21歳の二等兵時代の田中角栄
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前から4列目、右から6番目が田中角栄
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 新潟の貧農から総理大臣へと成り上がった田中角栄は、やがてロッキード事件などのスキャンダルに塗れ波瀾万丈の人生を終えた(1993年没、75歳)。その生涯は近年の“再評価ブーム”の中で様々な視点から伝えられてきたが、誰もが知るその歴史に「空白の2年間」がある。徴兵で満州に動員されていた時期について、角栄は生前ほとんど語らなかったという。当時の秘話が、ある写真とともに明らかになる。

◆「満州の写真を持っている」

※省略

◆アンパンを盗みに来た

 惠美子さんに話を聞いた。

「1か月ほど前に、新聞を読んでいたら、『戦場の田中角栄』の広告が出ていたんです。そこに『ノモンハン戦』の文字があったので、すぐに娘に書店に買いに行かせて、一晩で一気に読み切りました。父は生前、酔うたびに、満州にいた頃の田中角栄さんの話をしていましたが、本当だったんだなと思いました」

 そして1枚の写真を取りだした。およそ100人くらいの日本兵が写ったセピア色の集合写真。そのなかの一人に小さな丸印がついている。

「この人が角栄さんです。父が写真に書き込んでしまったんです(笑い)」(前出・惠美子さん)

 この写真は、ノモンハン事件(*)停戦後の昭和14年10月25日に、日本軍の前線基地・ハイラル(現・中国内モンゴル自治区)で撮影されたものだという。この時、角栄は21歳だった。

【*1939年5〜9月にかけて、満蒙国境で起きた日ソの軍事衝突。日本軍は壊滅的な被害を受け停戦に至った】

「父は終戦1年後に帰国しましたが、引き揚げる間もこの写真を肌身離さず隠し持ち、戦後も押し入れに大切にしまい、家族以外には見せようとしませんでした。一緒に写っている多くの戦友が戦地で亡くなられたからだったのでしょう」(前出・惠美子さん)

 生きて終戦を迎えた戦友も、すでに80年近く経っているので、今や存命者は少ない。惠美子さんは、むしろ供養になると思い、公開を決意したという。

 小野澤冨士氏は大正7年、群馬県に生まれた。幼い頃から馬に乗り慣れていたので、昭和14年1月に徴兵されたときに宇都宮騎兵第18連隊に配属された。その後、満州国富錦にあった陸軍第3旅団騎兵第23連隊に転属している。

 一方の角栄も同じ大正7年生まれ。父親が競馬馬の育成に入れ込んでいたためやはり乗馬が得意で、徴兵により、昭和14年4月に満州国富錦の騎兵第24連隊に入隊した。

 小野澤氏があとから同じ内務班に配属されて合流する形になったが、すでに実戦経験のあった小野澤氏は伍長、角栄は二等兵という立場だった。

『戦場の田中角栄』には、満州での角栄は決して模範兵ではなく、こっそり夜中に仲間と酒盛りをしたり、立哨をサボったりで、曹長や伍長ら上官からしょっちゅう殴られていたと書かれている。

「父の話では、要領がよくて、憎めない人だったそうです。調子がいいんだけど、まっすぐな青年だったと。『夜中にアンパンを盗みに来てみつかったときも、オレがかばってやった』『オレは田中を一度もぶったことがねえ』というのが、酔ったときの父の口癖でしたね」(惠美子さん)

 角栄はいつも鼻歌を歌い、人を笑わせる話をして、隊では人気者だったという。

 当時はノモンハン事件の激戦のさなかで、部隊では古兵から順に前線に送られていた。日本軍は、航空戦では優位に立っていたが、地上戦ではソ連軍に大きな劣勢を強いられていた。そんななかでも飄々としている角栄を上官らが苦々しく思ったのは容易に想像がつくが、なぜか小野澤氏は角栄をいたく気に入ったようなのだ。

 角栄は調子がいいだけの男ではなかった。

 部隊の教育計画書が連隊本部から突き返され、2日で修正と清書をしなければならなくなったときに、切羽詰まった中隊長は、建築家の角栄に頼み込んだ。角栄は上官らをアゴで使いながら1日で仕上げ、窮地を救ったというエピソードが『戦場の田中角栄』に紹介されている。この一件で、上官らの角栄に対する態度が一変したという。

 角栄は結局、ノモンハン戦線に送られることなく、昭和14年9月16日、ソ連軍との停戦が成立。命拾いしたが、その後15年11月、角栄は営庭で突然倒れた。クルップ性肺炎と診断され、内地に送還。戦病兵として除隊となった。

(続きはソース)

2018.10.31 07:00
https://www.news-postseven.com/archives/20181031_790999.html