【奈良】「ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代」 ヤマト王権、始まりは纒向 橿考研創立80周年記念講演会★2
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奈良県立橿原考古額研究所創立80周年記念の公開講演会で講演する石野博信さん=奈良県橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで、藤原弘撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/12/01/20181201oog00m010061000p/9.jpg
県立橿原考古学研究所創立80周年記念の公開講演会「古代の王宮をさぐる」が11月25日、橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで開かれた。約530人が参加し、橿考研で発掘調査に長年携わった研究顧問で兵庫県立考古博物館名誉館長の石野博信さんら3人が講演した。【藤原弘】
石野さんのテーマは「ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった」。邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡(桜井市)を巡り、「吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか」と説明した。
石野さんは、纒向遺跡の初期の調査で見つかった土器は、東海、山陰・北陸、河内、吉備の物の順に多く、箸墓古墳(同市)から吉備で見られる葬送儀礼用の土器「特殊器台」が見つかっていることを説明。「大王クラスの墓に吉備の葬儀用器台がある。葬られた人と吉備に強いつながりがある。吉備の人が巨大な墓を作ったことは、大いにあり得る」と話した。
続いて、橿考研特別指導研究員で奈良芸術短大教授の前園実知雄さんが「雄略天皇・泊瀬(はつせ)朝倉宮を求めて」と題して講演し、桜井市の脇本遺跡で携わった発掘調査の成果を紹介。5〜7世紀の掘っ立て柱建物跡などを検出し、「脇本を中心にしたところにまず雄略天皇が宮を築いた。(雄略天皇の)5世紀代の建物跡は一部確認されているが、下にあると思う」と話した。
講演の3人目は、橿考研特別指導研究員で公益財団法人「由良大和古代文化研究協会」業務執行理事の泉森皎(こう)さん。「藤原京の調査」をテーマに、橿考研が歴史的に注目される木簡を見つけたことなどを説明した。
毎日新聞 2018年12月1日
https://mainichi.jp/articles/20181201/ddl/k29/040/481000c?inb=ra
★1:2018/12/04(火) 23:59:00.16
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1543935540/ >>595
邪馬台国の時代の纏向周辺ですら非常に農耕の痕跡が少なくて
水運で外部から持ち込んでたろうと考えられてる場所だよ
その800年ほど前にそこで水田開発があったとでも?
大阪港沿岸ならまた別だけど >>597
唐古遺跡とかがあるけど
奈良の橿原の北部に 畿内が強くなるのは5世紀に大阪干拓を終えて人口が増えだす頃からだろけど
神武天皇から始まる歴史が畿内にあっても変じゃない >>542 「臺」は広東語でトーイと訛って発音する。
古代日本語にオイやアイなんていう二重母音はなかったけど
魏や帯方郡などの使者が倭人の発音を聴き取って母音の音色重視で
「臺」という漢字の音を当て字した。
「台」をタイと読むようになったのは魏志倭人伝執筆後北方騎馬民族が
中原に侵入し西晋が滅亡してからの読み方。
中原に居た漢人は華中や華南に難民となって逃げ延びた。
だから華南の福建や広州のほうが北京など北部の支那語より古い発音を残している。
「君が代」の中に「さざれ 石の」と2語のように6音の字余りで発音してるが
万葉集の「信濃なる、千曲の川の、さざれ石(し)も、君し踏みてば、玉と拾はむ」という和歌を朗唱する時は
信濃奈流 知具麻能河泊能 左射礼思母 伎弥之布美弖婆 多麻等比呂波牟
原文の「左射礼思母」が漢字五文字であるように仮名文字5文字で「さざれしも」と発音する。
君が代も「さざれしの」と五文字で発音すれば字余りにならない。 >>597
奈良の飛鳥は 今ではもはや もうすっかり田畑なんだけどなあ 邪馬台国と大和の音が似てるから大和政権は邪馬台国から続いていると考えるのは短略的
坂本龍馬の海援隊と武田鉄矢の海援隊を一緒くたにするようなもの 纏向って邪馬台国はもちろん、ヤマト王権の遺跡でもない気がする。 >>603
でも否定もできないだろ
邪馬台なんていかにも字の意味は無視して
音だけで漢字当てはめてる
沖縄や北海道の地名と同じ 纏向遺跡の主な出土遺物(Wikipediaより抜粋)
●絹製の巾着袋 しかし絹が畿内で生産されるようになったのは4世紀以降である。
●木製鏃
銅鏡、刀剣類、勾玉、鉄製品などが出土していないなど年代を決定する決定的な出土物は乏しく、ここに邪馬台国であったと決定的なことは言えない。
外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。 >>605
武田鉄矢みたいに卑弥呼=天照大神にあやかってつけただけ
邪馬台国から続いているなら日本書紀に書かせてるだろ 邪馬台国=北九州ヒミコONLY というのは狭義にも過ぎる
中国語の邪馬台というのは ヤマト語のヤマトに対する当て字でもある 琉球王国に尚氏パターンもあるな
魏志倭人伝に邪馬台とあるぐらい中国や朝鮮半島ではネームバリューがある
奈良の人間が北九州の邪馬台の名を
そのまま引き継いで大和にした
琉球王国の尚氏は途中クーデターで
赤の他人が乗っ取っている
でも中国に対してそのまま尚氏ということにした 1神武 ハツクニシラススメラミコト(天下) 橿原 磐余 弥生初期 日本国建国神話
10崇神 ハツクニシラススメラミコト(クニ 国) 磐余 巻向 3世紀・4世紀 北九州ヒミコ 邪馬台国 魏志倭人伝
11垂仁 磐余 巻向 五十鈴川の畔に伊勢神宮を立てさせられる
12景行 磐余 巻向
21雄略 5世紀後半 大和朝倉 伊勢神宮外宮設営 吉野ヶ里遺跡の出土物(Wikipediaより抜粋
多数の土器、石器、青銅器、鉄器、木器が出土している。勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、布製品などの装飾品や祭祀に用いられるものなどがある。
出土した遺構や出土品には、九州北部をはじめとした日本各地のものと共通・類似した特徴を持ったものが見られるほか、中国大陸、朝鮮半島、南西諸島ともさまざまな面で共通性・類似性が見られる。
出土した重要文化財
細形銅剣(内一口把頭飾付)5口
銅把頭飾 1箇
ガラス管玉 79箇
銅鏡 残欠共7面分
細形銅剣残欠 1口
細形銅矛鋳型残欠 1箇
細形銅剣鋳型残欠 2箇
巴形銅器鋳型残欠 1箇
銅器鋳型残欠 1箇
錫塊 1箇 >>601
明日香は欽明天皇の時代に稲目が天皇領地として接収したんだよ
邪馬台国の時代はただの荒地だよ >>571
日本は饒速日が自分らの国をそう呼んだんだろ 都は誰も住んでないような荒地に作るんだよ。
住んでた人追い出してたら暴動がおこるだろ >>605
否定できるよ
元々は奈良盆地の東南地域の名前が広がったわけだから
ニューヨークのようによその地名を使ったのかもね
今は元のヨークより大きくなった で、畿内説はなにか新しい物的証拠は見つかったのかね? >>578
可能性はあっても説得力が不十分。
邪馬台国が今の福岡佐賀あたりを傘下に置いてたのは確実なので、
まず畿内勢力がそこまで伸張していたことを説明しなくてはならない。
ただ「奈良に大きな都がありました」だけではいけない。 邪馬台国じゃなくて大和朝廷が纏向にあったって話でしょ ヤマトだから邪馬台国なのに九州とか言ってるやつはおかしい 問題はなぜ日本書紀に魏への朝貢の事が書いてないかだなあ
崇神の時にはミナマから朝貢があったことまで記されているのに
こちらが朝貢したことは隠したかったのか? ヤマト王権は それが邪馬台国なのかどうかについては特段意識はしない >>619
祖廟だからねぇ
冠婚葬祭や進学とかの挨拶に今でもチョコチョコ詣でられてるよ。
まあその度に周辺の警備が物凄いことになるけどw
毎年初詣に行ってるけど、良いところだよ ヤマト王権は 日本国の起源である
邪馬台国という呼称に特にこだわりはない >>621
令制国名は政治的意図があるから、あてにならん ソフトバンクが朝鮮学校に携帯配って工作活動させてるってマジだったんだな。 >>628
それって山田花子より桐谷美玲の方がかわいいっていうのと同じくらい
常識の域 昨日は東京のソフトバンクがシステム障害だったらしいが 筑紫の君 磐井は九州倭国王家系で
反乱起こしたのが南九州 本州豪族
古墳で埋葬者特定できるのは磐井くらいしかないだと
明治以降特定したのはインチキだと 昨日の東京のソフトバンクのシステム障害は修正されましたか >>598
唐古遺跡はわかるけど水田の年代が紀元前660年まで遡るの?
逆に教えて欲しい
>>601
今は農耕技術も水田開発も古代とは段違いだからな
そしてド田舎だし >>616
ええと、九州北部の地名が奈良を中心とする全国の地名に
似ているという説があるんですが、この場合元々の地名は
九州北部にあったと考えるほうが妥当だと思う。ちゃんと
ヤマトもありますしね。 >>604
自分もそう思う
そして現実は古事記や日本書紀より激動でドラマチックだったはず
記紀は藤原氏が成立させたものだし色々藤原流になってるはずだ そもそも、ヒミコの時代以降、東遷する意味がないんだよな
稲作導入期ならともかく
東から西へ、国譲りしていったんだろうよ
ヤマト(奈良)→出雲→北九州→朝鮮
倭国大乱
その後、また、半島から逃げてきたけど >>637
弥生時代の奈良には鉄の武器どころか青銅の武器もほとんどなかったんだから、最初の出雲すら征服は無理
返り討ちにあう >>612
吉野ヶ里遺跡からは倭人伝にあるような
楼観を描いた絵入り土器など出土してない。
奈良県田原本町の唐子鍵遺跡からのパクリ。
柱の穴が発掘されても上部構造はどんなものか分らないからな。
吉野ヶ里遺跡をテーマパークとして整備する際
ttp://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=31
>2-1建物等調査
>個々の建物を復元するために、全国の縄文〜古墳時代の遺跡で見つかった建物遺構や
>当時の人々が残した絵などの資料の調査、当時の建築技術に関する調査や建築のための
>道具の調査、さらに建築以外の関連する施設などの調査を行いました。
唐子鍵遺跡から出土した土器の
楼閣の線刻画の画像を提供してもらってアレンジした捏造www >>640
弥生時代の奈良の人たちは銅鐸作ったり土器に絵を描いたり牧歌的な生活をしてたんだね 大型建物跡からの天皇の宮の方角と距離
10代 崇神天皇 桜井市金屋 南南東3km
11代 垂仁天皇 桜井市穴師 東1km
12代 景行天皇 桜井市穴師 東1km 晩年大津市 >更に男王を立つ。国中服さず。
>更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。
>復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。
>国中遂に定まる。
247年にきた張政らが説得役やアドバイザーとして
景行天皇の九州巡幸に同行したんじゃね
それで一応おさまった
>壱与は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、
>張政等が帰るのを送らせた。
266年張政らが帰って
270年に西晋が北方の鮮卑の反乱からの五胡十六国で
朝貢に行けなくなった >>592
>紀元前660年の春2月11日
紀元前660年は支那の辛酉革命説にちなんだもの。
辛酉 (かのととり) の年には大きな社会変革が起るという説。
神武紀元を『日本書紀』で辛酉と定めたのもこの説によるもので,
天智天皇の即位も 661年の辛酉歳。
「春2月11日」は紀元前660年の旧正月元日を西暦に換算した日付。
何から何までヤラセっぽい『日本書紀』 >正始八年(247)、帯方郡太守の王?が着任した。
>倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、
>倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。
>塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、
>檄文をつくり、これを告げて諭した。
>張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。
檄=公文書
張政ずっと伊都国にいてヤマトに来てない可能性 唐古鍵でもなく、纒向でもなく、大和の原型はコレだと判明している。
日本海→滋賀→奈良ルートの渡来人な。
【考古学】渡来人、100年早く奈良に移住か 最古級の建物跡発見[11/29]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1543749183/ >>643
景行天皇がそのころ暴れてるから倭国乱れると関係ありそう
大和朝廷が攻めてきて混乱したんで九州の小国をまとめて対抗しましたとか 景行天皇の九州巡幸のとき
糸島市にいた張政らと合流して九州各地をまわったんじゃね
合流したのは福岡県京都郡かな
そして大分、宮崎、熊本とまわって福岡県うきは市が最後
そこから張政らは糸島市にお帰りいただいて
のちに帰国してもらった >>588
確かに。邪馬台国がどこにあるかはおいておいて、考古学的物証からこの時代の原始ヤマト王権の姿を考えるのが正しい姿勢だと思うんだけどな
記紀にも天皇が九州に行幸したりもがりをした記録があるんだから、九州から何か出てきてもおかしくないし >>639
百済との関係が、奈良の覇権を確立させたんだろうな。
半島で百済が南下して、鉄の産地を押さえたんだろうよ。
それで、奈良が一気に優勢に。 畿内説はさ、大和王権はあったかもしれないが史書と整合する出土品が出ない限り、安易に邪馬台国と名乗るべきじゃ無いんだよ。
桃の種や埴輪や東海との交流などはどの史書にも書いて無いだろ?
記紀にすら書いて無いものを掘り出してさ、邪馬台国がどうたらと語ってるのを外から見てみろよ。
ボケ老人にしか見えないぞ。 >>647
3世紀頭の倭国大乱で、邪馬台が権力なき権威に落ちて、
卑弥呼の死後、再興を掛けたが、また負けた。
倭国大乱以降、覇権を握ったのは、出雲か、奈良か。
そこだな。 最近の調査では畿内の王権に吉備が大きく関わっている
吉備は宇佐など九州東部との関係が強いから、間接的に九州が関わっていた可能性はある
九州にはかなり早い段階で前方後円墳が出現しているしね >>641
唐子鍵遺跡からは高さ80cmぐらいの
銅鐸の鋳型が出土してるよ
銅鐸の縦の寸法を短くしたのはアルプスの少女ハイジに
出てくるような羊の首に掛ける鐘だな。
もちろん石の鏃の出てるし、唐古鍵考古学ミュージアムには
銅の鏃を復元したのも展示してる。
戦争用の鏃は狩猟用の鏃より大きいと説明パネルに書いてあった。
弥生中期末には洪水で井戸に砂が流れ込んで埋まってしまったとさ。 >>645
オマイラは原文を読まずに
現代語訳したヤツラの主観先入観がタップリはいっ
た文章読んでるのかwwwww
ちっとは漢文読む勉強もしろよ。 >>618
何度か書いてるけど、3世紀後半に鉄の量が近畿>九州になる。急激に逆転するんで、この時期にヤマト王権が北九州を傘下におさめた可能性が高い。
記録に残る台与の最後の朝貢が247年。この直後数十年。
邪馬台国自体はどこかわからないけど、もし九州ならヤマト王権入りする前の一地方のクニいうことになるし、近畿ならヤマト王権そのものってことになる。 裴世清が大和に行って「ここが魏志の云う邪馬台国」と断言してる時点で
大和が邪馬台国なのは間違いないんだよな
300年時代が違うって言うけど、今は無くなってる資料も見てるし
魏志倭人伝の原本を見てるかもしれない
人々の記憶も残ってる。どういう経緯でそこに都ができたとかも分かってるよ
お前らも先祖が江戸時代にどこにいて何をしてたかくらい知ってるだろ
記録じゃなくて家族から口伝えで聞いてるよな >>657
邪馬台国は畿内と気候が違いすぎるので、九州なんじゃないかなぁと思う。
ただ邪馬台国を九州の特に福岡や筑紫平野に置く場合、倭国の範囲が九州から出れない程小さくなる。
魏志倭人伝では漢の時代には倭国で100程の国があったが、魏の時代に交流があるのは30国ほどとある。
帯方郡の役人が海を渡り、九州に上陸してから邪馬台国が登場するまで末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国
の6つの国が出てくる。
筑紫平野に6つの国
九州上陸までの狗邪韓国、対海国、一大国を合わせて9国
北九州説が放射読みを推奨してるのもあって、逆に卑弥呼の支配地域を小さくしてしまう。
魏志倭人伝で言うところの女王国が倭国内の30国で福岡佐賀止まり。
九州中南部が女王国に従わない倭国エリア
本州四国は倭種
卑弥呼が魏に朝見したのも、倭国内で弱小国だったから、権威が欲しかったからと見たほうがいいね。 >>659
>卑弥呼が魏に朝見した
オマイは「朝見」の意味が判ってないだろ。
倭人伝のどこに「卑弥呼が魏へ渡った」と書いてるんだ
ちゃんとレスしろよ 魏志倭人伝の邪馬台国と倭国って
4世紀のヤマト王権から類推するには
小さいし、乱れすぎてるんだな
近畿説、九州説どっちもあると思うんだが
九州説だとすると壱与の後、早々にヤマト王権に滅ぼされるな どこにあったかはロマン
それはともかく、箸墓は発掘するべきである >>649
まったく。文字資料が限られる以上、発掘資料から予断なしに変化を追っていくべきなのに、こと邪馬台国が関わると宗教紛争じみた言い争いになるのは建設的じゃないよね。
>>659
もちろん倭人伝は一級の資料だけど、矛盾や意味不明な点も多く、聖典のように扱うべきじゃないと思うよ。
書かれてる風俗風習にしても、それが倭国全体のものとは限らないし。わりと情報が多かった北九州のものが書かれただけかもしれない。
たとえば秋田を訪れた外国人が「日本人はきりたんぽというものを食べる」と書いた場合、それを読んだ別の外国人は
日本全土できりたんぽが日常的に食べられてると感じる可能性がある。でも実際は違うよね。倭人伝は話半分、あるいは話5分の1くらいで読むべきかと。 >>660
あー完璧に書き間違いだね。
そんなに怒らんでも(´・ω・`) まあ古代のロマンとして邪馬台国を論じる楽しみがあっていいとは思うんだけどね。
狂気じみた主張や、異なる意見を持つ人への中傷とか、発掘資料の無視とか否定とか、そこまでする意味がよくわからんわ。たかが歴史の一ページなのに。 >>663
まずは文献の条件を満たすことが最低条件だよな?
そして不足分を他の出土品における考古学的視点で探る。
畿内説は最初から文献を軽んじて結果を推測し、出土品をその推測に関連付けるという手法。
この手法は学術的にあり得ない手法なんだよ。
聞かされる方も苦笑するしかない。
それに気付かない畿内説を九州説がバカにしてるわけだが。 公孫度の勢力拡大や、呉と大和の関係など、
出土品の類似点などから、
その関係を探る必要があるだろう。 >>657
何回もデマを書きこむなよw
3世紀後半になっても畿内で鉄なんか出ないよ
畿内で鉄が増えるのは鉄が国産化された後。 >>666
そういう九州説とか畿内説とかどうでもいいよ。
>>668
下の説明書き部分ね。もちろん巻向型古墳の編年が正しいのかって点に関しては議論の余地があるけど。
https://i.imgur.com/GigYlml.jpg >>639
鉄や青銅に夢見すぎ
防具まで金属製だったのならともかく、少量の金属じゃ大差ないよ
弓矢の方がよほど攻撃力が高いし、高い所から石を使った方が有利
鉄がある程度まとまって生産できるようになったのは、中世から
金属は、祭祀や贈答に使った方が有効だよ
あと、最初に征服されたのは、ヤマト(奈良)ね
尾張と吉備によって 年代比定は難しい。C14もこの時代のは比率が数十年に渡って一定だから
較正曲線を用いても年代の絞り混みが出来ないし
日本の較正曲線は数十年古く見積もっている可能性も示唆されてるし
だから桃の種も範囲が広い
それはともかく、箸墓は発掘するべきである 磐井の君が北部九州で独立した地位を保っていた事を考えると、
大和政権とは同盟関係を結んでいたと考えられる。 >>574
僕は、阿蘇のカルデラか熊本平野か筑紫平野にある国の王族の次男坊か三男坊辺りが
弥生中期に家族と従者を連れて日向の地にやって来たんだと思ってるけどな。 >>670
そりゃ不思議にも思うよ
鉄の武器もない、青銅の武器もない
なら何で戦ってたのだろうと
纏向から出てきたのは石の鏃どころか木の鏃だし
銅鐸を作る技術があったのに何故それで武器を作らなかったのだろうと
不思議にも思いますよ >>659
>邪馬台国は畿内と気候が違いすぎるので、九州なんじゃないかなぁと思う。
邪馬台国は九州と気候が違いすぎるので、九州でないことは確実だよな >>671
箸墓を掘ったら卑弥呼の墓と言えなくなるから掘らないだろうね。
あんな所に100人の殉葬者が眠ってるとは思えん。 >>669
逆転なんかしてない、未だ九州の4分の1くらいだなw
この図、畿内で奈良だけ増えてるのおかしくない? >>677
この時代の殉葬だと、久留米の祇園山古墳なんかはそれに近いかも
真ん中の丘の中央に埋葬された主体部の裾の周りに
甕棺やら石棺が60基以上埋葬されてたりする
年代比定も、幾つかの石棺を除けば近い年代で埋葬された可能性が高く
殉葬の可能性を残してたりする
ただ主体部が石棺しか残ってないので、誰が埋葬されたかが判らないけど ちなみに3世紀末頃に南海トラフ地震が起きている。
畿内政権は崩壊状態だったであろうよ。
そこに新たな渡来人が流入し、改めて政権を立てたのかもしれない。 >>679
今のところ卑弥呼の墓は祇園山だと思ってる。
大きさ以外は納得できるよね。 >>677
箸墓については、殉葬者が出るかどうかはともかく、纒向遺跡にかなり関わる人物の墓だし
なにがしかの発見があるんでは、て思う
卑弥呼の墓かと言われるとかなり微妙だけど >>657
>近畿ならヤマト王権そのものってことになる
それも学術的には十分に説明されてるとはいえないんじゃないか。
卑弥呼の時代の後に畿内勢力が一度九州を征服したが、
その勢力は滅んで五世紀ころにヤマト王権が再統一したのかもしれない。
この場合も邪馬台国がヤマトとは言えなくなる。 >>681
可能性はそれなりにある気はする
主体部の下から何か出てこないかなあ、、 >>671
まあ年代観は研究の蓄積を待つしかないね。
>>675
それでも寺澤によると3世紀後半、遅くとも4世紀前半には、鉄に関しては近畿>北九州になる。わずか30年ほどで。
いずれにせよ、近畿の勢力、巻向型を作った存在が突然に現れたように見えるのは謎ではある。吉備の東征を唱える意見があるけども。
>>678
相当数の研究者はそう主張してるよ。寺澤とか岸本とか。研究者の言うことは信用できないって立場なら、もう信仰みたいなものだから、説得する気はないけど。 邪馬台国がやまたいこくなら
台与(とよ・いよ)はたいよって呼べよな
とは思うけどね
結局やまとに直さないのは九州説があるからだろうけど >>676
九州の方が奈良よりは温かいんじゃない?
奈良は寒いよ?雪は全部周りの山が弾いてくれるから振らないんだけど、その代わり空寒いし底冷えする。 箸墓古墳を掘れば日本の古代史は間違いなく動くだろうね
良くも悪くも畿内説の可能性を大きく左右する >>651
>畿内説はさ、大和王権はあったかもしれないが史書と整合する出土品が出ない限り、安易に邪馬台国と名乗るべきじゃ無いんだよ。
文献に書かれていない出土品を証拠にしてはいけないと誰がどういう理由で決めた?
そのくせ、おまえは4世紀後半に渡来人が移住したとみられる遺構が見つかったことを根拠に
大和は渡来人が作ったと断定してる
そんなことどこの文献にも書いてないぞ
文献に書かれてない出土品は無効じゃないのか?
しかも年代もずっと後であり、大和の一部の場所で見つかっただけのものを、拡大解釈してこじつけている
おまえには矛盾という概念がないのか? >>606
そもそも畿内からは二級品の副葬品しかないんだよな >>687
程度の差でしかないよ
奈良も九州も文献に書かれている気候とはかけ離れてる
1mmもかすらない >>647
僕は今のところ、その頃は孝元・開花天皇辺りで、
駐大和出雲大使が天皇のコネで日向と通じ、天皇家の知らない所で
いろいろ九州で工作活動してたんじゃないかなと推測してるけどな。 邪馬台国がどこにあったにせよ北九州はない
奈良か南九州か出雲か他かはともかく、北九州だと魏書の移動日数が完全に嘘になる 邪馬台国と大和国
http://aya-uranai.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-29c7.html
邪馬台国の「台」は「と」とも読むらしい。卑弥呼の後継者の名前は台与(とよ)だ。
多分、邪馬台国は大和国になったんじゃないか?
というか、当て字が違うだけで同じ国じゃないか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています