【新潟】河井継之助没後150年、生涯描いた司馬遼太郎の小説「峠」映画化 遺徳しのび、長岡の栄凉寺で法要
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子孫の河井弘安さん(中央)らが手を合わせ、継之助の遺徳をしのんだ法要=7日、長岡市東神田3
http://www.niigata-nippo.co.jp/newsfile/image/0055386800356320.jpg
https://www3.nhk.or.jp/lnews/niigata/20181007/1030005343_20181007191958_m.jpg
150年前の戊辰戦争で長岡藩を率いて新政府軍と戦い、戦死した河井継之助の法要が7日、長岡市の寺で営まれました。
河井継之助の墓がある長岡市の栄凉寺では、毎年、10月1日の命日に近い日曜日に法要が行われていて没後150年となることしは、継之助や長岡藩士の子孫などおよそ70人が参列しました。
参列者は住職のお経に合わせて1人1人焼香したあと、境内にある継之助の墓の前で手を合わせていました。
河井継之助は、幕末の混乱期に長岡藩の家老を務め、藩の自主独立を目指して軍事力の強化に取り組みましたが、戊辰戦争で新政府軍と戦って敗れ、いまの福島県で戦死しました。
河井継之助をめぐってはその生涯を描いた司馬遼太郎の小説「峠」が2020年に映画化される予定で地元の長岡市でも撮影が行われています。
河井継之助の姉の子孫の河井弘安さんは「映画化が実現してよかったです。戊辰戦争を戦った継之助の判断をいまの価値観から評価することは難しいですが、多くの人に先祖のことに関心をもっていただき感謝しています」と話していました。
新潟日報 2018/10/08 17:44
http://www.niigata-nippo.co.jp/news/local/20181008424291.html
NHKニュース 10月07日 16時11分
https://www3.nhk.or.jp/lnews/niigata/20181007/1030005343.html ↓以下、聞きかじった知識をもとにした河井悪人説or偉人説のバトルが続きます 「偉大な英雄は、周りの人々にとっては迷惑な場合もある」
と司馬の小説では言ってる。 「河井河井と今朝まで思い、いまじゃ愛想も継之助」だったっけ? へー映画になるん
昔読んだけどすっきりしない話だった >>3
残念でした
悪人でも偉人でもない
最後の武士でござる >>4
いや、地元でも尊敬してる人はたくさんいるよ。 河井継之助って代々受け継がれる名前だから
当主はみんな河井継之助 長岡藩という小国にとっては河井という人物は大きすぎたというのが司馬の説だな キャスト一覧
https://www.cinematoday.jp/news/N0103333
山田方谷はまだ決まっていないのか?
出ないということはいくらなんでもあるまい 天下の逸材といわれる人物が国政にも参与できず、頂点に上り詰めたとしても、諸藩の参政どまりという、江戸時代の欠陥を象徴する人物として描かれている 1人よがりの独善で周囲を悲惨な状況に導いた、唯の愚人という感想しかない
時代の流れも見えてなかった
愚か者を指導者にするとこうなるという歴史の警告 長岡出身だけど何をしたかって真面目に聞かれたらぼんやりとしか言えない 岩村精一郎役は余程の役者じゃないと小物感出せないだろう 日本で初めて実戦でガトリング砲をぶっ放したキチガイ 頭はいいんだよ、頭はいいんだけどどうなんだろうかw
直江兼続ともちょっとかぶるんだよね 天才なんだけど価値観が古い
維新政府は藩の廃止を狙ってるから藩の自主独立はありえないので
藩が一番大事な河井継之助は殉じるしかなかった 長岡に赴任した時に、山本五十六の記念館には行ったけど河井継之助の記念館には行かなかったな >>22
山縣、黒田が相手なら戦争せずに済んだんじゃね?説は根強いが、河井の要求も結構無茶振りだしなあ。 河井が粘ったせいで城下町は焼け野原になったから
町民はたまったもんじゃない 長岡藩と言う小藩で、外国式最新のガトリング機関銃を購入した家老ですか。
奥羽越列藩同盟による戊辰戦争では、官軍に奪取された城の奪還したが
長岡城下町を焦土に変えた事でも有名。さっさと恭順していたら
助かった庶民を多かっただろうに。 素直に殿の首差し出してひたすら土下座すれば東北戦争は起こらなかったんだろうか? これは時の運というものなんだろう
薩長に有能な人たちが集まって歴史を作ったという事実がある
それによって後世の人たちはそれが必然であったと思い込む
しかし、幕府の側にも有能な人たちはいたし、
かりに幕府が存続したなら、勝や小栗や河井のようなような人たちを中心にべつのかたちの明治維新が成立したかもしれない
そういう可能性の豊かさを考えることが、歴史を研究するということだ >>36
沖縄戦の牛島中将や太田少将も即降伏しとけば沖縄の犠牲は無かったと言うようなもんだ 維新のプレイヤーは、勝ち組も負け組も、すべて薩長のプロパガンタで脚色されてる。
たった150年前のことが、このように歪曲されるのだから、それ以前の歴史など、
まったく当てにならない。 >>37
当時の新政府は赤貧洗うがごとしだったので、恭順するならガトリング砲を買う金をそのまま新政府にくれてやれば良かった。 >>21
時代の流れがわかってなきゃあんな最新火力精鋭部隊が長岡に存在しなかったよ。
抵抗するすべも持たない愚者なら良かったんだがね。 >>44
小銃からして全部薩長の部隊にすら行き渡ってない最新式だったからな。 花神で高橋英樹がやった河合継之助を見たことある奴はおらんかね? 司馬遼太郎なるイデオロギー作家。
当人はイデオロギー作家を批判してたのだが。 ガトリング砲の欠点を知っていれば
また、前線に出なければ 阿川弘之の作品とクロスして読んだ記憶がある
同じ長岡の山本五十六とね 郷土の偉人と言っても、一に上杉謙信、二に田中角栄、三・四が無くて五に山本五十六
以下、林家こん平とか直江兼続とかに混じって河井継之助もって程度だろ 河井継之助が幕府軍参謀総長なら、
東征軍を箱根で食い止め、その間に幕府の海軍を使って駿河湾から陸戦部隊を上陸させる
東征軍は退路をふさがれ混乱し、敗走する
後のなくなった薩長軍は、宇治瀬田に布陣し、決戦するしかなくなるだろうが、
河井の最新鋭火力部隊が進出すれば、勝ち目はないだろう
幕府側にも勝ち目は十分にあった
肝心の慶喜が腰砕けだから負けた >>56
アヴェンジャーだ!
_, ,_ パーン!
( ・д・)
⊂彡☆))Д´) 岩村精一郎がものすごい小物臭を出した男に描かれるんだろうな
白虎隊の世良修蔵みたいな感じで >>62
幕府軍が大勝した後、もっと混乱が起き
英仏の植民地になってたのでは?
だから慶喜は、日本を守るために降伏したのでは? >>4
「峠」を読んでて、司馬遼太郎って、実は、河合継之助が大嫌いなんだろうなと思った。
ああいった調子者が、国を亡ぼすんだ・・・・みたいな反面教師的に、あの小説を書いたんじゃないかと思う。 天才的な人物だったんだろうけど、功績というか
民衆や歴史には害しか残してないのでは。 >>67
街道をゆくで河井を絶賛してるから、それは無いんじゃね >>40
軍司令官とと、政権担当者(政治、外交、経済、軍事の総責任者)してた河合を比べるのは間違ってるだろ。
河合のやったことは、藩を滅ぼしちゃったのだから、明かに失敗。 >>71
峠のパイロット版ともいえるミニ小説「風雲児」では、ボロクソですよ。 >>73
英雄というのは不幸を産むって話だから、ボロクソとは違うだろ ぱよちんの郷土史によると、
・明治信濃川分水を一揆で止めた農民の力
・新潟は治水事業が行われず苦難、明治新政府のせいだ
・昭和信濃川分水で新潟の基盤整備が進んだ、農民の力だ
思うに、明治新政府が分水してた方が良かったんじゃないかと。 河井継之助のドラマは10年以上前に勘三郎主演でやった
勘三郎は『峠』のファンで役に思い入れもあった
だが、できたものは2時間に生涯を詰め込むから典型的なメリハリのない歴史ダイジェストドラマになって凡作に終わった。 >>80
乃木大将が可愛そう
良い人であり、無能でなかったのに >>82
人間としては一流でも、軍人としてはポンコツの類だろ 水戸藩旧幕府党=会津藩の略奪が酷かったのに、何故かそちらに付いてしまった。 >>84
乃木大将は、ポンコツでなかったの真相
司馬遼太郎が、戦時体制を嫌い
ボロクソに書いた なんでこのオッサンこんなに美化されてるの?
ガトリング家老というネタ的な面白さだけ以外になんかある?
挙国一致で団結しようと言うときに自分の地域だけ不可侵の軍閥化しようとした超危険思想の持ち主で
現実問題としても郷土を焦土にした最低の政治家なのに
すべてをなげうって江戸と日本を救った慶喜がいまだに腰抜けあつかいされるのと表裏一体なんだな 棺を覆いて事定まると言いつつ歴史上の人物評価は全然定まらないのであった >>89
まぁ、慶喜がそこまで優秀な将軍だとはとてもじゃないが
思えないけどな。最後の最後にどうにもしようが無くなって
放りだしたという印象しかない。 >>88
黒木や野津と比べたら、乃木はどう観ても3流の将軍だろ >>89
慶喜は一新後楽しく趣味生活を送ったりして
えらい苦労した幕臣や奥羽越諸藩の藩士達のウケは最悪だが
官軍側では評価は悪くない >>89
挙国一致?
単なる数藩による政権転覆クーデターな。
当時どっちが危険思想だったか。 >>3
では君の結論を言え
詳しいんだろ
早くしろ >戊辰戦争を戦った継之助の判断をいまの価値観から評価することは難しいですが、
今の価値観で評価しないで当時の価値観で評価しても官軍と闘うという判断は完全に間違ってた。
長岡藩士が多数死傷して明治政府での発言力が無くなったんだから正しい判断の訳が無い。
しかしこの事で河井継之助は優秀では無いが無能だとも言えない。
薩長側の軍事力と幕府側の軍事力を正確に判断する為には京都や江戸に情報収集の為の
人材や金が必要だろうし長岡藩のような小藩にはそれが難しかったのかもしれない。
もし河井継之助が優秀だったら他の藩士の給料や殿様の資産等を削ってでも京都や江戸へ
情勢調査の人員を送っていただろうしそうして十分な情報を集めていたなら薩長側に付いただろう 司馬錬太郎の小説では、長岡藩家老の河井継之助は、西洋人からガットリング砲などの
最新式の武器を買い、使ってみたくて自主独立とかいって明治政府の官軍と戦い
長岡城下をめちゃくちゃに破壊して死人もたくさん出たので,地元民に恨まれて嫌われ
その墓も何度も破壊されたと描写されていた。英雄どころか疫病神。
佐賀藩の藩主の鍋島かんそうが、反射炉を持ち大砲や蒸気船や銃など作れる能力を持ち
最新式の軍備を備えながら、日本人同士の戦争を最小限に抑えた聡明さと異なり
河井継之助は、軍備を使いたがった俗物。 >>99
鍋島直正は薩長の輩も嫌ってたよ。斉彬とは交流あったけどね 長岡潘は普代大名で長岡潘は最初は官軍に恭順の方針だったが河井が武装中立を出して官軍と交渉が失敗して旧幕府側になったが御三家や普代筆頭の井伊や西日本の普代が戦わずに官軍に恭順したんだから河井の武装中立は無策 武士が刀を振るうよりも農民が銃を持つ方が強い軍隊ができる時代が来て、旧態依然の武士はもはや生き長らえることは不可能だった。
戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が死に絶え、しまいには西南戦争で西郷隆盛自ら武士を率いてあの世に行った。
美しい物語を残して武士はみんな死んだんだよ。 >>90
日本の七割以上を統治下に置いていた連中に、
「私が独立割拠してバランス調整をすれば、拮抗するだろ」と凄んで叩き出されたのだから、何処かのバランサー大統領に近い。 日本民法の父、穂積陳重の『法窓夜話』を現代語に完全改訳
法律エッセイとして異例のベストセールスを続けた名著を
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高校を卒業した学生の語学能力が、これほど貧弱で物の役に
立たないのは何故なのか。抜群の語学力を誇り、東大文学
部長までつとめた筆者が、外国にいる若者が外国語を習得する
困難さを正面から取り上げ、正則(期待されるような)
語学教育の重要性を指摘する、英語教育のための基本書。
外山正一『英語教授法』 https://www.amazon.co.jp/dp/B07HZ3Z4DL/
dil >>102
慶喜も長岡・会津等諸大名も全員が朝廷に恭順の意志を示していたのに、
西郷隆盛一味が戦争を強行して内乱になったんやで 同じように先鋭的な銃兵器を揃えていた佐賀藩は討幕側
地元を焦土化してまで幕府に尽くす義理ねーだろ
河井のナルシシズムに付き合わされた領民はいい迷惑 司馬は河井に関しては二本小説書いてるね。
最初の奴(英雄児)は批判的だが次の奴(峠)は好意的。
どういう心境の変化があったのか >>94
長州出身で陸軍のボスだった山縣が日露戦争の軍司令官に薩摩、小倉の出身者が軍司令官で長州出身の司令官が居ないから長州出身の乃木を入れろと山縣のワガママから乃木が司令官になった NHK-BS「英雄たちの選択」で、新政府に佐賀藩がつくと決心して、鍋島藩主たちが
家臣を戦いに送り出すとき語った言葉を紹介していたが、日本人同士の殺し合いはなるべく避け
大砲は被害が大きいので使わず銃の使用にとどめる様にと言っていて、凄く理性的で聡明。
普通は凄い武器は使いたくなるのに。
鍋島藩主は、技術者でエンジニアで軍備だけでなく殖産興業もおこした。
家臣からは早稲田大学を作った大隈重信や、日本赤十字の父とか優れた人が多い。
長岡藩の河井家老は危険な戦争オタクで武器マニア。 >>94
乃木大将のバックの本営が無能だった。
世界初の塹壕戦だったんだぜ。
203高地は。
本営が急かさなければ、あんなに犠牲者は出なかった。
それにしても、乃木大将を無能の烙印を押した
司馬遼太郎は罪が深い >>107
「会津が恭順してた」は会津藩の宣伝だから。
実際は会津藩は関東で転戦してたから、降伏させないと戊辰戦争は終わらなかった。 ガトリング家老、かぁ 継さをどこまで映画化するんだろ 河井が偉いなら西南戦争を起こした西郷も偉いという理屈になる
自分の地域を武装要塞化して中央の手入れを沮むという点では変わらない >>90
土佐の倒幕派は下級武士や郷士が大半で藩主や上級武士が倒幕派で有能な下級武士や郷士を粛正したから >>109
長岡市は半藤一利(文藝春秋)の青年期過ごした街、心の故郷だから。 >>93
慶喜が、どうしよもうないぐらい情勢で逃げたわけでは無かった。
全然、勝てるぐらいの力は、まだ幕府にはあった。
ただ、ガチンコすると日本が滅茶苦茶になる。
官軍の方も、一回、大負けすれば、瓦解する烏合の衆の集団。 役所広司 河井継之助
松たか子 おすが
田中泯 河井代右衛門
香川京子 お貞
佐々木蔵之介 小山良運
ガチのキャストで 草 >>102
長岡の牧野家は関ヶ原の時に真田親子にいいようにやられ放題のうえさらに逃亡までかましたのであった
その後なんとか許されたりと格好悪いのだがこういう家が意外と幕末で忠臣として粘ったりするのであった >>107
四国で伊予松山潘の親藩の久松家は戊辰戦争の時に官軍に恭順して土佐潘に軍資金を出す事で戦火を逃れた。 >>111
西日本の人間は概してそういう広い視点の人が多いよね
それに引き替え東日本の人間の視野の狭さと利己主義なことよ
土方とかも美化されすぎてうすら寒い
自分はあれだけ虫けらのように勤王の志士も同士も殺しまくったくせに
いざ政局が逆転すると死にたくなさに逃げ続け抗戦し続けて死ななくても良い官軍兵士を殺し各地を焦土にし
あげくにはフランスの力を借りるとか言いだした売国奴なのに >>126
独立割拠論がダメだったんだよ。
日本の過半を既に明治新政府は所持していた。長岡藩が割拠しても情勢は変わらない。
完全に会津藩と提携しても負けたじゃないか。 >>107
態度が悪かったとはいえ、官軍の使者をぶっ殺してるからなあ・・・ >>129
忠臣なのか?
徳川慶喜はすでに新政府に恭順した後だし >>112
本営を遠くに離して前線を把握してないんじゃ無能と言われてもしょうがない。 最終的に藩自体を巻き込んでしまったからなあ
外交判断に失敗してしまった >>107
官軍の長州潘に取っては会津潘は京都守護職で私兵部隊の新撰組で池田屋で同士を殺したり薩摩と組んで禁門のクーデターで七卿落ちで京都からの追放の屈辱が有るから長州は会津を恭順で許さない 昔の日本人は亡くなった人は仏様で祟りが怖いからお墓を大切にしてお参りする。
それなのに、長岡藩の河井継之助の墓は何度も破壊されたというから、よっぽど
地元民に嫌われていたんだろう。
わが郷土を余計な戦争をして荒廃させた戦犯扱い。 >>138
会津藩は恭順自体してないから、新政府内にも説得のしようがない。 会津戦争を指揮した板垣退助が言うように戊辰戦争では
新政府軍の道案内を会津の住民がするなど民衆の抵抗が少なく
他国の内戦や革命と比べると犠牲も少なく終わった 長岡藩士は朝廷側に逆らう賊軍、靖国神社には祀られておりません。
上野戦争で彰義隊の立て籠もる穴稲荷神社(花園稲荷)
を徹底的に破壊した長州兵軍監、大村益次郎
大村益次郎は神道に対する敬意は無い
ルーツの招魂社自体 仏教の宗派、神道をまとめて
慰霊するための超合理主義施設 赤報隊だったか、朝日新聞襲撃した。そこから、名前を取ったんでしたね、違ってましたか。 ガットリング家老が映画化か。
☆、 ☆
☆" ☆、 ☆ /
∧_∧ ☆ ドガガガッ! \ ∧__∧∩
☆" ( ・∀・) .☆.____ .☆)`ハ)ノ
( つ[≡三□|____|= -=● -=● -=● -=●)つ
と_)_) ∧ / ノノ ゙☆ 、
☆" (_/(_) >>18
キャストは豪華だけどこの監督だと辛気臭い映画になりそうだな。戦争描写は期待できない。 この人、普通に藩政だけしてれば有能だったのに、
ガトリング砲を自分で撃ったために、ガトリング砲でしか覚えてもらえないって言うwwww
あと小林虎三郎も米百俵でしか覚えてもらえないって言うwwwww >>143
河井継之助には領民保護の考え無いからな
戦争中に徴発しすぎて一揆起こされる始末だし 調子こいて北陸道を上ってきた官軍に冷や水浴びせてくれて北陸の人間からみたらスカッとしたわ
本来なら加賀藩あたりが交渉するなりしてそういう役割をしなきゃならんところなんだが北越戦争の先鋒やらされて
旧式の部隊ばかりで戦意もろくにないので長岡藩にこてんぱんにされている >>143
会津潘の家訓で徳川将軍家に忠義を尽くせが一番の方針だからペリー来港以来の江戸湾の砲台建築と警備に加えて京都守護職、長州征伐の出兵で財政が苦しくなり領民に重税が掛けられた 新政府軍に速攻土下座した彦根藩とか大多数の藩に比べたら立派 明治新政府は維新後に伸びてもらったら困る県には県名と県庁所在地名を別にして
県民の一体感を削ぐような政策を取ったけど新潟県は新潟市が県庁所在地名になった
河井の長岡藩みて敬意を表するところがあったのだろう
逆に金沢市のある石川県は富山の分県が通った上にほとんど県民になじみのない石川という県名にされて
新政府の思惑通り県内に統一感がないまま県勢は衰えて現在に至る
戦ごとは恭順すればよいというものでなく舐められたらロクなことにならない >>143
これはよく言われるが攻めた方の薩摩は薩摩で地元じゃ物凄い重税かけてる 別に解放軍でもなんでもない
年貢が比較的真っ当なのは天領と内緒のいい庄内仙台あたりの藩で大半はは絞りに絞ってる 奥羽越列藩同盟というけれど、新発田藩とか秋田藩は新政府軍に味方したんだよな。 「峠」よりも「英雄児」のが短い中に河井の良し悪しが詰まってて好きだな まあ、かっこつけの癖に
領民が即効で新政府つくし、一方的にボコられしの弱い会津よりは
マシか 両軍にとって慈眼寺で河井を捕縛しておくのが一番の良い結果だったんだろうなあ
河井は処刑されるようなことはまだしてないし維新後の活躍も見込めた
軍備をみたら敵にまわすと厄介な土地だとわかるので河井の思惑通り両軍の橋渡しもできたかもしれない
岩村が若僧すぎた >>161
越国(越前・加賀・能登・越中・越後)では参加した藩のほうが少ない 最新兵器を使いたくて戦争を決断した、は創作でしょ?
もちろんそういうキャラ付けも含めて司馬遼太郎の河井継之助は好き 山田方谷は出ないのか?
やんちゃな河井継之助が山田方谷に懐いちゃって
別れるとき河原で正座して礼をしてるシーンを現地ロケで見たい 少し前に博物館で教えて貰ったんだけど幕末新潟県の結構な地域が会津藩の領土だったらしい
(地図を見たら1/5近かった)
そのため新潟の諸藩は会津と新政府の板挟みになってしまったそうな
元をたどれば江戸初期に家康の子供が新潟の半分以上を所領していたけどやらかして御家断絶になりその土地を小藩で分割したせいで会津の影響が強くなったそうな
ちなみに幕末もっとも領地が大きかったのは今の上越にあった榊原家
こちらも板挟みにに合いながら結局新政府に付くとことになりましたとさ 北のあんな小さな藩にガトリング砲があるのを見たら官軍側も襟を正すしかない
武器としての威力よりも近代化した藩の象徴みたいな効力の方が強い まぁ長岡城の不死鳥フェニックスっぷりと
長岡ランプ会のイカレタ野望は特筆モノだろ
原油と天然ガスのエネルギー資源大国
火計1回、水攻め4回、大震災1回を喰らっていずれも落城
ガトリング家老が勇み足でやっぱり焼失落城
米百俵精神と第四北越フィナンシャルグループ呉越同舟
北越鉄道長岡駅舎と宝田石油本社からなる長岡要塞の風格とは
六甲おろしを歌いながら谷川連峰に鉄道トンネルをぶち抜け!
ところで治水はどうした?やっぱり洪水決壊で郊外は床上浸水続出
大日本帝国海軍大西洋艦隊オレンジボーモント司令部の建設予定地の視察
当然ながら全米各地日系移民は全員捕縛され米空軍の長岡空襲でやっぱり焼失落城
ブルドーザー付きコンピューターで谷川連峰ごとぶち抜け!
雪にいどむ〜浪速屋の柿の種と消雪パイプスプリンクラーの絶大威力とそのひみつ
ゆきぐに土建帝国ならでは創意工夫で幹線道路網整備&温泉スキー開発大作戦
震災にいどむ〜もはや首都圏気分な長岡要塞商売繁盛記のはずが200km/h複線ドリフト
寺泊町の編入により悲願の港湾都市へ 実は河井のスケールは司馬が書いたものより大きい。
会庄同盟、奥羽列藩越同盟結成を裏から支えたのは河井継之助。
河井はスネル兄弟を通じて、会庄同盟、奥羽越列藩同同盟をプロイセンに近づけようとした。
会津と庄内が蝦夷の領土をプロイセンに売却しようとしたが、これはスネル経由で行われたものである。
そもそも、慶喜が寛永寺謹慎を決意した時に、大鳥圭介ら旧幕府陸軍と会津、桑名、長岡、庄内は
奥羽越諸藩を巻き込んで、「第二の王政維新」を計画していたのであり、奥羽独立国構想は河井の策によるもの。
河井が3月末にスネルの汽船で会津、桑名藩士と共に新潟港に到着した時、出迎えた藩士に「戦争は嫌だ。しかし、
戦争せざるを得なくなった。もっと時間があれば新潟港から列強と貿易して富国強兵を行えるのだが」と語ったと言う。
岩村高俊は全く悪くない。河井がわざと挑発して談判決裂させただけ。
スイスをモデルとした武装中立なんて全く嘘で、裏では会津に与する様下越、中越諸藩を婉曲に説得していた。
そして、衝鉾隊を追いかけて高田藩まで来た尾張藩や松代藩など東山道軍に対し、
奥羽列藩同盟が結成されるまでの間、防波堤となって出来る限り時間稼ぎをしていた。
閏四月半ば、大村益次郎は越後口に山縣率いる奇兵隊の増援で一万の大軍を集め、五月には官軍は小干谷まで侵攻したが、
河井は奥羽列藩同盟も無事結成され、新政府と開戦する潮時だろうと決断し、
藩論を一気にまとめ、更に士気を鼓舞する「妙薬」として小干谷談判決裂の茶番劇を行ったのである。
河井が勝敗を度外視していたのは間違いない。そもそも、河井は勘定奉行の家柄から藩主忠恭に認められて
筆頭家老まで出世したんであって、藩主忠恭の意向には逆らえない立場であった。
実際は新政府の計画する廃藩置県や殖産興業に賛同しており、戦死しなければ新政府内で相当な出世したのではなかろうか。
ラストサムライでもなんでもない。明治期こそ本当に活躍できる人材であったのであった。 ちなみに長岡藩は会津藩とお隣さんだったそうです
会津のプレッシャーもかなりあったことでしょう 官軍側にとって破竹の勢いだった時に
松下村塾に名を連ねる奇兵隊の時山直八が北陸の地で討たれたのはショックだったろう
生きてれば維新後に必ず活躍できた人物
これ以降官軍側の大物が戊辰戦争で討たれた例は無いんじゃないか? >>161
新発田は外様藩で皇室に対しての忠誠心が強い藩だったし
久保田藩は佐竹氏が徳川家によって左遷されて以降、幕府が大嫌いだろ >>133
気候が良すぎて誰もが頑張らなくても暮らせるからな >>175
世良修蔵。山縣があいつは学者でもあって惜しい事をしたと嘆いていたぞ。 頼まれてもないのに新政府と会津の仲裁をしだしたり
ガトリング砲をぶっぱなしたり
まあ、基地外家老ですわ つぐのすけ
つぎのすけ
そっちかわかってないんだろ 新政府に反逆しなかったら長岡が越後の県庁所在地になったのかね? 光栄のPC98版のゲーム、維新の嵐で選べるキャラクターの中に
名だたる幕末の有名人の中で河井継之助が入っていたのは当時は不思議だったが、
司馬遼太郎の峠を読んだ後だと確かに河井を選んで彼の希望通りのエンディングを迎えたい気持ちにはなる
河井を選択できるようにした光栄も先見性があって、後々伸びるゲーム会社だけのことはある >>179
世良さんは官軍の正式な使者って事もあって
気負いすぎたんだろうけど、態度がでかすぎたのが 自ら最前線でガトリング撃ちまくった人だべ
涼しいとこで勇ましい事ばかり吐く輩は見習わなきゃな 薩摩に直ぐに弱点を突かれ、ろくに役に立たなかったガトリングガン。
騙されて無駄な物に藩費を注ぎ込み、城下を焦土にした。 前にドラマか何かのキャッチコピーに「北陸の坂本龍馬」って書かれてたけど
さすがにそれは無理があるわ 会津の人には長らく憎まれたんだっけ?今でも会津地方でこの人のことを聞くと反応が悪いな 河井継之助が落ち延びた八十里峠はもう少しでまた通れるようになるんだっけ
元々の街道からは少し離れたルートだったが現地の工事進捗確認兼ねたバスツアーに行ったわ
河井継之助がらみの話がいっぱい出るかと思ったが八十里峠の出発点は長岡でないので微妙な感情の土地なのか、
淡々と工事の進捗を地元民に説明しただけだった >>190
地元の人には憎まれてたとは知ってるが
なんで会津に憎まれてるのは初耳だけど
理由は? 幕末でどうしようもないクルクルパーは一人しかいない
松平容保である >>133
最近、良寛さんが凄い気になるんだw 地味だけど、一休っぽくて良い >>192
河井が長岡で暴れたから会津はもっと手強いと気を引き締められて官軍に徹底的にやられたからとか 伊達でも南部でも同じだが、
河合は薩長側の空気の藩内に対して、
藩の主権と中立を唱え、薩長軍に何回も交渉しようとしたが、
結果は小国の悲しさ。
>>15
あったんならやるべきだな。
戦後の勝ち組理念ポピュライズムの典型になる。 >>171
花神、よかったねえ〜
どっかにビデオ映像が死蔵されてないもんかな?
もったいない 長岡で大雪、jr普通線は全部止まっちゃったんで新幹線で帰ることにした
関越トンネル過ぎて関東に入ると快晴、小説の通りこれはズルいと実感したわ 岩村精一郎(長州の海江田信義)が交渉相手だったのが不運だった >>80
つうても日露戦争で負けてりゃ今の日本は良いとこフィリピンレベル、
列強に分断され植民地化され、独立できたとしても太平洋戦争どころじゃ無い犠牲を出してただろうよ。 >>173
面白い話だけどソースが示されて無いなーと思って読み進めて最後の
>実際は新政府の計画する廃藩置県や殖産興業に賛同しており、戦死しなければ新政府内で相当な出世したのではなかろうか。
を見て、おいおい廃藩置県や殖産興業は戊辰戦争の何年後に出てきた話だと思ってるんだ?妄想話だったのかよw 毎年河井の墓がある只見の土地に墓参りを兼ねて行ってるんだが
夏は涼しく秋は紅葉、冬は雪景色で遊びに行くには良いところだよ
青虫という貸本漫画図書館があるのも訪問目的の一つ >>195
そんなのが憎まれる理由になるの?
すげー器小さい >>192
長岡藩の強さと比較されると
図体がデカいだけの会津藩の雑魚っぷりが際立つからでは >>197
YouTubeで総集編なら見られる
中村梅之助の大村は最高
大村益次郎も幕末の有名人の中ではかっこ良すぎる立ち位置だな
大村の墓も大きな池の前の静かな土地にあって幕末に活躍した偉人が今は静かに眠る >>195
そもそも会津が中立なら撃つとかやってたんやないの? 昔、竜馬、燃えよ剣とこれを良く読んだ。
また読みたいなあ。 ひたすら遊郭で遊びまくる2時間だったら映画を見てやる。 >>206
ガトリング砲をぐるぐるするシーンが好きだった 河井のせいで山本五十六みたいな博打おじさんが出てきて日本を破滅に導いた それなりに戦った長岡藩や五稜郭まで最後まで戦った旧幕臣に比べ
奥羽越列藩同盟の盟主で徹底抗戦を叫びながらただただボロ負けして城を囲まれるやあっさり降伏した会津藩がダサすぎる 河井は無能なテロリストだよ
地元からは嫌われてる
何度も墓を地元民に壊されてる 役所広司はテレビ東京の燃えよ剣で土方歳三役をやって栗塚旭の土方とはまた違った迫力、かっこ良さがあった
テレ東だけに予算が少なかったがよくできたドラマだった
昔レンタルビデオ屋にVHSがあったがYouTubeにも動画がないのでぜひDVD化して欲しいな
栗塚と役所の土方歳三を見てるので山本耕史の土方はどうにも小物感があって感情移入できない 最後まで戦い抜いた英雄であることには違いない。こういう人物はもっと評価されていい。 >>201
長岡藩家老・軍事総督河井継之助が負傷したとき傍らに付き添い、その死まで終始行動を共にした。
継之助と共に会津藩に落ちて行く途中、病状悪化して塩沢に留った。その時、継之助は外山脩造に向い、
「これからは実力のある者が勝つ世の中となる。戦争が終ったら商人になれ」
と諭した[2]。その時、河井継之助は、脩造のために福澤諭吉にあてた添書を残していた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/外山脩造
河井が山田方谷から学んで行った富国強兵策は明治の富国強兵と近いものだし、
この一言で河井が廃藩置県に賛同してると分かるだろ。 >>214
そこまですることはない
同じ長岡でも田中角栄より100万倍マシ >>201
ソースを提示したら、あり得ない量になる。 >>212
日中戦争以降の日本の軍部って岩手の東条、板垣大将、山形の石原中将、長岡の五十六と旧賊軍ゆかりの派閥が支配してたのな。
長州閥は追放されて陸軍大学にも入学を許可されず影も形もなくなる。 でもこの小説なんかすっきりしないんだよね
とくに最後が尻切れトンボで無理矢理まとめたみたいな >>188
運用を真面目に考えてなかったんだろう。
ちょっと考えれば補給が重要になる連射性能の高い兵器を突出させたりせんはずだし。 >>208
龍馬は調子良すぎだね
燃えよ剣は新撰組がヤクザの組みたいだった
芹沢鴨との抗争とか内部粛清とか入ったら足洗わせないとか >>222
司馬遼太郎の作品はだいたいバッドエンドで終わるからそんなもんよ
スッキリ終わるのは、燃えよ剣ぐらいじゃない >>206
おお、ご同輩かな?
来月、周防の大村神社に行く予定
ところで、総集編に入ってないシーンだけど、河井が墨で花の絵をかいてる少年をほめるシーンがあったよね?
あの少年、明治に大成したって言ってた友うけど、なんて画家になったんだろ?
原作読めば出てくる? とんでもないオッサンだけど本人はすごく充実してたはず! 司馬遼太郎の河井継之助も良いけど
小菅トメジの雲井龍雄のが面白いかも
ペンネームが思い出せない
藤沢周平か >>215
>スペック厨
海防論者から後の開国主義者までみんなそうだよ。 >>179
世良修蔵が出したと言われる、
奥羽皆敵の手紙は仙台の捏造だったで学術的に結論ついたみたいね。
長州が計画したとされる京都大火計画も新撰組の捏造だと確定したし、実態はただの飲み会に新撰組がテロしただけという… >>212
「半年なら」暴れてみせる、と56は言ってた。
半年しか持たない、それは56の慧眼。
他の愚将とは一線を画す。 >>79
総工費80万両のうち60万両は地元負担
工事の労働者は地元から徴用とかやってれば
一揆が起きて当然だろ
あと分水工事は昭和じゃなくて
明治の終わりに再着工して
大正時代に完成したんだが
歴史を捏造するなよ 越後で一番発展していた長岡を火の海にした張本人
みんなお話の読みすぎだよ
偉人でも何でも無い 河井の立場に立ってじゃあお前どうするかって言われたらいまだに答えでんでしょ
卑近な例えすれば
クラスの苛烈ないじめ見て、やめろよ俺が仲介するから仲良くしろよと止めに入ったら
いじめられてる人間をお前も殴れと強制され
拒否ったところ自分もフルボッコされたみたいな >>226
まだギリ四十代なので花神の本編はさすがに記憶にありません
小説から入って昔レンタルビデオ屋で総集編を見ただけです >>62
そこまでしなくても箱根に陣取って足止めをした上で東海道を海軍の砲で脅かせてれば戦局は大きく変わる >>131
鍋島藩主は優秀な江戸っ子だ馬鹿
幕末二大無能は関西と東北 >>94
軍司令官になったのも大将になったのも日露戦争全四軍の中で一番後だったっけ?奥と同じぐらいだったっけ? なぜか最近、日本国内で日露戦争は引き分けって論調増えてんだよね
スターリンも日露戦争の敗北がって頻繁に言ってたのに
日本は戦略目標をほぼ達成してロシアは達成できなかったわけで、戦争の勝利の条件がいつから賠償金や戦死者の数で決まることになったのだろうか。
朝鮮系や左翼系の学者やジャーナリストはそんなに日本の歴史を修正したいのかね >>245
聞いた話では、
ロシアの教科書に日露戦争の記載がないとか。 >>235
長岡市の悠久山の方にある郷土史料館では河井継之助は良い扱いを受けてるよ
維新後に河井家の再興と名誉回復もされている 日露戦争時代はロシアは大国であって
ロシアが勝って当たり前の状態だった
それを五分の戦いに持ち込んだのだから戦術的には日本の勝利だったのでしょう
でもねいくら戦争で勝っても政治で利益を確定できなければ意味がないんですよ
日本はここが昔から弱いね 仙台藩などの賊軍が輪王寺宮をたてて明治帝の打倒を目指したのは馬鹿だよな。
北条政子が上皇が自ら出てきたら、弓の弦を切ってすぐに降伏しなさい、
でも出てこなければ、思う存分やってしまいなさい!と激をとばしたのとはえらい違いだ。 >>246
ロシア帝国は日露戦争の影響もあってそのあと滅んだからね 河井もすごいけど先祖代々の家宝を売って戦費にしろと言った殿様の牧野家もすごい
河井継之助一人が名を残したわけではない >>248
政治で利益を確定できたから世界で日本が勝ったとされているのだが…
何を日本がロストしたの?
賠償金とかはなしで、元々戦略目標に賠償金はないし。 >>5
グラバーのパシりで、ただの武器商人が…
船中八策は存在しないし、新政府綱領八策も
大政奉還後だしw >>195
当の会津は衝撃的な雑魚っプリを見せ付けたな もともと長岡藩牧野家は、三河国といっても東部(今の豊川市)の出で、譜代本流じゃないんだよね。
彦根の井伊(出身は遠州の浜名湖北岸)もそうなんだけど、本流じゃないというハンデがいろんな方向に出てくる。
三遠地域の非本流系譜代は、宇都宮の戸田家(出身は愛知県渥美半島)も含めて、
幕末には独特のポジションで独特の役割を果たしてる。みんな脇役だけど、単純じゃない。 時山直八があと十人いたらアメリカにも勝っていたみたいなヨイショぶりがテラワロス >>239
放映時小学3年くらい?
じゃー見てないのも無理ないww
おれ、S40生まれ、かすかに覚えてるだけww 司馬さんを理解するのにこの河合継之助の描き方は参考になる
小説の”峠”とエッセイの”英雄児”の二つを合わせ読むと良い
小説の方は主人公の生涯を詩として歌いあげるため悪く言えば美化しすぎる面もあるが
エッセイで別角度からその暗黒面も伝えてる
この詩の方だけを取り上げて司馬遼太郎を批判する奴がいるがおそらく全部を読んでいない
司馬遼太郎は今日の基準からみても恐ろしい面があるのよ 家老の家柄ではなかったのに筆頭家老にまでなったんだから、
優れた人物だったんだろな。
ただ、農民の子から家老になった山田方谷には及ばんな。 >>248
>>254
「ロシアたばこを買ってこい」 河井継之助記念館
http://tsuginosuke.net
こんなにリスペクトされとりますがな
長岡駅からすぐだから花火のときにでもどぞ 主君が全幅の信頼、己れの才覚で自藩を危険に晒す、って意味では直江兼続に似てるな。
直江は後半生は藩の為に尽くして名誉挽回出来だが、この人はそれも叶わなかったからな 牧野家は、会津松平ほどには同時代の領民に嫌われてたわけではなさそう。でも譜代小藩の常として、収奪は厳しかった。
なお、当時の新潟民は、米沢の上杉氏の帰還を待ちわびていたらしい。その意味で列藩同盟側に与する感覚だったようだ。
>>231
そんな捏造の手紙を作られちゃうということ自体、交渉役として致命的無能やぞw
だからといって、世良の評価が上がることはないよ。 長州に負けたUWFインターの安生に顔が似てるよな
長州に負けただけに 長州の村田蔵六みたいな人か?
村田蔵六、大村益次郎はあの時代でも珍しいくらい好戦的な人間だし
西郷隆盛にさえ嫌われて暗殺されるけど >>271
知らないなら書くなよ。トンチンカンで恥ずかしいから >>1
河井継之助は、長岡藩をスイスのような中立の立場に置き、
幕府にも政府にも従属しない自主自立の立場を貫きたかったらしいのだが
小千谷談判で政府軍との交渉は決裂、結果長岡城下は焼け野原
河井にとって長岡藩は小さすぎたという評価は正しいかもしれないが、
長岡という小藩の力量と、もはや政府軍優勢の状況で
そんな曖昧な立場を許す余地なんかあるわけなく、
国内情勢を見極めることができなかったという点で、やっぱダメだったと言える
山本五十六は河井を尊敬していたらしいけど >>232
そりゃ狡いわ
戦争するからには最後まで責任とれ >>231
全てが仙台藩の捏造じゃなく、手を加えたんでしょ。
醍醐が世良が殺害された十九日手記の手記に書いてる世良の戦略と同様の事が
密書に書かれていた訳だし。
手を加えられたのは「奥羽皆敵として云々」の重要文句じゃないの?
世良の奥羽情勢の分析は甘くて、仙米両藩以外の奥羽諸藩は会津と合従しないと見ていた。
醍醐手記に書かれている世良の考えに基づいて、密書を読めばどこに手を加えられているか分かる。
後、会庄同盟のプロパガンダである「討会討庄は薩長の私怨に過ぎない。君側の奸を払って第二の
王政復古をすべし」という主張から、どこに手を加えたのかも分かって来る。
「防長回天史」によれば「先年慶喜主上奉要轍云々」の文書内の位置が、仙台藩のものと米沢藩のものじゃ
違うと言うから、これは書き足されたと思ってる。世良と大山が会津に私怨を抱いてる証拠だとして。
末松謙澄は密書は手を加えられたから、原書が出て来ないと書いてるが間違いないと思っている。 長岡と言えばもう一つのエピソードが百俵の米だがその中で何故教育が大事かという箇所で
長岡藩がこのような惨状を呈しているのは教育が足りず愚か者が藩を牛耳り維新に敵対してしまったからだ
だから教育を充実させねばならぬ、って古老が言うんだけど
この教育が足りない愚か者って河合継之助のことなんだよね
河合は悲劇を招いたが愚か者であったのだろうか?
河合のことを言ってるんだと知って以来百俵の米のエピソードも手放しで称賛できなくなった
教育投資は他の何を差し置いても充実すべし、って意味なら賛同できるんだけどさ >>274
つうか訳知り顔で陸軍を馬鹿にしていながら、「半年後以降は負けます。暴れられません」とはいえないセコさ。 >>271
大村は薩摩藩を上野戦争の激戦箇所に配置したからでしょう
百姓医者の大村の頭の中には好戦的な旧来の侍を減らせるまで減らしたいという意図があっただけで
民間人を犠牲にするもやむなしという意味の好戦的ではない >>272
河井継之助も好戦的な人間だったんだろう。とにかく、手に入れた武器を使ってみたくて仕方がないから薩長に楯突いただけ
勝てる見込みなんて全く無かったからな
実際に地の利を得ても戦線は維持出来なかった >>277
セコいんじゃなくて、事実をそのまま言っただけでは?
五十六は米国留学もしていて、
アメリカと日本の国力の差を自分の目で見てわかっていたらから、
短期決戦で決着がつけられなければ、日本に勝算はないことは分かっていた >>276
マジかよ。
継之助ぐらいしか人物がいなかったほど、
その他大勢の教育が足りてなかったってことじゃなかったのか。 >>268
直江と上杉景勝のコンビも間抜けだったね
なんで石田三成と約束してたのに関ヶ原で挟み撃ちにしなかったんだ
結局、家康に領地減らされてぼろぼろやん >>273
列強の中の日本が幕末の大藩の中の長岡藩に重なったのかな >>51
土方の写真は二枚目に見えるよう修正入れてた
ようだ。
函館戦争の時、実家に形見として写真届けさせてるが、
のちにその写真を見せてもらった知人が、あまりにも
実物とは違う男前振りになんとも言えなかったとのこと。
後世に男前として記憶してもらいたかったんだろうと。
そういった見栄というか、自意識が強いというか、
生き方もだが、見た目のこだわりにも彼流のダンディズムが
あったようで。
あと、別に土方だけってことはなく、桂小五郎も陸奥宗光も
かなりハンサム。
桂小五郎なんて、長州が朝敵になる前の京都でモテまくり が
当たり前だか、朝敵になって、あちこち潜伏して逃げまくった
時にも、匿ってくれた土地の娘達に惚れられて
妊娠させたりしている。
桂の子を産んだ娘は、子供を連れて長州の桂の
元に向かうが、途中会津藩にバレて殺される。
虫の息の時、子供の命だけはと嘆願して、
会津藩士の一人が聞き入れ、その桂の赤児を
ちゃんと育てあげた という逸話もある >>273
西南戦争とかもそうだけど
日本人は負けるのわかってて戦うみたいなところがあるからなあ
単に国内情勢を見誤ったのか、情勢を見極めたうえで引けない何かがあったのか
全面降伏すれば誰も死ななかったかもだけど・・・ 夢を見るのは勝手だが強制的に付き合わされるほうの身にもなって >>288
遺影だけ見ると、継之助は坂田利夫だな。 河合継之助は維新の動乱の中で長岡藩を武装中立で守ろうとした
そのために長岡藩で出来る範囲の近代兵力を整備した
だが交渉は決裂してしまった
ならばその時点で武装を放棄すべきではなかったのか、と批判される
だが河合は開戦を決意する
何故開戦したのかと言えば、やれば悲劇に終わることは理解していたが自分が整備した近代兵力の力を
試してみたいという誘惑に逆らえなかったのではなかろうか?
この点も山本五十六に酷似している
山本五十六もダメだ、ダメだと言いながらも自分が整備した海軍革命を起こす航空戦力の力を試してみたいとう
誘惑に無意識下では勝てなかったのではないか?
ちな河合継之助が用意した砲はガットリングガンを含めて28門で
日本海軍が建造した空母が28隻な >>279
侍は戦うのが存在理由だからな
江戸300年で幕府や大藩の上級武士ほど腑抜けになっている中で地方の小藩ほど心意気が残っているのが面白い
苛烈な内戦で各地で小藩でもひるまず抵抗する武士の姿をみて
欧米列強に日本は清やアジア諸国みたいなわけにはいかないと理解させたのが維新後の日本の躍進につながる >>292
会津松平なんて浪人百姓を雇って戦わせるぐらいだからな >>280
歴史に「もしも」はないけれど。
昭和天皇がアメリカと日本の国力の差を知っていたら、
どうなっていたか。
少なくとも
「絶対ニ勝テルカ」の御下問はなかったはず。 >>282
結城秀康らの大軍が抑えで残っていたし、これまた大軍を繰り出せる伊達、最上が上杉領に無傷で隣接、駐留している。
常陸の佐竹の動向ははっきりしないし、伸びた脇を突かれる可能性もある。
第一、遠征軍を繰り出せる編成でなく、所領替えで大した資金はない。
挟み撃ちは無理だと思うね。 結局、役所広司なのかぁ・・・。
或る時は阿南大将、また或る時は山本元帥となると、彼は現代のミフネなん
ですかねぇ >>176
佐竹が徳川に遺恨というが
領地半減どころじゃない上杉とか百万石を反故にされた
伊達は別に徳川を恨むでもない
島津や毛利なんて逆恨みもいいとこだ >>84
同意
小学校の校長としてなら
理想的な人物 >>290
俺は本田博太郎かヘッダー指揮官(石橋雅司)だと思う 長岡では目だった存在だけど
偉業をなしたわけではない 合理主義の西日本に対して意地や頑固をよしとする東日本
その両方があったから日本はうまく立ち回ることができた
河井継之助は本来は合理主義の人なのに最後は武士の意地を優先させたところに魅力がある >>287
小千谷談判が決裂した時、河合は相当落ち込んでいたらしいから
別に戦争したかったわけではないだろう
ただ、戦争に対する備えはそれなりにしていたから、
最終手段としての戦争になっても、なんとかなるのでは、
という考えは多少はあったかもね >>294
正攻法ではどうやっても勝てないことはみんな知っていて、むしろ陸軍の方が絶望していたくらい。
捕虜を出さない自殺的な攻撃でアメリカの戦意を喪失させるというのが開戦前からの方針だった。 >>233
やってもやらなくても明治新政府は悪、農民は絶対善というあなたの主張が歴史捏造なわけですが。 >>166
司馬もそんな描写してなくね?
少なくとも峠では。
武装中立のためのガトリングだったけど、時勢ここに至ればやむなし、って感じだった気がする >>287
特攻の礼賛とか、
そういうカタストロフィックな悲劇に心酔するDNAが
日本人に組み込まれているのかも。 焦土作戦をやって地元民にすごく嫌われたんだよな。
そりゃそうだ味方だと思ってたやつに自分の家が焼かれたんだから。 別のスレにも書いたが
会津の一之瀬要人と佐川官兵衛の謀略で五段梯子の旗が片貝の戦場に放置されて
牧野家が陥れられた結果小千谷会談の決裂に至ったという説もある
一方で長州人の前原一誠は越後府判事になると中央政府に背いて
戦争復興のために年貢を半減してくれたり、信濃川の治水工事を国費で事業化できないか国にかけあってくれた >>82
乃木希典は今で言う「武士道に生きる意識高い系」だな でも俺は嫌いではない >>292
「意地を見せる」で良いのは兵士から下士官までですよ。
将なら容易く勝つ方法論に徹しないと。 >>304
>捕虜を出さない自殺的な攻撃でアメリカの戦意を喪失させる
それがWORKしなかった場合のシチュを考えられなかったのは、
やはり日本の民度の低さ? 直江は明らかにただの無能よな。
でも謎の最後っ屁というか因果応報というか、直接の原因たる神指築城が潰された当然の結果として、
会津藩が中世の立地のままの若松城に入ったことが、幕末の悲劇を生む。
もし会津藩の本城が神指城だったら十分に防御力があるから、白虎隊のあれもなかったかもしれん。
いずれ開城したとは思うが、史実とはかなり違っていたはず。殿様があれだったとしてもw >>310
そうした非プラクティカル系の人物が単独で存在するなら、実害はない。
問題は、そうした人物が権力をもったとき。
配下は、たまったものではない。
八甲田山の雪中行軍遭難事件も同様。
名将と愚将で、配下の運命は明暗を分けた。 河井はどこまでも軍人で政治家にはなれなかったのですよ >>312
アメリカが戦意を失わなければ天皇を処刑してソ連の属国になるしかないけど、
そうしてすら戦争が終わるとは限らないぞ? >>313
会津鶴ヶ城は防衛能力は高いですよ。
但し、籠もっても会津盆地に孤立してしまう。
だから天下を左右したいなら、白河の闘いとなる。
ちなみに長岡城は金は掛けたが欠陥品です。堀が攻城側の使える水路になっていた。 大敗した長岡藩だけど維新後でも名を成した人が大勢出ているのがすごい
人口が少なくても人物が出る土地というのは何かが違うのかねえ
人口が多くてもたいした人物が出ない土地はまわりに合わせる付和雷同な人が多い 英雄児を先に読んでたから
峠の河合継之助は無理矢理美化されてる感じがしてあんま面白くなかったな
やはり河合は戦争基地外の面あるのは認めざるをえんだろう >>82
井口省吾の子分だった谷寿夫がでっちあげの谷戦史を作った
司馬をそれを引用しているので仕方ない >>316
>アメリカが戦意を失わなければ天皇を処刑してソ連の属国になるしかない
こういう状況だったのですか。
知りませんでした。 なにはともあれ、7万何千石かの居城が跡形もなくなって、いまはJR長岡駅に
なっちまったんだから、殲滅戦が凄かったんでしょうな >>36
そういう意味では同盟内でも庄内藩は賢明だったな >>289
んなこと言ったら日本のリーダーは全員居なくなる
どのリーダーも反対する奴はいる
でも付いて行く奴も多いわけだ
そこを考えろ >>317
いや、隣の山からバンバン大砲を撃ち込まれてるだろ。飛び道具を知らない中世城郭なんだよ。
それをみて白虎隊が自暴自棄になった。
景勝直江コンビが家康への根回しを飛ばしてでも神指築城を急いだのもこのため。それで自爆することになる。
そして、米沢はミニ神指みたいな形になってる。築城思想だけは維持されてる。家康もさすがにここは黙認した。
これは、広島比治山と萩城の関係と同じ。毛利輝元は黒田如水に騙されて三角州に平城を建てたのを悔いてた。
なお、伊達政宗が生まれた「米沢城」はあそこではない。 >>298
毛利長州藩は関ヶ原の後でも実際には50万石有ったのは結構有名な話だけどね
他との兼ね合いや敗軍の将が大禄ではまずいので、7掛けの37万石の表高に落ち着いた
幕末の実高は100万石を優に超えていた。薩摩藩以上の経済力は有ったわけだ
実際に薩摩藩の実高は40万石には届かない程度。米が取れないからな
琉球を通じて密貿易に手を染めても表高の77万石には届くかどうか
そりゃ無駄遣いをする渡辺謙も殺されるわ なんで、河井継之助のスレにやたら太平洋戦争の事書いて
玉砕だ、戦争キチガイだというほとんど河井継之助について知らん人間が沸いてるのか疑問。
その上、感情的に日本人叩きしているし。 河井継之助の考えは武装中立だったと言われる。
しかし、長岡藩は鳥羽伏見で旧幕府側として参加したのであって、朝廷から見ればいわば準朝敵みたいなものだ。
その長岡藩が鳥羽伏見後、欧米の武器商人から盛んに銃を買って武装に努めている。
このような長岡藩の動きを朝廷は疑いの目で見ていた。
官軍が長岡にやってきたとき、河井は嘆願書を出し、長岡藩は中立で朝廷に盾突くつもりなど無い、奥羽の諸藩との仲介をします、そのように言ったという。
これは通用するはずの無い理屈だった。
なぜなら官軍は鎮撫しにやってきたのであって、官軍に従わなければ朝敵なのであり、中立などあり得ない。
河井は薩長と徳川氏の争い、徳川氏側にたつ東北諸藩という認識だったかもしれないが、
徳川慶喜が罪を認めて謹慎蟄居しているわけで、もうとっくに勝負あったなのだ。
河井が認めたくなくても薩長は官軍なのである。
従わなければ討たれるだけだ。
それに鳥羽伏見で旧幕府側で戦った長岡藩が朝廷に逆らうつもりは無い、中立ですなどと言うなら根回しが必要だった。
いきなり小地谷でやってきた官軍に嘆願書を出しても受け入れられるはずがない。
河井は外国武器商人から武器を仕入れ武装強化に励むばかりで、朝廷や官軍に対して根回しをした形跡がない。
これでは小地谷で嘆願を突っぱねられても仕方がない。
もちろん河井はそういうことを分かっていたに違いない。
あれほど頭脳明晰な人がそんなことを分からなかったはずがない。
河井は最初から戦争をするつもりだったのだ。
武装中立などは藩内にたいする建前で、河井は戦争をするつもりだったのである。 >>326
289は、
「聡明な人だけがリーダーになって」という意味では。
「その器でなければ辞退して」と。 >>328
結局銭と米を持ってる山陽の藩が明治を主導していったからな >>332
当選してから豹変するリーダーもいるので。
権力は腐敗するし。
カダフィとか。 >>330
官軍だの朝敵だのってくくりが最初から決まっていたと勘違いしてる
徳川慶喜を朝敵にすることに成功したのは偶然の累積に過ぎない
慶喜が恭順を決めた後にも中立を目指したのは無理があるってのなら判らんでもないが
河井が武装強化をしてるのはその遥か以前からでそれを含めて最初から戦争する気の基地外だった
ってのは無理がある >>328
表向きの具体的理屈は知ってるけどさ、それでも防長2国つまりチョークポイントの関門海峡を与えちゃうって相当な配慮だよね。
本当にガチ制裁するなら、安芸1国に閉じ込めるはず。広島城が実はポンコツなことは、当然家康も知ってる。
山に撤退する深謀遠慮だとか、あれは寝言だからw 山本五十六が山本帯刀の山本家の養子に入ったという事だけ知っていて
河井継之助の事はほとんど知らんと言う。
なんで、そんなのが沢山沸いてるのか恐怖。 >>190
長岡藩は会津藩に仲間になれと圧力かけられたんだぞ >>335
王政復古号令がどこまで成功するか、決行した後でもしばらくは分からなかったわけでねえ。
ただ、あの初期メンバーを見て、これは行ける可能性がかなりあると思わない譜代藩上層部はヤバいかもしれん。
ポイントは薩長ではなく、尾張藩主と越前藩主が含まれていること。
徳川慶勝と松平慶永、特に尾張慶勝が、徳川の正当性を朝廷側に回収するポジションにいる。 >>338
諸悪の根源・会津
東北の恥・会津
侍失格の糞雑魚・会津 >>306
「英雄児」ではっきりとそう記述してるんだよ
自身がつくった武力が頭脳となった、最新の火砲が勝てると思わせたって
「峠」も好きだけど、暗黒面を描写している点で「英雄児」のがキャラとして印象深いと思う しつこいようだけど、「英雄児」の文章↓。面白い一節だと思う。
――できる。
と思うのである。米式速射砲がそれを考えさえ、仏式後装砲が自信をつけた。
もはや武器が、継之助の脳髄であった。 >>335
事実をもとに話さないと。
>河井が武装強化をしてるのはその遥か以前からで
河井がスネル商会などの欧米武器商人から最新の銃やガトリング砲などを購入し武装強化、軍隊の西洋化を始めたのは
鳥羽伏見の敗退と慶喜の江戸帰還謹慎を知った後だよ。
>最初から戦争する気の基地外だった
俺は河井が基地外だなんて言ってないよ。
どこで言った?
その文章を指摘してくれ。 >>335
これから国内で戦争が始まると予想してる賢い藩なら
どちらの側につくにしても武装強化するのは当然だわね >>298
毛利は正月に徳川討伐の軍を云々の儀式をやってたという
アホではなかろうか
毛利が普通に働いていれば関ヶ原は西軍が勝った
石田 小西 宇喜多 大谷らの奮戦した諸将からすれば敵の徳川内府より毛利の方がよほど恨めしい
吉川など恨み殺されてもいいくらいである
何被害者ズラしてるのだろうか
島津に至っては本領安堵で家康公をする恨む筋など一つもない なんで、今度は戦国時代の話してて河井継之助の事知らない人間が沸いてるのだろうか。
気持ち悪いスレ NHKも原発事故の復興策として『八重の桜』やるくらいなら、
会津の山川浩・健次郎という反逆の天才兄弟を主役にした作品を作って欲しかった
山川浩
・20歳そこらで会津藩の家老に
・会津戦争時、『史記』に出てくるような奇策「会津獅子入場」を成功させる
・会津戦争で籠城線を指揮するも、妻など一家は全滅、藩も滅亡
・20歳そこらで家老になり、藩ごと流された斗南藩でも指導者に
・会津戦争で戦った谷干城の推薦で陸軍軍人となり、西南戦争に従軍
・西南戦争で何度も激戦地に送り込まれるも、連戦連勝。
・西郷軍に包囲されていた熊本城を奇策であっさり救援(熊本城籠城の指揮官は谷干城
・晩年は会津の立場を淡々と綴った『会津藩始末記』という一級資料を残す。
山川健次郎
・白虎隊に志願するも年齢制限で入れず
・「滅び行く会津藩の最後の希望」として、藩幹部の手引きにより会津を脱出
・あまりに頭が良いため、米国に留学。日本初の物理学者の一人に。
・各帝国大学の学長を歴任。
・日清戦争時に明治政府に「一兵卒でいいから従軍させろ!」と怒鳴り込んで、受付を困惑させる
・『会津藩始末期』の影の執筆者とされる
絶対に(特に男には)おもしろいドラマになるはずなんだけどな〜 >>341
なるほど、そっちか。
読んだ記憶はあるがトーンまでは覚えてないな
ありがとう 長岡の河井継之助記念館は比較的新しい
只見の近くの会津塩沢の記念館の方が歴史がある
墓があるとはいえ、なぜ不便な会津塩沢に金出して河井継之助の記念館をつくったか謎だが
ダムができた電力マネーで余裕ができたからかな
今は代行バスルート上になったからなおさら不便になってしまった >>218
>「これからは実力のある者が勝つ世の中となる。戦争が終ったら商人になれ」
この一言で
>河井が山田方谷から学んで行った富国強兵策は明治の富国強兵と近いものだし、
>この一言で河井が廃藩置県に賛同してると分かるだろ。
こう結論付けるのは風が吹けば桶屋がもうかる的な話で全く同意できないね。
それはあなたの超解釈と言うか想像の話で全然史実ではない。
一言だけ忠告しておくと史実と自分個人の想像話を区別しないで同じ史実であるかのように
書くと一部に本当の史実が書いてあっても全部の話の信用性が失うよ。
ただの嘘付きだと思われてちゃんとした史実の部分さえまともに読んでもらえない。
自分の考えについてはちゃんと自分の考えとして解るように別に書いた方が良い。 桂小五郎とか大久保利通とかの首脳陣は河合敬之助の風評は聞いていて
戦争回避に向かうと予測してたそうだ。
で、土佐の岩村某を軍監として向かわせたら、
まさかの「開戦」で泡食ったという話は何かの本で読んだことがある。
ガトリング砲は強烈で犠牲者続出。
数に物言わせて、なんとか鎮圧したが、手痛い犠牲を払った。
河合そのものの人物も惜しんで降伏を諭すが、拒絶されたとのことらしい。 >>284
だって、まともに戦ったら危ないじゃん。 >>276
そこまで考えてなくてただ
あー官軍側に着いてたらなー
ってなくらいで
「くそー河合が馬鹿だからだ」って言ってるだけじゃないかな
河合の正確な情報が当時それほどあったわけない 西郷の弟もここで死んで西郷はショックで帰っちゃった 原作のサイズ的にも史実的にも映画がちょうどいいサイズだね >>348
どちらの側につくという考えが間違ってるんだよ。
かんじんの慶喜が罪を認めて謹慎閉居してるんだから徳川宗家は賊だと決まってしまっている。
長岡に進軍してきたのは、もう官軍で確定。
官軍の鎮撫使だ。
従わなければ賊軍。中立は無い。
しかも長岡藩は鳥羽伏見で旧幕府側で参戦している。
その長岡藩が朝廷にたいして何の申し開きもせず、外国商人から武器を仕入れ武装を調えている。
朝廷から長岡藩は疑いの目で見られていた。
長岡藩の立場は非常に悪かったのである。
河井が本気で戦争を避けるつもりだったら、総督府にたいして根回しをすべきだった。
ところがそういう形跡はない。
長岡に進軍してきた官軍に対して小地谷で突然嘆願書を差し出すのであった。
応対した官軍の軍監岩村は河井の請願を拒否した。
岩村は長岡藩は一度も朝命に奉じないのに、ここで嘆願書を出すのは受け入れられないといった。
つまり長岡藩は賊だろう、従えば許すがそうでなければ討つ、官軍としてはそういう方針だったのだ。
繰り返すが、河井が本気で戦争を避けるつもりだったら、総督府にたいして根回しをすべきだった。
ところがそういう形跡はない。
小地谷で突然嘆願しても受け入れられるはずがないのだ。
頭脳明晰な河井はそんなことは分かっていた。
分っていて、根回しもせずにひたすら外国商人から武器を買い集め、武装強化に専念したのであった。
河井は最初から戦争するつもりだったのである。 武装中立だなんだと言われるが
日本に3門しか存在しないガトリング砲の2門を手に入れた河井が
使ってみたい誘惑にあらがえなかったんだろう
強力な兵器を使用してみたいってのは悪魔のささやきだ 当時のガトリングガンは冷却材の役目をする物を単なる梱包材として捨ててしまって加熱する銃身の冷却が出来ないまま使って不具合を出していたんだよな
アメリカでインディアンと戦った部隊が全滅させられてたりするのはそのせい
日本にきたガトリングガンはどうだったんだろう
ガトリングの子孫が河井継之助記念館かに来たんだよな まぁ中立を守るには武力の裏付けがいる、という事を再考するにはよい素材だと思う
峠は文句なく名作、司馬遼太郎は情景を掻き立てて情感を高ぶらせるのが本当に上手い
史実通りかどうかはさておき、超一流の小説家だよ
若き日に読んだ峠には涙したもんだ 役所公務員さんは何やっても役所節で役所そのまんまなんだよな
あれで河井をやるのはどうなんだ?
あと今でしょ!の先生は出るの? アサヒビール、阪神電鉄創業者の外山は出てくるんかの 時代を見る目が中途半端だった人だよな
もっと無能なら会津以外の東北諸藩のように無事だったし、
もっと有能なら勝海舟のように長岡を救えた 何言うてまんの
長岡は藩主が幕府の要職についていた
京都にも行っていた
他の藩みたいにとかはないわな
長岡藩牧野家は徳川四天王酒井忠次の血が入ってるし
庄内藩酒井家とは親戚付き合いしてた家
戦うやろ 山田方谷先生は藩主が要職にあったけど、ちゃんと止めたけどね
河井たんは何学んでたんだかな、なトコはあるw >>369
レンタルビデオ屋に、頭文字Dのビデオ借りに行ったんだけど 「か行」探しても全然ないんだよ。
で、レンタルビデオ屋の店員は「あたまもじD」って読んでるんじゃね?
と思って 「あ行」を確認したらマジで置いてあってびびったwww >>370
山田方谷の場合、板倉勝職の代にすでに有終館学頭となり、勝静の教育係に命じられた。
そして、勝静の代に元締役兼吟味役元締となって藩政改革を行ったり、外交顧問になったり藩主の信用が非常に大きかった。
しかし、継之助の場合は書生の身分で一から出世していかねばならず、忠恭に買われたものの藩主に対する立場が圧倒的に弱かった。
継之助が奸臣呼ばわりされるのは、元々勘定奉行までしか出世できない身分なのに筆頭家老まで立身したためで、特に恭順派からは忠恭を誑かした様に見えたのだろう。
しかし、実際、軍制改革や藩政改革は継之助個人がやらかした訳ではなく、藩主忠恭自ら藩を挙げてやり始めた事で継之助はその中で出世していっただけ。
新政府に対する開戦も、継之助個人の意見ではなく、譜代のエリートとしての自負の強い長岡藩と言う組織文化と藩主忠恭の意見が決定したんであって
継之助の力など藩主忠恭の意見次第であった。
じゃあ、小干谷談判に当たって、筆頭家老を辞退し引き籠ってしまえば良かったじゃないかと思えるが、封建制度の時代だし家老山本帯刀も河井に心酔してたから
元々、身分の低い継之助としては進退窮まったんだろうと思う。その結果、「武士道に殉じる」なんていう司馬遼太郎が結論付けた役割を担わざるを得なくなったと思う。
継之助は実際の所、新政府の政策に反対なんてしてなかったし、勘定奉行の家柄らしく非常に経済、商業に通じていた。東の坂本龍馬と言えるかも知れない。
日本の商人を海外に通用する様な商人にしないといけないと言っていた様だし、明治の富国強兵時代にこそ実は活躍すべき人材だった。 >>367
時代を見る目自体はあった。
あったんだが軍備を充実させるにつれ、時代の流れそのものを自らの手で動かせると過信したところが長岡の災難だな。
司馬遼太郎の評価もこれに近い。峠の他に彼を取り上げた英雄児という短編があるから一読を勧めたい。 開戦決定の頃の藩主は忠訓だった。
しかし、藩の権力を実質的に握っていたのは前藩主忠恭だった。 >>377
司馬遼太郎はそれ程深く河井継之助について調べてない。
そもそも、軍制改革は藩主忠恭が幕府の長州征伐失敗を見て始めたんであり、
藩士は最初ほとんどやる気がなかったが、勝海舟に見込まれて幕臣になっていた鵜殿団次郎が
牧野忠恭に命令されて青写真を描いてから本格的に始まった。
鵜殿は大村益次郎から西洋兵学を学んでいた事もあった人間で、軍制改革にけっこう貢献したんではないかと思う。
河井が軍制改革を独裁的にやったんじゃない。藩政改革と軍制改革の成功で戦争したくてしょうがなくなったのは
譜代エリートの自負を持つ長岡藩士自身であり、前藩主忠恭であった。
「永雄児」をわざわざ書いたのは、何故か会津に甘く河井に厳しい左翼が司馬を狙ってwいた時代だったからなのと
河井が長岡じゃあまり評判が芳しい人物じゃなかったからだと思う。「花神」なんてのはマルクス史観でジョーク交えて書いてるからねえ。
靖国神社の銅像になってる大村益次郎という人物を英雄の様には書けない時代だったのは間違いない。 >>382
司馬は会津に同情的だったはずだが
「王城の護衛者」に会津人は感涙した >>381
司馬遼太郎の小説を読破しないまま生きて来たのか
哀れな 結果論で批判するけど、
正直、秋田藩が裏切らなかったら、どう転がったかわからんよなあ。 >>91
昔は嫌っている人がいたと言われているが、もうずいぶん前から嫌っている人なんていない
今は観光の材料になるものは何でも使う世の中 幕末ヲタって歴史に詳しいんじゃなくて単なる司馬遼好きだよね この人じゃなかったけー
3年ぐらい前に
林先生の痛快!生きざま大辞典(TBS)で見たようなー 河井は最初備中聖人を農民あがりとさげすんでたという話をネットで見たことがあるな
まさに世間を見る目の限界だったのだろう
戦闘を避けるために藩主をすげかえる荒業をやった方谷と
最後は戦闘で長岡を焼け野原にした河井の差だな 虎は死して皮を留め人は死して名を残す
巻き込まれた領民はたまったもんじゃないが本人は武士として本望だったろう 河井継之助が微妙なのは
長岡を守り切れてないとこにあると思う
東北戦争が終わるまで官軍を一歩も入れませんでしとか
河井がいる限り長岡には手を出せぬと官軍を嘆かせたなら
負けても偉人と言えると思う >>3
そもそも、そんな知識をみんな持ってない
無名のオッサンだしな 片方の親が長岡市の側の片貝出身なのだが
地元では河井は幕末末期の藩の家老程度の認識だったらしい
小説ありきの人気だよね 偉人すぎて気づかないうちに周りを巻き込んで、って裏テーマあったよね。
司馬遼太郎は間違いなく意識して描いてる。 河井継之助は野戦下手で無能な兵器ヲタクなのに司馬のせいで有名になってしまった。
司馬は同じ徳川方でも桑名藩の立見鑑三郎尚文のような本当の英雄を描けば良かったのに。 >>396
親が地元の歴史に興味なくて教養ないとそんなもんよ
特に母親はダメ、全然郷土史に興味ない人ばかり 長岡市は中核市の条件すら満たない人口27万人だというのに
周辺自治体との雁木造アーケードすら組めない唐変木っぷりでも
花火大会しか観光目玉が無い日本海屈指の港湾都市を目指して
独善邁進中なんだね。
佐渡汽船は今年1月に新潟両津航路のB929型ジェットフォイル
すいせいが故障漂流してつばさがドック入渠でぎんが1隻のみで
頑張っていたがもはや航路撤退秒読みのようだ。
寺泊赤泊航路は岸壁水深が浅過ぎて煮ても焼いても食えない
ようでただ指を咥え見守るしか無かったはずだが寺泊港は
信濃川大河内分水土砂堆積を急遽浚渫して喫水をクリアした
みたい。
もし寺泊小木航路で試験就航やってみて巧くいくようなら
高速船あいびすは粟島汽船にさっさと転戦させろよ。
https://www.sadokisen.com/info/?cd=436 >>3
>↓以下、聞きかじった知識をもとにした河井悪人説or偉人説のバトルが続きます
でも君の意見は無いんだよね?
当時の農民からすれば人手は連れてかれるし田畑をぐちゃぐちゃにした悪い奴、となってる。
が、政府軍が好き放題やって年頃の女は手篭めにされるし略奪もされるぞ!と継之助が言っていた事は本当になった。
だから評価がバラバラなだけだよ。 長岡で働いてた時に土地の部下に聞いたら河井継之助はよく知らないが米百俵の話は学校で必ず習うらしい あー田中眞紀子の地元ですね
小泉が田中眞紀子の応援に感謝して地元の米百俵の話を使ってたな
後は錠剤洗浄も国会で良くつかわれていたな 米百俵はバカな藩士を一部の良識派が諌めたって話だ
自分が良識派だと思うなら長岡から出ろという逸話として長岡高校では語り継がれている
売った米で作った学校でここにいちゃだめだって教えてるんだから
それを自己犠牲の精神と受け取る生徒もいるらしいよ
凄く深い話だと思わないか?
この世の中の真実を描いてると思うんだ 司馬の長編の主人公では司馬凌海の次くらいに無名な人物だったな
小説読むまで全く知らなかった
一般人のイメージする河井の人物像はほとんどあの小説からだろう 司馬遼太郎に気に入られたら
経済的効果が半端ないな 河井継之助の意志じゃなく、長岡藩全体で戦争を決断したんだが、
小干谷談判決裂の後、河井が恭順派の三島億二郎に、
自分が今切腹するからその首を慈眼寺に持っていけば
開戦は防げると迫った通り実行すれば確かに防げただろう。
しかし、三島億二郎は躊躇して開戦が決まったという。
三島は敗戦後、米百俵の小林虎三郎なんかより長岡の復興に尽力し実積も上げるが、河井から
決断を迫られた時、躊躇して開戦に賛成してしまった事の
罪滅ぼしだったという。
三島が躊躇したのは、その様な事をすれば藩から
どの様な処罰を受けたか分からなかったからだろう。 河井が自決した所で三島が首持って行かなければ
開戦は阻止出来なかったが、河井が三島じゃなく、
勤皇派家老の稲垣茂光の所に行かなかったのは
藩論をまとめ上げる策略だったのかも知れない。
稲垣茂光なら間違いなく話に乗ったからだ。 >>410
官軍に恭順したらしたでそのままでいられるわけでなく会津攻めの先鋒をさせられるんだぜ
兵糧出す程度の負担だけで会津には官軍の兵隊だけで攻めに行くんならみんな恭順してる その稲垣って人は河井記念館の館長の稲垣さんの先祖なんだろうか 越後口に集結させた官軍兵力は一万。それも歴戦の奇兵隊が主力。
一方、会津なんてのはゲベールだの旧式銃で武装していて非常に弱かった。
長岡藩はエンフィールドや仏式四斤砲などで装備していて庄内藩レベルの強さがあった。
長岡が官軍側についていたら、新発田始め下越、中越地方の諸藩も奥羽列藩同盟に参加しなかっただろう。
兵を出さなきゃいけないのはほとんどの藩も同じだった。抵抗したのは関東の一部と会津、庄内、桑名、長岡に騙され、脅された奥羽越諸藩だけ。
奥羽列藩同盟のせいで東北は五十年遅れたと昭和初め頃言われてたらしいが、会津、桑名、庄内征討だけだったら、戊辰戦争はあっという間に終わったよ。 武装化してる長岡は兵力すべてを駆り出され会津攻めさせられて
寝返る可能性があるから後ろで奇兵隊が銃を構えて監視してるんだろ
逃げ場がないならお互い様だった会津を攻めるより官軍相手の戦をした方が後世評価されると考えるんじゃね >>416
>後世評価される
錦に御旗に矢を向ける逆賊だぞ
どんな評価w この人は結局、歴史に必要だったの?
それともいない方が良かった? >>408
そういう観点だと新潟では雪国書いてくれた川端康成の方が
経済効果は大きいと思うな
歴史の遅延に貢献した。
もうちょっと穏やかな性格なら、官軍に降伏して、北越は戦場にならなかった。
もっと過激な性格なら、鳥羽伏見の闘いから作戦指揮して、幕府を勝たせていた。 河井が国を徹底的に滅ぼした原因は、バランス感覚が抜けていたとしか思えない 結局一番ダメなパターンじゃねぇか
国を犠牲にしてまで勝とうとした?
会津藩も同じみたいだけど >>428
長岡は選択の余地があったがババをわざわざ引いた。
会津のほうは牙一族のごとく最初からジョーカーを引いていた。 満州国建設の石原莞爾は河井継之助についての研究してたよね
あと、アサヒビール、阪神電鉄は河井継之助がいなければなかったんじゃないかな? 長岡方面の偉人って
河井継之助、山本五十六、田中角栄と
晩年悲惨だよな >>431
河合はともかく56と角Aは偉人なんか? ガトリング侍は「人に必要とされる人間になる
か、(世の中に)あってはならない人間になれ」
と説いたキチガイだぞ。 勝てば官軍の真逆なのかな
どんなにすごい才能や高い心意気があっても負けたら賊軍扱い
圧倒的に不利でも戦わざるを得ないときの大将とその周辺の人々は哀しい
WWIIの日本とかぶるのかもね >>434
好きだわ、そういう態度(笑)
ちょっと興味湧いた 終戦後の長岡は焼け野原で河井の評判は良くなかった
まあそれから150年ぐらい経って地元の有名人として名を上げたというところ
小説の登場人物になってなければそのまま埋もれてておかしくない程度 >>409
そう河井という家老は結局その程度の人物でしかなかったのですよ
あくまでも小説で持ち上げられて知名度が上がったので地元がそれに乗ったというのが
現実 日本の内戦を長引かせたい英仏に踊らされた愚か者だよね
言ってみれば戦った徳川慶喜っていうIFルートみたいなもの まぁ立地的に恭順していたら長岡が焼けなかったかと言えば微妙 >>420
長岡藩の抵抗で薩長の西日本の方が東日本より上、北は文化的不毛の土地という先入観がなくなり
その後の東日本を治めるのに余計な衝突が少なくなった 弟子っ子がアサヒビールの元会社の創立メンバー
アサヒビールのホームページでは創業者となっている
阪神電鉄の創業者、初代社長
日本銀行大阪支店初代支店長 「寅や」
と、外山脩造にいったのも、そのときであった。
「このいくさがおわれば、さっさと商人になりゃい。長岡のような狭い所に住まず、汽船に乗って世界中をまわりゃい。武士はおれが死ねば最後よ」
継之助の担架はさらに会津若松にむかい、8月12日、同藩領塩沢村に入り、同村の医家矢沢氏の屋敷を宿所とした。
ここがかれの地上における最後の場所になった。
(司馬遼太郎「峠」より)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/toyama03.htm
阪神電鉄初代社長外山修造
阪神タイガースの虎は、修造の幼名虎太から来ているとの説もあり https://www.so-net.ne.jp/golden/bakumatsu/article/2018-2q/20180909-11.html
【メニューその11】河井継之助の遺志が引き継がれたアサヒビールの物語!!
一説によると、阪神電鉄を親会社とする阪神タイガースのタイガーは、修造の幼名である寅太に由来しているという。
かつては甲子園球場に外山脩造の銅像も建立されていた。
残念ながら第二次世界大戦による金属回収によって撤去されてしまったが、現在はアサヒビールによって虎の銅像が建立されている。 河井継之助
先祖は膳所本多家家臣であったが、姫君が牧野家に嫁ぐ事になり姫君付き家臣として牧野家家臣となる
膳所本多家(伊奈本多家)は徳川家の葵紋由来発祥の家
徳川家康の従兄弟が養子に入り家督を継いでいる。
牧野家にはこの本多家に養子に入り家督を継いだ人物の妹が嫁いでおりこの関係から本多家から牧野家への嫁入りとなった 牧野家は駿府の今川家の家臣であったが徳川家康が三河に帰り独立した事から、今川家から徳川家につく事になる
家康は牧野家が今川家に戻る事を防ぐため徳川家宿老である東三河侍大将酒井忠次の娘を嫁がせ姻戚関係を結ばせる
これがなければ長岡牧野家の家臣河井継之助は存在しなかった >>62
小栗の案だろ。後で聞いた大村益次郎はそれを
やられたら官軍は負けるて断言していたよ。
だから小栗は有無もいわさず斬首w
生かしておいたら危険だからなwww >>18
いいキャストだなと思ってたら、東出がねじ込まれているじゃないかよ
司馬作品に思い入れがあるとか岳父が新潟出身とかの絡みで入れたのかもしれないけど、こいつは出すなよ >>95
それは神輿化されるのを警戒していたからだろ
神輿にされると国内で動乱が起こるし
慶喜自身も首チョンパのリスクがあるからなwww >>102
スイスの永世中立国をモデルにしていたのけどな
新潟港て金になるとこを新政府がほっておくわけないだろ
まあ理想と現実の乖離だなw >>103
戦国時代の末期から
勝負の付け方は槍と火縄銃だわ
刀なんか首切り用だわw 酒井忠次直系の庄内藩酒井家
酒井忠次の娘が嫁いだ長岡藩牧野家
酒井忠次の次男が養子に入った膳所藩本多家
この三家の親戚関係は藤沢周平の小説「長門守に陰謀」に出てくる。
https://s.webry.info/sp/hakuzou.at.webry.info/201106/article_4.html
酒井家の親戚大名として、庄内藩のお家騒動に膳所本多家、長岡牧野家が介入したことが触れられている >>1
幕府と薩長の間で独立藩保とうとか現実性無いし戦略的には無能だったんじゃないの? わし思うねん
藤沢周平の小説
長門守の陰謀って映画によし、ドラマにしてもよしだとね
サイズ的にぴったりやろ 河井が抵抗しなかったら岩村みたいなのが東日本のあちこちででかい顔しとる
大村を遅れてきた輩呼ばわりしてた海江田とかもクズ 水野忠邦が権勢を誇った天保年間 庄内の本多 川越の松平 長岡の牧野の 三方領地替えの沙汰があった
藤沢周平の小説でも書かれているが庄内藩の藩主から本間家 さらには農民に至る藩を挙げての抵抗と家斉死去により前代未聞の幕令の沙汰止みとなった
もしこれが実現していれば牧野は川越に移封となり地理的に幕末には大人しく恭順したかもしれない
本多は長岡では石高半減でほとんど何もできなかっただろう
松平は幕末になにがしかの活躍もなく庄内でも流されるままではないか
こうなっていた方が長岡庄内の民は帰って良かったかもしれず禍福はあざなえる縄のごとしである >>465
長岡藩牧野家が幕府要職に就いていた
水野はこの牧野家を狙って領地替えをしようとした
しかし庄内藩酒井家、商人、領民の反発が強く頓挫
庄内藩は水野一派に怨まれ千葉県印旛沼の干拓事業に放り込まれ疲弊させられる
幕府からの仕打ちに幕府一辺倒ではダメだと考えを変えた庄内藩藩主と家臣。しかしその息子とその家臣は徳川家と祖を同じくする酒井家として譜代として佐幕を堅持する立場をとり藩主父子に軋轢をもたらす。
長岡藩牧野家は幕府内での地位を回復し領地替え騒動への報復として水野一派を権力の座から一掃する 越後は中小の領主に分割されてたけど
長岡は新潟の湊を外港にして越後でもっとも繁栄してた
それが新しい時代を前に灰燼に帰したのだから
住民の無念は余りあるよ まあ小藩だから、とナメてかかったら
思った以上に武装してたって感じかな
官軍側が岩村精一郎を派遣しているところが
官軍の意識をあらわしてる キョロマ岩村と、他藩と交渉経験の少ない偏屈河井、談判が決裂するのは自明。 >>467
折角繁栄した新潟の港は幕府に取り上げられた。
過去に徳川に楯突いた恨みは根深いんです。 幕末の英雄、河井継之助の記念館は会津の只見町にある。
一方、地元の長岡土人は、薩長に媚びへつらい、
長岡城をぶち壊し、河井継之助を誹謗中傷し続けてきた。
恥を知るべき。 >>461
ガトリング砲は長岡に二丁
薩摩に一丁、薩摩の場合は幕府海軍から奪った戦艦に
搭載。幕府海軍が奪還しに来た時にぶっ放して撃退してる。
日本で最初に海戦で使用された例。 >>467
長岡藩は薩摩藩の密貿易を二度も黙認していたのが幕府にばれて
新潟港を幕府に没収された
薩摩藩が新潟港で貿易をしていたのはあまり知られていない >>472
長岡藩がクズだったからでしょ
会津藩もな
佐幕派って、無理してるから酷いところが多いよ >>472
そもそも河井が指揮する長岡軍は自ら長岡の城下町に火をつけて焦土化させた。
焦土作戦は冬の大雪を利用して新政府軍の補給路を遮断し
孤立したところを攻めると言う作戦。
新政府軍から長岡城を奪還すると言う偉業を成し遂げたものの
河井本人が負傷して焦土作戦が頓挫してしまった。 河井継之助が地元民に恨まれたとイメージ工作するのは、河井の評価が高くなると立場が拙くなる裏切り者新発田藩の人間 全国から河井継之助を慕って長岡にやってくる観光客がいる
小なれど官軍に抵抗した武士の心意気は子孫たちに残りことあるごとに判断材料になる
これこそ河井が長岡に残した遺産 自分は北陸出身だからどうしても大藩だった加賀藩があった金沢と比較してしまうわけだが
似たような立地にあってこれほど真逆の過程を歩んだ土地も珍しい >>473
ガトリングガンは長岡藩が購入した2門
もうひとつは徳川家が購入した甲鉄艦に搭載されていた
榎本軍がアメリカが不当に薩摩に引き渡した甲鉄艦を取り戻そうとしたときにガトリングガンが使用されたと言うのは多数あるなかの説や架空小説の創作劇での活躍
薩摩の甲鉄艦参戦兵士の記録ではガトリングは使用せずに小銃で射撃したとある 長岡7万石じゃあなぁ。
この人は生まれる藩を間違えた。
若しくはもう少し後に生まれたら
日清日露で活躍したことだろう。 榎本軍は薩摩へ突撃すれば歴史は変わった 先方の薩摩は人質とられてウロウロ これだけ長岡以外で有名になったけど
没後150年の催しに70人しか集まらなかったことを察してやってください
長岡を新潟の一地方都市に転落させた張本人ですから >>484
そもそも河井継之助の指揮で同程度の戦力に勝った戦はあるの?
一回もないでしょ?
同じ賊軍で同じ小藩桑名藩の立見尚文は連勝して、維新後は西南戦争から日清日露と結果を出した。
河井継之助みたいな小物を評価してどうするんですかね? そもそも長岡単独で戦ったわけじゃないからな
最初から同盟の兵力が集結していて
連合軍として行動しているから 薩長ユダヤ自民党が国営放送で西郷どんとか明治維新150年とかやってる裏で長岡藩開府400年で製作か
それでオリンピックの開催年に公開 https://www.1101.com/anne/index.html
東出の妻、杏
ゆかりのある場所に旅をしたりもするんですか?
つい最近だと、新潟にある「河井継之助記念館」です。 >>486
寺の本堂のキャパが70人だったってことだろ。
年忌なんて親族とかしか来ないのに70人も来てるのはすごいんじゃないか? 慈眼寺の記帳は結構なペースだよ
オレも千円寄進してきたわ 確かフィクション小説峠での河井継之助の先祖に関する記述が間違っていたと思うんだが
手元に峠がないからあやふやな記憶なんだが、河井継之助の家は分家であって本多家から姫君付きできた家臣の直系ではないのに直系扱いで書かれてなかったかな?
河井継之助を描いた他の小説ではこの点について間違ってると思ったのか、そちらでは長岡での戦乱の時に本家の河井家の者が継之助にあって本家分家の間柄を描いていた 米百俵の小林虎三郎の評価
戊辰の変、我が藩の権臣迷錯して、妄りに私意を張り、遂に敢えて王師に抗じ、城邑陥没し、
社稷墟と為るに至る 峠を映画でやるのは無理よ大河でやれよ長岡戦争って戊辰の役、屈指の激戦なのに影薄いよな 小説書いた人
話の資料集めるのがけっこう適当な人らしいですね
受ける話を作るためなら白を黒にもするらしい >>498
すぐ立花宗茂とか持ち出す歴史ヲタ多すぎ
コミュ障が自分語りしたいだけ >>502
むしろ現地にまめに足を運んでる印象があるが
後から新しい資料が出てきたのと勘違いしてないか? 神保町なんか司馬遼太郎が歩いたあとは維新関係の資料が無くなると言われたくらいなのにな。 継之助終焉の地、会津塩沢には多忙な司馬遼太郎はついに足を運べなかった
足を運べばなぜこの土地の人が河井の記念館をつくったのか小説の中に書いて
物語がさらに厚みを増したのではないかと言われている 主演の役所広司は連合艦隊とかの映画で山本五十六やってるから長岡には縁があるんだな 明日日曜の大河ドラマの『西郷どん』でガトリング銃登場!
見逃すな! >>506
実は河井の死去した塩沢集落ははダムで川幅が広がった只見川の下にあるのだけどな ガトリングガンを発明したガトリングの子孫が継之助記念館か墓に来たんだっけ? 河井継之助は俺が一番詳しいとか思い入れがあるんだとかで
他に詳しく知ってる奴がいると気にくわない奴がいる
うざいわ >>408
司馬は西の龍馬東の河井と称するくらい評価してた。 >>46
村田蔵六がヘボンに英語を習うため、江戸から横浜に慣れない馬に乗ってやってくるのを
横浜で外国商人と会っていた継之助が見て笑うシーンがあったのを覚えてる >>46
花神総集編の徳川を討て!に出てるな。
底無し沼を渡り長岡城奪還の口語分?で書かれたという檄文?は河井継之助が作ったのではなく山本とか別人が作成したとかの話があるって見たことあるな 司馬は河井が吉原の花魁買ってる場面を描いてるが、
200石取りでは花魁買うのは到底無理だろう 司馬の小説はどれも似たようなもんだが、歴史を好き勝手に捻じ曲げ、主人公を
美化しすぎ。その癖、当時の資料や著名人の言葉を上手に引用するから、読者は
それが忠実に歴史に基づいた伝記かなにかと錯覚してしまう。 というか、小説なんて皆そうだろw
うまく嘘をついて作り話で読者を楽しませるのが
小説だろ >>514
河井はむしろ小藩の家老になるより商人の方が向いていたかもしれない
長岡藩の財政を立て直した上、最新の装備で固められるほどの富を蓄えた 司馬遼太郎は小説よりも、
「街道をゆく」シリーズがその土地の歴史や民俗風習を知ることが出来て面白い
司馬は小説家より、歴史・民俗学者にでもなればよかった 7万石の小藩が江戸で最も良い場所に屋敷があった
http://www7a.biglobe.ne.jp/~jigenji/hantei01.htm >>521
いやいや
海音寺潮五郎が「大きな嘘のつける人」と評した様に大文字のフィクションが書ける稀代の作家だよ
自分はより史実に忠実な吉村昭も好きなんだけど作家としての技量はやはり司馬の方が上だと思う >>523
70%の真実の中に、30%のフィクションを加えるというのを誰よりも巧妙に
大胆におこなった作家だな。彼にかかれば、白を黒に変えるくらい造作も無いことだろう。 一種の洗脳やプロパガンダだね
河井は長岡人に嫌われ、墓の損壊が頻繁に行われていたが、この小説以降減ったそうな
司馬の評価と当時の人たちの評価どちらが正しいか つーか、武士と町民・農民、どっちが多かったか考えればわかる話
一般人は恨んでただろ 立派だよ
武士だよ
大日本帝国に通じるものがあって悲しいな >>526
おそらく、多くの長岡藩士も河井を恨んでいただろうね
関係がないのに参戦し、領土を荒廃させたわけだからね
>>528
頭は良いが大局観に欠ける、東條・石原に似てると思う >>520
あれは藩主家の財産を売り払っただけだから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています