【新潟】河井継之助没後150年、生涯描いた司馬遼太郎の小説「峠」映画化 遺徳しのび、長岡の栄凉寺で法要
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子孫の河井弘安さん(中央)らが手を合わせ、継之助の遺徳をしのんだ法要=7日、長岡市東神田3
http://www.niigata-nippo.co.jp/newsfile/image/0055386800356320.jpg
https://www3.nhk.or.jp/lnews/niigata/20181007/1030005343_20181007191958_m.jpg
150年前の戊辰戦争で長岡藩を率いて新政府軍と戦い、戦死した河井継之助の法要が7日、長岡市の寺で営まれました。
河井継之助の墓がある長岡市の栄凉寺では、毎年、10月1日の命日に近い日曜日に法要が行われていて没後150年となることしは、継之助や長岡藩士の子孫などおよそ70人が参列しました。
参列者は住職のお経に合わせて1人1人焼香したあと、境内にある継之助の墓の前で手を合わせていました。
河井継之助は、幕末の混乱期に長岡藩の家老を務め、藩の自主独立を目指して軍事力の強化に取り組みましたが、戊辰戦争で新政府軍と戦って敗れ、いまの福島県で戦死しました。
河井継之助をめぐってはその生涯を描いた司馬遼太郎の小説「峠」が2020年に映画化される予定で地元の長岡市でも撮影が行われています。
河井継之助の姉の子孫の河井弘安さんは「映画化が実現してよかったです。戊辰戦争を戦った継之助の判断をいまの価値観から評価することは難しいですが、多くの人に先祖のことに関心をもっていただき感謝しています」と話していました。
新潟日報 2018/10/08 17:44
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20181008424291.html
NHKニュース 10月07日 16時11分
https://www3.nhk.or.jp/lnews/niigata/20181007/1030005343.html >>377
司馬遼太郎はそれ程深く河井継之助について調べてない。
そもそも、軍制改革は藩主忠恭が幕府の長州征伐失敗を見て始めたんであり、
藩士は最初ほとんどやる気がなかったが、勝海舟に見込まれて幕臣になっていた鵜殿団次郎が
牧野忠恭に命令されて青写真を描いてから本格的に始まった。
鵜殿は大村益次郎から西洋兵学を学んでいた事もあった人間で、軍制改革にけっこう貢献したんではないかと思う。
河井が軍制改革を独裁的にやったんじゃない。藩政改革と軍制改革の成功で戦争したくてしょうがなくなったのは
譜代エリートの自負を持つ長岡藩士自身であり、前藩主忠恭であった。
「永雄児」をわざわざ書いたのは、何故か会津に甘く河井に厳しい左翼が司馬を狙ってwいた時代だったからなのと
河井が長岡じゃあまり評判が芳しい人物じゃなかったからだと思う。「花神」なんてのはマルクス史観でジョーク交えて書いてるからねえ。
靖国神社の銅像になってる大村益次郎という人物を英雄の様には書けない時代だったのは間違いない。 >>382
司馬は会津に同情的だったはずだが
「王城の護衛者」に会津人は感涙した >>381
司馬遼太郎の小説を読破しないまま生きて来たのか
哀れな 結果論で批判するけど、
正直、秋田藩が裏切らなかったら、どう転がったかわからんよなあ。 >>91
昔は嫌っている人がいたと言われているが、もうずいぶん前から嫌っている人なんていない
今は観光の材料になるものは何でも使う世の中 幕末ヲタって歴史に詳しいんじゃなくて単なる司馬遼好きだよね この人じゃなかったけー
3年ぐらい前に
林先生の痛快!生きざま大辞典(TBS)で見たようなー 河井は最初備中聖人を農民あがりとさげすんでたという話をネットで見たことがあるな
まさに世間を見る目の限界だったのだろう
戦闘を避けるために藩主をすげかえる荒業をやった方谷と
最後は戦闘で長岡を焼け野原にした河井の差だな 虎は死して皮を留め人は死して名を残す
巻き込まれた領民はたまったもんじゃないが本人は武士として本望だったろう 河井継之助が微妙なのは
長岡を守り切れてないとこにあると思う
東北戦争が終わるまで官軍を一歩も入れませんでしとか
河井がいる限り長岡には手を出せぬと官軍を嘆かせたなら
負けても偉人と言えると思う >>3
そもそも、そんな知識をみんな持ってない
無名のオッサンだしな 片方の親が長岡市の側の片貝出身なのだが
地元では河井は幕末末期の藩の家老程度の認識だったらしい
小説ありきの人気だよね 偉人すぎて気づかないうちに周りを巻き込んで、って裏テーマあったよね。
司馬遼太郎は間違いなく意識して描いてる。 河井継之助は野戦下手で無能な兵器ヲタクなのに司馬のせいで有名になってしまった。
司馬は同じ徳川方でも桑名藩の立見鑑三郎尚文のような本当の英雄を描けば良かったのに。 >>396
親が地元の歴史に興味なくて教養ないとそんなもんよ
特に母親はダメ、全然郷土史に興味ない人ばかり 長岡市は中核市の条件すら満たない人口27万人だというのに
周辺自治体との雁木造アーケードすら組めない唐変木っぷりでも
花火大会しか観光目玉が無い日本海屈指の港湾都市を目指して
独善邁進中なんだね。
佐渡汽船は今年1月に新潟両津航路のB929型ジェットフォイル
すいせいが故障漂流してつばさがドック入渠でぎんが1隻のみで
頑張っていたがもはや航路撤退秒読みのようだ。
寺泊赤泊航路は岸壁水深が浅過ぎて煮ても焼いても食えない
ようでただ指を咥え見守るしか無かったはずだが寺泊港は
信濃川大河内分水土砂堆積を急遽浚渫して喫水をクリアした
みたい。
もし寺泊小木航路で試験就航やってみて巧くいくようなら
高速船あいびすは粟島汽船にさっさと転戦させろよ。
https://www.sadokisen.com/info/?cd=436 >>3
>↓以下、聞きかじった知識をもとにした河井悪人説or偉人説のバトルが続きます
でも君の意見は無いんだよね?
当時の農民からすれば人手は連れてかれるし田畑をぐちゃぐちゃにした悪い奴、となってる。
が、政府軍が好き放題やって年頃の女は手篭めにされるし略奪もされるぞ!と継之助が言っていた事は本当になった。
だから評価がバラバラなだけだよ。 長岡で働いてた時に土地の部下に聞いたら河井継之助はよく知らないが米百俵の話は学校で必ず習うらしい あー田中眞紀子の地元ですね
小泉が田中眞紀子の応援に感謝して地元の米百俵の話を使ってたな
後は錠剤洗浄も国会で良くつかわれていたな 米百俵はバカな藩士を一部の良識派が諌めたって話だ
自分が良識派だと思うなら長岡から出ろという逸話として長岡高校では語り継がれている
売った米で作った学校でここにいちゃだめだって教えてるんだから
それを自己犠牲の精神と受け取る生徒もいるらしいよ
凄く深い話だと思わないか?
この世の中の真実を描いてると思うんだ 司馬の長編の主人公では司馬凌海の次くらいに無名な人物だったな
小説読むまで全く知らなかった
一般人のイメージする河井の人物像はほとんどあの小説からだろう 司馬遼太郎に気に入られたら
経済的効果が半端ないな 河井継之助の意志じゃなく、長岡藩全体で戦争を決断したんだが、
小干谷談判決裂の後、河井が恭順派の三島億二郎に、
自分が今切腹するからその首を慈眼寺に持っていけば
開戦は防げると迫った通り実行すれば確かに防げただろう。
しかし、三島億二郎は躊躇して開戦が決まったという。
三島は敗戦後、米百俵の小林虎三郎なんかより長岡の復興に尽力し実積も上げるが、河井から
決断を迫られた時、躊躇して開戦に賛成してしまった事の
罪滅ぼしだったという。
三島が躊躇したのは、その様な事をすれば藩から
どの様な処罰を受けたか分からなかったからだろう。 河井が自決した所で三島が首持って行かなければ
開戦は阻止出来なかったが、河井が三島じゃなく、
勤皇派家老の稲垣茂光の所に行かなかったのは
藩論をまとめ上げる策略だったのかも知れない。
稲垣茂光なら間違いなく話に乗ったからだ。 >>410
官軍に恭順したらしたでそのままでいられるわけでなく会津攻めの先鋒をさせられるんだぜ
兵糧出す程度の負担だけで会津には官軍の兵隊だけで攻めに行くんならみんな恭順してる その稲垣って人は河井記念館の館長の稲垣さんの先祖なんだろうか 越後口に集結させた官軍兵力は一万。それも歴戦の奇兵隊が主力。
一方、会津なんてのはゲベールだの旧式銃で武装していて非常に弱かった。
長岡藩はエンフィールドや仏式四斤砲などで装備していて庄内藩レベルの強さがあった。
長岡が官軍側についていたら、新発田始め下越、中越地方の諸藩も奥羽列藩同盟に参加しなかっただろう。
兵を出さなきゃいけないのはほとんどの藩も同じだった。抵抗したのは関東の一部と会津、庄内、桑名、長岡に騙され、脅された奥羽越諸藩だけ。
奥羽列藩同盟のせいで東北は五十年遅れたと昭和初め頃言われてたらしいが、会津、桑名、庄内征討だけだったら、戊辰戦争はあっという間に終わったよ。 武装化してる長岡は兵力すべてを駆り出され会津攻めさせられて
寝返る可能性があるから後ろで奇兵隊が銃を構えて監視してるんだろ
逃げ場がないならお互い様だった会津を攻めるより官軍相手の戦をした方が後世評価されると考えるんじゃね >>416
>後世評価される
錦に御旗に矢を向ける逆賊だぞ
どんな評価w この人は結局、歴史に必要だったの?
それともいない方が良かった? >>408
そういう観点だと新潟では雪国書いてくれた川端康成の方が
経済効果は大きいと思うな
歴史の遅延に貢献した。
もうちょっと穏やかな性格なら、官軍に降伏して、北越は戦場にならなかった。
もっと過激な性格なら、鳥羽伏見の闘いから作戦指揮して、幕府を勝たせていた。 河井が国を徹底的に滅ぼした原因は、バランス感覚が抜けていたとしか思えない 結局一番ダメなパターンじゃねぇか
国を犠牲にしてまで勝とうとした?
会津藩も同じみたいだけど >>428
長岡は選択の余地があったがババをわざわざ引いた。
会津のほうは牙一族のごとく最初からジョーカーを引いていた。 満州国建設の石原莞爾は河井継之助についての研究してたよね
あと、アサヒビール、阪神電鉄は河井継之助がいなければなかったんじゃないかな? 長岡方面の偉人って
河井継之助、山本五十六、田中角栄と
晩年悲惨だよな >>431
河合はともかく56と角Aは偉人なんか? ガトリング侍は「人に必要とされる人間になる
か、(世の中に)あってはならない人間になれ」
と説いたキチガイだぞ。 勝てば官軍の真逆なのかな
どんなにすごい才能や高い心意気があっても負けたら賊軍扱い
圧倒的に不利でも戦わざるを得ないときの大将とその周辺の人々は哀しい
WWIIの日本とかぶるのかもね >>434
好きだわ、そういう態度(笑)
ちょっと興味湧いた 終戦後の長岡は焼け野原で河井の評判は良くなかった
まあそれから150年ぐらい経って地元の有名人として名を上げたというところ
小説の登場人物になってなければそのまま埋もれてておかしくない程度 >>409
そう河井という家老は結局その程度の人物でしかなかったのですよ
あくまでも小説で持ち上げられて知名度が上がったので地元がそれに乗ったというのが
現実 日本の内戦を長引かせたい英仏に踊らされた愚か者だよね
言ってみれば戦った徳川慶喜っていうIFルートみたいなもの まぁ立地的に恭順していたら長岡が焼けなかったかと言えば微妙 >>420
長岡藩の抵抗で薩長の西日本の方が東日本より上、北は文化的不毛の土地という先入観がなくなり
その後の東日本を治めるのに余計な衝突が少なくなった 弟子っ子がアサヒビールの元会社の創立メンバー
アサヒビールのホームページでは創業者となっている
阪神電鉄の創業者、初代社長
日本銀行大阪支店初代支店長 「寅や」
と、外山脩造にいったのも、そのときであった。
「このいくさがおわれば、さっさと商人になりゃい。長岡のような狭い所に住まず、汽船に乗って世界中をまわりゃい。武士はおれが死ねば最後よ」
継之助の担架はさらに会津若松にむかい、8月12日、同藩領塩沢村に入り、同村の医家矢沢氏の屋敷を宿所とした。
ここがかれの地上における最後の場所になった。
(司馬遼太郎「峠」より)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/toyama03.htm
阪神電鉄初代社長外山修造
阪神タイガースの虎は、修造の幼名虎太から来ているとの説もあり https://www.so-net.ne.jp/golden/bakumatsu/article/2018-2q/20180909-11.html
【メニューその11】河井継之助の遺志が引き継がれたアサヒビールの物語!!
一説によると、阪神電鉄を親会社とする阪神タイガースのタイガーは、修造の幼名である寅太に由来しているという。
かつては甲子園球場に外山脩造の銅像も建立されていた。
残念ながら第二次世界大戦による金属回収によって撤去されてしまったが、現在はアサヒビールによって虎の銅像が建立されている。 河井継之助
先祖は膳所本多家家臣であったが、姫君が牧野家に嫁ぐ事になり姫君付き家臣として牧野家家臣となる
膳所本多家(伊奈本多家)は徳川家の葵紋由来発祥の家
徳川家康の従兄弟が養子に入り家督を継いでいる。
牧野家にはこの本多家に養子に入り家督を継いだ人物の妹が嫁いでおりこの関係から本多家から牧野家への嫁入りとなった 牧野家は駿府の今川家の家臣であったが徳川家康が三河に帰り独立した事から、今川家から徳川家につく事になる
家康は牧野家が今川家に戻る事を防ぐため徳川家宿老である東三河侍大将酒井忠次の娘を嫁がせ姻戚関係を結ばせる
これがなければ長岡牧野家の家臣河井継之助は存在しなかった >>62
小栗の案だろ。後で聞いた大村益次郎はそれを
やられたら官軍は負けるて断言していたよ。
だから小栗は有無もいわさず斬首w
生かしておいたら危険だからなwww >>18
いいキャストだなと思ってたら、東出がねじ込まれているじゃないかよ
司馬作品に思い入れがあるとか岳父が新潟出身とかの絡みで入れたのかもしれないけど、こいつは出すなよ >>95
それは神輿化されるのを警戒していたからだろ
神輿にされると国内で動乱が起こるし
慶喜自身も首チョンパのリスクがあるからなwww >>102
スイスの永世中立国をモデルにしていたのけどな
新潟港て金になるとこを新政府がほっておくわけないだろ
まあ理想と現実の乖離だなw >>103
戦国時代の末期から
勝負の付け方は槍と火縄銃だわ
刀なんか首切り用だわw 酒井忠次直系の庄内藩酒井家
酒井忠次の娘が嫁いだ長岡藩牧野家
酒井忠次の次男が養子に入った膳所藩本多家
この三家の親戚関係は藤沢周平の小説「長門守に陰謀」に出てくる。
https://s.webry.info/sp/hakuzou.at.webry.info/201106/article_4.html
酒井家の親戚大名として、庄内藩のお家騒動に膳所本多家、長岡牧野家が介入したことが触れられている >>1
幕府と薩長の間で独立藩保とうとか現実性無いし戦略的には無能だったんじゃないの? わし思うねん
藤沢周平の小説
長門守の陰謀って映画によし、ドラマにしてもよしだとね
サイズ的にぴったりやろ 河井が抵抗しなかったら岩村みたいなのが東日本のあちこちででかい顔しとる
大村を遅れてきた輩呼ばわりしてた海江田とかもクズ 水野忠邦が権勢を誇った天保年間 庄内の本多 川越の松平 長岡の牧野の 三方領地替えの沙汰があった
藤沢周平の小説でも書かれているが庄内藩の藩主から本間家 さらには農民に至る藩を挙げての抵抗と家斉死去により前代未聞の幕令の沙汰止みとなった
もしこれが実現していれば牧野は川越に移封となり地理的に幕末には大人しく恭順したかもしれない
本多は長岡では石高半減でほとんど何もできなかっただろう
松平は幕末になにがしかの活躍もなく庄内でも流されるままではないか
こうなっていた方が長岡庄内の民は帰って良かったかもしれず禍福はあざなえる縄のごとしである >>465
長岡藩牧野家が幕府要職に就いていた
水野はこの牧野家を狙って領地替えをしようとした
しかし庄内藩酒井家、商人、領民の反発が強く頓挫
庄内藩は水野一派に怨まれ千葉県印旛沼の干拓事業に放り込まれ疲弊させられる
幕府からの仕打ちに幕府一辺倒ではダメだと考えを変えた庄内藩藩主と家臣。しかしその息子とその家臣は徳川家と祖を同じくする酒井家として譜代として佐幕を堅持する立場をとり藩主父子に軋轢をもたらす。
長岡藩牧野家は幕府内での地位を回復し領地替え騒動への報復として水野一派を権力の座から一掃する 越後は中小の領主に分割されてたけど
長岡は新潟の湊を外港にして越後でもっとも繁栄してた
それが新しい時代を前に灰燼に帰したのだから
住民の無念は余りあるよ まあ小藩だから、とナメてかかったら
思った以上に武装してたって感じかな
官軍側が岩村精一郎を派遣しているところが
官軍の意識をあらわしてる キョロマ岩村と、他藩と交渉経験の少ない偏屈河井、談判が決裂するのは自明。 >>467
折角繁栄した新潟の港は幕府に取り上げられた。
過去に徳川に楯突いた恨みは根深いんです。 幕末の英雄、河井継之助の記念館は会津の只見町にある。
一方、地元の長岡土人は、薩長に媚びへつらい、
長岡城をぶち壊し、河井継之助を誹謗中傷し続けてきた。
恥を知るべき。 >>461
ガトリング砲は長岡に二丁
薩摩に一丁、薩摩の場合は幕府海軍から奪った戦艦に
搭載。幕府海軍が奪還しに来た時にぶっ放して撃退してる。
日本で最初に海戦で使用された例。 >>467
長岡藩は薩摩藩の密貿易を二度も黙認していたのが幕府にばれて
新潟港を幕府に没収された
薩摩藩が新潟港で貿易をしていたのはあまり知られていない >>472
長岡藩がクズだったからでしょ
会津藩もな
佐幕派って、無理してるから酷いところが多いよ >>472
そもそも河井が指揮する長岡軍は自ら長岡の城下町に火をつけて焦土化させた。
焦土作戦は冬の大雪を利用して新政府軍の補給路を遮断し
孤立したところを攻めると言う作戦。
新政府軍から長岡城を奪還すると言う偉業を成し遂げたものの
河井本人が負傷して焦土作戦が頓挫してしまった。 河井継之助が地元民に恨まれたとイメージ工作するのは、河井の評価が高くなると立場が拙くなる裏切り者新発田藩の人間 全国から河井継之助を慕って長岡にやってくる観光客がいる
小なれど官軍に抵抗した武士の心意気は子孫たちに残りことあるごとに判断材料になる
これこそ河井が長岡に残した遺産 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています