【佐賀】邪馬台国はどこ? 吉野ケ里で考古学フォーラム 「環濠集落、九州では増えるが、近畿では無くなる」「奈良盆地が有力地」★4
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畿内や九州の遺跡の出土状況、邪馬台国の所在地について意見を交わす(左から)高島さん、橋本さん、白木さん=吉野ヶ里町の吉野ケ里歴史公園
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邪馬台国について考えるフォーラムが7日、吉野ヶ里町の吉野ケ里歴史公園で開かれた。近年の考古学研究成果を基に有力候補地について意見を交わした。
福岡県久留米市文化財保護課長補佐の白木守さん、奈良県桜井市教委文化財課長の橋本輝彦さん、佐賀女子短大名誉教授の高島忠平さんが講演した。九州説では墳墓や山城、集落などを、近畿説では弥生土器の編年と古墳の規模・形状などを根拠とすることを説明。決め手となる文字史料が見つかっていない点も言及した。
中国の歴史書、魏志倭人伝に記された邪馬台国の集落について「環濠(かんごう)集落を思わせるが(卑弥呼の時代に)九州では増えるが、近畿では無くなる」と高島さん。白木さんが「卑弥呼の居住地であれば環濠はあってしかるべき」とする一方で、橋本さんは「同一様式の土器が大量に使われ、一つの水系に位置する点で奈良盆地が有力地」と答えた。
フォーラムは同公園管理センターと県立博物館が、開催中の特別企画展「よみがえる邪馬台国 倭人伝の道6」(11月11日まで)に合わせて開き、約130人が聴講した。
佐賀新聞 2018/10/10 09:26
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/286932
★1:2018/10/10(水) 17:12:04.17
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1539265823/ 三国志だと魏国は曹丕の頃なんだな
司馬懿もまだ生きてんのか >>796
卑弥呼は共立されて女王になった。つまり、いきなり新たな都や遷都が行われたことが想像しえうる。
マキムクにいきなり巨大都市が出現したのもうなずける。 >>803
オロチってのはオロの内側ってこと?
オロってのは何? >>736
>太陽を神とする思想や考え方は中国や朝鮮にはない
暦法が発達すると、暦、つまり太陽の運行に規則があると分かるようになる
すると、太陽の動きを制限する太陽より上位の存在が想定されるようになり、
太陽神は最高神とされなくなるんだよ >>805
臺(タイ)は官庁という意味も持ってるから本当に邪馬臺国という国名なのか訳がないらない。
九州の方言のタイと関係ないのは確かだ。 神武天皇は東遷していないという輩と
邪馬台国畿内説の輩の勢力は一致する
天皇家が中国に朝貢していた事にさせたいからだ 明治の廃仏棄釈と神仏分離令
歴史の隠蔽でしか他ならない
明治以降、天照大神が何故か皇祖神にされ、おかしな歴史認識になってしまった。
神武天皇陵が作られたり。 >>762
>記紀的にはその姫王は誰なの?
倭迹迹日百襲姫命でいいよ
崇神天皇の姉にあたる >>611
そう、建国神話をそのまま裏付ける話とうけとれば、論争して大騒ぎ
するようなことはなにもないのに、考古学が独り歩きして妙な方向
にいってしまった。ちょっと中国の文献にあるといっても、馬鹿丁寧に
解釈する必要は全くない。アホらしくて話にならない。天孫降臨の地
が高千穂だということでいいじゃないか。天孫がどこから来たかは、
だいたい見当はついてる。(その辺は戦前に研究しつくされたいる。) >>803
筑後にも肥後にもヤマト町はあるよ。
筑後は平成合併でみやまになったけど。 九州にあったのが近畿に移転したという単純な話でまだ揉めてんのか 邪馬台がヤマトのことってならヤマタノオロチのヤマタってのもヤマトのことなのか?
ってふと思った 昨日も書いたけど、今日も書きたいヤマトタケルの歌
ヤマトは 国のまほろば
たたなづく青垣 山こもれる
ヤマトし うるわし
これって、「ヤマト」だと字足らずなんだよね。
「山の手」みたいに「ヤマノト」とか「ヤマント」とか読みたくなる。
あるいは「ヤマタイ」でもいいかも知れん。 >>805
新説登場!
魏人 「何処、国アルか?」
倭人 「山たい!」
魏人 「ヤ、邪馬台」?? >>802
三種の神器は元々北九州の墓制で3世紀の箸墓古墳などの前方後円墳からいきなり畿内で
三種の神器が墓制になった。これは遷都の可能性が考えられうる。
奈良は元々、出雲族が支配していて三輪山をご神体としていた。そこへ、共立された天孫族
がやってきて都を作った。
出雲族は全国からかき集められた武器をもらい荒神谷遺跡へ封印して出雲に出雲大社を建てたのでは?
平和のために。
しかし奈良の葛城あたりにはまだ出雲族は住んでいた。鴨族なんかは出雲族で、京都の
下鴨神社や上賀茂神社なども鴨氏の神社。 東征というのはあれだよ、北九州から機内への権力移動を示しているのだろう。
漢代は、倭国王帥升が示すように奴国や伊都国が倭国の主導権を握る。
後漢のある時期にそれが吉備や大和、阿波、讃岐に移ったのだろう。 >>776
>当時の魏国が(朝貢に来る)国として認識してたのが北部九州の「邪馬台国」で
朝貢に来る国として認識しているのは「倭国」
だから卑弥呼は親魏倭王であって、邪馬台国王ではない
邪馬台国は倭国女王の都するところの地名 オオキミ、オオムラジ、オオオミ、オオトモ
元々は同格だったんじゃないかなぁ >>784
元々、公孫氏に朝貢してた「邪馬台国」が
公孫氏滅亡で魏に乗り換えたのではなくて
別々の勢力がそれぞれに朝貢してたってことだよね??
うーん。 方言って標準語からの派生じゃなくて
元からあったのが方言で(ほんとに古い言葉)
文字がない時代に言葉だけで何万年も受け継がれてきて
その後に標準語が出来た
逆に中国人だから方言をそのまま聞き取ってる可能性もあると思うけど 卑弥呼も、「ひめみこ」を中国人が聞き間違えたんじゃないのか
日本人は貴人を名前で呼ばんだろ
天皇陛下のことを「あきひと」って言う人いないし >>828
>女王国の東は海。そのむこうにも国がある。それも倭人である
邪馬台国連合の東にも他の勢力があることは
書いてる 祝詞で高天原に言及されている神は、道饗祭の神しか思いつかない
八衢、道が幾つにも分かれるところ、方違。
堺に方違神社がある、由緒ある神社
淡、和泉、なにわ、河内に分かれるところ
方違幸大神が祀られている
高天原、概念上の存在かもしれないが、昔は陸続きだった上町台地〜泉北丘陵のことかもしれない
仁徳天皇陵、住吉大社、宮中式内社や八十島祭と関係が深い生國魂神社、坐摩神社、
名だたる神々が鎮座している
道饗祭
高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らくは、
根国底国より麁び疎び来む物に、相率り相口会ふ事無くて、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉り斎ひ奉れと、 >>827
漢字の意味をしっかり把握しようね!
帥というのは将軍のこと。
升は昇る。
倭国王帥升ってのは、倭国の王は一将軍が成り上がったってことを意味してて、帥升ってのは固有名詞ではないと思うよ >>835
通説よりも呉音は早くに入って来てるとは思うよね
中国よりも日本の呉音の拘りは強い >>828
書き方が悪くてごめん。朝貢してると認識してるのは「倭国」だね。
自分は卑弥呼には言及してないので何とも。 >>831
公孫氏に朝貢してたとしたら、それは邪馬台国の側ではなくってそれと敵対してた側 >>834
だから、「みこ」じゃないんだっての。
「み」は語頭にしか付かないっての。
「ひめこ」
後世、ひめこ→ひめ→姫 >>819
そう、だから吉野ヶ里(佐賀グループ)も出雲と同じ銅鐸が
どういう経過で行ったのか?
を弥生中後期、卑弥呼関係で研究テーマにすべき。
やってくうちに、どういう位置づけだかがわかるだろうし。
ハッキリした年代がわかると、倭国大乱の様相が少し見えるかもしれん。
九州説での倭人伝では出雲は倭国じゃなく倭種だからね w >>824
皇室あるいは日本神道の最高の宝物としての
その由来を検証するときに
北部九州=>近畿 となるのは
日本の祖形がそのように移動、遷都したからだろう
三種の前には、鏡を除いた二種の神器でやっていた
それは吉野ヶ里他にあるが
邪馬台国がどういうかたちでに形成されていたが理解できるし
確かな流れを感じるね >>836
北九州の東には海がありその向こうにも国があるってならわかるそれこそ吉備や畿内
畿内の場合東に海はない強いて言えば北と南に海はあるけど国というか陸地がない
流石に東西を間違うことはないと思う 魏志倭人伝の記述に変な部分があるのは倭国側の通訳が悪いと思う。 九州説の主張はもう全て論破済み
短里はない
魏志倭人伝の行程通りだと邪馬台国は赤道を越えた所にあり参考とはならない
祇園山周囲の埋葬跡は殉葬跡ではない
三角縁神獣鏡は魏鏡、記銘の景初年号は卑弥呼の時代
前方後円墳は3世紀中葉から畿内にあった
邪馬壹國は12世紀に初めて倭人伝に現れた表記でそれ以前は邪馬臺國 >>842
そんなルールあんのか?
なんちゃらの「みこと」とかいっぱいいるし
男が「みこと」で女が「みこ」とかそんなくだらないことかもよ >>33
文字はあったが消失した
日本は酸性の土壌で骨ですら消えてなくなるのに1800年前の紙なんか残る訳がない >>749
帝大創ったのが雇われ官僚に過ぎない総長とかアホか >>1
吉野ヶ里もそうだが
魏志倭自伝が伝える邪馬台国の特産品である絹は
弥生時代の遺跡から出土しているのは
九州、とくに邪馬台国の範疇の遺跡と被っている
対して
近畿でも絹は出土しているのだが、ぜんぶ、古墳時代だ
これは何を物語っている?
北部九州=>近畿 への遷都だろう どうやら、崇神天皇と四道将軍辺りは実在が濃厚だから、
邪馬台国にこだわらず、そっちの方に重点を置いた方がいいよ。 >>853
そう思う
あと古墳に使われているのが阿蘇の石 邪馬台=大和=やまと
台与=豊=とよ
卑弥呼=日みこ=ひみこ
きっとこうだな
なんかすっきりするわ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
里(り)
里(り)は、尺貫法における長さの単位である。現在の中国では500m、日本では約3.9km、朝鮮では約400mに相当する。
まずさー1里を3.9kmだと思ってるヤツ馬鹿すぎない? >>842
「日の御子」「日の巫女」じゃないのは同意だが、
> ひめこ→ひめ→姫
というのは解せん。むしろ
姫→姫子(姫っ子)
の流れじゃなかろうか。
どじょっこ(泥鰌)、ふなっこ(鮒)、べこ(牛)みたいな流れで。 めんどくせえから、もう卑弥呼は巡回してたことにしたらどうだ? >>857
> 現在の中国では500m
当時の中国(魏)も同じなの? 卑弥呼→男王を担げない不完全な存在→ヒルコ→蛭子→蝦夷
の方がすっきりする >>834
良く知っていた可能性はあるねぇ。
>>839
遣唐使の僧の上海経由も考えられるけど、
奈良朝で漢音に改めるべきって令が出たけど、
現在の一部しか出来なかったって何かで読んだ事があるな。 じゃあ、ひめみこ「皇女」でいいわ
きっともう天皇は老人で隠居したか、死んで、娘しかいなかったんだよw 魏志しかね〜のかよ、殷や秦・・・とか他の倭の記述発見される可能性大、支那で懸賞金掛ければ発見されると思う >>776
亀レスだけど、魏使の認識する倭国の盟主とはヤマト国であることが確実になったから専門家の間では邪馬台国論争は決着したんだよ
畿内勢の北部九州への到達がいつかということが争点だったけど、3世紀前半には到達していた 九州と近畿に同規模の勢力があって
九州が白村江で敗北したのを機に近畿が九州を統合又は征服したんだろ
それが日本の始まり 或いは
卑弥呼→天照大御神【又の名は撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命】→瀬織津姫→祓戸四神 >>861
> 男王を担げない不完全な存在
これこそがヒメ・ヒコ制の真骨頂な気がする。
セックスしちゃだめなんだよね。もちろん男王(弟)の方には
奥さんも子どももいる。 >>858
「っ」が入るんじゃないか?
というのは卑弥弓呼で考えたことがあるな。 >>865
確実になった根拠が真剣に知りたい。
今まで納得いく根拠が何もなくてモヤモヤしてる。 >>871
その感覚はわかる気がする。
ひみこっこw 可愛い。 >>848
みこと = 御言 だろ。
言を発せられるのは、頂点か雲の上の人、ということかな。
後世になってくると、合成語が出てきて、
すめらみこと(統べる御言)(=天皇)のように、みが語中に出てくるけど、
動詞の活用形+「み+名刺」の形で、名詞+み+名刺とはならない様子。
まあ、そんなことも考えると、卑弥呼の時代は、まだ、
ヒコ(日子)、ヒメコ(日・女子)といった、簡潔な言葉だったはず。
そのうち、女の子「メコ」が簡略化されて、「メ」だけで女の子を指すように
なったようだな。
をとこ (若い男(の子)) (←※男一般を指すようになるのは後世 )
をとめ (若い女(の子)) 九州と畿内は別勢力だよ。
邪馬台国が畿内なわけないだろ。 新羅、シラ
古代史を考える上で、シラ、白も重要なキーワードだろう
しら、おしらさま、白日、天白、太白、しらぬひ、 新羅シラ、石徹白イトシロ、白山
おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布
白澤、人面の牛、牛妻
白も牛と繋がってくる
白根、島根、鳥取→新羅、神奈川、埼玉みたいな勢力の移動があったのかもしれない
郡上市、白山中居神社の五段神楽の謂れも興味深い
五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、
天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。
初期のヤマト政権や天武朝は、シラと関係の深い政権だったのかもしれないね >>711
ジャワ台湾国?
でも、当時、ジャワも台湾も別の呼名でしょう ふっと思ったが
普通に呼んだら
ヒヤコじゃないか? >>863
敵対する狗奴国を率いてるのは「卑弥弓呼」という男。
そっくりだから、人名じゃなくて、王・女王みたいな呼び名だったのかも。
親戚が分裂した可能性もあるが
もし卑弥呼が地位を示すものなら、後継の台与もやっぱり
卑弥呼と呼ばれていたのか。
すると、卑弥呼の前の時代も卑弥呼がいて、後の時代もいて、
他の国の女王も卑弥呼だったかもしれない。
そうなると卑弥呼という呼び名を、今残ってる名前と関連付けるのは
邪馬台国探しには無意味だな >>878
白拍子 もそうか!?
今と変わらないじゃんw
世界中に売春婦ばら撒いてるw 蝦夷は邪馬台国、初期のヤマト政権の残党じゃないか?
【大墓公、タモ公、アテルイ 】
タモ 、魏志倭人伝に九州の不弥国(豊の国辺りか)の官に多模タモがあるな
大墓公は、大白公、太白公かもしれない
東海〜東北にかけて、 天白信仰が分布している、何か関係があるのかもしれない
蜂子皇子や小手子とかもそうだし、東北は中央で権力争いに敗れた勢力が逃れる先だしね >>880
新説が提唱された!
ヒヤヤッコを人が入らない部屋に置いて、
女王が居ることにしていた! >>852
伊勢湾も遠州灘も大和から見れば東だが? 邪馬台国は九州で、畿内の勢力に征服されたのが、倭国大乱だろ。 めちゃくちゃやな
誰が卑弥呼をヒミコと呼び出したんだw
どう考えてもヒヤコだろwww どうでもいいことやん
それより安倍政治をどげんとせんといかん >>776
まさにこれだよね
近畿に大勢力があったであろうことは誰も否定していない
だけど魏がこの時点で書いてるものとは違うだろうということ >>888
倭国大乱の後できたのが邪馬台国だが?
頼むから文献くらい読んでから書き込んでくれ 興味深いのは石徹白イトシロ
白日別、シラヌヒの国、筑紫の伊都国と何か関係があるのか? >>875
ちゃうよ。新羅に付いたのは、出雲。
百済に付いたのが、奈良、後の大和朝廷。
ふと思ったんだが、
百済の領域が広がって、元々半島の倭人がいたであろ
う鉄の産地を押さえたんかな?
それで、任那の倭人と繋がってた邪馬台国の経済力・軍事力が
落ちていった、そして奈良が優勢になっていった可能性あるな。 >>888
九州と畿内とが戦争した形跡ってあると思う?
なんだかんだいって疎縁ではあったが、百済支援を一緒にやってたみたいだし仲が悪かったようには思えないんだよな。
正味合弁したんじゃないかと思える。
もちろん初期の邪馬台国は九州のどこかだと確信してる。 昔、日本列島にあった国って現代で言えばヤクザの組レベルでは。 >>896
神武天皇、応神天皇は、九州から畿内を征服。
景行天皇、仲哀天皇は、九州の反乱を鎮圧。
地方の反乱なのに、わざわざ天皇自ら九州まで出陣してるんだから
よほど重要と思われる イヨとトヨは双子の姉妹だった
二人の合わせ鏡でイト国になるのだ!説 始皇帝晩年の諸国漫遊の折、帶方東南七千余里大海之中倭に至...............卑弥呼の時代より日本に来た可能性が高いと囁かれている >>887
これじゃ、魏志倭人伝の倭の記述が大和朝廷とは言えないよ。
北九州の古墳が3世紀後半からではね。卑弥呼は247〜249年
には死んでた。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。