大石内蔵助像(東京大学史料編纂所所蔵品より)
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 「忠臣蔵」で知られる赤穂藩家老、大石内蔵助が赤穂事件のあだ討ちを決意した心情をつづった、徳島藩の親戚宛ての手紙が現存していることが、徳島市の徳島城博物館の調査で分かった。吉良上野介邸への討ち入り前日に書いたもので、遺書に当たる。60年以上前に公開された記録があるが、その後は所在が分からなくなっていた。

 大石内蔵助は徳島藩祖、蜂須賀家政の外孫の孫。手紙は縦が約17センチ、横75センチ。1702(元禄15)年12月13日付で、宛名は母のいとこで家政のひ孫に当たる三尾豁悟(徳島藩家老池田由英の子)となっており、永遠の別れを告げる「いとま乞い状」とされる。

 手紙には亡き主君の赤穂藩主浅野内匠頭の無念を晴らすため、吉良邸への討ち入りをすることになった経緯や、時節をうかがっていたことが約50行にわたって切々と書かれ、「討ち入りのときが到来した。志の熱い48人が妻子や親類への後難を顧みずあだ討ちを行う」とする記述がある。

 さらに自分の死んだ後にも触れ、池田家の家人らに討ち入りの事実を知らせ、この手紙は読んだ後、焼いてほしいとの心情をつづっている。

 手紙の内容は赤穂事件に関する史料をまとめた「赤穂義士史料下巻」(1931年)などに記載がある。昭和25〜32年、東京や大阪、福岡などで開かれた展覧会では手紙が公開された。

 その後は所在不明となっていたが昨年、東京都内に住む三尾豁悟の子孫が徳島城博物館に寄託を申し出たことで現存が判明し、職員が調査していた。

 館によると、内蔵助が残した手紙は約20通確認されているが、討ち入り前日に書いたものは、兵庫県赤穂市の花岳寺などに宛てた別の1通があるだけ。この手紙には討ち入り脱盟者への批判や、家来2人の職探しを頼む内容が書かれている。

 新たな手紙が見つかったことについて、根津寿夫館長は「内蔵助がいかに三尾豁悟を信頼していたか、さらには多くの人物が内蔵助を裏側で支えていたかが分かる。三尾の存在によって赤穂事件の見方も変わるのではないか」と話している。

◆手紙を徳島城博物館で公開

 手紙は11月3日から12月24日まで徳島城博物館で開かれる企画展「討ち入りとその周辺赤穂義士と徳島藩」で展示される。11月3日午後1時半から徳島藩家臣団シンポジウム、12月15日午後1時半から東京大の山本博文教授の記念講演会「忠臣蔵の真実」がある。

 【赤穂事件】 1701(元禄14)年3月14日、浅野内匠頭が、江戸城の松の廊下で、武家の儀式を指南する高家の吉良上野介に恨みを感じて斬り掛かり、即日切腹させられたことに始まる。赤穂藩は断絶、藩士は苦難の生活を余儀なくされた。翌年12月14日夜から15日早朝、大石内蔵助ら47人の旧赤穂藩士が吉良邸に討ち入り、吉良を討った。人形浄瑠璃や歌舞伎では、忠臣蔵の演目として知られる。

徳島新聞 2018/11/01 11:00
http://www.topics.or.jp/articles/-/119682