【東京】纒向遺跡は邪馬台国か、箸墓は卑弥呼の墓か議論 東京で纒向フォーラム★3
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卑弥呼の墓説がある箸墓古墳について議論するパネリスト(東京都千代田区で)
https://www.yomiuri.co.jp/photo/20181014/20181014-OYTNI50010-L.jpg
◇纒向フォーラム
東京・よみうりホールで14日に開かれた邪馬台国の有力候補地、桜井市の纒向(まきむく)遺跡を巡る7回目のフォーラムでは、卑弥呼の墓との説がある同市の箸墓古墳がテーマとなった。調査成果や全国の事例、中国の文献も参考に専門家4人が議論し、考古学ファンら約850人が熱心に耳を傾けた。(辰巳隆博、大森篤志)
市纒向学研究センターの福辻淳・主任研究員は、箸墓古墳の調査について説明。レーザーを使った詳細な測量で、地表の高低差や形状を立体化できたことなどを紹介した。
俳優の苅谷俊介・京都橘大客員教授(考古学)は、纒向遺跡の大型建物跡の南に箸墓古墳が位置することに着目し、「都城の南に祭礼施設を造るという中国の思想が取り入れられており、大型建物跡と箸墓古墳は密接なつながりがあった」との見解を示した。
また、松木武彦・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は前方後円墳の成立過程について解説した。2世紀中頃から、全国で墳丘に突出した部分が設けられ、被葬者も集団から個人になり、形も統一されるとし、箸墓古墳について、「倭国(わこく)初の国家的モニュメント。親魏倭王の墓にふさわしい」と述べた。
渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代思想史)は、魏の文帝が「寿陵(じゅりょう)(生前に造る墓)は自然の山を利用し、樹を植えてはならない」などと定めたことを紹介し、「魏の使者は、卑弥呼の墓を見て中国の墓制にのっとった墓だと思っただろう」などと話した。
その後、センターの寺沢薫所長の司会で4人が討論。箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする見方に対し、寺沢所長は、桜井市のホケノ山古墳など箸墓以前に築造された古墳のいずれかだと主張した。
テーマとなった中国の歴史書「魏志倭人伝」の記述、「卑弥呼、以(すで)に死し、大いに冢(ちょう)を作る」なら死んだ後に墓を造ったという意味になり、渡辺教授は「死んだために墓を造ったという意味の『死するを以もって』と読むべきだ」と指摘した。
大学で古代史を専攻したというさいたま市南区の会社員長谷川菜摘さん(29)は「纒向遺跡や箸墓古墳に吉備(現・岡山県)などの影響があったのが興味深かった。遺跡を探訪したくなった」と笑顔。東京都江東区の会社員大迫文次郎さん(53)は「邪馬台国の所在地に関心が集まりがちだが、中国の思想や墓制との関わりを知ることができて勉強になった」と満足そうだった。
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20181014-OYTNT50054.html
読売新聞 2018年10月15日
https://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20181015-OYO1T50005.html
★1:2018/10/15(月) 18:49:51.46
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1539642549/ >>77
初代「神武天皇」の陵墓は天武天皇の時代に実在していたから
神武天皇は架空の人物ではないしその後の第2代〜第9代も実在の人物
崇神天皇の方が怪しい。 >>86
つまり三角縁神獣鏡がでてきた場所はアウトってことか
じゃあ畿内の遺跡は大半アウトだな >>47
吉野ヶ里とか律令の時代まで継続してるよ。 ここまで読んだ限りだと、邪馬台国は
九州で決まりだな! >>49
>>50
教科書を信じるなってノーベル賞受賞者が言ってたなw>>50 >>81
>「日」の字ではなく「卑」の字をつかったのではないか
支那人が「日」の字を使うハズは無いが
もし使ったとしたら「日」の字は万葉仮名の分類でいう「訓仮名=漢字の支那語と同じ意味の日本語に翻訳した読み」だ。
そういう和文解釈のような有り得ない方法で支那人が書いた漢文解釈をするのは訓読の「和臭」と言って漢文、唐詩では排除される。
