【奈良】「ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代」 ヤマト王権、始まりは纒向 橿考研創立80周年記念講演会★3
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奈良県立橿原考古額研究所創立80周年記念の公開講演会で講演する石野博信さん=奈良県橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで、藤原弘撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/12/01/20181201oog00m010061000p/9.jpg
県立橿原考古学研究所創立80周年記念の公開講演会「古代の王宮をさぐる」が11月25日、橿原市大久保町の県社会福祉総合センターで開かれた。約530人が参加し、橿考研で発掘調査に長年携わった研究顧問で兵庫県立考古博物館名誉館長の石野博信さんら3人が講演した。【藤原弘】
石野さんのテーマは「ヤマト王権は纒向(まきむく)から始まった」。邪馬台国の有力候補地の纒向遺跡(桜井市)を巡り、「吉備、出雲、伊勢の人たちが連合で新しいまちを作り、大きな墓を作っていく。ヤマト王権の基礎を作ったのが3世紀の邪馬台国の時代ではないか」と説明した。
石野さんは、纒向遺跡の初期の調査で見つかった土器は、東海、山陰・北陸、河内、吉備の物の順に多く、箸墓古墳(同市)から吉備で見られる葬送儀礼用の土器「特殊器台」が見つかっていることを説明。「大王クラスの墓に吉備の葬儀用器台がある。葬られた人と吉備に強いつながりがある。吉備の人が巨大な墓を作ったことは、大いにあり得る」と話した。
続いて、橿考研特別指導研究員で奈良芸術短大教授の前園実知雄さんが「雄略天皇・泊瀬(はつせ)朝倉宮を求めて」と題して講演し、桜井市の脇本遺跡で携わった発掘調査の成果を紹介。5〜7世紀の掘っ立て柱建物跡などを検出し、「脇本を中心にしたところにまず雄略天皇が宮を築いた。(雄略天皇の)5世紀代の建物跡は一部確認されているが、下にあると思う」と話した。
講演の3人目は、橿考研特別指導研究員で公益財団法人「由良大和古代文化研究協会」業務執行理事の泉森皎(こう)さん。「藤原京の調査」をテーマに、橿考研が歴史的に注目される木簡を見つけたことなどを説明した。
毎日新聞 2018年12月1日
https://mainichi.jp/articles/20181201/ddl/k29/040/481000c?inb=ra
★1:2018/12/04(火) 23:59:00.16
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1544004795/ >>769
長江や華南一帯から稲作をもたらした弥生倭人は新天地で連作や二毛作を確立してたからなあ >>778
その前に奈良支店の開設を命令されて逃亡したボケ長男がおったはず >縄文各地の豪族がヤマトに集まり多数者の賛同で
>統一国家ヤマト朝廷と決まりが概ね妥当かと
そういえばそうだな、紀元前100年頃からの弥生人から日本人の歴史が始まったのではなく
縄文人の時代から日本人の歴史は始まっていたんだった >>761
武内宿祢がチョン系とか勝手に話を捏造すんなよ在日朝鮮人w >>778
ニニギさんは、子会社した株式会社出雲屋商事に送り込まれた社長。 >>786
仲哀天皇は無茶な半島遠征に反対した愛国者
それを排除した竹内宿禰一派は反日のバカ勢力と言わざるを得ない
ちなみに宿禰らが主導した半島介入は実に300年に渡り最終的にすべて無くして桓武に至るわけ >>771
魏志の記述は邪馬台国の話だから、大和ではどうだったかわからない。 >>772
隼人系海人の久米族は鯨面だったと記紀に記されている
息を吐くように嘘とかやめろ 干支を独断で西暦に当てはめてみる
西暦54年 神武天皇が東征開始(太歳甲寅)
西暦61年 神武天皇が橿原宮で即位(太歳辛酉)
西暦204年 10代崇神天皇即位(太歳甲申)
崇神天皇3年 磯城瑞籬宮に遷都する 桜井市三輪山のふもと
崇神天皇7年 倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移り託宣する
祭主を大田田根子命にすると国内が鎮まる
崇神天皇10年9月 四道将軍を各地に派遣するが大彦命が
不吉な歌を歌う少女と会って引き返す
それを聞いた倭迹迹日百襲姫命が謀反の前兆と告げる
そのとおり謀反が起こり鎮圧する
崇神天皇10年9月 倭迹迹日百襲姫命が祭事上の夫である大物主神との
接見は夜のみだったが百襲姫が昼間に会いたいと願い
大物主が昼に姿を見せるが白蛇の姿であったため
百襲姫は驚いて急に座ったときに箸が刺さって死亡
崇神天皇10年9月 倭迹迹日百襲姫命の箸墓の建造を開始
崇神天皇10年10月 四道将軍が再び出発
崇神天皇11年 四道将軍が帰参する
西暦212年 11代垂仁天皇即位(太歳壬辰)
垂仁天皇2年 纒向に遷都する
垂仁天皇5年 皇后の兄が反乱 皇后とその兄焼死
垂仁天皇7年 出雲から野見宿禰を呼んで当麻蹴速と相撲させる
死亡した当麻蹴速の葛城の領地を野見宿禰にあげる
垂仁天皇15年 丹波から新たな皇后を迎える
垂仁天皇25年 伊勢の天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す
垂仁天皇28年 殉死を禁止する
垂仁天皇32年 野見宿禰が提案した埴輪を採用する
西暦251年 12代景行天皇即位(太歳辛未)
景行天皇4年 美濃行幸 帰国 纒向日代宮に遷都
景行天皇12年 九州巡幸
景行天皇19年 帰国
景行天皇43年 各地を転戦した皇子の日本武尊命が病没
景行天皇53年 東国巡幸
景行天皇54年 帰国
景行天皇58年 大津滞在
崇神天皇10年9月の条がものすごく濃い
日本書紀では百襲姫が謀反を的中したことになってるけど
同月に死亡する
占いで人物を外したか謀反に加担したか 九州倭国は筑紫系と熊本系に分裂して
元祖九州倭国王系が近畿に逃げて組んで
筑紫系潰して大和作った >>788
日本の文献資料の最初のミコトモチを記録している『日本書紀』
事勝國勝長狭神の別神と天照大御神のミコト通りに三韓征伐した神功皇后に(何代目かの)武内宿祢が従った 推古天皇より前で、1年を2年と数える方法で作った天皇の即位年表は、こんな感じ。
1神武−34 17履中496
2綏靖6 18反正499
3安寧22 19允恭503
4懿徳41 20安康523
5孝昭59 21雄略524
6孝安100 22清寧536
7孝靈151 23顯宗538
8孝元189 24仁賢540
9開化218 25武烈545
10崇神248 26繼體550
11垂仁282 27安閑562
12景行332 28宣化564
13成務362 29欽明566
14仲哀392 30敏達582
神功397 31用明589
15應神431 32崇峻590
16仁徳453 33推古593 記紀にあるとおり女王アマテラスの命令で何度も奈良侵入を企て大失敗
ニニギノミコトの前にも3人ぐらい奈良で行方不明になっている
最終的に現地の反乱勢力と組みニニギノミコトが奈良侵入に成功
その時点で天孫族も結構土着してたようだ、これは移民だろうな
要するに異種の支配する奈良に侵入した外来勢力が天孫族で間違いない
そこまでして奈良に縄張りを作りたい理由は九州の戦乱や人口過剰にある 出雲の国司かなんかの言い伝えで神武が何代も攻めてきた話もあったし
何代もの業績を1代にまとめてる例もありそう 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
↓
徇葬者百人
↓
百襲姫
ていうのをネットでみつけた >>794
安本の古代天皇10年説に照らしてありえない 纏向遺跡って邪馬台国では当然ないけど
本当にヤマト王権のものかどうかも疑問。 >>794
代々筑紫城に住んでた阿毎一族と漢委奴国王は無関係だったか >>799
安本って欠史八代は実在してると主張している人かな? >>799
神功皇后の三韓征伐と好太王碑に書かれてる事柄の年代がおおよそ同時期になるし、
神武即位年も奈良県での銅鐸出土の激減を説明するのに都合よさそうなので、
結構気に入ってるんだけどな。 >>772
海岸線が今と同じとは限らんよ。
新潟の新津がかつては外海に面してたわけだし。 >>768
6歳は幼児だが、13歳はかつては13参りがあったくらいで、「大人の仲間入り」の
準備が出来た段階だ。
大人に混じっていっちょまえに働いていた。 >>794 の続き
ただし、武烈が4歳で即位したことになるが、
中国に3歳で皇帝になったやつもいたみたいだし、
武烈以外は普通だし、即位年齢では一応問題ないと言えるかもしれないが、
安閑と宣化がそれぞれ継体の7歳と8歳の時に生まれてることになるんだよな。
弟とかを子供として扱ったのかな? 継体はそもそも皇室にも入れてもらえない五世孫
はっきり言えば赤の他人ね 筑紫王家の朝鮮進出歴史を近畿ヤマトの歴史のフリ
してるのが日本書紀 >>794
神武天皇を1世とした時の世代数
25世. (38代) 天智天皇. 626-672
42世. (77代)後白河天皇 1127-1192
72世(125代) 今上天皇 1933-
古代〜中世 1世代平均29.47年 25世 天智天皇(生年. 626)から42世 後白河天皇(生年1127)まで
中世〜現代 1世代平均26.87年 42世 後白河天皇(生年1127)から72世 今上天皇(生年1933)まで
古代〜現代 1世代平均27.81年 25世 天智天皇(生年. 626)から72世 今上天皇(生年1933)まで
時代が古くなるほど1世代あたりの年数は長くなる
生年が確定している天智を起点に父の父の父の・・・と1世代29.47年で遡ると・・・
626年生まれ 25天智 626-672
596年生まれ 24舒明 593-641
567年生まれ 23押坂彦人大兄皇子
537年生まれ 22敏達 538.?-585.?
508年生まれ 21欽明 509.?-571.?
478年生まれ 20継体 (武烈)
449年生まれ 19彦主人王 (清寧)(仁賢)
419年生まれ 18乎非王 (雄略)(市辺押磐皇子)
390年生まれ 17意富富等王 (允恭)(履中)
360年生まれ 16若野毛二俣王 (仁徳)
331年生まれ 15応神
301年生まれ 14仲哀
272年生まれ 13日本武尊
242年生まれ 12景行
213年生まれ 11垂仁 田道間守(たぢまもり)=難升米(タヂマ)
183年生まれ 10崇神 四道将軍=倭国大乱 >>807
日本の
親唐書日本伝
>王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、
>およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。
>彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。
>次は綏靖、次は安寧、次は懿コ、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、
>次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀という。 >>812
今後、それぞれの天皇の年代が考古学的に求められていくのが楽しみやね。 >>814
考古学によって、天皇や記紀神話の年代が求められる
逆もね。 >>760
「高千穂」ってのは、固有名詞じゃなくて一般名詞だっただろうな。
今の高千穂はでっち上げだよ。
高くてたくさんの峰のある土地だから、九重連山とか霧島とかあんなかんじ。
先祖が高い山に降りてきたという北の遊牧民の神話に多いやつ。
南の民族に多いのは、海を渡ってきたとか。で、先祖が蛇やワニ。
日本の神話は両方が入ってる。
倭人の成立は、両方が合体したものだったのだろう。
神武の父方は北方で、母方は南方系ってことになる。
だけど、そんな新しい時代に倭人が成立したわけじゃないから、なんで神武の母を
ワニにする必要があったのか不思議だけどな。
古事記によれば、山幸彦は高千穂で580年生きたと書かれている。
遥か遠い先祖が(10世代以上昔の)この地にやってきたという伝承があったのかもしれんな。
近畿周辺に下った天火明命とは別の伝承なんだろ。
突然ヤマトへやってきた神武の出路がなんであるかなんて誰にもわからない。
古い伝承を持つ近畿周辺の部族の首長たちと張り合うには、天孫の一人と言い張ることだったのか。
神武がいなくても、神代の神話はそのまま生きるからね。 そもそも神功皇后が三韓征伐をしたのか
広開土王碑文から見て四世紀末には百済は大和の属国、新羅も一時占領されていたのは間違いない
よって四世紀前半から中盤と思われる神功皇后の戦功とするのは時系列では誤りではない
しかし三韓征伐に反対する夫仲哀天皇がそれ故に不審死してるのに勇んで軍事侵攻とは常識的に考えがたい
むしろ竹内宿禰と伝えられる豪族勢力、ひょっとするとこれは半島系の倭人勢力かとも思われるが
故地防衛のために無理やり出撃したのではないか
いかにも曖昧な記述で誤魔化した記紀だが、日本建国以来の大事件だったはずである
広開土王に負けて勢力拡大は頓挫、五世紀になると散発的遠征はあるもののかなり下火になる
日本側にロクに記述のない四世紀こそ国家存亡の危機であったはず
この動乱で大和朝廷も大きく変質したのだろう
もっとも純粋に日本国益を考えるのは実に平安の桓武からなのだ
四世紀から七世紀まで半島に翻弄された真っ黒な皇室であった >>813
たぶん違うやろけど、可能性があるとすれば懿徳天皇の時代ってことになるのかな。 >>812
それどっかでみたな
平安時代は一番天皇が裕福で
かつそれ以前と違い天皇が戦地に行くこともなく争いも少なく
寿命が長かったって言われる
天智以前は29.47年より実際は短かっただろうね
最近は崇神が3世紀前半の生まれって言われてるしそんなもん 支那チョンの犬に成り下がった学者思考なんなか信用できるか。
漢字以前の古代文字を、どう説明するんだ。 延喜式祝詞には、
皇御孫之命は、天之御蔭 日之御蔭と隠坐てとある
同じく、坐摩神社の井戸の神々は、皇御孫之命にお仕えして、天之御蔭、日之御蔭と隠れていたとある
また道饗祭の祝詞には、クナトが高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。
これが平安時代の朝廷の認識
魏志倭人伝で言うなら、狗奴国の勢力が600年の内乱を経て倭国大乱前の有り様を取り返したと言えるだろう。
記紀なら神武東征(近畿征伐)による被害者である畿内の在地の勢力が、600年の内乱を経て平安を取り戻したと言える。 >>812
応神仁徳同一人物説ってのもあったりして >>750
>>788
>>795
半島系倭人みたいな捏造語とか三韓にこだわる半島系の大和朝廷とか奈良侵入とか
恒例の願望系のチョン妄想は民団の食堂でやってくれる?w そもそもに戻り、記紀に邪馬台国や卑弥呼の事が書いてないのは何故?
1ヤマト朝廷と関係無く大事じゃ無いから
2ヤマト朝廷と関係するが本当に記録が無くなって忘れてたから
3書くと何か不都合があり隠蔽したかったから
どうなんだろう >>819
神功皇后って半島出兵の際に「海の西に良い国がある」って
言って、仲哀天皇が「んなもんねーよ」って言ってるんだよね。
ということはそれより前にはすでに半島の記憶が失われていた
ってことになるんだけど、実際にはどうだったんだろうなあ。 纒向あるいはその後継王朝が急激に伸長した謎
人口過剰と内戦続きであった九州から分家し豊かな新天地を開いたからだー
そういえば言えなくもないが三世紀初頭にはペンペン草も生えない片田舎であったのに三世紀末には大人口を抱え、四世紀前半には荒波を超えて百済等を属国化したとすればあまりに不思議なのだ
そこには半島系倭人の介入があったと考えるのは言い過ぎだろうか
つまり辺境の奈良に侵入して土着勢力を駆逐した天孫族が奈良の原野で国造りするとき
鉄生産のメッカであり先進技術を持った半島系の倭人が参加したのではないか
そうだとするとか急成長直後に半島軍事侵攻した理由もすんなり分かる
鉄と技術を得た引き換えに日本の国益を売ったとも言えるのではないか >>828
2だろうな。記紀を作り始めたのは7世紀。それよりも300年以上前のことが
伝承として正確に伝わることは無理だろう。 邪馬台国とか卑弥呼とか
中国に日本を卑下した呼び名
なんで
いつまでありがたく使ってるのかね >>833
そりゃ文献に残ってるからだろ。朝鮮併合を韓国併合と言い換えたりするより
ずっとマシ。 >>790
隼人族は宮崎にはいないよ
もともとは鹿児島の半島部分や島嶼部分
肥前風土記には五島列島にも隼人族に似た人々がいると伝えている >>686
やっぱり寝ぼけてやんのw
> これら集落の中で、すべての突出部に物見櫓を伴ったのは吉野ケ里遺跡だけ
物見櫓を伴ったって書いてあるだろマヌケw
ついでにお前が引用したサイトにも載ってるんだがw
自爆おつw
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c304.html
> 物見櫓
> 環壕が外に張り出している部分が4ヶ所あり、ここで見つかった高床の建物です。
> 周囲を見張る役割に加え、神聖な空間である北内郭の性格から、四方を祀る意味も持っていたと考えられています。
ま、今どき畿内とか言ってるアホはこの程度の知能しか無いってことだなw 邪馬台国をはじめとする九州勢力が東征してヤマト王権を建てた、
ヤマト王権が西進して邪馬台国など九州の国を征服した、
実はどちらとも本当? >>642
>>668
神武東征は、天皇家が、天孫降臨の地である九州から来た、天孫の子孫であるということを主張する重要な部分。
わざわざ記紀にそう書いたということは、倭国の正当な支配者を名乗るには、九州から来たとする必要があったということ。 >>828
書いてあります。卑弥呼は神功皇后のことだろうと。 あと吉野ケ里は中国の城郭の影響を受けた防御機構が存在するが畿内には無いw
畿内が大陸と通交していなかった証拠だな
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c302.html
> 鍵形に折れ曲がった入口
> 真っ直ぐ入ってこられないように鍵形に折れ曲がった構造をしています。
> こうした造りは古代中国の城郭都市に多く見られ、吉野ヶ里が大きな影響を受けていることを示しています。 >>838
正解は出雲が北九州、吉備などの連合に奈良の土地を譲った。そして、奈良は北九州の三種の神器の
墓制と吉備のプレ前方後円墳のお墓を受け入れ両方をミックスした前方後円墳の墓制を作った。
そして出雲の銅鐸の文化を捨てた。 >>828
1だね。
記録が残ってないと言うのは、文書としての話しだけど
古事記には稗田阿禮の口伝についての記載がある。
口伝と言うのは馬鹿にできなくて、世界には1000年、1500年と口伝で伝承された記録がある。
高々100年や200年で途絶えたとするのは、少し無理を感じる。
なので、やはり関係ないから残らなかったと見たほうが良さげ >>840
神功皇后が卑弥呼なら三韓征伐が間違いになる。当時の朝鮮は魏の領土だから。 >>841
中国の風水を受け入れ、山に囲まれた天然の要塞の奈良盆地を都に選んだ。
山の西は大阪湾、南は太平洋、東は伊勢湾と海と山と二重に囲まれているので攻めにくい。 >>844
神功皇后の三韓征伐は広開土王碑の碑文のことと思われる。400年頃。だから卑弥呼の150年後。 九州倭国より古いフリするために
1千年サバ呼んだのが奈良のヤマト 文字が普及していない時代は実力の時代。まだ、ガチガチに制度ができていなかったから女性でも
活躍できたのでしょう。 >>847
北九州の国は魏志倭人伝でヒナモリ(鄙守り)と書かれているのですでに辺境だった。 >>845
盆地を良しとする風水なんてネーヨw
風水で山の配置を良しとするのは北だけだ
まったく畿内説の連中は口を開けばウソしか言わんな
ついでに纏向の大型建物も中国の礼制と合っていない
やはり畿内は中国との付き合いが無かったのは明らか
https://ironna.jp/article/10766?p=5
> 近畿説の有力集落とされる奈良県纒向(まきむく)遺跡の、大型建物を含む建物群を貫く軸線は東西方向であり、
> 前漢と後漢を境に君子と臣下の配置関係が「座西朝東」から「座北朝南」へ変化する中国礼制に対応していない。
> 吉野ケ里遺跡では、墳丘墓と北内郭の祭殿が南北方向に配置され、最重要空間である北内郭と大人層の空間である南内郭についても、
> 南北の位置関係である。 強引に卑弥呼、邪馬台国の歴史文化を簒奪(乗っ取る)する気満々の畿内説、、、怖いわー >>851
やはり魏志倭人伝には中国と交流がなかったため畿内政権には触れてないんだな。 >>848
記紀の中で武装する女性は神功皇后とアマテラスのみで、
どちらも髪をミズラに結った男装の描写がある。
てなわけで、記紀編纂時には「戦争は男の仕事」というのが
常識だったんだろうなと。 >>851
>>853
どうせ畿内説はこの件でも東と南を間違えたんだっていうんだろ >>828
2しかないね
そもそも記紀になんて書くの?
うちの国が中国の文献に載りました、やったね、とか?
魏志倭人伝に書かれたことなんて知る由もないだろうに >>857
> 魏志倭人伝に書かれたことなんて知る由もないだろうに
紀の編集陣は、知っていたから苦労したんじゃないかとw >>857
さすがに魏志倭人伝に書かれたことは知ってたでしょう
文字を学んで歴史を書くとき、まず大陸の史書にうちの国がどう書いてあるかって気になるし >>858
それは漢字が普及した後の話で
その時には日本側には伝承がないってこと >>861
ううむ…。
まあ俺は1(九州説)の立場だからどうでもいいけど。 >>860
読み直したら、俺が悪かった
記紀の編纂者が知らないとしか読めんね
邪馬台国の時代の人が魏志倭人伝に書かれたことを知らないからという意味 日本書紀書かれたのは遣隋使の後で
邪馬台が首都の認識 半島側の視点で見ると面白い
魏と高句麗は仲良しだったが240年代に仲違いして以後激しい攻防を繰り返す
310年代には高句麗が極めて強盛となり半島北部を制圧
このとき中国側は半島全域の行政権を事実上喪失し、半島南部が戦乱の時代に突入する
つまり卑弥呼死後に大陸の政治状況は正反対に入れ替わり、高句麗が南部の半島小国家を激しく圧迫しだすわけや、すでに中国の後ろ盾もない
この時期に突如として不思議な急成長した奈良の大和朝廷が誰も怖がって近寄らない半島に軍事遠征を繰り返し、滅亡寸前の百済を海を超えて軍事保護したわけだ
あまりにも不可解だがそもそも大和朝廷が百済と深く結んだ急成長国ならば不可解ではない
記紀では神功皇后神話でさらっと流してるが日本の存亡をかけた無謀な軍事進出だったわけよ 遣隋使は熊本のヤマト
奈良のヤマト
邪馬台国のヤマト
があるらしい 肥前国風土記は他と比べて土蜘蛛や女酋長のエピソードが凄く多い
この地に何かがあったのは確かよ >>865
半島南部は古来倭人領域だったから、祖国防衛的な意味合いが強かったんだろうな
あと、半島南西部を失うと中国までの安全な陸伝い航路を失うことになる 山の都はすべてヤマト
水の都はすべてミナト
だったりしてなw >>866
五世代も離れている
改心して神宝をおさめた天日槍を出石族が世話してあげただけのだがな >>871
五世離れたら他人なら、継体帝はただの馬の骨ということになるw ヤマトは山外、単なる地名で山の向こう側という意味
カワチ河内は川の内側にある土地
ヤマシロ山背は山の後ろにある土地
地形に基づく単なる地名 纏向遺跡が東西軸になってるのって、もしかしたら九州を頭にしてるのかもな
軸が東西よりちょっと傾いてるのも福岡と奈良の方角関係にあってるような気がする >>828
全てあると思って読み解くべき。
限定するとその選択上での記述葛藤と思い込みが出る。
例えば、推古帝記の記述と隋史の記述相違でも。 >>857
魏志倭人伝を知らないってどう考えても無理筋 >>868
女酋長の名前は神倭伊波礼毘古命みたいに冠に神がついてたりな >>752
古代には一年に2歳カウントする習慣があった
と考えると
日本書紀とかの天皇の年齢も辻褄合うんだよね ほぼ赤の他人の継体天皇
このあたりですでに日本も戦乱の時代に突入したわけだよ
軍事的に強ければ出自などなんとでもなる
織田信長のモデルは大昔に居たわけだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています