【熊本】竹崎季長の奮戦鮮やかに くまもと文学・歴史館で「蒙古襲来絵詞」公開
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くまもと文学・歴史館(熊本市中央区)の特別展が1日開幕し、鎌倉時代の「元寇[げんこう]」に参戦した肥後の御家人・竹崎季長[すえなが]の奮戦を描く絵巻「蒙古[もうこ]襲来絵[え]詞[ことば]」が熊本で17年ぶりに公開された。
元寇は、1274年と81年に九州北部沿岸を襲った蒙古(元)軍の侵攻。竹崎が後年、自らの活躍を描かせたのが蒙古襲来絵詞。熊本藩士の大矢野家に伝わり、1890(明治23)年、皇室に献上された。現在は宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵。2001年に熊本県立美術館で公開された。元寇をほぼ同時代に描いた史料として国宝級の価値があるとされる。
絵詞は前巻(長さ約24メートル)と後巻(同約21メートル)に分かれており、縦はいずれも約40センチ。それぞれの前半部分を19日まで、後半は21〜12月17日に展示する。
公開された後巻には、竹崎が肥後の有力御家人・菊池武房とその一族の横を通って出陣する雄姿などが、情景を説明する文章と交互に描かれている。絵は色鮮やかで、武具の模様や装飾が細密に描写されている。
特別展は、国難に直面した先人の奮闘を紹介し、熊本地震からの復興に取り組む県民を勇気づけようと、元寇の研究者として知られる同館の服部英雄館長が発案。陶製の球を爆発させる武器「てつはう」など蒙古軍の遺物や竹崎自筆の書状など、計64点の史料で元寇の実態や後世への影響を考察している。
会場を訪れた熊本市南区の建築士坂井重則さん(70)は「絵詞が色あせていないのに驚いた。これだけの史料が現存するのは奇跡」と話していた。
特別展は12月17日まで。入場無料。
https://i.imgur.com/4qtHGTC.jpg
https://this.kiji.is/430864124722300001?c=92619697908483575 あ、大河の「北条時宗」の、原作小説の「時宗」の、漫画化の「時宗」な >>120
安達って脳筋だったん?
元寇の少し後に滅ぼされたんだっけ
その後また一応復興はしたけど 元寇は、蒙古と朝鮮の連合軍で、朝鮮が日本を侵略したものであって、朝鮮軍により日本人多数が虐殺され、日本の国土が蹂躙された事件だと、日本人は子々孫々に伝えてゆくべき。 あの弓の下手だったしー殿か 彼は毒矢うけたけどよく死なずに踏ん張った >>197
毒矢刺さったのか
元の使ってる毒ってなんだったんだろうな >>105
中華は朝鮮より大群で攻めてきたよ
台風で沈んだけど 竹崎季長ってこのあとどうなったの? 子孫は信長の野望に出てる? 教科書は鎌倉武士がボコられてる情けないところだけ切り取って載せてたからな。
後になって全体像がちゃんとあって元軍を追い回してるのとかもあるのがわかった時は愕然としたよ。
よっぽど日本人が誇り持ったり自信持つのがいやなんだな。 竹崎季長が与えられた海東の地頭識って、蒙古襲来絵詞を制作させるだけの財力を蓄えるだけの力があったんだな >>203
当時だといくらくらいかかるんだろうな
腕の良い絵師が描いたっぽいけどやっぱ高いのかな >>202
日本の歴史学会ってどうして反日左翼ばかりなんだろうね?
在日のチョソコもいるし。
やっぱ歴史改竄が目的かな? >>199
その場ですぐに体が痺れたらしいからトリカブトの毒だと思う。
傷口が腐る系の毒じゃない事は確か。 >>101
元寇はモンゴル人あまり死んでないよ。
そもそも、負けても宋や朝鮮の兵隊を処分できるから問題ない。
船は朝鮮が作って元はなんもしてない。
ベトナムで死んだのも宋兵ばかり、沈んだ船も南宋の船で、元はなんもしてない。 >>210
従属した(無理矢理させた)国の戦力を低下させて
元に反乱起こせないようになれば良かったってこと?
日本に来た使者の反対があったのに
それでも無理に遠征したのも最初からそれも目的だったのかなあ
それにしても使者の日本評>>63がひどいw
九州にしか行ってないはずだけど何を見聞きしたのやらw >>206
菊池の分家で別性だけど苗字は菊池より有名だわ
家紋だけ江戸中期に本家と関係無い物に替わってるみたいだけど
言い伝えは「今の阿蘇郡に居る00氏は偽物」って事を何回も説明された 九州最強の熊本人だからもっと崇められてもいいんだが
雑魚の福岡や鹿児島の土人が認めようとしないよな >>213
菊池一族のルーツは京都なんだけどね
北家藤原の警備部門から枝分かれしたのが菊池一族
主の大宰府転勤の折に随行して土着して菊池姓を名乗った >>210
そんな風に参加させた国の兵士がどうなろうと、
どっちにしても元にメリットあるのなら、
やっぱり日本が元に服属した場合でも、
無理な遠征でベトナムとかに行かされてたのかなあ >>214
九州統一をしてる菊池は島津みたいな外様の雑魚を崇めるよりマシだろう さらに菊池の枝分かれで阿蘇氏・山鹿氏・西郷氏ってのが有るが
壇ノ浦や南北朝の後に全国に離散した >>179
田舎の商社の係長〜部長クラスが官房長官に直訴するようなもんだからな。
安達泰盛も、 奇異の強者と驚きあきれながらその根性を認めて厚遇したんだろう。
その恩を忘れていなかった季長が、霜月騒動で安達家に合力出来なかった罪滅ぼしも兼ねてこの大作を作ったと考えれば胸が熱くなるな。
絵巻物といっても、当時は莫大な金を持つ寺社や貴族、高級武士くらいしか作れなかったシロモノだ。
竹崎季長がこの絵巻物を作ったのは、個人でロードショーに耐える映画を作るようなもので、莫大な予算をかけているんだよ。
おかげで、当時の鎌倉武士の合戦模様や、元軍の正確な武装が今の時代に残っている。 竹崎は九州統一した菊池の流れだからそれなりの権力はあっただろう
蒙古襲来絵詞が残ってるのは権力も持ちつつ菊池から逸れてたってのもあるだろうがな >>211
明代の人で日本一鑑って本を書いた冒険家の鄭舜功という人によると、
元寇のしばらく後から倭寇が頻繁に元の沿岸部を襲撃し、元の兵を駆逐し記録出来ないほどの回数、略奪して回ったそうな。
鄭舜功の地元、慶元府も倭寇に蹂躙され街を焼かれてる。
慶元府はその後、寧波と名前を変え今は深センと呼ばれてるが、
明代には、勘合貿易で来てた大友氏と細川氏の手勢が衝突し、
とばっちりを受けてなぜか城に攻め込まれ少なくない犠牲を出した事もある。
凶暴、凶悪で手を出せば底無しの谷を埋めるようなものってのはその通りだと思う。 源平動乱などの国内内戦が沈静化した後の
戦を忘れかけてる世代でも半端ねえ戦闘力だったんだな。 国宝じゃなのか。
皇室御物って国宝に指定できないの? >>223
時宗の父親の世代でも鎌倉武士同士の戦があったから、
まだ老年の武士なら戦の経験者いたんじゃないかな
時宗は執権になった時でも10代後半だっけ
それで大陸からの要求に一歩も引かなかったんだね >>210
おいおい
南宋は元の主要領土になってるんだから、そこが疲弊したら元にとっても大損だろうが >>12
絵巻最後の方で恩賞シーンも収録されてるのに何をどうすり替えてんだよ? >>53
その元3人て江戸以降に描かれたラクガキなんだよね
だからタッチが他と違う
藤子不二雄の漫画に原哲夫のキャラが乱入したというか >>229
盾ごと射殺されてるのやら、盾を背に逃げてるのもいるやん >>226
宋は人口過多だから人間が減るのは構わん。
困るのは農地の疲弊だが、農民は足りてる。 この絵詞が残ったお陰で、幕府が築かせた防塁の様子はわかるし、伊予の河野氏が合戦中は陣中においても烏帽子を被らないとか、鎌倉の安達邸では裸足のまま庭から縁側に上がるとか、当時の面白い習俗がわかってなかなか貴重だ
まあ、季長がてつはうが炸裂する松原を、矢を受けて地を吹き出しながら逆立ちする馬にしがみつき駆ける場面が秀逸すぎる >>223
一般的に応仁の乱以降を戦国時代っていうけど
源平争乱から江戸幕府までずっと戦国といっていいくらい延々日本中で戦ってんだよなあ >>13
とはいえ日本が山だらけの島国で良かったと思う
大陸と陸続きで平野多かったならイチコロだったろうし
やっぱり我々恵まれてるよ >>84
あの船の縁に手を貫いて掲げてた対馬・壱岐の住人って、
捕虜じゃなくて、人肉食の対象で干し肉にしてたんじゃないかという説があるぜ。
だとすれば、ほぼ生きていないから、残酷とも言い難い。 >>234
日本が山が多いことを懸念してた使者は優秀だな
大陸のようには侵攻が上手くいかないとわかってたんだな
クビライも優秀だったはずなんだけど、
使者がちゃんと理由を説明して反対しているし
一度はその意見を容れながら
心変わりして攻めたのは何があったんだろう
他に日本侵攻を勧める声があったとしても、
使者の説明した日本侵攻困難な理由がなくなるわけじゃないのに >>236
山が多いとかそんなレベルじゃないだろ。
壱岐対馬五島という、日本からすれば辺境でしかない住民に、元寇の仕返しとして国土を蹂躙され続けたんだぞ。
倭寇との会戦は歴史的事件で、特に荒山大勝利、望海堝大勝利は、朝鮮や明の建国伝説の一部にまでなってるよ。 蒙古襲来絵詞より
「蒙古兵の心胆を寒からしめた鎌倉武士の重装騎馬弓兵隊」
https://hanoikyudo.files.wordpress.com/2016/07/1280px-tagezaki_suenaga2cekotoba5.jpg
北条時宗政権は何年も前から関東武士を九州に移り住ませ
一人駆けは報酬なしと決めて重装騎馬弓兵隊として訓練していた。
またすべての武器・鎧兜や練度が蒙古兵を遥かに超えていた。
早朝に上陸した蒙古本国の最強部隊は1日の戦闘で蹴散らされ、
次々到着して増える武士達に日暮れを待たずに船に逃げ、
それをまた武士達が小舟で襲った。
舟上の戦いは鎌倉武士による一方的虐殺。
震え上がった蒙古軍は夜明けを待たずに半島目指して遁走。
結果、岸壁にぶつかり座礁し強風に晒されて約1万5千の兵を失った。
わずか1日余の戦い(文永の役)
★蒙古襲来における捏造:よくある質問★ part1
【問】高麗はモンゴルに30年に渡り、根強く抵抗したの?
【答】いいえ。王族が国民放置して逃げ出して、モンゴルに荒らされまくっただけ
【問】元の使者切り捨てた鎌倉幕府は国際感覚が欠如してたの?
【答】いいえ。使者切り捨てたのは文永の後。ついでに言うと他にも使者殺した国は多い
【問】武士達は1人ずつ名乗りを上げてフルボッコにされたの?
【答】いいえ。当時の記録にそんな記述はドコにもない。普通に元が負けました。
【問】神風のおかげで日本は救われたの?
【答】いいえ。神風は撤退途中に吹いただけです
【問】和弓はモンゴル弓に大きく劣ってなの?
【答】いいえ。性能面ではほぼ互角。
【問】殆どが高麗人?
【答】主力部隊は蒙漢人という華北の連中。遼とか金の主力だった奴ら。
【問】元軍率いた武将は無能
【答】いいえ。高麗の武将は無能だったが、元の武将は南宋遠征や三別抄討伐で功績がある。
【問】二回目の遠征の目的は旧南宋兵の棄民
【答】いいえ。他地域では用済みの住民や兵は、基本的に直接皆殺しにしてたモンゴルがそんなまどろっこしい真似するわけがない。
【問】モンゴル人が主力じゃなかったから元は本気じゃなかった?
【答】いいえ。モンゴル人は元々人口少ないから征服民が主力なのは当たり前。
【問】台風のおかげで二度目も助かった
【答】いいえ。台風来る前に勝負はついていました。
【問】高麗の妨害工作やベトナムの反乱のおかげ
【答】いいえ。高麗はノリノリで対馬で大虐殺しました。ベトナムが反乱起こしたのは弘安の役の後
★蒙古襲来における捏造:よくある質問★ part2
【問】でも歴史の教科書にもそうでているけど
【答】「苦戦した日本軍が神風で助かった」とする資料は『八幡愚童訓』だが
これは神社の宣伝のための書物で考証的価値が無い。劣等民族の操り人形がこれを悪用している。
【問】でも元,朝鮮,漢,南連合軍14万がきたらやばくない?
【答】元寇の約50年前承久の乱で北条政権は関東だけで19万を動員した実績が
あります。西日本を合わせれば少なく見ても40万を動員できたはずで
地元に不慣れな外国連合軍14万など一蹴できたと思います。
「未曾有の国難」というのはどうみても大げさです
【問】勝って当然だったんだ
【答】敵の上陸を完全に阻止し2ヶ月間も海上生活を強制。当然やってくる台風を
待って攻撃。完勝です。
【問】敵の評価は?
【答】こんなところです:
「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。
勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。
倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。
地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」(南宋遺臣の鄭思肖) 宮内庁が持っているものは国宝指定できないんだよな
日本書紀なんかは宮内庁が持ってなきゃ確実に国宝だろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています