【熊本】竹崎季長の奮戦鮮やかに くまもと文学・歴史館で「蒙古襲来絵詞」公開
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くまもと文学・歴史館(熊本市中央区)の特別展が1日開幕し、鎌倉時代の「元寇[げんこう]」に参戦した肥後の御家人・竹崎季長[すえなが]の奮戦を描く絵巻「蒙古[もうこ]襲来絵[え]詞[ことば]」が熊本で17年ぶりに公開された。
元寇は、1274年と81年に九州北部沿岸を襲った蒙古(元)軍の侵攻。竹崎が後年、自らの活躍を描かせたのが蒙古襲来絵詞。熊本藩士の大矢野家に伝わり、1890(明治23)年、皇室に献上された。現在は宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵。2001年に熊本県立美術館で公開された。元寇をほぼ同時代に描いた史料として国宝級の価値があるとされる。
絵詞は前巻(長さ約24メートル)と後巻(同約21メートル)に分かれており、縦はいずれも約40センチ。それぞれの前半部分を19日まで、後半は21〜12月17日に展示する。
公開された後巻には、竹崎が肥後の有力御家人・菊池武房とその一族の横を通って出陣する雄姿などが、情景を説明する文章と交互に描かれている。絵は色鮮やかで、武具の模様や装飾が細密に描写されている。
特別展は、国難に直面した先人の奮闘を紹介し、熊本地震からの復興に取り組む県民を勇気づけようと、元寇の研究者として知られる同館の服部英雄館長が発案。陶製の球を爆発させる武器「てつはう」など蒙古軍の遺物や竹崎自筆の書状など、計64点の史料で元寇の実態や後世への影響を考察している。
会場を訪れた熊本市南区の建築士坂井重則さん(70)は「絵詞が色あせていないのに驚いた。これだけの史料が現存するのは奇跡」と話していた。
特別展は12月17日まで。入場無料。
https://i.imgur.com/4qtHGTC.jpg
https://this.kiji.is/430864124722300001?c=92619697908483575 だな
虐殺された善良な高麗兵士のことについてジャップは謝罪る義務ある。 まだまだ状況を理解してるやつは少ないな
夜中に浜に上がってきたら中学生の喧嘩みたいに毎日毎日やるんだよ
向こうは結構ひるんで退散したりする >>1
鎌倉武士も自己PRの上手いやつが出世したのか 俺のご先祖様には文永の役のとき博多で高麗兵に殺された人がいるよ
証拠はないけど心証では確実だ
被害者と加害者の関係は千年経っても変わらない
だから韓国政府は俺に賠償すべき
加害者側の韓国政府は被害者の子孫である俺の言葉を疑ってはいけない
疑うこと自体が名誉毀損になる 高麗兵は奴隷にしなかったのベンハーみたいに
収用施設もないから首ちょんぱしかないか
こんな間抜けな大軍他にあるのか? >>9
確か助命されたのは南宋人だけ
南宋は交流あったからかな これ自分の戦功を記録して恩賞を多くするためなのに、すり替えて来てるね いわゆる「神風」は
戦前には日本が神国である根拠として記述され
戦後には日本が勝てたのは台風のおかげ(つまり実力では無い)というストーリーのために日教組パヨクが喧伝した
しかし近年の研究では
日本の武士がその強さで元や高麗軍を圧倒していた事実が分かってきている
「やあやあ我こそは」と名乗りを上げてる間に元軍にあしらわれた様な話は嘘で
練度の高い遠隔攻撃と、騎馬による密集突撃で効率的に元軍を駆逐していったのが真相
相次ぐ敗戦と厭戦気分から、海路で退却を始めた元軍に台風がトドメを刺したのは事実だけどね
因みに元の将軍は部下を置き去りにして本国に逃亡の末処刑されてます。 >>7
そういえば、戦場での名乗りって本当は
参戦と手柄の自己PRなんだとか 日蓮が攻めてくるー!攻めてくるー!うるさかったんだよな?
今と一緒w
オウムが、創価が、外国が攻めてくるー!攻めてくるー!うるさい⚡👂⚡ >>13
そういえばこの前のヒストリアでも鎌倉武士の戦い方を取り上げる形だったね
昔はテレビでも叩かれがちだった気がするけど >>13
>因みに元の将軍は部下を置き去りにして本国に逃亡の末処刑されてます。
朝鮮人はちっとも変わってないねw 朝鮮人が宗主国におねだりして
朝鮮人が武器を用意して
朝鮮人が船を用意して
朝鮮人主体で日本を侵略したのが『元寇』 >>19
その将軍、范文虎は高麗人ではなく南宋人、もとは南宋の武将
元寇は高麗人もいたけど元軍もいたし、
弘安の役ではその前に滅ぼされた南宋の人もいた >>1
南朝鮮は、国民全員が国粋主義という超絶な極右国家
あらゆる歴史を自己都合で捏造し、地名まで捏造を繰り返す。
南北朝鮮はまともに付き合う相手ではない。断交あるのみ
日本に密入国してきて生活保護を受給し、性犯罪を犯しまくってる在日朝鮮人も全員を強制送還で。
日本人になりすました在日朝鮮人によるチョンポップの人気偽装もひどい。
チョンタレの日本コンサートでは、サクラの在日朝鮮人だけでなく、半島からも大量の朝鮮人を観客役として動員し、日本人に人気があるように虚偽宣伝を繰り返している。
LINEやYahoo!Japan(ソフトバンク)などの朝鮮メディアによるステマやネット工作も相当ひどい。
戦前から日本では朝鮮人による強姦被害が多発し、大勢の日本人女性が苦しんできた。
東南アジア諸国でも朝鮮人によるレイプ事件が頻発しており、朝鮮人は東南アジアの女性に最も忌み嫌われている。
ベトナムでは、強姦民族である朝鮮人のレイプ児・ライダイハンが大量発生して社会問題になっている。
朝鮮人はずっと昔から売買春が盛んで、大勢の朝鮮人売春婦が世界各地で体を売っていた。
いまも、日本人女性を汚しまくってるAV男優とAV撮影者のほとんどが在日朝鮮人だ。
朝鮮人はみんな同じ整形ハンコ顔だけど、
もとはパンストを被ったようなエラ張りツリ目の朝鮮顔。
生まれつきの朝鮮顔をいくらメッタメタに整形したところで、朝鮮人の存在そのものが極めて卑しく、あまりに汚らわしい。
南北朝鮮は、国際社会の汚物。 >>13
しかも、幕府軍の本隊は西進中だったので、日本軍は増強過程にあった。
台風が来なくても、戦が長引けば蒙古軍に勝ち目はなかった。 >>25
拠点作れないまま鎌倉武士の奮戦に押されてたからなー
台風にやられたとしても、たまたま台風が来たというより、
鎌倉武士が台風が来るまで元軍を押しとどめたともいえる >>13
それでもクビライはまだ日本を攻める気があったらしいな
元を侵略したことのない日本より近くの敵と戦ってたからできなかったけど 確かに学校教育では色々辻褄が合わなかったんだよな
俺の時代の教科書の資料では「新兵器てつはうの前で鎌倉武士は恐れをなして逃げまどっていた」
という話だった
じゃあ当然ながら疑問が湧く
「一体なぜ日本は無事だったのか」と
「台風が来たからー」と言ってるが「てつはうから逃げまどった」ということは上陸されてるわけで
そこで辻褄が合わない
日本の歴史学はガタガタやで 熊本県民の朝鮮嫌いはガチだぞ。藤崎宮大祭もクレーム来るまではボシタ祭り(滅ぼした)だった位だからな。反面自衛隊好きもガチ >>7
でもそのPRは人より余分に知恵と労力と金を遣っての絵巻物だものな
今じゃ国の宝
立派なものだ 恩賞を得るために戦ってたけど
戦果の証明には名乗りを上げる必要があったという事だったっけ >>13
日本が勝てたのは台風のおかげで鎌倉武士の力ではない、
という風評被害?は根が深くて、かの「太平記」でも
「抑太元三百万騎の蒙古共一時に亡し事、全吾国の武勇に非ず。
只三千七百五十余社の大小神祇、宗廟の冥助に依るに非ずや。」
という記述があり、「太平記」の人気とともに広まった面もある。
「太平記」の方では、作者は不明だけどおそらく僧侶、
しかも室町幕府と親密だったことで、
当時行われた寺社の祈祷の成果をPRし、
また足利が滅ぼした鎌倉幕府を低評価する意図があったのかもしれない。 >>29
朝鮮出兵もそうだけど
戦後の歴史教育は露骨に日教組やチョンの介入があったからな
ウチの子の日本史の教科書見ても、朝鮮出兵なんかも朝鮮軍が善戦して日本軍を追い払ったかの様に書かれてるわ
日本軍がわずか3週間で首都漢城を陥落させた(しかもほぼ無血で)史実はどこにも書かれてないよw >>33
元々は神職のPRだよね
ただ面白いのは>>13にも書いた様に
戦後の自虐教育を進めた日教組が、戦前とは全く逆の意味で「神風」を利用した事
自分もその教育を受けた世代だけど
日本は台風のお陰で命拾いしたとか真面目に信じてた自分が恥ずかしいわ >>35
戦後のアホ左翼はマジでアホだったと思う
アホ左翼の主張のままでは「神風はあった」という事になってしまうw
アホ左翼は目先のメンツの事しか考えてない 竹崎季長の奮闘の絵は捏造なんだよね
この絵の左の方には逃げていく元軍がいるからね
でも学校の教科書ではここまでは見せていない
https://www.sankei.com/west/news/150119/wst1501190049-n1.html 武士の早駆けって、この頃からあったんだな
圧倒的な数の敵に対し、少数で突っ込むとか無茶すぎるw >>40
それが嘘だという話
竹崎季長は自己PRとしてこんな絵を描かせてるけど
別のものには集団騎馬突撃をする鎌倉武士がしっかり描かれてたりする
当時世界最強の陸軍を誇った元も、上陸戦ではその力を発揮できず
遠隔から近接戦までマルチにこなした日本の武士(しかも幕府の本隊では無い)に翻弄され撤退したのが
最近の研究から分かってきたのよ >>22
フビライから預かった兵をはんぶんこ以下にしたんだから仕方ないな 小池百合子まとめ
・リベラルを装ったファシスト
・笹川良一の隠し子
・体を売って政界を上りあがったビッチ
・学歴詐称 (はったりアラビア語)
・トルコのカルトイスラム教団(ギュレン教団)の学校を日本に作らせた。
・ジャップの金・技術を中東のテロリストに流すパイプ
「」 >>43
それもあるけど、帰国した時に兵を見棄てて逃亡したことを隠蔽した
後にクビライの次のテムルの時代になって、日本の捕虜になってた兵士が脱走、帰国して
真相を訴えたもんでテムル激怒させちゃった 名誉とかどうでもよくてただひたすらにぶっ殺せばいいだけだから楽しんで戦ってそう 元は何故2度目も、防備しているであろう同じ博多を攻めたの? >>49
当時の海路はそんなに甘いもんじゃないから
博多を迂回して上陸するとしても
難破して全滅する危険が増すわな >>40
そう、竹崎は無茶をやった
先駆けの功だけで単騎で突っ込んでやられて一回目の元軍の襲来時は何の戦功も残せなかった
傍観してた他の武士に助け出されて九死に一生を得た >>49
支配下にあった高麗軍の数が減ったとしても元としては嬉しいことだから >>46
https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.jpg
左のほう
思いっきり敗走してるよね
ちなみに元軍は短弓なので、世界でも独特のスタイルである和弓の騎馬遠隔攻撃には勝てんよ >>53
「八幡愚童記」によれば元軍の矢は短いが矢の根に毒が塗られていて、あたると毒にやられたらしい
弓と言えば文永の役で少弐景資は元軍の大将軍らしき人物(劉復亨)を射抜く戦功をあげた話があったな。 >>51
一応、単騎では突っ込んでないよ
手勢五騎連れてる 元軍の鎧や兜といった鹵獲品が800年近く経った今でも残っているなんて凄いと思う。 対馬は蒙古に蹂躙されたのは有名だが、壱岐の事は話題にならない。
同じく蹂躙されたはずなのに。 >>60
対馬と壱岐が〜とセットで語られることが多い気がする 神風が働いたと言うけど高麗に突貫工事で軍船を造らせたというのも大きかった
文永の前に反乱があったみたいだしそもそも様子がおかしい >>50
元寇の前に来た使者も海路の危険については報告して
日本への侵略にも反対してたね
本当になんでその人の言う通りにしなかったんだか
元は陸はともかく海戦は不得手だろうに
1 名無しさん@おーぷん 2018/10/06(土)22:05:20 ID:Y4y
一年ほど日本に居た第五回&第六回使節の趙良弼さんの報告より
・獰猛で殺を嗜む
・親孝行を知らない
・上下の礼も知らない
・土地は山水が多くて耕作に利がない
・日本人を得ても役に立たない
・日本の土地を得ても富まない
・舟で海を渡るのも風は不定期で、損害を測ることもできない。
・日本征服なんて有用な民力で底なしの巨大の谷を埋めるようなもの
・結論、(元寇)反対
ここまで言われてなんで攻めてきたんや… >>8
船やてつはうなどがまだまだ海の底に眠ってるらしい
時々異国風の物品が網に引っ掛かるとかなんとか フビライハーンが日本を狙った理由は、
昔は黄金の国の噂を聴いて黄金目当てにってのよく聞いたけど、
最近は硫黄目当てってか南宋と硫黄の取引してたからそれ絶つため、
っての見かけるようになった
黄金なのか硫黄なのか、元寇の原因になった資源はどっちやねん 最近の研究では、鎌倉武士はモンゴル人がひく位の狂暴さだからな。
戦国時代の武士なんてまだ落ち着いたほう。 戦後の日本が全部悪かった教育で
神風が吹いたからラッキーで日本は助かっただけみたいな教育されて
育ったきたからなあ >>65
モンゴルは東欧まで侵略して支配下に置いた大国な訳で
単に自分に従わない日本に我慢出来なかったんだろ
十数回にわたって鎌倉幕府に降伏勧告の手紙送ってるあたりが筆マメなクビライちゃんw 最近言われ始めた珍説で「鎌倉幕府が使者を斬ったから戦争が起こった!全部日本のせい!」
ってのがあるよな
そもそもモンゴルが日本を属国にしようとして使者を送った事実は完全無視でw やぁやぁ我こそは5ちゃんに蔓延るしみったれたネトウヨの端くれ也
いざ尋常に歴史認識問題の議論を致そうぞ モンゴルの戦闘シーンなんて、絵としてはほとんど残ってないんだろ。
文字の記録より絵は、数十倍インパクトがある 夜陰に乗じて日本軍の舟が敵の舟に近づき、日本兵が敵の船に乗り込み敵兵を斬りまくってみたいだ。
日本は昔から夜襲切り込みが得意。
元寇の時も相手から「日本人は死を恐れない」と評価されてる。
日本人は昔から変わらないんだな。 >>72
夜襲切り込みだけで
あれだけの大軍を敗走させることは出来んよ >>69
それ自分も今年だけでも二十回は見た
けど、そもそも鎌倉幕府が『元寇の前に』使者を斬った事実なんてないから、
珍説というか、捏造というか、ファンタジーというか……
元寇の前の使者は6回なんだけど、これは6回ともちゃんと帰国していて、
その後に一度目の元寇の文永の役が起き、
その翌年に来日した七回目の使者が切られてるのが、使者処刑の最初
だから『戦争が起こった後に』鎌倉幕府が使者を斬ったから戦争が起こった、
という意味不明な説になるんだよね
何かそういう史実と違う展開のフィクションでもあるのかなあ? 死を恐れないっちゅうか
民族とか同胞を守る為に自らの命を犠牲にする
ってのは至極、種の保存に則った動物的本能なのよ
そんな犠牲の上に成り立ってる俺たちが日本を守った先人達に敬意を表するのなんか当たり前な話だと思うんだけどねぇ 山ほど書籍を見ても、人間の創造力には限界がある。
でも絵を見れば、様子が一発でわかるからね。
竹崎の功績は、非常に大きい。
古典をマンガやアニメにした作品が多いけど、日本人の絵画作成の技術はすごいと思うわ。 なんやかんやで撤退に追い込まれた蒙古を
調子に乗って追撃したら弓とてつはうでやられる武士の図 >>69
てか10年以上前からネットで出回り始めたっぽいけど、なんか年々増えてないかなあ
これなんか先々週のスレだけど、このスレだけでも五レスもあった
【悲報】 鎌倉武士団、実はモンゴルより鬼畜だった!! [50016552]
http://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1540604072/
(>>21 >>86 >>439 >>493 >>862) 源平の時代から、一ノ谷とかで奇襲作戦やってたし、富士川でも夜襲作戦やってた。 元寇の復讐に燃える壱岐・対馬・五島の三島住人が倭寇となって暴れたせいで、
元と高麗は沿岸に人が住めなくなるほど荒され、行き場のなくなった住民が反乱を起こして滅んだ。
対馬豪族はそのまま半島の沿岸部に居座り倭館と呼ばれる居留地を作り、
元や高麗の滅亡後は朝鮮の懐柔策により官位を得て、両国間の貿易を担う商人となった。 >>73
日中の合戦でぼこぼこにされた上そいつらが寝てるときにも襲ってくるわけだからな。サムライこっわwww 竹崎季長の戦功を認め所領を与えてくれた安達城ノ介泰盛や先駆けの功を認めてくれた少弐景資も霜月騒動で滅んでしまった。
安達と少弐の描きかたからいって、それら恩人へのレクイエムの意味もあったのだろう。 >>13
鎌倉武士団は、残虐で名のとおったモンゴルもビックリな戦闘狂集団だったからな
人質をとって前面に押し出す → 人質ごと粉砕
博多の街が襲われそうだ → もったいないから先に略奪しとこ
みたいな >>73
武器の質が違ったから、接近戦になると武士の突撃に元の兵士は対抗手段を持たなかった。
元軍の剣は切れ味の悪い鋳造短剣で、武士の大太刀を受けると剣ごと切り裂かれた。
明の太祖、朱元璋が倭寇について問うたところ、倭人は小柄で女真族の兵士一人で三十人は相手に出来るが、
日本刀の切れ味は抜群でこれを振りかぶりながら襲い掛かられると剣ごと為すすべなく討たれるため、
逃げるしかなかったと答えている。 >>85
弓も射程や威力が違いすぎるんよね
自分らの外からばすばす撃たれて必死に近寄ったら待ってるのはフル装備のカマクラマンの集団という悪夢 >>80
夜討ちと朝駆けは普通。
一の谷の奇襲は異常。 >>86
馬がいないと得意のパルティアンショットも使えんしね。 >>16
元軍侵攻の情報は南宋の禅僧からとっくに入ってたが
幕府が不安を煽らないために吹聴しなかったのをいいことに
予言のごとく自慢して民百姓を惑わすとか酷いよな。 >>69
↓のように元寇の頃に日本に送られた使節のうち、
戦争前の使節はみんな生還でくっきり分かれてるのに、
なんでそんなわけわからん説が蔓延するんだろう?
1回目 高麗で引き返した(生還)
2回目 蒙古国牒状書持ってきたけど返事もらえなかった(生還)
3回目(1回目と同じ人) 対馬で拒まれて島民捕えて帰った(生還)
4回目 島民帰した(生還)
5回目 日本からの使者?連れて帰った(生還)
6回目(5回目と同じ人) フビライに>>1の報告した(生還)
(文永の役)
7回目 処刑…(死亡)
8回目 また処刑…(死亡)
(弘安の役)
9回目 台風で引き返した(生還)
10回目 日本に行きたくない船員に使者が殺された…(死亡)
11回目 日本に来ずに手紙だけ届けた(生還)
12回目(4回目と同じ人) 鎌倉へ連行、のち15年後に病没(生存、日本に留めて帰さず)
13回目 お坊さんだったんで幽閉のち赦免、日本のお寺の住職になった(生存、日本に留めて帰さず)
13回中、生還8回(本土に来れたのは4回)、死亡3回。
時期で分けると
文永の役前→生還、
文永の役後→処刑
弘安の役後→生かすが帰さず日本に留める 竹崎季長と書いて「すえなが」だと?地元でもはじめて知った この人、絵巻物残してなければ本当に無名だからな
いつ亡くなったかもよく分かってない。自己PRは重要という事。 味方に嘘をついて乗船させてもらって、兜の代わりにすね当てを頭に結んで敵船に斬り込んで首を取ったり、なかなかスリリング >>1
> https://i.imgur.com/4qtHGTC.jpg
馬術には詳しくないが、手綱を引きまくってるよな。
急ブレーキかけてるのかしらん。 この絵、たしか後世に松が書き加えられていたんだね。 戦のあとで鎌倉まで自分で行って手柄を訴えて、最後にようやく認められて恩賞の土地を貰えたんだよね >>93
鎌倉時代でも重要なのはコミュ力なのか…… 元の衰退の一因は元寇で日本に負けたからってマ?
ベトナムにも同時期に負けてるから日本に負けたせいだけではないだろうけど
南宋との交易や硫黄の供給で目障りだったとしても、
南宋は文永の役の頃でももう元に負けそうだったし
海の先の、それも小国だと思ってるなら
無理に不慣れな海を越えて攻めてこなくてもスルーしてれば良かったのにな 天によって守られた偉大なる大蒙古皇帝書を日本国王に奉わる。
王家連呼の犬Hkは日本国王をテレビに映さなかったね。
蒙古だけでなく中華はそれ以前から日本を冊封しようとし、何度も使者を送り込ん出たんだな。 1回目は博多湾に上陸したものの、すぐさま駆け付けた御家人に追い回され、船に逃げ帰った。
2回目は防塁のせいで、本土にすら上陸できずに敗退。置いてけぼりになった元・高麗の10万人は首チョンパ。逃げ出す時に台風の影響で船が多数沈没したが、あの季節の九州沖合いに何ヶ月も留まっていれば台風に遭うのは当然っちゃ当然だわな。 竹崎季長が突撃する有名な場面の絵も、季長が乗る馬と、平物語絵巻にそっくりな馬の描写がある >>102
それでも中華は日本へ攻めてはこなかったのに、
元は攻めてきたのはなんでなんだろね
大陸内で敵が多くて遠くの島国なんか気にならない、
ってのは元も同じな気がするけど 竹崎季長は奮戦しても戦功が認められず
大切な馬まで売り払ってわざわざ鎌倉まで出向き
時の実力者安達泰盛に会って、必死のアピール
ようやく新しい領地を得ることができた
武士の商売も大変 パヨク
「フビライさまの言うことに従わなかったから攻め込まれたの!!」 >>103
鎌倉武士だって、元友好国の宋人の捕虜は帰してあげる位の優しさはあるぞ。
目の前で残り捕虜を惨殺した後に。 少弐景資は元寇の数年後に幕府の内紛に巻き込まれて死んでるし
菊池武房の子孫は鎌倉末期の騒乱で幕府に討たれてるし
結果的に元寇は九州御家人にとっては何の益もなかったな >>109
関東なんて、一族族滅が山盛りなんだから、まだヌルイ方だろ 子供の頃教科書で見たときは偉い武将かと思ってたら、
部下も数人だけの零落した武士が勝手に無茶やって、
大した働きもないのに、幕府に恩賞直訴して、
自家出版で自分の偉業をたたえる絵巻物を出したDQNだと知って噴いた。
しかし声のデカい者が勝つのはいつの時代も同じか 竹崎は少なくとも命を懸けて戦ってる
今の声のデカいだけの無能世襲政治家とかDQNと一緒にするのは失礼だろう まあ無茶ではあるけど、弱者いじめてイキる系のよくあるDQNとは違ったタイプだよね
国防の戦争で多数の侵略者相手に突っ込むってのは >>107
従属した高麗ってかなり色々要求されてなかったっけ
ベトナムも要求の厳しさにキレて反抗して何度も戦争してるし
従った後に何要求されたか、ってことまで考えるとね
当時の北条時宗や鎌倉幕府がどこまで知ってたかわからないけど、
高麗に船で人送って情報集めてた話もあったよね >>35
だから、教育現場で子供を洗脳して革命を起こすって戦略は恐ろしいよ。
表向きはラブ&ピースをアピールしてるけどさ。 >>112
竹崎季長の先駆けは
日本の総大将少弐景資の許可を貰ってやってるから
DQNでもなんでも無い。当時の武士が戦功をあげる常套手段のひとつ
つうか突然押し寄せてきた元軍に対して、日本はまともな布陣も整わないまま各個撃破が始まった時の逸話だし。
ちなみにその後の鳥飼潟の戦いで、日本軍はようやく元軍と真っ向からぶつかり合い、これを駆逐している。 >>115
鎌倉幕府は元と戦争してた南宋とべったりだったのよ。
元の情報入ってきたけど南宋経由だから偏るのよね。 >>29
最初は、にげまどっていただろうから、博多まで攻められたわけだろう。
ただ、さすがに戦のプロ集団だから、すぐに対応策を考える。
小錦登場時の相撲界は、このまま外国人力士に席巻されるんじゃないかって感じだったが、
すぐに対応策を考えて、小錦もそれほど勝てなくなっただろう? >>100
あだちんみたいな脳筋が権勢振るってるんだから
そりゃそうだろ。
カッコイイ絵巻を見せて脳筋をウルウルさせれば
所領ゲットだもんな。 >>118
文永の役のちょっと前に、五回目だったかの使者に
日本からも十人だか二十人だかの使節団を同行させて帰国させたけど、
元はこれを日本が元を偵察しようとしたものだと考えてたらしい
もしそうなら元への直接偵察も行ってたってことだね 壹岐と対馬での高麗軍の行動は北条家も把握してたって話だしそら捕虜は皆殺しになるわな >>119
対馬や壱岐の御家人も壮絶な討ち死にしてんだから
逃げ惑ってなんかいないわ >>106
窮地の所を助けた人がいたりするから、先駆けの目撃証言はありそうだけど、
なんで当初は戦功認められてなかったんだろう? >>124
あだちんに直訴するという後の行動からも分かる通り
組織人としてはちょっと、、、な人だから
軍奉行から嫌われてたんじゃね? >>110
それは気になるけど
この後は南北朝時代、戦国時代ですから
小領主なんて滅ぼされたかどこかの家臣になったかだな。 平安時代に来なくて良かった
平安時代にも刀夷の入寇とかはあったけどさ 元はヨーロッパまで征服したんだよね。
トンデモナイ広範囲で世界最大の帝国になった。
それもユーラシア大陸地続きだっから。
中華から見れば日本は直ぐ傍の距離だけど、版図に出来なかった。
人間は水の中で呼吸が出来ない
空をべないから。
あの時代から現代でも日本に上陸するのは簡単じゃない。
元には日本を支配し続ける見通しがあったのかな?
ただの勢いじゃなかったかな? >>124
先駆けでケガしただけで
元兵を一人も討ち取って無いからだろ
弘安の役では活躍したけどね >>128
ただの勢いにしては、元寇二度、さらにその後も三回目の計画もあったから、
見通しがあったかどうかはわからないけど本気ではあったんじゃないかな
なんでそれまで元と大して縁もなかった日本にそんな本気になったのかしらないけど >>130
南宋人の口減らし、開拓移民目的と思われ
じゃあ、同じパターンで日本人を次にどこへ攻め込ませるのかというと無いんだが
それは次世代に問題先送りと思われ >>131
日本への元寇の後にベトナムとも戦争してるから、
従属か敗北してたら日本兵も参加させられてたかもね >>105
やっぱり高麗王が必死に
日本侵攻をフビライに上奏したからじゃ? >>107
言い出した人の思想や意図は知らないけど、今は
フビライは侵略のつもりはなく友好の使者を送ったのに、
日本がその使者を斬ったから怒って攻め込むことになった、
国書を届けに来た使者をいきなり斬ったDQN時宗、
みたいなデマをものすごくよくみかけるようになった
なお1268年に蒙古国牒状を届けた使者は
半年の滞在後に帰ったことは元の記録にもあるし、
使者斬ったのは1274年の文永の役の後のことなので順番が違う >>125
大なり小なり九州の御家人は恩賞の少なさに不満を持っていた
大活躍した菊池なんかもそう
ただこれらの領地持ってる御家人と違って竹崎は領地も持ってない浪人同然
だから鎌倉まで直訴に行くという強硬手段に出ただけ >>134
んなこと言ったって易々と我が国が元に臣従できるわけないじゃないですか。
卑弥呼の時代とは違うんだから。 馬鹿みたいに名乗りあげて嘲笑われて嬲り殺しされ
てつはうという最新兵器に散々びびって大宰府に逃げ込んで震えていたのが鎌倉武士
日教組の先生が言ってたから間違いないぞ >>135
九州の御家人は私財を使って幕府に奉公したのに
防衛戦だから幕府は新たな領地を得てない
恩賞の原資が無いんだよな。 >>12
記録を残す事は重要なんですね
誰も知らんような肥後の小さな小領主なのに歴史になお残した。 >>139
まぁお褒めの感状は渡してる
あと甲冑とかw
この時代は土地が全てだから何の意味もないけど
結果的には適当に臣従するふりして朝貢しておけばよかったとは思うけどね
朝貢を貿易と言い張ればいいだけでしょ
平清盛も足利義満もそうやって巨万の富を得てるし >>141
相手がモンゴル人だから適当に臣従するふりが通じないよ。 >>101
元寇で日本に負けて恨みを買ったせいで、日本人が倭寇となって沿岸部を荒らしまくり。
南部穀倉地帯からの穀物輸送が大都の生命線だったが、黄河の氾濫で大運河が使えず、
海上輸送に頼れば倭寇や海賊に略奪される。
人口を維持できなくなった元は大都を放棄してモンゴルに引き揚げ遊牧生活に戻ることになった。 >>141
それまでの中国の王朝と、元とでは違うんじゃないか。
元は次々に他国を征服して領土を拡大して、
その戦争には従属した国からも兵が加わってた。
日本への元寇にも高麗の兵士が加わっていたように。
それに高麗の内情を見ると、元から派遣された官吏が横暴だったり、
元寇の時に造船のための大量の木材で国内の木材資源が激減したり、
更には女性、いわゆる貢女というのも求められて、その要求は非常に厳しく、
元寇の兵士の妻になる女性を求められ結婚都監という役所まで作り
140人の女性を捜し出したが、道路には泣き声が響いていた、とか
元から嫁いできた王妃が里帰りする時に、十代半ばの良家の子女を求められ、
晩でも家の寝室にまで入ってきたり、使用人を縛って尋問するような捜索が行われて、
怨みの声と泣き声が響いていた、とか、従属後の苦労や悲惨な話は枚挙に暇がない。 高麗はもっと悲惨で、水軍の統帥府が倭寇に襲撃され5000人の将兵が殺害され軍艦も失ったとか、王が五軍を率いて討伐に向かったが敗れたとか、
首都の京城が3日に渡り包囲されたとか、3000人の住人が連れ去られたとかいう倭寇被害の記事が、
元寇から半世紀後の1350年から1380年の30年間で591回も記録されてる。
倭寇が直接高麗を滅ぼす事はなかったが、倭寇の首領アキバツを討伐した事で軍の実権を握った李成桂が高麗を廃し朝鮮を建国した。
朝鮮や元は壱岐対馬五島の島民に滅ぼされたようなもんだよ。 >>144
当時の朝鮮の惨めな境遇見れば
モンゴルに適当な臣従というのが通用しないのは
アホでもわかるだろ。 朝鮮半島が全域元の支配下で日本からどこに出兵させる気なんだろうね
このスレの間抜けネトウヨさん達ってw
こういう馬鹿ばっかだから権力者は楽だろうな >>144
日本と元は海を隔てて離れてるから実際どうでも元にはわからないってことなら、
離れているといっても使者や軍が(たまに台風にあったりはするけど)到着してるのでわかるように
人の行き来は可能なんだから、元の官吏や使者を日本に送ったり、駐在させて内政干渉することも可能だよ。
高麗では忠宣王の他の妃が、元から嫁いできた王妃ではなく自分を愛するように祈祷した嫌疑がかかった際には、
その妃に苛酷な取り調べをしたのも、妃を元に連行したのも元から派遣された人物だった。
さらには元々高麗人でも、元の宮廷で力を持てば、自国で大きな力を握ることもできるようになって横暴に振舞い、
元から送られたと官吏や使者といっても高麗人も多かったけど、
そういう人物と高麗人や王との間にもトラブルが起きたりしてた。
高麗王の中には、元の使者を出迎えて話しているその最中に、
蹴られて縛られて近習を惨殺され、元に連行され流刑になった(途中死亡した)、なんて王までいる。
(ただし、この忠恵王は非常な暴君で、それが元の宮廷に伝わった結果そうなった) >>144
それと高麗の場合、元に従属した後は歴代の王妃も高麗の皇族、
フビライの娘も当時の高麗王妃になっていて、
王子は元の宮廷で育ち教育を受けたりしてた。
王子が服装や髪形をモンゴル風にして高麗の人々が嘆いた話とか、
嫁いできた王妃は宴の席で王を罵るような振る舞いがあった話とか、
王ですら王妃には逆らえなかったような話がいくつもある。
そういうのは単に従属したってだけではなく、
王が元の皇帝の孫とかの親族、更には育ちも元ということになるし、
文化面など色んな面で影響を受けることになる。
まう日本が従属してたとしても、皇女まで嫁いだとは限らないけど。 >>148
元や南宋の兵士も日本への元寇で出兵してる。
逆にいうなら、日本から出した兵が大陸へ移動することだって
コストはかかるけど可能だよ。
元寇の後も、元と他国との戦争はあった。
もちろん遠方への戦は出兵した兵士に負担はかかるけど、
それは日本に来た兵士だってそうだったし。 >>148
それに従属後でも三別抄の乱で元が高麗に出兵したことがあったように、
従属していても反乱などで元が出兵する可能性は残ってるわけだし。
ちなみに三別抄の件は丁度元寇の少し前のこと。 >>148
高麗史に記録された14世紀後半の倭寇襲撃箇所をプロットするとこうなる。
https://blog-imgs-62-origin..com/s/h/i/shibayan1954/201307022044319a5.jpg
例えば1379年だと、倭寇の規模が載ってるので転載するとこんな感じで高麗史に記録されてる。
1379年 2月 倭寇、高麗の順天、兆陽、珍原等を襲う。
4月 倭寇、高麗の延安府合浦を襲う。
5月 倭寇騎馬700、歩兵2000余で高麗の普州を襲撃。
6月 倭寇、高麗の竜州、密城、彦陽を襲う。
7月 倭寇、高麗の楽安、余美、丹渓、山陰、洞州、威陽などを襲撃。 >>157
地面に流れた血の痕がついてるから血であってるよ。 >>157
馬が後ろ脚けあげている感じの絵だよ 2か所出血で痛かったと思う >>8
それは賠償すべきだよな
韓国の心からの謝罪を望むわ >>69
>最近言われ始めた珍説で「鎌倉幕府が使者を斬ったから戦争が起こった!全部日本のせい!」
>ってのがあるよな
最近言われ始めたといってもネットの中だけじゃ?
本でそう書いてあるものは見ない、というか
「元寇より前に鎌倉幕府が使者を斬った」と書いてあるものは全く見ないから
比較的モンゴルやクビライに好意的な本や、
鎌倉幕府や北条時宗に批判的な本でも、そういうのは見たことがない >>110
幕末の肥後熊本藩に、横井小楠の門弟で竹崎律次郎って人がいるが、系譜は知らない >>144
その元が地政学を理解できてなかったという可能性を排除するなよ。
元軍は日本以東の地勢を把握できておらず
東側に次に攻める大国が無い国というものを理解できてない。
万が一大国が無かったとしても
蝦夷に強制植民させるだろうな。
入植が失敗でも犠牲になるのは日本人で
元は困らん。 >>163
客観的事実に反するから、教科書や資料には無くて
教師が口頭で解説する際にそう言うんだろう。 >>110
ググったら
水城さと子ってモデルが子孫を自称してるけど
そもそも南北朝時代に、すでに竹崎家そのものが行方不明になってるので
多分ウソ 「てつはう」って鉄砲のことだよな?
見た目は完全に手榴弾だが この前NHKでやってた特集では日本側は糞尿を煮たものを元側に投げ込んだりもしたらしいね。 >>168
宋軍が神天雷っていう爆発的兵器を既に使っていたので、それを元軍が使ったのではないだろうか。
威嚇させるための投擲爆弾と言えたが実際にはもっと大きくて敵を爆殺させるための今で言う手榴弾的な見方が強い。
実在大河の北条時宗の中で最初の文永の役の最初の一撃で幕府(日本)軍を吹っ飛ばしてる。 >>170
なぜか南北朝の戦乱ではそういった火器が流行らないよね。
鉄砲の原型となる火器もこの時代には既にあったよな。
(命中精度は悪く散弾専用だが) 歴史の教科書に載ってる絵だよね。
気になってWikipediaで元寇の項目読んでたら2時間経ってたw >>170
>実在大河の北条時宗の中で最初の文永の役の最初の一撃で幕府(日本)軍を吹っ飛ばしてる。
ここが笑うとこか?w
アホか こないだIWJで話に出てた人か
偉かったね〜〜あなたがいなかったら今の日本はないよ
追い払ってくれたからこそその後の日本がある
にもかかわらず、調停は恩賞を与えることをしなかった
命令がなしに勝手に戦ったからだ
ここで恩賞を与える前例を作ると地方地方で勝手に戦いを起こしては手柄をねだる奴が出てくるからね
戦国時代はそんなことから始まったのかもしれない >>166
えっあの与太話って教師が吹聴してるの?
最初の元寇の前の使者の帰還は史料ではっきりしてるから、
信憑性が低いとかいうレベルじゃなくありえないレベルの話だから、
てっきり歴史に詳しくない人が何か誤解した末のことなのかと思ってたんだけど しかし、安達泰盛に会えるかどうかもわからないのに、馬までも売っぱらって徒歩で肥後から鎌倉へ行ったのは半端ねーな
一門の助けも無く、きっとあとに引けない状態での決断だったんだろうな
一介の無足の田舎武士が先駆けの功を一番に書き付けられ、地頭職に補任され馬まで賜った時はどんな気持ちだったのか、後に蒙古襲来絵詞を絵師に描かせた気持ちもわかるような気がする。 お前が勝手に言ってるだけだろ
言われたら終いだしな 日本は弘安の役において台風、神風に助けられたとまことしやかに言われるが、そもそも高麗軍の博多湾への上陸を阻止した段階で、日本の勝利は決定的だったと思う。江南軍が加わったとて同じ事。敵前強襲上陸作戦は必敗の戦術だ。
日本善戦説は良く聞くが、敵前強襲上陸作戦是非論は、あんまり聞いた事がない。 >>117
ちゃんと上の人の許可とってる
独断専行じゃないよ >>182
その300年位後に毛利元就が厳島の陶軍に暴風雨を突いて上陸してるが真正面でなく背後を突いてるからなあ。
敵前上陸作戦は近代でも大戦中のディエップとか大失敗が多い。 >>182 >>185
戦術的にもポカをやっちゃってたのかー
まあ海を越えて攻め込んだ経験がないとわからないことなのかもしれないけど
女真族の刀伊の入寇ももう経験者いないくらい昔だったしなー
確か元は先に金を滅ぼしてるから、元には女真族もいたんだよね
元寇の少し前に日本に二回来た使者も女真族で、
その人は日本人の獰猛さや日本の地形に加えて
海の難しさから日本へ攻め込むのは反対してた
女真族も騎馬民族なのに、この違いはなんだろう >>187
でも本質的な事には触れてなかった。
遠征軍が破傷風や食中毒などに掛かり病人だらけになれば、死人が出るより戦力はダウンする。
殷周戦争の頃から使われてきた残酷な戦術だ。
そういう生物化学兵器のような効果を狙ってやってるのに、番組では笑い話のように扱ってた。 >>188
へ〜
情報戦の方もだけど、そういう戦術と意図について
もっと取り上げて考察して欲しいもんだね >>108
他の人も描かれてるから証言とれるんじゃない?
しかし、やっぱり名乗りが敵にじゃなく味方にアピールだとすると
戦功を強調するためにはそれも重要なことなんだな >>66
最近の研究コピペってソース捜しても見つからなかったけど、あれ本当なの? >>188
そういえば、時宗だったかの元寇が舞台の漫画で、
兵士が病気になってて将軍が不安がってた描写あったなあ あ、大河の「北条時宗」の、原作小説の「時宗」の、漫画化の「時宗」な >>120
安達って脳筋だったん?
元寇の少し後に滅ぼされたんだっけ
その後また一応復興はしたけど 元寇は、蒙古と朝鮮の連合軍で、朝鮮が日本を侵略したものであって、朝鮮軍により日本人多数が虐殺され、日本の国土が蹂躙された事件だと、日本人は子々孫々に伝えてゆくべき。 あの弓の下手だったしー殿か 彼は毒矢うけたけどよく死なずに踏ん張った >>197
毒矢刺さったのか
元の使ってる毒ってなんだったんだろうな >>105
中華は朝鮮より大群で攻めてきたよ
台風で沈んだけど 竹崎季長ってこのあとどうなったの? 子孫は信長の野望に出てる? 教科書は鎌倉武士がボコられてる情けないところだけ切り取って載せてたからな。
後になって全体像がちゃんとあって元軍を追い回してるのとかもあるのがわかった時は愕然としたよ。
よっぽど日本人が誇り持ったり自信持つのがいやなんだな。 竹崎季長が与えられた海東の地頭識って、蒙古襲来絵詞を制作させるだけの財力を蓄えるだけの力があったんだな >>203
当時だといくらくらいかかるんだろうな
腕の良い絵師が描いたっぽいけどやっぱ高いのかな >>202
日本の歴史学会ってどうして反日左翼ばかりなんだろうね?
在日のチョソコもいるし。
やっぱ歴史改竄が目的かな? >>199
その場ですぐに体が痺れたらしいからトリカブトの毒だと思う。
傷口が腐る系の毒じゃない事は確か。 >>101
元寇はモンゴル人あまり死んでないよ。
そもそも、負けても宋や朝鮮の兵隊を処分できるから問題ない。
船は朝鮮が作って元はなんもしてない。
ベトナムで死んだのも宋兵ばかり、沈んだ船も南宋の船で、元はなんもしてない。 >>210
従属した(無理矢理させた)国の戦力を低下させて
元に反乱起こせないようになれば良かったってこと?
日本に来た使者の反対があったのに
それでも無理に遠征したのも最初からそれも目的だったのかなあ
それにしても使者の日本評>>63がひどいw
九州にしか行ってないはずだけど何を見聞きしたのやらw >>206
菊池の分家で別性だけど苗字は菊池より有名だわ
家紋だけ江戸中期に本家と関係無い物に替わってるみたいだけど
言い伝えは「今の阿蘇郡に居る00氏は偽物」って事を何回も説明された 九州最強の熊本人だからもっと崇められてもいいんだが
雑魚の福岡や鹿児島の土人が認めようとしないよな >>213
菊池一族のルーツは京都なんだけどね
北家藤原の警備部門から枝分かれしたのが菊池一族
主の大宰府転勤の折に随行して土着して菊池姓を名乗った >>210
そんな風に参加させた国の兵士がどうなろうと、
どっちにしても元にメリットあるのなら、
やっぱり日本が元に服属した場合でも、
無理な遠征でベトナムとかに行かされてたのかなあ >>214
九州統一をしてる菊池は島津みたいな外様の雑魚を崇めるよりマシだろう さらに菊池の枝分かれで阿蘇氏・山鹿氏・西郷氏ってのが有るが
壇ノ浦や南北朝の後に全国に離散した >>179
田舎の商社の係長〜部長クラスが官房長官に直訴するようなもんだからな。
安達泰盛も、 奇異の強者と驚きあきれながらその根性を認めて厚遇したんだろう。
その恩を忘れていなかった季長が、霜月騒動で安達家に合力出来なかった罪滅ぼしも兼ねてこの大作を作ったと考えれば胸が熱くなるな。
絵巻物といっても、当時は莫大な金を持つ寺社や貴族、高級武士くらいしか作れなかったシロモノだ。
竹崎季長がこの絵巻物を作ったのは、個人でロードショーに耐える映画を作るようなもので、莫大な予算をかけているんだよ。
おかげで、当時の鎌倉武士の合戦模様や、元軍の正確な武装が今の時代に残っている。 竹崎は九州統一した菊池の流れだからそれなりの権力はあっただろう
蒙古襲来絵詞が残ってるのは権力も持ちつつ菊池から逸れてたってのもあるだろうがな >>211
明代の人で日本一鑑って本を書いた冒険家の鄭舜功という人によると、
元寇のしばらく後から倭寇が頻繁に元の沿岸部を襲撃し、元の兵を駆逐し記録出来ないほどの回数、略奪して回ったそうな。
鄭舜功の地元、慶元府も倭寇に蹂躙され街を焼かれてる。
慶元府はその後、寧波と名前を変え今は深センと呼ばれてるが、
明代には、勘合貿易で来てた大友氏と細川氏の手勢が衝突し、
とばっちりを受けてなぜか城に攻め込まれ少なくない犠牲を出した事もある。
凶暴、凶悪で手を出せば底無しの谷を埋めるようなものってのはその通りだと思う。 源平動乱などの国内内戦が沈静化した後の
戦を忘れかけてる世代でも半端ねえ戦闘力だったんだな。 国宝じゃなのか。
皇室御物って国宝に指定できないの? >>223
時宗の父親の世代でも鎌倉武士同士の戦があったから、
まだ老年の武士なら戦の経験者いたんじゃないかな
時宗は執権になった時でも10代後半だっけ
それで大陸からの要求に一歩も引かなかったんだね >>210
おいおい
南宋は元の主要領土になってるんだから、そこが疲弊したら元にとっても大損だろうが >>12
絵巻最後の方で恩賞シーンも収録されてるのに何をどうすり替えてんだよ? >>53
その元3人て江戸以降に描かれたラクガキなんだよね
だからタッチが他と違う
藤子不二雄の漫画に原哲夫のキャラが乱入したというか >>229
盾ごと射殺されてるのやら、盾を背に逃げてるのもいるやん >>226
宋は人口過多だから人間が減るのは構わん。
困るのは農地の疲弊だが、農民は足りてる。 この絵詞が残ったお陰で、幕府が築かせた防塁の様子はわかるし、伊予の河野氏が合戦中は陣中においても烏帽子を被らないとか、鎌倉の安達邸では裸足のまま庭から縁側に上がるとか、当時の面白い習俗がわかってなかなか貴重だ
まあ、季長がてつはうが炸裂する松原を、矢を受けて地を吹き出しながら逆立ちする馬にしがみつき駆ける場面が秀逸すぎる >>223
一般的に応仁の乱以降を戦国時代っていうけど
源平争乱から江戸幕府までずっと戦国といっていいくらい延々日本中で戦ってんだよなあ >>13
とはいえ日本が山だらけの島国で良かったと思う
大陸と陸続きで平野多かったならイチコロだったろうし
やっぱり我々恵まれてるよ >>84
あの船の縁に手を貫いて掲げてた対馬・壱岐の住人って、
捕虜じゃなくて、人肉食の対象で干し肉にしてたんじゃないかという説があるぜ。
だとすれば、ほぼ生きていないから、残酷とも言い難い。 >>234
日本が山が多いことを懸念してた使者は優秀だな
大陸のようには侵攻が上手くいかないとわかってたんだな
クビライも優秀だったはずなんだけど、
使者がちゃんと理由を説明して反対しているし
一度はその意見を容れながら
心変わりして攻めたのは何があったんだろう
他に日本侵攻を勧める声があったとしても、
使者の説明した日本侵攻困難な理由がなくなるわけじゃないのに >>236
山が多いとかそんなレベルじゃないだろ。
壱岐対馬五島という、日本からすれば辺境でしかない住民に、元寇の仕返しとして国土を蹂躙され続けたんだぞ。
倭寇との会戦は歴史的事件で、特に荒山大勝利、望海堝大勝利は、朝鮮や明の建国伝説の一部にまでなってるよ。 蒙古襲来絵詞より
「蒙古兵の心胆を寒からしめた鎌倉武士の重装騎馬弓兵隊」
https://hanoikyudo.files.wordpress.com/2016/07/1280px-tagezaki_suenaga2cekotoba5.jpg
北条時宗政権は何年も前から関東武士を九州に移り住ませ
一人駆けは報酬なしと決めて重装騎馬弓兵隊として訓練していた。
またすべての武器・鎧兜や練度が蒙古兵を遥かに超えていた。
早朝に上陸した蒙古本国の最強部隊は1日の戦闘で蹴散らされ、
次々到着して増える武士達に日暮れを待たずに船に逃げ、
それをまた武士達が小舟で襲った。
舟上の戦いは鎌倉武士による一方的虐殺。
震え上がった蒙古軍は夜明けを待たずに半島目指して遁走。
結果、岸壁にぶつかり座礁し強風に晒されて約1万5千の兵を失った。
わずか1日余の戦い(文永の役)
★蒙古襲来における捏造:よくある質問★ part1
【問】高麗はモンゴルに30年に渡り、根強く抵抗したの?
【答】いいえ。王族が国民放置して逃げ出して、モンゴルに荒らされまくっただけ
【問】元の使者切り捨てた鎌倉幕府は国際感覚が欠如してたの?
【答】いいえ。使者切り捨てたのは文永の後。ついでに言うと他にも使者殺した国は多い
【問】武士達は1人ずつ名乗りを上げてフルボッコにされたの?
【答】いいえ。当時の記録にそんな記述はドコにもない。普通に元が負けました。
【問】神風のおかげで日本は救われたの?
【答】いいえ。神風は撤退途中に吹いただけです
【問】和弓はモンゴル弓に大きく劣ってなの?
【答】いいえ。性能面ではほぼ互角。
【問】殆どが高麗人?
【答】主力部隊は蒙漢人という華北の連中。遼とか金の主力だった奴ら。
【問】元軍率いた武将は無能
【答】いいえ。高麗の武将は無能だったが、元の武将は南宋遠征や三別抄討伐で功績がある。
【問】二回目の遠征の目的は旧南宋兵の棄民
【答】いいえ。他地域では用済みの住民や兵は、基本的に直接皆殺しにしてたモンゴルがそんなまどろっこしい真似するわけがない。
【問】モンゴル人が主力じゃなかったから元は本気じゃなかった?
【答】いいえ。モンゴル人は元々人口少ないから征服民が主力なのは当たり前。
【問】台風のおかげで二度目も助かった
【答】いいえ。台風来る前に勝負はついていました。
【問】高麗の妨害工作やベトナムの反乱のおかげ
【答】いいえ。高麗はノリノリで対馬で大虐殺しました。ベトナムが反乱起こしたのは弘安の役の後
★蒙古襲来における捏造:よくある質問★ part2
【問】でも歴史の教科書にもそうでているけど
【答】「苦戦した日本軍が神風で助かった」とする資料は『八幡愚童訓』だが
これは神社の宣伝のための書物で考証的価値が無い。劣等民族の操り人形がこれを悪用している。
【問】でも元,朝鮮,漢,南連合軍14万がきたらやばくない?
【答】元寇の約50年前承久の乱で北条政権は関東だけで19万を動員した実績が
あります。西日本を合わせれば少なく見ても40万を動員できたはずで
地元に不慣れな外国連合軍14万など一蹴できたと思います。
「未曾有の国難」というのはどうみても大げさです
【問】勝って当然だったんだ
【答】敵の上陸を完全に阻止し2ヶ月間も海上生活を強制。当然やってくる台風を
待って攻撃。完勝です。
【問】敵の評価は?
【答】こんなところです:
「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。
勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。
倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。
地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」(南宋遺臣の鄭思肖) 宮内庁が持っているものは国宝指定できないんだよな
日本書紀なんかは宮内庁が持ってなきゃ確実に国宝だろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています