北越戊辰戦争はある意味、会津藩にとって長年の宿願だった阿賀野川流域と
新潟港の利権を手に入れる好機でもあった。しかし戦費不足に陥っていた会津藩兵は
戦略的判断を失い、近視眼的、或いは刹那的に『越後の民衆から略奪を行い』
遂には戦闘活動より『搾取略奪のほうを優先』してしまい、越後の民衆の支持を失う事になるのである。

そして越後の民衆に対しての蛮行は、友軍である米沢藩兵との確執にも繋がり
後の越後戦線の崩壊の一端となる。全てとは言わないものの、越後の民衆からの支持を失った事は
越後戦線での会津藩の敗因の一つと言えるだろう。

確かに会津藩には意地や誇りはあったかもしれない、しかし長期戦を戦う戦略眼は
皆無だったと言わざるを得ない。この『会津藩の意地や誇りの為に、財産を略奪され
住む家を焼かれ、遂には命すらも奪われた越後の民衆こそが、北越戊辰戦争最大の犠牲者』ではないだろうか。