【福島】「会津武士」時代の逆風に対処 子孫宅から手紙…藩復活時、台所事情示す
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斗南藩成立前後の藩士の動向や経済事情に触れた梶原平馬の手紙の1枚
http://www.minyu-net.com/news/assets_c/2018/08/180810news1-thumb-300xauto-27741.jpg
150年前の会津藩消滅時に家老などを務め、藩再興に奔走した梶原平馬(かじわらへいま)と山川浩(やまかわひろし)、さらに会津藩士の子で後の陸軍大将、柴五郎(しばごろう)の3人がそれぞれ明治以降、会津在住の元藩士、町野主水(まちのもんど)に出した手紙計3通が、東京都の町野の曽孫宅で見つかった。
文面を読み解いた直木賞作家の中村彰彦さん(69)によると、旧会津藩が斗南藩として復活する1870(明治3)年ごろの藩士たちの動向や経済事情に触れた梶原の手紙をはじめ、いずれも明治、大正の「会津武士」の生活ぶりや人柄が分かる貴重な史料という。
手紙の日付は、梶原が4月1日。年は書かれていないが、中村さんによると内容から1870年と判別できる。山川は89(明治22)年9月5日。柴が1919(大正8)年9月14日。毛筆で書かれている。
会津藩最後の筆頭家老で戊辰戦争直後は東京で謹慎した梶原の手紙は薄紙2枚。1枚目冒頭の「高田脱走惣調(そうしらべ)/東京脱走惣調/無宿者惣調」の3行に続き、戊辰戦争後に旧藩士が収容された越後高田(現新潟県上越市)、東京両謹慎所からの脱走者の調査が終わり、脱走先から戻った者、戻る見込みの者の家にも1日に付き1人当たり4合の玄米を給付し、台所事情が厳しい家には申し出れば対応する―などと記されている。
中村さんは「平馬は脱走に頭を痛め、また70年4月の斗南藩成立で政府による給付が藩の手に移り、扶持(ふち)高は半分以下にせざるを得なかった。そして会津残留者たちにも同じ扱いをする必要を考え、扶持高改定を町野にも伝えた。東京と会津、越後高田で連絡し合い時代の逆風に対処していた状況が分かる」としている。
福島民友 2018年08月10日 08時00分
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20180810-296691.php 土人!
TPPのような広域自由経済協定などというものは、
過去の恐竜時代である。
アメリカは、 もうすでに人工知能AI 活用による
国内自動生産 だけで こと足りる。
もちろんAI の時代だ、移民ももういらない。
多文化共生???? 朝鮮語をしゃべるな、安倍!
>>1
自分が切腹したくないからと 女子供まで死ぬまで戦わせ
自分はさっさと降伏して 明治の世をのうのうと生きた松平容保の会津 柴五郎は大日本帝国の誕生と滅亡を見て生涯を
終えた悲劇の軍人 やっぱ松平容保が切腹しないって、人としてどうかと思うよな。
家老に腹を切らせて終わりだっけ。 東京の片田舎に住んでいた農民崩れのチンピラである新選組を雇い
京都を無茶苦茶にした松平容保の会津。
今も会津小鉄会として名前が残る。 >>5
会津松平家の現当主、八重の桜の時NHKの職員だったな。
今はどうか?分からないが成る程ねwと。
顎瀬はるかさんが毎年出る会津のお祭りにも現当主と息子出てるよなw >>3
その人が立派だからって、他の会津藩士が立派って事はないよね。会津戦争で負けて、
死骸は野ざらしにされ、残った人間は斗南藩に送られる話は、何度聴いても笑える。 >>7
会津は悲劇の舞台として観光地で売り物にしてるのに和解なんてしたら観光資源の価値減るじゃん 猪苗代を断って斗南に移住し国から支援金貰ってたのに恨み節 >>7
慰安婦報道と同じでいまさら引っ込みがつかなくなった >>14
勝手に厳しいところに行っただけなのにね。ちゃんと一応の面倒は国から見てもらってるし。
修学旅行で会津若松に行った時に、バスガイドが白虎隊の話を切々とやりだした。そしたら、
同級生の1人が、『勝手に落城したと勘違いして、死んだだけじゃん』って言ったら、バスガイドが
号泣しだして、先生に散々怒られた事がある。 >>16
分家の松平太郎の息子だね。
初代参院議長の、本当の跡取りは戦前に亡くなったからね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています