【奈良】「ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代」 ヤマト王権、始まりは纒向 橿考研創立80周年記念講演会★2
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奈良県立橿原考古額研究所創立80周年記念の公開講演会で講演する石野博信さん=奈良県橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで、藤原弘撮影
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県立橿原考古学研究所創立80周年記念の公開講演会「古代の王宮をさぐる」が11月25日、橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで開かれた。約530人が参加し、橿考研で発掘調査に長年携わった研究顧問で兵庫県立考古博物館名誉館長の石野博信さんら3人が講演した。【藤原弘】
石野さんのテーマは「ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった」。邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡(桜井市)を巡り、「吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか」と説明した。
石野さんは、纒向遺跡の初期の調査で見つかった土器は、東海、山陰・北陸、河内、吉備の物の順に多く、箸墓古墳(同市)から吉備で見られる葬送儀礼用の土器「特殊器台」が見つかっていることを説明。「大王クラスの墓に吉備の葬儀用器台がある。葬られた人と吉備に強いつながりがある。吉備の人が巨大な墓を作ったことは、大いにあり得る」と話した。
続いて、橿考研特別指導研究員で奈良芸術短大教授の前園実知雄さんが「雄略天皇・泊瀬(はつせ)朝倉宮を求めて」と題して講演し、桜井市の脇本遺跡で携わった発掘調査の成果を紹介。5〜7世紀の掘っ立て柱建物跡などを検出し、「脇本を中心にしたところにまず雄略天皇が宮を築いた。(雄略天皇の)5世紀代の建物跡は一部確認されているが、下にあると思う」と話した。
講演の3人目は、橿考研特別指導研究員で公益財団法人「由良大和古代文化研究協会」業務執行理事の泉森皎(こう)さん。「藤原京の調査」をテーマに、橿考研が歴史的に注目される木簡を見つけたことなどを説明した。
毎日新聞 2018年12月1日
https://mainichi.jp/articles/20181201/ddl/k29/040/481000c?inb=ra
★1:2018/12/04(火) 23:59:00.16
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1543935540/ >>281
千葉の神門古墳群は遅くとも三世紀後半だね。そのころには近畿の鉄器出土量が北九州を超える。
発掘資料から見れば、台与の治世後半にはヤマト王権が千葉から北九州まで勢力を広げていたことになる。
邪馬台国が九州ならまさしくヤマト王権に滅ぼされる寸前の地方政権だったことになるし、近畿ならちょうど版図を広げている最中のヤマト王権。 よくわからないんだけど魏志倭人伝で水行1月陸行1月と2月も移動した先に邪馬台国があるんじゃないの?
九州だったら2月もかからなくね? 邪馬台国の時代、北九州と奈良の二か所に、周辺土器の流通中心地があった。
つまり大きな国が二か所あった。
銅鐸文化国と、銅矛文化国の二か所だろう。
その後、奈良の銅鐸文化は破壊され、北九州の銅矛文化に統一された。
邪馬台国が成長して、奈良を占領したかどうかは分からないが、
九州勢力が奈良を占領したのは間違いない。
おれは、邪馬台国卑弥呼の孫が分かれて、宮崎に国を作り、それが」巨大化して、
本国も奈良も征服したんじゃないかとおもうんだが。
後に歴史を書く時、邪馬台国時代を神話にして、本当のことを書いてある文書を全部焼却した。
しかし、読むほうは、高上原時代は、北九州時代の話、と知っていたと思うな。 >>364
その魏志倭人伝のところって、それまでの文体から急に、魏志云〜になるのよね。
偽女王を語ったのか何にせよ、大和王権との繋がりが見えないよね。 歴史は勝者によって作られる 巫女は敗者側になったということ >>373
そこはどの説も何とも言えない部分。
方向が南で正しいなら九州、南は東の間違いであるなら機内。
学校ではそう習ったはずだが。
急に表記方法が変化しているので、後世で追記された可能性もある。
ちなみに高速なヨットで九州一周するのに1ヶ月以上かかるそうだ。
当時の舟がどれほどの速度が出せたんだろうね? >>377
まぁせやね。
九州邪馬台国は敗者の側だったんだろう。
そもそも奈良は邪馬台国が温暖な土地だという時点でありえんのよ。
盆地特有の夏暑く冬寒い。
唐子も纏向も行ったこともあるし、規模もすごいところだとは思う。
が、邪馬台国とは別勢力だったんだと思う。
奈良と大阪の境目、葛城の西に二上山と言う山がある。
今でも石器の材料になるサヌカイトが取れる山。
ここを抜けると大阪富田林。
ちょっと西に行けば海。
機内は本州各地との人物の交流で古くから栄えていたのは間違いないし
日本海側から来訪も普通にあったんだろう。
栄えていたが邪馬台国ではない。
一奈良県民の考察 どうも記紀の古代一連の外交記録も怪しい。
聖徳太子自体近畿には存在しない。
そもそも古代外交を行ってたのは倭国であり
倭国は大陸地図にも見られる様に明確に本州日本と九州倭国とに分けられている。
大陸史書に残る多利思比孤以来の大王勢力は五王年間も通し九州倭国の記録なのが正解だろう。 そりゃヤマト王権は奈良盆地で纏向からで良いだろうが、2世紀位の倭国は九州中心でしょ。
卑弥呼天照で倭国大乱収まり後に神武東征で近畿まで服属、で何の問題もないでしょ、神話は当然史実をそれなりに反映するものだろうし。 >>373
九州説は基本伊都国放射説を採らんと苦しい所はあるだろうな。
ただし、畿内説にも水行1月陸行1月と2月も移動したのに1300里という苦しさもある。 だから、奈良でも九州でもないって。その中間の出雲、現島根が起源だっての。 女王国の入り口まで12,000里
宮崎鹿児島の投馬国まで12,000里
そこから船で10日、歩いて1か月 >>378
当時の船は竜骨の無い小さな平底船と考えられてる
3世紀は帆の概念すら無かったようだ
海での速力は遅いがコロで陸に上がり河川を引っ張って遡ることが出来る
ロープで両側を引っ張り山越えも出来たらしい
利点は河川があれば内陸部まで土器に入れた物資を運搬出来たこと
馬や牛のいない時代この能力は大きかったと思う
畿内から東海の物資や日本海側丹波経由の物資はこれで運搬されたと見ている
箸墓の周壕も運河と繋がっていて物資運搬が盛んだった
何しろ陸地は畦道程度で街道が無かっただろうからね 日本書紀をもっと読もう
神功皇后時代でも首都は奈良県と山口県と福岡県にあった
景行天皇時代も天皇は九州に遠征に出て数年間九州に滞在していた
1年や二年ではないのだよ
彼らは北から南いろいろな地域に出かけていた
神功皇后は三韓征伐で朝鮮半島にまで出兵して自ら朝鮮半島に赴いている
また朝鮮半島に出生したのは遠くは関東の勢力もある
そして九州で刀剣が数多く発掘されるのも偶然ではない
三韓征伐がそれを物語っている
そもそもそれ以前の神武天皇は九州出身だし
日本書紀はどんな妄想より真実に近い >>152
未だに邪馬台=大和ということすら認められない奴が沢山いるからな >>379
箸墓古墳の石材は二上山から切り出されたんだっけ?
しかしその後の古墳時代の石材として、何故か阿蘇石が使われている。
熊本の宇土のあたりで切り出されたものらしい。
狗奴国が畿内勢力に発展したという説も、有りじゃないのかなと思う。 >>386
舟を引きずる話は邪馬台国関係なく、聞いたことあるよ。
「船越」という地名の由来だとか。
全国各地にあるはず。 >>388
ウィキペディアの卑弥呼の項目
出身:邪馬台国纏向
陵墓:箸墓古墳
卑弥呼の絵つかて、こう派手派手に編集して、発掘成果まるで無しだったんで、
瞬殺デマとして削除になったよね 俺は九州人だけど、流石に学会の動向や発掘成果をガン無視した九州説論者と一緒にされたくないわ
近畿パーとか連呼したり自演繰り返してるキチガイw 半島を蹂躙していた4世紀大和朝廷軍がどんなもんだったんだろうな
前燕後燕の圧力を受ける高句麗を攻めるという隙のなさ
最後負けちゃったけど >>380
斑鳩の法隆寺や大阪の四天王寺は置いてけぼり?
そもそも遣隋使、遣唐使はどこから?
小野妹子は一体誰の書簡を持っていったの? >>381
それが、この時代を境に鏡の配布元が畿内に移動してるんだよな
>>394
いやいや、九州人だからってお前らみたいな馬鹿と一緒にされたら困るw 日本書紀は九州倭国の歴史でもある
日の本と言ったのが九州倭国王
九州倭国滅亡したのでごまかすために捏造歴史作った 奈良の都の歴史を1千年前からあるように
ごまかす歴史を作ったのがペテン師軍団 ヤマト王権って神武天皇?
2600年以上前ではないの? 天武天皇の皇子達は、卑弥呼をも彷彿とさせる”神功皇后”という女傑キャラを創作することで
崇神〜仲哀の九州王国(所謂邪馬台国)の歴史と応神以降のヤマト王権の歴史を見事に接続させたつもりだったんだろうが・・・・
神武〜開化は600年ほど歴史を伸ばすためのでっち上げだけどね。 >>392
纏向遺跡の発掘成果
銅鏡、刀剣類、勾玉な、鉄製品などが出土していないなど年代を決定する決定的な出土物は乏しく、
ここに邪馬台国であったと決定的なことは言えない。
日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が
盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた
物が多い。また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、
祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。
また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、
九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。
「この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される」 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭しうるはし
これって奈良県には何もなかったって言ってるよねwwww
未開国奈良wwww 千葉県の神門古墳群は
記紀の鹿島香取の神が千葉に来た事と関係あるのかないのか
場所的には鹿島香取とはちょっと離れてるから
在地豪族がヤマト王権傘下にという事だろうか >>396
平壌近くまで行ったようだから、
朝鮮戦争の米軍みたいなもんだな。
そう見ると、敗因はどうも同盟の百済軍が怪しい。
責任放棄して逃げたか?後々のバランスで倭軍をわざと孤立敗北させたか? >>396
古墳の埴輪からある程度軍勢を推察出来るかも >>389
ピンク石がありがたがられたんじゃないかな?
二上山のサヌカイトは切れ味のいい石器には使えるけど、装飾性はないからね。
普段の日常としてはサヌカイトがメリットもあり、畿内での生活の後押しにはなったと思う。
化粧石として日本各地の色々な物が流通する程度には、奈良には人の交流があったんでしょう。
まぁ神戸に墓石でお馴染みの御影石もあったんだし、もっと探せば近場に良いものがあったのにとは思う。 畿内の古墳の阿蘇石は、王族が何か九州に由来があったんだろう。そもそもヤマト王権の有力豪族は九州が出の豪族がずらりと並んでいる 学界ガー
教科書ガー
wwww
橿原考古学研究所によって、
完全にはしごを外された畿内説の断末魔www まったく宇宙戦艦になったり宅配になったりヤマトも忙しいな 邪馬台の鍵は筑紫王朝、磐井以前を調べるべきなんだろうな。
はっきり言って纏向や近畿の弥生遺跡を調べたところで邪馬台に繋がる痕跡は出てこないだろう。
そもそも魏志の時代近畿に外交できる程の文化は存在しないしそれ以降の朝貢も対応できる特使が根ざした環境にも思えない。 >>409
九州人が瀬戸内海を東征して行って、どん詰まりをちょっと進んだ所に素敵な地形があったのでそこを王権定住の地に決めたんだろうな。 実は高千穂出身で宮崎の狗奴国が北部九州の
邪馬台国連合を占領し朝倉の夜須に滞在
後に東遷し畿内の豪族大物主を破り出雲に祀った
その後大和朝廷となり現在に至る
これ豆な 魏志の時代開拓途上の近畿においては単に九州倭国の王権荘園地だっただけだろ。 >>398
芸のないなりすましやな
つまらんからNGリスト行き >>413
最近の研究では吉備がかなり関係しているようなので、九州ともゆかりのある吉備勢力が初期ヤマト王権成立に関わったということかもしれな
そうすると神武東征伝説の通りなんだよな >>414
確かに宮崎は怪しいと思う
地理的に瀬戸内海が近いからね
昔から瀬戸内海に進出してたようで遺跡から瀬戸内海沿岸産と思われる土器が見つかってる
九州北部の勢力よりも瀬戸内海から近畿にかけての地理に詳しかったかも >>418
西都原なんかをみると明白だが、九州東部はヤマト王権の成立に早くから関係していると思われる
どっちにしろ九州や瀬戸内海の勢力が同盟し、国内が安定したから朝鮮半島で倭国が荒ぶってるw >>421
最近は、あの時代の歴史が色々疑問視されてるな >>409
阿蘇石ってピンク色なのよ。
石棺に綺麗な石を使うのに、遠方から取り寄せるのは今と同じ。
糸魚川のヒスイが装飾に使われてるからって、新潟の王権がやってきた証拠だとは言わんでしょ?
少し過剰というか期待し過ぎなんじゃないかな? >>401
ヤマト王権って単なる村長じゃなく、周辺諸国を束ねた状態を意味してんじゃないかな。
神武即位は日本書紀通り2600年以上前じゃないなら、2千数十年前くらいと思ってるかな。 倭国大乱〜神功皇后まで九州北部は一大卒(吉備と遠賀川上流の物部)の支配下だろう
九州南部は隼人を支配下に置いたミミ族の投馬国 九州北部の邪馬台国は瀬戸内ルートで東征を試みたが失敗。
九州南部の狗奴国は宮崎→四国→紀伊半島のルートで東征して成功した。
これをまとめて神武東征と呼ぼうかw
しかし、中国とお近づきになりたくて半島を攻めるなら分かるけど、東征の目的は何なんだろう? >>424
神武東征そんな大昔じゃないよ
鉄が国産化されてからの地の時代
6世紀前後だよ。 >>426
卑弥呼の古墳近くの三輪山に大神神社がある
大神といえば、九州大神が祖
すでに九州北部も東征してる >>428
それだととんでもない加速をしないと奈良時代とぶつかるかと。
古墳作って場合じゃなくなるやん! >>402
いや崇神〜天智が歴史を伸ばすためのでっち上げだろう
神武〜開化の直ぐ後くらいに天武が繋がるんだよ。 >>428
色んな学者が神武即位年を250-300年に推定していたね
史実と仮定してね 近畿説の人は神武東征とどう折り合いをつけてるんだ?
近畿説って同時に「邪馬台国がヤマト朝廷になった」説だし
そうすると神武東征が行われた後に神武天皇の子孫を卑弥呼にするしかなくね?
それでいいの? ゴッドハンドによるインチキ年代測定にインチキ鏡が畿内説の根拠 >>429
畿内には九州由来の神が色々祭られているな
安曇がらみの住吉はもちろん、八幡宮やら宗像やら
街道が未整備な時代は海運がメインだったんだからまぁ当たり前かもしれんが 魏が
「親魏〇王」という称号を与えたのはたった2ヵ国だけ
「親魏倭王」を与えた邪馬台国と
「親魏大月氏王」を与えた大月氏国だけ
邪馬台国はそれだけ外交力を持ったはっきりとした国といえる
九州か畿内かは別として纏向程度ではないはずだよ >>426
日向って土地がやせてるとかいう話だから、畿内の噂を聞きつけて新天地を求めたんじゃないの? 日向に関して明らかに大和と関係あるのは諸県君だな
あと、「国前国造、志賀穴穂朝吉備臣と同祖」とある通り、宇佐は吉備と同族 >>428
なんか、奈良県における銅鐸出土数が1世紀かそこらあたりから
激減するとか読んだことあると思うんで、それと合致してるなあと思うけどな。
あと、神功皇后の三韓征伐と好太王碑に書かれてる事柄の年代が結構合うし。 >>442
しかし新天地というわりに奈良の農産物は現代でも貧相だよ?
九州の方がよっぽど豊かだと思うけどねえ。 人口が今の10分の1よりちょっと少ないくらいだから
当時の畿内の農業生産でも十分だったとは思う >>445
九州は最近でこそ穀倉地帯だが、基本は山ばっかりだからなぁ
薩摩とか南部は火山土壌だし、有明海沿岸は長年の干拓のおかげで今の平地がある
でも、つい最近まで高潮に悩まされていたな >>445
まだあまり人が住み着いてない平野って意味での新天地ね。
ヨーロッパ人がアメリカ大陸へ新天地求めて行ったようなもんかな。
船団で行くなら神武軍なんてせいぜい百人程度だと思うから、
それで制圧できるくらいの人しか住んでなかったと推測する。 西都原やらその周辺には結構な古墳群があるし
宮崎中部から南部にかけて、生産力は結構あったんじゃないの
今じゃど田舎だが 産めや増やせやしてたらどうしても食料が不足してくだろうからな。 >>426
半島は帥升の時に漢への体制入りしてるから、
交易と資源の権益確保はできてる。
神武の東征を言うなら、正統は卑弥呼姉弟じゃなく、おいらが大将だ!だよ。
卑弥呼姉弟は出雲・安芸勢力の擁立でいいと思う。 >>445
なんで奈良だったんだろうね。
海の幸と山の幸が採れて、山が天然の要塞にはなるけど
やっぱりもっと昔からの人の行き来があった都合上かなぁ
他にも同じような条件の土地はいっぱいあったと思うけど
なぜ奈良だったのか?は謎だね。
日本書紀によれば、先に饒速日命が土着してる美味しい土地があるから行ってみよう。ってノリで書いてあるけど。 瀬戸内はもう人が住んでるから、その先を目指しただけだと思うけど。 奈良は唐古・鍵遺跡といい、大きな集落があったから当然それらがベースだろう
但し、大陸から新たに大量の渡来人も入っているから、それだけのキャパがあったと思われる 皇族って昔は顔が濃かったんだよね
古代南九州人の血が濃いから?まさかね…
色々あって昭和天皇からは薄くなってるけど >>444
ちょうどそのころ、北部九州を中心に配布されていた銅鏡が畿内中心に遷移している
中心が移った原因が何なのかはわからんが
日本列島における中国鏡の分配システムの変革と画期
ttps://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185011.pdf >>453
>なんで奈良
仁徳天皇陵・応神天皇陵がほぼ同緯度で在るでしょ、
更に真東向くと生駒山地と葛城金剛山地を分断するように大和川が流れていて
川沿いにのぼっていけば唐古・鍵遺跡の当たりに辿り着くわけだから自然に奈良に行き着くんじゃない? >>457
弥生時代と古墳時代の境界辺りで遷移したという話なら、
邪馬台国と狗奴国の戦争に大和も援軍を送ったことをきっかけに
交流が始まった可能性等を今のところは考えてるかな。 >>461
隋じゃなく中国の王朝になる前の唐に送ったんだって話があったように思うけど、
それじゃダメなの? >>457
銅鏡は翡翠の話と一緒で、当時の流行としては参考にはなるが、政権がどうとかまで連想するのはどうかと思う。
史書や記紀の中で、ある条件下において鏡を配布したとか、権力者の墓には鏡を副葬したとか書いてあれば、考慮する余地もあるけど。 卑弥呼→男王擁立→内乱→台与
この間に何が起きたのだろうか?
男王とは誰なのだろうか?
布留がキーを握っているかもしれない。
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものかな。
石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル
なぜ布留社の【太刀】何だろうか?
太刀は本来誰かに使われるものだからなぁ
ニギハヤヒはどうなってしまったんだろう
切られたカグツチの血が湯津石村に落ちて生まれた神、甕速日、樋速日、建御雷。
饒速日とどういう関係があるのか?
卑弥呼亡き後の男王は吉備系の饒速日だろう
台与の時代、纒向遺跡から吉備系の土器が消えていく
神武東征神話は、2世紀末の卑弥呼を共立した勢力、尾張山陰吉備によるヤマト征伐と
卑弥呼亡き後男王の時代の内乱を合一してできたんだろう >>460
男王(奴国?)が代々治めていたが、倭国大乱の後、諸国の王が合議した末、畿内に女王を共立したのだろう
但し、記紀にも天皇の行幸の記録があるから、大王や女王が北部九州に滞在していたかもしれない >>460 の続き
あと、金属器系の遷移に出雲との関係の変化とかも要因になる可能性があると思うかな。 ヤマトは山の門です
今の奈良県大和市は無関係です
ヤマトは北九州の豪族 >>465
そうなると、狗奴国の設定が難しくなるな。 魏志倭人伝当時の、邪馬台国の南の狗奴国
ヤマトの南の、南河内と和泉だな たぶん、熊野を紀伊半島に封じ込めときたかったから、
河内と伊勢はガッチリ抑えてたと思うけどな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています