【歴史】「関ケ原」の研究 石田三成、西軍敗北へ3つの戦略ミス★2
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※総踊りスレ
「怜悧(れいり)なインテリ官僚という石田三成のイメージは後世の間違いで、武将としての資質を備えていた」――。中野等・九州大学教授はこう言い切る。中野教授は「石田三成伝」(吉川弘文館)で同時代の一次史料を徹底的に分析し、「果断にことを進める剛胆な」等身大の石田三成像を描き出した。三成が出世階段を上るきっかけのひとつが、賎ケ岳(しずがたけ)の戦いで情報将校としての活躍であったことはあまり知られていない。その後の太閤検地で、担当者として三成が現場へ赴くのは事実上敵国に乗り込むようなものだったという。
反転攻勢読み切れず兵力分散
「関ケ原」で決起してからの三成の動きはクーデターのお手本とすらいえる。最初は豊臣家から「反乱者」と見なされていた。約1週間後に毛利輝元が大阪城に入った時は、三成は徳川家康に対して圧倒的な優位を築いていた。家康はしばらくの間、忠実だったはずの奉行らが三成側に寝返り、自分が豊臣政府の最高権力者から反乱軍の首領に転落していたのを気付かなかったようだ。
その三成はなぜ敗れたのか、3つの戦略ミスを追ってみた。
中野教授は「家康の反転攻勢のスピードを読み切れなかったことが大きい」と指摘する。それが兵力の分散を招いた。同教授は三成ら西軍の戦略は支配地を拡大する「面」の戦い、家康の戦略は中央突破を軸とする「線」の戦いだったとみる。西軍は京都・大阪を掌握したのちは北陸・伊勢・京都北部と戦線を拡大し、どの戦場でも有利に戦いを進めていった。毛利軍は四国、中国地方へも出兵している。その一方で兵力の分散のため、三成が担当していた濃尾方面軍は手薄になった。
得意の情報戦で大きく後れ
「豊臣政権の権力構造」(吉川弘文館)の堀越祐一・国学院大講師はその戦略ミスが現実化したのが岐阜城の失陥とみる。岐阜城攻防戦では兵力差が東軍約3万5千に対し西軍は約6千と大きな差がついていた。岐阜城主の織田秀信は祖父・信長の例にならって野戦を仕掛けるが完敗、岐阜城も約半日で陥落してしまう。堀越講師は「岐阜城はいわば織田家の聖地で、大きな意味を持っていた」としている。堀越氏は「もし秀信が籠城策をとれば東軍の福島正則、池田輝政らかつての織田家の臣下は攻めなかった可能性も残る」という。
それまでの西軍有利の流れを変えたダメージは大きく、大阪城の西軍首脳にまで動揺が広がったという。実際、京極高次は西軍から離脱し約3千で本拠地の大津城に立てこもった。同城は9月15日に陥落するが、その日がちょうど関ケ原合戦の当日。攻城側の西軍1万5千の将兵は決戦に間に合わなかった。
堀越氏は「情報戦の面でも三成は大きく後れを取っていた」と指摘する。家康は反徳川で同盟した東北の上杉景勝軍と三成ら西軍主力との情報ルートを遮断していた。三成は中間地点の上田城で戦う西軍の真田昌幸に何通も書状を送り、上杉軍と連絡してくれるよう依頼している。その真田宛の書状もいくつかは家康の手にわたっていたという。岐阜城陥落を知った家康は江戸から最前線へ急行したが、三成はその具体的な動きを把握していなかったフシがある。一方、家康は秀頼の不出馬など大阪城の動きを確認できていたようだ。「東西両軍に保険をかけていた武将は大勢いただろう」と中野教授はいう。その状況を積極的に活用したのは家康だった。大阪城にも徳川シンパは残っていたという。
本来ならば戦場での戦闘より情報戦こそが武将・三成の得意分野だった。堀越氏は「三成が決起直後に自らを豊臣政府軍、家康を反乱軍と逆転できたことで油断が生じた」とみる。油断が兵力の分散や情報戦の軽視を招いたとしている。「秀頼を擁立している自分らに積極的に攻めかかってくることはあるまいと考えていた。家康はその隙をついた」(堀越氏)。中野教授も「豊臣政権への信任は三成が信じていたほどではなかった」という。さらに家康は、秀吉死去前後からシンパを形成するための多数派工作を行っていた。中野教授は「黒田長政や細川忠興らは豊臣政権下では先行きの見通しが暗かった」と指摘する。「反乱軍」になっても家康に従う強い意志を持った武将が少なくなかった。
三成は西軍のリーダーではなかった
最大の誤算は西軍首脳の戦略目標にブレがあった点だ。西軍首脳に数えられるのは三成のほか毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、安国寺恵瓊−−と多い。
(続きはソース)
8/13(月) 13:40配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180813-00010001-nkbizgate-bus_all
★1:2018/08/15(水) 16:47:28.14
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1534319248/ 「薩摩にバカ殿なし」と言われてるくらいで、密貿易やら
常に国外の情報に通じ、また中央政権と緊張関係にあったことで
バカになる暇なぞなかった。日本の中の外国。 >>759
佐竹なんて、関ケ原に軍勢送らずに中立守ってたのに関東から東北に減転封された
秀吉の小田原征伐の時みたいに、参陣せずに中立だけでも不興買って改易・減封される アホな大将につくと兵士は大変だよな。
大将は安全なところでガッチリ守られて命令するだけだけど実行する兵士は命懸け。活躍しても大将の手柄だし。
兵士って報われないよな。 >>846
島津が異常なんだよ
釣り野伏せで敗走する役なんて、徴兵制の国民軍ほどの士気がなければ実行できないだろう 関ヶ原の戦い自体、誤算に次ぐ誤算で成り立った戦いだから。 >>763
丹羽も蒲生も秀吉に才能妬まれて減封された説もある
陽気なようで腹黒い秀吉 大将が手柄を上げれば、兵士もおこぼれにあずかれるんだよ
死んでも、子供は取り立ててもらえるし
戦国時代を現代の価値観で測ってもね >>855
久光(正式の殿様じゃないが)もバカではないだろ。 >>855
優秀じゃないと斉彬と後継者争いなんかにならん。将軍の後継者争いもだが
あの家茂も優秀だと目されたからこそ >>848
心情を理由に攻めないことはなかっただろうが、籠城すれば強襲はされなかった可能性が高いと思う
あんな城、内応者がでない限り落ちんわ 大将が合戦で首をとられるってのは、絶対的恥辱で家臣最大の不名誉とされた。
負けたら大将をどんなことがあっても一旦戦場から離脱させる必要があった。
再就職にかかわるからw >>856
むしろ、どうして本戦できない人数で
戦場出てきてしまったんですかねぇ?的な
そういや、日清戦争の西京丸も薩摩絡みだっけ >>854
石田三成の軍勢が何気に一番奮戦しとる。島左近、蒲生郷舎、舞兵庫といった武将いたのと十万石寄越せと加増拒否った渡辺某みたいな豪の者もいたりと 石川を徳川から調略して大混乱に陥れる秀吉ならいざ知らず
石田が家康より情報戦に聡いって発想が
そもそも家康を舐めすぎじゃねえか 東軍先鋒の福島正則は深く前進して天満山の宇喜多勢と対峙。二番手は細川忠興5000人、黒田長政5400人、田中吉政2800人。加藤嘉明3000人、筒井定次2600人は北国街道沿いに。
南に藤堂高虎3000人、京極高知3000人。
三番手は徳川勢で松平忠吉3000人、井伊直政3600人、本多忠勝500人。
遊撃部隊として寺沢廣高800人、生駒一正1800人、古田重勝600人、織田有楽450人が控え。
徳川家康率いる20000人は桃配山に。
さらに南宮山の毛利勢に備え、池田輝政4500、浅野幸長6500、山内一豊2000、有馬豊氏900。
東軍の布陣が完了したのは、午前6時でござった。 >>864
積極的に関わるつもりがなかったのに事態が想定以上に進んで西軍に
参陣せざるを得なくなったんじゃなかったか。
西軍の大半はこんな感じ。 まぁ東軍もそうなんだけども。
違いはコアとなる指導者が主体性を持っていたか否か。 >>864
家中内での政変直後で上方の情勢にも疎くなっていたところに上杉征伐。三成挙兵
逆に大勢の兵でなかったからこそ関ヶ原後も戦場では自分達は自分達を守るためだけに動いたという話で交渉できたんでしょ
もし5,000とかの兵力だったらその言い訳は通らんかったし退却時も進軍速度遅くなって実際以上の被害を受けていて徳川との交渉でも押し切られる可能性があった
まあこれは島津の立場での話で味方が少しでも欲しかった三成からしたらもっと連れてこいっ!って話だろうけどな 鍋島も息子の勝茂が西軍に巻き込まれたけど、親の直茂が上手く立ち回って家康と連絡を取って事なきを得た。 急変に驚いて国元には増派を要求してなかったか?間に合わなかったのは
結果的に幸いしたのか。 >>858
まあ信長は機嫌そこねたら切られたがな
天下人の機嫌とるのは難しい
家康あたりがもちあげはれたのも筋はわかりやすかったからでは?
秀忠あたりはいろいろやりまくったからまたあれだがw >>867
山内一豊の2,000人は所領5〜6万石にしては大きすぎるな
農民やら浪人やら募集したんかいな >>868
全て終わってそんなイキるぐらいなら、大勢関係ないし先に帰ろうとは思わなかったかな?
そんな流されましたなんて理由で参加するぐらいならw 東日本=善 西日本=悪
もしくは東日本=主役 西日本=脇役
こうした日本の国家観は関が原で確定したとされてるが、実際は承久の乱だと思う。 三成、わしもおぬしももう眼が見えぬ!眼が見えぬ者同士のよしみ、この命くれてやる。受け取れい!
――刑部…… 何の戦だったか、対浅井か対朝倉で秀吉が勝家に切れて命令違反
の単独戦線離脱があるよね。よほど仲悪かったんだなw
信長が直接指揮にあたってた戦だったはずだが、罰せられない自信が
あったのかねぇ。秀吉のイメージには合わない行動だわ。 手取川だね
対上杉に惨敗した戦
そう思うなら実在したか研究するといい >>864
本国の兄貴との温度差(笑)
兄貴が朝鮮戦役で島津は出さないと決めたから、
義弘の薩摩軍は単なる義勇兵の集まりになった(笑) >>880
ああ、上杉戦か。負けたんだな。もろ敗戦戦犯じゃねーかw
よく責任を問われなかったもんだ。信長って公平なようで依怙贔屓するときは
するからな。 >>877
善も悪もないだろ
なんで東と西わける
意味不明
天皇がなんのためにいる? >>858
蒲生氏郷は左遷か?
蒲生は信長に一目惚れされて
信長の娘と結婚してるよね 関が原の島津軍は、
義弘が戦争大好きで単身大阪に行っちゃうから
義弘大好きっ子たちがあわてて個々人で追いかけて合流した
この表現で大体合ってる
大好きっこ達が大将守るために最善の手を打っちゃうから
あのキリングフィールドから脱出成功しちゃった
まさに純愛物語 当時の交通事情からいって薩摩から上方への移動なんて
今の日本からアメリカ行くより大変でコストのかかることだろ?
個人的思いで出来ることなの? 今川家臣飯尾連竜系図
∴源頼政─頼兼─頼茂─頼方─頼氏─
─浜名清政─頼清─政持─頼季─信頼─正隆─政義─頼秀─
─飯尾用政(頼秀六男)(初、大矢小吉。後改、飯尾帯刀)(曳馬城主(現浜松城))─頼純(飯尾兵庫頭)(曳馬城主(現浜松城))─政純(連龍)(飯尾豊前守)(曳馬城主(現浜松城))─義広
・飯尾豊前守政純(連龍)の次男:飯尾政宅
・飯尾豊前守政純(連龍)の弟:飯尾二郎右衛門尉正孝(武田家臣) >>886
当時の流通網と移動日数すら分かってないとか
無知にも程があって呆れる なんにしても
戦国武将はキャラクター濃いわ
中国も春秋戦国時代とか三國志が好きだわ
ローマ時代もクレオパトラいたときあたりがいいわ
物語で動いてる >>884
石高は90万石だけど
近江そして松坂と近畿で
ずっと中央に関わってきた蒲生からしたら
左遷と感じたんだろう
信長存命なら信忠義弟として有力な藩屏だっただろうし >>891
たとえ領土が狭くても中央に近ければ
天下も狙えたのにと嘆いたらしいな 反転攻勢のスピード=家臣団の練度だから、地力を読み違える時点で三成は無能。
弱小大名の頃から百戦錬磨の三河軍団の方が練度が高いのは、誰が見ても分かるだろ。
そこに加えて家康の強かさ。 >>893
家康と平八郎、井伊の部隊は電光石火だったな
そんな徳川軍でも秀忠の方は悲惨だったな(笑)
三成の相手が秀忠だったらどっこいどっこいだったのに、
ジジイは長生きしすぎ(笑) 本多忠朝(忠勝次男)、小笠原秀政(家康外孫)・小笠原忠脩、榊原康勝(康政長男)は大坂夏の陣で戦死、または傷病死しておる >>894
健康オタクなめんな
まあ家康はよくも悪くも
重き荷を背負ってゆくがごとしで
徳川の責務は果たしたよ >>840
平安の昔から日本の流通拠点は大阪湾と瀬戸内海だったから仕方ない 義弘は大阪か京都の島津家に身を置いてただけだぞ
関ヶ原には、家康と三成両方から参戦してくれと要望されたから参戦したまで
兄貴が兵を送らなかったが >>789
許三官からの密書を受けとった大明帝国の万暦帝は
出自が農民上がりの豊臣秀吉のことを
怒りを露わにしながら平秀吉と呼び捨てにして
直ちにに明の軍隊を編成して朝鮮半島に援軍を派遣したらしい 島津家は義久、義弘、忠恒の三派に別れて路線対立があった
義久は徳川寄り。忠恒は明確ではないが重臣を手討ちにする凶暴息子。
義久、忠恒は薩摩におり、義弘が援軍を依頼しても送らなかった。ただ、血を分けた兄弟・親子ではあるので、家臣が自発的に義弘に参加するのは黙認していた。 >>898
枠にとらわれてたじゃん
鉄砲伝来あっても馬ん輸入しはじめてもそれだ 本多平八郎忠勝の息子の本多忠朝は、大阪陣でお酒の飲み過ぎで敵に殺されそうになったので本多家臣の大屋作左衛門が身代わりになっちゃって死んじゃった。大屋殿が可哀想。 本多平八郎忠勝の長男である本多忠政の家臣の浜名三郎兵衛は、本多忠あさ >>884
蒲生自身が、東国での大封より小さくとも畿内が良かったと嘆いてる 本多平八郎忠勝の長男である本多忠政の家臣の浜名三郎兵衛は、本多忠朝家臣の大屋作左衛門の本家筋の武将。
浜名三郎兵衛の父親の浜名肥前守頼広と、大屋作左衛門の父親の大屋金太夫は、共に本多平八郎忠勝の家臣だった。
本多家臣の前は神君家康公の家臣、その前は今川家臣だった。ちなみに、この浜名家から浜松城主の飯尾豊前守連竜が排出する。
連竜の祖父の代から、浜名氏の分家筋である大矢氏から飯尾氏へ苗字を変更している。 どうあがいてもあのメンツじゃ西軍に勝機はなかったってことか 戦歴で言えば小西が圧倒的なんだけどその小西も朝鮮で優秀な備えの大将だった親族、重臣を失ってたからな
兵数的にも小西、宇喜多は西軍として戦った中でも大きな存在だったけど両家共に指揮官が壊滅的
それでもよく戦ったと思うけどね 三成憎しとは言え、秀吉子飼いの加藤清正、福島正則が徳川に付いたのは西軍として痛手だった
加藤、福島は戦上手だが政治的大局が読めてない
徳川勝たせたら、ますます徳川の権勢強くなって豊臣家を危うくするのに 家康がなぜ豊臣に楯突かなければいけなかったのか?
そこを考えれば勝因は見えてくるよ
静岡県人のオレが言うんだから間違いない 秀吉は、家康倒せなんか言ってないんですけど
政治は家康に任せるのが遺言なんだよ
秀頼と千姫の結婚も頼んでるし >>910
そのくらい三成が嫌いだって事だろ
2人ともその懸念くらいは理解してるはず
嫌い過ぎて思考が曇ったんだろうな
そこを上手に家康に突かれた まっでも大坂の陣みてるとな
滅ぼす気まんまんじゃないか
秀頼の息子も抹殺してるし >>913
わざわざ家康突出を避けるための、
五大老、五奉行だったんだけど、
無理だったw >>916
1回で済まそうと家康は思ってたろうに
2回必要だったんだから健闘したんじゃね?
秀吉死後に動き出した家康の天下取りは関が原で決着付いた
後はどう秀頼を殺し、豊臣から政権を簒奪するかだけ 豊臣の本姓の下賜って嫌だよな
秀吉「お前もこれから豊臣な」
家臣「えっ?」
案の定、秀吉死後は、豊臣姓下賜された武将全員が、前の本姓に戻してるし >>921
戻したのは大阪の陣後だよ
関ヶ原後も豊臣姓は使われ続けてる
ねねの実家の木下家は、江戸時代もずっと豊臣姓 >>912
もっと詳しく話さないと現状の様に誰も返してくれないよ。
どうでもいいならどうでもいいけどね。 一度見に行きたいんだが、航空写真を見るかぎりでは宅地化が進んでいるから面影を感じるのはむつかしかろう。のう、正信? >>912
今川氏真はじめロクな武将もいない静岡県人に何が分かるの?w 一次資料だけで追っていくと、
定説になってる大会戦はなくて、陣形整わないうちに
西軍が崩壊して終了という説あったと思うけどどうなの? 長男信康が二代将軍についていれば今川家血筋の幕府といわれたかもなw 結局は秀吉みたいな一代の英雄に誰がなれると言うんだってことだよな。
秀吉の死後、誰も秀吉のようにはなれなかった。
石田を責めるのは酷というもの。 >>910
関ヶ原のあの結果は当時の誰にも読めんよ。
あれだけの完勝を早期におさめて、絶対的な権力を確立できるとは
当の家康ですら開戦前の時点では思ってなかったろう。 >>932
日本史上最高の天才と言って過言では無いレベル の秀吉
天下分け目 まで持っていった三成と吉継は、やっぱ秀吉が引き立てただけの漢だったと思うよ >>831
首相であって将軍でも幕府でもない
近代と中世は別
次にくるならグローバルともTPPともましてや大前の使い古した道州制とは別のやつが打倒するだろ >>931アベノセイダーズはどこでも涌くな(笑)
マジで気持ち悪いわ(笑)
戦後の日本は一貫してアメリカの植民地で、安倍ちゃんは単なるCIAとCSISの傀儡に過ぎないんだが(笑) >>910
清正と利家生きてたら情勢は難しかったでしょう
年下でさえ早く死んでくれて助かってる >>910
清正ってもう少し頭がいいのかと思ったら家康の口車に乗せられて豊臣を滅ぼすハメになったバカ >>926
何にもない土地に○○の陣跡って看板があるだけなので、よほどの歴史好きでないと楽しめないと思う 清正は関ヶ原後は秀頼寄りが鮮明だったため生前は簡単には豊臣を滅ぼせなかった
会談の仲介もしてる そういう意味では福島正則が惨めだよな
豊家の滅亡を目の当たりにして、挙げ句に自分は大減封
長男には先立たれ 敵は本能寺にありなんてやったから。
別に普通に全員失脚させれば傀儡 織田信長。 淀があんなにエキセントリックじゃなかったら秀頼は生き延びることができた
淀の上から目線が家康の豊臣殲滅を決意させた要因だろう まあ、江戸に秀頼と一緒に行って
妹と昔話でもしながら余生送れば良かったのにな 障害者を不当に入場拒否して、いまだに返金も謝罪もしない、障害者スペースに駐車する安室は人間の屑
安室は運営=ステラ88の取締役でもあるんだから言い逃れできない
安室を起用する障害者差別企業のコーセーの商品を不買しましょう。安室のバックのヤクザバーニングと癒着している日テレとイモトアヤコ も悪質
↓
http://makezugirai.blog.jp/archives/75531607.html
安室奈美恵の東京ドームライブで障害者の入場拒否した事で大揉め
https://twitter.com/htmk73/status/993320802270375937
【胸糞】安室奈美恵さんのライブに身分証を持参した障害者の方が入場拒否されて返金も無し → 「障害者差別では?」など運営に批判殺到
https://toki.5ch.net/test/read.cgi/musicnews/1304718603/
安室奈美恵ルール違反! 羽田空港の身体障害者用乗降場から乗車(東京スポーツ)
安室の不倫相手、直ぐ近くに引っ越してきていた!↓
安室奈美恵の引退に新事実!? 天才プロモーター男性との“近すぎる関係”
http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20170929/Cyzo_201709_post_22470.html
特別扱いで免許とった安室最低。安室ってズルばっか
↓
東京都公安委員会指定の池上自動車教習所(大田区大森南5、田中忠治社長)が、タレントの安室奈美恵さん(20)に
営業時間外の技能教習を受けさせるなど便宜を図っていたとして、都公安委は29日、同教習所の行政処分を行った。
公認教習所が道路交通法に基づく処分を受けるのは異例で、同委は「タレントを特別扱いすることは免許制度の信用性を損う違反行為」としている。 (9月29日・毎日新聞夕刊より)
http://dailynewsonline.jp/article/1390401/
安室奈美恵の”白塗り”紅白で騒然「マイケル・ジャクソンかよ」の声
安室は落ち目だったから引退に追い込まれただけ
↓
2017年動員数ランキング↓ 浜崎は40位で20.5万人動員、安室は圏外
http://userimg.teacup.com/userimg/6246.teacup.com/panzer4h/img/bbs/0000953.jpg
浜崎・・・総売上枚数5000万枚 1位獲得数37曲
安室・・・総売上枚数3000万枚 1位獲得数11曲
↑これに加えて浜崎には作詞作曲実績がある(浜崎は5000万枚の売上の全てで作詞しているし作曲でもミリオン複数)更には安室の引退
どう見ても浜崎の完全勝利。安室には浜崎の作詞作曲実績のような確固たる実績が無かったから保たなかった
茶髪でガングロというブームを起こしたのは安室じゃなくて故・飯島愛さんなんです
バックの強い安室が故・飯島愛さんの起こした茶髪・ガングロブームを乗っ取って、勝手にアムラー現象と名付けたんです。その頃から安室とそのバックの悪質さが発揮されていた
http://userimg.teacup.com/userimg/6246.teacup.com/panzer4h/img/bbs/0000952.jpg
この浜崎の新曲が143位ってデマ流している芸能記者は二田一比古っていう安室の本書いた奴なの(ちなみに最新シングル売上は浜崎>安室)
安室サイドが浜崎のネガキャンしてるの丸わかりw 安室はやり方が卑怯すぎた。引退発表後も「引退するけど浜崎には負けてないぃ!」みたいな記事連発してるのみっともないよ
安室って脱税で逮捕されていたライジング平が警察に口を割らなかったから、平から賄賂貰っていた犯罪者の業界人が持ち上げて再ブレイクしただけじゃん。下らない業界の裏事情で持ち上げられたに過ぎない。その平さえ裏切った屑女が安室
異常に浜崎を敵視している安室↓
http://up.gc-img.net/post_img/2016/10/F1H2m8Ud4tYD13z_782Cn_2194.jpeg
http://userimg.teacup.com/userimg/6246.teacup.com/panzer4h/img/bbs/0000927_2.jpg
↓安室は2006年当時から浜崎を敵視して浜崎から歌姫の座を奪おうと画策
安室奈美恵が「歌姫」の座を浜崎から奪い返す!?
http://idolgravuredvd.seesaa.net/article/24000402.html
>「安室は、同世代の歌姫を目の敵にする傾向があり、これまでは同じレーベル内でもあった浜崎あゆみ(38)をやたらと意識していました
http://news.livedoor.com/article/detail/12277775/
安室奈美恵の「引退商法がやり過ぎ」熱心なファンですら怒り出す
https://myjitsu.jp/archives/57616
↓安室みたいな「アイドルを下に見ているアーティスト気取りのアイドル」が一番滑稽
【安室奈美恵をふかわりょうが痛烈批判】
https://ameblo.jp/sasakamaboko1992/entry-11565475133.html
>「(“弾き語り初披露”をうたうのなら)発表する音は自分で奏でた音じゃないとアウトだと思っている」
.69787
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 「勝者は勝つべくして勝った」というような結果論崇拝は真実を歪ませる
「たまたま運良く勝てた」とか「相手がミスして自爆した」ということも数多くある 三成は秀吉が生きてた頃に100万石の大名に成る話を断って、
秀吉の近くに居たいって理由で滋賀の小国の大名になってたんだよな。 関ヶ原の結果見ると日本の限界を感じる。国の理想、忠義より自分たちの分け前、卑しさを利用した家康が勝ってしまった。その後の日本は推して知るべし。 自分の妹と母を人質に差し出していたとしても、
上洛してきた家康を闇討ちにすれば、徳川は
安泰だったのではないか?
上洛参内の際にその場で家康を殺害するのは
容易だったはず。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。