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【奈良】「ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代」 ヤマト王権、始まりは纒向 橿考研創立80周年記念講演会★3
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0001樽悶 ★
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2018/12/07(金) 21:31:05.93ID:CAP_USER9
奈良県立橿原考古額研究所創立80周年記念の公開講演会で講演する石野博信さん=奈良県橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで、藤原弘撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/12/01/20181201oog00m010061000p/9.jpg

 県立橿原考古学研究所創立80周年記念の公開講演会「古代の王宮をさぐる」が11月25日、橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで開かれた。約530人が参加し、橿考研で発掘調査に長年携わった研究顧問で兵庫県立考古博物館名誉館長の石野博信さんら3人が講演した。【藤原弘】

 石野さんのテーマは「ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった」。邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡(桜井市)を巡り、「吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか」と説明した。

 石野さんは、纒向遺跡の初期の調査で見つかった土器は、東海、山陰・北陸、河内、吉備の物の順に多く、箸墓古墳(同市)から吉備で見られる葬送儀礼用の土器「特殊器台」が見つかっていることを説明。「大王クラスの墓に吉備の葬儀用器台がある。葬られた人と吉備に強いつながりがある。吉備の人が巨大な墓を作ったことは、大いにあり得る」と話した。

 続いて、橿考研特別指導研究員で奈良芸術短大教授の前園実知雄さんが「雄略天皇・泊瀬(はつせ)朝倉宮を求めて」と題して講演し、桜井市の脇本遺跡で携わった発掘調査の成果を紹介。5〜7世紀の掘っ立て柱建物跡などを検出し、「脇本を中心にしたところにまず雄略天皇が宮を築いた。(雄略天皇の)5世紀代の建物跡は一部確認されているが、下にあると思う」と話した。

 講演の3人目は、橿考研特別指導研究員で公益財団法人「由良大和古代文化研究協会」業務執行理事の泉森皎(こう)さん。「藤原京の調査」をテーマに、橿考研が歴史的に注目される木簡を見つけたことなどを説明した。

毎日新聞 2018年12月1日
https://mainichi.jp/articles/20181201/ddl/k29/040/481000c?inb=ra

★1:2018/12/04(火) 23:59:00.16
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1544004795/
0279名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:02:08.71ID:NAtYmIkC0
>>265
邪靡堆=邪馬台国 in 九州じゃないの?
0282名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:06:28.41ID:IYVuboko0
纒向起源説は自分の知る限りでは30年以上前から複数の有識者から指摘されてた話で
今更特筆性のあることでもないような
0283名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:07:35.09ID:qcXlAoRy0
2世紀後半に卑弥呼になったのは百襲姫で
212年までに死んだけどまだ生きてることにして
247年と248年の日食で死んだことにしたんじゃないか
男子一人しか会わないし
0284名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:08:24.71ID:cIQncukI0
>>12
>そこから唐津市街地方面に向かうとだいたい南の方向
>唐津市街地から糸島市方面に向かうとだいたい東方向

これを何度も何度も書いてる人がいるけど、質の悪いごまかしだよな
唐津市街地から東に行っても背振山塊の南にしか行けない

そこから「北」に行かないと怡土郡の三雲遺跡群には行けない

呼子上陸説は南東にするためのインチキに過ぎないし、そのまま船で行った方が楽
0285名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:08:49.06ID:oQCf5X1z0
長すぎる文章の人はもうちょっと推敲しましょう
3行とはいわんがせめて10行には抑えましょう
0286名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:11:20.26ID:qcXlAoRy0
卑弥呼が生きてることにして一番得するのはヤマトの国王かな
卑弥呼の名前を使って連合国に命令できる
0287名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:11:24.90ID:QcVl5Giw0
まあ普通に大陸史書読めば分かるが
近畿は正当倭王朝を乗っ取ったクーデター政権であったのが分かる。
壹与以降戦乱が勃発し、別れた勢力が紀州に九州をそのまま模倣した国を作り、卑弥呼からなる女王の歴史を都合のいい神話に置き換えて近畿で擁立した男王に繋げさも一系であるかの如く系図を偽装した。
事実を知る磐井は石像で近畿政権の真実を残そうとしたが消されたんだろ。
0288名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:12:40.25ID:y6R9DFVPO
>>265
隋書も魏史より三百年以上あとに編纂されたものだし、
今わかることよりそう多くを知っていたことはないだろう。
権隋使の使者が自分の国をヤマトって言ったんでそう思っただけかもしれない。
0289名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:14:05.42ID:Q70sjD2i0
>>243
邪馬台国の朝貢は九州中南部の勢力に押されてた、九州北部の女王国連合が
魏の権威を借りるための施策だったんだろうね。

立地的に大陸への玄関口を抑え、最先端の物は入ってくるが
南九州は熊襲や隼人と武力では圧倒的に勝る。

地力で勝てないから権威に頼ったんだろうけど
結局なんの役にも立たずに滅亡したんだよ。
0290名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:14:19.39ID:uYyK1Jin0
だからさ邪馬台国はヤマト国だろ学者共は馬鹿しかいねーのな(笑)
0291名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:15:41.30ID:3KXR779r0
ヒミコの時代に比定される箸墓古墳 ホケノ山古墳
付近には第10代崇神天皇陵や第12代景行天皇陵
奈良のJR桜井線の巻向駅あたりだ
日本が倭とされた邪馬台国の時代にも 奈良のヤマト政権の存在が窺える
0292名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:17:07.29ID:Gz9ChZaU0
なんで突然無関係なのがって思ったら、ああそういうw
日本国紀とか買ってそうw
0293名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:21:41.01ID:JWHBigBa0
>>277
いや、その216年というやたらと正確な年はどこから湧いてできてきたんだよ
0294名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:25:55.63ID:GO/wrNDw0
>>279
倭人伝の地名やなんやらは(個人的には九州の方が辻褄合うけど)日本の隅々まで
書かれてあるわけじゃないのは九州説、近畿説双方に同意できる事だからね

つまり邪馬台国 in 九州 かもしれないしヤマ(タイと発音されてないが便宜上タイ)国は
九州+もっと広く祀りごとの中心は珍説の出雲かもしれないし近畿だったかもしれない
倭人伝の記述から邪馬台国の統治範囲や首都の位置を確定する事自体ナンセンスなんだよ
0295名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:26:20.94ID:bZPRs+BM0
殉葬の状況を調べてみると面白いかもな
古代日本では殉葬はどのような状況だったのか
九州の殉葬の状態、年代、近畿の殉葬の状態、年代、箸墓の状態、年代
卑弥呼の墓なら100人規模の殉葬が見つかるだろう
0296名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:27:43.17ID:aRMCtFxU0
宇佐神宮と箸墓を発掘して比較調査すれば明らかになるよ。
物質的な考古学をやらなきゃ、文字情報だけをこねくり回したところで
後100年経ってもこの時代は空白のままだ。
0297名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:28:53.67ID:iI50YNnB0
>>284
三雲遺跡への道順と方角ではなく
伊都国への道順と方角だからじゃないかな?

日本からアメリカの方向はだいたい東だけど
グアムなら南東だし
アラスカなら北東だ

昔の地図はそれほど正確じゃないだろ
0298名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:31:13.82ID:xnL/esTW0
ここまでヤマト神帝、ヤマト爆神無し。
0299名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:31:34.76ID:/RSceyLh0
上記の中国史における日本の王統についての記載から

アメノタリシヒコ=用明天皇
用明天皇=当時の光孝天皇に連なる人物

とある

この系譜は日本側の記録を参照しつつも「タリシヒコ=用明天皇」の部分については日本側の記載を無視して独自の記録に基づいて記載している
なので中国は日本の情報に影響されることなく日本の現代の皇統が隋の時代の皇統と継続したものであると理解しているのが分かる

そしてこれが明らかになると言う事は「邪馬台国=大和」であるという冒頭の記載がそのままの意味であると分かる
この場所については双方が使節を往来させている上に、その後も使節が行き来しているので認識に誤りがあるとは考え難い
0300名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:33:24.87ID:GO/wrNDw0
>>295
卑弥呼の墓は直径約150mの円墳だよ
九州説を唱える一部の人がその大きさを否定してもっと小さいと主張
してるがはっきり言ってこれはトンデモ説で耳を傾ける価値すらない

でその円墳が後に前方後円墳に改修された可能性などはあっても全く
跡形もなくこの世から消滅したってのはナンセンスだから現存する墳墓の
円の中心を全部年代測定すれば確定するかもね
0301名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:36:36.17ID:vfPV8v/t0
>>284
>そこから「北」に行かないと怡土郡の三雲遺跡群には行けない

魏志倭人伝の行程は国の端に着けば至と記述されてる
呼子や名護屋浦は末廬国の北の端であり
到伊都國も伊都国の中心地に着いたのではなく末廬国と伊都国の国境線に着いたんだよ。
0302名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:44:17.86ID:cIQncukI0
>>45
>>・邪馬台国が倭国の盟主の国
>強国ではないから代表になれる

これ、いろんなスレで同じ人が書いてるけど、
邪馬台国は七萬餘戸の倭国で最大の国なんだがな

畿内説を魏志倭人伝無視とか否定してるとか、批判するくせに、
自説に都合の悪いところは平気で謎解釈でごまかそうとする

こういうところが九州説信者とか九州説カルトとか言われる所以
0304名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:45:22.06ID:iI50YNnB0
>>302
>邪馬台国は七萬餘戸の倭国で最大の国なんだがな
有七万戸じゃなくて
可七万戸な

有と可の違いを勉強してね
0305名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:50:08.92ID:cIQncukI0
>>56
>女王国までの戸数や道のりは詳しく記載できる、って言ってんだから

いや、書いてあるのは「其戸數道里可得略載」
略載であって、詳しくは書いてない

「東南至」奴國「百里」。官曰[凹/儿]馬觚、副曰卑奴母離。「有二萬餘戸」。
「南至」投馬國「水行二十日」。官曰彌彌、副曰彌彌那利。「可五萬餘戸」。

この程度だよ
ちなみに日数表記も「道里」の記載方法として普通の表現
里数じゃなくて日数だから道里じゃないというのはあたらない
0306名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:50:17.23ID:iI50YNnB0
有七万戸
可七万戸

有と可の違いは置いといて

それだけの数を誰がどうやって数えたのだろうね
戸籍のようなものが当時からあるとしたら
おそらく文字を書いてるはずだよね

しかし文字が無い
0307名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:52:54.79ID:U4TTyBDH0
>>303
宇佐神宮も怪しいよね
古墳の上に神社建てるケースってちょいちょいあるみたいだし
0309名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:58:12.36ID:NAtYmIkC0
>>289
隋の時代まで続いてた可能性は高いと思うけどな。
ただ、その頃には大和との関係は敵対関係ではないが、
立場はかなり劣勢になってたと思うけど。
0310名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:59:13.69ID:iI50YNnB0
>>307
だよね
俺は、方角と距離日数だけで考えたら宮崎だろうと思ってるけど、
全体的に考えたら宇佐じゃないかなと思ってる

和気清麻呂が、わざわざ宇佐までお告げを聞きに来ている
伊勢神宮でもいいのにね、近いし

当時の天皇家にとって
宇佐神宮は伊勢神宮より重要だったという事じゃないのかな?
ただ、このように書くと宇佐神宮の中の人と天皇家は繋がりがあるように捉えられるかもしれないけど
国譲りみたいな、今の天皇家とは直接のつながりは無いんじゃないかとも考えてる
0311名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 14:59:31.29ID:cIQncukI0
>>58
>倭人伝の内容がどうしたら矛盾が無くなるか考えて読んでるの。

「史料の限界」を認めず、現実の地理を魏志倭人伝の記述に合うように詭弁を考えるというのは
建設的じゃない

短里説がその最たるもの
短里を使う人がどこにもいないし、短里を使う理由がどこにもない

陳寿の意図として、司馬懿に功績を顕彰するためにという「動機」ならある
東夷最遠国を距離を誇張することでさらに遠くにすることで、大月氏を朝貢させた曹真に
並ぶ功績とする動機のために、距離が盛ってあるんだよ

短里なんてない
0312名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:00:39.55ID:bZPRs+BM0
垂仁天皇が殉死を廃止して埴輪にしたのなら
卑弥呼はそれより前か無関係かどっちかだろうな
0313名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:01:20.46ID:Kp6a8d4E0
ヤマト王権って地方豪族を片っ端から鬼だの妖怪だの扱いして滅ぼして回った悪魔だろ?
その子孫がお前らってわけだ
そりゃ凶悪ジャップとか言われるわな
0314名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:01:40.50ID:iI50YNnB0
>>311
>「史料の限界」を認めず、現実の地理を魏志倭人伝の記述に合うように詭弁を考える
短里もそうかもしれないけど
東や南なのに北上する畿内説の事だね


>距離が盛ってあるんだよ
多分そうじゃないかなと考えてる
0315名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:06:37.11ID:/RSceyLh0
考古学、史書的な記載を見ると大和の政権には大きな画期がある

定型化前と定型化後

定型化前の大和の邪馬台国の統治は、まだ各地に多少の個性が残り、中央から広まる規格もそこまで強固な物ではない
その統治はまだ比較的緩やかな物だったろうと思われる
この時期がおそらく卑弥呼と台与の時代と考えられる

定型化後になると全国的に大和の強い優位性が発揮される形が見えてくる
史書の天皇をそのまま充てるのは不可能であろうが事績的にはこの辺りが崇神天皇以降の時代と考えられる

この時代は分けて考えないと実像が見えてこない
0316名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:06:53.19ID:iI50YNnB0
今日は一部の畿内説のアホが暴れてないのでスレの伸びがゆっくりだ
他人のレスをよく読む時間があっていいね
0317名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:10:33.46ID:cIQncukI0
>>118
>この有鉤銅釧の分布を見ると

その有鉤銅釧は魏志倭人伝のどこに書かれているんだい?w
0318名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:11:06.34ID:u0hrol+I0
>>270
九州派は
>北界有大山為限 山外即毛人之國
北にある「大山」や
山のアナアナ彼方の毛人の国は
何処だと以為ってるんだ
0319名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:12:11.63ID:R3UlFUhI0
あの時代に現地の人間に案内されて移動してるんだから
距離や方角はあてにならない。特に方角は無理
ただ日数は正確に数えられるよ
日数間違えるなんてありえる?
0320名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:14:05.63ID:JWHBigBa0
>>308
そのくらいの頃ってまだ年代が定かじゃないんだよねえ。垂仁天皇だって
在位99年140歳で崩御してるみたいだし。
0322名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:16:28.30ID:iI50YNnB0
>>319
方角は他人に聞かなくても自分である程度は分かるんじゃないかな?
太陽見れば、北か南かはだいたい分かると思う
0323名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:18:22.45ID:JWHBigBa0
>>318
まず方角は左右45°、つまり北なら北西から北東までの90°内を意味すると考える。
そうすると九州北部からは出雲くらいまでが北に含まれてしまうのである。
0324名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:18:38.60ID:R3UlFUhI0
無理だよ
時計ないんだよ
0325名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:19:32.38ID:cIQncukI0
>>172
>古墳時代の終わりころに政情がめまぐるしく変化した痕跡があり、
>古墳を作らない動きが逆に畿内から地方に広がってるよね。

単に権力誇示のモニュメントが、巨大墳丘墓から巨大寺院に変わっただけだよ
初期の大寺院の塔の基壇に舞納された文物は後期古墳の副葬品と同じ品目になってる
0326名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:21:11.35ID:iI50YNnB0
>>324
大体わかればいいんだよ
太陽が存在する方向は絶対に北ではない
朝方太陽が見えるのが東
夕方太陽が見えるのは西
0327名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:21:33.64ID:IYVuboko0
書き残した陳寿本人はともかく
よくわからない当時の田舎の無名国のことをそれほど正確に
役人が述懐できてたのかという疑問が
0328名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:21:37.77ID:JWHBigBa0
>>318
ついでにわたしは宇佐説なので、ちゃんと北に山口県があります。
0329名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:22:29.06ID:bGBH6BfS0
卑弥呼さんが大和朝廷の関係者なら記紀に乗ってるはずだ
別に中国と関係のあった国だけが勝ち残った理屈はない
0331名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:29:04.87ID:cIQncukI0
>>212
>東に別種の倭人ありがこの畿内だよ

別種なんて魏志倭人伝のどこにも書いてないんだがw
九州説は旧唐書の或いはの記述に頼りすぎ

魏志倭人伝に書いてあるのは「皆倭種」だ
渡海千里の前も渡海千里の国も「皆倭種」と書いてあるだけ

帯方東南大海上の島にいるのは皆倭種という大陸側の認識が書いてある
0332名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:30:05.38ID:/RSceyLh0
古墳の終焉については緩やかな変遷をたどっているのが分かる

ちょうど氏姓制度の成立や律令制の導入などで「視覚的な権力の誇示」と言う方法を必要としなくなったことが背景と考えられる
制度の浸透の遅い地方では多少の差異が生じるがこれも中央からの統治が強くなるごとに同様の道をたどるようになる
畿内の巨大古墳も欽明天皇を境に終焉に向かい、その頃から律令が採用され時期的にも合致する

律令と仏教を国の根幹と考えた天智天皇の薄葬令などにもその思想が読み取れる

仏教が広まりだすとそれまで墓碑を掲げないのが普通だった古墳でも墓碑を伴うものが現れ、代わりに寺院が建てられるなどの変化が読み取れる
0333名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:30:42.59ID:FvywOh8+0
>>310
道鏡事件で宇佐神宮に問い合わせた時に先祖にお伺いを立てるといっていたような
0334名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:33:11.30ID:R3UlFUhI0
>>326
地図作りに来たわけじゃないし、方角なんて気にしてない
1箇所にとどまって半日かけないとはかれないから

会稽東冶の東にあるとか、その他の史書も方角は滅茶苦茶だからね
0335名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:35:29.03ID:L1JNP4iS0
>>299
また出没してる!
〜分かる、というオジサン
0336名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:37:46.17ID:/RSceyLh0
宇佐については定型化後の古墳が出現するまでこれと言った中心地と言う性格を持たない

むしろ、定型化後に大和の大和朝廷に服属してから九州の瀬戸内海側の玄関口として地位を得た様子が見える
邪馬台国のような中心性を見出すことは出来ない
0337名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:37:57.24ID:NAtYmIkC0
>>318
それは日本の東界北界じゃないの?
0338名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:40:01.40ID:/RSceyLh0
宇佐は神夏磯姫の伝説で景行天皇に征討される土地の一つとして現れる

そして古墳もちょうど卑弥呼の後の時代に作られだすことから、
この伝説が史実としてそれなりの信憑性を持つことが分かる

宇佐が重要視されるようになるのはこれ以降
0339名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 15:40:55.96ID:QcVl5Giw0
隋書の時代近畿は秦王國だろ。
秦氏といえば治水技術を持つ開拓集団、大王の命で派遣された蘇我氏の近畿豪族統一政策に推古と聖徳太子が置かれ、天は九州。多利思比孤はまだ九州を拠点にしており
日が出る近畿では弟に政務を執らせてた蘇我聖徳太子と推古政権に二分割されてたんだろ
大和は邪馬台領として第二の大陸型都市を築くための開拓地だったんだよ。
0340名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 15:41:36.66ID:cIQncukI0
>>256
投馬国は出雲だよ

投馬の上古音はdug-mag
雑にカタカナで書けば「ヅマ」
出雲の最初の母音のイが弱声化して聞き取られなければィ「ヅモ」だから
聞き慣れない外国語地名の音訳としては十分に近い

出雲・投馬国の範囲は丹波以西の日本海側、四隅突出墓の分布範囲とみれば、
有ではなく可五萬餘戸なのも理解しやすいし、投馬国一国しかなくて国がスカスカと
いうのもあたらない

投馬国を出雲と見れば、魏志倭人伝の旅程はほぼ無理なくそのままで読める

北部九州から水行20日で出雲
そこからさらに水行10日で丹波
丹波から陸行1月で奈良盆地で矛盾がない
0342名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 15:44:38.64ID:NmLfN+mw0
>>92
おまえさあ、何バカなこといってんの?
ボロ負けも何も、トヨは卑弥呼の宗女って書いてるじゃん。

邪馬台国は、談合政権が都を置いた場所と書いてある。
独立の勢力だったとはどこにも書いてない。
お話を作るなら、自分で読者を見つけてそこでやれ
0343名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 15:51:45.56ID:/RSceyLh0
日中韓それぞれの史書と、考古学的な発見から考えてみても、
弥生時代後期後半から大和に成立した勢力がそのまま全国的な政権として大和朝廷になったと言う方向に問題はない

むしろ近年の考古学的な成果によって記紀等の信憑性が高まっている
年代においては雄略天皇前後の時代からはほぼ実年代であると言う事も分かっている

そうなると古墳と大和朝廷の関係が明らかとなり、その前の時代から継続されるその発展過程から淵源が弥生時代後期後半の時代にまでさかのぼることが出来る
この事から大和朝廷=邪馬台国として段階的に発展してきたことが分かる

今となっては大和以外の土地に中心地を見出すことなどまず不可能だと言える
0344名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:52:12.20ID:xeZIUUSl0
>>340
出雲という説もあれば但馬という説もあるな
もっとも、白石太一郎氏なんかは墓制が違うから出雲は別勢力と言っているが
0345名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:53:16.98ID:REpavlnp0
>>343
最後の2文だけ飛躍してるで
0346名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:53:48.08ID:NmLfN+mw0
>>85
それだな。
諸国の王が連立政権を作って女王を共立した。
どこかの一国が従えたわけじゃない。

各地の王はそれぞれの地元をそのまま支配している。
卑弥呼が死んだあとの争いは、中央政権の権力争い。
トヨが卑弥呼の宗女となっていることから明らか。
卑弥呼の一族ではない母を持つ王が男王になろうとして拒否されたか抵抗された。
0347名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 15:56:38.52ID:xeZIUUSl0
>>343
鏡の配布元が九州から畿内に移ってるのが象徴的だな
ただ、王権が移動した原因が何かなのはこれからの研究課題なんだろう
少なくとも飛鳥時代には大王が元々九州にいたと認識していたようだし
0348名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:01:13.29ID:JWHBigBa0
神武の東征はいわゆる天皇の祖先でなくとも他の豪族の伝承として残されていたと考えるのが最も妥当だと
思うんだよね。ということは当然九州あたりからやってきた豪族がいるというわけで、それが邪馬台国の一部
であるとしても良いのではないか。
0349名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:01:25.57ID:/RSceyLh0
出雲については、邪馬台国と並立する別王国として存在していると考えられる

邪馬台国は吉備、丹波、播磨、近江、河内、摂津、阿波、讃岐が主たる構成国
出雲は出雲、伯耆、因幡
出雲は邪馬台国の強い影響を受けているものの、あくまでも別の国で核メンバ―にはいない
邪馬台国の文化的構成要素に出雲の直接的影響は希薄

この事から上記の邪馬台国構成国で7万戸、投馬国の出雲の領域で5万戸という記載と結びつくと考えられる
0351名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:04:52.21ID:D/2zxlZx0
倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。

男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。

女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。

「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
0352名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:07:52.56ID:R3UlFUhI0
>>351
会稽東冶って福建省だよ
さらっと嘘つくなよw
0353名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:09:38.86ID:IjMEj/c70
>>329
そこは確かに疑問だ

都合が悪くて隠蔽したんなら、なんでモモモソヒメだの神功皇后だのヒントみたいなのをちょくちょく挟むのか

時の政権が本気で隠したいならもう完全に本気で記述を消せばいいのに
0354名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:10:34.02ID:D/2zxlZx0
倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。
土地は平野少なく山林が多く、良田はない。海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接す。魏の時に至って、三十の国があり親しく交流す。
戸数は七万あり、男子は大人、子供はみな、顔と体に入れ墨をしている。

倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。

いにしへの夏朝(中国大陸初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達は沈没して魚を取るのを好み、同様に入れ墨し水魔を払う。

倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”)の東にあたる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせてつなぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れる。
皆おかっぱ頭で、裸足である。

倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。

倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)

重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。

その倭国の王家は昔は男子を君主として立てていたが
漢末に倭人達は乱れ戦うことなり倭人は共に女子を立てて倭国の女王とす。
其の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
その女王は遣使して帯方に至り朝見した。その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。

「晋書」第97巻 『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰
0355名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:10:58.98ID:/RSceyLh0
>>347
東征の痕跡が皆無なことから神武伝説はあくまでも伝説であろうと思われる
出雲の例でも分かるように神話的系譜の連続性を主張することで朝廷の秩序の正当性を主張している物語だと考えられる

そして大和朝廷が重視しているのはあくまでも日向
九州の中心地として栄えていた筑前付近は「外国由来の後から降伏してきた外様」と言う扱いで全く尊重していない

この事から大和朝廷は瀬戸内海からの出口となる九州東部との関係をより強く主張して九州の支配権を掲げるとともに、北部九州をけん制しようとしたと考えられる
九州と言っても大和朝廷が重視してる場所に注意が必要
0356名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:11:41.98ID:NAtYmIkC0
>>340
投馬国は畿内説なら出雲、伊都国放射説なら薩摩が有力候補だとは思うが、
5万戸をいかに養うかが論点の一つになるかな。
出雲の場合は平野が十分に無く、交易で他の地域から米を送ってもらう必要が出るだろう。
以後の古墳建設を考えれば、当時の大和にはそこまで余裕があったとは思えないので、
九州だろうな。出雲と九州の関係が当時良好だったかどうかが一つの鍵になるかな。
薩摩には平野が十分あるが、土地がやせてたとかいう評判が気になる。
貝輪等の海産物との交換で九州北部から米を送ってもらう必要があったかもしれない。
0357名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:15:01.25ID:vfPV8v/t0
>>322
現代でもスマホとか道具無くても方向は時間と太陽を見ればだいたい分かるよな
東と南を間違えたりしない
むしろ方角だけはある程度あてになるよな。
0358名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:16:23.73ID:/RSceyLh0
記紀の伝説を見ると大和と九州という物の関係が見えてくる

重視
・日向、宇佐、宗像

軽視
・筑前

と言う姿勢で臨んでいるのが分かる
このような形から「九州の王統が移動した」などではなく、「九州を支配するために地元の有力豪族を冷遇し、朝廷に近い土地を優遇してけん制した」
とみることが出来る

この事から神武東征にしろ、宇佐、宗像に対する扱いにしろ、ここに根源があったと言うよりも、
大和朝廷による地方支配の姿勢が明らかになる記載だと理解できるだろう
0359名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:17:27.81ID:QcVl5Giw0
鉄も持たない近畿の小国がいきなり列島支配する規模の巨大勢力になるわけがない。
0360名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:18:03.58ID:iI50YNnB0
>>357
そう
樹海の中をさまよう訳じゃないし
雨や曇りが続く訳でもないだろうし

太陽が見えてたら、おおよその見当はつくよね
0361名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:18:05.28ID:rUab6wxa0
5chは既に在日チョンに買収されているのをご存知ですか?
在日チョンの5ch運営が規制してリンク貼れなくなってしまったので、
「2chの譲渡先、5chの代理人弁護士は通名のしばき隊員」で検索してみてください

そして、在日チョンのバックに居るのは売国政党の立憲民主党です
安倍政権はパチンコ規制など次々に在日チョンに打撃を与える法案を通しているので、
売国左翼や在日チョンは安倍政権を倒そうと必死です
全力で安倍政権を守りましょう

在日チョンの帰化議員がワンサカいる売国政党の立憲民主党

「竹島は日本の領土ですよね?」立民・白真勲(ハク・シンクン)議員を再直撃! 徴用工判決には「コメントできない」連発…


在日韓国人組織の民団は立憲民主党の支持母体の一つ。売国政党の立憲民主に絶対に気を許してはならない

在日本大韓民国民団の中央本部新役員と意見交換 - 立憲民主党

.
.627+8967
0362名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:18:50.88ID:vfPV8v/t0
>>311
魏志倭人伝の記述が現実と合うように解釈するのが詭弁?!
全て間違いで処理してしまう方が建設的じゃないし詭弁もいいとこw
0363名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 16:18:56.16ID:xeZIUUSl0
纏向に大きな影響を与えた吉備勢力は宇佐と同族だと記録されてるんだよね
宇佐の八幡宮や西都原の古墳群からもわかる通り、ヤマト王権の成立には吉備を介して間接的に九州東岸が何かしら関係している可能性はある
0364名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:20:21.50ID:NmLfN+mw0
>>347
王権が移動したわけじゃないな。
100国あったのが30になり、その多くの国が女王を共立した。
有力な国がいくつかあっただろうが、別に王権が移動したわけじゃない。
纏向に都を作ったということは、逆に言えばヤマトには「有力な王」はいなかったとも
考えられる。中立な第三地域に都を造る。
0365名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:21:21.87ID:vfPV8v/t0
>>360
太陽は時間で位置が移動するから誤差が出るのは仕方がない
呼子か名護屋浦から唐津市街地方面に向かうのを南だと判断するのは常人だな。
0366名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:21:59.55ID:QcVl5Giw0
邪馬台は九州の海軍を持つ連合。
天皇統一王権では無い。
0367名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:27:16.89ID:iI50YNnB0
>>365
そう
そして魏志倭人伝の記述では、
山海に沿って住む。
草木が茂り、前を行く人が見えない
となっているから道は直線ではないという事も分かる

誰かが書いてたけど、当時の里程は一日歩けば〇里としていたのなら
直線の道ではなく、海岸にそって歩いているのだから
一日に進める距離も短いだろう
それで、実際よりも長い500里と書かれてるのではなかろうか
0368名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:28:00.59ID:/RSceyLh0
実際に考古学的な発見から九州東部の日向、宇佐、宗像などの土地に古墳や有力な勢力の出現が始まるのは定型化後の事となっている

大和朝廷が九州への直接的な干渉を強めた時期にここにその息のかかった有力豪族が出現する形となっている
宗像なども朝廷が朝鮮半島に進出する頃になると勢力が拡大するなど朝廷の都合に合致した変遷を見せている事からもその背景が見えてくる

記紀の九州東部重視の姿勢は、大和朝廷による九州統治の為の戦略であると分かる
0369名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:28:04.06ID:NAtYmIkC0
>>353
記紀で女性にスポットライトを当ててはいけないと言ってるようなもんだな。
0370名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:29:29.21ID:NmLfN+mw0
>>359
女王を共立したと書いてるだろ?
武力で支配したなんてどこにも書いてない。
0371名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:30:38.40ID:bZPRs+BM0
女王を共立なんて近畿大和にそんな習慣なさそうだよなあ
どうみても九州北部の土蜘蛛
0372名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:33:29.44ID:Obr6jL3l0
邪馬台国…入れ墨あり
土蜘蛛…入れ墨あり
ヤマト王権…入れ墨なし

さて、畿内派の言い訳を聞こうか
0374名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:34:38.22ID:xeZIUUSl0
>>368
中央集権的な支配はもうちょっと後の時代ではないかな
現に、九州北部は卑弥呼の時代以降衰退どころかむしろ発展してきているし
ただ、磐井の乱の頃、継体天皇の王権と対立したのは間違いないと思う
0375名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:36:12.94ID:NmLfN+mw0
>>366
海人が九州である必然性はないな。
海人なら、丹後を拠点とする海部氏(尾張氏)の先祖は海人だわ。
神功皇后のとき、水夫を300人連れて従ったという記述がある。
この「水夫300」はただの乗組員ではなく、300の船団ということらしいからな。
0376名無しさん@1周年
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2018/12/08(土) 16:36:52.79ID:NAtYmIkC0
>>363
朝鮮南部に任那を建設することが目的なら、
必ずしも筑紫を服従させる必要は無いのかもしれないな。
0377名無しさん@1周年
垢版 |
2018/12/08(土) 16:39:07.83ID:QcVl5Giw0
>>372
旧邪馬台勢力を記紀では土蜘蛛として妖怪にし歴史から消してるよな
土蜘蛛は鏡も持ってたらしいし、大和が奪ってったんだろ
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