阿波や淡路、琵琶湖
東海、関東が連合して奈良に都作ってるだろ?
明瞭だろ? ありがと。ドシロートながら、批判の意味わかるよ。
だが、この上表文は目的がある。高句麗対抗だ。
好太王碑文を見る限り、倭は高句麗に圧迫されていたようだ。高句麗は数代前から宿敵だった。
だからこそ、東晋に味方になってくれ。帝国の権威で高い位階を任命してくれという
お願い文だから、いろいろ割り引いて考えないとな。真心でなく下心だということ。
神武東征はでっち上げといえるのだろうか?かすかな伝承があったのではないか?
350年前の出来事だから、記紀編纂上の捏造かもしれないが、事実ではないにせよ、
なんらかの行動があったといってもいいのではないか?時代的にも合いそうだし。 奈良に置かれたのは大倭つう役所だろ
だからどちらも邪馬台なんだよ。 >>917
その倭王武は何処に住んでいたの?
近畿だとしたら、何故、日本書紀に中国に使者を送ったことや、古墳を作ったことが記載されてないの? >>911
博多だって平安時代の地名
大阪の住吉は元の読み方は「すみのえ」住吉にあった入り江の名称
そこに出来た神社が後に「すみよし」と読まれるようになったから地名も変わった
そして全国に住吉神社ができるとその土地に「すみよし」という地名が付いた
なぜだか九州信者は「すみのえ」という入り江がない土地を元の住吉であると主張する
本末転倒 >>908
記紀だってかかれた当時は考古学なのに、なぜ恣意がないと言えるのか?
地質学的な話なんて単に地元の言い伝えが元ネタかもしれないじゃん。 >>918
無理だな、矛盾だらけ。
北部九州には伊都があり、三世紀畿内方面には
大陸との関係ある遺跡や物がどんどん出土している。 >>922
いや、そこはそれ。
谷川健一先生によると、住吉のスムは
「潜水する」という九州方言らしい。
まあ、たしかに博多に「住之江」はないけど、
鎌倉期までは古博多湾(冷泉津)に突き出した岬だったし。
http://y-ta.net/wordpress/wp-content/uploads/2014/02/413.jpg 邪馬台をふつうに万葉仮名として読んだら、「ヤマト」
邪馬台国はヤマト国でしかない
しかし魏志倭人伝に書かれた邪馬台国が
古事記で描かれた古代日本像とはかけ離れたものだったため
それを許容できない本居宣長が九州説を唱えはじめたのである
日本は決して中国の属国ではなく対等の国家である
聖徳太子が勝ち取った独立を守るためにも
邪馬台国畿内説は断じて受け入れられないのである >>815
京都府城陽市の平川廃寺跡や京都府木津川市の神雄寺跡のように奈良時代建立の国分寺並の規模の大寺院
なのに全く記録にないとか、畿内でも全てが文字で残るわけではない。
更に言うと記紀にはないが風土記には記載されている伝承もある。地名関連も風土記には多く、逸文として残らな
かった部分には朝倉周辺のこともあったかもしれんよ。 >>919
さらに続けさせて。倭王権がこんなにシャカリキになるのはなぜか?それは鉄だ。
南鮮の鉄鉱石はそれこそ日本(倭王権)の生命線だったんだよ。
だからこそ必死に南進する高句麗から鉄交易ルートを守ろうとした。
余談になるが、媚韓派学者は百済や任那諸国から要請を受けて南鮮に出兵したと言うが、
オレに言わせると」ウソだ。当事者で鉄交易ルートが危機に瀕しているから自主的に出兵した。
倭王権の基礎を守ったんだ。
時代はさかのぼるが、邪馬台国時代も鉄交易ルートは生命線だった。だから北九州諸国は
重視されたし、邪馬台国への交通路は鉄交易ルートだった。鉄製武器こそが国家の基だった。
鉄が出ない纏向遺跡は異常だよ。国の安保(笑)が保てない。
さらに余談だが、オレは、青谷上寺地遺跡の大量虐殺=遺跡の滅亡は、
主流の鉄交易ルート(=邪馬台国ルート)に逆らった(日本海)ルートを作ったからだと思っている。
やくざ風に言えばショバを荒らしたから、報いを受けたと言うこと。当然虐殺者は北九州人だ。
ドシロートの妄想だが、的を射ていると思わないか? >>923
>記紀だってかかれた当時は考古学なのに、なぜ恣意がないと言えるのか?
自分で何を言ってるのか整理できてるのか?
日本語になってないぞ。
それから、日本書紀は続日本紀に編纂の記録があるし、古事記は太安麻呂の墓碑があり歴史時代だぞw >>921
倭王武=雄略天皇=ワカタケル大王
稲荷山鉄剣等の文字による物証もあるしもう教科書レベルの通説になっている
宮の伝承地は奈良県桜井市
記紀にないのは白村江で大敗した直後の時期に中国に朝貢していたなどとは書けないというのが一般的な理由
古墳の問題は倭王武の問題とは関係ない
400年間続いた古墳がヤマト王権のものでないとする方が非現実的
少なくとも記紀の記述と古墳の場所が一致するケースは山ほどある >>928
全く的を得ていない、巻向は辰砂の搬出場所だからな。
卑弥呼は鬼道を使うとあるが、鬼道が道教的物なら辰砂、水銀朱は
大変重要な鉱物なんだよ。だからここは攻められる事はない。
祟りがあるような場所は攻めて落とすような場合ではない。 >>921
記紀には応神天皇が呉国に使者を送ったとか、雄略天皇の時に呉国から使者が来たとか記述があるよ。
雄略天皇の墳墓は記紀に顕宗天皇の絡みで出てくる。 >>917
あんなもの「四夷を討伐して国を作ったぜ」っていう
当時の慣用表現みたいなもんでしょw
自分たちを正当化するための言い分なんて
それこそ恣意的な主張を含むのが当たり前ですし
倭国側が書いたから信頼できるとかピュアすぎるにもほどがある
当時の史料を読んだことがない奴が
倭人伝関係の文章だけ読んで語るから
こんな感じで的はずれなことを言い出す
だいたい上表文無視するなってなら
「渡りて海北を平ぐること九十五国」
の部分が都合悪いからって恣意的に無視しちゃいかんよ >>931
赤塗り土器って九州発祥だと思っていたが違うんかい?
鬼道と道教が密接とは初耳だな。 >>917
倭武の上表文と記紀の内容は矛盾はしてないよ。
記紀や風土記には四道将軍派遣とか熊襲討伐とか播磨遠征とかあるでしょ。
それから建国が大和なら、ある程度簡略化して書かないといけない文章ではそこから話をするものでしょw >>935
当時の中国で道教という言葉はないからな、鬼道が後に道教と
呼ばれる物にもなるのだが。 鏡と丹なんて神仙思想のマストアイテムだ。
また魏から黄色旗を貰うのは、そういう事を理解している土壌がないと
無理だからね。 >>934
認めたくないから根拠もなくケチつけてるだけだな
朝鮮半島95ヶ国云々を省略したのは都合が悪いからでも何でもない
その部分は神武東征があるかないかに関係ないと判断したからだ
少なくとも、倭王武の上表文は神武東征の否定材料の一つであることは確実 >>935
魏署張魯伝の記述に
五斗米道(道教の源流)を「鬼道」と書いてることから
卑弥呼の鬼道も道教と同種だなんて言い出す人も確かにいるけど
要は「儒教の教えに反した野蛮な信仰」くらいの意味で
同じ鬼道と書かれてるんだよw >>937
黄色の旗は、魏が五行説で土徳にあたるからなんだけどね
ちゃんと当時の思想を理解してる土壌が無いと
こんな頓珍漢な解釈が出てくる >>937
卑弥呼が楽浪郡に留学に行っていたとでもいうのか?
190-210年ごろ、共立されて女王(巫女王?)になった。
248年死す。
10歳ごろなったとして50−70歳だ。当時の寿命だろ。道教留学なんてありえない。 >>938
まあ否定材料にしたきゃしていいけど
極めて弱い材料にしかならんな
ところで「先祖が九州から東征して来たという認識」なんて無かったというなら
なんで記紀で、征服地であるはずの九州を先祖の地なんておかしな話を書いちゃったんだ? >>940
後ろだての意味なら全く同じ事だろうw
つまり邪馬台国も狗奴国もそれを理解してるという事だからな。
それに道教なんて土着な色んな要素を含むものだからな、
とうぜんシャーマン的要素な物も含まれるぞ。 >>935
鬼道と言えばシャーマニズムだからね間違いなく卑弥呼は北方騎馬民族の系譜だろうね >>943
神仙思想と五行説が同じこととか頭が痛くなってくる 卑弥呼の鬼道、諏訪大社の祭祀と似てたんじゃないかな。
動物の生贄とか。 >>941
何を訳の判らない事を。
漢代の頃から諸国で往来があるなら当然それなりの知識は
代々入ってきてるだろう。
現に三世紀には画文帯神獣鏡が畿内中心に出土をしはじめ、
卑弥呼の代以降は三角鏡を国産出来るようになっているだろう。 最後にもう一度言っとく
当時の思想とか文化とか
文章を書く上で背景になるものの知識無しに
いくら倭人伝の解読ごっこしたところで
的外れで頓珍漢な話にしかならんよ 纒向では、祭祀に使われたと思われる動物の遺骸が大量に出ている。 >>947
鬼道の語句だけで道教が流入してたとか
飛躍もいいとこの壮大なファンタジーだよと、これも最後に念をおしときます レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。