「卑」の字は万葉仮名の分類でいう「音仮名」。
「日」は飛鳥時代よりも前の時代には日本語で「ピpi」と発音していたことが判明している。
「氷」も同様に「ピpi」と発音していたことが判明している。
倭人(邪馬台人というという言葉は残念ながら見たことも聞いたことも無いw)がピミコと云ったので
古代支那人が「卑弥呼pi mi ho」と書いたのだ。 >>67
100から30に減ったのは範囲が狭くなったのではなく
統一が進んだんだろうな。 関東人は邪馬台国の議論に参加しなくていいよ
三内丸山遺跡がお似合いだ >>76
>糸島の平原遺跡以降、突然なくなる北部九州の弥生文化
北部九州にそんな断絶とかないんですけど? 神武天皇の兄弟が大分に祀ってあるよ
あれみると実在だわ >>72
典型的な詐欺師の論法じゃん
比較してるのは
@日本出土の位至三公鏡の「製作年代」
A中国出土の位至三公鏡の「埋納年代」
まったく別の基準で比べてる
そしてイチャモンつけてるのは「北部九州」の土器編年を100年後ろにずらせだとさ
3世紀後半からは楽浪土器の出土が激減し、中国との交流が停滞する時期
西晋時代に中国でどれだけ位至三公鏡が流行しようと日本には入って来ないんだよ
製作年代は鏡のデザインで判断するものであり、交流が停滞した後の中国で埋納が多かろうと関係ない話
@とAは実際は関連がないのに、いかにも連動してるかのように見せかけて、
ガチガチに固まってる「北部九州」の土器編年を動かせなんてただのイチャモン >>111
シンガポールのべンクーレン(明古連)通りには
斉天大聖=孫悟空が祀ってあるよ
あれみると孫悟空は実在だわ
間違いない >>1
学者てのは常識を知らんな、
卑弥呼だの古墳だのは1500年以上前の話だ
マチやムラを作るのに良地は何時の時代でも良地だよ
つまり卑弥呼の住んでいたマチの上には 平安時代や戦国時代の街やお城が建ってたはずだよ つまりとっくに消えてるよ
今見つかったマチの跡が一番デカイから 卑弥呼のマチだと思うのは単純馬鹿
古墳も同じで天皇家が保護している古墳は極わずかだよ、
古墳として認識されているのは極一部で 大半の古墳は山になったり田圃になったりして消えてるはず デカい石は石垣に最適だろ
吉野ヶ里遺跡では瓶棺だけだった石…巨石は使われて無いから 卑弥呼の墓は単なる土盛りと考えられる
お屋敷が建ち お城になり 今は小学校の下かな >>115
>西晋時代に中国でどれだけ位至三公鏡が流行しようと日本には入って来ないんだよ
詐欺師乙w
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm
> 表に示されている鏡の年代からみて、わが国から出土する「位至三公鏡」も、そのほとんどは、西暦285年以後ごろ、埋納されたもので、
> 中国と日本との地域差、年代差を考えれば、西暦300年ごろ以後に埋納されたとみるのが穏当である。
> そして、その「位至三公鏡」が、わが国においては、北九州を中心に分布している。
> (1)中国で、おもに西晋時代に行なわれた「位至三公鏡」は、わが国では、福岡県・佐賀県を中心とする北九州から出土している。
> 奈良県からは、確実な出土例がない。 (下表参照)
> http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-13L.gif 西日本の覇権の推移
倭奴国(博多)の覇権→倭国大乱→邪馬台国(筑後)の覇権→倭奴国残党の分裂
倭奴国残党の分裂
1博多に残って邪馬台国の支配下に=伊都国、奴国
2南九州(西都原)に移住=天孫降臨
3近畿(巻向)移住=神武東征
近畿移住組の立場
はじめは近畿の覇者ニギハヤヒ傘下の豪族→四国、出雲征服→近畿覇権奪取(崇神=ハツクニシラス)
九州の再征服
景行遠征→仲哀遠征→継体遠征(磐井の乱)→白村江で九州政権滅亡→九州全域が支配下に
律令、神話の統一
大宝律令、古事記、日本書紀の制定 >>70
瀬戸内は応神までどの勢力も航海の安全は無かったと思うよ。
瀬戸内の海賊はいわゆる零小豪族で、その上の豪族(クニ)に属していたとはいえ個々副業の海賊はしてたと思う。
ただしクニを超えて広域でまとまる可能性もある。
寿司食いねぇ!の森の石松が金比羅詣でに行くでしょう。
日本の場合、力だけではまとまらず宗教でまとまる可能性がある。後世の熊野水軍とかね。
これがどうも神武東征神話でもあったんでは無いかなと思ってる。 イメージって大事だよな。古代は近畿の印象が強いからそれだけで充分。 墓のサイズ。100歩暗い
100m以内だけどな。100人の遺体、
周辺に官はあるが、郭がない墓とか?
女王国の東へ千里範囲も、属(出雲・吉備・奈良・伊勢)、南へ四千里範囲(種子島・奄美・沖縄)と考えると九州になるんだけど。 >>118
壊れたテープレコーダーか
形式は6期や7期
埋納は早いもので弥生時代後期、それ以外は古墳時代だということだけだろ
つまり伝世が多かったということ 九州説論者が訴える北九州の遺跡からは後漢の鏡が出てくる。後漢は、25年〜220年。
魏の景初三年(239年)よりも前の時代の物。
魏の紀年銘鏡
青龍三年 235年 方格規矩四神鏡 三面 京都府、大阪府、出土地不明
景初三年 239年 三角縁神獣鏡 一面 島根県
景初三年 239年 平縁神獣鏡 一面 大阪府
景初四年(非実在年紀) 240年 斜縁盤龍鏡 二面 京都府、宮崎県
正始元年 240年 三角縁神獣鏡 山口県、群馬県、兵庫県
卑弥呼が魏に使いを送った年
景初二年(239年)12月 - 卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。
正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
正始四年(243年)12月 - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
正始六年(245年) - 難升米に黄幢を授与。
正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。 邪馬台国に卑弥呼は居なかった、魏志の使いが来た最終地
不弥国に来てただろう、使節はそこで卑弥呼と話し合った(新説)
不弥国以降はすべて伝聞 >>123
それは72のURL先読めば分かるよ
鉛同位体の分析でほとんどは280年以降の鋳造だとしてる 黄幢とは、後漢を亡ぼした農民の反乱である黄巾の乱と関係があると思われる。 卑弥呼がもらった百枚の鏡もな、未だに三角縁神獣鏡を卑弥呼の鏡と言ってるが
たかが鏡をお強請りする東国の蛮族をどう見ているか、、特注品を拵えるほど評価していたか
三角縁神獣鏡…は中国には無いから卑弥呼むけ特注品だとするのは弱いよ 特注品なら「卑弥呼さんへ」と書かれているはずだろ、
で無ければ 市場に有った中古品の寄せ集めだわ、中国では単なる実用品だよ
コレが大人の常識だろ いい加減巻向を邪馬台国と結びつけるのはやめなさい
巻向の発掘跡がどんな扱いを受けてるか確認すれば結果は見えている >>124
年号は後世に捏造されることがあるのでアテにはならない
>>86の成分分析を見れば魏の鏡でないのは一目瞭然
https://www.nagaitoshiya.com/ja/1999/himiko-mirror/
>2.6. 三角縁神獣鏡は四世紀の古墳から出土する
>卑弥呼は三世紀中頃に死亡したにもかかわらず、鏡はすべて四世紀の古墳から発掘される。
>畿内説支持者は、虚偽の年代が鏡に入れられるはずがないというが、銘文の字体から、虚偽が明らかな鏡もある。
>安萬宮山古墳から出土した「青龍三年」(235年)鏡の「龍」の字の旁(つくり)は「大」となっている。
>この字体は四〜五世紀の中国北朝時代に使用された異体字で、後漢・魏晋朝時代にはなかった字体である。
>つまりこの鏡は四〜五世紀の作品であるということである。 >>126
華北では徐州の銅を採取できなかったと言い張ってるだけでしょ
銅山として確認されてるものが呉の領域にあったと言ってるだけで、他にあったかもしれない
なかったとしても、この時代に完全な鎖国なんかできるわけない
普通に流通してる
実際、魏の年号の入った他の鏡は作られているんだから 纏向遺跡からの出土品
1.大量の桃の種w
2.魚の骨ww
3.イノシシの骨、※犬の骨www
北部九州の民族とは異なった民族が住んでいたとしか思えんよ 畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。
伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない
魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い
天津罪は、農業の作法を知らない人が適当に稲作をしたこととも読める。 >>123
壊れてるのはお前の頭だろ
>>72や>>79、>>86を100回嫁
中国側で西晋以降の出土ばかりなのに漢鏡なわけがないわ
岡村が捏造しただけ
銅の成分も呉の銅だしな
>http://yamatai.cside.com/katudou/image3/365-15.gif >>122
測量屋は歩測する場合は 一歩65cmで計算するんだって、径百歩なら65mだな
学校の200mトラックサイズ…小さな土盛りだわ
失伝したら 草木が生えて雨風で溶けて消えてるよ ここまで読んだ限りだと、邪馬台国は
近畿で決まりだな! >>131
>銅山として確認されてるものが呉の領域にあったと言ってるだけで、他にあったかもしれない
あったかも知れない、は学問ではないw
魏は銅の不足に苦しみ、貨幣の鋳造にも事欠いていたのは三国志に詳しい人間なら誰でも知ってること 近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。 クニ、クナ。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によってヤマト政権が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した邪馬台国、ヤマト政権の主体は、尾張、出雲、吉備。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
初期のヤマト政権に虐げられていた元々の畿内の人々と関東の先住民が手を結び神功皇后応神を旗頭に立ち上がったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないとも言っている。
纒向遺跡は、農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。
纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。
さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。 邪馬台国が論争になるのは(東海地区)VS九州地区の代理戦争を畿内VS九州と誤魔化しいるから。
東京大の歴史学者が九州説をとなえるのは第三者の立場だから客観的になれる…っていうこと。
「任辰の乱」はその後始末だと思う。
天武天皇が東海豪族の武力を借りて勝ったけど聖武天皇以降は九州(西日本)側が“再征服”して東海地区を日本の領土に組み入れた…というのが史実だろう。 >>134
埋納でさえ後漢晩期ってのがあるだろが
これはいつ作ったんだよ?www >>131
中国の学者によると漢代以降中国の主な銅鉱はすべて南方の長江流域にあったとのことなので
呉が存在している間は華北に十分な銅が供給されなかった
結果として華中華南の銅で華北文様の鏡を作ることが可能になったのは
呉が滅亡した280年以降の話になる 「畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃」畿内では部落対立が収まったと
言う事だろうがそれは倭人伝の倭国大乱とは関係が無いだろう。
そもそも倭人伝に書かれている倭国とは北部九州のことで本州は倭種の住む国と
書いている >>140
で、東大で九州説を唱えてる学者って誰だ?
名前を挙げてみ? >>140
そういう意味では暴力団・山口組の勢力図ととてもよく似ていると前々から思っているんだよw 魏に使者送って魏から使者を迎えることが出来る安全な陸路と海路を持ってたという
時点であの時代に畿内からとは考えづらいしな >>141
たった一枚だけじゃん
それを踏まえた中国側の研究が>>79だよ
アキラメロン >>142
>呉が存在している間は華北に十分な銅が供給されなかった
学者がそんなこと言ってる?
安本じゃないか? >>72
やべーなガチのゴッドハンドかよ
ドン引きだわ >>147
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に
>中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。
魏の時代とまで言ってるじゃん
表には後漢の時代も含まれてる
で、西晋時代には日本と中国で交流が停滞していたことをこの学者は知らない
入手時期は後漢と魏の時代ということになるな
6期と7期で問題ない
「北部九州」の土器編年を100年ずらすという暴挙も必要ない >>148
徐苹芳氏が
三国時代、中国は南北に分裂していたので魏の領域内では銅材が不足し、
銅鏡の鋳造はその影響を受けざるを得ませんでした。
と述べてると72のURL先に出典明記されて書いてある しかし安本は畿内の年代にイチャモンつけたかったのに
北部九州を巻き込むとか、無理しすぎだろ
しかもこのイチャモンでは畿内は放置www 邪馬台国と同時代にほかに部族連合があってもおかしくないよね
邪馬台国が中国に朝貢したので名前が残ってるだけとかね >>151
なるほどね
でも、別の文章では魏の鏡があると言ってるわけだから作られていたのは間違いないね 倭国大乱って祓戸四神と関係があるような気がするんだな
伊勢内宮神前祝詞
天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある
天から遠ざかった向津姫
伊勢の向かい側は尾張三河
何か関係あるのかな
また、『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」「八十禍津日神」であると記述される。
瀬織津姫を祀る槻神社のある三河と何か関係あるのか?
畿内を征伐してできた初期のヤマト政権、その女王卑弥呼は、後に天照大御神にされたんじゃないかな? 邪馬台国の怪はこれだけ不正の証拠があると言い張るなら、なんでマスコミに流さないんだ?
考古学会挙げて不正をやってると言いたいんだろ?
ゴッドハンド事件どころじゃない大問題だよなwww
まあ、おれみたいなド素人でもインチキを見破れるんだから学者にこんなのを突き付けても一蹴されるだけだろうけど どっかに卑弥呼の墓は100歩くらいの大きさって書いてなかったっけ
これって278mなんだね
全然ちゃうやん >>154
魏の時代に呉の銅を使って鏡を作るのはさすがに無理だろう
いくら魏でも多数は作れない
でその位至三公鏡は渦中の岡村氏やその他によると三角縁神獣鏡より古い鏡なので
結果三角縁神獣鏡も280年よりさらに新しい時代の製作となる 記述に100歩って残ってるのに
「卑弥呼様の墓だからでっかいに決まってる
でっかい箸墓古墳が卑弥呼様の墓だ」
っていうだけで騒いでるの? >>155
歴史を封印するために書かれた記紀をベースにするなんてナンセンスだな。 >>156
畿内説やってるのは毎日新聞の元記者だからマスゴミもゴッドハンドの仲間。 形も「塚」としか記述されてないんだから前方後円墳のわけないし >>155
当時の倭国ってのは、日本全体のことではない。
九州地方、もしくはその近辺の中国四国地方まで。
そらより北東方向は倭種とよばれ、倭国側ではよくわかっていないと魏志倭人伝にある。
卑弥呼=アマテラス説は単なるファンタジー >>159
>魏の時代に呉の銅を使って鏡を作るのはさすがに無理だろう
>いくら魏でも多数は作れない
だから、その学者がこう言ってるんだからそこを言い争っても意味がない
↓
「日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に
中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」
>でその位至三公鏡は渦中の岡村氏やその他によると三角縁神獣鏡より古い鏡なので
>結果三角縁神獣鏡も280年よりさらに新しい時代の製作となる
これ意味わからずに書いてるよね
仮に位至三公鏡の編年上の区分が移動しても、三角縁神獣鏡の区分は影響は受けない
違う系統の鏡であり、玉突きで後ろに動くことはない
三角縁神獣鏡が前で、位至三公鏡が後ろになるだけ 半分以上がどっかからの転載内容かコピペで勝ち誇る奴ってなんだろうねえ マスコミに騙される奴なんて、この時代に
いるのか?
畿内説なんて無理矢理やん >>159
学者であるのなら、『日本考古学』、『考古学雑誌』、『考古学研究』などの学術系雑誌に論文を掲載してもらえばよいだけのこと
それをやらないから、誰も反応しない
極々当たり前
>>162
畿内説があたかも一つの生命体で、誰かが決めた総意に従って動いているかのように言うなあ(苦笑)
このへんが君らの限界なんだろうけど
それぞれ畿内説を論じている歴史学者や考古学者がいるのだから、名前を挙げればいいんだよ
知識がないので、挙げられないのだろうけど
そのマスコミの記者とやらは学者ですらないので、仲間もへったくれもない、ただの一素人に過ぎないが(苦笑) 学者、学者、連呼してる外危地ウザイな。
所詮、考古学とか、ぶっちゃけアレだろうに。 旧唐書から
648年までは倭国の使いが来てた
703年から日本の使いになった
この間に
倭から日本に改名したとも
日本が倭を併合したとも
倭が日本を併合したとも伝えられている
まぁ色々総合的に推測すると
この期間に白村江の戦いや壬申の乱や大化の改新などがあるんで
それらを通して九州王朝と大和王朝がひとつになり日本国となったんだろう >>118
> 中国と日本との地域差、年代差を考えれば、西暦300年ごろ以後に埋納されたとみるのが穏当である。
御都合主義的考え方だな 考古(笑)とかの糞分野に進学した学者さんの結論はどうでもいいけどね。
それより何倍も常識的なおまえらの総意は、どっちに決まったのだ?
おっと、朝鮮半島の倭人所有地を隠蔽したいお隣の意見は除外してくれ。 議論も何も、出土した人骨を鑑定にかけて、女だったら決まりでOKじゃん。
あの時代に丁寧に埋葬された女なんて他にないだろ? >>171
天武が兄貴の天智の息子を滅ぼしたから国号を変えて心機一転しただけだよ
この当時倭国は唐と新羅の戦争でどちらに付くか求められてて
白村江で唐と戦った兄である中大兄の負い目もあるので倭ではなく日本として遣唐使を送ったと考えれば自然 >>174
元々箸墓の埋葬者は女性だと日本書紀に書いてある
名前もちゃんとある
なぜかそれを卑弥呼だと言い張る奴らがいて混乱してるだけだよw >>128
>中国では単なる実用品だよ
道士の間では金ピカの青銅鏡で魔物の正体を
映し出すことのできる神器として使用されていた。 >>157
すると、一歩の歩幅は2.78m?
合わないよな。三国志や後の晋には、八卦とかも入ると推測すると出雲は鬼門、伊勢、奈良も鬼門に近い。 >>175
いやそれだったら
「改名した」だけで済む
「日本が倭を併合した」って話をする使者もいたってことから
「大和朝廷が倭を併合した後に日本国を名乗った」が正解だろう 中国人は当時から倭人は鏡を異常に好むと書いてるし
天照が太陽神であることもあって太陽光を反射させる鏡には
特別な力があるという威信財としての価値が相当あったんだろうな
だから邪馬台国が東征して周辺諸国を調略していく際に鏡を有力豪族に配っていった
もちろん数が足りなくなるので三角縁神獣鏡を中国の舶来品のように見せかけて大量に生産してバラまいた
そう考えれば年号がおかしいのも漢字の意味が滅茶苦茶なのも説明がつく
あんな出鱈目な漢文の鏡を中華皇帝が下賜したとなると「中華皇帝ってバカじゃね?」となって大問題になるw >>157
歩は日本と大陸じゃ違うやろ
30-40mぐらいじゃね 三種の神器は、 天智天皇の時までは三種だったが、何故か天武朝になると、神璽は剣鏡になるんだな
どういう意味があるのか?
更に天武は草薙剣に祟られたとも言われている
勾玉だけが皇居にあるのはどういう意味なんだろうか? >>180
倭国は雄略天皇の時点でもうヤマトを中心とした一つの国にまとまってる
大海人皇子はそのヤマトの政治システムの中で兄である天智を政治面で支えていた人物であって
血筋的に怪しい継体が王朝を乗っ取ったのとは全く別の話
あくまで倭国が白村江で唐と戦ったことを少しでも誤魔化すために
「あれは兄がやったことで私は反対していました」アピールの一環として倭を捨てたと考えるのが自然 >>183
三種の神器は源平合戦で安徳天皇が持ってたり
そうなると伊勢や熱田の鏡と剣はどうなるんだという話で
当時からレプリカは存在してたんじゃないの? ヤマタノオロチ、
風宮の神(級長津彦命 級長戸辺命)
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。
オキナガタラシヒコ、
龍神祝詞の神
全て同じじゃないか?
ヤマタノオロチの勢力は天武の時代まで存在していたのでは?
大津皇子、天武の子ではなく、オキナガタラシ系の皇子だったのかもしれない
天武はどうして草薙剣に祟られたのか?
龍田神社
天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。
祭神
天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。
天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな
そして鎮魂したと
最後に大津皇子の辞世の句と息長に関する万葉集の歌を載せておく
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも >>185
まぁそれなりの知識がないと議論にもならないしな
頭の悪い奴はすぐにチョンとか持ち出すけどホント低劣 しかし安本の破れかぶれ戦法は想定の斜め上を行ってるわ
「魏は銅鏡を作れなかった」
こんな滅茶苦茶な話を作って畿内説を攻撃し、仮に今回みたいなインチキで騙せたとして
いざ九州説を主張するとき、卑弥呼が貰った銅鏡100枚はどうするつもりだったんかな?
後漢時代の中古で代用するんじゃ皇帝の権威が傷つくだろ >>165
だから西晋時代に大層流行したと言ってくれてる
表を見ればわかるが洛陽周辺では魏の年代だとはっきりしたものは見つかってないし
結局ほぼすべてが呉滅亡以降の作成になる
三角縁神獣鏡は鉛同位体から湖南省産の銅と分かっているので
もし華北で大量に作成するなら呉滅亡以降になり倭人伝と矛盾
しかも国内の発掘状況から位至三公鏡の方が古いことは岡村氏ですら分かっているので
280年よりさらに新しい時代に作成された鏡で確定
国産の鏡だから今更どうでもいいが >>188
ハハ、オマエ、チョンのようだなw
チョンは、どうしても九州説じゃないといけないからな。
必死に工作してるよw 倭人伝に記載している距離、日数、戸数などその他の数字も含めて信用出来んのが多すぎる
昔からシナ人は白髪三千丈とかあり得ん数字を使うから信じる方がアホと言う事。
ある程度信じられるのは方角のみ。 >>189
邪馬台国と同盟(九州以外に出雲、奈良、伊勢)にある国に配布とか?配布先で複製品作製か? 安本は考古学者じゃないからこそ客観的に
鉄鏃と絹の出土数で疑問を呈しているのであって
それに対して畿内説の奴らがまともに反論してるのを見たことがない
もちろん反論するにも数字は明白で自分たちの嘘を自白することになるから逃げてるだけ
挙句の果てには魏志倭人伝に記述の無い大型建物、前方後円墳、桃の種で
「やはり邪馬台国は桜井市一帯にあった」なんて言い出す始末
議論になってねーんだよ畿内説の奴らは 天武朝は邪馬台国、女王国系の最後の生き残りだろう
天武朝と白山信仰の関係は興味深い
郡上市、白山中居神社の五段神楽の謂れ
五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、
天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。 >>189
全然文章読んでないな
言ってるのは魏は呉の銅を使った鏡は大量に作れなかったってことだぞ
別に魏で鏡を作れなかった訳じゃない なんか三国志で魏は鉱山がないだかで通貨を作るのも大変だったとかいう話を聞いたことあるな 倭国大乱から600年、侵略者を順次追い払い、倭国大乱前の有り様、【平安】が訪れた。
大中臣氏の歌
たづのすむ沢べの蘆の下根とけ汀もえいづる春は来にけり(後拾遺9)
汀の春、汀の復興だな 後漢書にある様に狗奴国は邪馬台の東の海中にあったから、吉備の前身は狗奴国だろうな。
紀元前から山陰にかけての弥生人殺略遺体はこの半島渡来人勢力との戦乱の跡で、その後瀬戸内海南下による纏向での東海倭人融合で列島内のパワーバランスが大きく変わるんだよ。
箸墓の神話にしても埋葬者の死に方は残酷で、その後大和に繋がる侵略の仕方は、要人に和平を持ちかけ裏切る倭人の感覚から乖離する戦略を使うからな。
狗奴流れを汲む大和の記紀に邪馬台が存在しない理由がこれだよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています